警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
不可解な幼女誘拐殺人事件は、短期間に連続して発生した。
世論は警察組織の怠慢を糾弾し、連日警視庁本部庁舎にも現場にも被害者宅にも押し掛けていた。
『ビスクドール殺人事件』——。
国の中央都市で発生した幼女連続誘拐殺人事件は、いつからか其の名前で呼ばれるようになった。
ガラスケースに入れた遺体を飾る行為が、まるで博物館に並べられた人形のようであることからマスメディアで使われるようになった言葉だった。
劇場型殺人事件の容疑者は、捜査に迷走する刑事や混乱に陥る人々を嘲笑うかのように、大掛かりな舞台装置や仕掛けを利用したにも関わらず、主役の存在を掴ませない。
連日の徹夜に、ジュニョンをはじめ、ミヌ、ドンジュン、第1係の刑事達は皆疲弊し切っていた。
ドンジュンはモニターに映し出された地図を見つめた。
幼女が失踪した地点。遺体が発見された地点。地図には赤いピンが刺さっている。
「畜生」
舌打ちをした。
奴が手を振っている。
或いは、まるで天上の存在のように、小さな箱庭の中で走り回る小人達を頬杖をついて眺めている。
気分の悪い画像が目に浮かぶ。
何処に居る?
何故、誰も気付かない?
出て来い、ファン・クァンヒ。
==================
『 3 9 』
ジュニョンは其の数字を見た時に確信を持っていた。最初の事件が発生したとき、ミヌが掻き集めて来たデータから類似の事件を洗い出し、シワンと或る人物を尋ねた。
其れは、過去に或る少年を養子として引き取った家の家族であった。
対応した養父は、少年——ファン・クァンヒについてぽつぽつと語った。
少年39号。
殺人罪を犯しながらも、脳機能の障害により責任能力無しと見なされ無罪放免となっていた。
==================
警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
もう何日目かの缶詰生活の夜中になり、一度仮眠を取ると言ってミヌとドンジュンは仮眠室に移動した。
ジュニョンはまだ残ると言い、シワンも其れに合わせた。
「何もお前まで残ること無いのに」
ジュニョンは、目を赤くしても尚、山積みの資料や文献に目を通しているシワンに声をかけた。
「自分の意思で此処に居るんだ。此のくらいの無理はするよ」
「——男前過ぎるぜ」
シワンはそう言って、ジュニョンに笑いかける。二人の視線がぶつかって、目と目が一本のラインで繋がる。
「……」
シワンが先に逸らしたが、左頬あたりにジュニョンの視線を感じていた。
「——なあ」
「何」
「前に協力して貰ったとき、また一緒にやれたらいいのにって思ってた」
「……」
シワンは、黙ったままだった。顔を上げずに、ジュニョンの言葉を聞く。左耳だけで聞いているような感覚で、右半身はジュニョンから逃げるように傾けたまま硬直したようだった。
「こんなときに不謹慎だけど」
「好きだ」
冷たい海に落ちる、一筋の月の光のように、言葉が振って来た。
医学書を開いていたシワンの指先が震える。何か言葉を発しようと思っても、赤い唇も震え、ジュニョンを見つめ返すことで精一杯だった。
「ま、迷惑だろうし深夜のテンションで流してくれて良いよ。何となく言いたかっただけ」
こんな気持ちにさせる張本人は、真剣な目で言っていたかと思うと急に脱力する。
「……じゃない」
「え?」
「迷惑じゃないし、流したりしない」
「それって」
「俺もそう思ってる」
「……」
其れから、何となく言葉を交わすことが無意味に思えて、お互い一言も話さないままだった。
ジュニョンが立ち上がり、シワンの側に移動する。シワンは余計に体を硬直させ、近付いて来るジュニョンを見上げた。二人の距離が縮まると、ジュニョンはシワンが持ったままでいた医学書を取り上げて机に置き、本を持っていた指先に自分の指を絡めた。
逃がさないように、指と、目線で捕まえる。
標的は、鳩の血の色のように煌めいて見えた。
キス。
ジュニョンが身を屈め、座ったままのシワンに覆い被さるようにキスをした。
始めは、浅く。
ぎこちなく固まったままのシワンの唇を解いて行くように、舌先で舐めて、もう少し先に進められるように、受け入れることを促す。
浅く開いた唇に気付くと、ジュニョンは指先に力を込め指と指の間に絡ませた指で、何度か細い脈を辿るように手の甲をさする。同時に、唇を強く押し付けて、覗かせた舌をシワンの舌に絡ませた。
甘く、激しく。
誰が飛び込んで来るかもわからない執務室で、二つの影は一つに重なった。
不可解な幼女誘拐殺人事件は、短期間に連続して発生した。
世論は警察組織の怠慢を糾弾し、連日警視庁本部庁舎にも現場にも被害者宅にも押し掛けていた。
『ビスクドール殺人事件』——。
国の中央都市で発生した幼女連続誘拐殺人事件は、いつからか其の名前で呼ばれるようになった。
ガラスケースに入れた遺体を飾る行為が、まるで博物館に並べられた人形のようであることからマスメディアで使われるようになった言葉だった。
劇場型殺人事件の容疑者は、捜査に迷走する刑事や混乱に陥る人々を嘲笑うかのように、大掛かりな舞台装置や仕掛けを利用したにも関わらず、主役の存在を掴ませない。
連日の徹夜に、ジュニョンをはじめ、ミヌ、ドンジュン、第1係の刑事達は皆疲弊し切っていた。
ドンジュンはモニターに映し出された地図を見つめた。
幼女が失踪した地点。遺体が発見された地点。地図には赤いピンが刺さっている。
「畜生」
舌打ちをした。
奴が手を振っている。
或いは、まるで天上の存在のように、小さな箱庭の中で走り回る小人達を頬杖をついて眺めている。
気分の悪い画像が目に浮かぶ。
何処に居る?
何故、誰も気付かない?
出て来い、ファン・クァンヒ。
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『 3 9 』
ジュニョンは其の数字を見た時に確信を持っていた。最初の事件が発生したとき、ミヌが掻き集めて来たデータから類似の事件を洗い出し、シワンと或る人物を尋ねた。
其れは、過去に或る少年を養子として引き取った家の家族であった。
対応した養父は、少年——ファン・クァンヒについてぽつぽつと語った。
少年39号。
殺人罪を犯しながらも、脳機能の障害により責任能力無しと見なされ無罪放免となっていた。
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警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
もう何日目かの缶詰生活の夜中になり、一度仮眠を取ると言ってミヌとドンジュンは仮眠室に移動した。
ジュニョンはまだ残ると言い、シワンも其れに合わせた。
「何もお前まで残ること無いのに」
ジュニョンは、目を赤くしても尚、山積みの資料や文献に目を通しているシワンに声をかけた。
「自分の意思で此処に居るんだ。此のくらいの無理はするよ」
「——男前過ぎるぜ」
シワンはそう言って、ジュニョンに笑いかける。二人の視線がぶつかって、目と目が一本のラインで繋がる。
「……」
シワンが先に逸らしたが、左頬あたりにジュニョンの視線を感じていた。
「——なあ」
「何」
「前に協力して貰ったとき、また一緒にやれたらいいのにって思ってた」
「……」
シワンは、黙ったままだった。顔を上げずに、ジュニョンの言葉を聞く。左耳だけで聞いているような感覚で、右半身はジュニョンから逃げるように傾けたまま硬直したようだった。
「こんなときに不謹慎だけど」
「好きだ」
冷たい海に落ちる、一筋の月の光のように、言葉が振って来た。
医学書を開いていたシワンの指先が震える。何か言葉を発しようと思っても、赤い唇も震え、ジュニョンを見つめ返すことで精一杯だった。
「ま、迷惑だろうし深夜のテンションで流してくれて良いよ。何となく言いたかっただけ」
こんな気持ちにさせる張本人は、真剣な目で言っていたかと思うと急に脱力する。
「……じゃない」
「え?」
「迷惑じゃないし、流したりしない」
「それって」
「俺もそう思ってる」
「……」
其れから、何となく言葉を交わすことが無意味に思えて、お互い一言も話さないままだった。
ジュニョンが立ち上がり、シワンの側に移動する。シワンは余計に体を硬直させ、近付いて来るジュニョンを見上げた。二人の距離が縮まると、ジュニョンはシワンが持ったままでいた医学書を取り上げて机に置き、本を持っていた指先に自分の指を絡めた。
逃がさないように、指と、目線で捕まえる。
標的は、鳩の血の色のように煌めいて見えた。
キス。
ジュニョンが身を屈め、座ったままのシワンに覆い被さるようにキスをした。
始めは、浅く。
ぎこちなく固まったままのシワンの唇を解いて行くように、舌先で舐めて、もう少し先に進められるように、受け入れることを促す。
浅く開いた唇に気付くと、ジュニョンは指先に力を込め指と指の間に絡ませた指で、何度か細い脈を辿るように手の甲をさする。同時に、唇を強く押し付けて、覗かせた舌をシワンの舌に絡ませた。
甘く、激しく。
誰が飛び込んで来るかもわからない執務室で、二つの影は一つに重なった。
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「お人好し」
足を一歩踏み入れれば積み上げられた本の塔が崩れるような部屋の中、恐る恐る辿り着いたデスクに向かった相手はそうシワンに言い放った。
「第一此の前言ってた容疑者の対応は何処行ったんだよ」
相手はコーヒーメーカーから入れたコーヒーを差し出し、教授用の椅子に腰掛けた。
医学部キャンパス医学部医学研究科G棟4階教授室409号室
シワンの目の前に座った青年——チョン・ヒチョル教授は溜め息をつき、やや呆れ顔で言った。
学生の頃から一緒で偶然にも同じ道を歩んだ親友はどうも人に流され易く、お人好しで頼まれれば断れないタイプだと、ヒチョルは思っていた。案の定、今回もまた厄介な事件に協力を依頼されているらしい。
そう言うとき、息抜きだと勝手に人の教授部屋に上がり込んで来ては、こうしてコーヒーが出てくる迄大人しく待機し、呑気にそれをすすっている。ヒチョルの教授室は物置兼シェルターと化していた。
「ヒョンシクに任せて来た」
「あいつの方が有能だったりして」
よくキャンパスで一緒に居る、大型犬のような助手の顔を思い出し、からかうようにヒチョルが言った。其れを聞いてシワンはきっと睨む。素直な、それこそ子供のような反応に、ヒチョルは顔を破顔させて笑った。
「嘘。ごめん」
「……あいつが有能なのは確かなんだけどね」
シワンはそう言って目を少し伏せ、医学書の塔の方へ視線を向ける。昼下がりのキャンパスの中で、講義を終えたらしい学生同士が騒ぐ声が窓の外から聞こえて来る。
「で、何?」
ヒチョルは、今日の来訪の目的を話すよう促した。シワンは顔の向き先をヒチョルに戻す。
「チョン・ヒチョル教授」
「?」
「権威だと見込んで相談——MRIとかPETの画像の上では問題がなくても、脳機能に障害があることなんて、有り得るのか?」
==================
一日前
シワンが、苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「例の事件に正式に協力要請があった。その、あっちの、鑑定を引き受けて欲しい」
何とも歯切れの悪い口調だった。
——やっぱり、可愛いや。
ヒョンシクは其の俯きがちな表情をちらりと窺い、表情には出さず、口の中だけで笑う。
「了解です」
ヒョンシクが答えると、シワンは安堵の表情を浮かべた。先日のキスのことは置いておいて、まず自分が頼みたいことが受け入れられたことには安心する。不安要素が一つだけ減少したことに、忘れていた呼吸をした。
「——でも」
逆説の接続詞に、シワンは反応し顔を上げた。背の高い助手の顔を見上げる。
と、そのとき、ヒョンシクの顔が近付いて来た。
(また!)
反射的にぎゅっ、と目を瞑ると、ヒョンシクのうなじが見えた。シワンの顔のすぐ横にヒョンシクの顔がある。耳にふ、と息を吹きかけられて背筋がぞくりとする。
「俺の好きな食べ物知ってますよね?」
ヒョンシクが、耳許で囁く。
「え……えーと」
どぎまぎする。
「肉です」
ふ、と顔が離れる。
「高級ステーキの分厚いやつ!御願いしますね」
そう言ってヒョンシクは体を離し、教授室を出て行ってしまった。
——びっくりした。
シワンはヒョンシクの出て行ったドアを呆然と見つめた。
ヒョンシクは予想外に自分に責任ある仕事を任されたことと、新しい玩具を見付けたこと、二重の喜びを見出しながら、廊下を歩いて行った。
==================
医療刑務所
「やばい!遅刻!」
幾ら鑑定士のような有資格者は面会時間の制限は無いとは言え、面会の初日から立ち会いの係官やら何やらに『時間も守れないような鑑定士』という悪印象を持たれることも無いだろうとヒョンシクは必死で走っていた。
駅から歩いて行こうとしたものの道に迷ってしまい、徒歩15分の道のりが25分を過ぎようとしていた。
「あーもー、刑務所の正門と真逆ってどういうことだよ」
自分の失敗に自分で苛立ちながら、高い塀沿いにひたすらに走る。
——其のときだった。
ドンッ
出会い頭に、真っ黒な物体とぶつかった。
「!すみません!」
「……こちらこそ」
ヒョンシクは接触の衝撃で地面に落ちた自分の鞄を広いながら顔を上げた。其処には、恐らく聖職者だろう——全身黒の祭服を着た男性が居て、落ちた赤茶色の背表紙の分厚い本を取り上げているところだった。
(牧師さん?)
ガウン姿で聖書を手にしている、然程年齢の変わらなさそうな男。神は短く切り揃えられ、前髪を前に垂らしている。
刑務所の中での面会を終えて帰宅するところだろうか。
「……牧師さん、ですか?」
思わず尋ねていた。
「はい」
落ち着いた立ち居振る舞いで、牧師は穏やかな笑みを浮かべ、言った。
「此処に用が?」
牧師は塀の中を示すように目線を高いコンクリートに向け、次にヒョンシクに向けた。
「はい。面会で」
「成程」
ではこれで。
牧師は軽く会釈をすると、すっと歩いて行った。
ヒョンシクは其の後ろ姿を何となく目で追っていたが、本来自分は遅刻寸前であったことに急いで意識を戻し、最後の数十メートルを正門に向かって走った。
正門をくぐり係官と応対しているときも牧師のことは頭から離れなかった。
——素っ気なかったな。ああ、でも刑務所から出入りする人同士なんて、本来言葉は交わさないのかも——
「パクさん、こっち、お願いします」
係員に呼ばれ、ヒョンシクは容疑者のもとを尋ねた。
足を一歩踏み入れれば積み上げられた本の塔が崩れるような部屋の中、恐る恐る辿り着いたデスクに向かった相手はそうシワンに言い放った。
「第一此の前言ってた容疑者の対応は何処行ったんだよ」
相手はコーヒーメーカーから入れたコーヒーを差し出し、教授用の椅子に腰掛けた。
医学部キャンパス医学部医学研究科G棟4階教授室409号室
シワンの目の前に座った青年——チョン・ヒチョル教授は溜め息をつき、やや呆れ顔で言った。
学生の頃から一緒で偶然にも同じ道を歩んだ親友はどうも人に流され易く、お人好しで頼まれれば断れないタイプだと、ヒチョルは思っていた。案の定、今回もまた厄介な事件に協力を依頼されているらしい。
そう言うとき、息抜きだと勝手に人の教授部屋に上がり込んで来ては、こうしてコーヒーが出てくる迄大人しく待機し、呑気にそれをすすっている。ヒチョルの教授室は物置兼シェルターと化していた。
「ヒョンシクに任せて来た」
「あいつの方が有能だったりして」
よくキャンパスで一緒に居る、大型犬のような助手の顔を思い出し、からかうようにヒチョルが言った。其れを聞いてシワンはきっと睨む。素直な、それこそ子供のような反応に、ヒチョルは顔を破顔させて笑った。
「嘘。ごめん」
「……あいつが有能なのは確かなんだけどね」
シワンはそう言って目を少し伏せ、医学書の塔の方へ視線を向ける。昼下がりのキャンパスの中で、講義を終えたらしい学生同士が騒ぐ声が窓の外から聞こえて来る。
「で、何?」
ヒチョルは、今日の来訪の目的を話すよう促した。シワンは顔の向き先をヒチョルに戻す。
「チョン・ヒチョル教授」
「?」
「権威だと見込んで相談——MRIとかPETの画像の上では問題がなくても、脳機能に障害があることなんて、有り得るのか?」
==================
一日前
シワンが、苦虫を噛み潰したような表情で言った。
「例の事件に正式に協力要請があった。その、あっちの、鑑定を引き受けて欲しい」
何とも歯切れの悪い口調だった。
——やっぱり、可愛いや。
ヒョンシクは其の俯きがちな表情をちらりと窺い、表情には出さず、口の中だけで笑う。
「了解です」
ヒョンシクが答えると、シワンは安堵の表情を浮かべた。先日のキスのことは置いておいて、まず自分が頼みたいことが受け入れられたことには安心する。不安要素が一つだけ減少したことに、忘れていた呼吸をした。
「——でも」
逆説の接続詞に、シワンは反応し顔を上げた。背の高い助手の顔を見上げる。
と、そのとき、ヒョンシクの顔が近付いて来た。
(また!)
反射的にぎゅっ、と目を瞑ると、ヒョンシクのうなじが見えた。シワンの顔のすぐ横にヒョンシクの顔がある。耳にふ、と息を吹きかけられて背筋がぞくりとする。
「俺の好きな食べ物知ってますよね?」
ヒョンシクが、耳許で囁く。
「え……えーと」
どぎまぎする。
「肉です」
ふ、と顔が離れる。
「高級ステーキの分厚いやつ!御願いしますね」
そう言ってヒョンシクは体を離し、教授室を出て行ってしまった。
——びっくりした。
シワンはヒョンシクの出て行ったドアを呆然と見つめた。
ヒョンシクは予想外に自分に責任ある仕事を任されたことと、新しい玩具を見付けたこと、二重の喜びを見出しながら、廊下を歩いて行った。
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医療刑務所
「やばい!遅刻!」
幾ら鑑定士のような有資格者は面会時間の制限は無いとは言え、面会の初日から立ち会いの係官やら何やらに『時間も守れないような鑑定士』という悪印象を持たれることも無いだろうとヒョンシクは必死で走っていた。
駅から歩いて行こうとしたものの道に迷ってしまい、徒歩15分の道のりが25分を過ぎようとしていた。
「あーもー、刑務所の正門と真逆ってどういうことだよ」
自分の失敗に自分で苛立ちながら、高い塀沿いにひたすらに走る。
——其のときだった。
ドンッ
出会い頭に、真っ黒な物体とぶつかった。
「!すみません!」
「……こちらこそ」
ヒョンシクは接触の衝撃で地面に落ちた自分の鞄を広いながら顔を上げた。其処には、恐らく聖職者だろう——全身黒の祭服を着た男性が居て、落ちた赤茶色の背表紙の分厚い本を取り上げているところだった。
(牧師さん?)
ガウン姿で聖書を手にしている、然程年齢の変わらなさそうな男。神は短く切り揃えられ、前髪を前に垂らしている。
刑務所の中での面会を終えて帰宅するところだろうか。
「……牧師さん、ですか?」
思わず尋ねていた。
「はい」
落ち着いた立ち居振る舞いで、牧師は穏やかな笑みを浮かべ、言った。
「此処に用が?」
牧師は塀の中を示すように目線を高いコンクリートに向け、次にヒョンシクに向けた。
「はい。面会で」
「成程」
ではこれで。
牧師は軽く会釈をすると、すっと歩いて行った。
ヒョンシクは其の後ろ姿を何となく目で追っていたが、本来自分は遅刻寸前であったことに急いで意識を戻し、最後の数十メートルを正門に向かって走った。
正門をくぐり係官と応対しているときも牧師のことは頭から離れなかった。
——素っ気なかったな。ああ、でも刑務所から出入りする人同士なんて、本来言葉は交わさないのかも——
「パクさん、こっち、お願いします」
係員に呼ばれ、ヒョンシクは容疑者のもとを尋ねた。
警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
時刻は夜22時を回っていた。
「結果出たよ」
執務室の扉が開き、白衣を着た男が入って来た。キム・テホン検視官だった。
「流石、仕事が早いな」
ジュニョンは入って来たテホンが差し出したクリアファイルを受け取り、中に挟まれていた資料をめくった。
「やっぱり」
検視結果を見たジュニョンは、確信を持った声で一言発した。少し離れた場所に座っていたミヌも立ち上がり、二人の間に近付いて、ジュニョンの手元のファイルを覗き込む。
結果は——
「幼児性愛、死体性愛、どっちも傾向無し。体液は検出されてない。ジュニョンの勘が当たったって訳だ」
テホンは資料をジュニョンの手から受け取り、一枚一枚机に並べた。科学的見地に基づいたデータが散らばっている。
「ミヌ、此の状況で、お前ならどう仮説を立てる?」
ジュニョンがミヌに尋ねる。
「……」
ミヌは一瞬口ごもり、ジュニョンの横顔を見つめた。
沈黙。
幼女を誘拐し、窒息死させ、死体をバラバラに解体し、化粧を施し、再度組み立てて飾るようにケースに入れる。
此処までの行為を殺害後すぐに実行出来る人物且つ、組み立てたケースをわざと人目につく場所——今回の事件では公園だった——に移動させ、発見させることの出来る人物——
「——子供……」
「は?」
ジュニョンとテホンが揃って眉をしかめ、ミヌの呟いた唇を見た。
「子供です」
ミヌはやや興奮した様子で、ジュニョンに向き直った。
「お前、本気か?」
ジュニョンは首をひねり、後輩である刑事の真剣な目と視線を交差させた。
「少なくとも、精神状態は子供のままである人間の可能性が高いです。幼女を狙ったのも、無抵抗な女児だから、という理由ではなくて、犯人の精神状態に近い『遊び相手』に『暴力』を振った結果かと」
「其れだと遺体に施されたエンバーミング技法について説明出来ない」
ミヌの仮説に、テホンが口を挟んだ。
仮に子供である精神状態の人間であるとしても、消毒や保存処理について高度な知識を持つ人間でなければ実現は不可能な犯行である。また、化粧や女児用のドレス、何よりも解体から保存、そして其の移動までをこなすことへの説明がつかない。
「複数犯なら可能です」
ミヌは断言した。
其の夜、ミヌは一人分析室に残り、犯罪統計と犯行形態をひたすら分析し続けた。
「ああなると聞かないんだ」
ジュニョンはそう言って笑って、持っていた缶コーヒーを喉に流し込んだ。
時計は頂点を回り、深夜に突入したことを示していた。何となくで二人も彼を見守るように、そして肝心の事件の真相を掴むように残業をしている。今は其の休憩時間だった。
自動販売機のあるスペースで、壁際の長椅子に腰掛け、他愛の無い会話を交わす。
「認められたいんだよ」
テホンがくすくすと笑い、ジュニョンの顔を見た、が、其の相手の顔があまりにもぽかんとしていたので、逆に驚いてしまう。
「ミヌが?」
なんて言ったので、ますます内心驚くが、其れを隠すようにテホンは缶コーヒーを飲み干した。
「あいつが仕事を頑張ってることくらい、ちゃんと分かってるのに」
そう言って、ジュニョンは自分の与える彼への高い評価の何処に不満があり、更にどう不満を解消する為の評価をすれば良いのか、と考え込んだ。
——ミヌも面倒な上司を持ったなあ。
テホンは可笑しくて笑ってしまう。
「言ってあげたことあるの?」
「は?何を?」
ジュニョンはふとテホンの顔を見つめた。
「頑張ったねって」
「?」
「頑張れはよく言うじゃん。頑張ってね、とか頑張れよ、とか。でも頑張ったね、って言われることは少ないから」
だから、ミヌにも言ってあげると良いと思う。
テホンはそう言ってみた。何となく、検視官としても少しずつリーダーとなることが増えて来ただけに、同僚や後輩そして先輩の扱い方が分かって来て感じていたことだった。
「頑張ったね、ね」
ジュニョンは缶の飲み口に口をつけ、その縁を歯と歯で挟むようにして缶を銜える。そして歯から離して手で持った。
「今度言ってみる」
==================
翌朝、会社に寝泊まりしたままのミヌは、朝になって出社してきた後輩の刑事を連れて朝から犯行現場に直行した。
「うわ!人使い荒いよ先輩!」
「早く!」
一度帰宅したジュニョンも出社し、金髪のふわふわした頭と、黒髪のワックスで固められた頭が並んで出て行くのを見た。
「行ってきます」
ミヌが、やや遅く出社してきたジュニョンに頭を下げ、足早に走り去って行く。
「行ってらっしゃい」
遠ざかる二つの背中に、声をかける。
==================
深夜、シワンの携帯電話が鳴った。
——鼓動が、早くなる。
==================
高速道路
「急に呼び出して悪いな」
警察車両には相応しくないほどのエンジン音が響く車の中で、ジュニョンは昨夜真夜中に電話を掛けた無礼を詫びた。
「別に」
助手席に座った相手が、窓の外の流れる景色を見ている。平日昼間の高速道路の下り線は、通る車も少なく、二人の乗るGT-Rは快調にスピードを上げていた。
「焼肉屋で会ったのが俺の運の尽きだよ」
やや不貞腐れた顔で窓の外の景色を眺めている姿に、ジュニョンは苦笑する。
「でも来てくれた」
「……」
窓の外を眺めていたシワンが、ふと顔を左側に向けた。余所見運転も甚だしい視線と、視線がぶつかった。
「ありがとう」
目を細めて言われると、何だかよく分からない気持ちになる。
——『教授は、あの人のこと、好きなんですか?』
助手から言われた一言を思い出し、同時に其の助手にされたキスのことを思い出してしまった。ヒョンシクとはタクシーに押し込まれた以降会っていないし連絡も取っていない。
「別に……」
口癖のように、別に、と言ってしまう。
ジュニョンからの電話は捜査への協力依頼だった。彼は捜査の為或る人物に一緒に会って欲しいと言い、シワンを呼び出したのだった。
深夜にかかってきた電話に、携帯電話を持つ手が少しだけ震えた。けれども、「捜査の話なんだけど……」とジュニョンが言い出した時点で、其の震えは瞬時におさまった。
――『教授は、あの人のこと、好きなんですか?』
俺でも分からないのに、何で他人のお前が分かるんだ。
シワンはちらりとジュニョンの横顔を見る。少し笑っているように口角の上がった口元を見ていると、何だか胸がざわついた。
二人の乗ったGT-Rは晴れた高速道路を疾走していく。
誰も追い付けないスピードで。
山を抜け、何も無い平野を抜け、辿り着く先を目指す。
==================
平屋建ての民家の前で、ジュニョンとシワンは車を下りた。
==================
警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
「どうだった?」
先に庁舎に戻って来ていたジュニョンは、執務室に入って来た二人に声をかけた。まるで犬と猫のようなコンビだな、と思う。もしくは犬と猿か。仲の良いのか悪いのか微妙な組み合わせだな、とジュニョンはいつも思う。
「だめ。収穫ゼロ」
黒髪の刑事が先に口を開き、執務室に入るなり、椅子を三つ並べ其の上に寝そべった。其の真ん中に置かれた椅子を蹴り、まるで落とすかのようにミヌが入って来る。
「マジで?」
ジュニョンが問う。
「マジです」
ミヌも部屋の隅に置かれていたソファに倒れ込んだ。
「あ、違うか」
黒髪の刑事が、ぴょこんと飛び上がった。寝そべっていた椅子の簡易ベッドからバランスを崩すことなく立ち上がる。
「これ。犯人からのメッセージ」
そう言って背の低い方の黒髪の刑事——キム・ドンジュンが小さく折り畳んだ紙切れをジュニョンに投げ渡した。
執務室内を舞った紙切れを、両手で掴み辺を開いて行く。
『 3 9 』
「?」
時刻は夜22時を回っていた。
「結果出たよ」
執務室の扉が開き、白衣を着た男が入って来た。キム・テホン検視官だった。
「流石、仕事が早いな」
ジュニョンは入って来たテホンが差し出したクリアファイルを受け取り、中に挟まれていた資料をめくった。
「やっぱり」
検視結果を見たジュニョンは、確信を持った声で一言発した。少し離れた場所に座っていたミヌも立ち上がり、二人の間に近付いて、ジュニョンの手元のファイルを覗き込む。
結果は——
「幼児性愛、死体性愛、どっちも傾向無し。体液は検出されてない。ジュニョンの勘が当たったって訳だ」
テホンは資料をジュニョンの手から受け取り、一枚一枚机に並べた。科学的見地に基づいたデータが散らばっている。
「ミヌ、此の状況で、お前ならどう仮説を立てる?」
ジュニョンがミヌに尋ねる。
「……」
ミヌは一瞬口ごもり、ジュニョンの横顔を見つめた。
沈黙。
幼女を誘拐し、窒息死させ、死体をバラバラに解体し、化粧を施し、再度組み立てて飾るようにケースに入れる。
此処までの行為を殺害後すぐに実行出来る人物且つ、組み立てたケースをわざと人目につく場所——今回の事件では公園だった——に移動させ、発見させることの出来る人物——
「——子供……」
「は?」
ジュニョンとテホンが揃って眉をしかめ、ミヌの呟いた唇を見た。
「子供です」
ミヌはやや興奮した様子で、ジュニョンに向き直った。
「お前、本気か?」
ジュニョンは首をひねり、後輩である刑事の真剣な目と視線を交差させた。
「少なくとも、精神状態は子供のままである人間の可能性が高いです。幼女を狙ったのも、無抵抗な女児だから、という理由ではなくて、犯人の精神状態に近い『遊び相手』に『暴力』を振った結果かと」
「其れだと遺体に施されたエンバーミング技法について説明出来ない」
ミヌの仮説に、テホンが口を挟んだ。
仮に子供である精神状態の人間であるとしても、消毒や保存処理について高度な知識を持つ人間でなければ実現は不可能な犯行である。また、化粧や女児用のドレス、何よりも解体から保存、そして其の移動までをこなすことへの説明がつかない。
「複数犯なら可能です」
ミヌは断言した。
其の夜、ミヌは一人分析室に残り、犯罪統計と犯行形態をひたすら分析し続けた。
「ああなると聞かないんだ」
ジュニョンはそう言って笑って、持っていた缶コーヒーを喉に流し込んだ。
時計は頂点を回り、深夜に突入したことを示していた。何となくで二人も彼を見守るように、そして肝心の事件の真相を掴むように残業をしている。今は其の休憩時間だった。
自動販売機のあるスペースで、壁際の長椅子に腰掛け、他愛の無い会話を交わす。
「認められたいんだよ」
テホンがくすくすと笑い、ジュニョンの顔を見た、が、其の相手の顔があまりにもぽかんとしていたので、逆に驚いてしまう。
「ミヌが?」
なんて言ったので、ますます内心驚くが、其れを隠すようにテホンは缶コーヒーを飲み干した。
「あいつが仕事を頑張ってることくらい、ちゃんと分かってるのに」
そう言って、ジュニョンは自分の与える彼への高い評価の何処に不満があり、更にどう不満を解消する為の評価をすれば良いのか、と考え込んだ。
——ミヌも面倒な上司を持ったなあ。
テホンは可笑しくて笑ってしまう。
「言ってあげたことあるの?」
「は?何を?」
ジュニョンはふとテホンの顔を見つめた。
「頑張ったねって」
「?」
「頑張れはよく言うじゃん。頑張ってね、とか頑張れよ、とか。でも頑張ったね、って言われることは少ないから」
だから、ミヌにも言ってあげると良いと思う。
テホンはそう言ってみた。何となく、検視官としても少しずつリーダーとなることが増えて来ただけに、同僚や後輩そして先輩の扱い方が分かって来て感じていたことだった。
「頑張ったね、ね」
ジュニョンは缶の飲み口に口をつけ、その縁を歯と歯で挟むようにして缶を銜える。そして歯から離して手で持った。
「今度言ってみる」
==================
翌朝、会社に寝泊まりしたままのミヌは、朝になって出社してきた後輩の刑事を連れて朝から犯行現場に直行した。
「うわ!人使い荒いよ先輩!」
「早く!」
一度帰宅したジュニョンも出社し、金髪のふわふわした頭と、黒髪のワックスで固められた頭が並んで出て行くのを見た。
「行ってきます」
ミヌが、やや遅く出社してきたジュニョンに頭を下げ、足早に走り去って行く。
「行ってらっしゃい」
遠ざかる二つの背中に、声をかける。
==================
深夜、シワンの携帯電話が鳴った。
——鼓動が、早くなる。
==================
高速道路
「急に呼び出して悪いな」
警察車両には相応しくないほどのエンジン音が響く車の中で、ジュニョンは昨夜真夜中に電話を掛けた無礼を詫びた。
「別に」
助手席に座った相手が、窓の外の流れる景色を見ている。平日昼間の高速道路の下り線は、通る車も少なく、二人の乗るGT-Rは快調にスピードを上げていた。
「焼肉屋で会ったのが俺の運の尽きだよ」
やや不貞腐れた顔で窓の外の景色を眺めている姿に、ジュニョンは苦笑する。
「でも来てくれた」
「……」
窓の外を眺めていたシワンが、ふと顔を左側に向けた。余所見運転も甚だしい視線と、視線がぶつかった。
「ありがとう」
目を細めて言われると、何だかよく分からない気持ちになる。
——『教授は、あの人のこと、好きなんですか?』
助手から言われた一言を思い出し、同時に其の助手にされたキスのことを思い出してしまった。ヒョンシクとはタクシーに押し込まれた以降会っていないし連絡も取っていない。
「別に……」
口癖のように、別に、と言ってしまう。
ジュニョンからの電話は捜査への協力依頼だった。彼は捜査の為或る人物に一緒に会って欲しいと言い、シワンを呼び出したのだった。
深夜にかかってきた電話に、携帯電話を持つ手が少しだけ震えた。けれども、「捜査の話なんだけど……」とジュニョンが言い出した時点で、其の震えは瞬時におさまった。
――『教授は、あの人のこと、好きなんですか?』
俺でも分からないのに、何で他人のお前が分かるんだ。
シワンはちらりとジュニョンの横顔を見る。少し笑っているように口角の上がった口元を見ていると、何だか胸がざわついた。
二人の乗ったGT-Rは晴れた高速道路を疾走していく。
誰も追い付けないスピードで。
山を抜け、何も無い平野を抜け、辿り着く先を目指す。
==================
平屋建ての民家の前で、ジュニョンとシワンは車を下りた。
==================
警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
「どうだった?」
先に庁舎に戻って来ていたジュニョンは、執務室に入って来た二人に声をかけた。まるで犬と猫のようなコンビだな、と思う。もしくは犬と猿か。仲の良いのか悪いのか微妙な組み合わせだな、とジュニョンはいつも思う。
「だめ。収穫ゼロ」
黒髪の刑事が先に口を開き、執務室に入るなり、椅子を三つ並べ其の上に寝そべった。其の真ん中に置かれた椅子を蹴り、まるで落とすかのようにミヌが入って来る。
「マジで?」
ジュニョンが問う。
「マジです」
ミヌも部屋の隅に置かれていたソファに倒れ込んだ。
「あ、違うか」
黒髪の刑事が、ぴょこんと飛び上がった。寝そべっていた椅子の簡易ベッドからバランスを崩すことなく立ち上がる。
「これ。犯人からのメッセージ」
そう言って背の低い方の黒髪の刑事——キム・ドンジュンが小さく折り畳んだ紙切れをジュニョンに投げ渡した。
執務室内を舞った紙切れを、両手で掴み辺を開いて行く。
『 3 9 』
「?」
シワンは絶句した。
「お前、あんなもの見てよく肉食えるな」
あまり食欲は無かったものの、助手が腹が減ったと騒ぎ出したので仕方無く「俺はどうせあまり食べないから何処でも良い」と言ったが、まさか焼肉屋で生の肉を注文するとは思わなかった。
「む」
鉄板に肉を一枚また一枚と並べながら、片手でスープを飲んでいた助手が頬を膨らませながら反応する。
「腹減りましたもん。やっぱりこういうときは肉ですよ肉」
シワンは皿に乗せられた赤い豚肉を見つめた。既に大皿の半分ほどが、目の前の部下の胃袋と鉄板に吸い込まれていったようだ。
正直なところ、肝の据わっていない男だろうと思っていたが、意外と根性もあり、頭の切り替えが早い。もしくは、本当に食欲という欲望に忠実なだけかもしれない――其処迄考えて、シワンは自分の目の前の相手に対する「鑑定」が少し狂っていたことに舌打ちした。
「食べます?」
ごめんなさい、気付かなくて。
目の前の助手は箸で挟んだ肉を一切れ、シワンの側に置かれた白米の上に置いた。
肉。
シワンと此の大食いの助手――ヒョンシク――は朝から午後3時まで、病院の中で精神鑑定をしていた。
被害者である臨月の妊婦の惨殺死体を見、不自然に腹を切り裂こうとしていたことからどうやら「子供」を探し、死体を破壊した人間の仕業だという見解を報告書に記入した。写真のみであったものの、おびただしい量の人間の血と肉を見た。
精神科教授として何件かの鑑定を行ってきたシワンでも、今回は稀に見る凄惨な現場であった。無理矢理取り出された嬰児は外気に触れたあと数時間生存し、絶命したらしい。其の写真も見た。
同じ写真を覗き込んでいる時、一度ちらりとヒョンシクの顔を見た。彼は真剣な眼差しで対象と接し、犯行の意図を解読しようという強い意志を持ち、対峙していた。
思ったよりも泥臭く、血生臭い仕事に根を上げる者も多い。つい先日別の助手が居なくなってしまったことから、今回精神鑑定の経験が無い教え子を連れて来たが、予想外の適役であったことにシワンは気付いた。寧ろ、死体を一つの対象ではなく、「殺されてしまった人」として最初から見てしまった自分の方が分が悪かった、と思う。
テーブルを隔てた向こうで、其の助手――ヒョンシクは店の女性店員をつかまえ「あとカルビとハラミ一つずつ追加」と言って笑顔を振りまいている。
色んな意味で大物、か――?
朝から気分が悪かった。
訪れた病院では背の高さの違いの所為か教授である自分の方が若く見られ、対面した弁護士の秘書などは最初にヒョンシクの方へ「イム先生、本日は宜しくお願いします」などと手を出していた。依頼相手の顔を間違えるなんて……と思ったが、身長差も貫禄も、余程ヒョンシクの方があるように映るのだろう。他人からは。
ちらちらと目で様子を窺っていると、ヒョンシクの黒目がちの目とシワンの目が合った。
「肉冷めちゃいますよ?」
箸を止めずにヒョンシクが食べながら喋る。促されて、目を逸らして細い指先で箸を持ち上げ、何とか一切れの豚肉の赤みを口に運んだ。肉の味が口に広がる。何処にでもあるような、庶民的な焼肉屋だったが、果たして口の中の肉が美味いのか不味いのか、判断はつかなかった。
店員が追加の肉を持って来た。
「シワン!」
「?」
名前を呼ばれた気がして――少しこもった声だった――振り返ると、数メートル離れた店の入口に見覚えのある顔を見付けた。
「ジュニョン!久しぶりだな」
ジュニョン、と名前を呼ばれた男はシワンとヒョンシクが座っていたテーブルに、もう一人を連れて近付いて来た。
「こっちの台詞だよ。人気鑑定士だって、ひっぱりだこなんだろう?此の間はテレビで見た。会うよりも、テレビで見る方が多いくらいだ。飲みにも誘えないな」
ジュニョンは勝手にシワンの隣の席でしまわれていた椅子を引いて腰掛ける。そして、連れの相手に顎をしゃくり、自分の目の前――つまり、ヒョンシクの隣に座るように促した。
「お前から連絡が来たことなんて、一度も無いぞ。あ、ミヌも久しぶり」
ほんの少しだけ声のトーンを変えて答えつつ、シワンは立ち上がって、立ったままでいた金髪の青年に声をかけた。相変わらず華奢で、少し離れた場所から見れば女性かと見紛う容姿だと思う。けれどもジュニョンと共に刑事を勤めるだけあって、見えないところにはしなやかな筋肉が付いているのだと、シャツの上からでも分かる鍛えられた体に少し嫉妬する。
「そちらは?」
ジュニョンはちら、と斜め前に座り、熱心に炭火の上の肉を眺めている青年に目をやった。
「ヒョンシク!」
シワンが抑えながらも少しきつい口調で名前を呼んだ。悪戯をして怒られた子供のように、青年は慌てて肉の乗った網から顔を離し、箸を置いて立ち上がった。
「パク・ヒョンシクです。教授の助手やってます、えっと……」
ぎこちなく、落ち着きの無い自己紹介に、ジュニョンとミヌは笑い、シワンは自分の右隣にあった壁に向かって溜め息をついた。
「こっちがジュニョン警部。彼はミヌ警部補。一緒に仕事をすることもあるかもしれないから、挨拶」
シワンは先にヒョンシクに向かって彼らを紹介した。
「ムン・ジュニョンだ。一応係長ってことになってる」
「ハ・ミヌです。此の人の女房役なんて呼ばれてます。よろしく」
二人と笑顔で握手をし、また席に着く。箸を手にヒョンシクは肉を取っては並べて行く。ミヌが店員を呼び付け飲み物と小皿を注文した。
==================
「バラバラ殺人!」
ヒョンシクが大声を出したので、他の三人が口元に手を当て、黙れ、と言うポーズをした。
狭く、人の少なくなった店内では、店員も他の客も、聞き耳を立てているのが分かる。肉の焼ける音も小さくなっていた分、声は異様に響いた。
「まずは検挙からだけどな」
ジュニョンが鉄板からハラミを一枚引き上げながら呟いた。
「目星は?」
シワンが尋ねる。
「あったら今此処に居ない」
ジュニョンが素っ気なく答えて肉を噛み切った。
「犯人が男か女かくらいは分かるんじゃないですか?」
ヒョンシクが隣に座ったミヌに話し掛けた。ミヌも淡々と肉を引き上げては口に入れ、時折カクテキを摘んでいた。
「予想では十中八九男……あくまで予想だけど」
ミヌはほぼ確信している性別について、其れでも予想という言葉を使った。
「何か、飯の不味くなるネタだなあ。そっちはどうなんだ?」
ジュニョンが話題をシワンとヒョンシクに振る。
「こっちも飯の不味くなるネタしかないよ」
シワンが答えた。
其れから幾つかの他愛の無い話をして、それぞれの現場に戻って行った。
==================
帰り道、呼び出したタクシーを待っている間、シワンは道路を見回してきょろきょろする。
あの二人が乗って走り去った、ジュニョンが運転するGT-Rを未だ追い掛けているようだった。其の姿を、ヒョンシクは数十センチ離れた場所から見つめていた。
「教授」
ようやくシワンの落ち着きが戻った頃、ヒョンシクが口を開き、シワンを役職名で呼んだ。
また腹が減ったとか、おやつを買いたいなどと言うのではないだろうな、と、きいっとシワンが目線を上に上げると、すぐ隣の体が急に翻って、ヒョンシクの顔が間近にあった。
煙の匂い。
気が付くと、ヒョンシクの長い睫毛が見えた。
――え?
「教授は、あの人のこと、好きなんですか?」
シワンは、自分の口に触れたものが、ミントの味のする唇であったと気付いた。
不意打ちのキスだった。
「可愛い。教授のこと、俺も『シワン』って呼びたくなっちゃった」
そう言って、ヒョンシクは「可愛く見えましたよ」とシワンに極めつけの一言を言って、到着したタクシーにシワンだけを押し込み、自分は駅の方向へ一人歩いて行った。
「お前、あんなもの見てよく肉食えるな」
あまり食欲は無かったものの、助手が腹が減ったと騒ぎ出したので仕方無く「俺はどうせあまり食べないから何処でも良い」と言ったが、まさか焼肉屋で生の肉を注文するとは思わなかった。
「む」
鉄板に肉を一枚また一枚と並べながら、片手でスープを飲んでいた助手が頬を膨らませながら反応する。
「腹減りましたもん。やっぱりこういうときは肉ですよ肉」
シワンは皿に乗せられた赤い豚肉を見つめた。既に大皿の半分ほどが、目の前の部下の胃袋と鉄板に吸い込まれていったようだ。
正直なところ、肝の据わっていない男だろうと思っていたが、意外と根性もあり、頭の切り替えが早い。もしくは、本当に食欲という欲望に忠実なだけかもしれない――其処迄考えて、シワンは自分の目の前の相手に対する「鑑定」が少し狂っていたことに舌打ちした。
「食べます?」
ごめんなさい、気付かなくて。
目の前の助手は箸で挟んだ肉を一切れ、シワンの側に置かれた白米の上に置いた。
肉。
シワンと此の大食いの助手――ヒョンシク――は朝から午後3時まで、病院の中で精神鑑定をしていた。
被害者である臨月の妊婦の惨殺死体を見、不自然に腹を切り裂こうとしていたことからどうやら「子供」を探し、死体を破壊した人間の仕業だという見解を報告書に記入した。写真のみであったものの、おびただしい量の人間の血と肉を見た。
精神科教授として何件かの鑑定を行ってきたシワンでも、今回は稀に見る凄惨な現場であった。無理矢理取り出された嬰児は外気に触れたあと数時間生存し、絶命したらしい。其の写真も見た。
同じ写真を覗き込んでいる時、一度ちらりとヒョンシクの顔を見た。彼は真剣な眼差しで対象と接し、犯行の意図を解読しようという強い意志を持ち、対峙していた。
思ったよりも泥臭く、血生臭い仕事に根を上げる者も多い。つい先日別の助手が居なくなってしまったことから、今回精神鑑定の経験が無い教え子を連れて来たが、予想外の適役であったことにシワンは気付いた。寧ろ、死体を一つの対象ではなく、「殺されてしまった人」として最初から見てしまった自分の方が分が悪かった、と思う。
テーブルを隔てた向こうで、其の助手――ヒョンシクは店の女性店員をつかまえ「あとカルビとハラミ一つずつ追加」と言って笑顔を振りまいている。
色んな意味で大物、か――?
朝から気分が悪かった。
訪れた病院では背の高さの違いの所為か教授である自分の方が若く見られ、対面した弁護士の秘書などは最初にヒョンシクの方へ「イム先生、本日は宜しくお願いします」などと手を出していた。依頼相手の顔を間違えるなんて……と思ったが、身長差も貫禄も、余程ヒョンシクの方があるように映るのだろう。他人からは。
ちらちらと目で様子を窺っていると、ヒョンシクの黒目がちの目とシワンの目が合った。
「肉冷めちゃいますよ?」
箸を止めずにヒョンシクが食べながら喋る。促されて、目を逸らして細い指先で箸を持ち上げ、何とか一切れの豚肉の赤みを口に運んだ。肉の味が口に広がる。何処にでもあるような、庶民的な焼肉屋だったが、果たして口の中の肉が美味いのか不味いのか、判断はつかなかった。
店員が追加の肉を持って来た。
「シワン!」
「?」
名前を呼ばれた気がして――少しこもった声だった――振り返ると、数メートル離れた店の入口に見覚えのある顔を見付けた。
「ジュニョン!久しぶりだな」
ジュニョン、と名前を呼ばれた男はシワンとヒョンシクが座っていたテーブルに、もう一人を連れて近付いて来た。
「こっちの台詞だよ。人気鑑定士だって、ひっぱりだこなんだろう?此の間はテレビで見た。会うよりも、テレビで見る方が多いくらいだ。飲みにも誘えないな」
ジュニョンは勝手にシワンの隣の席でしまわれていた椅子を引いて腰掛ける。そして、連れの相手に顎をしゃくり、自分の目の前――つまり、ヒョンシクの隣に座るように促した。
「お前から連絡が来たことなんて、一度も無いぞ。あ、ミヌも久しぶり」
ほんの少しだけ声のトーンを変えて答えつつ、シワンは立ち上がって、立ったままでいた金髪の青年に声をかけた。相変わらず華奢で、少し離れた場所から見れば女性かと見紛う容姿だと思う。けれどもジュニョンと共に刑事を勤めるだけあって、見えないところにはしなやかな筋肉が付いているのだと、シャツの上からでも分かる鍛えられた体に少し嫉妬する。
「そちらは?」
ジュニョンはちら、と斜め前に座り、熱心に炭火の上の肉を眺めている青年に目をやった。
「ヒョンシク!」
シワンが抑えながらも少しきつい口調で名前を呼んだ。悪戯をして怒られた子供のように、青年は慌てて肉の乗った網から顔を離し、箸を置いて立ち上がった。
「パク・ヒョンシクです。教授の助手やってます、えっと……」
ぎこちなく、落ち着きの無い自己紹介に、ジュニョンとミヌは笑い、シワンは自分の右隣にあった壁に向かって溜め息をついた。
「こっちがジュニョン警部。彼はミヌ警部補。一緒に仕事をすることもあるかもしれないから、挨拶」
シワンは先にヒョンシクに向かって彼らを紹介した。
「ムン・ジュニョンだ。一応係長ってことになってる」
「ハ・ミヌです。此の人の女房役なんて呼ばれてます。よろしく」
二人と笑顔で握手をし、また席に着く。箸を手にヒョンシクは肉を取っては並べて行く。ミヌが店員を呼び付け飲み物と小皿を注文した。
==================
「バラバラ殺人!」
ヒョンシクが大声を出したので、他の三人が口元に手を当て、黙れ、と言うポーズをした。
狭く、人の少なくなった店内では、店員も他の客も、聞き耳を立てているのが分かる。肉の焼ける音も小さくなっていた分、声は異様に響いた。
「まずは検挙からだけどな」
ジュニョンが鉄板からハラミを一枚引き上げながら呟いた。
「目星は?」
シワンが尋ねる。
「あったら今此処に居ない」
ジュニョンが素っ気なく答えて肉を噛み切った。
「犯人が男か女かくらいは分かるんじゃないですか?」
ヒョンシクが隣に座ったミヌに話し掛けた。ミヌも淡々と肉を引き上げては口に入れ、時折カクテキを摘んでいた。
「予想では十中八九男……あくまで予想だけど」
ミヌはほぼ確信している性別について、其れでも予想という言葉を使った。
「何か、飯の不味くなるネタだなあ。そっちはどうなんだ?」
ジュニョンが話題をシワンとヒョンシクに振る。
「こっちも飯の不味くなるネタしかないよ」
シワンが答えた。
其れから幾つかの他愛の無い話をして、それぞれの現場に戻って行った。
==================
帰り道、呼び出したタクシーを待っている間、シワンは道路を見回してきょろきょろする。
あの二人が乗って走り去った、ジュニョンが運転するGT-Rを未だ追い掛けているようだった。其の姿を、ヒョンシクは数十センチ離れた場所から見つめていた。
「教授」
ようやくシワンの落ち着きが戻った頃、ヒョンシクが口を開き、シワンを役職名で呼んだ。
また腹が減ったとか、おやつを買いたいなどと言うのではないだろうな、と、きいっとシワンが目線を上に上げると、すぐ隣の体が急に翻って、ヒョンシクの顔が間近にあった。
煙の匂い。
気が付くと、ヒョンシクの長い睫毛が見えた。
――え?
「教授は、あの人のこと、好きなんですか?」
シワンは、自分の口に触れたものが、ミントの味のする唇であったと気付いた。
不意打ちのキスだった。
「可愛い。教授のこと、俺も『シワン』って呼びたくなっちゃった」
そう言って、ヒョンシクは「可愛く見えましたよ」とシワンに極めつけの一言を言って、到着したタクシーにシワンだけを押し込み、自分は駅の方向へ一人歩いて行った。
警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
会議室のモニターにあどけない幼女の写真が映っている。
「——被害者はキム・ミヨン7歳。死因は絞殺による窒息死。一度首を絞められて殺されています。犯人は死体を頭部・胴体・腕・脚の5つに切断。動脈から防腐剤が注入されており」
報告をする刑事が言葉を其処で切った。モニターの写真が切り替わる。
人形の腕のように白い、持ち主の幼女から切り離された腕が映し出された。其の腕はガラスケースに入れられ、貴婦人が身に着けるような長い手袋をかぶされ、色とりどりの花で囲まれている。
腕の写真。
脚の写真。
そして、
生首。
目を閉じた頭部だけの少女は唇に紅を塗られ、赤と白と黄色の薔薇の中に埋められ、ガラスケースに納められていた。
「このようにバラバラに解体され、エンバーミングを施されガラスケースに飾られていました」
ジュニョンはモニターを見つめ、報告を聞いていた。
「恐らく小児性愛と死体愛好の傾向がある人間の犯行で、犯人は男で間違いないと思いますが——って、聞いてます?係長」
淡々と事例報告をしていた刑事——ミヌは、上司の態度を窘める視線を送った。傍目には相当ぼんやりと聞いていたように見えた。
「ん?あ、ああ。聞いてたよ」
「じゃあ俺の言ったこと一字一句間違わないで言ってくださいよね」
「ペドかネクロの野郎だって話だろ」
「はい」
「——違うな」
「え?」
ミヌは向い側のテーブルに腰掛けている上司を、モニターの傍に立ったまま見つめた。
「違う……気がする」
ジュニョンがもう一度手元の資料を繰り、被害者の女児について書かれた箇所と、死因の考察の箇所を読み直した。
「気がするって……勘で捜査されたら、被害者も容疑者もたまったもんじゃないでしょう。ちゃんと真面目に考えてくださいよ」
当てずっぽうな見解ながら何処か確信を含んだ響きに気圧されつつも、尚もミヌは目の前のやる気のあるようなないようなリーダーに言った。
「考えてるさ。其れに俺の勘は当たるんだ」
やれやれ、とミヌはモニターの電源を切り、椅子に腰掛けた。
自信たっぷりに言う此の人には、何処か逆らえない。もし自分の仮説の論理展開に自信があったとしても、簡単に覆されてしまいそうな気がした。
「検視官はあいつか……どうせ大して見てないな。おい、やり直して貰ってくれ。テホンのが良い」
ミヌが手元の資料を確認し検視担当の欄を見ると、其処にはジュニョンと折り合いの悪い名前が書かれていた。単純に人の好き嫌いもあるが、確かにミヌも此の事件の担当をしていた検視官には、人柄/仕事ぶり共に好感は持てなかった。
「分かりました。すぐキム検視官に回します」
立ち上がり、内線の電話機に手を伸ばす。
「久しぶりに面白いのが来たな。挑戦、受けてやろうぜ」
ジュニョンは口の端を上げ、不敵に笑った。
ああ、此の人は——。
ミヌは思う。
事件を、真犯人を追い詰めて行く過程を、此の人はまるでゲームのように楽しんでいるのだと。
本当は誰かを救う気もさらさらなく、ただ「精神異常者」との頭脳ゲームを楽しんでいるだけ。
けれど其れは自分も同じ。「誰かの為に」なんて美辞麗句を並べるつもりは無かった。解析力を駆使して、目の前にある課題を解決する過程が楽しいし、其れを尊敬する相手と一緒に出来ることが単純に楽しかった。
舞台が、幕を開けて行く。
受話器から、一つ年上の検視官が返事をするのが聞こえた。
会議室のモニターにあどけない幼女の写真が映っている。
「——被害者はキム・ミヨン7歳。死因は絞殺による窒息死。一度首を絞められて殺されています。犯人は死体を頭部・胴体・腕・脚の5つに切断。動脈から防腐剤が注入されており」
報告をする刑事が言葉を其処で切った。モニターの写真が切り替わる。
人形の腕のように白い、持ち主の幼女から切り離された腕が映し出された。其の腕はガラスケースに入れられ、貴婦人が身に着けるような長い手袋をかぶされ、色とりどりの花で囲まれている。
腕の写真。
脚の写真。
そして、
生首。
目を閉じた頭部だけの少女は唇に紅を塗られ、赤と白と黄色の薔薇の中に埋められ、ガラスケースに納められていた。
「このようにバラバラに解体され、エンバーミングを施されガラスケースに飾られていました」
ジュニョンはモニターを見つめ、報告を聞いていた。
「恐らく小児性愛と死体愛好の傾向がある人間の犯行で、犯人は男で間違いないと思いますが——って、聞いてます?係長」
淡々と事例報告をしていた刑事——ミヌは、上司の態度を窘める視線を送った。傍目には相当ぼんやりと聞いていたように見えた。
「ん?あ、ああ。聞いてたよ」
「じゃあ俺の言ったこと一字一句間違わないで言ってくださいよね」
「ペドかネクロの野郎だって話だろ」
「はい」
「——違うな」
「え?」
ミヌは向い側のテーブルに腰掛けている上司を、モニターの傍に立ったまま見つめた。
「違う……気がする」
ジュニョンがもう一度手元の資料を繰り、被害者の女児について書かれた箇所と、死因の考察の箇所を読み直した。
「気がするって……勘で捜査されたら、被害者も容疑者もたまったもんじゃないでしょう。ちゃんと真面目に考えてくださいよ」
当てずっぽうな見解ながら何処か確信を含んだ響きに気圧されつつも、尚もミヌは目の前のやる気のあるようなないようなリーダーに言った。
「考えてるさ。其れに俺の勘は当たるんだ」
やれやれ、とミヌはモニターの電源を切り、椅子に腰掛けた。
自信たっぷりに言う此の人には、何処か逆らえない。もし自分の仮説の論理展開に自信があったとしても、簡単に覆されてしまいそうな気がした。
「検視官はあいつか……どうせ大して見てないな。おい、やり直して貰ってくれ。テホンのが良い」
ミヌが手元の資料を確認し検視担当の欄を見ると、其処にはジュニョンと折り合いの悪い名前が書かれていた。単純に人の好き嫌いもあるが、確かにミヌも此の事件の担当をしていた検視官には、人柄/仕事ぶり共に好感は持てなかった。
「分かりました。すぐキム検視官に回します」
立ち上がり、内線の電話機に手を伸ばす。
「久しぶりに面白いのが来たな。挑戦、受けてやろうぜ」
ジュニョンは口の端を上げ、不敵に笑った。
ああ、此の人は——。
ミヌは思う。
事件を、真犯人を追い詰めて行く過程を、此の人はまるでゲームのように楽しんでいるのだと。
本当は誰かを救う気もさらさらなく、ただ「精神異常者」との頭脳ゲームを楽しんでいるだけ。
けれど其れは自分も同じ。「誰かの為に」なんて美辞麗句を並べるつもりは無かった。解析力を駆使して、目の前にある課題を解決する過程が楽しいし、其れを尊敬する相手と一緒に出来ることが単純に楽しかった。
舞台が、幕を開けて行く。
受話器から、一つ年上の検視官が返事をするのが聞こえた。
「言い残したことはないですか」
牧師は、目の前の男に尋ねた。相手は俯き、さらりとした黒髪を床に向けて垂らしたままで答えた。
「……だ」
「え?」
「くそくらえだ」
==================
階段。
空へ続く白い階段。
ひとつひとつ歩いて行く。
両手には花ではなく若い男が二人居た。
空への旅路は、随分とつまらない連中に見送りをされるものだ。
此の世界から居なくなろうとしている自分よりも、彼らの方が躊躇し、気持ちの整理がついていない様子である。
馬鹿らしい。実に馬鹿らしい。くだらない世界。
天井から吊るされた真っ白なロープの先は、輪になっている。
此の首を吊るして、空へと帰らせてくれる。
==================
ストップウォッチが止まった。
「9時39分10秒、終わりました。所要時間13分05秒」
若い刑務官二人のうち、一人は失神し、もう一人は胃の中のものを全て階段の下にぶちまけた。喉を通らなかったであろう食事であったことは、胃液だらけの吐瀉物で容易に想定出来た。
牧師は胸の十字架を握り締めた。
彼の最後の言葉の意味を考える。
「ケビンさんも、御苦労様でした」
拘置所長に頭を下げられ、牧師も頭を下げた。
「スムーズでしたな。牧師さんがまた何か説得してくださったんですか」
刑務所長に握手を求められると、牧師はさり気なく手を引っ込め、否定するように顔の前で其の手を振った。
「いいえ……」
「またまた。人気ありますよ。まあ、死刑囚に人気だなんて、複雑でしょうけど」
そう言って刑務所長はげらげらと笑った。
何かが壊れている。
けれども、其の「壊れ」に、僕らは目を瞑っている。
牧師は荷物をまとめ、教会へ戻ろうとした。
真っ白な廊下を歩いていると、未だ具合の悪そうな刑務官が壁に凭れ、くたばっているのを見た。
あれこれ言う資格は無い、か——
外の世界を目指して歩いて行く。廊下にこつこつと牧師の革靴の音が響いた。
牧師は、目の前の男に尋ねた。相手は俯き、さらりとした黒髪を床に向けて垂らしたままで答えた。
「……だ」
「え?」
「くそくらえだ」
==================
階段。
空へ続く白い階段。
ひとつひとつ歩いて行く。
両手には花ではなく若い男が二人居た。
空への旅路は、随分とつまらない連中に見送りをされるものだ。
此の世界から居なくなろうとしている自分よりも、彼らの方が躊躇し、気持ちの整理がついていない様子である。
馬鹿らしい。実に馬鹿らしい。くだらない世界。
天井から吊るされた真っ白なロープの先は、輪になっている。
此の首を吊るして、空へと帰らせてくれる。
==================
ストップウォッチが止まった。
「9時39分10秒、終わりました。所要時間13分05秒」
若い刑務官二人のうち、一人は失神し、もう一人は胃の中のものを全て階段の下にぶちまけた。喉を通らなかったであろう食事であったことは、胃液だらけの吐瀉物で容易に想定出来た。
牧師は胸の十字架を握り締めた。
彼の最後の言葉の意味を考える。
「ケビンさんも、御苦労様でした」
拘置所長に頭を下げられ、牧師も頭を下げた。
「スムーズでしたな。牧師さんがまた何か説得してくださったんですか」
刑務所長に握手を求められると、牧師はさり気なく手を引っ込め、否定するように顔の前で其の手を振った。
「いいえ……」
「またまた。人気ありますよ。まあ、死刑囚に人気だなんて、複雑でしょうけど」
そう言って刑務所長はげらげらと笑った。
何かが壊れている。
けれども、其の「壊れ」に、僕らは目を瞑っている。
牧師は荷物をまとめ、教会へ戻ろうとした。
真っ白な廊下を歩いていると、未だ具合の悪そうな刑務官が壁に凭れ、くたばっているのを見た。
あれこれ言う資格は無い、か——
外の世界を目指して歩いて行く。廊下にこつこつと牧師の革靴の音が響いた。
皆様初めまして。
いつもクラブエンパイアへご来店いただきましてありがとうございます。
こちらのクラブの代表取締役をしております、美恵と申します。
本日はカウントダウンイベントの準備中です。
私は、今からシャンパンを差し入れに行くところ。
良かったら、一緒に様子を見に行きませんか?
==================
「ケビンくん、お疲れ様」
居た居た。厨房に居ました。料理も支配人の彼、盛り付けも彼。全くどれだけ厨房担当を甘やかしているのかしら。支配人失格ですよ。
「美恵さん!お疲れ様です」
おせち料理のように丁寧に盛りつけられた色とりどりの御惣菜から視線を上げて、ケビンくんが返事してくれました。横にはヒョンシクくん。ローストビーフを一枚ぺらりと摘みとり、盗み食い。
「はい此れお土産」
「わ、ピンドン!ありがとうございます!」
ベタな差し入れだけれど、やはりワイン好きの彼。喜んでくれました。元カリスマホスト、現カリスマ支配人でも、贈り物を素直に受け取ってくれるのは点数が高いです。流石ヤリ手ですね。
「適当に皆で開けてくださいな」
「はい!」
にこにこしているケビン君の横で、口をもぐもぐさせているヒョンシク君を見上げてみる。やっぱり背が高いなあ。
「あ、こらヒョンシク」
「んぐっ」
ほら、ケビンくんに怒られた。ヒョンシクくんは飲み込み損ねたお肉を喉に詰まらせたらしく、うんうん唸っていて、ケビン君が心配そうに覗き込んでいます。甘やかしているのも、心配しているのも彼なんですよね。
やっとのことで嚥下したヒョンシクくんははあはあと少し息を荒げていて、涙目になっていて、其のヒョンシクくんを見ているケビンくんの目がちょっとヤバいなあ、と思うのです。
「彼にはあまり飲ませちゃだめよ?」
ヒョンシクくんがお酒に弱いのは、別の従業員からリサーチ済み。
一応お店の中の従業員同士の風紀は或る程度守らないと。支配人が骨抜きにされている間は、代表取締役がしっかりしないと、です。
「皆は?」
「あっちです。出し物の準備中」
ケビンくんが指差した方向はステージ。
何でしょうね、行ってみましょうか。
厨房にあの二人を残しておくのもちょっと心配ですが……。
==================
巨大な龍の形をした黒いオブジェが天井から吊るされ、優しい白色の照明がステージの7人を照らし出しています。床には白色LEDをピンク色で着色し、其処に筒を被せたような細長い照明器具が置かれています。全体的にピンク色と白でまとめられて、可愛らしく幻想的な雰囲気の照明になっていますね。
「お疲れ様でーす!」
元気そうな7人の声が揃って、一列並びでの最敬礼。ちょっと軍隊みたいで気が引けるけれど、壮観。今年も此の明るい声で締めくくれそうですね。
「今年は何するの?」
「紅白歌合戦!」
答えてくれたのはクァンヒくん。ほんと、彼はこういうときイキイキするなあ。
「俺とシワンで『フライングゲット』やるんですよー!しかもシワンはチャイナドレス着ます!!」
あははとクァンヒくんがシワンくんの肩を抱き寄せて笑うと、シワンくんが苦い顔をし、抱かれた肩を必死で振り切ろうとしながら抵抗。
「ちょ、俺まだやるって決めた訳じゃないからな!」
前日なのに、何此のグダグダ感……。
でもシワンくんは何だかんだ言って本番で頑張りそうですね。
「あ、成程赤組な訳ね。あとの皆は?」
「俺ラルク歌います!」
そう言ったのはヒチョルくん。黒髪に染めて、10年以上前のHYDEくんに、確かに面影が似ている気がします。
「わ、ほんと!嬉しい。私もラルク大好きなんだ。何歌うの?」
「迷ってるんですよ……浸食とHEAVEN'S DRIVEで」
少し興奮気味に話す彼は可愛いですよね。
「浸食は暗い気がする……HEAVEN'S DRIVEの方が似合うと思う」
「あー、了解です」
浸食の暴走する世界観よりも、HEAVEN'S〜の妖しく堕落して行く世界観の方が、彼の見た目には合うと思って、アドバイス。
「ミヌ〜髪の毛ツンツンにセットして〜」
あ、ミヌくんの方へ行っちゃった。
ヒチョルくんは白組なんですね。
「テホンくんも?」
「あ、はい。俺はEMINEMやります」
「良いね!曲は?」
「Lose Yourselfです。ベタなんですけど」
照れて笑い、頭をかく仕草をしたテホンくん。彼は本当に色白で、鬼才と言われた白人ラッパーの曲を選択したのも何となく似合うなあと思ってしまいます。ハングリー精神に満ちた曲の選択も、結構彼の真摯な姿勢に似合う気がします。
「ベタ上等でしょ。逆に今の子EMINEM聴いたこと無い子も居るだろうし、新鮮だと思うよ」
テホンくんも白組。さて、次は……と、ドンジュンくんが何だか不服そう。
「ドンジュンくん、何歌うの?」
「美恵さん!俺嫌ですよ!」
「え?」
勢いよく嫌だと言われても、こちらにはさっぱり……。
「コイツと組んでデュエットなんすよ!」
コイツ呼ばわりされたのはジュニョンくん。先輩を指差すなんて良い度胸してるなあ。
「そ、そう……何歌うの?」
「m-floです。let go」
ジュニョンくんが答えてくれたものの、ドンジュンくんは膨れっ面。ジュニョンくんは指を指されていようが、コイツ呼ばわりされようが、あまり気にしていない様子。
「been so longを避けたあたり、分かってるね」
ジュニョンくんの顔をまじまじと見ながら言う。やっぱり誰かに似ているけれど、でも何かが違いますね。とても整った顔をしているけれど、そして其れは誰かの面影を重ねるのだけれど、彼は彼なのだと思います。
「先輩には勝てないんで」
はい、ウィンクいただきました。
「美恵さん!俺は嫌です!」
ドンジュンくんが尚も組変更を申し出てきます。でも此れ、もとはと言えば君たちで決めたんでしょうが……。
「良いじゃない。ドンジュンくんの伸びる声が、綺麗にはまると思う。良い曲だし、どんなことも完璧にこなせてこそナンバーワンになれるのよ」
黙った。やはりこういう子は闘争心を別の方向に向けるのが一番です。
「わかりました!頑張ります!」
口角をぐいっと引き上げ、少し挑戦的に笑った彼。納得して貰えたみたいですね。
「あれ、ミヌくんはどうするの?」
輪から外れて、ヒチョルくんとわちゃわちゃしていたミヌくんに声をかけてみます。
「白組で、PrinceのSexy M.F.やります」
にこにこしていたかと思えば口から飛び出したのはびっくりする位大人の選曲。
「コアだね……」
此の子はファンタジスタだなあ、と思います。自分の魅せ方を全部計算している。此の選曲も、目線の使い方から指先の動かし方、腰の位置の移動のさせ方……全部知っていてやるんだろうな、と。今目の前でにこにこしている顔は可愛らしいのに、スイッチが入ったら全然違う顔になる。
「美恵さん〜俺も此の曲やめてほしいんですよ」
ヒチョルくんが乱入して来ました。
「もう見てらんないんです。早く持ち帰って上に乗っかりたいって思っちゃって」
「あ、そう……取り敢えずステージの間だけでも堪えてね……」
此処二人も、要注意……。
それにしても、紅白歌合戦とは言うものの、組数ばらばらだし、合計5ステージしか無いようですね。
ちょっと寂しい気が。
「ケビンくーん!」
厨房に向かって叫んでみました。時間差で、シャツの襟が乱れたケビンくん登場。
「あ、と、すみません!何でしょう!」
「君、歌上手いわね?」
「は?」
「赤組に入りなさい」
「へ?」
「明日のマネジメントなら私がやります。だから、お客さんの前出なさい。ついでにあの子も」
厨房に居るであろう、最後の一人の従業員を示すように顎をしゃくると、ケビンくんの顔が驚きの表情に変わりました。
「え?あ……え?でも、そうすると厨房担当誰も居なくなるし……」
「私がやります」
「でも美恵さん家事一切しないって豪語してましたよね……」
「オードブルは今日中に作って。あとは良いデリの店があるから取り寄せるわ。皿洗いは溜めておいて全部食器洗浄機にかければいいし、洗うのが面倒臭かったら捨てちゃえば良いわ。また新しいものを買えば良いの。君たちはお嬢様たちの前に立ちなさい」
お嬢様たちは君たちに会いに来ているのだし、カウントダウンくらい、皆で同じ舞台に立つのも良いでしょ?サポート役くらい、やりますよ。
「かいばいぼっ」
組み分け決定。
「ようし、ケビンは白、ヒョンシクは赤だ!」
ジュニョンくんが仕切って言いました。ステージの上で何となく白と赤が分かれています。
「ヒョン、何歌う?」
テホンくんがケビンくんに尋ねました。
「うーん……Ne-Yo、NKOTB、BSBはベタだしなあ……」
歌うとなると本気で悩んでいますね——と。
「やだー!俺も白組がいい!」
「は?」
ヒョンシクくんが駄々をこね始めました。
「ヒョンと歌う!」
え、白組異様に組数多くなってしまいますが……
「ねえジュニョンヒョン!良いでしょ?俺、ヒョンと歌いたいの。ヒョンと一緒が良いの」
うるうるした目で、ヒョンシクくんがジュニョンくんに迫りました。あら、流石の色男もちょっとくらりと来たみたいですね。あ、ドンジュンくんつまらなさそう……。
「う……」
「ねえ、駄目?」
「……分かったよ……」
ナンバーワンホストも甘いですね。あ、横でドンジュンくんが凄い目でヒョンシクくんとジュニョンくん睨んでますけど。分かり易いなあ。
ってあれ?シワンくんもちょっと不満そうですね……。あら?
「わーい!けびにゃ、一緒にB.O.B歌おう!」
「おい店で其の呼び方するなって言っただろ」
==================
……まあ、平和そうで良かったです。
此れで何とか楽しく年越しも出来そうですね。
紅白歌合戦、個人的にはミヌくんの職人芸とヒチョルくんの物真似が楽しみです。
==================
早いもので、年末のご挨拶をさせて頂く時期となりました。
皆様におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
本年は格別のご愛顧を賜り、厚くお礼申し上げます。
来年も少しでもサービスの向上を図るよう、誠心誠意努力する所存ですので、より一層のご支援を賜りますよう、従業員一同心よりお願い申し上げます。
時節柄、ご多忙のことと存じます。
くれぐれもお身体にはご自愛くださいませ。
来年も相変わらぬご愛顧を頂けますようお願い申し上げて、歳末のご挨拶とさせて頂きます。
クラブエンパイア代表取締役 はまうず美恵
いつもクラブエンパイアへご来店いただきましてありがとうございます。
こちらのクラブの代表取締役をしております、美恵と申します。
本日はカウントダウンイベントの準備中です。
私は、今からシャンパンを差し入れに行くところ。
良かったら、一緒に様子を見に行きませんか?
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「ケビンくん、お疲れ様」
居た居た。厨房に居ました。料理も支配人の彼、盛り付けも彼。全くどれだけ厨房担当を甘やかしているのかしら。支配人失格ですよ。
「美恵さん!お疲れ様です」
おせち料理のように丁寧に盛りつけられた色とりどりの御惣菜から視線を上げて、ケビンくんが返事してくれました。横にはヒョンシクくん。ローストビーフを一枚ぺらりと摘みとり、盗み食い。
「はい此れお土産」
「わ、ピンドン!ありがとうございます!」
ベタな差し入れだけれど、やはりワイン好きの彼。喜んでくれました。元カリスマホスト、現カリスマ支配人でも、贈り物を素直に受け取ってくれるのは点数が高いです。流石ヤリ手ですね。
「適当に皆で開けてくださいな」
「はい!」
にこにこしているケビン君の横で、口をもぐもぐさせているヒョンシク君を見上げてみる。やっぱり背が高いなあ。
「あ、こらヒョンシク」
「んぐっ」
ほら、ケビンくんに怒られた。ヒョンシクくんは飲み込み損ねたお肉を喉に詰まらせたらしく、うんうん唸っていて、ケビン君が心配そうに覗き込んでいます。甘やかしているのも、心配しているのも彼なんですよね。
やっとのことで嚥下したヒョンシクくんははあはあと少し息を荒げていて、涙目になっていて、其のヒョンシクくんを見ているケビンくんの目がちょっとヤバいなあ、と思うのです。
「彼にはあまり飲ませちゃだめよ?」
ヒョンシクくんがお酒に弱いのは、別の従業員からリサーチ済み。
一応お店の中の従業員同士の風紀は或る程度守らないと。支配人が骨抜きにされている間は、代表取締役がしっかりしないと、です。
「皆は?」
「あっちです。出し物の準備中」
ケビンくんが指差した方向はステージ。
何でしょうね、行ってみましょうか。
厨房にあの二人を残しておくのもちょっと心配ですが……。
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巨大な龍の形をした黒いオブジェが天井から吊るされ、優しい白色の照明がステージの7人を照らし出しています。床には白色LEDをピンク色で着色し、其処に筒を被せたような細長い照明器具が置かれています。全体的にピンク色と白でまとめられて、可愛らしく幻想的な雰囲気の照明になっていますね。
「お疲れ様でーす!」
元気そうな7人の声が揃って、一列並びでの最敬礼。ちょっと軍隊みたいで気が引けるけれど、壮観。今年も此の明るい声で締めくくれそうですね。
「今年は何するの?」
「紅白歌合戦!」
答えてくれたのはクァンヒくん。ほんと、彼はこういうときイキイキするなあ。
「俺とシワンで『フライングゲット』やるんですよー!しかもシワンはチャイナドレス着ます!!」
あははとクァンヒくんがシワンくんの肩を抱き寄せて笑うと、シワンくんが苦い顔をし、抱かれた肩を必死で振り切ろうとしながら抵抗。
「ちょ、俺まだやるって決めた訳じゃないからな!」
前日なのに、何此のグダグダ感……。
でもシワンくんは何だかんだ言って本番で頑張りそうですね。
「あ、成程赤組な訳ね。あとの皆は?」
「俺ラルク歌います!」
そう言ったのはヒチョルくん。黒髪に染めて、10年以上前のHYDEくんに、確かに面影が似ている気がします。
「わ、ほんと!嬉しい。私もラルク大好きなんだ。何歌うの?」
「迷ってるんですよ……浸食とHEAVEN'S DRIVEで」
少し興奮気味に話す彼は可愛いですよね。
「浸食は暗い気がする……HEAVEN'S DRIVEの方が似合うと思う」
「あー、了解です」
浸食の暴走する世界観よりも、HEAVEN'S〜の妖しく堕落して行く世界観の方が、彼の見た目には合うと思って、アドバイス。
「ミヌ〜髪の毛ツンツンにセットして〜」
あ、ミヌくんの方へ行っちゃった。
ヒチョルくんは白組なんですね。
「テホンくんも?」
「あ、はい。俺はEMINEMやります」
「良いね!曲は?」
「Lose Yourselfです。ベタなんですけど」
照れて笑い、頭をかく仕草をしたテホンくん。彼は本当に色白で、鬼才と言われた白人ラッパーの曲を選択したのも何となく似合うなあと思ってしまいます。ハングリー精神に満ちた曲の選択も、結構彼の真摯な姿勢に似合う気がします。
「ベタ上等でしょ。逆に今の子EMINEM聴いたこと無い子も居るだろうし、新鮮だと思うよ」
テホンくんも白組。さて、次は……と、ドンジュンくんが何だか不服そう。
「ドンジュンくん、何歌うの?」
「美恵さん!俺嫌ですよ!」
「え?」
勢いよく嫌だと言われても、こちらにはさっぱり……。
「コイツと組んでデュエットなんすよ!」
コイツ呼ばわりされたのはジュニョンくん。先輩を指差すなんて良い度胸してるなあ。
「そ、そう……何歌うの?」
「m-floです。let go」
ジュニョンくんが答えてくれたものの、ドンジュンくんは膨れっ面。ジュニョンくんは指を指されていようが、コイツ呼ばわりされようが、あまり気にしていない様子。
「been so longを避けたあたり、分かってるね」
ジュニョンくんの顔をまじまじと見ながら言う。やっぱり誰かに似ているけれど、でも何かが違いますね。とても整った顔をしているけれど、そして其れは誰かの面影を重ねるのだけれど、彼は彼なのだと思います。
「先輩には勝てないんで」
はい、ウィンクいただきました。
「美恵さん!俺は嫌です!」
ドンジュンくんが尚も組変更を申し出てきます。でも此れ、もとはと言えば君たちで決めたんでしょうが……。
「良いじゃない。ドンジュンくんの伸びる声が、綺麗にはまると思う。良い曲だし、どんなことも完璧にこなせてこそナンバーワンになれるのよ」
黙った。やはりこういう子は闘争心を別の方向に向けるのが一番です。
「わかりました!頑張ります!」
口角をぐいっと引き上げ、少し挑戦的に笑った彼。納得して貰えたみたいですね。
「あれ、ミヌくんはどうするの?」
輪から外れて、ヒチョルくんとわちゃわちゃしていたミヌくんに声をかけてみます。
「白組で、PrinceのSexy M.F.やります」
にこにこしていたかと思えば口から飛び出したのはびっくりする位大人の選曲。
「コアだね……」
此の子はファンタジスタだなあ、と思います。自分の魅せ方を全部計算している。此の選曲も、目線の使い方から指先の動かし方、腰の位置の移動のさせ方……全部知っていてやるんだろうな、と。今目の前でにこにこしている顔は可愛らしいのに、スイッチが入ったら全然違う顔になる。
「美恵さん〜俺も此の曲やめてほしいんですよ」
ヒチョルくんが乱入して来ました。
「もう見てらんないんです。早く持ち帰って上に乗っかりたいって思っちゃって」
「あ、そう……取り敢えずステージの間だけでも堪えてね……」
此処二人も、要注意……。
それにしても、紅白歌合戦とは言うものの、組数ばらばらだし、合計5ステージしか無いようですね。
ちょっと寂しい気が。
「ケビンくーん!」
厨房に向かって叫んでみました。時間差で、シャツの襟が乱れたケビンくん登場。
「あ、と、すみません!何でしょう!」
「君、歌上手いわね?」
「は?」
「赤組に入りなさい」
「へ?」
「明日のマネジメントなら私がやります。だから、お客さんの前出なさい。ついでにあの子も」
厨房に居るであろう、最後の一人の従業員を示すように顎をしゃくると、ケビンくんの顔が驚きの表情に変わりました。
「え?あ……え?でも、そうすると厨房担当誰も居なくなるし……」
「私がやります」
「でも美恵さん家事一切しないって豪語してましたよね……」
「オードブルは今日中に作って。あとは良いデリの店があるから取り寄せるわ。皿洗いは溜めておいて全部食器洗浄機にかければいいし、洗うのが面倒臭かったら捨てちゃえば良いわ。また新しいものを買えば良いの。君たちはお嬢様たちの前に立ちなさい」
お嬢様たちは君たちに会いに来ているのだし、カウントダウンくらい、皆で同じ舞台に立つのも良いでしょ?サポート役くらい、やりますよ。
「かいばいぼっ」
組み分け決定。
「ようし、ケビンは白、ヒョンシクは赤だ!」
ジュニョンくんが仕切って言いました。ステージの上で何となく白と赤が分かれています。
「ヒョン、何歌う?」
テホンくんがケビンくんに尋ねました。
「うーん……Ne-Yo、NKOTB、BSBはベタだしなあ……」
歌うとなると本気で悩んでいますね——と。
「やだー!俺も白組がいい!」
「は?」
ヒョンシクくんが駄々をこね始めました。
「ヒョンと歌う!」
え、白組異様に組数多くなってしまいますが……
「ねえジュニョンヒョン!良いでしょ?俺、ヒョンと歌いたいの。ヒョンと一緒が良いの」
うるうるした目で、ヒョンシクくんがジュニョンくんに迫りました。あら、流石の色男もちょっとくらりと来たみたいですね。あ、ドンジュンくんつまらなさそう……。
「う……」
「ねえ、駄目?」
「……分かったよ……」
ナンバーワンホストも甘いですね。あ、横でドンジュンくんが凄い目でヒョンシクくんとジュニョンくん睨んでますけど。分かり易いなあ。
ってあれ?シワンくんもちょっと不満そうですね……。あら?
「わーい!けびにゃ、一緒にB.O.B歌おう!」
「おい店で其の呼び方するなって言っただろ」
==================
……まあ、平和そうで良かったです。
此れで何とか楽しく年越しも出来そうですね。
紅白歌合戦、個人的にはミヌくんの職人芸とヒチョルくんの物真似が楽しみです。
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早いもので、年末のご挨拶をさせて頂く時期となりました。
皆様におかれましてはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
本年は格別のご愛顧を賜り、厚くお礼申し上げます。
来年も少しでもサービスの向上を図るよう、誠心誠意努力する所存ですので、より一層のご支援を賜りますよう、従業員一同心よりお願い申し上げます。
時節柄、ご多忙のことと存じます。
くれぐれもお身体にはご自愛くださいませ。
来年も相変わらぬご愛顧を頂けますようお願い申し上げて、歳末のご挨拶とさせて頂きます。
クラブエンパイア代表取締役 はまうず美恵
1998年
日は完全に沈み、大地には静寂が訪れていた。シワンは左側の袖口を捲り、腕時計を確かめた。時刻は17時を少し過ぎていた。長居をしてしまっていたことに気付き、途端に申し訳無い気持ちになった。
トントン
扉がノックされた。
「爺さん!」
誰かが呼ぶ声がした。若い男の声だと思う。
「失礼」
老人は椅子を立ち、足元に居た茶色の大型犬の首輪を引いて、玄関へ向かった。シワンは振り返り、彼が出て行った部屋のドアを見つめ、其の先の会話に聞き耳を立てていた。
「——お客さん?」
「そんなところだ」
「ふうん……じゃ、行って来るね」
「頼むぞ」
「うん」
犬の鳴き声がいくつか聞こえた。それと同時に玄関のドアが閉まる音がし、玄関の地面を踏む男がする。鍵をかける音がし、また老人の足音がシワンの通された部屋へ戻ってくるのを感じた。
「お孫さん…ですか?」
口にしてから、随分と間の抜けた質問をしたことをすぐにシワンは反省した。
「近所の子です」
シワンが口を噤み、既に唇から離れてしまった言葉を後悔するように右手で口元を隠したのを見て、老人は苦笑いをした。
「家族を持ったことはありませんので……それどころか……」
老人は途中で言葉を切り、本棚の一番高い棚から、一冊の本を取り出した。埃を被った厚い表紙を数回手で払いてからシワンに見せるように表紙を開く。すると其れが本の形をした小物入れであったことに気付いた。表紙の形状になった蓋を開いた反対側には、厚いページの中央を長方形にくり抜いたように穴が開いていた。
其処に、一枚の紙切れがあった。
老人が小さくたたまれた其れを取り出し、開いて行く。
——死亡診断書?
シワンは老人が無言で差し出した白い紙を見て、絶句した。
『氏名:パク・ヒョンシク
性別:男
生年月日:1905年11月16日
死亡日時:1940年3月6日午後4時01分
死因:戦傷による大脳動脈栓塞』
「え……?」
死亡日時:1940年3月6日午後4時01分
==================
1930年、冬 隣国
「そろそろ一時間だが……」
一人の兵士が、懐中時計を取り出した。林へ送った小隊からの伝令が無い。聞けば敵は数十名の兵士しか其の林に配置していないと言う。こちらの戦力はその百倍。30分もあれば国境を突破していた其の軍を撃退させられると思っていた。
「伝令!伝令は未だか!」
「兵長、其れが……」
下級の兵士が手を挙げ、とても答えにくそうに言った。
「あの中に、死神が居るそうです」
「黙れ!敵国の作り話など信じられるか!探索隊を送れ。お前も行くのだ。早く!」
探索隊が付近を確認すると、其処はいくつもの兵士の遺体が散らばり、頭部、腕、胴体、脚がまるで解体された人形のように吹き飛ばされて転がっていた。体のパーツはかろうじて揃っている者でも脳を確実に撃ち抜かれていた。
生きている者は、誰も居なかった。
「死神だ……」
下級兵士は、白いコートを吹雪きに委ねながら、静かに標的を狙うという人物を脳裏に描いた。
静かに降り立つ、白い死神。
世界の修復を行うために災いをもたらす、死の世界からの使者。
次の瞬間、下級兵士のこめかみに縦断が命中した。
==================
同時期 2時間前
「こんな少ない人数で進撃しろだなんて」
ヒョンシクの隣でライフル銃の手入れをしていた細身の兵士が口を曲げた。同年兵のハ上等兵だった。
「口封じさ」
ヒョンシクが木の根元に寄り掛かったまま答えると、ハ上等兵はヒョンシクの顔を伺うように、見つめた。其の瞳は夜間でも分かる位に疑問と好奇心に満ちていた。
「——そうなの?」
林の中、二人の間の空気だけが、戦いの合図も無いのに一気に張りつめた。
「キム少将のことを知る人間を一人残らず抹消するには、良い作戦だろう」
「は?」
先日中央で亡くなったという少将の名前を聞き、ハ上等兵は顔を歪めた。其の名前は、ハ上等兵にとっても尊敬していた人物のものであり、事態を理解するのに時間がかかった。
遠くの空で銃声が鳴った。
ヒョンシクとハ上等兵は互いに目を合わせ、体勢を立て直した。
「話は後だ!誰が俺たちを殺そうとしようが、生き延びてやる」
==================
1998年
キム少将の件を始末するために、当時キム少将を知る軍隊を効率良く殲滅させることを上層部は考え出した。
小隊を国境沿いに配置し、進軍させ続けることで隣国の兵士をなぎ倒させることであった。
「数の暴力に個人の暴力が勝ることが無い、とは言いきれません。まして、こちらには死神がついていましたからね」
==================
1931年、冬の戦い:国境の林にて敵国小隊撃破
1932年、冬の戦い:敵国の湖にて敵国戦車3両撃破
1933年、冬の戦い:国境にて敵国戦車7両撃破
==================
1934年、冬 酒場
小隊が500人の舞台を壊滅させた翌日、中央から新しい少尉が小隊長として派遣されてきた。
時は流れ、ヒョンシクの周囲にも、中央司令部にもキム少将の件を知る人物が居なくなっていた。内部クーデターが勃発し、中央司令部は一度崩壊した。そして反元帥派の人間が一掃されていたからである。
ハ上等兵は狙撃手としての腕を買われ、南方の軍に兵長として赴いていた。ヒョンシク自身も昇進や配置転換を幾度となく薦められたものの、自分は此の北方の国境を守りたいと動かず、昇進も兵長の座を無理矢理に押し付けられ、渋々しただけだった。
昇進には全くの興味が無かった。
ただ誰かの命令に従い、任務を遂行することに専念したかった。
何も考えたくなかった。
小隊は酒場で新しい少尉を迎え、騒がしい夜を送っていた。
ヒョンシクは集団から離れ、一人酒場の出入口に立って空を見上げていた。
木の枝に積もった新しい雪を摘み、口元に運んだ。少し体温を持ち始めていた口の中で冷たい氷が溶ける。未だ溶けて行く感覚があって、口の中が熱を持っているのだと思う。
——雪を食べるのは癖になっていた。
「宴の主役が、随分粗末なもの食ってるんだな」
くぐもった声がし、やや聞き慣れない其の響きにヒョンシクが振り返ると、左目に眼帯をした軍人が立っていた。
——ムン少尉だった。
慌てて敬礼をすると、ムン少尉はくすくすと笑った。
「今日は無礼講だぞ。酒も、煙草も、女もある。なのに、主役の主食が雪だと?」
少尉は言葉を吐く。白い吐息が待った。
ムン少尉が出て来た扉の後ろからは、騒々しい男達の大きな笑い声や女の嬌声が聞こえた。二人の立つ場所には酒場の出入口に取り付けられた粗末な電灯の、橙色の光があるのみだった。
「申し訳ありません」
ヒョンシクはごくりと唾を飲み込み、口の中にあった雪を全て食べた。
「死神は……お前のことだな?」
「……そう呼ぶ人も居ます」
ヒョンシクはいつからか誰かが付けた自分の異名について、認めた。ムン少尉はヒョンシクに近付き、右目だけでヒョンシクの頭の天辺から爪先迄をまじまじと観察するように見た。些か無神経な視線をヒョンシクは一身で受け止めた。
「一体どんな男かと思ったが、成程」
ムン少尉が距離を縮めた。
「俺好みの美丈夫だ」
抵抗する間もなく、手慣れた仕草で頭を引き寄せられ、くちづけられていた。
「よろしくな」
ムン少尉——ジュニョンは、短い接吻の後にアルコール臭い息を吐いて、また背後の扉の向こうへと消えて行った。
其れが、ジュニョンとの、はじまり。
==================
1934年、冬 国境付近の村
隣国の兵士との戦闘は、民間人を巻き込み凄惨な状態で終えられた。辺りには炎が立ち上り、死臭が立ち籠めていた。
ムン少尉は火力で敵を押し込む作戦よりも、相手を攪乱し投降させ死を最小限に抑える戦術を好んだものの、此の時の戦闘は相手が二軍に分かれ前後方からの射撃を行おうとしたため、事態は悲惨な結果となった。
兵士を捕虜としようとしたものの、生きている者を探す方が難しかった。
そんな中、一人の人間が二人の兵士に両腕を抱えられて引き摺られて行くのを、ヒョンシクは見ていた。
色白の肌を持つ人間であることは分かったが、顔が見えず、また骨格や着ていたものからは性別の区別も分からなかった。やけに痩せ細った人間であった。
「殺せ!殺してくれ!」
死んだ大地に、声が響いた。
男のものだった。
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1934年、冬 ムン少尉の部屋
「こうして見るとますます美しい。そう思わないか?」
ムン少尉は満足げに其の人物を膝の上に乗せ、ヒョンシクに意見を聞いた。
「……はい」
数日前の戦闘で引き摺られていた人物の正体を、ヒョンシクは始めて少尉の部屋で見つめた。あのとき自分が目にした折れそうな手足。色白で整った顔立ち。長い睫毛に、人の血を塗ったような赤い唇。女のようにも見え、男のようでもある、人外の存在のような人間だった。其の人物はまるで何もかもを映すことを拒むかのように、呆然とした瞳でぼんやりと部屋の中の空気を見ていた。
「気に入ったら、パク兵長、お前にも貸してやる。それとも——3人で寝るか?」
ムン少尉はそう言って、手元にあったショートグラスに注がれた酒をあおった。
「……失礼します」
此の部屋に居るべきではない、と判断し、ヒョンシクは一方的に席を立った。
「嘘さ」
引き止めるように、席を立ったムン少尉に後ろから抱き締められる。
「いじめてごめん。お前が『一番』気に入ってるよ」
白いコートから少しはみ出ている首筋を舌で舐め上げられた。それは軍隊の人間らしくない声と言葉の使い方だった。
此の上官を始めから愛していた訳では無かった。
自分の心の中には唯一の存在、絶対的な太陽のような存在があった筈だった。
けれどもいつしか、月のような存在が、心の中の割合を占めるようになっていた。
其れが——ジュニョンだった。
少尉に引き摺られ、誘われるがままに寝床に押し倒された。
くちづけが深くなり、びちゃびちゃと淫猥な音が部屋に響く。
ジュニョンの腕は、自分の軍服のボタンを外した後で、ヒョンシクのコートの下に着込んでいたシャツを引きちぎる勢いで外していった。
くちづけの合間に開いた瞳で、ヒョンシクは別方向から見つめられていることに気付いた。
半月の形をした、白目と黒目の割合が美しい瞳。
慰み者にされ、穢されていながらも尚輝く瞳。
窓辺で、動くことを許されず座ったままの人間を見た。
ムン少尉が少し切羽詰まった顔で、愛の言葉を囁いて来る。女を相手にしているかのように、ヒョンシクの容貌を褒め、体を愛撫し、探る。
目の前の色情に染まった瞳と、遠くにある雪のように冷えた瞳に見つめられながら、ヒョンシクは突き上げられて喘ぎ、ジュニョン、と何度も名前を呼んだ。
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1998年
「よく分からない人でした。紳士的になったり、民間人を自分専属の慰み者にしたり、私に好きだと言ったり、お前なんか愛していないと言ったり……」
老人は、こんな話聞かせて本当に申し訳すみませんね、と頭を下げた。
「最後まで分からなかった。でも、関係を最後まで断ち切れませんでした」
「最後?」
シワンは言葉を拾った。
「はい。あの冬戦争が終結するまで」
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1940年3月6日
32人の兵士で4000人の軍隊と突撃を撃退した話は瞬く間に大地を駆け巡った。
其の後戦争は更に悪化し、更に2000人の軍隊が送り込まれた。
其の頃既に戦争は数の戦争になっており、個人の力だけでは到底敵わない状態に追い込まれていた。例え4000人の軍隊を撃退出来ても、既にヒョンシクの居た隊は戦いを続行出来る兵力は余っていなかった。
或る朝、砲撃が開始された。
相手の前線は迫り、ヒョンシクは、
目の前で、ムン少尉の頭が撃ち抜かれ、片方の頭部から血が大量に吹き出るのを見た。白い血が雪に広がり、彼の体は雪原に沈んで見えなくなった。
叫びたかった。
名前を呼び、すぐに駆け出したかった。
が、
自分も、顎を撃ち抜かれ、左半身に銃撃を受けた。
生まれて初めて体で感じた鉛の重さに、呼吸が停止した。瞬間体温が急上昇し、白い息を吐いた。汗が出、顔面が焼けるように熱かった。自分の体もまた雪に埋もれて行き、白いコートにべったりと血が付いているのを、まるで他人事のように眺めた。そして、意識が途切れそうになったり、戻ってひたすらに痛みと心臓の鼓動を感じたりを繰り返していた。
此処で死ぬ——そう思った。
覚悟はしていたことではあったが、様々なことが脳裏をかけめぐった。
どうしても思い出したい顔があったのに、其れが何かすら分からないほど、脳は混乱し興奮していた。
のたうち回った地面から、燃えるような太陽を見た。
意識は遠のいて行った。
(——生きてる)
目を覚ますと、右目だけが動くことを感じた。顔の半分はまるで機能していないことに気付く。全身麻酔がかかっているらしく、起き上がることが出来ない。
ただ、意識だけがあった。
「起きたか」
誰かの声がした。男の声だった。
「此処は……」
ヒョンシクは動かない首を無理に動かそうとし、もがいた。目を見るとひたすらに白い天井——けれど、所々に蜘蛛の巣がある——が見えた。
「野戦病院だった場所だ。あんたは頭に銃撃を受けて、大けがを負った」
見えていた視界が塞がれ、美しい、人間の鼻が見えた。見覚えのある、鼻だった。
「何故?」
「何故だって?」
ヒョンシクの目はやがて男の目と焦点が合った。半月の、目と。
「あんたは兵士だった俺の父を殺し、あの戦いで民間人だった母と姉を巻き込み、俺から全部奪った」
「…………」
ヒョンシクの首に、細い手が絡められたのに気付いた。目の前の美しい顔は、涙で歪んでいた。
「友人も、親戚の家族も。皆、お前らの軍隊に向かって、全員頭を撃ち抜かれて死んだ。俺だけが、軍隊にも行けなくて、置き去りになって……」
ヒョンシクは抵抗もせず——実際、全身麻酔で動けずに居たのだが——其の独白を聞いていた。
「全部!全部お前らが奪った!絶対に許せなかった」
「……殺していい。貴方には其の権利がある」
「簡単に言うな!」
ヒョンシクの右頬に、水滴が落ちた。
「死神め。お前だけは、絶対に許さない。死にたくなるほどの苦しみを死ぬ迄味わわせてやる。其れが、俺の復讐だ」
華奢な手が、離れて行った。
病室には、彼の嗚咽が響いた。
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1998年
「3月6日の戦いで貴方は負傷し、死亡したことになっている、と…………?」
シワンは手に持った死亡診断書を何度も見つめた。老人はこくんと頷き、自分は既に此の国には存在しない人間だと言った。
「待ってください。でも私は、確かに人に聞いて、此処に来たのです。事前取材もしています。貴方の名前も確かにあった。確かに文献の記述はばらばらでした。けれども、今生きている人間のことだから書かないのだろうと思っていました」
「人、ですか……」
老人は右眉をくい、と上げ、シワンの顔を見た。
「貴方は私のことを大のマスメディア嫌いだとも言っていましたね。でも、それは、誰ですか?」
一生癒えない銃撃の負傷の痕と、負傷していないを、シワンはまっすぐに見つめた。
「——祖父です」
==================
1940年
「あんたは生きて散々苦しんでから死ねばいい。絶望するだけしてから死ね。自殺は絶対に許さない」
「ああ……」
「あんたは此処で死んだ。あとは此の世界に存在していない人間として——本物の死神として、生きろ」
美しい顔が、復讐の念で歪むのを見た。
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1998年
「祖父に、聞きました。白い死神が、何処かで生きているのだと」
老人は目を閉じた。
「——イムさん。『何者か』が、治療を諦めた軍隊から私の『遺体』を持ち去り、修復し、死神を死神として蘇らせました」
「……」
「ただ、死神の行方を知っているのは、其の一人だけだと思いませんか」
「死亡診断書の、此の文字をもう一度よく見てください」
見覚え、ありませんか。
「だから、貴方の取材を受けたのです」
老人となったヒョンシクの目の前にあったのは、あのとき、自分に生きろと言った顔とそっくり重なるのだった。
日は完全に沈み、大地には静寂が訪れていた。シワンは左側の袖口を捲り、腕時計を確かめた。時刻は17時を少し過ぎていた。長居をしてしまっていたことに気付き、途端に申し訳無い気持ちになった。
トントン
扉がノックされた。
「爺さん!」
誰かが呼ぶ声がした。若い男の声だと思う。
「失礼」
老人は椅子を立ち、足元に居た茶色の大型犬の首輪を引いて、玄関へ向かった。シワンは振り返り、彼が出て行った部屋のドアを見つめ、其の先の会話に聞き耳を立てていた。
「——お客さん?」
「そんなところだ」
「ふうん……じゃ、行って来るね」
「頼むぞ」
「うん」
犬の鳴き声がいくつか聞こえた。それと同時に玄関のドアが閉まる音がし、玄関の地面を踏む男がする。鍵をかける音がし、また老人の足音がシワンの通された部屋へ戻ってくるのを感じた。
「お孫さん…ですか?」
口にしてから、随分と間の抜けた質問をしたことをすぐにシワンは反省した。
「近所の子です」
シワンが口を噤み、既に唇から離れてしまった言葉を後悔するように右手で口元を隠したのを見て、老人は苦笑いをした。
「家族を持ったことはありませんので……それどころか……」
老人は途中で言葉を切り、本棚の一番高い棚から、一冊の本を取り出した。埃を被った厚い表紙を数回手で払いてからシワンに見せるように表紙を開く。すると其れが本の形をした小物入れであったことに気付いた。表紙の形状になった蓋を開いた反対側には、厚いページの中央を長方形にくり抜いたように穴が開いていた。
其処に、一枚の紙切れがあった。
老人が小さくたたまれた其れを取り出し、開いて行く。
——死亡診断書?
シワンは老人が無言で差し出した白い紙を見て、絶句した。
『氏名:パク・ヒョンシク
性別:男
生年月日:1905年11月16日
死亡日時:1940年3月6日午後4時01分
死因:戦傷による大脳動脈栓塞』
「え……?」
死亡日時:1940年3月6日午後4時01分
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1930年、冬 隣国
「そろそろ一時間だが……」
一人の兵士が、懐中時計を取り出した。林へ送った小隊からの伝令が無い。聞けば敵は数十名の兵士しか其の林に配置していないと言う。こちらの戦力はその百倍。30分もあれば国境を突破していた其の軍を撃退させられると思っていた。
「伝令!伝令は未だか!」
「兵長、其れが……」
下級の兵士が手を挙げ、とても答えにくそうに言った。
「あの中に、死神が居るそうです」
「黙れ!敵国の作り話など信じられるか!探索隊を送れ。お前も行くのだ。早く!」
探索隊が付近を確認すると、其処はいくつもの兵士の遺体が散らばり、頭部、腕、胴体、脚がまるで解体された人形のように吹き飛ばされて転がっていた。体のパーツはかろうじて揃っている者でも脳を確実に撃ち抜かれていた。
生きている者は、誰も居なかった。
「死神だ……」
下級兵士は、白いコートを吹雪きに委ねながら、静かに標的を狙うという人物を脳裏に描いた。
静かに降り立つ、白い死神。
世界の修復を行うために災いをもたらす、死の世界からの使者。
次の瞬間、下級兵士のこめかみに縦断が命中した。
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同時期 2時間前
「こんな少ない人数で進撃しろだなんて」
ヒョンシクの隣でライフル銃の手入れをしていた細身の兵士が口を曲げた。同年兵のハ上等兵だった。
「口封じさ」
ヒョンシクが木の根元に寄り掛かったまま答えると、ハ上等兵はヒョンシクの顔を伺うように、見つめた。其の瞳は夜間でも分かる位に疑問と好奇心に満ちていた。
「——そうなの?」
林の中、二人の間の空気だけが、戦いの合図も無いのに一気に張りつめた。
「キム少将のことを知る人間を一人残らず抹消するには、良い作戦だろう」
「は?」
先日中央で亡くなったという少将の名前を聞き、ハ上等兵は顔を歪めた。其の名前は、ハ上等兵にとっても尊敬していた人物のものであり、事態を理解するのに時間がかかった。
遠くの空で銃声が鳴った。
ヒョンシクとハ上等兵は互いに目を合わせ、体勢を立て直した。
「話は後だ!誰が俺たちを殺そうとしようが、生き延びてやる」
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1998年
キム少将の件を始末するために、当時キム少将を知る軍隊を効率良く殲滅させることを上層部は考え出した。
小隊を国境沿いに配置し、進軍させ続けることで隣国の兵士をなぎ倒させることであった。
「数の暴力に個人の暴力が勝ることが無い、とは言いきれません。まして、こちらには死神がついていましたからね」
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1931年、冬の戦い:国境の林にて敵国小隊撃破
1932年、冬の戦い:敵国の湖にて敵国戦車3両撃破
1933年、冬の戦い:国境にて敵国戦車7両撃破
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1934年、冬 酒場
小隊が500人の舞台を壊滅させた翌日、中央から新しい少尉が小隊長として派遣されてきた。
時は流れ、ヒョンシクの周囲にも、中央司令部にもキム少将の件を知る人物が居なくなっていた。内部クーデターが勃発し、中央司令部は一度崩壊した。そして反元帥派の人間が一掃されていたからである。
ハ上等兵は狙撃手としての腕を買われ、南方の軍に兵長として赴いていた。ヒョンシク自身も昇進や配置転換を幾度となく薦められたものの、自分は此の北方の国境を守りたいと動かず、昇進も兵長の座を無理矢理に押し付けられ、渋々しただけだった。
昇進には全くの興味が無かった。
ただ誰かの命令に従い、任務を遂行することに専念したかった。
何も考えたくなかった。
小隊は酒場で新しい少尉を迎え、騒がしい夜を送っていた。
ヒョンシクは集団から離れ、一人酒場の出入口に立って空を見上げていた。
木の枝に積もった新しい雪を摘み、口元に運んだ。少し体温を持ち始めていた口の中で冷たい氷が溶ける。未だ溶けて行く感覚があって、口の中が熱を持っているのだと思う。
——雪を食べるのは癖になっていた。
「宴の主役が、随分粗末なもの食ってるんだな」
くぐもった声がし、やや聞き慣れない其の響きにヒョンシクが振り返ると、左目に眼帯をした軍人が立っていた。
——ムン少尉だった。
慌てて敬礼をすると、ムン少尉はくすくすと笑った。
「今日は無礼講だぞ。酒も、煙草も、女もある。なのに、主役の主食が雪だと?」
少尉は言葉を吐く。白い吐息が待った。
ムン少尉が出て来た扉の後ろからは、騒々しい男達の大きな笑い声や女の嬌声が聞こえた。二人の立つ場所には酒場の出入口に取り付けられた粗末な電灯の、橙色の光があるのみだった。
「申し訳ありません」
ヒョンシクはごくりと唾を飲み込み、口の中にあった雪を全て食べた。
「死神は……お前のことだな?」
「……そう呼ぶ人も居ます」
ヒョンシクはいつからか誰かが付けた自分の異名について、認めた。ムン少尉はヒョンシクに近付き、右目だけでヒョンシクの頭の天辺から爪先迄をまじまじと観察するように見た。些か無神経な視線をヒョンシクは一身で受け止めた。
「一体どんな男かと思ったが、成程」
ムン少尉が距離を縮めた。
「俺好みの美丈夫だ」
抵抗する間もなく、手慣れた仕草で頭を引き寄せられ、くちづけられていた。
「よろしくな」
ムン少尉——ジュニョンは、短い接吻の後にアルコール臭い息を吐いて、また背後の扉の向こうへと消えて行った。
其れが、ジュニョンとの、はじまり。
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1934年、冬 国境付近の村
隣国の兵士との戦闘は、民間人を巻き込み凄惨な状態で終えられた。辺りには炎が立ち上り、死臭が立ち籠めていた。
ムン少尉は火力で敵を押し込む作戦よりも、相手を攪乱し投降させ死を最小限に抑える戦術を好んだものの、此の時の戦闘は相手が二軍に分かれ前後方からの射撃を行おうとしたため、事態は悲惨な結果となった。
兵士を捕虜としようとしたものの、生きている者を探す方が難しかった。
そんな中、一人の人間が二人の兵士に両腕を抱えられて引き摺られて行くのを、ヒョンシクは見ていた。
色白の肌を持つ人間であることは分かったが、顔が見えず、また骨格や着ていたものからは性別の区別も分からなかった。やけに痩せ細った人間であった。
「殺せ!殺してくれ!」
死んだ大地に、声が響いた。
男のものだった。
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1934年、冬 ムン少尉の部屋
「こうして見るとますます美しい。そう思わないか?」
ムン少尉は満足げに其の人物を膝の上に乗せ、ヒョンシクに意見を聞いた。
「……はい」
数日前の戦闘で引き摺られていた人物の正体を、ヒョンシクは始めて少尉の部屋で見つめた。あのとき自分が目にした折れそうな手足。色白で整った顔立ち。長い睫毛に、人の血を塗ったような赤い唇。女のようにも見え、男のようでもある、人外の存在のような人間だった。其の人物はまるで何もかもを映すことを拒むかのように、呆然とした瞳でぼんやりと部屋の中の空気を見ていた。
「気に入ったら、パク兵長、お前にも貸してやる。それとも——3人で寝るか?」
ムン少尉はそう言って、手元にあったショートグラスに注がれた酒をあおった。
「……失礼します」
此の部屋に居るべきではない、と判断し、ヒョンシクは一方的に席を立った。
「嘘さ」
引き止めるように、席を立ったムン少尉に後ろから抱き締められる。
「いじめてごめん。お前が『一番』気に入ってるよ」
白いコートから少しはみ出ている首筋を舌で舐め上げられた。それは軍隊の人間らしくない声と言葉の使い方だった。
此の上官を始めから愛していた訳では無かった。
自分の心の中には唯一の存在、絶対的な太陽のような存在があった筈だった。
けれどもいつしか、月のような存在が、心の中の割合を占めるようになっていた。
其れが——ジュニョンだった。
少尉に引き摺られ、誘われるがままに寝床に押し倒された。
くちづけが深くなり、びちゃびちゃと淫猥な音が部屋に響く。
ジュニョンの腕は、自分の軍服のボタンを外した後で、ヒョンシクのコートの下に着込んでいたシャツを引きちぎる勢いで外していった。
くちづけの合間に開いた瞳で、ヒョンシクは別方向から見つめられていることに気付いた。
半月の形をした、白目と黒目の割合が美しい瞳。
慰み者にされ、穢されていながらも尚輝く瞳。
窓辺で、動くことを許されず座ったままの人間を見た。
ムン少尉が少し切羽詰まった顔で、愛の言葉を囁いて来る。女を相手にしているかのように、ヒョンシクの容貌を褒め、体を愛撫し、探る。
目の前の色情に染まった瞳と、遠くにある雪のように冷えた瞳に見つめられながら、ヒョンシクは突き上げられて喘ぎ、ジュニョン、と何度も名前を呼んだ。
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1998年
「よく分からない人でした。紳士的になったり、民間人を自分専属の慰み者にしたり、私に好きだと言ったり、お前なんか愛していないと言ったり……」
老人は、こんな話聞かせて本当に申し訳すみませんね、と頭を下げた。
「最後まで分からなかった。でも、関係を最後まで断ち切れませんでした」
「最後?」
シワンは言葉を拾った。
「はい。あの冬戦争が終結するまで」
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1940年3月6日
32人の兵士で4000人の軍隊と突撃を撃退した話は瞬く間に大地を駆け巡った。
其の後戦争は更に悪化し、更に2000人の軍隊が送り込まれた。
其の頃既に戦争は数の戦争になっており、個人の力だけでは到底敵わない状態に追い込まれていた。例え4000人の軍隊を撃退出来ても、既にヒョンシクの居た隊は戦いを続行出来る兵力は余っていなかった。
或る朝、砲撃が開始された。
相手の前線は迫り、ヒョンシクは、
目の前で、ムン少尉の頭が撃ち抜かれ、片方の頭部から血が大量に吹き出るのを見た。白い血が雪に広がり、彼の体は雪原に沈んで見えなくなった。
叫びたかった。
名前を呼び、すぐに駆け出したかった。
が、
自分も、顎を撃ち抜かれ、左半身に銃撃を受けた。
生まれて初めて体で感じた鉛の重さに、呼吸が停止した。瞬間体温が急上昇し、白い息を吐いた。汗が出、顔面が焼けるように熱かった。自分の体もまた雪に埋もれて行き、白いコートにべったりと血が付いているのを、まるで他人事のように眺めた。そして、意識が途切れそうになったり、戻ってひたすらに痛みと心臓の鼓動を感じたりを繰り返していた。
此処で死ぬ——そう思った。
覚悟はしていたことではあったが、様々なことが脳裏をかけめぐった。
どうしても思い出したい顔があったのに、其れが何かすら分からないほど、脳は混乱し興奮していた。
のたうち回った地面から、燃えるような太陽を見た。
意識は遠のいて行った。
(——生きてる)
目を覚ますと、右目だけが動くことを感じた。顔の半分はまるで機能していないことに気付く。全身麻酔がかかっているらしく、起き上がることが出来ない。
ただ、意識だけがあった。
「起きたか」
誰かの声がした。男の声だった。
「此処は……」
ヒョンシクは動かない首を無理に動かそうとし、もがいた。目を見るとひたすらに白い天井——けれど、所々に蜘蛛の巣がある——が見えた。
「野戦病院だった場所だ。あんたは頭に銃撃を受けて、大けがを負った」
見えていた視界が塞がれ、美しい、人間の鼻が見えた。見覚えのある、鼻だった。
「何故?」
「何故だって?」
ヒョンシクの目はやがて男の目と焦点が合った。半月の、目と。
「あんたは兵士だった俺の父を殺し、あの戦いで民間人だった母と姉を巻き込み、俺から全部奪った」
「…………」
ヒョンシクの首に、細い手が絡められたのに気付いた。目の前の美しい顔は、涙で歪んでいた。
「友人も、親戚の家族も。皆、お前らの軍隊に向かって、全員頭を撃ち抜かれて死んだ。俺だけが、軍隊にも行けなくて、置き去りになって……」
ヒョンシクは抵抗もせず——実際、全身麻酔で動けずに居たのだが——其の独白を聞いていた。
「全部!全部お前らが奪った!絶対に許せなかった」
「……殺していい。貴方には其の権利がある」
「簡単に言うな!」
ヒョンシクの右頬に、水滴が落ちた。
「死神め。お前だけは、絶対に許さない。死にたくなるほどの苦しみを死ぬ迄味わわせてやる。其れが、俺の復讐だ」
華奢な手が、離れて行った。
病室には、彼の嗚咽が響いた。
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1998年
「3月6日の戦いで貴方は負傷し、死亡したことになっている、と…………?」
シワンは手に持った死亡診断書を何度も見つめた。老人はこくんと頷き、自分は既に此の国には存在しない人間だと言った。
「待ってください。でも私は、確かに人に聞いて、此処に来たのです。事前取材もしています。貴方の名前も確かにあった。確かに文献の記述はばらばらでした。けれども、今生きている人間のことだから書かないのだろうと思っていました」
「人、ですか……」
老人は右眉をくい、と上げ、シワンの顔を見た。
「貴方は私のことを大のマスメディア嫌いだとも言っていましたね。でも、それは、誰ですか?」
一生癒えない銃撃の負傷の痕と、負傷していないを、シワンはまっすぐに見つめた。
「——祖父です」
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1940年
「あんたは生きて散々苦しんでから死ねばいい。絶望するだけしてから死ね。自殺は絶対に許さない」
「ああ……」
「あんたは此処で死んだ。あとは此の世界に存在していない人間として——本物の死神として、生きろ」
美しい顔が、復讐の念で歪むのを見た。
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1998年
「祖父に、聞きました。白い死神が、何処かで生きているのだと」
老人は目を閉じた。
「——イムさん。『何者か』が、治療を諦めた軍隊から私の『遺体』を持ち去り、修復し、死神を死神として蘇らせました」
「……」
「ただ、死神の行方を知っているのは、其の一人だけだと思いませんか」
「死亡診断書の、此の文字をもう一度よく見てください」
見覚え、ありませんか。
「だから、貴方の取材を受けたのです」
老人となったヒョンシクの目の前にあったのは、あのとき、自分に生きろと言った顔とそっくり重なるのだった。
1928年、冬 陸軍総司令部
国の象徴の旗と軍の旗が二つ、窓辺に掲げられていた。
「——ようこそ、中央司令部へ。キム・ジヨプ少将」
最敬礼し、顔を上げると、元帥が手を広げて言った。
「有難き幸せにございます」
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1998年、冬
「キム曹長は其の功績と人柄を買われ、有り得ないような昇進を果たしました」
「——彼の最後の階級は、少将だったと?」
シワンは手元に広げていたノートを捲り、確かめた。此の国の少将の椅子には既に別の人間に座られていた筈である。少なくとも、今耳にした名前の人物ではなかった。
「いかにも」
「まさか……」
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1928年、夏 野戦病院
此の国に短い夏が来ていた。
ヒョンシクは大腿部に砲撃を受け負傷したキム大尉を見舞いに行っていた。
「進軍禁止を無視して進むなんて、本来であれば御法度であったかと。此の程度の負傷と、目を瞑った上層部の裁き、そして神に感謝すべきです」
窓辺に置かれたガラス瓶に差された向日葵の水を入れ替えながら、ヒョンシクは呟いた。窓からは、長くは続かない夏の、強烈な日差しがカーテンに和らげられながら差し込んできていた。
「中央の指揮官が出す戦略になど従うものか」
いたずらっ子のように笑う姿が、包帯巻きにされていても彼らしさを感じた。
「大尉の居る位置こそが第一線だ。違うか?」
「違いません」
「だろう」
大尉が、また笑う。
感覚はいつの間にか麻痺していた。
「生きる為」に目の前を阻むものを撃ち、大切な者を守ろうとしていた。
其れが、全てだった。
「……大尉、ああ、もう……少将ですね、ご昇進おめでとうございます」
「ああ」
ヒョンシクは窓の外を見ながら、キム大尉と目を合わせずに言った。
「中央へは、いつ?」
蝉が鳴いている。
「三週間後だ」
「……急な話ですね」
蝉が鳴くのをやめる。
ヒョンシクは、庭の中央あたりに転がっている別の蝉の死骸を見付けた。
「此の入院もあるし、引き延ばしてこんなものだろう」
「……寂しくなります」
「……」
「戦いが終わったら……」
キム大尉——キム少将——いや、ケビンが、口を開いた。
「お前の生まれた町を案内してくれないか。今度は、仕留めた鴨の数を競おう」
「負けませんよ」
ヒョンシクが窓から振り返った。其の笑顔が向日葵のようだと、ケビンは思った。
==================
1998年
「『戦いが終わったら』なんて話をするのは、死ぬ間際の側の人間の台詞です」
どのような創作物であれ、そう口にする人間は決して帰っては来ない。
そして其れはフィクションの世界だけでなく、現実でも同じことが言えるのだ。
==================
1929年、冬 中央区
元帥の乗った自動車が、機銃掃射された。
==================
同時期 陸軍総司令部
「何たることだ!今すぐ首謀者を突き止めよ」
「元帥は無事か」
「頭部を負傷したそうです」
「暗殺未遂だ!」
一報の届いた司令室内には上官クラスの軍人達が集まり、口々に事実と憶測が飛び交った。
混乱の中で、真しやかな噂が流れた。
「キム・ジヨプ少将が首謀者だ」と。
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1998年
「実績も人気も高かったキム曹長…キム少将を、良く思わなかった反元帥派に陥れられたと——そういうことですか?」
「そうだと思っています。実際、本人も言っていました——が」
老人は一瞬立ち上がり、矍鑠とした動きで台所へ向かうと、更に水を汲み、足元で腹這いになっていた大型犬へ水を飲ませた。
水音が響く。
「実際のところは、分かりません。本当に首謀者だったのかもしれません」
シワンは老人の顔を伺った。けれど、其の顔の半分は潰れており、全く表情が見えず、もう半分の顔は影となっており、やはりそちらでも表情は掴めなかった。
「——彼が自殺する前日、逢いに行きました」
==================
1929年、冬 中央区 キム・ジヨプ少将自宅
「久しぶりだな。パク」
扉を開け、顔を出したのは1年前の夏、最後に見た笑顔と同じ笑顔だった。
ヒョンシクは何故自分が、隊のある田舎町から中央区へ呼び出されたかも分からないまま、立っていた。
差し出された手紙の住所を頼りに、慣れない列車に乗って、道に迷い、人に尋ねながらようやく辿り着いた。
感動の再会は周囲を見張りの者に囲まれ、やけに仰々しいかたちで果たされた。
「——裁判で反逆罪になるか、名誉を守って自殺するかを選ばせてくれた」
応接室の椅子に深く腰掛けて足を組み、少将は何でもないことのように言った。
「何れにせよ、死ねってことじゃないか……」
ヒョンシクは告げられた事実、今迄自分が見聞きしていた軍の中での知らせ、そして少将から差し出された検閲済みの手紙の内容が全て一本の線で繋がったことに、戸惑い、激しく動揺していた。
座らされた椅子で、頭を抱え、キム少将の顔を見ることが出来なかった。
「せめて、裁判を!」
「——ヒョンシク」
久しぶりに呼ばれた、其の名前。
顔を上げると、冬の日差しに照らされた、懐かしい顔があった。幾多の戦場をくぐり抜け、今暗殺未遂の容疑をかけられている人物であるにも関わらず、優しい、微笑。
「裁判は駄目だ。反逆罪になったら、『周り』を巻き込んでしまう」
——『周り』。
「明日、此の薬を飲む。奴らの前で」
「嫌だ」
ヒョンシクは自分の視界が涙で滲み、鼻の奥に詰まるような感覚があるのを感じた。
「嫌だ!!」
バンッ
キム少将——ケビンが右手に持っていた銀色の指輪が床に落ちた。
其の指輪は上位の軍人であれば誰もが持つ、服毒自殺用の毒が納められた指輪だった。
「何で?何でなんだよ!本当にヒョンが殺そうとしたのか!?どうなんだよ!言えよ!」
ヒョンシクは立ち上がって、ケビンの手を殴って指輪を叩き落とし、ケビンの軍服の襟を掴んだ。
「上官に向かって凄い口の聞き方だな」
やれやれ、という様子でケビンは目を閉じ、しかし口元には笑みをたたえたままだった。
「言えよ!弁解してくれよ!何で…何で……ああ!」
ヒョンシクの目から無数の涙が零れ、鼻の頭は赤くなり、酷い声になっていた。
「嫌だ…ヒョン……また俺を置いて行かないで……」
襟を掴み激しく揺さぶっていた手は、勢いを無くしていた。
ヒョンシクは両手で顔を多い、床に膝から崩れ落ちた。
ぽん
「——一日だって、お前のことを忘れたことがなかった」
子供のように泣きじゃくるヒョンシクの頭に、大きな手が乗せられた。
「……俺は、あんたの、こと、なんか、忘れてた……」
途切れ途切れに、抵抗し強がる泣き声がした。小刻みに肩が震えている。
「愛してる」
「——!」
「お前のことが好きだったよ。ずっと」
「ケビン……ヒョン……」
「死人のうわごとだって、適当に流してくれていい」
「無理だ!」
「すまない」
「何でだよ!……全部……全部、遅過ぎるよ!!」
ヒョンシクが、椅子に座ったケビンに抱きつく。
==================
翌朝
「準備は良いか?キム少将」
「はい」
ケビンは、指輪の蓋を開けて指輪を引っくり返し、白い粉を左手の掌にさらさらと落とした。
==================
もう一つの、翌朝
ヒョンシクは列車に乗っていた。
腰の痛みと、背中に付いた爪の痕の痛み、腕に残る指の痕、首筋に付けられた鬱血の証拠が何れ消えて行くことを思いながら、朦朧とした寝不足の頭で、過ぎて行く中央都市の町並みを見つめていた。
何れ消えて行く痛みと知りながら、永遠に続き、何時までも其の痛みと生きていられるよう、願っていた。
==================
1998年
「……軽蔑しますか?」
老人は、シワンへ目線を向けた。潰れた左目と、元の形のままの右目。右目だけを見ていると、其の人物が黒目がちなことに気付いた。
「男同士で……とういことがですか?」
「はい。こんな老いぼれから、妙な話をしてしまってすみませんね」
老人は照れた様子も、言いにくそうな様子も無く、其の身にあったことを淡々と語った。
「イムさんは……恋人は居ますか?」
「え?あ、いえ」
そういうのは、全然で。シワンは急な質問に戸惑い、其れでも律儀に返答した。
「成程」
老人は少しからかう口調で笑った。
「もし、大切な人が居るなら、一緒に居る時間を大切にしてください。言いたいことがあるなら、例え言い争いになるとしても、もしかしたら相手を困らせることでも、すぐに言った方が良い。戦争が私に教えてくれたのは、其のことだけです」
国の象徴の旗と軍の旗が二つ、窓辺に掲げられていた。
「——ようこそ、中央司令部へ。キム・ジヨプ少将」
最敬礼し、顔を上げると、元帥が手を広げて言った。
「有難き幸せにございます」
==================
1998年、冬
「キム曹長は其の功績と人柄を買われ、有り得ないような昇進を果たしました」
「——彼の最後の階級は、少将だったと?」
シワンは手元に広げていたノートを捲り、確かめた。此の国の少将の椅子には既に別の人間に座られていた筈である。少なくとも、今耳にした名前の人物ではなかった。
「いかにも」
「まさか……」
==================
1928年、夏 野戦病院
此の国に短い夏が来ていた。
ヒョンシクは大腿部に砲撃を受け負傷したキム大尉を見舞いに行っていた。
「進軍禁止を無視して進むなんて、本来であれば御法度であったかと。此の程度の負傷と、目を瞑った上層部の裁き、そして神に感謝すべきです」
窓辺に置かれたガラス瓶に差された向日葵の水を入れ替えながら、ヒョンシクは呟いた。窓からは、長くは続かない夏の、強烈な日差しがカーテンに和らげられながら差し込んできていた。
「中央の指揮官が出す戦略になど従うものか」
いたずらっ子のように笑う姿が、包帯巻きにされていても彼らしさを感じた。
「大尉の居る位置こそが第一線だ。違うか?」
「違いません」
「だろう」
大尉が、また笑う。
感覚はいつの間にか麻痺していた。
「生きる為」に目の前を阻むものを撃ち、大切な者を守ろうとしていた。
其れが、全てだった。
「……大尉、ああ、もう……少将ですね、ご昇進おめでとうございます」
「ああ」
ヒョンシクは窓の外を見ながら、キム大尉と目を合わせずに言った。
「中央へは、いつ?」
蝉が鳴いている。
「三週間後だ」
「……急な話ですね」
蝉が鳴くのをやめる。
ヒョンシクは、庭の中央あたりに転がっている別の蝉の死骸を見付けた。
「此の入院もあるし、引き延ばしてこんなものだろう」
「……寂しくなります」
「……」
「戦いが終わったら……」
キム大尉——キム少将——いや、ケビンが、口を開いた。
「お前の生まれた町を案内してくれないか。今度は、仕留めた鴨の数を競おう」
「負けませんよ」
ヒョンシクが窓から振り返った。其の笑顔が向日葵のようだと、ケビンは思った。
==================
1998年
「『戦いが終わったら』なんて話をするのは、死ぬ間際の側の人間の台詞です」
どのような創作物であれ、そう口にする人間は決して帰っては来ない。
そして其れはフィクションの世界だけでなく、現実でも同じことが言えるのだ。
==================
1929年、冬 中央区
元帥の乗った自動車が、機銃掃射された。
==================
同時期 陸軍総司令部
「何たることだ!今すぐ首謀者を突き止めよ」
「元帥は無事か」
「頭部を負傷したそうです」
「暗殺未遂だ!」
一報の届いた司令室内には上官クラスの軍人達が集まり、口々に事実と憶測が飛び交った。
混乱の中で、真しやかな噂が流れた。
「キム・ジヨプ少将が首謀者だ」と。
==================
1998年
「実績も人気も高かったキム曹長…キム少将を、良く思わなかった反元帥派に陥れられたと——そういうことですか?」
「そうだと思っています。実際、本人も言っていました——が」
老人は一瞬立ち上がり、矍鑠とした動きで台所へ向かうと、更に水を汲み、足元で腹這いになっていた大型犬へ水を飲ませた。
水音が響く。
「実際のところは、分かりません。本当に首謀者だったのかもしれません」
シワンは老人の顔を伺った。けれど、其の顔の半分は潰れており、全く表情が見えず、もう半分の顔は影となっており、やはりそちらでも表情は掴めなかった。
「——彼が自殺する前日、逢いに行きました」
==================
1929年、冬 中央区 キム・ジヨプ少将自宅
「久しぶりだな。パク」
扉を開け、顔を出したのは1年前の夏、最後に見た笑顔と同じ笑顔だった。
ヒョンシクは何故自分が、隊のある田舎町から中央区へ呼び出されたかも分からないまま、立っていた。
差し出された手紙の住所を頼りに、慣れない列車に乗って、道に迷い、人に尋ねながらようやく辿り着いた。
感動の再会は周囲を見張りの者に囲まれ、やけに仰々しいかたちで果たされた。
「——裁判で反逆罪になるか、名誉を守って自殺するかを選ばせてくれた」
応接室の椅子に深く腰掛けて足を組み、少将は何でもないことのように言った。
「何れにせよ、死ねってことじゃないか……」
ヒョンシクは告げられた事実、今迄自分が見聞きしていた軍の中での知らせ、そして少将から差し出された検閲済みの手紙の内容が全て一本の線で繋がったことに、戸惑い、激しく動揺していた。
座らされた椅子で、頭を抱え、キム少将の顔を見ることが出来なかった。
「せめて、裁判を!」
「——ヒョンシク」
久しぶりに呼ばれた、其の名前。
顔を上げると、冬の日差しに照らされた、懐かしい顔があった。幾多の戦場をくぐり抜け、今暗殺未遂の容疑をかけられている人物であるにも関わらず、優しい、微笑。
「裁判は駄目だ。反逆罪になったら、『周り』を巻き込んでしまう」
——『周り』。
「明日、此の薬を飲む。奴らの前で」
「嫌だ」
ヒョンシクは自分の視界が涙で滲み、鼻の奥に詰まるような感覚があるのを感じた。
「嫌だ!!」
バンッ
キム少将——ケビンが右手に持っていた銀色の指輪が床に落ちた。
其の指輪は上位の軍人であれば誰もが持つ、服毒自殺用の毒が納められた指輪だった。
「何で?何でなんだよ!本当にヒョンが殺そうとしたのか!?どうなんだよ!言えよ!」
ヒョンシクは立ち上がって、ケビンの手を殴って指輪を叩き落とし、ケビンの軍服の襟を掴んだ。
「上官に向かって凄い口の聞き方だな」
やれやれ、という様子でケビンは目を閉じ、しかし口元には笑みをたたえたままだった。
「言えよ!弁解してくれよ!何で…何で……ああ!」
ヒョンシクの目から無数の涙が零れ、鼻の頭は赤くなり、酷い声になっていた。
「嫌だ…ヒョン……また俺を置いて行かないで……」
襟を掴み激しく揺さぶっていた手は、勢いを無くしていた。
ヒョンシクは両手で顔を多い、床に膝から崩れ落ちた。
ぽん
「——一日だって、お前のことを忘れたことがなかった」
子供のように泣きじゃくるヒョンシクの頭に、大きな手が乗せられた。
「……俺は、あんたの、こと、なんか、忘れてた……」
途切れ途切れに、抵抗し強がる泣き声がした。小刻みに肩が震えている。
「愛してる」
「——!」
「お前のことが好きだったよ。ずっと」
「ケビン……ヒョン……」
「死人のうわごとだって、適当に流してくれていい」
「無理だ!」
「すまない」
「何でだよ!……全部……全部、遅過ぎるよ!!」
ヒョンシクが、椅子に座ったケビンに抱きつく。
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翌朝
「準備は良いか?キム少将」
「はい」
ケビンは、指輪の蓋を開けて指輪を引っくり返し、白い粉を左手の掌にさらさらと落とした。
==================
もう一つの、翌朝
ヒョンシクは列車に乗っていた。
腰の痛みと、背中に付いた爪の痕の痛み、腕に残る指の痕、首筋に付けられた鬱血の証拠が何れ消えて行くことを思いながら、朦朧とした寝不足の頭で、過ぎて行く中央都市の町並みを見つめていた。
何れ消えて行く痛みと知りながら、永遠に続き、何時までも其の痛みと生きていられるよう、願っていた。
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1998年
「……軽蔑しますか?」
老人は、シワンへ目線を向けた。潰れた左目と、元の形のままの右目。右目だけを見ていると、其の人物が黒目がちなことに気付いた。
「男同士で……とういことがですか?」
「はい。こんな老いぼれから、妙な話をしてしまってすみませんね」
老人は照れた様子も、言いにくそうな様子も無く、其の身にあったことを淡々と語った。
「イムさんは……恋人は居ますか?」
「え?あ、いえ」
そういうのは、全然で。シワンは急な質問に戸惑い、其れでも律儀に返答した。
「成程」
老人は少しからかう口調で笑った。
「もし、大切な人が居るなら、一緒に居る時間を大切にしてください。言いたいことがあるなら、例え言い争いになるとしても、もしかしたら相手を困らせることでも、すぐに言った方が良い。戦争が私に教えてくれたのは、其のことだけです」
1925年、冬 国境
——初めて、人を撃った。
震えが止まらなかった。
==================
1998年
「人間は只の的でした」
そう言って目の前の老人はボルトアクション・ライフルを構える仕草をした。
「人間はのろまです。鴨や兎よりも素早く動くことは出来ない」
==================
1925年、冬 国境
ヒョンシクは眠れずに何度も寝返りをうった。
引き金を引いた感覚が手に残っている。目の前で、大きな的が無数に雪原に倒れて行くのを見た。
無理矢理目を閉じる。
幼い頃の自分が、トロフィーと小銃を片手に大人達から褒められ、頭を撫でられているのが瞼の裏に移った。
目を閉じたまま、強く瞑る。また場面が変わった。台所に居た。
「ありがとう。これでジビエが楽しめるわ。今日はシチューにしましょう」
母が、笑っている。幼いヒョンシクは鹿の頭を抱え、晩ご飯のメニューに心を躍らせていた。
——母が、大人達が褒めてくれるのが嬉しかった。
目を瞑る。再び場面が変わった。成長した自分は志願して入隊し、陸軍の射撃練習場に居た。
「流石だ!」
的に開いた穴を見つめ、ほぼ人間の眉間と額を撃ち抜いたヒョンシクに、キム曹長が賞賛の言葉を掛けていた。些か興奮した様子で、ヒョンシクを見つめていた。
「俺の勘に狂いは無かったな。ヒョンシク、お前は凄い奴だよ」
広げた掌で髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられ、ヒョンシクは照れた。
——此の人が褒めてくれるなら、もっともっと強くなろう、と思った。
けれど今、震えが止まらない。両手で自分の体を抱き締め、何とかがたがた震える体を押さえ付けようとしても無駄だった。
初めて人を撃った。
気が付くと、陣を抜け出していた。何処へ行くのだと尋ねる見張りには「酷く眠れないから外の空気を吸いに来た」と答えた。
夜の大地は黒と白の世界で、冷たい空気に磨かれた漆黒の空には無数の星が散りばめられていた。月が雪の世界を照らし、光の筋を作っている。オーロラが見えそうな空だった。
ヒョンシクは兵舎の壁に凭れ掛かり、空を見上げた。
流れ星が、一つ空に曲線を描いた。
此の国の伝説では、流星は人が死んだ時に落ちるという。
今輝いた流星は、自分が殺した誰か一人のものなのだろうか。
寒さだけではない震えを今だ持て余して、ヒョンシクは腕を組み、猫背の格好になった。
「消灯時間はとっくに過ぎているが」
聞き覚えのある声だった。
「キム曹長……」
「ケビンで良い。任務時間外だ」
音もなく近付かれていたことに気付き、ヒョンシクは自分の動揺を悟った。周囲が全く見えなくなるまで、頭は一つのことに集中していた。
「どうした?」
キム曹長——ケビンは、見張りが「様子のおかしい者が居る」と言ったので来た、と言った。
「……」
「昼間のことか」
昼間、国境では敵国の軍と激しい攻防があった。
「……はい」
ヒョンシクは隣に居るケビンの顔を一瞬だけ見、またその視線を地面へ落として、答えた。
「飛び道具は卑怯ですね」
足元のブーツを見つめたままヒョンシクはぼそりと言った。
「?」
「殺した手応えが無い」
「……」
ケビンは、隣に佇む、背の高い年下の兵士を見上げた。兵士らしくなく、伸ばされた前髪で見えなくなった目元。けれど頬に行く筋もの涙があり、冷たい空気に照らされて凍り付き始めていた。
「ヒョンシク」
「はい」
ケビンが、名前を呼ばれ顔を上げたヒョンシクの腕を強引に掴み、体を引き寄せて抱いた。
「ケビン……ヒョン…………?」
「軍人失格だな……」
強く抱き締められ、耳許で囁かれる。ヒョンシクの体の震えは驚きのために止まっていた。
失格。
そうだ、其の通りだ。最初から分かっていたことなのに、人を撃った引き金の軽さを嘆くのは筋違いな悩みだとも何処かで分かっていた。
「申し訳ありません」
「いや、俺がさ……」
——お前のことだけは、放っておけない。災いなす者になってほしくないと思う。
「お前だけ甘やかしちまう……」
ケビンはそう言って顔を離し、左手でヒョンシクの後頭部を支え、顔を見つめた。
キム曹長の顔ではなく、一人の男、ケビンとして、ヒョンシクに向き合っていた。
「ケビンヒョン?」
腕の中の兵士に師弟関係以上の感情を抱くようになったのはいつだろう、と思う。
美しく、そして腕のたつ猟師が居るという噂を耳に挟んだときに、単純に同じ猟師出身として気になった。当時陸軍の兵力は不足しており、何より狙撃手が少なかった。キム曹長も凄腕と言われていたが、何れ泥沼化するであろう戦争に備えてもう一人、狙撃手が欲しかった。
赴いた牧歌的な町で目にした無垢な少年。自分を軍人だと気付かず、舌足らずな話し方をしていた。仕留めた獲物を見ながら腕前を褒めると、無邪気に笑っていた。
——其の顔を見たときに、こいつだ、と思った。
抱き締めたまま、ケビンが記憶を辿っていると、腕の中の体が小刻みに震え出していた。
「甘やかさないでよ……俺、弱くなっちゃうよ……」
迷い。
戸惑い。
恐怖。
ヒョンシクの顔に浮かぶ感情を、全部受け止めたい。
其れが、此の道に引き摺り込んだ自分の使命だとも思っていた。
「そうだな……」
今だけ……
今夜だけ……
そう呟いて、ケビンはしばらく震える体を体を抱き締め続けていた。
==================
1998年
「そういう時期もありました」
シワンは老人の顔に刻まれた傷と皺を見つめた。取材時間は二時間を過ぎており、外の太陽は雪の大地にまさに沈もうとするところだった。
人々から死神と恐れられ、自らも人間は的だと言った男の話にしては、少し戸惑いがあった。
「人を殺すことに躊躇いがあったと?」
老人は頷いた。
「けれど、何処かで認められたかったのです。褒められたくて、曹長の為になりたかった。だから、撃ちました。やれと言われれば、何でも」
シワンは、話を聞いていると此の目の前の老人が生涯「他者から認められる」ことを意識していたことに気付く。
純粋な子供の心を持ったまま大人になってしまった悲劇。
戦争の無情さ。無意味さ。異常さ。
全て、書籍や映画、テレビドラマの中の話でしかなかった。
幼い頃、祖父に一度だけ戦争の話を聞いたことがあった。学校の宿題で、戦争について調べなさい、と言われ、実体験を聞こうと祖父の家を訪ねたことを思い出す。生きていれば、目の前の老人と同じくらいの年齢だったのだろうか。
シワンは数分前からずっと気になっていた核心に触れた。
「キム曹長の死因は?」
「服毒自殺です」
——初めて、人を撃った。
震えが止まらなかった。
==================
1998年
「人間は只の的でした」
そう言って目の前の老人はボルトアクション・ライフルを構える仕草をした。
「人間はのろまです。鴨や兎よりも素早く動くことは出来ない」
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1925年、冬 国境
ヒョンシクは眠れずに何度も寝返りをうった。
引き金を引いた感覚が手に残っている。目の前で、大きな的が無数に雪原に倒れて行くのを見た。
無理矢理目を閉じる。
幼い頃の自分が、トロフィーと小銃を片手に大人達から褒められ、頭を撫でられているのが瞼の裏に移った。
目を閉じたまま、強く瞑る。また場面が変わった。台所に居た。
「ありがとう。これでジビエが楽しめるわ。今日はシチューにしましょう」
母が、笑っている。幼いヒョンシクは鹿の頭を抱え、晩ご飯のメニューに心を躍らせていた。
——母が、大人達が褒めてくれるのが嬉しかった。
目を瞑る。再び場面が変わった。成長した自分は志願して入隊し、陸軍の射撃練習場に居た。
「流石だ!」
的に開いた穴を見つめ、ほぼ人間の眉間と額を撃ち抜いたヒョンシクに、キム曹長が賞賛の言葉を掛けていた。些か興奮した様子で、ヒョンシクを見つめていた。
「俺の勘に狂いは無かったな。ヒョンシク、お前は凄い奴だよ」
広げた掌で髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜられ、ヒョンシクは照れた。
——此の人が褒めてくれるなら、もっともっと強くなろう、と思った。
けれど今、震えが止まらない。両手で自分の体を抱き締め、何とかがたがた震える体を押さえ付けようとしても無駄だった。
初めて人を撃った。
気が付くと、陣を抜け出していた。何処へ行くのだと尋ねる見張りには「酷く眠れないから外の空気を吸いに来た」と答えた。
夜の大地は黒と白の世界で、冷たい空気に磨かれた漆黒の空には無数の星が散りばめられていた。月が雪の世界を照らし、光の筋を作っている。オーロラが見えそうな空だった。
ヒョンシクは兵舎の壁に凭れ掛かり、空を見上げた。
流れ星が、一つ空に曲線を描いた。
此の国の伝説では、流星は人が死んだ時に落ちるという。
今輝いた流星は、自分が殺した誰か一人のものなのだろうか。
寒さだけではない震えを今だ持て余して、ヒョンシクは腕を組み、猫背の格好になった。
「消灯時間はとっくに過ぎているが」
聞き覚えのある声だった。
「キム曹長……」
「ケビンで良い。任務時間外だ」
音もなく近付かれていたことに気付き、ヒョンシクは自分の動揺を悟った。周囲が全く見えなくなるまで、頭は一つのことに集中していた。
「どうした?」
キム曹長——ケビンは、見張りが「様子のおかしい者が居る」と言ったので来た、と言った。
「……」
「昼間のことか」
昼間、国境では敵国の軍と激しい攻防があった。
「……はい」
ヒョンシクは隣に居るケビンの顔を一瞬だけ見、またその視線を地面へ落として、答えた。
「飛び道具は卑怯ですね」
足元のブーツを見つめたままヒョンシクはぼそりと言った。
「?」
「殺した手応えが無い」
「……」
ケビンは、隣に佇む、背の高い年下の兵士を見上げた。兵士らしくなく、伸ばされた前髪で見えなくなった目元。けれど頬に行く筋もの涙があり、冷たい空気に照らされて凍り付き始めていた。
「ヒョンシク」
「はい」
ケビンが、名前を呼ばれ顔を上げたヒョンシクの腕を強引に掴み、体を引き寄せて抱いた。
「ケビン……ヒョン…………?」
「軍人失格だな……」
強く抱き締められ、耳許で囁かれる。ヒョンシクの体の震えは驚きのために止まっていた。
失格。
そうだ、其の通りだ。最初から分かっていたことなのに、人を撃った引き金の軽さを嘆くのは筋違いな悩みだとも何処かで分かっていた。
「申し訳ありません」
「いや、俺がさ……」
——お前のことだけは、放っておけない。災いなす者になってほしくないと思う。
「お前だけ甘やかしちまう……」
ケビンはそう言って顔を離し、左手でヒョンシクの後頭部を支え、顔を見つめた。
キム曹長の顔ではなく、一人の男、ケビンとして、ヒョンシクに向き合っていた。
「ケビンヒョン?」
腕の中の兵士に師弟関係以上の感情を抱くようになったのはいつだろう、と思う。
美しく、そして腕のたつ猟師が居るという噂を耳に挟んだときに、単純に同じ猟師出身として気になった。当時陸軍の兵力は不足しており、何より狙撃手が少なかった。キム曹長も凄腕と言われていたが、何れ泥沼化するであろう戦争に備えてもう一人、狙撃手が欲しかった。
赴いた牧歌的な町で目にした無垢な少年。自分を軍人だと気付かず、舌足らずな話し方をしていた。仕留めた獲物を見ながら腕前を褒めると、無邪気に笑っていた。
——其の顔を見たときに、こいつだ、と思った。
抱き締めたまま、ケビンが記憶を辿っていると、腕の中の体が小刻みに震え出していた。
「甘やかさないでよ……俺、弱くなっちゃうよ……」
迷い。
戸惑い。
恐怖。
ヒョンシクの顔に浮かぶ感情を、全部受け止めたい。
其れが、此の道に引き摺り込んだ自分の使命だとも思っていた。
「そうだな……」
今だけ……
今夜だけ……
そう呟いて、ケビンはしばらく震える体を体を抱き締め続けていた。
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1998年
「そういう時期もありました」
シワンは老人の顔に刻まれた傷と皺を見つめた。取材時間は二時間を過ぎており、外の太陽は雪の大地にまさに沈もうとするところだった。
人々から死神と恐れられ、自らも人間は的だと言った男の話にしては、少し戸惑いがあった。
「人を殺すことに躊躇いがあったと?」
老人は頷いた。
「けれど、何処かで認められたかったのです。褒められたくて、曹長の為になりたかった。だから、撃ちました。やれと言われれば、何でも」
シワンは、話を聞いていると此の目の前の老人が生涯「他者から認められる」ことを意識していたことに気付く。
純粋な子供の心を持ったまま大人になってしまった悲劇。
戦争の無情さ。無意味さ。異常さ。
全て、書籍や映画、テレビドラマの中の話でしかなかった。
幼い頃、祖父に一度だけ戦争の話を聞いたことがあった。学校の宿題で、戦争について調べなさい、と言われ、実体験を聞こうと祖父の家を訪ねたことを思い出す。生きていれば、目の前の老人と同じくらいの年齢だったのだろうか。
シワンは数分前からずっと気になっていた核心に触れた。
「キム曹長の死因は?」
「服毒自殺です」
気怠い体を引き摺り、ヒョンシクは少尉の部屋を背にした。
自分たち兵士の寝泊まりする兵舎へ辿り着くためには、吹雪の中を歩かなければならなかった。
目の前には夜明け前の闇と白い雪の闇が広がる。ただ自分の立てる物音だけが響いていた。
静寂を切り裂くものは何もない。
ヒョンシクは目を閉じ、両腕を地面と閉口に横に伸ばした。
其の姿はまるで、大雪原に白い十字架が一つ、浮かび上がるようだった。
==================
1998年
「……」
シワンは黙って目の前の相手を見つめた。老紳士は、足元に招いた大型犬の顎や毛並みを確かめるように撫で、どこまでも穏やかな目と口ぶりで、血生臭い——しかし、おとぎ話のような記憶を語った。
——本当に此の人が、記録の上では505名、事実では其れ以上の命を奪った人なのだろうか。
「一つ、質問しても?」
「どうぞ」
「気分を悪くしたら、答えていただかなくても結構ですが……」
シワンは言い淀んだ。
「可能な限り答えますよ、どうぞ」
「多くの命を奪ったことについて後悔の念は……ありますか」
老人は、ふ、と遠くを見つめて言った。
「ありません」
「……」
「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでです」
==================
1925年、夏 国境近くの町
暑い夏の日だった。
腕の良い猟師の少年の噂を聞きつけ、陸軍曹長は朝から国境近くの町へ赴く車の中に居た。田舎町は突然の来訪者にざわめき、其の若い曹長に向かって人々は頭を低くし、敬礼をした。
「パク・ヒョンシクの家は此処だと聞いた。本人と話がしたい」
辿り着いた小さな家の玄関口で、出迎えたパク婦人に、曹長は一定の礼儀を保ちながら、けれども軍人らしい態度で迫った。
「はい、確かにヒョンシクは私の息子ですが……」
「何か問題が?」
「いえ、今は出掛けておりまして。あの子なら、あちらで猟をしている筈です」
大勢の兵士を背後に抱える目の前の相手に戸惑いながらも、婦人は事実を伝え、兵士達の来た道とは逆方向を指差した。
「あちらに、川があります。底で、鴨を狩っている筈です」
「成程」
曹長は顔を婦人に向けたまま、鋭い視線だけを婦人の指差した方向に巡らせ、もう一度婦人に目を戻し、其のまま背を向けた。そして左右に控えていた兵士に首をしゃくり、其の場所へ向かおうとした。
「——あの、すみません、兵隊さん」
パク婦人は細く白い手を伸ばし、曹長を呼び止めた。
「——息子を、陸軍に連れて行くおつもりでしょうか?」
振り返った曹長——彼女の息子と然程年齢の違わないであろう風貌——黒髪の短髪、切れ長の目を持つ男は、じっと婦人を見つめた。
「あくまで、彼の意思を尊重する」
未だ戦争が激しくない時代だった。
==================
遠くで銃声が鳴り、曹長は確信した。
此処から先は一人で、と取り巻きの兵士を待機させると、一人其の場所へ近付く。
音の位置で場所を割り出し、気配を消して対象に近付く。
ドンッ
銃声が近くなる。其の時、曹長は確信した。
——噂は本当だ、と。
距離にして300m、半径が其の範囲であれば確実に頭を撃ち、獲物を仕留める能力が彼にはあった。
曹長の足元には、空から撃ち落とされたであろう、青い翼を持つ鳥の死骸が転がっていたことが何よりの証拠だった。
「誰?」
遮るものが無い場所で、声が、響く。
若く美しい響きを持った声だった。
曹長は声のする方へ歩いていくスピードを速めた。
——早く、顔が見たい。どんな人物なんだ?
「狩りの邪魔しないでよ。あんた誰?」
小さな森を抜け、草木の間から曹長が見た姿は、長身の少年だった。
太陽の光が明るい栗色の毛に反射し、光が煌めいていた。
そして其の長い両手は銃を構え、辺りをきょろきょろと見回していた。
其の二つの丸い目が曹長の姿を捉えた瞬間、大声を張り上げ見えない訪問者へ苦情を訴えていた少年はかしこまり、萎縮した様子で敬礼をした。
曹長は一歩一歩相手に近付き、手を差し出しながら言った。
「パク・ヒョンシクだな? 俺はキム・ジヨプだ。陸軍で曹長を務めている」
「……申し訳ありません、無礼なことを……」
曹長の手に遠慮がちに伸ばされた白い手が重なった。先ほど見た婦人と似た、美しい顔の少年だった。
「気にするな」
曹長——キム曹長は、ちらりと少年が左手に持つライフル銃を見た。
「邪魔をしたのは事実だ。すまない」
そう言って笑い、頭を下げた目の前の軍人——恐らく自分と同世代で、年は少しだけ上——に、少年は少し警戒心を解いた。
「お前が必要だ。一緒に来て欲しい」
現役の軍人が、一人の漁師を狙撃手として推し、実際に其れが認められた事態は、後にも先にもキム曹長が行った型破りな一度きりであったという。
==================
1998年
「周りは当然キム曹長と呼んでいましたが、私はケビンと呼んでとてもよく……懐いていました。此の言い方は適切ではないかもしれませんが、本当に、兄弟のようでした。彼が私に何もかもを教えてくれました」
老人は淡々と語った。
キム・ジヨプ曹長。
其の名前には記憶があった。取材前に掻き集めた膨大な資料の中に、時折書かれた名前ではあったものの、正式な「軍の」資料には何処にも其の人物が存在していた記録が無かった。
同じく冬戦争の時代に、400名以上を射殺したと言われてい軍人だったという人物に、正規の記録が無く、しかし武勇伝ばかりが記載された資料を眺め、シワンは其の人物の存在を疑うようになっていた。寧ろ、架空の人物であるとすら考えていた。
「実在していたのですね……」
シワンが素直な感情を口に述べると、老人は深く頷いた。
「居ました。彼は確かに"居た"のです。そして今、過去形で語らなければならないことが、酷く辛く——突き刺さります」
自分たち兵士の寝泊まりする兵舎へ辿り着くためには、吹雪の中を歩かなければならなかった。
目の前には夜明け前の闇と白い雪の闇が広がる。ただ自分の立てる物音だけが響いていた。
静寂を切り裂くものは何もない。
ヒョンシクは目を閉じ、両腕を地面と閉口に横に伸ばした。
其の姿はまるで、大雪原に白い十字架が一つ、浮かび上がるようだった。
==================
1998年
「……」
シワンは黙って目の前の相手を見つめた。老紳士は、足元に招いた大型犬の顎や毛並みを確かめるように撫で、どこまでも穏やかな目と口ぶりで、血生臭い——しかし、おとぎ話のような記憶を語った。
——本当に此の人が、記録の上では505名、事実では其れ以上の命を奪った人なのだろうか。
「一つ、質問しても?」
「どうぞ」
「気分を悪くしたら、答えていただかなくても結構ですが……」
シワンは言い淀んだ。
「可能な限り答えますよ、どうぞ」
「多くの命を奪ったことについて後悔の念は……ありますか」
老人は、ふ、と遠くを見つめて言った。
「ありません」
「……」
「やれと言われたことを、可能な限り実行したまでです」
==================
1925年、夏 国境近くの町
暑い夏の日だった。
腕の良い猟師の少年の噂を聞きつけ、陸軍曹長は朝から国境近くの町へ赴く車の中に居た。田舎町は突然の来訪者にざわめき、其の若い曹長に向かって人々は頭を低くし、敬礼をした。
「パク・ヒョンシクの家は此処だと聞いた。本人と話がしたい」
辿り着いた小さな家の玄関口で、出迎えたパク婦人に、曹長は一定の礼儀を保ちながら、けれども軍人らしい態度で迫った。
「はい、確かにヒョンシクは私の息子ですが……」
「何か問題が?」
「いえ、今は出掛けておりまして。あの子なら、あちらで猟をしている筈です」
大勢の兵士を背後に抱える目の前の相手に戸惑いながらも、婦人は事実を伝え、兵士達の来た道とは逆方向を指差した。
「あちらに、川があります。底で、鴨を狩っている筈です」
「成程」
曹長は顔を婦人に向けたまま、鋭い視線だけを婦人の指差した方向に巡らせ、もう一度婦人に目を戻し、其のまま背を向けた。そして左右に控えていた兵士に首をしゃくり、其の場所へ向かおうとした。
「——あの、すみません、兵隊さん」
パク婦人は細く白い手を伸ばし、曹長を呼び止めた。
「——息子を、陸軍に連れて行くおつもりでしょうか?」
振り返った曹長——彼女の息子と然程年齢の違わないであろう風貌——黒髪の短髪、切れ長の目を持つ男は、じっと婦人を見つめた。
「あくまで、彼の意思を尊重する」
未だ戦争が激しくない時代だった。
==================
遠くで銃声が鳴り、曹長は確信した。
此処から先は一人で、と取り巻きの兵士を待機させると、一人其の場所へ近付く。
音の位置で場所を割り出し、気配を消して対象に近付く。
ドンッ
銃声が近くなる。其の時、曹長は確信した。
——噂は本当だ、と。
距離にして300m、半径が其の範囲であれば確実に頭を撃ち、獲物を仕留める能力が彼にはあった。
曹長の足元には、空から撃ち落とされたであろう、青い翼を持つ鳥の死骸が転がっていたことが何よりの証拠だった。
「誰?」
遮るものが無い場所で、声が、響く。
若く美しい響きを持った声だった。
曹長は声のする方へ歩いていくスピードを速めた。
——早く、顔が見たい。どんな人物なんだ?
「狩りの邪魔しないでよ。あんた誰?」
小さな森を抜け、草木の間から曹長が見た姿は、長身の少年だった。
太陽の光が明るい栗色の毛に反射し、光が煌めいていた。
そして其の長い両手は銃を構え、辺りをきょろきょろと見回していた。
其の二つの丸い目が曹長の姿を捉えた瞬間、大声を張り上げ見えない訪問者へ苦情を訴えていた少年はかしこまり、萎縮した様子で敬礼をした。
曹長は一歩一歩相手に近付き、手を差し出しながら言った。
「パク・ヒョンシクだな? 俺はキム・ジヨプだ。陸軍で曹長を務めている」
「……申し訳ありません、無礼なことを……」
曹長の手に遠慮がちに伸ばされた白い手が重なった。先ほど見た婦人と似た、美しい顔の少年だった。
「気にするな」
曹長——キム曹長は、ちらりと少年が左手に持つライフル銃を見た。
「邪魔をしたのは事実だ。すまない」
そう言って笑い、頭を下げた目の前の軍人——恐らく自分と同世代で、年は少しだけ上——に、少年は少し警戒心を解いた。
「お前が必要だ。一緒に来て欲しい」
現役の軍人が、一人の漁師を狙撃手として推し、実際に其れが認められた事態は、後にも先にもキム曹長が行った型破りな一度きりであったという。
==================
1998年
「周りは当然キム曹長と呼んでいましたが、私はケビンと呼んでとてもよく……懐いていました。此の言い方は適切ではないかもしれませんが、本当に、兄弟のようでした。彼が私に何もかもを教えてくれました」
老人は淡々と語った。
キム・ジヨプ曹長。
其の名前には記憶があった。取材前に掻き集めた膨大な資料の中に、時折書かれた名前ではあったものの、正式な「軍の」資料には何処にも其の人物が存在していた記録が無かった。
同じく冬戦争の時代に、400名以上を射殺したと言われてい軍人だったという人物に、正規の記録が無く、しかし武勇伝ばかりが記載された資料を眺め、シワンは其の人物の存在を疑うようになっていた。寧ろ、架空の人物であるとすら考えていた。
「実在していたのですね……」
シワンが素直な感情を口に述べると、老人は深く頷いた。
「居ました。彼は確かに"居た"のです。そして今、過去形で語らなければならないことが、酷く辛く——突き刺さります」
1939年、冬
兵隊が行進している。
4000人の軍隊は吹雪の中、風上の丘陵地を目掛けていた。
酷く視界の悪い、昼だった。
「奴らだ!」
隊列の先頭で双眼鏡を手にした兵士が、言葉を発した。
大佐は指揮を執り、隊列へ武装するように伝えた。
近くに居た男は、ヘルメットを被り直し、銃を構えた。
先頭から最後尾まで、行進していた兵士達が武装する音が静かな雪原に響いた。
——次の瞬間だった。
銃声。
大佐の頭に、穴が開いた。
血。
白い雪の大地に、人間の頭から流れる脳と体液、そして大量の血液が赤く流れ、大佐の体は雪の積もった地面に沈んだ。
少尉を囲んでいた兵士達は戦き、顔から血の気が引いて行った。
震える手で、別の兵士が双眼鏡を覗いた。
白いコートを翻して吹雪の中に佇む、何者かの姿だった。
「死神だ!」
男は叫んだが、其の声が響くか響かないかのうちに、首を撃ち抜かれ、死んだ。
次の瞬間、ばたり、ばたり、と隊列は先頭から着実に頭を撃ち抜かれ、雪にいくつもの血の染みと遺体の群れを作って行った。
丘陵地は後に「殺戮の丘」と呼ばれ、たった30人余りの兵により、防衛された。
其の中心には、白い死神が居た。
==================
「奇跡だ」
ムン少尉は満足げに強い酒を瓶から口に含み、視線を其の人物に向けていた。
丘陵地の土地を守り抜いた小隊は、噂を聞き付けた最高司令官より、褒美として束の間の休息を与えられていた。
ムン少尉は自分の部屋へ相手を呼び出し、二人で寝床へ腰掛け、酒をすすめた。
「32人。たった、32人だ!奇跡だと思わないか」
少尉の目の前には、白いコートを羽織ったまま、簡易な寝床に座る男が居る。
「パク兵長……いや、此処ではヒョンシク、かな?」
「はい」
「お前が敵じゃなくて良かった」
少尉は、酒臭く生温い息を吐いた。白く、息が空中に浮かぶ。其の息はヒョンシクと呼ばれた男の目の前で、消えていく。手を伸ばし、少し酒に酔った二つの視線が絡まる。
「はい。私も」
男は躊躇いがちに、手を伸ばした。
「貴方を撃つ側でなくて良かったと思います」
ムン少尉の白い頬に、冷えきった指先が触れる。
視線で、其の先を促され、ヒョンシクはムン少尉の唇に吸い付いた。
軽く唇を絡ませる。
ヒョンシクが徐に口を開き、少尉の舌を迎え入れるように頬に寄せた指を右耳まで這わせて顔を寄せる。呼び寄せられるように、少尉は一気に舌を差し込んだ。
其の瞬間、ふ、と重なっていた筈の唇が離れる。
「冷たい!」
少尉は急に顔を離し、目を見開いた。
「お前、また雪食ってたのか」
「はい」
ヒョンシクは、べえっと舌を出し、赤い舌の上にある雪の塊を見せた。
「少尉も、召し上がりますか?」
悪戯を見つかった子供のように、悪い遊びを知っている女のように微笑む顔は、「死神」と恐れられたパク兵長としての印象とはかけ離れていた。
ムン少尉はヒョンシクの胸ぐらの布を掴むと、乱暴に唇をぶつけて、其の口の中の雪を舌で探り当てて奪った。がりがりと塊を噛み砕く音が二人の口元の辺りで響く。
「お前、ほんといつも雪食ってるのな」
噛み砕いた塊を唾液ごと飲み込み、手の甲で唇を拭ったムン少尉は、目の前に居る不可思議な相手に言った。
ヒョンシクは透明な息を吐く。
其れは常に口の中を冷やし、白い息を吐かないようにして戦場でも存在を悟られないようにするためだと言うのが、以前此の人物が自分の小隊に入隊した頃、ムン少尉が尋ねたときの答えだった。
常に雪の塊を綿菓子のように口にしており、腹を壊すのではないか、と聞いたのだ。
「軍人としては良い心がけだが、色気に欠ける」
「女を知りませんから」
ヒョンシクは拗ねたように口を尖らせた。
「では、男は?」
「——さあ?」
ムン少尉——ジュニョンは、此の男の息が少しずつ白くなり、最後には夜でも分かるくらいに白く、熱くなっていくのを見るのが好きだった。
兵隊が行進している。
4000人の軍隊は吹雪の中、風上の丘陵地を目掛けていた。
酷く視界の悪い、昼だった。
「奴らだ!」
隊列の先頭で双眼鏡を手にした兵士が、言葉を発した。
大佐は指揮を執り、隊列へ武装するように伝えた。
近くに居た男は、ヘルメットを被り直し、銃を構えた。
先頭から最後尾まで、行進していた兵士達が武装する音が静かな雪原に響いた。
——次の瞬間だった。
銃声。
大佐の頭に、穴が開いた。
血。
白い雪の大地に、人間の頭から流れる脳と体液、そして大量の血液が赤く流れ、大佐の体は雪の積もった地面に沈んだ。
少尉を囲んでいた兵士達は戦き、顔から血の気が引いて行った。
震える手で、別の兵士が双眼鏡を覗いた。
白いコートを翻して吹雪の中に佇む、何者かの姿だった。
「死神だ!」
男は叫んだが、其の声が響くか響かないかのうちに、首を撃ち抜かれ、死んだ。
次の瞬間、ばたり、ばたり、と隊列は先頭から着実に頭を撃ち抜かれ、雪にいくつもの血の染みと遺体の群れを作って行った。
丘陵地は後に「殺戮の丘」と呼ばれ、たった30人余りの兵により、防衛された。
其の中心には、白い死神が居た。
==================
「奇跡だ」
ムン少尉は満足げに強い酒を瓶から口に含み、視線を其の人物に向けていた。
丘陵地の土地を守り抜いた小隊は、噂を聞き付けた最高司令官より、褒美として束の間の休息を与えられていた。
ムン少尉は自分の部屋へ相手を呼び出し、二人で寝床へ腰掛け、酒をすすめた。
「32人。たった、32人だ!奇跡だと思わないか」
少尉の目の前には、白いコートを羽織ったまま、簡易な寝床に座る男が居る。
「パク兵長……いや、此処ではヒョンシク、かな?」
「はい」
「お前が敵じゃなくて良かった」
少尉は、酒臭く生温い息を吐いた。白く、息が空中に浮かぶ。其の息はヒョンシクと呼ばれた男の目の前で、消えていく。手を伸ばし、少し酒に酔った二つの視線が絡まる。
「はい。私も」
男は躊躇いがちに、手を伸ばした。
「貴方を撃つ側でなくて良かったと思います」
ムン少尉の白い頬に、冷えきった指先が触れる。
視線で、其の先を促され、ヒョンシクはムン少尉の唇に吸い付いた。
軽く唇を絡ませる。
ヒョンシクが徐に口を開き、少尉の舌を迎え入れるように頬に寄せた指を右耳まで這わせて顔を寄せる。呼び寄せられるように、少尉は一気に舌を差し込んだ。
其の瞬間、ふ、と重なっていた筈の唇が離れる。
「冷たい!」
少尉は急に顔を離し、目を見開いた。
「お前、また雪食ってたのか」
「はい」
ヒョンシクは、べえっと舌を出し、赤い舌の上にある雪の塊を見せた。
「少尉も、召し上がりますか?」
悪戯を見つかった子供のように、悪い遊びを知っている女のように微笑む顔は、「死神」と恐れられたパク兵長としての印象とはかけ離れていた。
ムン少尉はヒョンシクの胸ぐらの布を掴むと、乱暴に唇をぶつけて、其の口の中の雪を舌で探り当てて奪った。がりがりと塊を噛み砕く音が二人の口元の辺りで響く。
「お前、ほんといつも雪食ってるのな」
噛み砕いた塊を唾液ごと飲み込み、手の甲で唇を拭ったムン少尉は、目の前に居る不可思議な相手に言った。
ヒョンシクは透明な息を吐く。
其れは常に口の中を冷やし、白い息を吐かないようにして戦場でも存在を悟られないようにするためだと言うのが、以前此の人物が自分の小隊に入隊した頃、ムン少尉が尋ねたときの答えだった。
常に雪の塊を綿菓子のように口にしており、腹を壊すのではないか、と聞いたのだ。
「軍人としては良い心がけだが、色気に欠ける」
「女を知りませんから」
ヒョンシクは拗ねたように口を尖らせた。
「では、男は?」
「——さあ?」
ムン少尉——ジュニョンは、此の男の息が少しずつ白くなり、最後には夜でも分かるくらいに白く、熱くなっていくのを見るのが好きだった。
篝火が灯された。
華やかに続けられる桜の宴に、宵の闇が忍び寄る。
夜更け頃、宴は終わった。
弘徽殿の周囲はひっそりと静まり返り、月が明るくあたりを照らしている。花の香りが一面に立ちこめており、空気は薄らと白濁していた。
源氏の君ジュニョンはほろ酔い気分で、じっとしていられずに居た。
「帝付きの連中も休んでることだし、こういう時に、誰か逢えたら良いな……」
藤壺の周りを堪らない気持ちで窺い歩いたが、どの戸口も閉まっているので、溜め息をついた。
「居ない、か……」
と、弘徽殿の細殿に立ち寄ると、三番目の戸口が開いていた。
弘徽殿の女御は、宴の果てた後に上の局に上がった筈だったので、此の場所は人が少ない様子であった。奥の枢戸も開いていて、人の気配が無い。
——こんな無用心だから過ちもあるのさ——。
源氏の君ジュニョンはそう思い、そっと下長押を上って中を覗いた。
他の人間は皆寝てしまったのだろう。やはり人の気配が無い。
其のときであった。
照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
在り来りの人の声とは思えない若く美しい声が、戸口の中から源氏の君ジュニョンの方へ近付いて来るのに気付いた。薄い戸を隔てたその先に、誰かが居る。
朧月夜に似るものぞなき
源氏の君ジュニョンは戸を開け、相手の着物の袖に触れた。
部屋に、花の香りが一瞬で立ち籠め、月の光が入り込む。
相手は咄嗟に捕らえられた袖を振り払った。
「誰?」
相手はそう言ったが、源氏の君ジュニョンは気にする素振りも無かった。
「怖がらないで」
深き夜のあはれを知るも入る月の
おぼろけならぬ契りとぞ思ふ
と詠んで、自分の身を滑り込ませた室内で相手をそっと胸に抱き寄せ、戸を閉めてしまった。
幾重にも重ねられた豪勢な単衣の上からでも分かる、華奢な体。細く、手をかけたら簡単に折れそうな真っ白な首筋。
深く胸に抱くと驚き呆れている様子が、とても可憐で美しい、と思った。
抱かれた姫は、源氏の君ジュニョンの胸の中で噎せ返りそうになる花の匂いと人の体温に震えていた。
「人呼ぶよ」
と抵抗した。
「どうぞご自由に」
抱き締めた耳許で囁かれ、姫は目を見開いた。
「俺のすることはね、誰も咎めないんだよ。人を呼んでも何にもならない。それとも見られて興奮したい?」
と囁かれた声に、姫は
(此れが、噂の源氏の君ジュニョン——。)
と悟った。
其れは狂気の悟りだった。
困惑するものの、無愛想で強情な人間だとは思われたくなかった。
抵抗する手の力が、声が、徐々に意思を持って弱くなっていった。
源氏の君ジュニョンは酔いが回り、何時になく深酔いしていた。
目の前に差し出された着物を一枚一枚手をかけて剥いでいく。横たえられた真夜中でも分かる位の白い肌に手をかけると、其の手がもどかしそうに源氏の君ジュニョンの帯へ手をかけ、自分の体に覆い被さるように引っ張った。
「脱いで」
源氏の君ジュニョンは、惜しげもなく着物を脱ぎ捨て、自分よりも一回りも小さな体と肌を合わせていく。
「もしかして初めて?」
相手の初々しく柔らかい感度に、一つ一つ開発していく喜びを見出しかけた源氏の君ジュニョンが、姫の体を少しずつ追い詰めながら尋ねた。
「違う……」
勝ち気な瞳で、少し抵抗するように真っ赤な唇を曲げる。けれどもその瞳が少し揺れ、言葉に偽りがあることを物語る。
強く拒むことも知らずに行為に没頭しているのが、堪らなく可愛い。
初めての感覚に戸惑った表情をしながらも、きちんと声を上げて、源氏の君ジュニョンの腕にしがみついてくる。
「そう……じゃ、指、入れさせて……」
源氏の君ジュニョンは、背筋を撫でていた手をだんだんと腰の付け根の方に滑らせた。一瞬手を離し、じっと見る黒目と目を合わせ、其の目を見ながら自分の右手の指を見せつけるように舐め上げた。舌を這わせた音が周囲に響いて、姫は噂でしか聞いたことがなかったことの前の準備をされるのだと悟った。
其の手は、下へ。
撫でられた瞬間に、あ、と高い声が出る。
中の粘膜を擦られれて、酷い快感に姫の身体が震えた。
「ん……」
「大丈夫なんでしょ?指、増やすよ……」
其のうちにもっと質量のあるものが欲しくなるまで、源氏の君ジュニョンは姫を追い上げて行く。
月明かりが、絡まる影絵を作り出す。
間もなく夜が明けて行く。
繋げた体を引き離している時間が勿体無く、源氏の君ジュニョンは自分がなくなるまで続けたいと、心が急いた。
やっと見付けた相手を放してしまうのも残念でしかなかった。
姫は何もかもが掻き乱されていた。
「名前……教えて」
源氏の君ジュニョンが抱き寄せて低くした声で囁く。
「何で。要らないだろそんなの」
腕の中で体を反転させ、姫はジュニョンへ背を向けるようにした。
「呼びたい」
細い体を後ろから抱き締め、肩に顔を埋めて、姫の肌の上で深く呼吸をする。此の体を、匂いを、忘れたくないような気がしていた。わざと蓮っ葉な物言いをする意地の張り方や、戸惑いを垂流しにする仕草が、初めての人間にありがちな純情さがある気がして、此の姫の「初めて」を味わっておきたかった。
「いいよ呼ばなくて」
「今夜だけに、したいの?」
うき身世にやがて消えなば尋ねても
草の原をば問はじとや思ふ
しっとりと艶めかしく歌を詠ぶ姫の声が、夜明け前の部屋に響いた。
「気持ちは分からないでも無いけどね」
と源氏の君ジュニョンは言い、
いづれぞと露のやどりをわかむまに
小篠が原に風もこそ吹け
「一応遠慮したのさ。探したら迷惑なんじゃないかって」
「迷惑……とかそんなのじゃないけど」
「とか言って、此のまま居なくなるつもりじゃ」
源氏の君ジュニョンが言い終わらないうちに、女房たちが起きだしてざわめき、上の局に参上したり戻ってきたりする気配がしきりにした。
「人聞きが悪い」
姫は急に立ち上がり褥の傍に置かれていた鏡台の上の小箱から扇を取り出すと、其れを源氏の君ジュニョンの首をさすように突きつけ、先端で顎を上向かせた。
目と目を合わせ、絶対に互いを忘れさせないように見つめ合った。
「交換しよう。人探しには道標が必要だから」
どうしようもない二人は、扇だけを逢瀬のしるしに交換して出て行った。
月が、二人を見ていた夜だった。
華やかに続けられる桜の宴に、宵の闇が忍び寄る。
夜更け頃、宴は終わった。
弘徽殿の周囲はひっそりと静まり返り、月が明るくあたりを照らしている。花の香りが一面に立ちこめており、空気は薄らと白濁していた。
源氏の君ジュニョンはほろ酔い気分で、じっとしていられずに居た。
「帝付きの連中も休んでることだし、こういう時に、誰か逢えたら良いな……」
藤壺の周りを堪らない気持ちで窺い歩いたが、どの戸口も閉まっているので、溜め息をついた。
「居ない、か……」
と、弘徽殿の細殿に立ち寄ると、三番目の戸口が開いていた。
弘徽殿の女御は、宴の果てた後に上の局に上がった筈だったので、此の場所は人が少ない様子であった。奥の枢戸も開いていて、人の気配が無い。
——こんな無用心だから過ちもあるのさ——。
源氏の君ジュニョンはそう思い、そっと下長押を上って中を覗いた。
他の人間は皆寝てしまったのだろう。やはり人の気配が無い。
其のときであった。
照りもせず曇りも果てぬ春の夜の
在り来りの人の声とは思えない若く美しい声が、戸口の中から源氏の君ジュニョンの方へ近付いて来るのに気付いた。薄い戸を隔てたその先に、誰かが居る。
朧月夜に似るものぞなき
源氏の君ジュニョンは戸を開け、相手の着物の袖に触れた。
部屋に、花の香りが一瞬で立ち籠め、月の光が入り込む。
相手は咄嗟に捕らえられた袖を振り払った。
「誰?」
相手はそう言ったが、源氏の君ジュニョンは気にする素振りも無かった。
「怖がらないで」
深き夜のあはれを知るも入る月の
おぼろけならぬ契りとぞ思ふ
と詠んで、自分の身を滑り込ませた室内で相手をそっと胸に抱き寄せ、戸を閉めてしまった。
幾重にも重ねられた豪勢な単衣の上からでも分かる、華奢な体。細く、手をかけたら簡単に折れそうな真っ白な首筋。
深く胸に抱くと驚き呆れている様子が、とても可憐で美しい、と思った。
抱かれた姫は、源氏の君ジュニョンの胸の中で噎せ返りそうになる花の匂いと人の体温に震えていた。
「人呼ぶよ」
と抵抗した。
「どうぞご自由に」
抱き締めた耳許で囁かれ、姫は目を見開いた。
「俺のすることはね、誰も咎めないんだよ。人を呼んでも何にもならない。それとも見られて興奮したい?」
と囁かれた声に、姫は
(此れが、噂の源氏の君ジュニョン——。)
と悟った。
其れは狂気の悟りだった。
困惑するものの、無愛想で強情な人間だとは思われたくなかった。
抵抗する手の力が、声が、徐々に意思を持って弱くなっていった。
源氏の君ジュニョンは酔いが回り、何時になく深酔いしていた。
目の前に差し出された着物を一枚一枚手をかけて剥いでいく。横たえられた真夜中でも分かる位の白い肌に手をかけると、其の手がもどかしそうに源氏の君ジュニョンの帯へ手をかけ、自分の体に覆い被さるように引っ張った。
「脱いで」
源氏の君ジュニョンは、惜しげもなく着物を脱ぎ捨て、自分よりも一回りも小さな体と肌を合わせていく。
「もしかして初めて?」
相手の初々しく柔らかい感度に、一つ一つ開発していく喜びを見出しかけた源氏の君ジュニョンが、姫の体を少しずつ追い詰めながら尋ねた。
「違う……」
勝ち気な瞳で、少し抵抗するように真っ赤な唇を曲げる。けれどもその瞳が少し揺れ、言葉に偽りがあることを物語る。
強く拒むことも知らずに行為に没頭しているのが、堪らなく可愛い。
初めての感覚に戸惑った表情をしながらも、きちんと声を上げて、源氏の君ジュニョンの腕にしがみついてくる。
「そう……じゃ、指、入れさせて……」
源氏の君ジュニョンは、背筋を撫でていた手をだんだんと腰の付け根の方に滑らせた。一瞬手を離し、じっと見る黒目と目を合わせ、其の目を見ながら自分の右手の指を見せつけるように舐め上げた。舌を這わせた音が周囲に響いて、姫は噂でしか聞いたことがなかったことの前の準備をされるのだと悟った。
其の手は、下へ。
撫でられた瞬間に、あ、と高い声が出る。
中の粘膜を擦られれて、酷い快感に姫の身体が震えた。
「ん……」
「大丈夫なんでしょ?指、増やすよ……」
其のうちにもっと質量のあるものが欲しくなるまで、源氏の君ジュニョンは姫を追い上げて行く。
月明かりが、絡まる影絵を作り出す。
間もなく夜が明けて行く。
繋げた体を引き離している時間が勿体無く、源氏の君ジュニョンは自分がなくなるまで続けたいと、心が急いた。
やっと見付けた相手を放してしまうのも残念でしかなかった。
姫は何もかもが掻き乱されていた。
「名前……教えて」
源氏の君ジュニョンが抱き寄せて低くした声で囁く。
「何で。要らないだろそんなの」
腕の中で体を反転させ、姫はジュニョンへ背を向けるようにした。
「呼びたい」
細い体を後ろから抱き締め、肩に顔を埋めて、姫の肌の上で深く呼吸をする。此の体を、匂いを、忘れたくないような気がしていた。わざと蓮っ葉な物言いをする意地の張り方や、戸惑いを垂流しにする仕草が、初めての人間にありがちな純情さがある気がして、此の姫の「初めて」を味わっておきたかった。
「いいよ呼ばなくて」
「今夜だけに、したいの?」
うき身世にやがて消えなば尋ねても
草の原をば問はじとや思ふ
しっとりと艶めかしく歌を詠ぶ姫の声が、夜明け前の部屋に響いた。
「気持ちは分からないでも無いけどね」
と源氏の君ジュニョンは言い、
いづれぞと露のやどりをわかむまに
小篠が原に風もこそ吹け
「一応遠慮したのさ。探したら迷惑なんじゃないかって」
「迷惑……とかそんなのじゃないけど」
「とか言って、此のまま居なくなるつもりじゃ」
源氏の君ジュニョンが言い終わらないうちに、女房たちが起きだしてざわめき、上の局に参上したり戻ってきたりする気配がしきりにした。
「人聞きが悪い」
姫は急に立ち上がり褥の傍に置かれていた鏡台の上の小箱から扇を取り出すと、其れを源氏の君ジュニョンの首をさすように突きつけ、先端で顎を上向かせた。
目と目を合わせ、絶対に互いを忘れさせないように見つめ合った。
「交換しよう。人探しには道標が必要だから」
どうしようもない二人は、扇だけを逢瀬のしるしに交換して出て行った。
月が、二人を見ていた夜だった。
「何見てるの?」
デスクに座って手に取った書類に目を通していると、営業を終えたジュニョンが話し掛けて来ました。
「履歴書」
一人一人の履歴書が入ったファイルの束をジュニョンへ渡すと、一番上に乗っていた其れを見て吹き出しました。
「アイツ、やっぱ面白いわ」
『稼ぎまくりたい』と書かれた志望動機。
まだあどけなさの残る少年の証明写真。
氏名欄には——"キム・ドンジュン"の名前。
「初めて見たよあんな子。面接に来たときは子供かと思った」
「こんな履歴書だったんだ」
字汚いな、と言いながら、ジュニョンはぱらぱらと他の履歴書を見始めました。
今日は、期末日。決算も終わり、少し穏やかな時間が流れて行きます。
此の九人で作り上げてきた空間も、しばし眠りにつくところ。
今日は、各スタッフの入店時のエピソードを私ケビンから紹介しましょう。
ジュニョンも、話してくれますよ。
==================
「ジュニョンと会ったのは何時だっけ?」
「3年位前?」
「第一印象最悪だったよ」
「奇遇だね、俺もだよ」
当時私は此の歓楽街の別の店に居て、同じ店に新人として入ってきたのがジュニョンでした。
「当時いかつい髪型だったし、怖そうだった」
「俺はお前が常に眠そうでだるそうな印象があったぞ」
「でさ、ケビンは真面目じゃん。俺やる気無かったよね」
「手のかかる後輩だったよ」
新人は先輩ホストのヘルプをし、店のルールやホストの仕事のいろはを学んで行くのですが、ジュニョンはとにかくやる気が無い上に、無礼者で最初は大変でした。
「一回派手に喧嘩したよね」
「したした。ケビンが怒ったの見たのって、後にも先にもあのときだけかも」
当時二人が居た店はホストクラブの上下関係が厳しく、ホスト同士がお互いに敵だと思っている節があり、良い雰囲気の職場とは言いづらい場所でした。いつかナンバーワンになって店を出て行こうと思っていた分、やる気のない後輩への指導がとても単調な作業に思えて、半分八つ当たり気味にジュニョンを叱責したのです。
けれどもその事件の後、少しずつお互いのことを分かり始め、最終的には一緒に店を出、私は支配人に、ジュニョンは此の店のホストとして働くようになったのでした。
「まさか、あんなに嫌ってた豪サンとお店開くなんて思わなかった」
「豪とか懐かしいな。ちょっと恥ずかしい」
豪、は昔の私の源氏名です。
「まあ、其の後すぐクァンヒが入ってきたから雰囲気変わったよね」
「うん」
マネジメントは私が、現場はジュニョンが見ることになり、実質オーナー二人で始めたクラブエンパイアでしたが、一番最初に面接に乗り込んできたのはクァンヒでした。
「強烈だったね」
ジュニョンが苦笑します。
「あれは強烈だった。面接でずっとアイドルグループのメドレー見させられて、オンステージだった」
二人で面接をしたのですが、特技があります!と突然歌われた日には、ジュニョンとどうしたら良いか小一時間考えました。いえ、嘘です。即決でした。
「あのキャラ入れたら面白いかも、ってケビンが推したんだ」
「だってあんなホスト居ないから、取り敢えずネタで入れてみたんだ」
けれども、クァンヒは意外と冷静に空気を読めるところもあって、真面目過ぎる私と適当過ぎるジュニョンの間を取り持つ存在になりました。
彼の志望動機は、「何処かの世界でアイドルになりたかった」でした。
次に入ってきたのがシワンでした。
「シワン面接のとき俺居なかったな」
急遽親戚の告別式が入ってしまった為、ジュニョンに面接を任せたのです。
「部屋入ってきたとき女の子かと思った」
「へえ?」
シワンの面接の話は採用当時にちらっと聞いただけで、あまりちゃんと聞いたことはありませんでしたので、此れは初耳です。
「垢抜けたいからホストになりたいんです、って言ってて、可愛かった」
「クァンヒと理由似てたんだね」
「うん、だからあそこ二人仲良いのかも」
ジュニョンが手元のシワンの履歴書に目を落とすと、少し、懐かしそうな表情になりました。
「ズバリ採用の決め手は?」
「顔」
あ、そうですか。
其の後にテホンが内勤希望で入って来ます。
他にアルバイトを幾つも掛け持ちをしている分、ホストは体を壊しそうで不安だから内勤で働きたいと、彼は言いました。
「テホンは理由が切実だったし、誠実で分かり易かったね」
「ほんと、絵に描いたような苦労人だった」
小さな店だから内勤もホストで済ませる手もありましたし、何よりテホンは顔も体も垣間見える性格も、普通に格好良い部類。内勤では勿体無いとテホンの才能を見抜いてホストに転向することを薦めたのです。
「どんな人にでも温和に対応できるのが強みだから、固定客が付くよう頑張ってみてって言ったよ」
「それが大当たり。テホンって割と熱狂的な固定客多いよね」
ヒチョルは元々別の店の従業員でした。
朝、ジュニョンと一緒に午前9時台の歓楽街を歩いていたら、空から人が振ってきて、近くのゴミ捨て場のゴミの山に人が降ってきたのです。
その山に埋もれていたのがヒチョルでした。
「びっくりしたよね」
「あれは衝撃的だった」
ヒチョルは当時別の店で働いていたのですが、ストーカー化した客に追い詰められ、窓から飛び降りた、というのでした。
取り敢えず意識もあり、ゴミ山がマットがわりになって怪我一つしていなかったヒチョルを連れて来た道を戻り、理由を聞いて店で匿うことにしたのです。
そのうち、何時の間にかクラブエンパイアで働くようになってしまったのでした。
「何か、気付いたら居た」
「うん」
此の夜の街のルールの一つに「嘘は付かず、本当のことを話さないこと」があります。そのルールを守るため、ヒチョルの過去を根掘り葉掘り聞いたことはありません。
最初は無表情だった彼が、だんだんとキャラクターを崩壊させながらホストの仕事をそれなりにこなしている姿は、見ていて微笑ましいです。
ミヌは、ジュニョンがスカウトしてきた人物でした。
「気になって声かけてきちゃった」と、ジュニョンが肩を抱いて現れ、あれよあれよという間にパーカーにスニーカーという姿からぱりっと仕立てられたスーツ姿に変身させ、体験入店させそのまま採用してしまったパターン。
「人さらいを目の前で見たよ」
やれやれ、と思ったものです。
「人聞き悪いなあ。体験入店での後に、入る?って聞いたら、働きたいです!って言ってくれたんだ」
「ミヌは本当にジュニョンのことが好きだったよね」
多分、ミヌもジュニョンも最初はお互いを意識していたと思うのです。
が、何処かのタイミングでミヌがヒチョルと懇ろになったのをきっかけに、ジュニョンはジュニョンでシワンに手を出してみたり、クァンヒにちょっかいをかけてみたり、ガールフレンドに流れたりとややこしいときがありました。
「過去形で言わないで」
ジュニョンが少し、顔を曇らせて不満げに言いました。
「ヒョンシクって何でホストじゃないんだっけ?」
仕返し、とばかりにジュニョンがツッコミを返してきました。
電話で面接の依頼を受けたときに、此の声の持ち主はどんな相手かと少し気になっていて、初めてその姿を見たときに心が突き動かされたを覚えています。
Jesus!
運命だと思いました。
人生で恐らく最初で最後の一目惚れでした。
「ホストにしたくなかったから」
「うわ、自己中な理由だなあ。それでいいの、支配人」
ホストになりたい、という彼をまずは技量が分からないから内勤からスタートしようと言い、対して料理もしたことがないという彼を厨房担当にしたのは、他でもない、私です。
抜群のスタイルと顔と、ほんの少しだけ足りない頭のアンバランスさが危う過ぎて、観察したくなったのでした。
どうしてホストになりたいと思ったんだ、という問いに「歌手になりたくて、そのレッスン代を自分の働いたお金で払いたいんです」と素直に答えるところも可愛らしくて。
ヒョンシクとの距離を縮めた話は——また今度にしましょうか。
最後に入店してきたのはドンジュンでした。
やるからにはどんな世界でも一番になりたい、という若さと勢いがあったので、第一印象で即採用。
今までのクラブエンパイアには居なかった攻撃的なキャラクターだったので、物珍しさもあって採用したのですが、意外と真面目に働きますし、ナンバーワンのジュニョンに対する闘争心で意欲的に動いているのは良いなと思っています。
新人なのでジュニョンのヘルプの仕事が多いのですが、かつての自分とジュニョンの先輩後輩関係よりも、ずっと濃密な上下関係があるようで。
「可愛い?」
「可愛いよ。からかうとすぐ真っ赤になるし、引けば猛スピードで追い掛けて来る猪の子供みたいで好き」
くすくすとジュニョンが笑います。悪い顔ですね。
「好き、ね。くれぐれもいじめないでくれよ」
「いじめないよ?仕事では、さ」
そのウィンクが怪しさを物語ってますよ。
==================
以上、入店秘話でした。
また、お会いしましょう。
ご指名お待ちしております。
デスクに座って手に取った書類に目を通していると、営業を終えたジュニョンが話し掛けて来ました。
「履歴書」
一人一人の履歴書が入ったファイルの束をジュニョンへ渡すと、一番上に乗っていた其れを見て吹き出しました。
「アイツ、やっぱ面白いわ」
『稼ぎまくりたい』と書かれた志望動機。
まだあどけなさの残る少年の証明写真。
氏名欄には——"キム・ドンジュン"の名前。
「初めて見たよあんな子。面接に来たときは子供かと思った」
「こんな履歴書だったんだ」
字汚いな、と言いながら、ジュニョンはぱらぱらと他の履歴書を見始めました。
今日は、期末日。決算も終わり、少し穏やかな時間が流れて行きます。
此の九人で作り上げてきた空間も、しばし眠りにつくところ。
今日は、各スタッフの入店時のエピソードを私ケビンから紹介しましょう。
ジュニョンも、話してくれますよ。
==================
「ジュニョンと会ったのは何時だっけ?」
「3年位前?」
「第一印象最悪だったよ」
「奇遇だね、俺もだよ」
当時私は此の歓楽街の別の店に居て、同じ店に新人として入ってきたのがジュニョンでした。
「当時いかつい髪型だったし、怖そうだった」
「俺はお前が常に眠そうでだるそうな印象があったぞ」
「でさ、ケビンは真面目じゃん。俺やる気無かったよね」
「手のかかる後輩だったよ」
新人は先輩ホストのヘルプをし、店のルールやホストの仕事のいろはを学んで行くのですが、ジュニョンはとにかくやる気が無い上に、無礼者で最初は大変でした。
「一回派手に喧嘩したよね」
「したした。ケビンが怒ったの見たのって、後にも先にもあのときだけかも」
当時二人が居た店はホストクラブの上下関係が厳しく、ホスト同士がお互いに敵だと思っている節があり、良い雰囲気の職場とは言いづらい場所でした。いつかナンバーワンになって店を出て行こうと思っていた分、やる気のない後輩への指導がとても単調な作業に思えて、半分八つ当たり気味にジュニョンを叱責したのです。
けれどもその事件の後、少しずつお互いのことを分かり始め、最終的には一緒に店を出、私は支配人に、ジュニョンは此の店のホストとして働くようになったのでした。
「まさか、あんなに嫌ってた豪サンとお店開くなんて思わなかった」
「豪とか懐かしいな。ちょっと恥ずかしい」
豪、は昔の私の源氏名です。
「まあ、其の後すぐクァンヒが入ってきたから雰囲気変わったよね」
「うん」
マネジメントは私が、現場はジュニョンが見ることになり、実質オーナー二人で始めたクラブエンパイアでしたが、一番最初に面接に乗り込んできたのはクァンヒでした。
「強烈だったね」
ジュニョンが苦笑します。
「あれは強烈だった。面接でずっとアイドルグループのメドレー見させられて、オンステージだった」
二人で面接をしたのですが、特技があります!と突然歌われた日には、ジュニョンとどうしたら良いか小一時間考えました。いえ、嘘です。即決でした。
「あのキャラ入れたら面白いかも、ってケビンが推したんだ」
「だってあんなホスト居ないから、取り敢えずネタで入れてみたんだ」
けれども、クァンヒは意外と冷静に空気を読めるところもあって、真面目過ぎる私と適当過ぎるジュニョンの間を取り持つ存在になりました。
彼の志望動機は、「何処かの世界でアイドルになりたかった」でした。
次に入ってきたのがシワンでした。
「シワン面接のとき俺居なかったな」
急遽親戚の告別式が入ってしまった為、ジュニョンに面接を任せたのです。
「部屋入ってきたとき女の子かと思った」
「へえ?」
シワンの面接の話は採用当時にちらっと聞いただけで、あまりちゃんと聞いたことはありませんでしたので、此れは初耳です。
「垢抜けたいからホストになりたいんです、って言ってて、可愛かった」
「クァンヒと理由似てたんだね」
「うん、だからあそこ二人仲良いのかも」
ジュニョンが手元のシワンの履歴書に目を落とすと、少し、懐かしそうな表情になりました。
「ズバリ採用の決め手は?」
「顔」
あ、そうですか。
其の後にテホンが内勤希望で入って来ます。
他にアルバイトを幾つも掛け持ちをしている分、ホストは体を壊しそうで不安だから内勤で働きたいと、彼は言いました。
「テホンは理由が切実だったし、誠実で分かり易かったね」
「ほんと、絵に描いたような苦労人だった」
小さな店だから内勤もホストで済ませる手もありましたし、何よりテホンは顔も体も垣間見える性格も、普通に格好良い部類。内勤では勿体無いとテホンの才能を見抜いてホストに転向することを薦めたのです。
「どんな人にでも温和に対応できるのが強みだから、固定客が付くよう頑張ってみてって言ったよ」
「それが大当たり。テホンって割と熱狂的な固定客多いよね」
ヒチョルは元々別の店の従業員でした。
朝、ジュニョンと一緒に午前9時台の歓楽街を歩いていたら、空から人が振ってきて、近くのゴミ捨て場のゴミの山に人が降ってきたのです。
その山に埋もれていたのがヒチョルでした。
「びっくりしたよね」
「あれは衝撃的だった」
ヒチョルは当時別の店で働いていたのですが、ストーカー化した客に追い詰められ、窓から飛び降りた、というのでした。
取り敢えず意識もあり、ゴミ山がマットがわりになって怪我一つしていなかったヒチョルを連れて来た道を戻り、理由を聞いて店で匿うことにしたのです。
そのうち、何時の間にかクラブエンパイアで働くようになってしまったのでした。
「何か、気付いたら居た」
「うん」
此の夜の街のルールの一つに「嘘は付かず、本当のことを話さないこと」があります。そのルールを守るため、ヒチョルの過去を根掘り葉掘り聞いたことはありません。
最初は無表情だった彼が、だんだんとキャラクターを崩壊させながらホストの仕事をそれなりにこなしている姿は、見ていて微笑ましいです。
ミヌは、ジュニョンがスカウトしてきた人物でした。
「気になって声かけてきちゃった」と、ジュニョンが肩を抱いて現れ、あれよあれよという間にパーカーにスニーカーという姿からぱりっと仕立てられたスーツ姿に変身させ、体験入店させそのまま採用してしまったパターン。
「人さらいを目の前で見たよ」
やれやれ、と思ったものです。
「人聞き悪いなあ。体験入店での後に、入る?って聞いたら、働きたいです!って言ってくれたんだ」
「ミヌは本当にジュニョンのことが好きだったよね」
多分、ミヌもジュニョンも最初はお互いを意識していたと思うのです。
が、何処かのタイミングでミヌがヒチョルと懇ろになったのをきっかけに、ジュニョンはジュニョンでシワンに手を出してみたり、クァンヒにちょっかいをかけてみたり、ガールフレンドに流れたりとややこしいときがありました。
「過去形で言わないで」
ジュニョンが少し、顔を曇らせて不満げに言いました。
「ヒョンシクって何でホストじゃないんだっけ?」
仕返し、とばかりにジュニョンがツッコミを返してきました。
電話で面接の依頼を受けたときに、此の声の持ち主はどんな相手かと少し気になっていて、初めてその姿を見たときに心が突き動かされたを覚えています。
Jesus!
運命だと思いました。
人生で恐らく最初で最後の一目惚れでした。
「ホストにしたくなかったから」
「うわ、自己中な理由だなあ。それでいいの、支配人」
ホストになりたい、という彼をまずは技量が分からないから内勤からスタートしようと言い、対して料理もしたことがないという彼を厨房担当にしたのは、他でもない、私です。
抜群のスタイルと顔と、ほんの少しだけ足りない頭のアンバランスさが危う過ぎて、観察したくなったのでした。
どうしてホストになりたいと思ったんだ、という問いに「歌手になりたくて、そのレッスン代を自分の働いたお金で払いたいんです」と素直に答えるところも可愛らしくて。
ヒョンシクとの距離を縮めた話は——また今度にしましょうか。
最後に入店してきたのはドンジュンでした。
やるからにはどんな世界でも一番になりたい、という若さと勢いがあったので、第一印象で即採用。
今までのクラブエンパイアには居なかった攻撃的なキャラクターだったので、物珍しさもあって採用したのですが、意外と真面目に働きますし、ナンバーワンのジュニョンに対する闘争心で意欲的に動いているのは良いなと思っています。
新人なのでジュニョンのヘルプの仕事が多いのですが、かつての自分とジュニョンの先輩後輩関係よりも、ずっと濃密な上下関係があるようで。
「可愛い?」
「可愛いよ。からかうとすぐ真っ赤になるし、引けば猛スピードで追い掛けて来る猪の子供みたいで好き」
くすくすとジュニョンが笑います。悪い顔ですね。
「好き、ね。くれぐれもいじめないでくれよ」
「いじめないよ?仕事では、さ」
そのウィンクが怪しさを物語ってますよ。
==================
以上、入店秘話でした。
また、お会いしましょう。
ご指名お待ちしております。
ようこそクラブエンパイアへ。
またお目にかかれて嬉しいです。ケビンです。
ですが、お嬢様、申し訳ございません。
本日は閉店のお時間でございます。
普通、終業後のスタッフの姿はお見せできないのですが——本日だけは特別ですよ。
こっそりと、覗いてみますか?
==================
くたびれた響(ヒチョル)と水月(ミヌ)のコンビは、ソファでうたた寝中ですね。
二人で肩を寄せ合って頭をくっつけて、一つのブランケットを肩からかけてくるまっていると、本当に天のギフトのような二人です。
ちなみに近付くと酒臭いですから注意してくださいね。
基本、ホストは昼夜全部の時間をお客様の為に捧げないと、上には行けません。此の二人に限って言えば、私利私欲のためにホストをやっている訳ではないのでしょうが、素質があるだけに少し勿体無い気がします。
「ミヌ……寒い、もうちょっとこっち来て」
「うん」
ブランケットに潜り込んで、見えなくなってしまいましたね。そっとしておいてあげましょう。まあ、ソファが軋み出したら注意しますけれど。
白鳥(シワン)は計算機片手に今日の売り上げの計算に忙しいみたいですから、話し掛けちゃだめですよ。
「シワン……俺ちょっと疲れちゃった……癒してー!」
いま、光流(クァンヒ)が抱き付きに行って思い切り肘鉄食らわされてたでしょう?
「げふっ」
「邪魔しないで」
数字のことになると特にシビアなんですよね、シワンは。幹部候補なだけあって、経理も殆ど彼に任せています。有能ですよ。ただ、ちょっと融通が利かないかな。上手くクァンヒが息抜きさせてあげてるんですよ。
「遊ぼうよー……」
「……此れ終わったらな」
ツンデレ、ちゃんと見られました?
Macaulay(テホン)は片付け中の傍ら、周囲への気配りを忘れません。
「シワンヒョン、お疲れ様。どうぞ」
今も、シワンに冷たい氷の入ったアイスコーヒーを差し出してあげていました。シワンが一口飲んで顔を綻ばせると、少しはにかんで笑いました。
「テホン、余計なことしないでよ!シワン餌付けしようとしたって無駄だからね!」
クァンヒが口を挟みましたが、テホンは無言で同じくアイスコーヒーを差し出しました。
「あ、ありがと……」
テホンの愛は分け隔てないのです。
彼はフロアをくまなく歩き回り、掃除をしたり、厨房に入って皿洗いをしたり、とにかくよく働いてくれます。
「テホン、お疲れ。今日はもう上がって良いよ?」
「大丈夫ですよ支配人。此れももう終わりますし」
此の笑顔。グラス、未だ30個分位残っているのに……キッチン担当の仕事が行き届いていない所までもフォローしてくれて、本当に良い子です。
「悪いな」
「当然のことですから。俺タフなんで全然平気っすよ」
「もしもし?エビちゃん?えっと……特に用は無いんだけどね、仕事終わったからさ、その、声聞きたくなっちゃって」
——此の声は月哉(ジュニョン)ですね。流石ナンバーワン、営業時間外の営業も欠かしません。左手の携帯電話で電話、右手の携帯電話でメール。目の前の硝子のテーブルにはドンペリのボトルと其のシャンパンが半分まで入ったグラスが一つ。ソファに腰掛けて、仕事中です。
「うん、うん。また逢いたいな。取り敢えず店で……ってこれじゃ、何か営業っぽい?でも、君にだけは本気なんだ。信じて」
「また歯の浮くような台詞ゆってんなあ。ホストって此処まで媚びなきゃいけない訳?」
ジュニョンの右手から携帯電話を奪った純(ドンジュン)が、液晶画面の文字の羅列を見ながら言っていますね。
「じゃあね」
とジュニョンが電話口の相手に口早に告げて電話を切り、ドンジュンの手からもう一つの方の携帯電話を奪い返しました。
「本気さ。オコチャマには分かんないかもしれないけど、相手を最大限に喜ばすことを考えなきゃいけないんだよ」
「分かんないなー」
ジュニョンは悪い笑みを浮かべてドンジュンの手を引っ張り、体のバランスを崩させました。
あ——
瞬間、ジュニョンの膝に、ドンジュンが倒れ込みます。
「——分かんないなら、教えてあげても良いよ」
膝の上にドンジュンを乗せたまま、ドンジュンの耳許にジュニョンが何か呟きましたね。
お気付きでしょうか?ジュニョンはからかいながらも、ドンジュンを可愛がっているんです。其れが——ちょっと先輩が後輩を可愛がるだけには見えないのですが。
ふう。そろそろ、私も仕事に戻らなければいけません……。が、其れを阻む私の膝の上。
気持ち良さそうに目を閉じて眠っているのは、厨房担当(ヒョンシク)が居ます。
大して仕事もしていないんですが、もうしばらく此の状態。
閉店間際に、悪酔いしたジュニョンに付いていたはずのお客様がビールを飲ませてしまったのですが、ほんの少し飲んだだけで爆睡。
放っておくとふらふらするからと、事務所で休むか?と聞いたところ
「やだ。ヒョンのそばがいい」
と。
幼児のようになってしまった此のやたら大きな酔っ払いが後ろから抱き着いてきたので、引きはがしてソファに寝かせると今度は
「ヒョンも、いっしょにねよ」
と。
此処はクラブエンパイア。
私の城であり、仕事場です。仕事とプライベートは線を引いておきたいので理性を何とか抑えて、こうして「仕方無く」膝枕をしているのです。
甘い?
そうかも知れませんね。
かつて歓楽街の帝王と言われた私ですら、此の怪獣には勝てません。純粋で、天真爛漫で、全てを無効化する癒しの笑顔の持ち主。
恐ろしい逸材ですから、もう少し、私の檻の中で閉じ込めておきたいと思います。
さあ、もうすぐ夜明けです。
シンデレラはとっくにタイムリミットですよ、お嬢様。
私たちも、手元を片付けたら、帰るとしましょう。
ご希望でしたら、あの7人のうち誰かを捕まえて、アフターに誘うのも良いでしょう。
私は、自家用車で帰ります。
我が家の猫を可愛がらなければなりませんので。
またお目にかかれて嬉しいです。ケビンです。
ですが、お嬢様、申し訳ございません。
本日は閉店のお時間でございます。
普通、終業後のスタッフの姿はお見せできないのですが——本日だけは特別ですよ。
こっそりと、覗いてみますか?
==================
くたびれた響(ヒチョル)と水月(ミヌ)のコンビは、ソファでうたた寝中ですね。
二人で肩を寄せ合って頭をくっつけて、一つのブランケットを肩からかけてくるまっていると、本当に天のギフトのような二人です。
ちなみに近付くと酒臭いですから注意してくださいね。
基本、ホストは昼夜全部の時間をお客様の為に捧げないと、上には行けません。此の二人に限って言えば、私利私欲のためにホストをやっている訳ではないのでしょうが、素質があるだけに少し勿体無い気がします。
「ミヌ……寒い、もうちょっとこっち来て」
「うん」
ブランケットに潜り込んで、見えなくなってしまいましたね。そっとしておいてあげましょう。まあ、ソファが軋み出したら注意しますけれど。
白鳥(シワン)は計算機片手に今日の売り上げの計算に忙しいみたいですから、話し掛けちゃだめですよ。
「シワン……俺ちょっと疲れちゃった……癒してー!」
いま、光流(クァンヒ)が抱き付きに行って思い切り肘鉄食らわされてたでしょう?
「げふっ」
「邪魔しないで」
数字のことになると特にシビアなんですよね、シワンは。幹部候補なだけあって、経理も殆ど彼に任せています。有能ですよ。ただ、ちょっと融通が利かないかな。上手くクァンヒが息抜きさせてあげてるんですよ。
「遊ぼうよー……」
「……此れ終わったらな」
ツンデレ、ちゃんと見られました?
Macaulay(テホン)は片付け中の傍ら、周囲への気配りを忘れません。
「シワンヒョン、お疲れ様。どうぞ」
今も、シワンに冷たい氷の入ったアイスコーヒーを差し出してあげていました。シワンが一口飲んで顔を綻ばせると、少しはにかんで笑いました。
「テホン、余計なことしないでよ!シワン餌付けしようとしたって無駄だからね!」
クァンヒが口を挟みましたが、テホンは無言で同じくアイスコーヒーを差し出しました。
「あ、ありがと……」
テホンの愛は分け隔てないのです。
彼はフロアをくまなく歩き回り、掃除をしたり、厨房に入って皿洗いをしたり、とにかくよく働いてくれます。
「テホン、お疲れ。今日はもう上がって良いよ?」
「大丈夫ですよ支配人。此れももう終わりますし」
此の笑顔。グラス、未だ30個分位残っているのに……キッチン担当の仕事が行き届いていない所までもフォローしてくれて、本当に良い子です。
「悪いな」
「当然のことですから。俺タフなんで全然平気っすよ」
「もしもし?エビちゃん?えっと……特に用は無いんだけどね、仕事終わったからさ、その、声聞きたくなっちゃって」
——此の声は月哉(ジュニョン)ですね。流石ナンバーワン、営業時間外の営業も欠かしません。左手の携帯電話で電話、右手の携帯電話でメール。目の前の硝子のテーブルにはドンペリのボトルと其のシャンパンが半分まで入ったグラスが一つ。ソファに腰掛けて、仕事中です。
「うん、うん。また逢いたいな。取り敢えず店で……ってこれじゃ、何か営業っぽい?でも、君にだけは本気なんだ。信じて」
「また歯の浮くような台詞ゆってんなあ。ホストって此処まで媚びなきゃいけない訳?」
ジュニョンの右手から携帯電話を奪った純(ドンジュン)が、液晶画面の文字の羅列を見ながら言っていますね。
「じゃあね」
とジュニョンが電話口の相手に口早に告げて電話を切り、ドンジュンの手からもう一つの方の携帯電話を奪い返しました。
「本気さ。オコチャマには分かんないかもしれないけど、相手を最大限に喜ばすことを考えなきゃいけないんだよ」
「分かんないなー」
ジュニョンは悪い笑みを浮かべてドンジュンの手を引っ張り、体のバランスを崩させました。
あ——
瞬間、ジュニョンの膝に、ドンジュンが倒れ込みます。
「——分かんないなら、教えてあげても良いよ」
膝の上にドンジュンを乗せたまま、ドンジュンの耳許にジュニョンが何か呟きましたね。
お気付きでしょうか?ジュニョンはからかいながらも、ドンジュンを可愛がっているんです。其れが——ちょっと先輩が後輩を可愛がるだけには見えないのですが。
ふう。そろそろ、私も仕事に戻らなければいけません……。が、其れを阻む私の膝の上。
気持ち良さそうに目を閉じて眠っているのは、厨房担当(ヒョンシク)が居ます。
大して仕事もしていないんですが、もうしばらく此の状態。
閉店間際に、悪酔いしたジュニョンに付いていたはずのお客様がビールを飲ませてしまったのですが、ほんの少し飲んだだけで爆睡。
放っておくとふらふらするからと、事務所で休むか?と聞いたところ
「やだ。ヒョンのそばがいい」
と。
幼児のようになってしまった此のやたら大きな酔っ払いが後ろから抱き着いてきたので、引きはがしてソファに寝かせると今度は
「ヒョンも、いっしょにねよ」
と。
此処はクラブエンパイア。
私の城であり、仕事場です。仕事とプライベートは線を引いておきたいので理性を何とか抑えて、こうして「仕方無く」膝枕をしているのです。
甘い?
そうかも知れませんね。
かつて歓楽街の帝王と言われた私ですら、此の怪獣には勝てません。純粋で、天真爛漫で、全てを無効化する癒しの笑顔の持ち主。
恐ろしい逸材ですから、もう少し、私の檻の中で閉じ込めておきたいと思います。
さあ、もうすぐ夜明けです。
シンデレラはとっくにタイムリミットですよ、お嬢様。
私たちも、手元を片付けたら、帰るとしましょう。
ご希望でしたら、あの7人のうち誰かを捕まえて、アフターに誘うのも良いでしょう。
私は、自家用車で帰ります。
我が家の猫を可愛がらなければなりませんので。
昔昔、草原に、シワンという歌の上手な若者が住んでいました。
シワンはテホンお母さんと、二人で羊を飼って暮らしていました。
ある日シワンは、羊に草を食べさせに行ったきり、日が暮れても帰って来ません。
テホンお母さんが心配していると、シワンは其の華奢な腕に生まれたての白い子馬を抱いて帰って来ました。
「只今帰りました!」
「お帰り。綺麗な子馬だね。どうしたの?」
テホンお母さんが聞くと、シワンは嬉しそうに言いました。
「帰る途中で見つけたんです。持ち主もやって来ないし、母馬もいないんです」
「其れ盗んで来たって言うんじゃ……」
「でも、こんなに小さいんです。夜になって狼にでも食われたら可哀想だから、連れて帰って来ました。家で飼ってやりましょう」
シワンは大きな瞳で、テホンお母さんのまあるい瞳を見ました。
「……まあ、良いか」
シワンは白い子馬をとても可愛がって、大事に大事に育てました。
子馬は餌をどんどん食べてどんどん大きくなり、やがて雪の様に真っ白な立派な馬になりました。
「前は腕で抱き抱えられたのに……お前、大きくなったなあ」
シワンがたてがみを撫でると、白い馬は気持ち良さそうに鼻先をシワンの頭にくっつけました。
シワンと白い馬は、仲の良い兄弟の様にいつも一緒です。
或る日の事、村に素晴らしい知らせが伝わりました。
王様——ときの、クァンヒ王が若者たちを集めて、競馬大会を開くというのです。
そのうえ優勝した者は、ヒチョル王女のお婿さんに迎えられるというのでした。
其れを聞いたジュニョン村長は、言いました。
「シワン、行って来い。お前なら、きっと優勝出来るよ」
そしていよいよ、競馬大会の日がやって来ました。
国中から、自慢の馬を連れた若者が集まりました。
けれど白い馬に乗ったシワンに敵う者は一人もおらず、シワンが優勝したのです。
「あの若者と白い馬を、ここへ呼びなさい」
と、クァンヒ王は言いました。
シワンは、大喜びです。
「やった!勝てた!お前の御蔭だ!ありがとう!」
シワンは馬の首に抱きつき、その体に何度も頭を擦り付けて喜びを感謝を表現しました。馬は嬉しそうに尻尾を振り、真っ黒な瞳を細めました。
シワンにとっては、運動神経に自信の無かった自分が、白い馬の助けを借りて一人と一匹で優勝出来たことが何よりも嬉しかったのでした。
神様からの贈り物である此の馬を、今まで以上に愛おしく思いました。
そして、優勝して王女のお婿さんになれば、テホンお母さんを楽にしてあげることが出来ると喜びました。
クァンヒ王の前に、白い馬を引いたシワンが下を向いたまま歩み出ました。
向かって真ん中にクァンヒ王。左手側に王女ヒチョルが控えています。
——みすぼらしい着物。貧乏そうで貧弱な男だ。
——ひょろひょろで、筋肉も無さそう。こんな男が夫に?
「シワンとやら。顔を上げなさい」
其の顔を見た瞬間、クァンヒ王とヒチョルは自らの持った第一印象を心の奥深くで撤回しました。
美しさ。気高さ。
凛とした佇まいの前には、どんな身分も、衣服も、装飾品も、無意味でした。
其の青年と白い馬は、光の中にじっと立っていました。
まるで手の届かない存在のように。
王さまは、冷たく言いました。
「其の白い馬を、置いて行け。そのかわりに、黄金三枚をお前にやる事にする」
此れを聞いたシワンは、びっくりです。
(此の白い馬は家族だ。お金で買おうなんて、何て酷い事を)
シワンは、クァンヒ王の命令を断りました。
「約束が違います!それに、此の馬は家族です。お金とは交換出来ません!」
王女ヒチョルも抵抗しました。
「お父様!コイツとなら結婚してもいい!だから、変なこと言わないで」
するとクァンヒ王は、顔を真っ赤にして怒り出し、腕にしがみついてきた王女ヒチョルを振り払いました。王女ヒチョルは体をよろけさせ、地面へ倒れ頭を打って気絶してしまいました。
「話の通じない者ばかりか」
そう言ったクァンヒ王の顔には、狂気と、ほんの少しの悲しみの色がありました。
「王の言う事を聞かぬ無礼者め」
クァンヒ王は、シワンを一段上から見下ろしながら、彼が跪く地面の元へ歩み寄り、シワンの前に立ちました。
細く華奢な顎に手をかけ、顔を覗き込むと、強い瞳が睨み返してきました。
シワンの後ろに控えた白い馬は、今にもクァンヒ王を蹴飛ばそうと、鼻息を荒く落ち着きがありません。
「申し訳ありません。けれども、約束は約束。家族は家族です」
顎を捉えられたままでも、シワンは強く言い放ちました。
其れを観た瞬間、王は権力と名誉を手に入れても絶対に手に入らない光があることを悟りました。
触れることすら出来ない気高い美しいものがあることを。
それが導く強い精神があることを。
『貧乏な羊飼い』に教えられたことが、最後まで許すことができませんでした。
「此の者を好きにすれば良い」
王は感情の無い声で言い放ち、家来達に好きなように嬲っておけ、と言いました。
家来達はシワンを物陰に連れ込み、鞭で打ち、玩具のように弄びました。
「あああああ」
シワンの叫びが、辺りに響きました。
傷だらけになったシワンは見物席の外へ放り出され、クァンヒ王は家来に白い馬を引かせて帰っていきました。
「シワンヒョン……お願い、目、醒まして」
気絶し砂の上に倒れていたシワンは、顔をはたかれてやっと目を醒ましました。
目を開けると、友人のミヌの辛そうな顔がありました。
「ミ…ヌ…」
「ヒョン!」
「ごめんね……お前に心配かけて……」
シワンが、儚い笑顔を作り、傷だらけで弱々しくなった手でミヌの頬をそっと撫でました。
「何で?何でヒョンが謝るの?」
涙を浮かべたミヌがシワンを抱き締め、いっさいの着物を剥がれたシワンに自分が重ね着にしていた着物を脱いで肩にかけました。
けれども一瞬目を醒ましただけで、シワンはまた気を失ってしまいました。
ミヌは其の細い体を支えて背負い、家まで帰りました。
家来達に酷いことをされすっかりぼろぼろになったシワンは、何日も寝たきりでした。
テホンお母さんとミヌ、ジュニョン村長、村の人々の必死の看病で、だんだん元気を取り戻して行きました。
或る日、ジュニョン村長はテホンお母さんに詫びました。自分が言ったことで、息子さんを傷付けてしまって申し訳無い、と。
「あの子は、白い馬を失ったことだけに傷付いているんです」
テホンお母さんは言いました。
「シワンは、私や周りが思っていたよりもずっと強いんです。どんなことがあっても、絶対に傷付かない。暴力を振るわれても、必ず回復します。でも——」
「でも?」
「白い馬を失ったことで、全ての感情を閉ざしてしまっているんです。寧ろ、其の所為でどんな痛みも感じなくなっているだけなのかも」
ジュニョン村長が深く頭を下げようとするのをテホンお母さんは手で制止しました。
草原の遠くの方から、シワンとミヌが連れ立って放牧から帰ってくるのを見ていました。
風が強く吹いて、一瞬だけ二人と二人の間に白い砂の塵で見えなくなりました。
或る晩の事です。
トントンと、門の戸を叩く音がしました。
「誰?」
「……」
返事は、ありません。
「何の音?」
外に出たシワンは、びっくり。
白い馬が、門の傍に立っていたからです。
暗闇の中で、白い馬は更に白く、月の光を浴びて光っていました。
「お前!帰って来たのか!」
シワンは駆け寄って、思わず白い馬を抱き締めました。久しぶりに鼻にする馬の匂いでした。毛並みを確かめるように何度も体に触れ、馬の頭を持って目を合わせました。
漆黒の瞳同士がしっかりと合わさり、再会したことを実感しました。
けれども、何度かシワンが馬の体を撫でていると、急に馬の様子が変わりました。
おかしいと思ってみて見ると、シワンは息を飲み込みました。
白い馬の体に何本もの鋭い矢が突き刺さり、毛は血で染められ、其れは地面まで滴り落ち、馬が歩いて来たであろう方角へと続いていました。
血の臭いを、やっとシワンは嗅ぎ分けたのです。
よくぞ此処まで来られたと思うほどの重症でした。
途中で狼なぞに狙われていたかも知れないのに。
「何てことだ!お母さん!テホンお母さん起きて!帰ってきたよ!」
シワンは夢中でテホンお母さんと一緒に傷の手当をしてやりました。
天上で流星が幾つか空を巡って行きました。
白い馬の真っ黒な瞳が開かれることは、二度とありませんでした。
やがてシワンは、白い馬が戻って来た訳を知る事が出来ました。
あの夜、クァンヒ王は人々を呼んで酒盛りを始めました。
ところが大勢の人々の前で白い馬に乗ろうとしたとたん、白い馬はクァンヒ王を振り落とそうとし、しがみついていた王を後ろ足で蹴り上げて地面に叩き付けてしまったのです。
怒ったクァンヒ王は、家来たちに向かって叫びました。
「捕まえろ!捕まらなければ、殺せ」
家来たちは逃げて行く白い馬に向かって、雨の様に矢をあびせました。
其れでも白い馬は、走ったのです。
体に矢が刺さりながらも、懐かしいシワンの家に向かって死に物狂いで走ったのです。
白い馬は、自分を可愛がり育ててくれたシワンの傍で眠りたかったのでした。
白い馬が死んでから、シワンは悲しくて、悔しくて、夜もなかなか眠れない日が続きました。
そして或る日、シワンは弓矢を取り出すと、其の弓矢の手入れを始めました。
白い馬の敵を討つ為、此の弓矢でクァンヒ王を殺そうと思ったのです。
(待ってろよ。明日の朝、王を殺してお前の敵を討ってやる)
月夜の光で、弓矢の切っ先が青白くただ光りました。
其の日の晩、シワンは夢を見ました。
「シワンヒョン、敵を討つ事を決心してくれてありがとう。
本当に、嬉しいよ」
「お前!人の言葉が話せるのか?理解出来るのか?」
シワンは目の前に現れた白い馬の、甘い声に驚きながらも首に手を回し、そっと抱き寄せました。
「うん。此処なら話せる。だから、聞いて。
もう僕は死んでしまってるんだ。
王を殺しても、僕は生き返らない」
そう言うと、急に抱き締めていた馬の姿が消えました。
シワンは夢の中の真っ白な世界できょろきょろと辺りを見回しました。
「何処?何処に居るの?」
夢の中の世界は、無限の白い闇に包まれたようで、手探りをしても上下の感覚も、左右の感覚もありません。
気が付くと、自分よりも背が高い、色白の青年が立っていることに気付きました。
すらりと伸びた高い身長に、長い手足。黒目がちの瞳。整った顔立ち。
一目で、あの白い馬だと気付きました。
色白の青年はシワンを真正面から抱き締め、自分の胸にシワンの頭を押し付けるように片方の手で支えました。
「それどころか、ヒョンも殺されちゃう。
お願いだよ。敵討ちは止めて……」
初めて聞く声なのに、其の声はとても心地良いものでした。
懐かしいような、けれど初めて耳にするような音声の響きは、シワンの耳を通って、胸の当たりにまで染み込み、同時に涙腺を刺激しました。
「それより、もっと、ずっと叶えて欲しい一つお願いがあるんだ。
僕の体で、琴を作って。
僕は琴になって、ずっとヒョンの傍に居る」
「嫌だ……」
シワンは泣き、色白の青年の胸に顔を押し付けるようにしました。青年の大きな手が、シワンの頭を撫でて行きます。
「お願い……」
青年はシワンの頭にくちづけました。
「嫌……」
シワンは泣きじゃくり、話を聞ける様子ではありません。
「ねえ、お願いだよ。聞いて」
色白の青年は、もう一度両腕でしっかりとシワンの体を抱き締めました。
「貴方は、生きて。きっと僕の魂はまた生まれ変われる。草原の風に乗って、また貴方に逢いに来るよ。だから、僕が此の広い地上で迷わないように、琴を鳴らしていて」
「本当に?」
「誓うよ。だから忘れないで。僕のこと」
唇が自分の唇に触れたのを感じました。
次の日、シワンは白い馬の骨と尻尾を使って琴を作りました。
竿の先は、白い馬の頭の形を刻みました。
やがてシワンは草原で羊の番をしながら、いつも此の琴を弾くようになりました。
美しい琴の音と胸にしみるその調べは、他の羊飼いたちにとっても此の上ない慰めとなりました。
シワンの琴が聞こえてくると、皆は一日の疲れを忘れてじっと静かに其の音色に耳を傾けるのでした。
風は、吹いていきます。
其の風は、時に向かい風となり旅人の行く手を阻むこともあるでしょう。
けれども、追い風となり旅人の背を押すこともあるでしょう。
音は、響いていきます。
物体の振動が、空気の振動として伝わって行くのです。
其れは、大地をぐるぐるぐるぐる回っていきます。此の世界を、回って行きます。
星は、爆発を繰り返し新しい星を生み出して行きます。
流星は、大地の上で一瞬だけ輝きます。
目には見えない無数の星は、無数の空間で存在しています。
其の日もシワンは白い馬を埋めた場所の傍らで琴を弾いていました。
気付かないうちに、聴衆が一人さも自然かのようにシワンの隣に佇んでいました。
色白の青年でした。
風が、穏やかに大地を渡っていきます。
「ただいま」
「おかえり」
シワンはテホンお母さんと、二人で羊を飼って暮らしていました。
ある日シワンは、羊に草を食べさせに行ったきり、日が暮れても帰って来ません。
テホンお母さんが心配していると、シワンは其の華奢な腕に生まれたての白い子馬を抱いて帰って来ました。
「只今帰りました!」
「お帰り。綺麗な子馬だね。どうしたの?」
テホンお母さんが聞くと、シワンは嬉しそうに言いました。
「帰る途中で見つけたんです。持ち主もやって来ないし、母馬もいないんです」
「其れ盗んで来たって言うんじゃ……」
「でも、こんなに小さいんです。夜になって狼にでも食われたら可哀想だから、連れて帰って来ました。家で飼ってやりましょう」
シワンは大きな瞳で、テホンお母さんのまあるい瞳を見ました。
「……まあ、良いか」
シワンは白い子馬をとても可愛がって、大事に大事に育てました。
子馬は餌をどんどん食べてどんどん大きくなり、やがて雪の様に真っ白な立派な馬になりました。
「前は腕で抱き抱えられたのに……お前、大きくなったなあ」
シワンがたてがみを撫でると、白い馬は気持ち良さそうに鼻先をシワンの頭にくっつけました。
シワンと白い馬は、仲の良い兄弟の様にいつも一緒です。
或る日の事、村に素晴らしい知らせが伝わりました。
王様——ときの、クァンヒ王が若者たちを集めて、競馬大会を開くというのです。
そのうえ優勝した者は、ヒチョル王女のお婿さんに迎えられるというのでした。
其れを聞いたジュニョン村長は、言いました。
「シワン、行って来い。お前なら、きっと優勝出来るよ」
そしていよいよ、競馬大会の日がやって来ました。
国中から、自慢の馬を連れた若者が集まりました。
けれど白い馬に乗ったシワンに敵う者は一人もおらず、シワンが優勝したのです。
「あの若者と白い馬を、ここへ呼びなさい」
と、クァンヒ王は言いました。
シワンは、大喜びです。
「やった!勝てた!お前の御蔭だ!ありがとう!」
シワンは馬の首に抱きつき、その体に何度も頭を擦り付けて喜びを感謝を表現しました。馬は嬉しそうに尻尾を振り、真っ黒な瞳を細めました。
シワンにとっては、運動神経に自信の無かった自分が、白い馬の助けを借りて一人と一匹で優勝出来たことが何よりも嬉しかったのでした。
神様からの贈り物である此の馬を、今まで以上に愛おしく思いました。
そして、優勝して王女のお婿さんになれば、テホンお母さんを楽にしてあげることが出来ると喜びました。
クァンヒ王の前に、白い馬を引いたシワンが下を向いたまま歩み出ました。
向かって真ん中にクァンヒ王。左手側に王女ヒチョルが控えています。
——みすぼらしい着物。貧乏そうで貧弱な男だ。
——ひょろひょろで、筋肉も無さそう。こんな男が夫に?
「シワンとやら。顔を上げなさい」
其の顔を見た瞬間、クァンヒ王とヒチョルは自らの持った第一印象を心の奥深くで撤回しました。
美しさ。気高さ。
凛とした佇まいの前には、どんな身分も、衣服も、装飾品も、無意味でした。
其の青年と白い馬は、光の中にじっと立っていました。
まるで手の届かない存在のように。
王さまは、冷たく言いました。
「其の白い馬を、置いて行け。そのかわりに、黄金三枚をお前にやる事にする」
此れを聞いたシワンは、びっくりです。
(此の白い馬は家族だ。お金で買おうなんて、何て酷い事を)
シワンは、クァンヒ王の命令を断りました。
「約束が違います!それに、此の馬は家族です。お金とは交換出来ません!」
王女ヒチョルも抵抗しました。
「お父様!コイツとなら結婚してもいい!だから、変なこと言わないで」
するとクァンヒ王は、顔を真っ赤にして怒り出し、腕にしがみついてきた王女ヒチョルを振り払いました。王女ヒチョルは体をよろけさせ、地面へ倒れ頭を打って気絶してしまいました。
「話の通じない者ばかりか」
そう言ったクァンヒ王の顔には、狂気と、ほんの少しの悲しみの色がありました。
「王の言う事を聞かぬ無礼者め」
クァンヒ王は、シワンを一段上から見下ろしながら、彼が跪く地面の元へ歩み寄り、シワンの前に立ちました。
細く華奢な顎に手をかけ、顔を覗き込むと、強い瞳が睨み返してきました。
シワンの後ろに控えた白い馬は、今にもクァンヒ王を蹴飛ばそうと、鼻息を荒く落ち着きがありません。
「申し訳ありません。けれども、約束は約束。家族は家族です」
顎を捉えられたままでも、シワンは強く言い放ちました。
其れを観た瞬間、王は権力と名誉を手に入れても絶対に手に入らない光があることを悟りました。
触れることすら出来ない気高い美しいものがあることを。
それが導く強い精神があることを。
『貧乏な羊飼い』に教えられたことが、最後まで許すことができませんでした。
「此の者を好きにすれば良い」
王は感情の無い声で言い放ち、家来達に好きなように嬲っておけ、と言いました。
家来達はシワンを物陰に連れ込み、鞭で打ち、玩具のように弄びました。
「あああああ」
シワンの叫びが、辺りに響きました。
傷だらけになったシワンは見物席の外へ放り出され、クァンヒ王は家来に白い馬を引かせて帰っていきました。
「シワンヒョン……お願い、目、醒まして」
気絶し砂の上に倒れていたシワンは、顔をはたかれてやっと目を醒ましました。
目を開けると、友人のミヌの辛そうな顔がありました。
「ミ…ヌ…」
「ヒョン!」
「ごめんね……お前に心配かけて……」
シワンが、儚い笑顔を作り、傷だらけで弱々しくなった手でミヌの頬をそっと撫でました。
「何で?何でヒョンが謝るの?」
涙を浮かべたミヌがシワンを抱き締め、いっさいの着物を剥がれたシワンに自分が重ね着にしていた着物を脱いで肩にかけました。
けれども一瞬目を醒ましただけで、シワンはまた気を失ってしまいました。
ミヌは其の細い体を支えて背負い、家まで帰りました。
家来達に酷いことをされすっかりぼろぼろになったシワンは、何日も寝たきりでした。
テホンお母さんとミヌ、ジュニョン村長、村の人々の必死の看病で、だんだん元気を取り戻して行きました。
或る日、ジュニョン村長はテホンお母さんに詫びました。自分が言ったことで、息子さんを傷付けてしまって申し訳無い、と。
「あの子は、白い馬を失ったことだけに傷付いているんです」
テホンお母さんは言いました。
「シワンは、私や周りが思っていたよりもずっと強いんです。どんなことがあっても、絶対に傷付かない。暴力を振るわれても、必ず回復します。でも——」
「でも?」
「白い馬を失ったことで、全ての感情を閉ざしてしまっているんです。寧ろ、其の所為でどんな痛みも感じなくなっているだけなのかも」
ジュニョン村長が深く頭を下げようとするのをテホンお母さんは手で制止しました。
草原の遠くの方から、シワンとミヌが連れ立って放牧から帰ってくるのを見ていました。
風が強く吹いて、一瞬だけ二人と二人の間に白い砂の塵で見えなくなりました。
或る晩の事です。
トントンと、門の戸を叩く音がしました。
「誰?」
「……」
返事は、ありません。
「何の音?」
外に出たシワンは、びっくり。
白い馬が、門の傍に立っていたからです。
暗闇の中で、白い馬は更に白く、月の光を浴びて光っていました。
「お前!帰って来たのか!」
シワンは駆け寄って、思わず白い馬を抱き締めました。久しぶりに鼻にする馬の匂いでした。毛並みを確かめるように何度も体に触れ、馬の頭を持って目を合わせました。
漆黒の瞳同士がしっかりと合わさり、再会したことを実感しました。
けれども、何度かシワンが馬の体を撫でていると、急に馬の様子が変わりました。
おかしいと思ってみて見ると、シワンは息を飲み込みました。
白い馬の体に何本もの鋭い矢が突き刺さり、毛は血で染められ、其れは地面まで滴り落ち、馬が歩いて来たであろう方角へと続いていました。
血の臭いを、やっとシワンは嗅ぎ分けたのです。
よくぞ此処まで来られたと思うほどの重症でした。
途中で狼なぞに狙われていたかも知れないのに。
「何てことだ!お母さん!テホンお母さん起きて!帰ってきたよ!」
シワンは夢中でテホンお母さんと一緒に傷の手当をしてやりました。
天上で流星が幾つか空を巡って行きました。
白い馬の真っ黒な瞳が開かれることは、二度とありませんでした。
やがてシワンは、白い馬が戻って来た訳を知る事が出来ました。
あの夜、クァンヒ王は人々を呼んで酒盛りを始めました。
ところが大勢の人々の前で白い馬に乗ろうとしたとたん、白い馬はクァンヒ王を振り落とそうとし、しがみついていた王を後ろ足で蹴り上げて地面に叩き付けてしまったのです。
怒ったクァンヒ王は、家来たちに向かって叫びました。
「捕まえろ!捕まらなければ、殺せ」
家来たちは逃げて行く白い馬に向かって、雨の様に矢をあびせました。
其れでも白い馬は、走ったのです。
体に矢が刺さりながらも、懐かしいシワンの家に向かって死に物狂いで走ったのです。
白い馬は、自分を可愛がり育ててくれたシワンの傍で眠りたかったのでした。
白い馬が死んでから、シワンは悲しくて、悔しくて、夜もなかなか眠れない日が続きました。
そして或る日、シワンは弓矢を取り出すと、其の弓矢の手入れを始めました。
白い馬の敵を討つ為、此の弓矢でクァンヒ王を殺そうと思ったのです。
(待ってろよ。明日の朝、王を殺してお前の敵を討ってやる)
月夜の光で、弓矢の切っ先が青白くただ光りました。
其の日の晩、シワンは夢を見ました。
「シワンヒョン、敵を討つ事を決心してくれてありがとう。
本当に、嬉しいよ」
「お前!人の言葉が話せるのか?理解出来るのか?」
シワンは目の前に現れた白い馬の、甘い声に驚きながらも首に手を回し、そっと抱き寄せました。
「うん。此処なら話せる。だから、聞いて。
もう僕は死んでしまってるんだ。
王を殺しても、僕は生き返らない」
そう言うと、急に抱き締めていた馬の姿が消えました。
シワンは夢の中の真っ白な世界できょろきょろと辺りを見回しました。
「何処?何処に居るの?」
夢の中の世界は、無限の白い闇に包まれたようで、手探りをしても上下の感覚も、左右の感覚もありません。
気が付くと、自分よりも背が高い、色白の青年が立っていることに気付きました。
すらりと伸びた高い身長に、長い手足。黒目がちの瞳。整った顔立ち。
一目で、あの白い馬だと気付きました。
色白の青年はシワンを真正面から抱き締め、自分の胸にシワンの頭を押し付けるように片方の手で支えました。
「それどころか、ヒョンも殺されちゃう。
お願いだよ。敵討ちは止めて……」
初めて聞く声なのに、其の声はとても心地良いものでした。
懐かしいような、けれど初めて耳にするような音声の響きは、シワンの耳を通って、胸の当たりにまで染み込み、同時に涙腺を刺激しました。
「それより、もっと、ずっと叶えて欲しい一つお願いがあるんだ。
僕の体で、琴を作って。
僕は琴になって、ずっとヒョンの傍に居る」
「嫌だ……」
シワンは泣き、色白の青年の胸に顔を押し付けるようにしました。青年の大きな手が、シワンの頭を撫でて行きます。
「お願い……」
青年はシワンの頭にくちづけました。
「嫌……」
シワンは泣きじゃくり、話を聞ける様子ではありません。
「ねえ、お願いだよ。聞いて」
色白の青年は、もう一度両腕でしっかりとシワンの体を抱き締めました。
「貴方は、生きて。きっと僕の魂はまた生まれ変われる。草原の風に乗って、また貴方に逢いに来るよ。だから、僕が此の広い地上で迷わないように、琴を鳴らしていて」
「本当に?」
「誓うよ。だから忘れないで。僕のこと」
唇が自分の唇に触れたのを感じました。
次の日、シワンは白い馬の骨と尻尾を使って琴を作りました。
竿の先は、白い馬の頭の形を刻みました。
やがてシワンは草原で羊の番をしながら、いつも此の琴を弾くようになりました。
美しい琴の音と胸にしみるその調べは、他の羊飼いたちにとっても此の上ない慰めとなりました。
シワンの琴が聞こえてくると、皆は一日の疲れを忘れてじっと静かに其の音色に耳を傾けるのでした。
風は、吹いていきます。
其の風は、時に向かい風となり旅人の行く手を阻むこともあるでしょう。
けれども、追い風となり旅人の背を押すこともあるでしょう。
音は、響いていきます。
物体の振動が、空気の振動として伝わって行くのです。
其れは、大地をぐるぐるぐるぐる回っていきます。此の世界を、回って行きます。
星は、爆発を繰り返し新しい星を生み出して行きます。
流星は、大地の上で一瞬だけ輝きます。
目には見えない無数の星は、無数の空間で存在しています。
其の日もシワンは白い馬を埋めた場所の傍らで琴を弾いていました。
気付かないうちに、聴衆が一人さも自然かのようにシワンの隣に佇んでいました。
色白の青年でした。
風が、穏やかに大地を渡っていきます。
「ただいま」
「おかえり」
今は昔——。
竹を切って来て色々な製品を作って暮らしていた、竹取の翁クァンヒとその妻の嫗シワンが居ました。
或る日、翁クァンヒが竹林に出かけていくと、根元が光り輝いている竹がありました。
「何此れ……気味悪いなあ……」
切ってみると、中から9センチほどの可愛らしい男の子が出てきました。
「ぎゃー!!!何か居るぅぅぅ」
「ぎゃーぎゃーうっせーな。ま、出してくれてありがとさん」
竹の中に居た男の子は、大変横柄な態度を取りましたが、取り敢えず翁クァンヒは妻に見せようとお持ち帰りの扱いとしました。
「シワン見て。何か居た」
「は?」
「何かじゃねーよ、あ、どうも」
翁クァンヒに対しては見下した態度を取っていた男の子でしたが、嫗シワンの掌に乗せられ顔を近付けられると、素直に頭を下げて挨拶をしました。
「ちっちゃくて可愛いね」
「だろ?奥さん分かってるね!最高!」
「いや、俺の方がオシャレで可愛いけどね」
男の子は、此の奥方は少し変わった人だな、と思いました。
「ねーどうする?生意気だから見せ物小屋に売っちゃおうと思うんだよねー」
「は?ダメだよ。取り敢えず育ててみようよ」
翁クァンヒと嫗シワンは自分達の子供として育てることにしました。
その日から男の子が居た竹の中に金を見つける日が続き、竹取の翁の夫婦は豊かになっていきました。
翁クァンヒが見付けた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで年頃の姿になりました。
「——急成長過ぎじゃない?」
嫗シワンは子供を見上げ、少し不満げに言いました。既に彼の身長はシワンの背丈を越えていました。
そして、此の世のものとは思えないほど美しくなった男の子に、人を呼んで名前をつけることになりました。
「ヨンギル氏、此の子に名前付けて」
呼ばれてきたヨンギルと言う人は、「なよ竹のかぐや姫ヒチョル」と名付けました。
「しなやかな竹の中で光を集めているお姫様ヒチョル、という意味だよ」
ヨンギル氏は言いました。
この時、男女を問わず人を集め、3日にわたって歌やダンスをして様々な遊びをし、祝宴が開かれました。
「それではー、我らがかぐや姫、ヒチョルに乾杯!」
世間の男たちは、高貴な人も下層の人も皆何とかしてかぐや姫ヒチョルと結婚したいと思いました。その甲斐もないのに、竹取の翁の家の周りをうろうろする皇族の人々は後を絶ちませんでした。彼らはまるで偏執狂の様に竹取の翁の家の周りで過ごしていました。
「クァンヒみたいな奴がいっぱい居るなあ……」
と嫗は障子を少しだけ開けて、外を窺いながら言いました。
「あのさシワン、物凄いショッキングなことさらっと言わないでくれる?」
「つか何でアンタら結婚したの?」
かぐや姫ヒチョルは何故嫗が翁を選んだかがずっと疑問でした。
そうこうするうちに、熱意のないものは来なくなっていきました。
最後に残ったのは、好色といわれる五人の皇族で、彼らは諦めず、夜昼となく通ってきました。彼らの名はヒョンシク、ミヌ、ケビン、テホン、ジュニョンと言いました。
彼らが諦めそうにないのを見て、翁クァンヒはかぐや姫ヒチョルに言いました。
「此の世の女は男と結婚するんだ。お前も彼らの中から選びなさい」
「急に親父ぶるなよ!てゆーか俺、男なんですけど」
かぐや姫ヒチョルは抵抗しました。
「お前異次元の住人だろ、早く家出てってくれよ!俺シワンとやっぱり二人きりが良いよう」
「超勝手だなー」
「ヒチョル、俺は別に良いからね?寧ろお前が居てくれる御蔭で俺の身の安全が割と保証されてるし。ヒチョルがしたいと思ったらすれば良いんだよ、結婚なんて」
「シワンは優しいね……」
かぐや姫ヒチョルは、二人に向かって言いました。
「『俺の言うものを持ってくることが出来た奴と結婚してやる』ってアイツらにゆってきて」
夜になると、例の五人が集まって来ました。
翁は五人の皇族を集め、かぐや姫ヒチョルの意思を伝えました。
其の意思とは。
「ヒョンシクには仏の御石の鉢。
ミヌには蓬莱の玉の枝。
ケビンには火鼠の裘。
テホンには龍の首の珠。
ジュニョンには燕の子安貝。
以上、各自持参してくること」
というものでした。
どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難でした。
ヒョンシクは付近の寺からかっぱらってきた只の鉢を持っていってばれました。
「仏の御石の鉢でございます」
「お前手抜き過ぎだろ!裏にRoyal Copenhagenって書いてあるんですけど。国からして違うじゃん!」
ヒチョルはしょっぱなからこれかと憂鬱な気持ちになり、項垂れました。
「ごめんなさい」
大人しくなってしまったヒョンシクの様子が少し気になり、ヒチョルは顔を上げました。
「でも俺、あんまり探し回って、会えない時間が増えるのが嫌だったんだ。俺の気持ちは本物だよ?」
途端に貴公子の顔に変わり、手を胸にあて、舞台仕込みの所作で悪びれも無く言いました。
「一刻も早く逢いたかった、ヒチョル……」
「恥知らず!お前適当過ぎ、失格」
ヒチョルには通じませんでした。
ミヌは玉の枝を持参しました。
「蓬莱の玉の枝でございます」
「へえ、此れが!やるじゃん、お前とならしても良いかも……」
かぐや姫ヒチョルが少し着物の襟元をずらし、しなを作って、ミヌの顎に右手を添えました。
「する……?何をでしょう……?」
ミヌの顔にも本気の光が当たり、二人の唇が重なりかけたときでした。
「ハさん!いい加減俺らに報酬払ってくださいよ!」
大勢の丁稚達が翁の家へ詰めかけ、二人が入っていた部屋の障子の扉を盛大に開け放ちました。
「げ」
ミヌの顔が引きつりました。
「何コイツら」
「此れ作ったの俺らじゃないスか!超高速で仕事したのに!」
床に倒れ込んでいる二人が目に入らないかのように、丁稚達は尚もまくしたてました。
「……お前此れ偽物なの?」
「あはは……」
「最低。ダメ、お前も失格」
ケビンは異国の商人から火鼠の裘を入手しました。
「火鼠の裘でございます」
「アンタはまともそうだね」
「——有難いお言葉です」
ヒチョルは、其の男の風貌から少し信頼できそうかな、と見た目で判断をしていました。
畳の上に置いてあった行燈の覆いを取り去り、手にした裘をかざしてみました。
「ねえ、此れが本物だったら、あんたと結婚してあげるね——」
かぐや姫ヒチョルの手元で、裘は音を立てて燃えて行きました。
焦げ臭い臭いが、部屋に立ちこめています。
「あれ?」
「——アンタ、騙されたんだね。良い人過ぎ。失格」
テホンは嵐に遭って諦め、しかも航海の途中で目の形が以前から変わってしまったと言いました。
「テホン。障子の外居ないでさ、入ってくればいいじゃん……」
かぐや姫はテホンの消息が分からなくなっていたため、彼を捜すよう翁クァンヒに頼み、何とか家へ呼び付けたのでした。しかしテホンはかぐや姫ヒチョルに合わせる顔が無い、と面会を拒否し、障子を隔てて会話をしました。
「ダメです……私は、醜くなってしまって……」
「何で。探しに行ってくれたんだろ、龍の首の珠……」
「でも、見付けられなかった」
「アンタが其処までしてくれたことの方が、嬉しいよ?」
「でも、約束は、約束ですから……」
かぐや姫ヒチョルは、此のときばかりは自分の言動の軽さと相手の不器用なまでの誠実さを呪いました。
ジュニョンが大炊寮の大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って燕の子安貝を取ろうとして腰を打ち、病床にあるという噂を聞き、かぐや姫は今度こそ自分のせいで変な目に遭う人が出てはならないと、手紙を書きました。
『貝を取ろうとして、失敗したんだと聞きました。どうか俺のことに執着しないでください。此れは、拒絶ではなくて、貴方のためです。貴方は格好良くて、男らしくて、素敵だ。俺より相応しい人が、居る筈です。俺の気持を待つ甲斐は無い筈です』
貝と甲斐、我ながら韻を踏んだな、と詩人魂に火を付けながら手紙を書きました。
ジュニョンからの返答はこうでした。
『かぐや姫様から手紙をいただけただけで、甲斐はありました』
その数日後に、ジュニョンが断命したという噂を聞き、更にかぐや姫ヒチョルは傷付き心を痛めました。
結局、かぐや姫ヒチョルが出した難題をこなした者は誰一人としていませんでした。
そんな様子が帝であるドンジュンにも伝わりました。
「何ソイツ、高飛車過ぎじゃね?本当に美人なんだろうな」
「はあ、何でも此の世の者とは思えない美しさだそうです」
「じゃ、俺も会いたい!おい、その家のオッサンに話つけてくれ」
帝は激しく会いたがりました。
翁クァンヒが取り持ちました。
「ヒチョル〜一応人間界で一番偉い人なんだよ、会ってくれないと俺もシワンも殺されちゃうかも……」
「嫌だ。何だよソイツ、権力振りかざしてみっともねえ」
かぐや姫ヒチョルは拒否しました。
「ねえヒチョル、俺からもお願い。ちょっと姿を見せるだけで良いから。もしかしたら、ほら、帝様のタイプじゃないかも知れないしね」
「は!?シワン何言ってるの、俺の美しさの分かんないやつ居る訳無いじゃん!会ってやるよ」
嫗シワンは、翁クァンヒに向かって姫にばれないようにこっそりとウィンクをしました。
「かぐや姫ヒチョルサン、顔見せてくれない?」
「嫌だ。アンタ無礼だと思わない?いくら帝っつったってさ、俺は怖くも何とも無いんだから」
「ふうん、俺がいっぱい人殺ししてきたってゆっても?」
「特に怖くないね」
ヒチョルは障子の外に居る相手の顔を想像しました。
声が若く、態度は幼く、好戦的で凄まじいほどの勢いを感じました。人の子とはこうあるものか——。今まで接して来た人間の何処にも無かった生命力——生きることに対する執着心のようなものを感じました。
「別に帝の命令で、結婚させようと思えば出来るんだろうけどさ、俺はアンタのものになるつもりは無いよ。だって顔見てないし、どんな相手かも分かんないし」
かぐや姫ヒチョルは髪をいじりながら、気怠そうに言いました。けれど、少し口の端を上げて、帝からは見えない場所で笑いました。
帝ドンジュンは、今日は帰る、と席を立ちました。翁の夫婦は慌てて其れを制止し、今日は此れで良いのでしょうか、と問いました。
「一気に攻めてもだめ、ってことが分かっただけで十分。餌は撒いた」
或る夜、帝ドンジュンは狩りの帰りから、不意をついてかぐや姫ヒチョルの邸宅へ忍び込みました。
障子の外から様子を窺いつつ、相手の返答を待つでもなく、障子を勝手に開け放つと、其処には月の光に照らされて眠るかぐや姫の姿がありました。
着物の裾が大胆にはだけられ、そこから覗く白い脚と太腿に、生唾を飲み込みました。
これが、かぐや姫——。
途端、かぐや姫ヒチョルの目がぱちりと開き、一瞬にしてその姿が着物ごと青白い月明かりの中で消えてしまいました。
「は?」
其のとき、帝ドンジュンは悟りました。
噂に聞く通りの美人。
そして、文字通り「此の世のものとは思えない」正体。
姫は、きっと異世界、異次元の人なのだと。
そして、其れでも惹かれて行く——寧ろ更に自分のものにしたくなった自分の本心に。
帝は一度はかぐや姫ヒチョルの姿を見られたものの、その後も夜這を試みるたびにかぐや姫が姿を消して見せたりして帝の運動神経でも追い付けず、結局諦めました。
「何か鈍臭そうなのに、触れようとすると物凄い速さで逃げたり、居なくなったりするんだけど」
「申し訳ございません」
嫗シワンが帝ドンジュンへ頭を下げました。
「燃えるけどね。取り敢えず手紙書くから、読んで貰うようにゆっといてよ。其れ位良いだろ?」
嫗シワンは、帝に此処まで思わせる子供を頭の何処かで恐ろしく感じました。
かぐや姫ヒチョルと帝ドンジュンは、歌の交換をするようになりました。
「こういう歌い方、ラップって言うのか。ヒチョルの不思議な声にぴったりだ」
「ドンジュンの声って、伸びがあって綺麗だな……」
お互い少しずつ、存在を認め合うようになっていきました。
帝ドンジュンは、日頃使えている女官達を見ても、美しいと紹介された皇族の姫達を見ても、もう何も目に入らない状態になっていました。
側近達は、「帝殿はかぐや姫にご執心だ」と其の状況を嘆きましたが、帝ドンジュンの耳には全く入りません。
世間の人がどう思おうと、誰が何と言おうと、かぐや姫ヒチョルの美しさに勝る価値はありませんでした。
「本当に、綺麗なんだ。かぐや姫……いつか……命令や、無理矢理じゃなく、心を開いてくれたら……」
ドンジュンは、せっせと手紙を書き、歌を作り、かぐや姫へ聞かせました。
そうしているうち、ある旧暦も8月、姫は夜に泣くようになりました。
空を見上げ、さめざめと泣くかぐや姫ヒチョルに、嫗シワンは夜中寄り添い、肩を抱いて一晩中一緒に居てあげることもありました。
「辛いこと、あるの?」
「別に……」
「そう、話したくなったら、言ってね……」
はじめは話しませんでしたが、旧暦15日が近づくにつれ、泣き方が激しくなりました。
「ヒチョル?本当に大丈夫?頼りないけどさ、俺だって家族だから、言ってよね」
翁クァンヒが問うと、
「分かってるだろうけど、俺、別世界の人間なんだよね。で、15日に帰らなきゃいけないんだ」
と、言いました。
その横顔は、満月の光に照らされて、そのまま吸い込まれていくかのように儚く光りました。
帝ドンジュンが知り、勇ましい軍勢を二千人も送り、帝自らが先陣を切りました。
「急げよてめーら!着いて来られない奴、姫を逃した奴は全員ぶった切る!」
家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせました。
嫗シワンは、塗籠の内でかぐや姫を抱き抱えていました。
「行かせたくない」
「シワン……」
翁クァンヒも、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいました。
かぐや姫ヒチョルは、不安げな瞳で言いました。
「無駄だよ……閉じ込めて、どんな準備をしても、あの国の人に対して戦うことはできない……射ることも撃つことも出来ないさ」
「何言ってるんだよヒチョル!長い爪で眼を掴み潰すよ!髪の毛取って引き落とし、尻を引き出して帝の役人たちに見せて恥をかかせてやるんだ!俺たちの大事な家族なんだ。生意気で、傲慢で、良い子じゃなかったけど、でも可愛かった、子供とか弟みたいな存在なんだぞ」
塗籠の外から、翁クァンヒが変に明るくつくろった声で、かぐや姫ヒチョルと嫗シワンに捲し立てました。
「大声過ぎ。屋根の上に居る連中が聞いたらどうするつもり?」
くくっと喉の奥で笑い、けれど先ほどの翁クァンヒの言葉に、姫はとても胸が熱くなる思いでした。
「クァンヒお爺様、シワンお婆様」
かぐや姫ヒチョルは嫗シワンが自分の背に回していた腕をそっと外しながら言いました。
「帰りたくないよ。アンタ達が俺にしてくれたことを、何も返すこともできず帰らなきゃならないなんて……」
かぐや姫ヒチョルの頬を、幾粒もの涙が滑って行きます。
「あの国の人は、本当に綺麗で……老いることもない。悩むことも無い。でもそれは退屈で……退屈過ぎた。それで、一つ、罪を犯した。竹の中に突き落とされたのも、その罪の所為だった。此れはただの流刑みたいなものだった……。でも、今日が、その刑期の終わりに当たるから、帰らなきゃならないんだ。やっと元の場所に帰れる……でも、あんな場所に帰るのが、嬉しいなんて、ちっとも思えないんだ」
子の刻頃、空から人が降りてきました。
軍勢も翁も嫗も抵抗できないままかぐや姫ヒチョルを連れ去りました。
かぐや姫ヒチョルは、本人も言っていた通り、罪を償うために地上に下った月の都の住人でした。
罪人を匿うという代償に、姫の居た竹からは大金が掘り起こされていた、という仕組みも、空からの人から種明かしをされました。
翁クァンヒと嫗シワンは、ただただ泣き崩れ、かぐや姫ヒチョルが空へ帰って行くのを見送って欲しい、という声も届きませんでした。
かぐや姫ヒチョルは目を伏せ、ざわざわした心のまま、宙から下界を見下ろしました。
一つ、強い視線を感じて、そちらを向きました。
ドンジュン……。
結局、触れ合うことの無かった手と手。
唇と唇。
強がって、何も果たされなかった想い——。
「ヒチョル様、さあ、その着物を脱いで……汚らわしい、下界のお着物でしょう?」
天女が天の羽衣を右手に持ち、もう片方の手で、月の世界の薬を持っていました。天女はかぐや姫ヒチョルの着ていた着物に手をかけ、脱がし始めました。
羽衣を着ることは、物思いを全て忘れることを意味していました。
月の世界の薬を飲むことは、永遠の美と命を持つ存在になることを意味していました。
かぐや姫ヒチョルは、天女と、自分の体の着物と、下界の建物、帝ドンジュンを交互に見ました。
「ちょっと……待って。手紙、書きたい」
全部、無かったことになってしまう前に。
俺の記憶が、無くなってしまう前に。
かぐや姫ヒチョルは宙に浮かんだまま、さっと手紙を書き上げました。
其れを帝ドンジュンの方へ放り投げると、天女の羽衣を奪い取り、まっすぐに月の方だけを見て、白い肌の上に羽織ったのでした。
『帝、いや、ドンジュン。本当のことを先に言えば良かった。でも、どうしたら信じてくれた?アンタは俺が消えても、居なくなっても、全然信じてくれなかった。
こんな形で離れることになってしまってごめん。もっとちゃんと言えば良かった。
大好きだよ。
ねえ、いつか教えてくれたね。帝ってもんは、永遠にその座にありたいものなんだろう。だったら、これをあげる。良かったら飲んで。
愛してる。大好きなドンジュンへ。
※ちなみに、俺も一回舐めたから、間接的に接吻したことになります』
「何此れ……」
帝ドンジュンは、空から舞い降りた手紙と、小さく折り畳まれた紙に包まれた白い粉末を交互に見ました。
——永遠の命?
要らないよ。
——遠回しのくちづけ?
意味ないよ。
「なあ、此れ、要らねー」
帝ドンジュンは、近くに居た頭の中将へすぐにその紙包みを渡しました。
「宜しいのですか?」
「ヤクは勘弁だよ」
「……」
「アイツの居ない世界で行きてく永遠なんて、要らないさ」
「御意に」
帝ドンジュンは、月を見上げました。
——あの月の裏側に、お前が居るんだろうか——。
逢いたい。
逢いたい。
逢いたい。
帝は其れを一番高い山で焼くように命じました。
それからあの山は「不死の山」と呼ばれ、また、其の山からは常に青白い月のような雪が消えないようになりました。
竹を切って来て色々な製品を作って暮らしていた、竹取の翁クァンヒとその妻の嫗シワンが居ました。
或る日、翁クァンヒが竹林に出かけていくと、根元が光り輝いている竹がありました。
「何此れ……気味悪いなあ……」
切ってみると、中から9センチほどの可愛らしい男の子が出てきました。
「ぎゃー!!!何か居るぅぅぅ」
「ぎゃーぎゃーうっせーな。ま、出してくれてありがとさん」
竹の中に居た男の子は、大変横柄な態度を取りましたが、取り敢えず翁クァンヒは妻に見せようとお持ち帰りの扱いとしました。
「シワン見て。何か居た」
「は?」
「何かじゃねーよ、あ、どうも」
翁クァンヒに対しては見下した態度を取っていた男の子でしたが、嫗シワンの掌に乗せられ顔を近付けられると、素直に頭を下げて挨拶をしました。
「ちっちゃくて可愛いね」
「だろ?奥さん分かってるね!最高!」
「いや、俺の方がオシャレで可愛いけどね」
男の子は、此の奥方は少し変わった人だな、と思いました。
「ねーどうする?生意気だから見せ物小屋に売っちゃおうと思うんだよねー」
「は?ダメだよ。取り敢えず育ててみようよ」
翁クァンヒと嫗シワンは自分達の子供として育てることにしました。
その日から男の子が居た竹の中に金を見つける日が続き、竹取の翁の夫婦は豊かになっていきました。
翁クァンヒが見付けた子供はどんどん大きくなり、三ヶ月ほどで年頃の姿になりました。
「——急成長過ぎじゃない?」
嫗シワンは子供を見上げ、少し不満げに言いました。既に彼の身長はシワンの背丈を越えていました。
そして、此の世のものとは思えないほど美しくなった男の子に、人を呼んで名前をつけることになりました。
「ヨンギル氏、此の子に名前付けて」
呼ばれてきたヨンギルと言う人は、「なよ竹のかぐや姫ヒチョル」と名付けました。
「しなやかな竹の中で光を集めているお姫様ヒチョル、という意味だよ」
ヨンギル氏は言いました。
この時、男女を問わず人を集め、3日にわたって歌やダンスをして様々な遊びをし、祝宴が開かれました。
「それではー、我らがかぐや姫、ヒチョルに乾杯!」
世間の男たちは、高貴な人も下層の人も皆何とかしてかぐや姫ヒチョルと結婚したいと思いました。その甲斐もないのに、竹取の翁の家の周りをうろうろする皇族の人々は後を絶ちませんでした。彼らはまるで偏執狂の様に竹取の翁の家の周りで過ごしていました。
「クァンヒみたいな奴がいっぱい居るなあ……」
と嫗は障子を少しだけ開けて、外を窺いながら言いました。
「あのさシワン、物凄いショッキングなことさらっと言わないでくれる?」
「つか何でアンタら結婚したの?」
かぐや姫ヒチョルは何故嫗が翁を選んだかがずっと疑問でした。
そうこうするうちに、熱意のないものは来なくなっていきました。
最後に残ったのは、好色といわれる五人の皇族で、彼らは諦めず、夜昼となく通ってきました。彼らの名はヒョンシク、ミヌ、ケビン、テホン、ジュニョンと言いました。
彼らが諦めそうにないのを見て、翁クァンヒはかぐや姫ヒチョルに言いました。
「此の世の女は男と結婚するんだ。お前も彼らの中から選びなさい」
「急に親父ぶるなよ!てゆーか俺、男なんですけど」
かぐや姫ヒチョルは抵抗しました。
「お前異次元の住人だろ、早く家出てってくれよ!俺シワンとやっぱり二人きりが良いよう」
「超勝手だなー」
「ヒチョル、俺は別に良いからね?寧ろお前が居てくれる御蔭で俺の身の安全が割と保証されてるし。ヒチョルがしたいと思ったらすれば良いんだよ、結婚なんて」
「シワンは優しいね……」
かぐや姫ヒチョルは、二人に向かって言いました。
「『俺の言うものを持ってくることが出来た奴と結婚してやる』ってアイツらにゆってきて」
夜になると、例の五人が集まって来ました。
翁は五人の皇族を集め、かぐや姫ヒチョルの意思を伝えました。
其の意思とは。
「ヒョンシクには仏の御石の鉢。
ミヌには蓬莱の玉の枝。
ケビンには火鼠の裘。
テホンには龍の首の珠。
ジュニョンには燕の子安貝。
以上、各自持参してくること」
というものでした。
どれも話にしか聞かない珍しい宝ばかりで、手に入れるのは困難でした。
ヒョンシクは付近の寺からかっぱらってきた只の鉢を持っていってばれました。
「仏の御石の鉢でございます」
「お前手抜き過ぎだろ!裏にRoyal Copenhagenって書いてあるんですけど。国からして違うじゃん!」
ヒチョルはしょっぱなからこれかと憂鬱な気持ちになり、項垂れました。
「ごめんなさい」
大人しくなってしまったヒョンシクの様子が少し気になり、ヒチョルは顔を上げました。
「でも俺、あんまり探し回って、会えない時間が増えるのが嫌だったんだ。俺の気持ちは本物だよ?」
途端に貴公子の顔に変わり、手を胸にあて、舞台仕込みの所作で悪びれも無く言いました。
「一刻も早く逢いたかった、ヒチョル……」
「恥知らず!お前適当過ぎ、失格」
ヒチョルには通じませんでした。
ミヌは玉の枝を持参しました。
「蓬莱の玉の枝でございます」
「へえ、此れが!やるじゃん、お前とならしても良いかも……」
かぐや姫ヒチョルが少し着物の襟元をずらし、しなを作って、ミヌの顎に右手を添えました。
「する……?何をでしょう……?」
ミヌの顔にも本気の光が当たり、二人の唇が重なりかけたときでした。
「ハさん!いい加減俺らに報酬払ってくださいよ!」
大勢の丁稚達が翁の家へ詰めかけ、二人が入っていた部屋の障子の扉を盛大に開け放ちました。
「げ」
ミヌの顔が引きつりました。
「何コイツら」
「此れ作ったの俺らじゃないスか!超高速で仕事したのに!」
床に倒れ込んでいる二人が目に入らないかのように、丁稚達は尚もまくしたてました。
「……お前此れ偽物なの?」
「あはは……」
「最低。ダメ、お前も失格」
ケビンは異国の商人から火鼠の裘を入手しました。
「火鼠の裘でございます」
「アンタはまともそうだね」
「——有難いお言葉です」
ヒチョルは、其の男の風貌から少し信頼できそうかな、と見た目で判断をしていました。
畳の上に置いてあった行燈の覆いを取り去り、手にした裘をかざしてみました。
「ねえ、此れが本物だったら、あんたと結婚してあげるね——」
かぐや姫ヒチョルの手元で、裘は音を立てて燃えて行きました。
焦げ臭い臭いが、部屋に立ちこめています。
「あれ?」
「——アンタ、騙されたんだね。良い人過ぎ。失格」
テホンは嵐に遭って諦め、しかも航海の途中で目の形が以前から変わってしまったと言いました。
「テホン。障子の外居ないでさ、入ってくればいいじゃん……」
かぐや姫はテホンの消息が分からなくなっていたため、彼を捜すよう翁クァンヒに頼み、何とか家へ呼び付けたのでした。しかしテホンはかぐや姫ヒチョルに合わせる顔が無い、と面会を拒否し、障子を隔てて会話をしました。
「ダメです……私は、醜くなってしまって……」
「何で。探しに行ってくれたんだろ、龍の首の珠……」
「でも、見付けられなかった」
「アンタが其処までしてくれたことの方が、嬉しいよ?」
「でも、約束は、約束ですから……」
かぐや姫ヒチョルは、此のときばかりは自分の言動の軽さと相手の不器用なまでの誠実さを呪いました。
ジュニョンが大炊寮の大八洲という名の大釜が据えてある小屋の屋根に上って燕の子安貝を取ろうとして腰を打ち、病床にあるという噂を聞き、かぐや姫は今度こそ自分のせいで変な目に遭う人が出てはならないと、手紙を書きました。
『貝を取ろうとして、失敗したんだと聞きました。どうか俺のことに執着しないでください。此れは、拒絶ではなくて、貴方のためです。貴方は格好良くて、男らしくて、素敵だ。俺より相応しい人が、居る筈です。俺の気持を待つ甲斐は無い筈です』
貝と甲斐、我ながら韻を踏んだな、と詩人魂に火を付けながら手紙を書きました。
ジュニョンからの返答はこうでした。
『かぐや姫様から手紙をいただけただけで、甲斐はありました』
その数日後に、ジュニョンが断命したという噂を聞き、更にかぐや姫ヒチョルは傷付き心を痛めました。
結局、かぐや姫ヒチョルが出した難題をこなした者は誰一人としていませんでした。
そんな様子が帝であるドンジュンにも伝わりました。
「何ソイツ、高飛車過ぎじゃね?本当に美人なんだろうな」
「はあ、何でも此の世の者とは思えない美しさだそうです」
「じゃ、俺も会いたい!おい、その家のオッサンに話つけてくれ」
帝は激しく会いたがりました。
翁クァンヒが取り持ちました。
「ヒチョル〜一応人間界で一番偉い人なんだよ、会ってくれないと俺もシワンも殺されちゃうかも……」
「嫌だ。何だよソイツ、権力振りかざしてみっともねえ」
かぐや姫ヒチョルは拒否しました。
「ねえヒチョル、俺からもお願い。ちょっと姿を見せるだけで良いから。もしかしたら、ほら、帝様のタイプじゃないかも知れないしね」
「は!?シワン何言ってるの、俺の美しさの分かんないやつ居る訳無いじゃん!会ってやるよ」
嫗シワンは、翁クァンヒに向かって姫にばれないようにこっそりとウィンクをしました。
「かぐや姫ヒチョルサン、顔見せてくれない?」
「嫌だ。アンタ無礼だと思わない?いくら帝っつったってさ、俺は怖くも何とも無いんだから」
「ふうん、俺がいっぱい人殺ししてきたってゆっても?」
「特に怖くないね」
ヒチョルは障子の外に居る相手の顔を想像しました。
声が若く、態度は幼く、好戦的で凄まじいほどの勢いを感じました。人の子とはこうあるものか——。今まで接して来た人間の何処にも無かった生命力——生きることに対する執着心のようなものを感じました。
「別に帝の命令で、結婚させようと思えば出来るんだろうけどさ、俺はアンタのものになるつもりは無いよ。だって顔見てないし、どんな相手かも分かんないし」
かぐや姫ヒチョルは髪をいじりながら、気怠そうに言いました。けれど、少し口の端を上げて、帝からは見えない場所で笑いました。
帝ドンジュンは、今日は帰る、と席を立ちました。翁の夫婦は慌てて其れを制止し、今日は此れで良いのでしょうか、と問いました。
「一気に攻めてもだめ、ってことが分かっただけで十分。餌は撒いた」
或る夜、帝ドンジュンは狩りの帰りから、不意をついてかぐや姫ヒチョルの邸宅へ忍び込みました。
障子の外から様子を窺いつつ、相手の返答を待つでもなく、障子を勝手に開け放つと、其処には月の光に照らされて眠るかぐや姫の姿がありました。
着物の裾が大胆にはだけられ、そこから覗く白い脚と太腿に、生唾を飲み込みました。
これが、かぐや姫——。
途端、かぐや姫ヒチョルの目がぱちりと開き、一瞬にしてその姿が着物ごと青白い月明かりの中で消えてしまいました。
「は?」
其のとき、帝ドンジュンは悟りました。
噂に聞く通りの美人。
そして、文字通り「此の世のものとは思えない」正体。
姫は、きっと異世界、異次元の人なのだと。
そして、其れでも惹かれて行く——寧ろ更に自分のものにしたくなった自分の本心に。
帝は一度はかぐや姫ヒチョルの姿を見られたものの、その後も夜這を試みるたびにかぐや姫が姿を消して見せたりして帝の運動神経でも追い付けず、結局諦めました。
「何か鈍臭そうなのに、触れようとすると物凄い速さで逃げたり、居なくなったりするんだけど」
「申し訳ございません」
嫗シワンが帝ドンジュンへ頭を下げました。
「燃えるけどね。取り敢えず手紙書くから、読んで貰うようにゆっといてよ。其れ位良いだろ?」
嫗シワンは、帝に此処まで思わせる子供を頭の何処かで恐ろしく感じました。
かぐや姫ヒチョルと帝ドンジュンは、歌の交換をするようになりました。
「こういう歌い方、ラップって言うのか。ヒチョルの不思議な声にぴったりだ」
「ドンジュンの声って、伸びがあって綺麗だな……」
お互い少しずつ、存在を認め合うようになっていきました。
帝ドンジュンは、日頃使えている女官達を見ても、美しいと紹介された皇族の姫達を見ても、もう何も目に入らない状態になっていました。
側近達は、「帝殿はかぐや姫にご執心だ」と其の状況を嘆きましたが、帝ドンジュンの耳には全く入りません。
世間の人がどう思おうと、誰が何と言おうと、かぐや姫ヒチョルの美しさに勝る価値はありませんでした。
「本当に、綺麗なんだ。かぐや姫……いつか……命令や、無理矢理じゃなく、心を開いてくれたら……」
ドンジュンは、せっせと手紙を書き、歌を作り、かぐや姫へ聞かせました。
そうしているうち、ある旧暦も8月、姫は夜に泣くようになりました。
空を見上げ、さめざめと泣くかぐや姫ヒチョルに、嫗シワンは夜中寄り添い、肩を抱いて一晩中一緒に居てあげることもありました。
「辛いこと、あるの?」
「別に……」
「そう、話したくなったら、言ってね……」
はじめは話しませんでしたが、旧暦15日が近づくにつれ、泣き方が激しくなりました。
「ヒチョル?本当に大丈夫?頼りないけどさ、俺だって家族だから、言ってよね」
翁クァンヒが問うと、
「分かってるだろうけど、俺、別世界の人間なんだよね。で、15日に帰らなきゃいけないんだ」
と、言いました。
その横顔は、満月の光に照らされて、そのまま吸い込まれていくかのように儚く光りました。
帝ドンジュンが知り、勇ましい軍勢を二千人も送り、帝自らが先陣を切りました。
「急げよてめーら!着いて来られない奴、姫を逃した奴は全員ぶった切る!」
家に行って、築地の上に千人、建物の上に千人、家の使用人がとても多かったのと合わせて、空いている隙もなく守らせました。
嫗シワンは、塗籠の内でかぐや姫を抱き抱えていました。
「行かせたくない」
「シワン……」
翁クァンヒも、塗籠の戸に錠を下ろして戸口にいました。
かぐや姫ヒチョルは、不安げな瞳で言いました。
「無駄だよ……閉じ込めて、どんな準備をしても、あの国の人に対して戦うことはできない……射ることも撃つことも出来ないさ」
「何言ってるんだよヒチョル!長い爪で眼を掴み潰すよ!髪の毛取って引き落とし、尻を引き出して帝の役人たちに見せて恥をかかせてやるんだ!俺たちの大事な家族なんだ。生意気で、傲慢で、良い子じゃなかったけど、でも可愛かった、子供とか弟みたいな存在なんだぞ」
塗籠の外から、翁クァンヒが変に明るくつくろった声で、かぐや姫ヒチョルと嫗シワンに捲し立てました。
「大声過ぎ。屋根の上に居る連中が聞いたらどうするつもり?」
くくっと喉の奥で笑い、けれど先ほどの翁クァンヒの言葉に、姫はとても胸が熱くなる思いでした。
「クァンヒお爺様、シワンお婆様」
かぐや姫ヒチョルは嫗シワンが自分の背に回していた腕をそっと外しながら言いました。
「帰りたくないよ。アンタ達が俺にしてくれたことを、何も返すこともできず帰らなきゃならないなんて……」
かぐや姫ヒチョルの頬を、幾粒もの涙が滑って行きます。
「あの国の人は、本当に綺麗で……老いることもない。悩むことも無い。でもそれは退屈で……退屈過ぎた。それで、一つ、罪を犯した。竹の中に突き落とされたのも、その罪の所為だった。此れはただの流刑みたいなものだった……。でも、今日が、その刑期の終わりに当たるから、帰らなきゃならないんだ。やっと元の場所に帰れる……でも、あんな場所に帰るのが、嬉しいなんて、ちっとも思えないんだ」
子の刻頃、空から人が降りてきました。
軍勢も翁も嫗も抵抗できないままかぐや姫ヒチョルを連れ去りました。
かぐや姫ヒチョルは、本人も言っていた通り、罪を償うために地上に下った月の都の住人でした。
罪人を匿うという代償に、姫の居た竹からは大金が掘り起こされていた、という仕組みも、空からの人から種明かしをされました。
翁クァンヒと嫗シワンは、ただただ泣き崩れ、かぐや姫ヒチョルが空へ帰って行くのを見送って欲しい、という声も届きませんでした。
かぐや姫ヒチョルは目を伏せ、ざわざわした心のまま、宙から下界を見下ろしました。
一つ、強い視線を感じて、そちらを向きました。
ドンジュン……。
結局、触れ合うことの無かった手と手。
唇と唇。
強がって、何も果たされなかった想い——。
「ヒチョル様、さあ、その着物を脱いで……汚らわしい、下界のお着物でしょう?」
天女が天の羽衣を右手に持ち、もう片方の手で、月の世界の薬を持っていました。天女はかぐや姫ヒチョルの着ていた着物に手をかけ、脱がし始めました。
羽衣を着ることは、物思いを全て忘れることを意味していました。
月の世界の薬を飲むことは、永遠の美と命を持つ存在になることを意味していました。
かぐや姫ヒチョルは、天女と、自分の体の着物と、下界の建物、帝ドンジュンを交互に見ました。
「ちょっと……待って。手紙、書きたい」
全部、無かったことになってしまう前に。
俺の記憶が、無くなってしまう前に。
かぐや姫ヒチョルは宙に浮かんだまま、さっと手紙を書き上げました。
其れを帝ドンジュンの方へ放り投げると、天女の羽衣を奪い取り、まっすぐに月の方だけを見て、白い肌の上に羽織ったのでした。
『帝、いや、ドンジュン。本当のことを先に言えば良かった。でも、どうしたら信じてくれた?アンタは俺が消えても、居なくなっても、全然信じてくれなかった。
こんな形で離れることになってしまってごめん。もっとちゃんと言えば良かった。
大好きだよ。
ねえ、いつか教えてくれたね。帝ってもんは、永遠にその座にありたいものなんだろう。だったら、これをあげる。良かったら飲んで。
愛してる。大好きなドンジュンへ。
※ちなみに、俺も一回舐めたから、間接的に接吻したことになります』
「何此れ……」
帝ドンジュンは、空から舞い降りた手紙と、小さく折り畳まれた紙に包まれた白い粉末を交互に見ました。
——永遠の命?
要らないよ。
——遠回しのくちづけ?
意味ないよ。
「なあ、此れ、要らねー」
帝ドンジュンは、近くに居た頭の中将へすぐにその紙包みを渡しました。
「宜しいのですか?」
「ヤクは勘弁だよ」
「……」
「アイツの居ない世界で行きてく永遠なんて、要らないさ」
「御意に」
帝ドンジュンは、月を見上げました。
——あの月の裏側に、お前が居るんだろうか——。
逢いたい。
逢いたい。
逢いたい。
帝は其れを一番高い山で焼くように命じました。
それからあの山は「不死の山」と呼ばれ、また、其の山からは常に青白い月のような雪が消えないようになりました。
——何か、濃いものが未だ体の奥に残っている気がする。
小旅行から帰った日の翌日だった。
シワンは、朝の光の中でピアノを弾く主人の元へ菓子を運びながら、思った。トレイに乗せた、紅茶、オレンジジュース、赤ワイン、それから小さなスコーンと、ストロベリーケーキとオレンジのムースのケーキが繊細に盛りつけられ、整然と並べられている。
ラ・カンパネラ第3楽章が、彼の指で奏でられる。
トレイをテーブルに置き、立ち去ろううとすると、ジュニョンが言った。
「待って」
シワンが振り返ると、ピアノを弾く手は止めず、ジュニョンはシワンの方を向いて言った。
「それ。受け取って」
目で促され、譜面台の傍に置いてある茶色の封筒を手に取った。
中から出てきたのは、巨額の数字が書かれた紙切れだった。
複雑な想い。
時間は過ぎ、夜はやってくる。
シワンは、何となく何も身に付けずにベッドへ横たわっていた。
裸のまま、上からは何もかけずにベッドへ俯せになり、足音を待ちわびて少しだけ目を閉じて耳を澄ませていた。
普段、メイド仲間のテホンと自分しか通らない廊下に、テホンのものではない靴音が響く。
——来た。
ドアが開くのが分かった。けれども、顔は上げない。何も自分の体を覆うものが無いから、身動き一つ取らず、足音がひたすら近付いてくるのを待つ。薄目を開けると、自分の傍に人影があった。
「脱がすのが楽しいのに……まあ、これも美味しいけど……」
くすくすと笑うこもった声が聞こえる。
早く、触って。
早く来てよ。
それから、言葉を発する間もなくシワンの体は引っくり返され、唇にくちづけられた。
キス。
「ほんと、エロいね。どこで教わったの?ちょっと妬ける……」
「御主人様……」
「ジュニョン、で良いよ」
「ジュニョン……」
くちづけの合間に、短く言葉を交わす。指を絡められれば、本気なのではないかと錯覚しそうになる。優しくされればされるほど、昼間に渡された紙切れのことが頭を過ってしまう。掻き消すように行為に夢中になる。
「ねえ」
ジュニョンに顎を捉えられ、上向きにされて。
「しゃぶって」
——苦手だと言う人も居るけれど、自分は嫌いじゃないな、とシワンは思う。
舌を突き出して、感じるポイントをなぞっていくとき、相手の快感を支配している気分になれるから、楽しい。同じ性だからこそ分かる何処へ触れれば良いのか、というのを試してみるのも楽しい。自分の頭上から振ってくる、相手の喘ぎ声を聞くのも楽しい。
「うん……上手い」
垂れた目が余計に垂らし、際どい目線で見詰めながら言うジュニョンに、シワンの方がたじろいでしまう。
「こ……光栄です」
「あはは、何にでも全力なんだねえ」
こんなことに光栄ですなんて言う子初めて見たよ、と笑う。その笑顔は少年ぽい。くるくる変わる相手の表情に鼓動が高鳴る。
頭を優しく撫でられれば、自分の芯と体の奥が疼く。
その頭を少し強引に掴まれて彼に引き寄せられれば、喉の奥に当たるもので息苦しくて涙が出るけれど、それが快感に直結する。
「だめ。口に出しちゃいそう」
もういいよ、と口から引き抜かれたものは、自分の後ろに付き当てられた。
挿入の合図も無く、無言で体の中に侵入され、口から荒く息を吐く。
何度か出し入れをされると、然程慣らしていなくてもすぐに深く繋がる場所を突き止められる。
「はぁっ」
シワンはシーツに肘を付いて、痛みと其れ以上の快感に溺れた。
「怖い……」
「怖い?」
「やめて……ください、中は……」
「逆らうの?」
ジュニョンが背中に胸をくっつけ肌を隙間無く重ね合わせ、シワンの耳元に舌を這わせて言った。
「そんな……」
色々困るのに……
ふっと、ドンジュンの顔が過った。あの、身重の。
シワンは手元のシーツに付いた拳に力を入れ、握りしめた。舌で自分の右耳を塞がれる感触があった。
「汚したいんだ……」
囁かれた瞬間、自分の中のリビドーが崩壊する音が聞こえた。
また、濃いものを吐かれた。
テホンは邸宅から数キロ離れた場所にある大奥様の邸宅へ脚を運んだ。
自分が見たものを話すつもりだった。
「ふうん、あの旦那が浮気?」
大奥様のヒチョルは、ライターで煙草に火を付けながら言った。二人は、邸宅の外に設けられた椅子に腰掛けた。
「はい。しかも、お伝えしにくいのですが……」
テホンは逡巡したが、ヒチョルはその様子を見逃さなかった。火を点けたばかりの煙草を右手に持ち、吸い込んだ煙をテホンの顔に吐いた。
「ゲホゲホゲホッ」
煙たいです、とテホンは顔の周りの煙を払う。
「伝えるために来たんだろ?用件は手短にって教えなかったっけ?」
「申し訳ありません」
「で、何」
「その……相手はあのメイドで……毎晩彼らの声が聞こえるんです」
「……あのメイド?」
ヒチョルは、ちらっとしか顔を見たことの無いメイドのことを思い出す。細身で、華奢で女かと見紛うようなメイドだった気がする。顔はよくは覚えていないが、色白でやはり女のような造形だったと思う。
「……」
「いかがいたしましょう」
テホンは、横に目をやった。呆然とし、無表情になった美人が其処に居た。
「テホン女史。お前、どっちの味方だよ」
怪訝そうに眉を上げ、ヒチョルはテホンを睨んだ。
「勿論、ヒチョル様のです」
そう言ってテホンは、二人の間に置かれたテーブルに置かれたヒチョルの手に、くちづけた。
シワンの体調はある日を境にみるみる悪くなって行った。
食欲が減退し、大好きだった酒も飲めなくなっていた。
吐き気、立ち眩み。
テホンは、その「変化」に気付いていた。
波紋が、広がり始める。
其の波紋はどのように終焉を迎えるか。
其れはまた別のお話。
小旅行から帰った日の翌日だった。
シワンは、朝の光の中でピアノを弾く主人の元へ菓子を運びながら、思った。トレイに乗せた、紅茶、オレンジジュース、赤ワイン、それから小さなスコーンと、ストロベリーケーキとオレンジのムースのケーキが繊細に盛りつけられ、整然と並べられている。
ラ・カンパネラ第3楽章が、彼の指で奏でられる。
トレイをテーブルに置き、立ち去ろううとすると、ジュニョンが言った。
「待って」
シワンが振り返ると、ピアノを弾く手は止めず、ジュニョンはシワンの方を向いて言った。
「それ。受け取って」
目で促され、譜面台の傍に置いてある茶色の封筒を手に取った。
中から出てきたのは、巨額の数字が書かれた紙切れだった。
複雑な想い。
時間は過ぎ、夜はやってくる。
シワンは、何となく何も身に付けずにベッドへ横たわっていた。
裸のまま、上からは何もかけずにベッドへ俯せになり、足音を待ちわびて少しだけ目を閉じて耳を澄ませていた。
普段、メイド仲間のテホンと自分しか通らない廊下に、テホンのものではない靴音が響く。
——来た。
ドアが開くのが分かった。けれども、顔は上げない。何も自分の体を覆うものが無いから、身動き一つ取らず、足音がひたすら近付いてくるのを待つ。薄目を開けると、自分の傍に人影があった。
「脱がすのが楽しいのに……まあ、これも美味しいけど……」
くすくすと笑うこもった声が聞こえる。
早く、触って。
早く来てよ。
それから、言葉を発する間もなくシワンの体は引っくり返され、唇にくちづけられた。
キス。
「ほんと、エロいね。どこで教わったの?ちょっと妬ける……」
「御主人様……」
「ジュニョン、で良いよ」
「ジュニョン……」
くちづけの合間に、短く言葉を交わす。指を絡められれば、本気なのではないかと錯覚しそうになる。優しくされればされるほど、昼間に渡された紙切れのことが頭を過ってしまう。掻き消すように行為に夢中になる。
「ねえ」
ジュニョンに顎を捉えられ、上向きにされて。
「しゃぶって」
——苦手だと言う人も居るけれど、自分は嫌いじゃないな、とシワンは思う。
舌を突き出して、感じるポイントをなぞっていくとき、相手の快感を支配している気分になれるから、楽しい。同じ性だからこそ分かる何処へ触れれば良いのか、というのを試してみるのも楽しい。自分の頭上から振ってくる、相手の喘ぎ声を聞くのも楽しい。
「うん……上手い」
垂れた目が余計に垂らし、際どい目線で見詰めながら言うジュニョンに、シワンの方がたじろいでしまう。
「こ……光栄です」
「あはは、何にでも全力なんだねえ」
こんなことに光栄ですなんて言う子初めて見たよ、と笑う。その笑顔は少年ぽい。くるくる変わる相手の表情に鼓動が高鳴る。
頭を優しく撫でられれば、自分の芯と体の奥が疼く。
その頭を少し強引に掴まれて彼に引き寄せられれば、喉の奥に当たるもので息苦しくて涙が出るけれど、それが快感に直結する。
「だめ。口に出しちゃいそう」
もういいよ、と口から引き抜かれたものは、自分の後ろに付き当てられた。
挿入の合図も無く、無言で体の中に侵入され、口から荒く息を吐く。
何度か出し入れをされると、然程慣らしていなくてもすぐに深く繋がる場所を突き止められる。
「はぁっ」
シワンはシーツに肘を付いて、痛みと其れ以上の快感に溺れた。
「怖い……」
「怖い?」
「やめて……ください、中は……」
「逆らうの?」
ジュニョンが背中に胸をくっつけ肌を隙間無く重ね合わせ、シワンの耳元に舌を這わせて言った。
「そんな……」
色々困るのに……
ふっと、ドンジュンの顔が過った。あの、身重の。
シワンは手元のシーツに付いた拳に力を入れ、握りしめた。舌で自分の右耳を塞がれる感触があった。
「汚したいんだ……」
囁かれた瞬間、自分の中のリビドーが崩壊する音が聞こえた。
また、濃いものを吐かれた。
テホンは邸宅から数キロ離れた場所にある大奥様の邸宅へ脚を運んだ。
自分が見たものを話すつもりだった。
「ふうん、あの旦那が浮気?」
大奥様のヒチョルは、ライターで煙草に火を付けながら言った。二人は、邸宅の外に設けられた椅子に腰掛けた。
「はい。しかも、お伝えしにくいのですが……」
テホンは逡巡したが、ヒチョルはその様子を見逃さなかった。火を点けたばかりの煙草を右手に持ち、吸い込んだ煙をテホンの顔に吐いた。
「ゲホゲホゲホッ」
煙たいです、とテホンは顔の周りの煙を払う。
「伝えるために来たんだろ?用件は手短にって教えなかったっけ?」
「申し訳ありません」
「で、何」
「その……相手はあのメイドで……毎晩彼らの声が聞こえるんです」
「……あのメイド?」
ヒチョルは、ちらっとしか顔を見たことの無いメイドのことを思い出す。細身で、華奢で女かと見紛うようなメイドだった気がする。顔はよくは覚えていないが、色白でやはり女のような造形だったと思う。
「……」
「いかがいたしましょう」
テホンは、横に目をやった。呆然とし、無表情になった美人が其処に居た。
「テホン女史。お前、どっちの味方だよ」
怪訝そうに眉を上げ、ヒチョルはテホンを睨んだ。
「勿論、ヒチョル様のです」
そう言ってテホンは、二人の間に置かれたテーブルに置かれたヒチョルの手に、くちづけた。
シワンの体調はある日を境にみるみる悪くなって行った。
食欲が減退し、大好きだった酒も飲めなくなっていた。
吐き気、立ち眩み。
テホンは、その「変化」に気付いていた。
波紋が、広がり始める。
其の波紋はどのように終焉を迎えるか。
其れはまた別のお話。
リムジンが到着したのはソウルの街から離れた真っ白な邸宅だった。
美しい邸宅。
大きな扉を開けた空間でまず目に入ってきたのは大きなシャンデリアだった。
背の高い御主人様と、若奥様、若奥様に抱かれた御嬢様が自分を出迎えてくれた。
「滅多に無いことだよ」とこれから同僚となる女史のテホンが耳打ちした。
「これに着替えて。家族の前では他の姿を見せないように」
自分用に与えられたメイド用の部屋で、テホンから渡されたのは畳まれたメイド用の制服だった。
畳まれたものを広げ、上下に持って体にあて、姿見に自分を映す。まるで小学生男子の制服のように丈の短いショートパンツが目に入ったが、案外可愛いのではないか、と思った。
テホンが、似合うよきっと、と笑った。
仕事の基本は、掃除、洗濯に食事の準備。
さらに、御嬢様であるミヌの世話や、双子が今お腹の中にいる若奥様のドンジュンの世話をしなければならず、毎日忙しい。
ミヌはすぐに自分に懐き、最初は「メイドさん」と読んでいたのも「ヒョン」と呼ぶようになった(御嬢様なのに『ヒョン』はおかしいよ、とは教えたがミヌはその呼び名が気に入った様子だった)。
テホンが作った本日のメインディッシュである骨付仔羊のローストを盛り付けた皿を一家のテーブルに運んでいると、若奥様ドンジュンが言った。
「ミヌは、メイドさんが気に入った?」
「ヒョンはミヌのことが好きみたい」
ミヌはフォークで子羊をつつきながら言った。
「どうしてそう思うの?」
ドンジュンがミヌの顔を覗き込んで笑いながら尋ねる。
「顔に書いてあるもん」
シワンとミヌは目を合わせて、少女のように笑った。
若奥様は身重だったが、此れだけは欠かしたくはないと邸内に設けられたトレーニングルームで筋トレに励んでいた。
シワンは彼の傍でタオルとスポーツドリンクを持って待機していた。
鏡に映る逞しい筋肉に目を奪われる。同じ鏡の少し離れたところには、白い薄手のシャツに、黒の極端に短いショートパンを着込んだひょろひょろの自分。
「素敵ですね」
上腕二頭筋を意識するトレーニングを一度やめ、休憩に入ると言ったドンジュンに声をかける。
「シワンも鍛えればいいのに」
「鍛えたことはあります。腕だけ……でも、すぐに落ちました」
「そう。まあ、その顔でムキムキだったらバランス悪いし、鍛えることもないか」
「……若奥様には言われたくないですね」
ドンジュンは、美人で有名な女優にも似ていると評判の、美しい顔面の持ち主だった。その顔にこの肉体。アンバランスなのは同じだろう、と思う。
「生意気なことを。罰としてお前もやれ」
ドンジュンはシワンの口答えがおかしくてたまらないと言うようにけらけらと笑い、シワンに5kgのダンベルを渡した。
二人の間には、そのような軽口がきける位にすぐに打ち解けられる絆が出来ていた。
「疲れるなよ」
口角を上げて笑う姿は、いたずらっ子の天真爛漫な姿だった。
働き始めれば、あっと言う間に三週間が経っていた。
洗濯で全員分の下着を手洗いしなければならなかったり、家の照明器具をはしごにのぼって直さなければならなかったりする。
此の日は、バスタブを洗う日だった。
広い廊下を歩いて行くと、手前のドアが夫婦用のリビングルームに続いており、其の先のドアが夫婦専用のバスルームに続いている。リビングとバスは部屋同士でも中で繋がっている構造になっている。
夫婦のバスルームを開けると、白い大理石の敷き詰められた空間に、猫足がついた真っ白なバスタブがあった。
金色の猫足。真っ白いバスタブ。
シワンは靴下を脱ぎ、シャツを腕まくり、パンツの裾を更にまくり上げてシャワーを手に取った。
——本当だったら、もうちょっと楽な格好で洗いたいな。
テホンから「他の姿を見せないように」というルールを言い渡されていたので、それを破る訳にもいかない。
バスタブに素足で入り、手に持ったスポンジで水垢を取って行く。
水音。
水しぶきや洗剤の泡が、脚にかかった。
ジュニョンは仕事を終え、リビングでワインのデキャンタを片手に、ベッドに腰掛けたドンジュンと話していた。
「新しいメイドはどう?」
「今更その質問?まあ、良い子だよ。ちょっと子供っぽくて変なとこもあるけど、従順だし、素直だし。ミヌが気に入ってた」
「子供っぽい?」
ジュニョンは、そんな姿は見たことが無いな、と思った。
「本人クールなつもりなんだろうけど、割とスイッチ入るとずっと喋ってて面白いよ」
言いながらドンジュンがベッドに寝転がる。
シワンがべらべら話すところも見たことが無かった。
やはり仕事が遅く、家に居る時間が短いせいか、ドンジュンやミヌよりも圧倒的に自分は彼のことを知らない、と思う。
隣のバスルームからシャワーの音が聞こえた。
不意に、気になって。
デキャンタとグラスを持ったまま、バスルームの扉を開けた。
広い空間にシャワーの音が響いていた。
バスタブの中に人影が見える。腰を下ろしたり上げたりしながら、スポンジを動かしている。
立ち上がったときに、真っ白な脚が見えた。
ジュニョンの立っている方へ背を向け、体を腰から折り曲げた姿勢でバスタブにシャワーで水をかけていた。
その脚に、水や洗剤の白い液体がついているのが見えてしまった。
流し終わったらしく、シワンがバスタブの縁に手をかけ、右脚を大理石の床に触れさせ、左脚も同じようにしてバスタブから引っこ抜き、その場に屈んだ。
「腰痛い……」
独り言をつぶやき右手の拳で腰を軽く叩く仕草をし、バスタブの縁に手を掛け、頭を伏せる仕草をしていた。
屈んだ太腿からくるぶし、つま先にかけて、舐めるように見てしまう。
たくし上げたパンツとまくったシャツの所為で、肌が露になっている。
男なのに、女よりも扇情的なその光景。
「あ」
シワンが入口のドアが開いていることに気付き、ジュニョンを認識した。
「え?なん……で……あ、その、お帰りなさいませ」
独り言を言いながら仕事をさぼっている姿を見られたのが恥ずかしい、と思ったのか、やたら慌てていた。
「いいよ、休めば」
ジュニョンは笑い、ワインが入ったままで口を付けていなかったグラスを乱暴に回した。
「いえ、そんな訳にはいきません」
シワンは近くにあったタオルを引き寄せて足元を拭いながら、再度手に持ったシャワーヘッドで汚れた床に水を撒いた。
白い脚。
白い腕。
細い腰。
ジュニョンはその光景がやたら脳に焼き付いて離れなかった。
そしてシワンもまた、
(あの人は何時から見てたんだろう?)
と思っていた。
家族が近郊の湖のコテージへ出掛けることになり、シワンとテホンも同行した。
テホンは「こんなことって滅多に無いよ」と教えてくれた。シワンの前にも何人もメイドは居たが、テホン以外の人間が家族と出掛けることは無かった、とも教えてくれた。
送迎のバンの中、シワンは目の前に座ったジュニョンとドンジュンとミヌが家族の会話をしているのにそっと耳を傾けていた。
(この人が、俺のものだったら……こんな風に笑いかけて貰えるんだろうか……)
それは単なる興味から、そう思った。
自分は、この人を知らない。
いつも忙しくて、シワンはミヌやドンジュンの世話をするのが主たる仕事になっていた為(一家の長の世話をするのはベテランの仕事なのだ、とテホンに言われていた)、彼の生活時間が合っていたのは、自分がこの家で働くようになった最初の2日間と、あとは数える位だったと思う。
気が強いけれど、自分と対等に接しようとしてくれる若奥様のドンジュン。
たまに「遊んでやっているんだ」という態度も出すけれど可愛いくてたまらないミヌ。
でもこの人の印象は、顔や、着ているものしかない。
あとは、この間見つめられたときの視線——。
この人はどういう人なんだろう?
ミヌと併設のプールで飛び込みをして遊んだり、全員で天体観測をしたりして、旅行の初日は終わった。
ドンジュンのお腹はさらに大きくなるばかりで、最近は動くのも少し辛い、と言うようになり、リゾート地でも日頃の生活を離れて寝たり、プールに入らずに遠くから眺めたり、ということが増えていた。
それでも「またこうやって皆で来たいね」と笑いかけてくれた。
コテージは2階建てで半地下の部屋があり、シワンは半地下、テホンは1階、家族は2階の部屋に泊まることになった。
シワンは部屋に入るや否やすぐに服を脱ぎ、下着だけになって、シーツの間に挟まった。
リゾート地でも立場を弁えて振る舞わなければならず、しかも邸宅の外であるが故に余計に気を遣ってしまった気がする。楽しかったが、少し疲労感があった。
「プールもかな……久しぶりだったし……」
ごろりと横になっていたら、だんだんと気怠い眠気に襲われた。
後で部屋着に着替えないと……
そう思いながらも、服も脱ぎ散らかしたまま、瞼が重くなり、やがて重力に負けた。
夢で、何かを誰かと話していたが、その相手が急に頬を叩いた。
頬に、叩かれる感覚があった。だが、光の中に立った相手が誰なのかが分からない。酷い逆光で、顔が見えない。
痛い。つつかないで。誰だ……誰?
「ふふ」
その声で、目が覚めた。
蛍光灯の光に負けながら、薄く目を開けると、白のガウン姿のジュニョンが目に入った。
自分の顔の傍のスペースに腰掛け、ワイングラスの柄を持った右手でシワンの頬をつついていた。
「御主人様?」
呼んだ瞬間、目の前に赤い液体の入ったグラスを出された。
状況が分からず、ただそのグラスとジュニョンの顔を交互に見る。首を何回か動かすと、もう一度無言でグラスを目の前に出された。
「飲んで」
瞼を開閉して、了解の意思を示すと、シワンは少し体を持ち上げて差し出されたグラスを、ジュニョンの指に触れない部分を持って、慎重に受け取った。
もう一度自分が此れを飲むのかと目で問い掛けると、飲んで、と再度顎で促された。
ゴクン
静かな空間に、自分の喉が嚥下する音が響いた。
「美味しい?」
「はい」
シワンは飲み干したグラスをジュニョンの方へ差し出した。
ジュニョンは無言でグラスを持ち左手に持ち替えてボトルからワインを注いだ。真っ赤な液体が、なみなみと注がれていく。
「はい」
再度、目の前にグラスが差し出された。
赤い液体は、濁りがあって、グラス越しの風景が見えない。まだまどろんでいる頭でジュニョンの持っているワインがル・パンであることに気付く。
「飲めません」
「飲んで。美味しかったでしょ。また全部飲んでよ」
有無を言わさない言い方で、ちらりとラベルを見せられた。
ジュニョンはワインのボトルに口をつけ、ウイスキーでも飲むように、下品な飲み方をして喉を鳴らした。
この人は——
主人の言うことに抗わないこと。
それも、テホンが教えてくれたメイドの心構え。
シワンはもう一度グラスを取り、鼻のそばに近付ける。
スモーキーだけれど華やかな匂いが鼻腔に広がった。それだけで酔いそうになる。
「一気に」
促されて、水を飲むように喉を開いて飲み干した。
シワンは手の甲で唇を拭い、其の手でグラスの口を付けた部分を拭ってグラスをジュニョンに返した。
急に会話がなくなる。
ジュニョンが、座っていたところから体勢を変えようとしたので、シワンは咄嗟に体を話そうと、ベッドの奥の方へ行こうとした。
肩を掴まれた。
行くな、と言うように。
ジュニョンはサイドテーブルにグラスとボトルを置き、シワンの寝そべっている姿を無言で見詰めた。
ポーカーフェイスで、表情が読めない。
「シーツ、どけて」
穏やかな口調だったが、それは命令。
シワンはたじろぎながらも、自分の胸元から下を覆っているシーツの端をつまんで、ゆっくりめくった。
エアコンの風が曝された肌に当たる。
下着姿だけになって、ますます所在が無くなる。
手の持って行き場に困っていると、それはジュニョンに絡めとられた。
まず、額にキス。
そこから上に逸れてこめかみより少し上の頭の部分に、髪越しにキス。
されるがままになっていると、今度は仰向けになった体をひたすら指で辿られた。
首、鎖骨、胸、乳首、脇腹。
膝、太腿。
触れられて行くうちに反応する体の芯には触れられない。
それが余計に恥ずかしくて、逃げ出したくなる。
右の太腿まで人差し指で辿ると、焦らすように左の膝に手を移動させた。
下着が少し持ち上がっているのに気付かない訳が、無いのに。
ジュニョンは口の端を持ち上げ、目をとろんとさせたまま、無言でシワンの体をなぞっていた。
命令は——されていない。
恥ずかしくて堪らずに顔をジュニョンとは逆方向にやる。
途端、ジュニョンが覆い被さってきて、腰を思い切り擦り寄せてきた。
胸と胸を重ならせ、シーツの下から手を回してシワンを抱き寄せ、耳元で囁く。
「飲んで?」
腰を上下に動かされれば、その言葉は卑猥な意味にしか文脈を構成しなかった。
あの日、見つめられたときから、
体を熱くしていたんだ。
「はい……」
シワンはジュニョンの背中に手を回した。
彼を床に立たせて、自分はベッドに膝を付く。
ガウンの下に着ていたジャージの腰紐の片方を引き寄せて、緩める。
ジャージに手を掛け、一度顔を見上げると、続けて、と無言で促された。
頷いて、ジャージと一緒に下着を引き下ろす。
其処に顔を埋める。
ジュニョンは
正解だったな、
と思った。
この匂い。
先を舌先で舐めてから、舐め易いようにジュニョンの腰に回した腕に力をこめて引き寄せる。
口を大きく開けて、歯が当たらないように慎重に。
飲み込む。
「あっ……」
ジュニョンがビクン、と動く。
待ってた。
こういうことをしてみたいって。
美しい邸宅。
大きな扉を開けた空間でまず目に入ってきたのは大きなシャンデリアだった。
背の高い御主人様と、若奥様、若奥様に抱かれた御嬢様が自分を出迎えてくれた。
「滅多に無いことだよ」とこれから同僚となる女史のテホンが耳打ちした。
「これに着替えて。家族の前では他の姿を見せないように」
自分用に与えられたメイド用の部屋で、テホンから渡されたのは畳まれたメイド用の制服だった。
畳まれたものを広げ、上下に持って体にあて、姿見に自分を映す。まるで小学生男子の制服のように丈の短いショートパンツが目に入ったが、案外可愛いのではないか、と思った。
テホンが、似合うよきっと、と笑った。
仕事の基本は、掃除、洗濯に食事の準備。
さらに、御嬢様であるミヌの世話や、双子が今お腹の中にいる若奥様のドンジュンの世話をしなければならず、毎日忙しい。
ミヌはすぐに自分に懐き、最初は「メイドさん」と読んでいたのも「ヒョン」と呼ぶようになった(御嬢様なのに『ヒョン』はおかしいよ、とは教えたがミヌはその呼び名が気に入った様子だった)。
テホンが作った本日のメインディッシュである骨付仔羊のローストを盛り付けた皿を一家のテーブルに運んでいると、若奥様ドンジュンが言った。
「ミヌは、メイドさんが気に入った?」
「ヒョンはミヌのことが好きみたい」
ミヌはフォークで子羊をつつきながら言った。
「どうしてそう思うの?」
ドンジュンがミヌの顔を覗き込んで笑いながら尋ねる。
「顔に書いてあるもん」
シワンとミヌは目を合わせて、少女のように笑った。
若奥様は身重だったが、此れだけは欠かしたくはないと邸内に設けられたトレーニングルームで筋トレに励んでいた。
シワンは彼の傍でタオルとスポーツドリンクを持って待機していた。
鏡に映る逞しい筋肉に目を奪われる。同じ鏡の少し離れたところには、白い薄手のシャツに、黒の極端に短いショートパンを着込んだひょろひょろの自分。
「素敵ですね」
上腕二頭筋を意識するトレーニングを一度やめ、休憩に入ると言ったドンジュンに声をかける。
「シワンも鍛えればいいのに」
「鍛えたことはあります。腕だけ……でも、すぐに落ちました」
「そう。まあ、その顔でムキムキだったらバランス悪いし、鍛えることもないか」
「……若奥様には言われたくないですね」
ドンジュンは、美人で有名な女優にも似ていると評判の、美しい顔面の持ち主だった。その顔にこの肉体。アンバランスなのは同じだろう、と思う。
「生意気なことを。罰としてお前もやれ」
ドンジュンはシワンの口答えがおかしくてたまらないと言うようにけらけらと笑い、シワンに5kgのダンベルを渡した。
二人の間には、そのような軽口がきける位にすぐに打ち解けられる絆が出来ていた。
「疲れるなよ」
口角を上げて笑う姿は、いたずらっ子の天真爛漫な姿だった。
働き始めれば、あっと言う間に三週間が経っていた。
洗濯で全員分の下着を手洗いしなければならなかったり、家の照明器具をはしごにのぼって直さなければならなかったりする。
此の日は、バスタブを洗う日だった。
広い廊下を歩いて行くと、手前のドアが夫婦用のリビングルームに続いており、其の先のドアが夫婦専用のバスルームに続いている。リビングとバスは部屋同士でも中で繋がっている構造になっている。
夫婦のバスルームを開けると、白い大理石の敷き詰められた空間に、猫足がついた真っ白なバスタブがあった。
金色の猫足。真っ白いバスタブ。
シワンは靴下を脱ぎ、シャツを腕まくり、パンツの裾を更にまくり上げてシャワーを手に取った。
——本当だったら、もうちょっと楽な格好で洗いたいな。
テホンから「他の姿を見せないように」というルールを言い渡されていたので、それを破る訳にもいかない。
バスタブに素足で入り、手に持ったスポンジで水垢を取って行く。
水音。
水しぶきや洗剤の泡が、脚にかかった。
ジュニョンは仕事を終え、リビングでワインのデキャンタを片手に、ベッドに腰掛けたドンジュンと話していた。
「新しいメイドはどう?」
「今更その質問?まあ、良い子だよ。ちょっと子供っぽくて変なとこもあるけど、従順だし、素直だし。ミヌが気に入ってた」
「子供っぽい?」
ジュニョンは、そんな姿は見たことが無いな、と思った。
「本人クールなつもりなんだろうけど、割とスイッチ入るとずっと喋ってて面白いよ」
言いながらドンジュンがベッドに寝転がる。
シワンがべらべら話すところも見たことが無かった。
やはり仕事が遅く、家に居る時間が短いせいか、ドンジュンやミヌよりも圧倒的に自分は彼のことを知らない、と思う。
隣のバスルームからシャワーの音が聞こえた。
不意に、気になって。
デキャンタとグラスを持ったまま、バスルームの扉を開けた。
広い空間にシャワーの音が響いていた。
バスタブの中に人影が見える。腰を下ろしたり上げたりしながら、スポンジを動かしている。
立ち上がったときに、真っ白な脚が見えた。
ジュニョンの立っている方へ背を向け、体を腰から折り曲げた姿勢でバスタブにシャワーで水をかけていた。
その脚に、水や洗剤の白い液体がついているのが見えてしまった。
流し終わったらしく、シワンがバスタブの縁に手をかけ、右脚を大理石の床に触れさせ、左脚も同じようにしてバスタブから引っこ抜き、その場に屈んだ。
「腰痛い……」
独り言をつぶやき右手の拳で腰を軽く叩く仕草をし、バスタブの縁に手を掛け、頭を伏せる仕草をしていた。
屈んだ太腿からくるぶし、つま先にかけて、舐めるように見てしまう。
たくし上げたパンツとまくったシャツの所為で、肌が露になっている。
男なのに、女よりも扇情的なその光景。
「あ」
シワンが入口のドアが開いていることに気付き、ジュニョンを認識した。
「え?なん……で……あ、その、お帰りなさいませ」
独り言を言いながら仕事をさぼっている姿を見られたのが恥ずかしい、と思ったのか、やたら慌てていた。
「いいよ、休めば」
ジュニョンは笑い、ワインが入ったままで口を付けていなかったグラスを乱暴に回した。
「いえ、そんな訳にはいきません」
シワンは近くにあったタオルを引き寄せて足元を拭いながら、再度手に持ったシャワーヘッドで汚れた床に水を撒いた。
白い脚。
白い腕。
細い腰。
ジュニョンはその光景がやたら脳に焼き付いて離れなかった。
そしてシワンもまた、
(あの人は何時から見てたんだろう?)
と思っていた。
家族が近郊の湖のコテージへ出掛けることになり、シワンとテホンも同行した。
テホンは「こんなことって滅多に無いよ」と教えてくれた。シワンの前にも何人もメイドは居たが、テホン以外の人間が家族と出掛けることは無かった、とも教えてくれた。
送迎のバンの中、シワンは目の前に座ったジュニョンとドンジュンとミヌが家族の会話をしているのにそっと耳を傾けていた。
(この人が、俺のものだったら……こんな風に笑いかけて貰えるんだろうか……)
それは単なる興味から、そう思った。
自分は、この人を知らない。
いつも忙しくて、シワンはミヌやドンジュンの世話をするのが主たる仕事になっていた為(一家の長の世話をするのはベテランの仕事なのだ、とテホンに言われていた)、彼の生活時間が合っていたのは、自分がこの家で働くようになった最初の2日間と、あとは数える位だったと思う。
気が強いけれど、自分と対等に接しようとしてくれる若奥様のドンジュン。
たまに「遊んでやっているんだ」という態度も出すけれど可愛いくてたまらないミヌ。
でもこの人の印象は、顔や、着ているものしかない。
あとは、この間見つめられたときの視線——。
この人はどういう人なんだろう?
ミヌと併設のプールで飛び込みをして遊んだり、全員で天体観測をしたりして、旅行の初日は終わった。
ドンジュンのお腹はさらに大きくなるばかりで、最近は動くのも少し辛い、と言うようになり、リゾート地でも日頃の生活を離れて寝たり、プールに入らずに遠くから眺めたり、ということが増えていた。
それでも「またこうやって皆で来たいね」と笑いかけてくれた。
コテージは2階建てで半地下の部屋があり、シワンは半地下、テホンは1階、家族は2階の部屋に泊まることになった。
シワンは部屋に入るや否やすぐに服を脱ぎ、下着だけになって、シーツの間に挟まった。
リゾート地でも立場を弁えて振る舞わなければならず、しかも邸宅の外であるが故に余計に気を遣ってしまった気がする。楽しかったが、少し疲労感があった。
「プールもかな……久しぶりだったし……」
ごろりと横になっていたら、だんだんと気怠い眠気に襲われた。
後で部屋着に着替えないと……
そう思いながらも、服も脱ぎ散らかしたまま、瞼が重くなり、やがて重力に負けた。
夢で、何かを誰かと話していたが、その相手が急に頬を叩いた。
頬に、叩かれる感覚があった。だが、光の中に立った相手が誰なのかが分からない。酷い逆光で、顔が見えない。
痛い。つつかないで。誰だ……誰?
「ふふ」
その声で、目が覚めた。
蛍光灯の光に負けながら、薄く目を開けると、白のガウン姿のジュニョンが目に入った。
自分の顔の傍のスペースに腰掛け、ワイングラスの柄を持った右手でシワンの頬をつついていた。
「御主人様?」
呼んだ瞬間、目の前に赤い液体の入ったグラスを出された。
状況が分からず、ただそのグラスとジュニョンの顔を交互に見る。首を何回か動かすと、もう一度無言でグラスを目の前に出された。
「飲んで」
瞼を開閉して、了解の意思を示すと、シワンは少し体を持ち上げて差し出されたグラスを、ジュニョンの指に触れない部分を持って、慎重に受け取った。
もう一度自分が此れを飲むのかと目で問い掛けると、飲んで、と再度顎で促された。
ゴクン
静かな空間に、自分の喉が嚥下する音が響いた。
「美味しい?」
「はい」
シワンは飲み干したグラスをジュニョンの方へ差し出した。
ジュニョンは無言でグラスを持ち左手に持ち替えてボトルからワインを注いだ。真っ赤な液体が、なみなみと注がれていく。
「はい」
再度、目の前にグラスが差し出された。
赤い液体は、濁りがあって、グラス越しの風景が見えない。まだまどろんでいる頭でジュニョンの持っているワインがル・パンであることに気付く。
「飲めません」
「飲んで。美味しかったでしょ。また全部飲んでよ」
有無を言わさない言い方で、ちらりとラベルを見せられた。
ジュニョンはワインのボトルに口をつけ、ウイスキーでも飲むように、下品な飲み方をして喉を鳴らした。
この人は——
主人の言うことに抗わないこと。
それも、テホンが教えてくれたメイドの心構え。
シワンはもう一度グラスを取り、鼻のそばに近付ける。
スモーキーだけれど華やかな匂いが鼻腔に広がった。それだけで酔いそうになる。
「一気に」
促されて、水を飲むように喉を開いて飲み干した。
シワンは手の甲で唇を拭い、其の手でグラスの口を付けた部分を拭ってグラスをジュニョンに返した。
急に会話がなくなる。
ジュニョンが、座っていたところから体勢を変えようとしたので、シワンは咄嗟に体を話そうと、ベッドの奥の方へ行こうとした。
肩を掴まれた。
行くな、と言うように。
ジュニョンはサイドテーブルにグラスとボトルを置き、シワンの寝そべっている姿を無言で見詰めた。
ポーカーフェイスで、表情が読めない。
「シーツ、どけて」
穏やかな口調だったが、それは命令。
シワンはたじろぎながらも、自分の胸元から下を覆っているシーツの端をつまんで、ゆっくりめくった。
エアコンの風が曝された肌に当たる。
下着姿だけになって、ますます所在が無くなる。
手の持って行き場に困っていると、それはジュニョンに絡めとられた。
まず、額にキス。
そこから上に逸れてこめかみより少し上の頭の部分に、髪越しにキス。
されるがままになっていると、今度は仰向けになった体をひたすら指で辿られた。
首、鎖骨、胸、乳首、脇腹。
膝、太腿。
触れられて行くうちに反応する体の芯には触れられない。
それが余計に恥ずかしくて、逃げ出したくなる。
右の太腿まで人差し指で辿ると、焦らすように左の膝に手を移動させた。
下着が少し持ち上がっているのに気付かない訳が、無いのに。
ジュニョンは口の端を持ち上げ、目をとろんとさせたまま、無言でシワンの体をなぞっていた。
命令は——されていない。
恥ずかしくて堪らずに顔をジュニョンとは逆方向にやる。
途端、ジュニョンが覆い被さってきて、腰を思い切り擦り寄せてきた。
胸と胸を重ならせ、シーツの下から手を回してシワンを抱き寄せ、耳元で囁く。
「飲んで?」
腰を上下に動かされれば、その言葉は卑猥な意味にしか文脈を構成しなかった。
あの日、見つめられたときから、
体を熱くしていたんだ。
「はい……」
シワンはジュニョンの背中に手を回した。
彼を床に立たせて、自分はベッドに膝を付く。
ガウンの下に着ていたジャージの腰紐の片方を引き寄せて、緩める。
ジャージに手を掛け、一度顔を見上げると、続けて、と無言で促された。
頷いて、ジャージと一緒に下着を引き下ろす。
其処に顔を埋める。
ジュニョンは
正解だったな、
と思った。
この匂い。
先を舌先で舐めてから、舐め易いようにジュニョンの腰に回した腕に力をこめて引き寄せる。
口を大きく開けて、歯が当たらないように慎重に。
飲み込む。
「あっ……」
ジュニョンがビクン、と動く。
待ってた。
こういうことをしてみたいって。
ようこそクラブエンパイアへ。
9人のスタッフを見る喜び、サービスの心地良さ、上質を極めたラグジュアリーな空間をお楽しみください。
申し遅れました、私は支配人のケビンです。
——さあ、扉を開けて。お席までご案内いたします。
「いらっしゃいませ!」
ウィンクで出迎えてくれたのは、当店のカリスマナンバーワンホスト、月哉(つきや)ことジュニョンです。え?声が若干こもってて一瞬いらっしゃいませって聞こえなかった?申し訳ございません。其の声すら、貴方を魅了します。え?触られた?申し訳ございません、普通此のような店では新規のお客様には手を触れないようにしているのですが……。
「ヒョン!お客さんに軽々しくボディータッチしないで!チャラい!」
「ハイ聞こえないー」
「馬鹿にしやがって!ぜってーお前を抜いてナンバーワンになってやる!」
……お見苦しいところをお見せしました。彼は、最近新しく入ってきた新米ホストの純(じゅん)ことドンジュンです。ジュニョンや私のポジションを狙っていて、初々しいですが、ちょっと元気が有り余っているんですね。お嬢様に対しては、まずは愛くるしい小動物系ですが、営業となるとオラオラです。お好みでしたら、ぜひお席へお呼びください。
ドンジュンがオラオラ系ならば、ジュニョンは色恋系営業です。色恋系のジュニョンはくれぐれも本気にならないよう、ご注意ください。
向こうの席でAKBを全力で踊っているホストが気になる?
ああ、あれは光流(ひかる)ことクァンヒですね。彼は機嫌が良ければ人間ジュークボックスになります。ただし女性アイドル限定ですが……。オネエ系のノリで楽しくお酒を飲みたいときには彼を指名すると良いと思います。あ、ただ、彼には注意事項があって……
「だーめ!シワンは俺のテーブルで俺の隣の席なの!指名するなら俺を指名して!」
出てしまいましたね注意事項。
普通、他のホストから客を取るのは御法度ですが、彼の場合『他の客から(自分の)ホストを取って』しまうのです。そう、いま彼の隣に無理矢理座らされた細身のホストが幹部候補の白鳥ことシワンですが、彼はクァンヒ専用ホストです。彼を指名したいならもれなくクァンヒもお付けしておりますのでクァンヒのご指名料も頂戴しております。料金が二倍になりますのでご注意くださいね。
「うるせーなお前あっち行けよ。あ、ご指名サンキュウ!」
シワンは愛想も良く容姿端麗でホストの鏡です。ノリだけでなく、真面目な話や仕事の話も丁寧に聞ける子なので、仕事や勉強に疲れたときは指名してくださいね。
ではこちらのソファーのお席へどうぞ。
当店自慢の照明器具もご覧ください。四方をガラスと暖色の照明でゴールドに彩り、明るくきらびやかながらも煩くないようにまとめております。
「どうぞ」
膝を付き、お嬢様のもとへおしぼりとメニューを持ってきてくれたのはMacaulayことテホンです。どうです?このアジア人離れした顔と優しさ。彼は武道にも長けていて、最初は当店の内勤スタッフ志望で入店したのですが、その容姿と気遣いを買ってホストへの転向を勧めました。きちんと目を見て常にゲストへの心配りを忘れない姿勢。彼もホストの鏡ですよ。
え?向こうでホストがどさくさに紛れて別のホストに膝枕して貰ってた?
寝転がってる方は響(ひびき)ことヒチョルだと思います。ちょっと声に特徴があったでしょう?他のホストに甘えたがってスキンシップを図ろうとするタイプですね。黙っていれば美男子ですが、話をしたときのギャップが面白いですよ。
彼は、あるホストが気に入っててやはりホスト同士で永久指名を入れてます。
膝枕させてあげていた方は、くるくるパーマの金髪の子だったでしょう?あれがミヌで、ヒチョルのお気に入りです。源氏名は水月(みずき)です。
彼は割と感情にムラがありますが、お出迎え/お見送りのときの笑顔が可愛らしく、それを見るだけでも指名の価値はありますね。送り指名でそのまま永久指名になるケースが多いですよ。
ヒチョル/ミヌ、此の二人はコールのときだけ異様にテンションが高くなって盛り上げ上手になりますが、普段は滅多にエンジンがかかりません。あまり営業はしないタイプで、店内の順位も気にしないタイプです。まったり過ごすことができます。
ただ、彼らのコールのときのテンションが見たいからと、シャンパンを入れまくるのはお客様の自己責任でお願いいたします。
がしゃーん
失礼いたしました。厨房を見て参ります。
「ヒョンシク!」
「ごめんなさい〜ピンドン割っちゃった〜」
「おま、幾らすると思ってんだ!」
またもお見苦しいところをお見せして申し訳ございません。こちらは厨房担当のヒョンシクです。源氏名はありません。
え?ホストでも良いじゃないかって?イケメン?格好良い?背高い?貴公子?美声?
——申し訳ございません。こちらは『支配人専用』ですので。
「15万だぞ!15万!体で払ってもらうからな!」
「ぎゃっ意味違うそれ!」
「違わない。今夜は寝ずにご奉仕しろよ」
「ぎゃーーー!」
==================
女①:「支配人も格好良いんだけどねえ」
女②:「うーん、私はキッチンの子が気になったなあ」
女①」「え、あれ?凄いどんくさそうじゃん、だから内勤なのかなって感じ。ホストできなさそう」
女②:「確かに、ちょっと不安かも……シャンパンタワーとか破壊しそうだし」
女①:「ね。次は誰を指名する?」
女②:「シワンくんかな。うざいのついてくるけど」
女①:「私はジュニョン!ウィンクでやられちゃった」
——貴女なら、誰を指名しますか?
皆様のご来店、お待ちしております。
9人のスタッフを見る喜び、サービスの心地良さ、上質を極めたラグジュアリーな空間をお楽しみください。
申し遅れました、私は支配人のケビンです。
——さあ、扉を開けて。お席までご案内いたします。
「いらっしゃいませ!」
ウィンクで出迎えてくれたのは、当店のカリスマナンバーワンホスト、月哉(つきや)ことジュニョンです。え?声が若干こもってて一瞬いらっしゃいませって聞こえなかった?申し訳ございません。其の声すら、貴方を魅了します。え?触られた?申し訳ございません、普通此のような店では新規のお客様には手を触れないようにしているのですが……。
「ヒョン!お客さんに軽々しくボディータッチしないで!チャラい!」
「ハイ聞こえないー」
「馬鹿にしやがって!ぜってーお前を抜いてナンバーワンになってやる!」
……お見苦しいところをお見せしました。彼は、最近新しく入ってきた新米ホストの純(じゅん)ことドンジュンです。ジュニョンや私のポジションを狙っていて、初々しいですが、ちょっと元気が有り余っているんですね。お嬢様に対しては、まずは愛くるしい小動物系ですが、営業となるとオラオラです。お好みでしたら、ぜひお席へお呼びください。
ドンジュンがオラオラ系ならば、ジュニョンは色恋系営業です。色恋系のジュニョンはくれぐれも本気にならないよう、ご注意ください。
向こうの席でAKBを全力で踊っているホストが気になる?
ああ、あれは光流(ひかる)ことクァンヒですね。彼は機嫌が良ければ人間ジュークボックスになります。ただし女性アイドル限定ですが……。オネエ系のノリで楽しくお酒を飲みたいときには彼を指名すると良いと思います。あ、ただ、彼には注意事項があって……
「だーめ!シワンは俺のテーブルで俺の隣の席なの!指名するなら俺を指名して!」
出てしまいましたね注意事項。
普通、他のホストから客を取るのは御法度ですが、彼の場合『他の客から(自分の)ホストを取って』しまうのです。そう、いま彼の隣に無理矢理座らされた細身のホストが幹部候補の白鳥ことシワンですが、彼はクァンヒ専用ホストです。彼を指名したいならもれなくクァンヒもお付けしておりますのでクァンヒのご指名料も頂戴しております。料金が二倍になりますのでご注意くださいね。
「うるせーなお前あっち行けよ。あ、ご指名サンキュウ!」
シワンは愛想も良く容姿端麗でホストの鏡です。ノリだけでなく、真面目な話や仕事の話も丁寧に聞ける子なので、仕事や勉強に疲れたときは指名してくださいね。
ではこちらのソファーのお席へどうぞ。
当店自慢の照明器具もご覧ください。四方をガラスと暖色の照明でゴールドに彩り、明るくきらびやかながらも煩くないようにまとめております。
「どうぞ」
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え?向こうでホストがどさくさに紛れて別のホストに膝枕して貰ってた?
寝転がってる方は響(ひびき)ことヒチョルだと思います。ちょっと声に特徴があったでしょう?他のホストに甘えたがってスキンシップを図ろうとするタイプですね。黙っていれば美男子ですが、話をしたときのギャップが面白いですよ。
彼は、あるホストが気に入っててやはりホスト同士で永久指名を入れてます。
膝枕させてあげていた方は、くるくるパーマの金髪の子だったでしょう?あれがミヌで、ヒチョルのお気に入りです。源氏名は水月(みずき)です。
彼は割と感情にムラがありますが、お出迎え/お見送りのときの笑顔が可愛らしく、それを見るだけでも指名の価値はありますね。送り指名でそのまま永久指名になるケースが多いですよ。
ヒチョル/ミヌ、此の二人はコールのときだけ異様にテンションが高くなって盛り上げ上手になりますが、普段は滅多にエンジンがかかりません。あまり営業はしないタイプで、店内の順位も気にしないタイプです。まったり過ごすことができます。
ただ、彼らのコールのときのテンションが見たいからと、シャンパンを入れまくるのはお客様の自己責任でお願いいたします。
がしゃーん
失礼いたしました。厨房を見て参ります。
「ヒョンシク!」
「ごめんなさい〜ピンドン割っちゃった〜」
「おま、幾らすると思ってんだ!」
またもお見苦しいところをお見せして申し訳ございません。こちらは厨房担当のヒョンシクです。源氏名はありません。
え?ホストでも良いじゃないかって?イケメン?格好良い?背高い?貴公子?美声?
——申し訳ございません。こちらは『支配人専用』ですので。
「15万だぞ!15万!体で払ってもらうからな!」
「ぎゃっ意味違うそれ!」
「違わない。今夜は寝ずにご奉仕しろよ」
「ぎゃーーー!」
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女①:「支配人も格好良いんだけどねえ」
女②:「うーん、私はキッチンの子が気になったなあ」
女①」「え、あれ?凄いどんくさそうじゃん、だから内勤なのかなって感じ。ホストできなさそう」
女②:「確かに、ちょっと不安かも……シャンパンタワーとか破壊しそうだし」
女①:「ね。次は誰を指名する?」
女②:「シワンくんかな。うざいのついてくるけど」
女①:「私はジュニョン!ウィンクでやられちゃった」
——貴女なら、誰を指名しますか?
皆様のご来店、お待ちしております。
Profile
HN:
はまうず美恵
HP:
性別:
女性
職業:
吟遊詩人
趣味:
アート
自己紹介:
ハミエことはまうず美恵です。
当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
某帝国の二次創作同人を取り扱っています。
女性向け表現を含むサイトですので、興味のない方意味のわからない方は入室をご遠慮下さい。
尚、二次創作に関しては各関係者をはじめ実在する国家、人物、団体、歴史、宗教等とは一切関係ありません。
また 、これら侮辱する意図もありません。
当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
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