「田村麻呂の墓」位置特定か 山科で地元考古学研究家
平安時代前期の征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の墓と推定されながら、地形の変化によって正確な場所が不明になっていた「西野山古墓」(京都市山科区西野山)の位置を、歴史考古学研究家の鳥居治夫さん=同区=が特定し、学術誌に発表した。足かけ40年にわたる研究で、専門家は「検討に値する内容」と評価している。
特定した古墓の位置は、山科区西野山岩ケ谷町の道路。西野山古墓は大正期に京都帝国大が調査、金装太刀や鏡(いずれも国宝)が出土した。鳥居さんは、1973年、古代土地区画「条里」を現代の地図に当てはめて田村麻呂の埋葬地を記した文献から、「墓は西野山古墓」とする論文を発表した。その後の研究もあり、埋葬地として有力視されている。
鳥居さんは昭和30年代後半に大正期の調査を知る人の案内で古墓を訪れた。ところが、その後周辺で清水焼団地が造成されて地形が変わり、古墓の位置は長らく不明になっていた。
2007年から、地元住民に情報提供を呼びかけるなど調査を開始。大正期の調査報告書にある古墓の地番と明治時代の登記簿を突き合わせ、清水焼団地造成の計画図や調査報告書の地形の記述を基に、一帯を何度も歩いて特定。成果をまとめた論文「坂上田村麻呂墓の再発見と墓の位置」を、日本歴史学会編集の「日本歴史」4月号に発表した。
位置は、市の遺跡地図台帳(07年版)の表記からは200メートルほど北東にある。また平安京の南限で、羅城門があった九条大路を東に延長した地点にあたることも確認し、鳥居さんは平安京を守護する位置に埋葬された、とみている。
上田正昭・京都大名誉教授は「墓の位置がこれで決まり、とは言えないが、新しい問題を提起している。地道な調査を積み重ねており、十分検討に値する内容」と評価している。
鳥居さんは「舗装路の下から古墓に関連した遺物が出土すれば存在が証明される。多くの人に研究に協力いただいたので、報われた思い」と話している。
■坂上田村麻呂(758~811年) 征夷大将軍に任ぜられ東北を平定したほか、清水寺(東山区)の建立でも知られる。西野山古墓推定地から南東1・5キロの山科区勧修寺東栗栖野町に田村麻呂の墓とされる遺跡がある。2007年には京都大の吉川真司教授(日本古代史)が、田村麻呂の墓を西野山古墓とする論文を発表しているが、位置はやや異なる。
【 2012年05月02日 15時50分 】