グットヒル 
2008年 08月 16日
18歳から20歳になるまでの1年と半年勤めていたアルバイトの話。
東京のNICという専門学校を卒業し、まわりの友達はそのままアメリカやイギリスへ留学していくのを横目に、親からの援助も底をついていた僕は1人実家へと戻った。
その頃、沖縄出身の友達の影響もあって、沖縄大好き人間だった。その時すでに3回は渡沖縄していた。求人雑誌のその会社の募集欄に掲載されていた内容は確か『衣料・服飾雑貨販売、北は北海道、南は沖縄まで』。その沖縄という文字に有無も言わさず僕の脳みそは反応した。
面接してから最初の出勤までにそう時間は掛からなかった。が、業務内容に驚かされた。工場が地元にあり、そこへMADE IN CHINAと書かれた衣類や国内外から仕入れた雑貨が集められて、それをトラックに積み込んで出荷。あらかじめ、地方のホールや会場をブッキングし、そこへ運んだ荷物を搬入、会場設営、販売、そして搬出をし、次の土地へ。
やってみて驚いたのが、その運搬から搬入、搬出、販売までをすべて自分らでやる。広い会場へは、4tトラック3台と、移動用のバン1台で、遠いときは本当に北海道やら沖縄へも行く。残念ながら僕は沖縄には行けなかったが、一番遠いところで、南は鹿児島、北は岩手まで行った。工場は福岡にあり、鹿児島へは一日、最長で名古屋か静岡くらいは一日で行く。朝8時くらいに集合し、現地へ着くのは18時を過ぎていた気がする。長距離を運転するのはそれほど苦では無かったけれど、先輩と同乗するよりは1人が良かったことは確か。
遠方の会場があるときは、途中、大抵の場合は滋賀(彦根)、で一泊し、二日掛けて移動する。今でも彦根インターから彦根ステーションホテルへの行き道は覚えている。朝食付きで4600円くらいだったと思う。地元も城下町だったけど、彦根は城下町にしてみたら少し寂れていた。本当に観光客でもっているような土地だった。
岩手含め、東北、北陸、関東へ行くときは大体、途中で2,3ヶ所中間地点の会場も同時にスケジュールに組んで営業する。なので1ヶ月まるまる家に帰れなかったことは何度もある。最高7週間帰らなかったこともあった。
家族があればそれは少し堪えるかもしれないが、一人身の僕はそれなりに楽しめた。営業は木曜に搬入、金土日曜は営業、月に営業しながら撤去・搬出という流れだったので、翌日の火曜を移動日にしても水曜日は現地で休みが取れた。だから1人で色んなところへ行った。松山へ行ったときは、1人で道後温泉へも行ったし、それこそ岩手の時は小岩井農場へ1人で行き、アイスを食べて、ショーを見て帰ってきたこともあった。
だから、人よりも「~の歩き方」は分かっていると思う。
同じような土地(都心部よりは田舎や商業都市)へ結構行くので、年に2回訪れる地方もあった。新聞折込チラシも入れるのだけれど、割と都心にある実家には入ったことはない。中心を避ける意味は、田舎の方が集客率が良いのに加え、扱っている商品がコピー商品も多かったので、目の肥えた人よりはあまり頓着の無い老人の方がよかったからだろう。それでも年末は幕張メッセや横浜の大きなホールを借りて営業もした。隣りでカウントダウンライブがあったこともあった。ファンに紛れてツアーグッズを買いにも行った。太陽族のTシャツだが、最近は彼らの名前を聞かなくなった。
そんな楽しかったバイトも1年が過ぎ、渡米の時期を給料から逆算できてきた辺りから退屈になり始めた。先が見えてしまうと、そればっかりに目が行ってしまい、給料の7割以上を貯金できていたのに、その頃からペースが落ちてきた。
それと同時に仕事にもあまり身が入らなくなり、よく先輩に怒られた。高速で居眠り運転をして事故ったのもちょうどその時期だったと思う。
あと少しで地元に到着という、下松SA近辺で気がついた。あれは今でも鮮明に思い出せるし、「よく死ななかったな」とぞっとする。
眠いけど、あと少しだからカーステ全快にして歌ってたら眠気も無くなるだろうと、Avril Lavigneを聞いていた。そしてガンッと衝撃に合わせて頭をハンドルに強く打ち付けたことで気がついた。1秒くらい何があったか分からずにそのまま中央分離帯のガードレールに運転席側の側面を擦り続けていた。緩やかなカーブで、すぐにハンドルを切ったけれど、全身の振るえは次のSAに着いても止まらなかった。
車を降りて見てみると、運転席のドアは閉まらなくなって、ガードレールに擦ったところはテールランプの赤いカバーを割るほどだった。
携帯でグループの先輩に連絡をし、SAに来てくれたときは身を案じてくれた。その時に振るえがやっと止まった。
ちょうどその頃、運転しながらの携帯電話の通話が出来なくなり始め、二人同乗のスタンスを作り初めていたけれど、僕は1人で乗せてもらっていた。そのほうが気が楽だから。でも事故を起こし、リーダーは恐らく社長に叱られただろう。その後数週間は1人で運転させてもらえなかった。
不幸中の幸い。本当に死ななくて良かった。
それから更に数週間、目標金額より少し少ないが、夢実現への我慢も限界だったので、次のステップへ進むことを決めた。
僕がそのアルバイトをやっていた期間は約18ヶ月。経験したことはとても大きい。初めてのナンパも、4tトラックの運転も、そして事故も。
18ヶ月で貯めた金額は250万円。その時の記録が残っている預金通帳はまだ持っている。今でも自分の自慢だ。
本当に濃い1年半だった。
留学の為に費やした一年半の歳月は、その後の一年の留学生活で相殺され、2年通うはずだったカリフォルニアの短大も中退することになった。
帰ってきてから始めたバイトも、英語力や留学経験を全く必要としないゲームセンター内での仕事で、父の仕事を手伝うことに決めた今も、そのバイトは夜と週末のみの掛け持ちで続けている。
あの頃のバイトは自分の夢の為に。
今は、そのバイト先で知り合った妻、そして娘の為に。
さて、今日もバイトだ。
Excite エキサイト 眠眠打破:アルバトル
東京のNICという専門学校を卒業し、まわりの友達はそのままアメリカやイギリスへ留学していくのを横目に、親からの援助も底をついていた僕は1人実家へと戻った。
その頃、沖縄出身の友達の影響もあって、沖縄大好き人間だった。その時すでに3回は渡沖縄していた。求人雑誌のその会社の募集欄に掲載されていた内容は確か『衣料・服飾雑貨販売、北は北海道、南は沖縄まで』。その沖縄という文字に有無も言わさず僕の脳みそは反応した。
面接してから最初の出勤までにそう時間は掛からなかった。が、業務内容に驚かされた。工場が地元にあり、そこへMADE IN CHINAと書かれた衣類や国内外から仕入れた雑貨が集められて、それをトラックに積み込んで出荷。あらかじめ、地方のホールや会場をブッキングし、そこへ運んだ荷物を搬入、会場設営、販売、そして搬出をし、次の土地へ。
やってみて驚いたのが、その運搬から搬入、搬出、販売までをすべて自分らでやる。広い会場へは、4tトラック3台と、移動用のバン1台で、遠いときは本当に北海道やら沖縄へも行く。残念ながら僕は沖縄には行けなかったが、一番遠いところで、南は鹿児島、北は岩手まで行った。工場は福岡にあり、鹿児島へは一日、最長で名古屋か静岡くらいは一日で行く。朝8時くらいに集合し、現地へ着くのは18時を過ぎていた気がする。長距離を運転するのはそれほど苦では無かったけれど、先輩と同乗するよりは1人が良かったことは確か。
遠方の会場があるときは、途中、大抵の場合は滋賀(彦根)、で一泊し、二日掛けて移動する。今でも彦根インターから彦根ステーションホテルへの行き道は覚えている。朝食付きで4600円くらいだったと思う。地元も城下町だったけど、彦根は城下町にしてみたら少し寂れていた。本当に観光客でもっているような土地だった。
岩手含め、東北、北陸、関東へ行くときは大体、途中で2,3ヶ所中間地点の会場も同時にスケジュールに組んで営業する。なので1ヶ月まるまる家に帰れなかったことは何度もある。最高7週間帰らなかったこともあった。
家族があればそれは少し堪えるかもしれないが、一人身の僕はそれなりに楽しめた。営業は木曜に搬入、金土日曜は営業、月に営業しながら撤去・搬出という流れだったので、翌日の火曜を移動日にしても水曜日は現地で休みが取れた。だから1人で色んなところへ行った。松山へ行ったときは、1人で道後温泉へも行ったし、それこそ岩手の時は小岩井農場へ1人で行き、アイスを食べて、ショーを見て帰ってきたこともあった。
だから、人よりも「~の歩き方」は分かっていると思う。
同じような土地(都心部よりは田舎や商業都市)へ結構行くので、年に2回訪れる地方もあった。新聞折込チラシも入れるのだけれど、割と都心にある実家には入ったことはない。中心を避ける意味は、田舎の方が集客率が良いのに加え、扱っている商品がコピー商品も多かったので、目の肥えた人よりはあまり頓着の無い老人の方がよかったからだろう。それでも年末は幕張メッセや横浜の大きなホールを借りて営業もした。隣りでカウントダウンライブがあったこともあった。ファンに紛れてツアーグッズを買いにも行った。太陽族のTシャツだが、最近は彼らの名前を聞かなくなった。
そんな楽しかったバイトも1年が過ぎ、渡米の時期を給料から逆算できてきた辺りから退屈になり始めた。先が見えてしまうと、そればっかりに目が行ってしまい、給料の7割以上を貯金できていたのに、その頃からペースが落ちてきた。
それと同時に仕事にもあまり身が入らなくなり、よく先輩に怒られた。高速で居眠り運転をして事故ったのもちょうどその時期だったと思う。
あと少しで地元に到着という、下松SA近辺で気がついた。あれは今でも鮮明に思い出せるし、「よく死ななかったな」とぞっとする。
眠いけど、あと少しだからカーステ全快にして歌ってたら眠気も無くなるだろうと、Avril Lavigneを聞いていた。そしてガンッと衝撃に合わせて頭をハンドルに強く打ち付けたことで気がついた。1秒くらい何があったか分からずにそのまま中央分離帯のガードレールに運転席側の側面を擦り続けていた。緩やかなカーブで、すぐにハンドルを切ったけれど、全身の振るえは次のSAに着いても止まらなかった。
車を降りて見てみると、運転席のドアは閉まらなくなって、ガードレールに擦ったところはテールランプの赤いカバーを割るほどだった。
携帯でグループの先輩に連絡をし、SAに来てくれたときは身を案じてくれた。その時に振るえがやっと止まった。
ちょうどその頃、運転しながらの携帯電話の通話が出来なくなり始め、二人同乗のスタンスを作り初めていたけれど、僕は1人で乗せてもらっていた。そのほうが気が楽だから。でも事故を起こし、リーダーは恐らく社長に叱られただろう。その後数週間は1人で運転させてもらえなかった。
不幸中の幸い。本当に死ななくて良かった。
それから更に数週間、目標金額より少し少ないが、夢実現への我慢も限界だったので、次のステップへ進むことを決めた。
僕がそのアルバイトをやっていた期間は約18ヶ月。経験したことはとても大きい。初めてのナンパも、4tトラックの運転も、そして事故も。
18ヶ月で貯めた金額は250万円。その時の記録が残っている預金通帳はまだ持っている。今でも自分の自慢だ。
本当に濃い1年半だった。
留学の為に費やした一年半の歳月は、その後の一年の留学生活で相殺され、2年通うはずだったカリフォルニアの短大も中退することになった。
帰ってきてから始めたバイトも、英語力や留学経験を全く必要としないゲームセンター内での仕事で、父の仕事を手伝うことに決めた今も、そのバイトは夜と週末のみの掛け持ちで続けている。
あの頃のバイトは自分の夢の為に。
今は、そのバイト先で知り合った妻、そして娘の為に。
さて、今日もバイトだ。
Excite エキサイト 眠眠打破:アルバトル
by fresh-dad | 2008-08-16 17:21 | 雑記