今回は、井沢元彦氏の「逆説の日本史・戦国乱世編」から、秀吉の朝鮮出兵の経緯を追ってみる。秀吉が出兵を決意した経緯、戦いの実態といった内容を本書から抜粋してみた。私の意見は「注意」書きで述べている。秀吉の朝鮮出兵は、日本でもよく知られているが、ただ、秀吉が出兵の決意をした経緯や戦場の悲惨さについては、余り知られていない。ここでは、朝鮮出兵に関して井沢氏の見方を紹介する。(2005年6月1日、58歳) |
「逆説の日本史」は、井沢元彦氏の長年かけて作成している日本の歴史に関するシリーズもので、1.古代史黎明編、2.古代怨霊編、3.古代言霊編、4.中世鳴動編、5.中世動乱編、6.中世神風変、7.中世王権編、8.中世混沌編、9.戦国野望編、10.戦国覇王編、11.戦国乱世編、がすでに出版されている。 (注意)「逆説の日本史・戦国乱世編」、小学館出版、「朝鮮出兵と秀吉の謎」というサブタイトルが付いている。 秀吉の朝鮮出兵(1592年〜1598年)を韓国では、「壬辰倭乱」と呼ぶ。「壬辰」は干支で、「乱」とは、反乱の意味で、謀反という意味がある。つまり、壬辰倭乱という言葉には、韓国に対して日本が反乱をおこしたという意味がある。 (注意)朝鮮では、外国の侵略は、「乱」と呼んでいる。たとえば、後金の侵略は「丁卯胡乱」、清国の侵略は「丙子胡乱」と呼んでいる。 秀吉の時代、朝鮮や明への遠征を「唐入り」と呼んでいた。それでは、秀吉はいつごろから「唐入り」を決意したのであろうか。通説は、秀吉の家臣・一柳末安(ひとつやなぎすえやす)が伝えるもので、秀吉が関白になった1585年(天正13年)の秀吉の子飼い加藤光泰との会話の印象を「日本国は申すに及ばず唐国まで仰せ付けられ候、心に候か。」というように記録している。これが、秀吉が最初に「唐入り」を表明した記録といわれている。 これより、先の話としてイエズス会の日本報告の中に「信長は、毛利を征服し、日本の六十六か国の領主となれば、シナに渡ってこれを奪うため一大艦隊を準備させることを決意している。」とある。この内容は、天正9年または10年ごろ(1581年から1582年)の事であり、このころ秀吉もこのような展望を信長から聞いていた可能性もある。 (注意)秀吉の政策の多くは、信長が考えていたといわれている。朝鮮や明への遠征も信長の発案と考えてもおかしくはない。また、朝鮮への出兵は、実際に行われたのが1592年であるから、実行の10年前から日本では、唐入りの話があったことになる。 この唐入りの段階を信長、秀吉、家康の行動についてみると、信長は「日本を統一した暁には、明国に攻め入りたい。」と唐入りの構想を打ち出し、秀吉は、「日本国内に戦争はなくなったので、明国に攻め入りたいとして、まづ、朝鮮に攻め入った。」 家康は、「二度も朝鮮を攻めたが、難しい面もあり、明国への派兵は取りやめにしたい。」と唐入り構想を破棄したのである。 一般的に、秀吉に対して朝鮮出兵を取りやめるように提案したのは、浅野長政といわれているが、井沢元彦氏は、徳川家康と前田利家と見ている。当時、このよう重大な政治的変更を秀吉に直言できたのは、この両名しかいなかったというのがその理由である。 以上の過程を経て、朝鮮派兵は考えられ、執り行われ、取りやめになったものである。それでは、当時、秀吉の「唐入り」にはじめから反対または、批判していた人がいたのであろうか。おそらく、諸大名のなかにはいなかったものと思われる。宣教師のフロイスは、当初より、秀吉の唐入りは、無謀として、反対意見を本国に送っている。 (注意)当時の宣教師は、ヨーロッパ諸国へ情報を提供するといった役割も担っていた。つまり、ポルトガルやスペインはこのような情報をもとに植民地の選定をしていたのである。 フロイスは、当時、ポルトガルやスペインが世界中で、侵略戦争をしていたことを知っていたはずであるが、秀吉の唐への進攻は、スペインがフィリピンを征服したときやポルトガルが南米の国々に進攻したときのようには、行かないと思っていたようである。当然、フロイスは自説を主な大名に話をしていた。 しかし、一方、スペインの宣教師バリニャーノは、当時スペイン領であったフィリピン総督に対して、「日本は、不毛で貧しい。しかし、国民は勇敢で絶えず軍事訓練をしている。したがって,日本を征服しても益はないが、スペインが中国に進出するときのよい足場になるので、日本を重視する必要がある。」と述べている。 (注意)この話からもわかるように日本の戦国時代のヨーロッパ諸国は、中国に対してさえ植民地化を考えていた。 続けて、「私が、ここで陛下に断言できることは、迅速に遠征するならば、シナを簡単に征服できるということである。そして、このことを一層容易に運ぶには、シナの近くにいる日本人が、すすんでこれに加わると思えるのである。日本人は、シナ人に対して非常に効果的である。」すなわち、宣教師バリニャーノのスペイン王への報告は、秀吉を利用して明を討てと勧めているのである。 (注意)日本人がシナ人に対して非常に効果的であるという意味は、秀吉が大量の鉄砲を持っていることを指しているものと思われる。 このころ、(天正13年ごろ)、もう一人のスペイン人宣教師・コエリョは、フィリピ総督に対して、「明より先に日本を征服するように、、、」と意見書を送っている。 (注意)コエリョがどの程度真剣に日本の植民地化を考えていたかは、不明であるが、ただ、コエリョは一時期秀吉の朝鮮出兵に協力している。 このような宣教師の行動を秀吉は知っていたものと思われる。仮に、シナが白人の支配下に落ちれば、日本自体の安全が危険にさらされる。秀吉は、スペイン人宣教師の計画を先取りすることが、日本の安全に重要であるという結論に達したと井沢氏は考えている。秀吉は、宣教師に「明」征服の方法や輸送船の調達などの相談をしていた。 すなわち、秀吉は宣教師を通して、唐入りのための日本・スペインの同盟を持ちかけたのである。しかし、宣教師・コエリョは、これに答えることができなかった。宣教師・コエリョは、役に立たない船に大砲を積んで、秀吉に見せた。しかし、この船が役に立たないといことは、すぐに秀吉の知るところとなり、秀吉は日本とスペインによる明への進攻作戦は諦めることになる。 逆に、宣教師・コエリョのような日本征服論者がいることを知った秀吉は、明を征服すると同時に日本からカトリック教徒を一掃することを考えるようになった。高山右近をマニラに追放したり、博多にいた宣教師・コエリョに「バテレン追放令」を出した。 (注意)どういうわけか、コエリョのよう日本を植民地化しようとした宣教師がいたと言う事を日本の歴史教科書では教えていない。何の前ぶれもなく秀吉のバテレン追放令が教科書には出てくる。これでは、秀吉の意図が伝わってこない。 このように秀吉の「唐入り」は、当時の宣教師の世界戦略に大きく関係している。信長からの影響に加えて、スペインが明への進攻を考えていることを知った秀吉は、「唐入り」の必要性を感じていた。同時に宣教師の日本に対する侵略計画も打ち砕く必要性を感じていた。 秀吉が関白になった天正13年には、スペインはすでにフィリピンを植民地化にしていた。今流に言えば、スペインの脅威は日本のすぐ近くまで迫っていたのである。秀吉の「唐入り」と「バテレン追放令」は、双方とも日本をスペインの侵略から守る当時としては必要な政策であったと井沢氏は指摘している。 (注意)ただ、現在の日本人の多くは、このような経緯を知らされていないこともあり、「秀吉の朝鮮出兵」と「スペインの日本進攻阻止」といた問題を関係付けては考える人は少ない。 小説や時代劇などで、よく「唐入りは、秀吉様の妄想」というのが出てくるが、井沢氏は、これは、秀吉の唐入りを矮小化したものであり、当時の迫りつつあった世界の植民地主義は、日本の指導者達の脅威となっていたと考えている。だからこそ、唐入り当初は、日本側の指導者からは、反対意見が出なかったのであると見ている。 (注意)このような状況証拠は、宣教師達の本国への連絡書状からも窺い知ることができるが、ただこれは状況証拠であり、スペインが本当に日本侵攻を計画していたという証拠は今のところ出ていない。 秀吉が、朝鮮出兵の最初にしたことは、対馬の宗義調・義智(よしとし)親子に、朝鮮国王を上洛させるように命令したことであった。宗氏は、無謀な話と知りながら、このことを朝鮮国に伝えた。 しかし、当然朝鮮国はこれを拒否した。当時、宗氏と朝鮮国との関係は、良好なものであった。そこで、宗氏は、一計を案じ、朝鮮国から日本に「天下平定の祝賀使」として使節を送るようにお願いした。 宗氏と良好な関係にあった朝鮮国は、これに同意した。そして、1590年に使節を送ってきたのである、秀吉は当初この使節を「朝鮮の服属使節」と考えていた。宗氏をはじめ周囲の関係者がそのように秀吉に報告したためである。 このとき、秀吉は、朝鮮使節に「日本が明国へ攻め入るときは、協力するように」といった返書を朝鮮使節に出している。秀吉の「明への討ち入り」という思いがけない話を聞いた朝鮮使節使たちは、1591年正月に首都漢城へと帰った。 ところが、帰国した正使と副使は正反対の意見を報告した。正使は「秀吉は攻めてくる」と報告したが、副使は、「日本にはそのような力はない」と報告したのである。このとき、左議政(総理大臣の職)の柳成竜は、副使の意見を正しいとして取り入れたのである。井沢氏は、これは正使と副使の派閥が関係していると見ている。 (注意)朝鮮国の左議政の行動は、井沢氏のいうように正使と副使の派閥の問題もあったろうが、「日本に朝鮮へ侵攻する意思がない」とした方が、当時の為政者にとって都合がよかったからと考えられる。つまり、それほど朝鮮の為政者は当時「事なかれ主義」であったと推測される。この点が当時の日本とは大きく違っていた。 この年(1591年)秀吉は、九州の名護屋に城を築き朝鮮進攻の準備をはじめている。名護屋城は、16万人が駐屯できる当時最大の城となった。翌年1592年、3月小西行長が第1陣として、加藤清正が第2陣として朝鮮に渡海している。これが文禄の役である。 (注意)九州の名護屋に巨大な城ができたのもかかわらず、朝鮮ではこの時点で何の対策も取っていない。朝鮮王朝の怠慢としか言いようがない。 そして、2ヵ月後日本軍は、さしたる抵抗もなく朝鮮の王都「漢城」を陥落させた。このとき、漢城は、暴徒化した民衆によって火を着けられている。つまり、朝鮮民衆は日本軍の進攻時に、為政者に対して「うさばらし」をしたのである。このことは、李朝鮮王朝と民衆は、国難に際して、防衛戦線を築くことができなかったことを示している。 (注意)当時、秀吉軍は鉄砲で武装していたが、朝鮮国は、明の冊封国ということで、鉄砲がなかった。このことが、秀吉軍がたやすく王都を陥落させた理由と思われる。 この時点になって、李朝鮮の宣祖王は、明に救援を求めることになった。しかし、明はすぐには救援をよこさなかった。井沢氏は、その理由として、当初、明は朝鮮が秀吉軍を手引きしていると考えていたからと見ている。 それでもようやく、明軍数万が、朝鮮に向けられることになったが、明軍は食料として、米、牛、豚などを要求し、その上で朝鮮の女人も要求している。当時、朝鮮では明軍を「天兵」と呼んでいたが、天兵の実態は、当時の日本兵と比較すると素行振舞いは劣悪であった。 (注意)後世、日本と清との間で、日清戦争が起きているが、このときの清軍は、軍閥が中心で、軍規もなく兵の傍若無人ぶりはひどいものであった。 こうして、明と日本軍は直接抗戦する事になるが、中国は、頃あいをみて「和議」を申し込んできた。そして、和議の内容を、皇帝に知らせる必要があると言って、50日の停戦を持ちかけたのである。小西行長や加藤清正は、これに同意したが、このことが結果的に明と朝鮮軍の態勢を整える時間を与えることになった。 この間、朝鮮は日本軍の補給路を断つ作戦を展開していた。すなわち、海上封鎖と日本軍が貯蓄している食料倉庫の焼き討ちである。この作戦は、朝鮮側の期待通りの成果をあげた。 ここに至り、小西行長は、本格的に明軍との講和をはじめた。明軍は、これ幸いとすぐにこれに応じたものの、朝鮮軍は、勝利の最中いうこともあり講和には不満であった。明軍は、朝鮮の不満を一笑に伏して、日本との和議を成立させた。 このときの和議の内容は、秀吉側にとってとんでもない内容であった。小西行長は、明に提出した「関白降表」の中で「日本が朝鮮に侵攻したのは、明に朝貢しようとしたが、朝鮮がこれを妨害したので、やむを得ず、兵を朝鮮に出した。」と言うものであった。 (注意)小西行長と明軍とは、この戦争に関して、消極的であった。したがって、小西行長は、明の要求に従い「関白降表」なる和議形式に応じたのである。それにしても、現地にいた加藤清正などはこれに同意していたのであろうか。おそらく、知らされていなかったものと思われる。 明としては、この内容であれば、和議の内容として問題はなかったが、秀吉にとっては、とんでもないことである。当然、小西行長は、このことを秀吉には話していない。その後の事は、何とかなると考えていたようである。小西行長は、秀吉は、「漢文を読めないので、後日、明から手紙が来ても、どうにかなる」と考えたのである。 4年後(1596年)明の使節が、金印をもって日本に来た。秀吉がまちにまった明からの使節であった。しかし、使節の持参した国書には「なんじを以って日本国王となす。」というものであった。秀吉はこの時点で、はじめて、明は日本を属国と見ていると知ったのである。 秀吉は、小西行長を呼びつけ、事態を問いただすと共に、今にも小西行長を切り殺そうとした。石田三成が間に入り、その場は納まったが、ウソで固められた朝鮮や明との休戦状態は、一瞬にして崩れた。そして、このことが、次の「慶長の役」の始まりとなった。 秀吉は、事態の分析に入った。小西、石田などが同席したが、このとき、石田と小西はとんでもないことを口にした。それは、このような事態は、朝鮮の通訳が悪い、朝鮮の二枚舌であると事態の責任を朝鮮側に押し付けたのである。これまでの事態はすべて外交権をもっていた小西行長の画策であり、これを応援した石田などの考えである。朝鮮王朝は、まったく関係がない。 しかし、秀吉は、小西や石田の意見にしたがい、朝鮮国の再度の征伐を決意した。文禄の役は、明への遠征であったが、慶長の役は朝鮮国の征伐であった。秀吉は、当時、朝鮮でも抵抗の激しかった朝鮮の全羅道あたりの国民を皆殺しにするように指示した。 このときの戦いは、悲惨を極めた。このときの残虐行為は浄土真宗の僧・慶念の「朝鮮日々記」に詳しく書いてある。「全羅道では、老若男女を問わず皆殺し作戦を実行した。」、「財宝・文化財を略奪し、日本へ持ち帰った。」、「朝鮮人を連れ去り、奴隷としてスペイン商人に売り払った。」とある。また、戦果の印として、朝鮮戦死者の鼻を切り取り、塩漬けにして日本に持ち帰った。 最初は、秀吉軍は、戦争で殺した人の鼻を切り取り、持ち帰った。しかし、戦果の印としての鼻であるが、逆にみれば、鼻さえあれば戦果が上がっていると日本では見てくれる。そこで、戦場では、しだいに生きている人の鼻を切り取り持ち帰るようになっていった。 朝鮮では、再度の秀吉軍に対して、農民による義勇軍が結成され、弱体化した正規軍に代わって、国土防衛戦を行っていた。 文禄の役では朝鮮には鉄砲がなかったが、慶長の役では、鉄砲があった。 (注意)最近の研究では、義勇軍の中に和歌山の雑賀一族がいたと見られている。雑賀一族は、信長によって滅ぼされた鉄砲集団で、この鉄砲の技術が、朝鮮の義勇軍に伝えられたのである。 しかし、このことが、日本では経験しなかった悲惨な結果をもたらした。朝鮮のゲリラ戦は、秀吉軍からみれば、皆殺しをしない限り、勝ち目のない戦いとなった。はじめから、秀吉は、皆殺しを命じているのでるから、現地の秀吉軍としては何のためらいもなく、皆殺し作戦を実行したのである。 こうした秀吉の「うさばらし」的朝鮮遠征は展開していったが、戦争の最中、1598年、秀吉は63歳で病没した。このことが、朝鮮から撤退を決意させた。秀吉の明征服の夢は、結局は、朝鮮への無謀な遠征ということで終わった。 なぜ秀吉の明国遠征計画は、このように無残な形で終わったのであろうか。井沢氏は、その第一の理由として、秀吉の情報不足をあげている。秀吉は、宣教師や宗氏から朝鮮や明国の情報を収集したが、現地に情報収集のための諜報活動や現地知識人との情報交換などは一切行っていない。つまり、宣教師や宗氏などの彼らの都合にいい情報で判断していた。 第二に、秀吉は、現地に派遣した小西行長や加藤清正の組織作りに失敗している。つまり、だれが、全権をもっているのか、日本を代表して誰が朝鮮や明の使節と会うのかといた基本的な組織作りをしていなかった。このことが、現地で味方同士がいがみあう原因になっている。 秀吉は、結局、明、朝鮮、小西行長、宗氏、石田三成から騙されつづけた。秀吉は自分が騙されていると知ったとき、すべてが、切れてしまった。そして、下された命令が、「朝鮮全羅道の皆殺し」である。日本には、これを止めることができるのは、前田利家と徳川家康であったが、両名ともこの時点何もしていない。 また、明軍もはじめから、朝鮮を秀吉軍から守ろうなどといった考えはなかった。朝鮮は明の冊封国であった。このとき明は、「日米安保条約」のように朝鮮の危難に対して軍事的に救援する義務があった。しかし、明は、兵を朝鮮に出してはみたが、ほとんど成果をあげることができなかった。 井沢氏は、日本民族の欠点としては、情報を軽視していると述べている。秀吉の軍隊は、やり方によっては、当時の朝鮮や衰退していた明の情勢を考えると成功したとも思える。朝鮮での虐殺もなかったかもしれない。 しかし、秀吉の性急な「唐入り計画」は、はじめから、「ウソ」で固められたものであり、宗氏、小西行長、加藤清正などがどの程度真剣に朝鮮出兵を考えていたか疑問である。また、当時の有力大名であった徳川や前田にしても「高みの見物」を決め込んでいた。これでは成功の見込みはほとんどない。 慶長の役(壬辰倭乱)から29年後1627年に、朝鮮半島では「丁卯胡乱(ていうこらん)」と呼んでいる戦いがおこった。それは、「後金」の侵略であった。秀吉の戦禍から立ち直っていなかった朝鮮は、この戦いに敗れ、後金を「兄」として講和を結んだ。 その後、後金は、国号を「清」と改め、李氏朝鮮に対して服従を要求してきた。李氏朝鮮の仁祖王はこれを拒否したが、清の太宗は、ただちに朝鮮へ進軍し、これを捻じ伏せた。このときの清との戦いを韓国では「丙子胡乱」と呼んでいる。 敗れた李氏朝鮮の仁祖王は、「胡服」を着て京城近郊に作られた「受隆壇(降伏のためにつくられた台)」におもむき、清の太宗皇帝に土下座の礼拝をした。清は、これを石碑に刻みその記録を後世に残した。 (注意)慶長の役からおよそ30年後、以上に述べたように朝鮮は、満族によって、事実上の属国とされ、独立国としての対面は、ほとんど失われていた。このことは、韓国の人たちも正しい歴史認識で見る必要がある。これまで、朝鮮王朝が対中国政策にどれほど苦労してきたのかを韓国政府は国民に知られせるべきである。 (注意)秀吉の朝鮮遠征は、16世紀と言う時代背景を考えると、植民地主義的な発想になったのもやむを得ない面もある。当時のスペイン、ポルトガル、オランダなどにより、この時期は「植民地主義」が世界に蔓延していった時代でもある。朝鮮国が日本の侵略の対象となったのは、同国の秀吉に対する判断の間違えが、原因の一つになっていたと私には思える。 蒙古、中国、朝鮮で構成された日本侵略軍に対して戦いつづけた執権・北条時宗は、戦死した日本人、朝鮮人、中国人、モンゴル人のすべての人を鎌倉の円覚寺に千体地蔵をたてて供養した。秀吉は、朝鮮から届いた敵兵の鼻を埋葬し塚(現在では耳塚と呼ばれている)をたて供養している。このように日本では、戦死した人は敵味方関係なく供養する習慣があり、このことが美徳とされている。 (注意)今日でも円覚寺には、多くの参拝者が訪れ、北条時宗廟や千体地蔵にお参りしている。元寇のとき、元のフビライハーンは、再三にわたって使者を日本に送り、交易(実際は降伏)を求めてきた。時宗は、ついに、これら4人の使者を滝口寺で斬首した。その亡骸は、滝口寺に隣接する常立寺に埋葬され、今日でも供養されている。このように日本では、敵国の使者でさえ、供養されるのである。 もう一つの例をあげるならば、幕末に清水港で、幕府の帆船・咸臨丸が撃沈された。当時の官軍は、その死体を埋葬することを許さず、海岸や海上に放置したのである。これを知った清水長五郎(清水次郎長)は、官軍の命令に背いて、死体を回収し埋葬したのである。このことは、周囲の人の共感を買い、その後長く美談として語られることになった。 (注意)清水長五郎は、このボランティア活動により、明治になってからも、旧幕府側の人々と親交が多かった。長五郎は、侠客という反社会的職業であったにも関わらず、国民的な英雄になっている。 ところが、朝鮮には、秀吉の朝鮮出兵で戦死した日本人の供養塔はない。侵略者は成仏する資格はないという考えなのであろうが、日本とは、大きく違う生死観である。この問題は、日本の靖国神社参拝問題につながるところがある。日本人の考えは、戦禍に命を散らした人は、等しく祭られることが求められている。祭られる人は、生前、敵でも味方でも、善人でも悪人でも、区別されることはないのである。 (注意)この問題は、朝鮮は儒教的な考え方から、敵兵は祭らないという発想であるが、日本は、縄文時代から続いている怨霊思想によって、「意思に反して死んでいった人々は、等しく祭らなければならない」という発想から出ている。 以上 |
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