富士宮に引っ越して、少々廃れたとはいえ、少年相撲の伝統地域である。以前紹介した上井出天満宮みたいに富士山型土俵の特異例や、八幡宮の境内地には必ず土俵がある。

知り合いにも少年相撲の経験者が30代に多かった。特に名力士を生んだ経緯がないが、歴史的に「今昔物語」にありました。
紹介します。
「相撲人私市宗平(さきいちのむねひら)、鰐を投げ上げる語第二十三」
今は昔、駿河国(静岡県) に私市宗平という左方の相撲人がいたが、相撲の技がうまかったので、初出場以来、左方にも右方にも負けたことがなく、相撲人となっていくらもたたぬうちに、脇にまで昇進した。
その時、同じ左方の相撲人で、参河国(愛知県) に伴勢田世という者がいた。背が高く、力も非常に強い者だったので、昇進して最手(ほて)の地位を永らく確保していたのだが、脇であったこの宗平と取り組ませたところ、負けてしまったので、宗平が最手に昇り、勢田世は脇に下ったのであった。そんなわけで、この宗平はまことに相撲の名手乎であった。
ある年の四月頃のことであった。この宗平が駿河国で狩りをしていたところ、背中を射られた鹿が、内海を泳ぎ渡って向こう岸の山の方へ逃げようとした。宗平は泳いで行く鹿の後を追って、三、四町ばかり泳ぎ渡っていたがシカに追いつくと、立ち泳ぎをしながら鹿の後脚をつかんで肩にかついだ。さて泳いで引き返していると、沖の方から白波が立って、宗平めがけて突き進んで来た。浜辺に立つていた弓の射手どもは、泳いでいる宗平に向かって声を限りに叫んだ。
「その波はきっと鰐だぞ。喰い殺されるぞ。気をつけろ」
などと言って、集まってわいわい騒いでいるうちに、その波は宗平のところまで来て、宗平に打ちかかったように見えたので、もう宗平は喰われただろうと思つていると、波はもと来た方へ返つて行く。宗平はさっきと同じように鹿を持って泳いで来て、陸まであと一町ばかりになった。と思うと、しばらくして、またこの波が宗平めがけて進んで来た。前と同じく宗平に打ちかかったと見るまに、またしばらくすると引き返して行く。
宗平はなおも鹿を持つて、波打ち際まであと一、二丈ばかりとなった。その時、陸にいる者どもが見ると、宗平は鹿の後脚二本と腰骨を持つているのだった。しばらくすると、またこの波が立って来る。
陸にいる人々は集まって、
「早く陸へあがれ」
とわめき立てるが、宗平は耳にも入れず、水中につっ立っている。はや近くまで来た波を見ると、鰐は、限を金属製の椀のようにかっと見開き、口を大きく開け、歯ほまるで剣のようである。近づいて来て宗平を喰うと見る間に、宗平は持っている鹿の脚を鰐の口につっこむやいなや、鰐の頭のエラに手乎をさし入れ、ぐっとうつむいたかと思うと、相撲の投げを打つように、掛け声もろとも陸の方に投げあげた。鰐が一丈ばかり陸に投げあげられてばたばたもがくところを、陸に立つて見ていた射手どもが失を射立てたので、鰐は鹿の脚を喰わえたまま射殺された。
その後、射手どもが集まって、宗平に、
「どうして喰われずにすんだのだ」
と尋ねたところ、宗平は答えて、
「鰐は、物を喰う折りには、その場では喰わずに持って行って、必ず自分の巣に置いてから、引き返してその残りを喰いに来るものだ。それを知っていたので、はじめに喰いに来た時は、鹿をさし出して、鹿の頭と首を喰い切らせて返した。その次に来た時は、前足と腹の骨を喰わせて返した。その次に来た時には、後脚を持って喰わせている問に投げあげたのだ。この習性を知らない者は、一度に獲物を手放してみな喰わせてしまうものだから、その次には必ず自分が喰われてしまう。事情を知らない者は、なかなかこのようにはできないものだ。それにまた、力のない人は、獲物をさし出して喰わせる時に、きっと突き倒されてしまうだろう」
と言ったので、これを聞いた射手どもほ、驚嘆の言葉を惜しまなかった。
隣の国まで、このことを聞き伝えてほめそやした、と語り伝えたとのことである。
歴史的なつながりはやっぱりありますね。この話、富士市の地名に反映されています。近々紹介します。
ちなみにワニはサメのことです