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検証・憲法施行65年 「米国製」 謎多い制定過程(2−1)

産経新聞 5月3日(木)7時55分配信

 日本国憲法が施行されてから65年を迎えた。その間、一度も改正されず、世界でもまれな“不磨の大典”となりつつある。9条の「戦争放棄」は誰が発案したのか。天皇の章の「象徴」という言葉はどのようにして生まれたのか。「米国製」といわれる現行憲法の制定過程を改めて検証した。(論説委員室 石川水穂)

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 ■GHQの起草 毎日のスクープきっかけ

 終戦から半年近くたった昭和21年2月1日、東京・日比谷の第一生命ビルにあった連合国軍総司令部(GHQ)は、あわただしい雰囲気に包まれた。

 その日の毎日新聞は1面トップで、日本側の松本烝治国務相を委員長とする憲法問題調査委員会(通称・松本委員会)で検討されていた憲法改正案をスクープし、その中身を詳しく報じた。

 GHQ民政局でただちに記事が英訳され、分析した結果、「保守的で、明治憲法の焼き直しに過ぎない」との見方が強まった。

 2月3日、最高司令官のマッカーサー元帥は民政局のホイットニー局長に憲法草案の作成を指示し、次の三原則を記した黄色い紙を渡した。

 (1)天皇は、国家元首の地位にある…

 (2)国の主権的権利としての戦争は、廃止する…

 (3)日本の封建制度は、廃止される…

 いわゆる「マッカーサー・ノート」である。

 民政局の職員の分担が決められ、翌4日から、大急ぎで草案づくりが始められた。産経新聞の米極秘文書特別取材班が昭和50年、米ミシガン大学図書館で発掘した民政局のハッシー海軍中佐の資料(ハッシー文書)は、その模様を生々しく伝えている。

 2月4日「ホイットニー将軍は民政局の新憲法草案を2月12日までに完成し、マッカーサー将軍の承認を得たいと述べた。その日にホイットニー将軍は吉田茂外相らと彼らの憲法草案について非公式の会談を持つことになっている。ホイットニー将軍はこの会談で、天皇を護持し、彼ら自身の地位を維持するために残された唯一の可能な道は、はっきりと左寄りの道(DECISIVE SWING TO THE LEFT)をとる憲法を受け入れ、承認する以外にないことを分からせるつもりであると述べた」

 2月6日「この作業中、民政局内には日本人は何人(なんぴと)も立ち入らせてはならないことをスタッフに再確認させた。この作業に関するすべての書類は、夜間は保管金庫にカギをかけてしまっておくよう注意があった。ナラシ(楢橋渡・内閣書記官長)のディナー・パーティーに出席する職員には、いかなる政治的な議論もしないよう注意があった」

 「ルースト中佐から、われわれ民政局で考え出した憲法を、厳密に日本側で作った文書として発布することは、心理的な信用性の面で問題を引き起こすのではないかとの発言があった。…これに対し、ケーディス大佐(次長)がそうした不一致を認めながらも、アメリカの政治イデオロギーと、日本の憲法上で最良もしくは最もリベラルな思想との間には、ギャップはないと指摘した」

 2月10日「民政局より最高司令官宛『私はここに日本国民のための憲法改正草案を提出するものであります。…この文書は、他日、元帥閣下の示された高邁(こうまい)な原則(マッカーサー三原則)、あるいは閣下が時に応じて指示された他の諸点と合致するものであります…』」(昭和50年6月24日付産経より)

 民政局で作成されたいわゆる「マッカーサー草案」は毎日のスクープから12日後の2月13日、吉田外相官邸で日本側に示された。

 実は、毎日がスクープしたのは、松本委員会で煮詰まりつつあった甲案や乙案ではなく、委員の宮沢俊義東大教授が独自に作成した私案だったが、大きな違いはなかった。毎日のスクープがGHQによる憲法草案づくりのきっかけになったことは確かだ。

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 ■「戦争放棄」発案者は誰か

 昭和21年2月3日、マッカーサー元帥がホイットニー民政局長に示した三原則(マッカーサー・ノート)の第二原則は2つの段落に分けてこう書かれていた。

 「国の主権的権利としての戦争は、廃止する。日本は、紛争解決の手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてさえ、戦争を放棄する。日本は、その防衛と保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる」

 「いかなる日本陸・海・空軍も決して認められず、いかなる交戦者の権利も、日本軍隊に決して与えられない」

 この戦争放棄の原則について、マッカーサーは後に回想記で、昭和21年1月24日に幣原(しではら)喜重郎首相の訪問を受けたときの模様をこう書いている。

 「首相はそこで、新憲法を起草する際、戦争と戦力の維持を、永久に放棄する条項を含めてはどうか、と提案した。日本はそうすることによって、軍国主義と警察による恐怖政治の再発を防ぎ、同時に日本は、将来平和の道を進むつもりだ、ということを自由世界の最も懐疑的な連中にも納得させるだけの、確かな証拠を示すことができる、というのが首相の説明だった」「私は腰が抜けるほどおどろいた」(昭和39年2月5日付朝日新聞の「マッカーサー回想記」第31回より)

 これによると、戦争放棄条項はマッカーサー自身でなく、幣原首相の発案だったことになる。

 しかし、当時、幣原内閣の厚相だった芦田均氏は21年2月22日付の日記で、幣原首相が前日のマッカーサーとの会談の模様を閣議で次のように説明したと記している。

 「MacArthurは先ず例の如く演説を初めた」「『…吾等(われら)がBasic forms(基本原理)といふのは草案第一条(主権在民と象徴天皇制)と戦争を抛棄(ほうき)すると規定するところに在る。…日本の為(た)めに図るに寧(むし)ろ第二章(草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ』」「幣原は此時(このとき)語を挿(はさ)んでleadershipと言はれるが、恐らく誰もfollower(追随者)とならないだらうと言つた」

 芦田日記によれば、戦争放棄はマッカーサーの発案で、幣原首相はこれに異を唱えたとされる。

 このほか、幣原首相とマッカーサー元帥が意気投合したなどの説もあり、真相は今も謎だ。

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 ■「赤い条項」と家族条項

 2月13日、日本側に示されたマッカーサー草案は2月19日の閣議で、松本国務相から報告された後、佐藤達夫・法制局第一部長らを交えて日本側による修正作業が始まった。

 マ草案の中には、松本氏が「共産主義の条文じゃないか」と指摘した部分があった。

 28条の「土地及一切の天然資源の究極的所有権は人民の集団的代表者としての国家に帰属す…」(外務省仮訳)という規定だ。

 3月4日から5日にかけて行われた日本側とGHQの折衝で、日本側が「あまりに概念的で一般の人には分からないから削りたい」と申し出たところ、GHQは簡単に同意したと、佐藤氏は自著「日本国憲法誕生記」(中公文庫)に書いている。

 他方、日本側の修正で改悪されたケースもある。

 マ草案の家族に関する規定は、こんな文言だった。

 23条 家族は人類社会の基底にして其(そ)の伝統は善かれ悪しかれ国民に滲透(しんとう)す。婚姻は男女両性の法律上及社会上の争ふ可からさる平等の上に存し…

 これが日本側の修正を得て3月6日に発表された憲法改正草案要綱では、こう変わっていた。

 22条 婚姻は両性双方の合意に基きてのみ成立し且(かつ)夫婦が同等の権利を有することを基本とし…

 なぜか、冒頭の「家族は人類社会の基底にして…」のくだりが消えていた。

 その理由を佐藤氏は「日本国憲法誕生記」でこう書いている。

 「『家族は…』のところは、わざわざ憲法に書くまでのこともなかろう、ということで黙殺してしまった」「昨今、憲法改正論議の一つの題目に家族の尊重ということがあげられているのに関連して、いささかのこそばゆさをもって思い出される条文である」

 その後、7月から開かれた衆院憲法改正小委員会で、社会党の鈴木義男氏や森戸辰男氏らが「国民の家庭生活は保護される」との文言の追加を求めたが、認められなかった。

 10月6日の貴族院本会議でも、法律学者の牧野英一氏らが「家族生活は、これを尊重する」との文言を加える修正案を出したが、賛成165票、反対135票で、改正に必要な3分の2に達せず、否決された。

 この結果、現行憲法に「家族尊重」の文言は入らなかった。

最終更新:5月3日(木)7時55分

産経新聞

 

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