最近、2人の政治リーダーが気になる発言をしている。
ひとつは野田佳彦首相のことしの施政方針演説。「国政の重要課題を先送りしてきた『決められない政治』から脱却することを目指す」
もう一つは、橋下徹大阪市長の「維新政治塾」でのあいさつ。「価値観を共有し、統治機構を変えて、決定できる民主主義を実践する政治集団をまとめていきたい」。「独裁、拙速との批判もあるが話し合いだけでは物事は進まない」と続けている。
いまの政治は政策を決める力を欠いている―。立場の違う2人だが、こうした認識では一致しているようだ。
政策決定力を失えば、政治とはいえない。歴史的とされた民主党政権だが、米軍普天間飛行場の移設問題を皮切りに政策を実行できない体質を露呈した。トップが代わっても展望が開けないところに、有権者のいら立ちがある。
だから橋下氏の断定調の発信に引き寄せられるのだろう。根っこは同じだ。無力化と強力なリーダー待望論との間を漂流しているのが、いまの政治の姿である。
こうした流れのなかでは、強いことや勇ましいことを言った方がいい、といった傾向に陥りやすい。それが権力の強化につながり、国民の権利を抑えるような主張になってくると要注意だ。
気になることがある。例えば「君が代起立条例」のある大阪府で、斉唱しているかどうか、府立高校の校長が教員の口元を“監視”する問題が起きている。
条例があるとはいえ、口元まで点検するやり方は、憲法が保障する思想、信条の自由に抵触しかねない。橋下人気が市民の権利を弱める結果を招くとすれば、強権政治へとつながる恐れがある。
自民党の憲法改正案は、現行憲法の表現の自由に、次の条項を加えている。「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」。権利の制限を強調したと受け取れる内容だ。
国家は強力な武力を保有している。人を逮捕・拘禁することもできる。憲法は、こうした国家の強大な力を国民がコントロールするための手綱である。
「決められる政治」を求めるあまり、国民が自らの権利を権力者に委ねるような選択をすれば、国家の暴走を許すことになる。
政治劣化のなかで、あらためて憲法の条文を読み返してみたい。