森達也:震災
3月11日、僕は六本木のアークヒルズ16階にいた。テレビ・ドキュメンタリー企画の審査会に参加するためだ。会が始まってすぐに、床と壁が激しく揺れた。最初は横揺れ。次にはドスンと下から突き上げてくるかのような縦揺れ。そしてまた激しい横揺れ。審査会のスタッフが「このビルは免震構造で揺れるようにできていますから大丈夫です」と叫ぶように説明したが、揺れはまったく収まらない。ビル内のアナウンスが、非常階段を使ってビル外に退避するように呼びかけ始め、審査委員の一人である崔洋一が、「この揺れは確かに尋常ではない。全員でビルの外に出よう」と声をあげた。
実のところ僕は高所恐怖症だ。遊園地では下から見上げるばかりだ。ビルの16階など、本来ならいるべき場所ではない。それが激しく揺れている。相当に動揺した。「高所恐怖症なんです」と傍らの崔に囁けば、「実は俺もそうなんだ」との言葉が返ってきた。
結局のところ審査会は打ち切られた。ところが帰宅しようにも電車が動いていない。そこで審査会に参加するために上京していた地方局のディレクターやプロデューサーたちとともに、六本木の居酒屋で、夕刻からビールを飲み始めた。僕は途中で飲みものをホッピーに換えて、困ったねえとか仕方がないよねえなどと言い合いながら、何度もお代わりをした。六本木には珍しい正当な居酒屋で、わいわいと談笑しながら、ウドの酢みそ和えや天ぷら盛り合わせ、なども食べた。
夜半に店を出たけれど、電車はやはり動いていない。おそらく今夜中の復旧は難しいだろう。そう判断した僕たちは、それぞれ徒歩で移動することにした(地方から上京してきたほとんどのディレクターやプロデューサーたちは、事前にビジネスホテルの宿泊を予約していた)。新たにホテルを予約しようにも電話が繋がらない。歩きながら見かけたビジネスホテルはすべて満室だ。こうなったら仕方がない。日帰りするつもりでホテルの予約をしていなかった信越放送の手塚孝典ディレクターとともに、審査員の一人である星野博美の家に泊めてもらうことにした。
六本木から一時間ほど歩いてから、星野の家の近くにある中華料理店で、三人でまたビールを飲んだ。閉店時刻間際だというのに、店は混雑していた。多くの男女たちがビールや老酒を飲みながら、ほかほかと湯気を上げる麻婆豆腐や餃子や酢豚を食べていた。携帯はずっと繋がらない状況だったけれど、これはこれでいいかなという思いもあった。子ども時代、台風が上陸する直前、大人たちが雨戸に釘を打ち付けたり停電に備えて蝋燭を用意したりする様子を眺めながら、妙に高揚した気分でいたことを思いだした。
夜中に星野の家に行き、僕と手塚はリビングで雑魚寝した。寝る前にテレビのスイッチを入れた。漆黒の闇が燃えていた。ライブの釜石の空撮映像だ。アナウンサーが(現状で把握できている)被害の規模を伝えている。
暗い部屋で暗い画面を見つめながら、僕と手塚は声がない。知らなかった。思い至らなかった。これほどの大惨事になっているとは。これほど悲惨な状況になっているとは。僕がビールを飲んだりウド酢みそ和えを食べたりゲラゲラと笑ったりしていたそのとき、暖房が効いた小部屋で老酒を飲みながら餃子や酢豚を食べていたそのとき、たった数百キロしか離れていない場所で、これほどに凄まじい事態が起きていた。多くの人が津波に呑まれ、流され、焼かれ、親や子や夫や妻の名を呼びながら、助けを求めながら、為す術もなく死んでいった。
僕は知らなかった。気づかなかった。思い至らなかった。
地震発生から二週間後、僕は陸前高田にいた。花巻から国道を南下しながら海が近づいたとき、川沿いの周囲の景色が一変した。圧倒的な瓦礫の量だ。単なる瓦礫ではない。つい数日前までは、多くの家族が暮らしていた家の建材、日用品、電化製品、カバンや靴などの日用品。それらが泥にまみれながら堆積し、多くの車が無惨にひしゃげながら、樹木のありえない高さに引っかかっている。まるでシュールレアリズムの絵画の世界だ。でもこれは絵画でもCGでもない。紛れもない現実だ。そしてこの瓦礫と泥の下には、今もまだ多くの遺体が埋もれている。
高台にある避難所(小学校)を経由してから、車は海沿いのエリアに着いた。ここにはかつて陸前高田市があった。でも今はない。
それから三日かけて、大船渡や石巻、東松島など、特に被害の大きいエリアを回った。この取材のあいだ、形容する言葉が思いつかなかった。なぜならそこには、かつてあった町がない。家がない。一面の泥と瓦礫。足もとに転がるアルバム。写真の一枚一枚に残された一人ひとりの笑顔。入学式。結婚式。ハイキング。泥にまみれたかつての日常。絶たれた営為。そしてその下に今も埋もれている多くの遺体。
圧倒的な喪失であり、圧倒的な無慈悲だった。そして何よりも、圧倒的な無力感を抱えながら、僕は立ちつくしていた。そんな語彙しか使えない。他には思いつかない。
大地震発生の翌日、電車を乗り継いで星野の家から自宅に戻ってからは、どこにも出かけず、何もせず、何もできず、早朝から深夜まで、ひたすらテレビを見続けた。
画面に映し出される光景は、まさしく壊滅であり、破壊であり、そして喪失だった。被災者や遺族たちがカメラに向かって泣き叫ぶ。あるいは瓦礫の中に茫然と立ちつくす。そんな様子を、僕は呆けたように見続けていた。いくつかの新聞やラジオなどからはコメント依頼が来たけれど、すべて断った。口にできる言葉がない。何も言いたくなかった。何もしたくなかった。
そのようにして二週間が過ぎたころ、テレビを見続けた多くの人と同じように、僕は相当に鬱になっていた。そんなときに、戦場ジャーナリストで「リトル・バーズ イラク戦場の家族たち」など映画作品もある綿井健陽から、「被災地に撮影に行かないか」との誘いが来た。いったんは断った。現場になど行きたくない。家にいたい。何もしたくない。そもそも僕はジャーナリストでもないし、映像だってもう十年以上撮っていない。被災地に行くなどありえない。でも断ってから一時間後、僕は着信に残っていた綿井の携帯番号を、ダイヤルしていた。
同行は、「A」や「A2」、そして「リトル・バーズ」のプロデューサーである安岡卓治。そして一昨年にドキュメンタリー映画「花と兵隊」を発表した松林要樹の4名だ。要するにインディーズのドキュメンタリー・クルー。ただし僕のカメラは、部屋の隅でもう十年以上埃を被り続けていたので、綿井のカメラを借りることにした。
全校生徒のほとんどが津波に呑まれた石巻の大川小学校では、子どもの遺体を探す母親たちに同行した。瓦礫と泥で沼のようになった学校横の住宅地を歩きながら、僕はずっと無言だった。ただし手にしたカメラは回している。何かを言わねばならない。訊かねばならない。でも言うべき言葉を思いつけない。訊くべき言葉がわからない。かけるべき言葉が見つからない。やっとのことで「ご家族は?」と訊ねれば、「子どもが二人流されました」と一人の母親から即答された。
彼女たちはねばり強く作業を続けていた。泥で足をとられて一人の母親が転びかけたときには、笑い声すら聞こえた。でもそれをもって、「人は強い」などとは絶対に言えない。彼女たちは放心している。震えている。生と死の狭間に落ち込みかけながら、込み上げる嗚咽を必死に堪えている。そんな彼女たちに、「負けるな」とか「がんばれ」だなんて、口が裂けても言えない。
僕だけではない。多くの記者やカメラマンたちは、現場で立ちつくしながら困惑していたはずだ。写真を撮ったり遺族の口もとにマイクを突きつけたりしながら、「いったいおまえは何ものなんだ」「何の権利があるんだ」と、自分に問いかけていたはずだ。
取材や撮影は、そもそも人を加害する。取材対象者や被写体だけではない。時には(今回のように)見たり読んだりする人を傷つける。それはわかっている。ある意味でいつものことだ。
でも今回は、規模があまりに大きすぎる。あまりに不条理で、あまりに非常な現場だ。矛盾や煩悶を押さえ込めない。指のあいだから洩れ落ちてしまう。そこまでしてなぜ取材しなくてはならないのか。なぜ撮影しなくてはならないのか。
もちろん、解答は明らかだ。何が起きたのか、何が起きているのか、それを僕たちは伝えなくてはならない。その理由を否定することなど、絶対にできない。
それはわかっている。わかってはいるけれど言葉を失う。だから立ち尽くす。
「・・・空爆でもこれほどの破壊はありえないです」
撮影を終えて車に乗り込んでから、イラクやアフガン、コソボなど、多くの紛争地域を取材してきた綿井が、吐息まじりにつぶやいた。全員が無言だった。それぞれカメラを手に、無言で瓦礫を見つめていた。
「日本は強い国」「今、私にできること」「がんばれニッポン」「今こそひとつに」
撮影から戻ってきた3月下旬以降、こんなフレーズやキャッチコピーが、メディアを媒介にして少しずつ広がり始めている。大きな声で異を唱えるつもりはない。基本的にはそのとおりだと思う。がんばれとは僕も思う。負けるなとも思う。できることを考えなくては、とも思う。でも同時に違和感がある。実際に現場に立ち尽くした感覚としては、何かが違うと思う。微妙な何かだ。微妙ではあるけれど、決定的な何かだ。
おそらくこれから日本は変わる。変わらざるを得ない。行政やエネルギー政策や制度だけではなく、人の意識も変わる。メディアだって変わるかもしれない。それほどに圧倒的な喪失だ。
ここから歩き始めなくてはならないけれど、「がんばれ」や「負けるな」はまだ早い。まだ口にするべきじゃない。もう少しあとでいい。今は黙って寄り添うべきだ。現地に行けば誰もがそうなる。一緒にぐずぐずと泣いてもいい。
でも泣きながら、当事者ではない自分たちにできることを考え、黙々と実践すること。今はそれで充分だ。
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1956年、広島県生まれ。映画監督・ドキュメンタリー作家。98年、自主制作ドキュメンタリー映画『A』を発表。ベルリン映画祭に正式招待される。2001年、続編の『A2』が山形国際ドキュメンタリー映画祭にて審査員特別賞・市民賞をダブル受賞。著書に『A』『マスコミが報道しなかったオウムの素顔』『職業欄はエスパー』(以上、角川文庫)、『下山事件』(新潮社)、『ご臨終メディア』(森巣博との共著、集英社新書)、『日本人と戦争責任』(斎藤貴男との共著、高文研)、『誰が誰に何を言ってるの?』(大和書房)、『首都圏生きもの記』(学習研究社)など多数。
コメント (11)
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投稿者: 《THE JOURNAL》編集部 | 2011年4月13日 21:41
一時期、「物流が被曝を恐れ、屋内退避地域に物資が届かない」というニュースが続いていた。
今度は、「福島のゴミ受け入れを表明した川崎市長に対し、市民から苦情が殺到」だそうな。
広島・長崎で被爆者がケガレ扱いされた過去が蘇る。
何のためにカメラを回し、マイクを向けなければならないのか。
被災者の傷を抉ってまで、何をなし遂げようとしているのか。
森さん、あなたなら答えを持っているはずだ。
投稿者: アキラ | 2011年4月14日 10:53
やはり森さまも「がんばろう」キャンペーンに違和感がありましたか。団結をもとめることが権力に利用されなければいいのですが。
投稿者: Piichan | 2011年4月14日 11:41
いわきで被災したものです。同感です。「がんばれ!いわき」の大合唱は、なぜか空疎な気分になってしまいます。「3.11」以前と以降では、自分のなかで何かが変わってしまいました。それが何だかはわかりません。いつもふわふわしていて、心ここにあらずの感じです。
でも期待感もあります。権威や肩書きの世の中が反転し、グイッとページがめくられるのではないか、という感じです。「ポーズだけのからっぽの世界」が「手応えを実感できる世界」へと足を踏み出してもらいたいと思っています。
投稿者: 安竜昌弘 | 2011年4月14日 13:49
原発を利権がらみで強力にしかも国民を覚醒しながら推し進めてきた自民党の面々と通産官僚の連中、それと米国のGEの当事者はじかに今の惨状を現地に行って己の「まなこ」で見るべきである。
津波の破壊力が如何に想像を絶するものであるかも、防災に携わってきた中央の官僚と学者ども、多くの犠牲者を出した地方の自治体の指導者たちも、大いに反省の念を持って自らの「まなこ」でこの破壊つくされた郷土を見て、その脳裏に叩き込むべきである。
今回の大災害の中にあっても、昔からの津波に対する認識の差が人的被害の大小を左右したことが現地の状況や証言で明らかになってきたことは、これからの災害対策の一助になることは確かである。
自然災害、自然の猛威に対する畏敬の念のなさが今回の悲惨な状況を生んだものであろう。
森達也氏が現地でこの災害の惨状を目の当たりにして言葉を無くした状況は、日本の各地で幾度となく起こってきた大雨、土砂崩れ、地震、台風、河川の氾濫と挙げればきりがないが、今回の津波も然りであり、その都度現地は人的被害も含めてその代償の差こそあれ、哀れなものである。
この日本で生まれ育ってきた住民は何があろうとも明日に向かって生きなければならない。急がずに、成すがままに、少しでも希望と夢を持って。
但し、原発災害の人災はこのありさまにどう対処し、どう終息させるのか、事業者と経産省、保安院の国において全責任を持って答えを見つけて処理してもらわなくてはならない。
それも一刻も、一日も早く、三交代でも四交代でもの体制にて責任者はその責めを負うものである。
投稿者: 平成維新の会 | 2011年4月14日 15:34
こんにちは(いま、4月14日pm5:10頃です)
>おそらくこれから日本は変わる。変わらざるを得ない。行政やエネルギー政策や制度だけではなく、人の意識も変わる。メディアだって変わるかもしれない。それほどに圧倒的な喪失だ。
そうですね。
財政再建も、TPPも一切が遠い世界の話になってしまいました。
特に経済成長は積み上げられた議論の前提が完全に崩れてしまった。
だから、いま考えることとは日本の生き方なんじゃないかと思います。
この喪失感を受け止めて、でも、幸福とはなにかを考えることなんじゃないかと思います。
でもな~。
40過ぎの大人たちは仕方ないけど、20代以下のこれからの働こうとする若者たちには申し訳ないとほんとに思いますね。そのなかで
①エネルギー政策の転換
②検察・司法の改革
とりあえず成し遂げないといけないと思います。
投稿者: xtc4241 | 2011年4月14日 17:16
3月11日のその時、私はお昼寝していた。軽い揺れで地震と気がつくが、後の被害状況を予想もできなかった。連日報道される内容により、私にできることから、ボランティア活動も1つの選択であると思いつき、ネット情報を検索する。仙台に民間の県外受入先があることを知り、メールのやり取りで内容確認し、3月29日から4月8日までの申し込みをする。当初、ダンプトラックとトラクターで赴くつもりでいたが、ワゴン車でかまわないとの返事であり、結果的にその方が、利便性があった。(帰りには多少なりともごみを持ち帰ることもできた)29日の早朝に当地を出発し、現地までのガソリン事情を考慮し、小まめに給油し、仙台のサポートセンターに着く。
そこである意味、不思議な縁を繋ぐことになる。ボランティアの赴く先は石巻と聞かされ、1名同行させて欲しいとのこと、此の方の実家が女川にあり、お母さんと妹さんの安否が未だ不明であるとのこと、仕事柄何度も訊ねることが出来ず、女川の現状と避難所を回りたいとの申し出である。私自身当地の地理に明るくなく、交通規制などもあり、時間的余裕から同行させていただく。
仙台の中心地は、それほどの被害を感じることがなかったが、一部地域では、津波に流された車やごみが散乱しており、ガソリンの給油町の列が延々と続いていた。
女川には石巻を経由していくのですが、石巻に近づくにつれその被害は目を覆う物になる。
道路は所々寸断され、かろうじて車一台が通行できるところさえある。かといって同じ海に面しているのに、外観上被害がなかったような場所もある。海岸の地形などが影響しているとのことだそうで、今後の津波対策の指針になると思える。
女川の町に入り、あたりは一変する。報道されていた風景そのものであり、町があったと思えないのである。まず、避難所である総合運動公園に向かい、同行者の家族安否確認をする。女川はいくつかの谷間の町であり、その真ん中に位置する病院も避難所に指定されている。海面下30mはあろうかと言う高台にあるが、その一階部まで浸水した、駐車場にはその時も車の残骸が散乱し、同行者の家族もこの高台に避難する途中で津波に巻き込まれたそうだ。車が途中の山腹で見つかり、その後不明となる。この高台からは女川の町が一望できるが、私には原風景と対比もできず、言葉で表すことができないでいた。
今思えば、映画のロケ地を見ているようなものだった。最終日にもう一度、同じ同行者とこの地に立つが、その時初めて被害の甚大さに思いが及ぶようになる。この間地元の人との出会いや会話から、その時まで其処には普通の生活があったと実感できたからである。
予定を2日間延ばすことになるが、この間の石巻の変化も大きい、ガソリンも一般給油できるようになり、ホームセンターやコンビニにも商品が並ぶようになる。仙台にいたっては、来たときの風景はもう見当たらない。人の頑張りを改めて思い知らされる。
けれど、写真やビデオの映像は、風景を写せても、人の心まで写し取ることは難しい。
レンズを向けられると、それ以上の頑張りをみせるが、その目に力が宿っていないことがある。その心を癒すために何が必要なのかも問われる気がする。
投稿者: 本田 勉 | 2011年4月14日 17:56
どこへ行くのだ、日本丸
ACジャパンだかの「がんばれニッポン」は違和感がある。
わたしの神経を逆なでする。こんな国にしてしまった、
官僚、政権なのに、原発推進して安全設計のコストを割愛してきた責任と反省がない。
地震、津波、そして放射能のバラまきでは、どう立ち直るというのだ。
どう、がんばるのだ。そんな疑問の声をかきけすために、こんな時にもめている場合か?
という論調も気になる。菅内閣に任せておいていいのか。
本当にそれでこの日本の危機は乗り切るのか。小沢一郎さんは政治家をフリーズさせておいていいのか。
小沢さんが動けば、菅直人のやり方なんか肯定するわけがない。
「おれならこうする」と異論があるはずだ。その批判や行動は
権力闘争やってる場合か、とマスコミは批判するようだ。
政治家として期待できる、小沢一郎、鈴木宗男、亀井静香などが、
野党以上に動けない状況にあるのは、なんとももったいない話だ。
そして、さらなる心配は、東北地方地震、津波被害。原発事故・・・
アメリカは支援の形をとりながら、どんな要求を日本に要求してくるのか?
投稿者: 読者の声 | 2011年4月15日 07:10
伊集院静氏か週刊現代で、今回の大震災義援金を提供した人々について「名前を名乗らず黙ってやれ」などと本当に器の小さい戯れ言をぬかしている。提供した彼らは少なくともメディアに注目されている、いわゆる成功者、著名人である。よって経済的には私達より収入も多く、その分、寄付金も多いのだろう。
ただ私の知るかぎり彼らがその行為を売名的な意味合いやえらい事をしているなどとおもいあがった行為とは到底思えない。伊集院氏が指摘するような根性ではやっていないのだ。だいたいに於いて日本人は財を成した人間に限って公共や弱者に寄付などせず、自身の家族という(聞こえはいいが)いわば利己的関係(哲学的概念からみれば)にその財を残そうと躍起になっているのだ。その肝の肝心の問題をわきにおいてメディアが公表した有名人達をあげつらう伊集院氏のケツの穴の小ささにあきれ果てる次第である。
そういう言論しか吐けないなら氏はもはや文学者としての資質無しと言わざるをえない。私が思うに義援金を提供した彼らはおそらく敢えて名前の公表を第一義的には考えていない。むしろ静かに提供したいと思っているのではないか、その手の話はよく聞く。ある
意味、自然で純粋な行為であろう。ただメディアは有名人の行為をどんな方法を使っても探し出し、それをニュースとして報道する。ただそれだけの事だ。
大切なのは被災地にいかに助けになるか、その事象こそを見い出すだけである。名前があろうが無かろうが、えらいとかえらくないとか(伊集院静のひとりよがりな妄想言葉)とかは全く関係ない。お金のない人がかき集めた5千円も孫正義の100億円も善意の行為なら区別する必要などないのだ。今に始まった事ではないが、いつもこういういちゃもん的感傷言論が起こる。根性の悪いシニシズムが根底にあるのだろう。それが伊集院静とは全くもって驚きであった。
名前が出た事で人間の善意を矮小化する氏の精神性には神も嘆いているはずだ。あんたはつまらん戯れ言をのたまう前に大震災に対する自己の言葉、行為をどう表現する事がまず先決である。どうやら私は氏を見誤っていたようだ。表現者の看板をすぐ外したまえ!倫理を説くならもっと形而上学を勉強する事を勧める。
投稿者: 松川 | 2011年4月15日 16:46
親の遺体を放置して年金をくすねる日本人の我欲。そんな日本人の身代わりに、天罰を受けた万という人の魂に、子供の姿を探す親たちに、石原さん会いに行ってください。
あの日以来、よく涙が出ます。ランドセルだけが残った学校。「明けない夜はない」と大きく書かれた落書き。ひとつひとつに涙があふれ、すっかり涙もろくなっています。
「日本人は人間だけが日本人というわけではありません。・・・このデリケートな自然が・・
島が・・破壊され、消え失せてしまえば・・もう日本人というものはなくなるのです。」
大胆な問いかけをした日本沈没を思い出します。
世界に誇る美しい海岸線が、食の宝庫が、のどかな村が、傷めつけられ、侵される喪失感。一瞬で日常を奪われる、想像を絶する絶望。人類が経験したことのない危機を見つめる不安。
私の日常は3月11日前も後も何も変わっていない。被災にあわれた方々の傍らで私たちががんばらなくてはいけない。でも、みんなでがんばろうと言われても、がんばれソングを聴いても、体の芯に力が入りません。
投稿者: Longo | 2011年4月16日 00:25
初めて書き込みします。つたない文章をお許しください。
震災が起きてから、ずっと森さんの言葉が聞きたかったです。森さんが何を見て、どう感じているのか、知りたいと強く思っていました。
原発に関しては、私の中で森さんの著書の言葉がリフレインしています。
責任は誰にあるのか?
責任は国民全員にあるのだ。
原発に関するこの国の報道には失望しました。東電が悪い?政府が悪い?計画停電すると経済が衰退する?
便利な生活を提供してくれるけど、ひとたび事故を起こせば恐ろしい被害をもたらす原発。
原発がどういうものなのか、そのリスクをこれからも許容するのか、経済発展って何なのか、幸せって何なのか、今、一人一人が立ち止まって考えなければいけないのに、報道が全くそういう方向にいっていない。
なんでもかんでも「風評被害」というのもやめてほしい。本当に被害はないのでしょうか?
福島の野菜を買わない人が悪いのでしょうか?
ニュースを見るたびに、メディア人は果たして本当にこんなニュースを伝えたいのだろうか、と首をかしげます。
もう、新聞もテレビも信じられません。
投稿者: 新米ヘルパー | 2011年5月11日 12:14