手首の痕を見つめて、昨晩のことを思い出す。
接吻を交わした相手は、また一口酒を飲んだ。
相変わらず体を強張らせたまま、シワンは他愛の無い話すら出来ずに彼の太腿の上に居る。床に爪先を付け膝を太腿の上に乗せ、腰を抱き寄せられた格好だった。注げと言われて酌をする。注いだ酒に男が手をつけて一気に飲み干す。
「君も飲む?」
手の遣り場にすら困っていたシワンは、ますます身を硬くさせた。「客の言うことは絶対に拒んではいけませんよ」と、此処に来る前にテホンに耳打ちされた言葉を思い出す。頷いて杯を取ろうとすると、男は口角を上げて杯を持ち上げ、舌を出して杯から酒を口に入れる。
気付くと口をこじ開けられ、口移しで酒を飲まされていた。
酒精の味を感じるのも初めてで、シワンは其の味に驚いた。男の舌が口の中で無遠慮に動き回る。口の中を掻き回され、舌で舌を絡めとられる。息が出来ずに飲み込んだ酒は、強い味がして気が飛びそうになった。声を出すことも許さない程の接吻で、互いの鼻でする息の音が暗い部屋に響いた。
抱き寄せられる。
布越しに、男の膨らみを感じる――其の瞬間、シワンの視界は天井を見上げるものになっていた。
「君は莫迦なの?」
押し倒されて、顎を人差し指だけで持ち上げられる。少し垂れ目気味の目は、狂気の色を持ってシワンを見下しながら笑っていた。
足と足が絡まり、布越しでも相手の興奮が伝わって来る。覆い被さられ、額を撫でられると、背筋に戦慄が走ったのが自分でも分かる。そういう自分の状況を何処か冷静に捉えようとして、失敗する。
また、くちづけ。
酒臭い息を吐きかけられながら、莫迦だ莫迦だと罵られる。
「こんなところで働くことになって……其れでも未だ救いがあるとでも思ってた?」
耳元で囁かれて頬を数回、撫でられた。心臓が鳴る。緩やかになだれ込む此の先のことを想像して、今すぐにでも目の前の相手を殴り倒して逃げ出したいと思うのに、体が動かない。
「本当に莫迦。可愛いね」
ああ、言葉通り莫迦にされているのだと思った。
「初々しくて、ぶっ潰したくなるね」
男はシワンの首にくちづけた。舌を這わせて肌を濡らす。捕まるものも何もなくて、シワンはただ、指の腹を座敷に押し付けていた。
——怖い。
シワンは初めて、恐怖を感じた。恐怖を感じている自分を自覚した。「潰す」という言葉の響きの所為かもしれない。何でもっと優しくしてくれないのだろう、と思うのに、優しければ良いのか、と終わりの無い自問自答をする。
着物の襟元を噛んだ男の歯が、布を捲り引っ張る。時折、シワンに向けられる視線は獲物を捕らえた蛇のようだと思った。舌をちらつかせて、蛇がシワンの体の上を這い回っている。
——毒蛇だ。
行き場を失っていた指を絡めとられ、両耳の横できつく握られる。男の舌はあらわになった胸の中心を沿うように足の方へ足の方へと緩慢に動く。余りにも長く感じられる時間だった。互いの下半身が反応しているのが、嫌でも分かってしまう。相手はともかく、自分が「そう」だと確信したのは、或る種の絶望だった。相手はともかく、自分が「そう」だと確信したのは、或る種の絶望だった。
絡められた指が離れて、シワンの細い腰に添う。
シワンの瞳が、離れた場所にしつらえられた一組だけの寝具を見た。
「お客…さん」
小さな声で、言う。シワンの腹の上を動いていた頭が、止まる。二人の視線が絡まった。
「何?」
「此処じゃ……」
ああそうか、と男は起き上がった。シワンを見下ろし、乱暴に腕を掴むと立ち上がらせて肩を抱く。
布団の上に突き飛ばすと、男は一気にシワンの着物を剥いだ。
「結構素質ありそうだね」
男も自分の着ていたものを脱いでいく。脱ぎ終わると、シワンの体を引っくり返して俯せにさせ、腕を掴んだ。
手に、帯を巻き付けて行く。
縛り上げられた帯は、少しきつくて肌に食い込んだ。
「今、一瞬逃げようとしたでしょ?」
強く縛った腕に手を這わせ、シワンの顎に手を添えて、男は肩越しに耳元で囁いた。
「逃げたらもっと酷いことするよ」
——酷いことって、何?
——今以上に、惨めなことが有るの?
シワンは絶望した。早く意識を失うことだけを考えた。そうだ、自分はシワンじゃない。椿だ。今は椿の番だ。そうだ、自分が犯されてるんじゃない——。
「ほら、ちゃんと俺の顔見て」
体はいとも簡単に操られて、上にされたり、下にされたりする。抵抗する腕を縛られているせいで、何も出来なかった。震えて声も出ず、涙だけが出る。其の涙を舐めとられる。自分の体重で押しつぶされる腕が、血が通わなくなっている。
何度目かの、接吻を交わす。
水音と、重なり合う体が立てる物音が響く。
椿や、椿。哀れな椿。
売られ、踏みにじられ、蜜を吸われるだけの椿の蕾よ。
液体を纏った指がシワンの中に入って来る。
「分かる?此処に入れるんだよ」
そんな場所、自分でだって見たことが無い。誰にも触れさせたこともないし、触れさせるつもりも無かった。なのに、無神経な指が入口を撫でては出し入れされる。
「ふ……」
声が出ないように堪えていても、息が上がる。喘ぐのが嫌だった。女を知らない自分でも、声を上げるのは本来女の役目で、男の自分が喘いで高い声を出すのは嫌だ、と思った。液体の音がする。下品でいやらしい音だと思う。
「声、堪えてるの?いじらしくて可愛いけど、聞きたいな」
「可愛くはないです……」
「可愛いよ」
ずぶっと中に差されたものがもう一本増えたことが分かる。体の奥で、勝手に動き回る他人の指を感じて、シワンは震えた。其の顔を見られているのが恥ずかしい。顔を逸らすと、橙色の光の中で、二つの影絵が重なるのが壁に大写しになっているのが分かった。小刻みに震える寝そべった体と、其の上で動く腕の影絵。
「あっ……!」
異様に興奮する場所を押されて、シワンは掲げられていた脚をばたつかせた。体がしなって、暴走する。声が抑えられず、ひっきりなしに声が響いた。
「可愛い。本当に男の子?」
「あっ……やめ…て、ください…」
「そういう風に嫌がるのが、良いんだよ——ねえ、」
「俺のこと
ずっとずっと覚えててね」
シワンの体に、楔が打ち込まれた。
蛇が蕾に頭を突っ込み、中に毒の舌を入れるように。
押し潰される縛られた腕が、揺さぶられる体の下でとうとう感覚を失った。
接吻を交わした相手は、また一口酒を飲んだ。
相変わらず体を強張らせたまま、シワンは他愛の無い話すら出来ずに彼の太腿の上に居る。床に爪先を付け膝を太腿の上に乗せ、腰を抱き寄せられた格好だった。注げと言われて酌をする。注いだ酒に男が手をつけて一気に飲み干す。
「君も飲む?」
手の遣り場にすら困っていたシワンは、ますます身を硬くさせた。「客の言うことは絶対に拒んではいけませんよ」と、此処に来る前にテホンに耳打ちされた言葉を思い出す。頷いて杯を取ろうとすると、男は口角を上げて杯を持ち上げ、舌を出して杯から酒を口に入れる。
気付くと口をこじ開けられ、口移しで酒を飲まされていた。
酒精の味を感じるのも初めてで、シワンは其の味に驚いた。男の舌が口の中で無遠慮に動き回る。口の中を掻き回され、舌で舌を絡めとられる。息が出来ずに飲み込んだ酒は、強い味がして気が飛びそうになった。声を出すことも許さない程の接吻で、互いの鼻でする息の音が暗い部屋に響いた。
抱き寄せられる。
布越しに、男の膨らみを感じる――其の瞬間、シワンの視界は天井を見上げるものになっていた。
「君は莫迦なの?」
押し倒されて、顎を人差し指だけで持ち上げられる。少し垂れ目気味の目は、狂気の色を持ってシワンを見下しながら笑っていた。
足と足が絡まり、布越しでも相手の興奮が伝わって来る。覆い被さられ、額を撫でられると、背筋に戦慄が走ったのが自分でも分かる。そういう自分の状況を何処か冷静に捉えようとして、失敗する。
また、くちづけ。
酒臭い息を吐きかけられながら、莫迦だ莫迦だと罵られる。
「こんなところで働くことになって……其れでも未だ救いがあるとでも思ってた?」
耳元で囁かれて頬を数回、撫でられた。心臓が鳴る。緩やかになだれ込む此の先のことを想像して、今すぐにでも目の前の相手を殴り倒して逃げ出したいと思うのに、体が動かない。
「本当に莫迦。可愛いね」
ああ、言葉通り莫迦にされているのだと思った。
「初々しくて、ぶっ潰したくなるね」
男はシワンの首にくちづけた。舌を這わせて肌を濡らす。捕まるものも何もなくて、シワンはただ、指の腹を座敷に押し付けていた。
——怖い。
シワンは初めて、恐怖を感じた。恐怖を感じている自分を自覚した。「潰す」という言葉の響きの所為かもしれない。何でもっと優しくしてくれないのだろう、と思うのに、優しければ良いのか、と終わりの無い自問自答をする。
着物の襟元を噛んだ男の歯が、布を捲り引っ張る。時折、シワンに向けられる視線は獲物を捕らえた蛇のようだと思った。舌をちらつかせて、蛇がシワンの体の上を這い回っている。
——毒蛇だ。
行き場を失っていた指を絡めとられ、両耳の横できつく握られる。男の舌はあらわになった胸の中心を沿うように足の方へ足の方へと緩慢に動く。余りにも長く感じられる時間だった。互いの下半身が反応しているのが、嫌でも分かってしまう。相手はともかく、自分が「そう」だと確信したのは、或る種の絶望だった。相手はともかく、自分が「そう」だと確信したのは、或る種の絶望だった。
絡められた指が離れて、シワンの細い腰に添う。
シワンの瞳が、離れた場所にしつらえられた一組だけの寝具を見た。
「お客…さん」
小さな声で、言う。シワンの腹の上を動いていた頭が、止まる。二人の視線が絡まった。
「何?」
「此処じゃ……」
ああそうか、と男は起き上がった。シワンを見下ろし、乱暴に腕を掴むと立ち上がらせて肩を抱く。
布団の上に突き飛ばすと、男は一気にシワンの着物を剥いだ。
「結構素質ありそうだね」
男も自分の着ていたものを脱いでいく。脱ぎ終わると、シワンの体を引っくり返して俯せにさせ、腕を掴んだ。
手に、帯を巻き付けて行く。
縛り上げられた帯は、少しきつくて肌に食い込んだ。
「今、一瞬逃げようとしたでしょ?」
強く縛った腕に手を這わせ、シワンの顎に手を添えて、男は肩越しに耳元で囁いた。
「逃げたらもっと酷いことするよ」
——酷いことって、何?
——今以上に、惨めなことが有るの?
シワンは絶望した。早く意識を失うことだけを考えた。そうだ、自分はシワンじゃない。椿だ。今は椿の番だ。そうだ、自分が犯されてるんじゃない——。
「ほら、ちゃんと俺の顔見て」
体はいとも簡単に操られて、上にされたり、下にされたりする。抵抗する腕を縛られているせいで、何も出来なかった。震えて声も出ず、涙だけが出る。其の涙を舐めとられる。自分の体重で押しつぶされる腕が、血が通わなくなっている。
何度目かの、接吻を交わす。
水音と、重なり合う体が立てる物音が響く。
椿や、椿。哀れな椿。
売られ、踏みにじられ、蜜を吸われるだけの椿の蕾よ。
液体を纏った指がシワンの中に入って来る。
「分かる?此処に入れるんだよ」
そんな場所、自分でだって見たことが無い。誰にも触れさせたこともないし、触れさせるつもりも無かった。なのに、無神経な指が入口を撫でては出し入れされる。
「ふ……」
声が出ないように堪えていても、息が上がる。喘ぐのが嫌だった。女を知らない自分でも、声を上げるのは本来女の役目で、男の自分が喘いで高い声を出すのは嫌だ、と思った。液体の音がする。下品でいやらしい音だと思う。
「声、堪えてるの?いじらしくて可愛いけど、聞きたいな」
「可愛くはないです……」
「可愛いよ」
ずぶっと中に差されたものがもう一本増えたことが分かる。体の奥で、勝手に動き回る他人の指を感じて、シワンは震えた。其の顔を見られているのが恥ずかしい。顔を逸らすと、橙色の光の中で、二つの影絵が重なるのが壁に大写しになっているのが分かった。小刻みに震える寝そべった体と、其の上で動く腕の影絵。
「あっ……!」
異様に興奮する場所を押されて、シワンは掲げられていた脚をばたつかせた。体がしなって、暴走する。声が抑えられず、ひっきりなしに声が響いた。
「可愛い。本当に男の子?」
「あっ……やめ…て、ください…」
「そういう風に嫌がるのが、良いんだよ——ねえ、」
「俺のこと
ずっとずっと覚えててね」
シワンの体に、楔が打ち込まれた。
蛇が蕾に頭を突っ込み、中に毒の舌を入れるように。
押し潰される縛られた腕が、揺さぶられる体の下でとうとう感覚を失った。
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「初めて?」
ヒチョルは持っていた箸を盆に置き、粥には然程手を付けていない様子で言った。足を崩して背を逸らして仰け反る格好で座り直すと、首をぐるりと左右に一回ずつ回している。
脈絡の無い質問だったが、文脈と現在自分が置かれた状況そして目の前の相手が居るからこそ、質問の意図は伝わった。
「——はい」
シワンの喉も食べ物は通らなかった。昨日、というか此処に来る前から暫く無かった食に対する欲望はいよいよ消滅したらしい。手元の香の物をかじって、すぐに食べかけを皿に戻してしまう。シワンは俯き、下を向いた目の端で窓の外を見た。硝子の向こうに見えた庭は、夜露を浴びた草木の緑が輝いているように見えた。
「まあそうだろうね。此処の作法も全然分かってないみたいだし、未だ『外の人』っぽいもんね」
着物の襟元を大胆に掴んで扇子で風を送る姿は、はしたない気がした。湿気のある部屋は、少し厚い。
「じゃあ、男は?男を抱いたり抱かれたりしたことはあるでしょ?」
「…………」
「——無いの?」
ヒチョルが素っ頓狂な声を上げた。隣の盆で向かい合わせに食事をとっていた花魁二人が其の声音にびっくりしてヒチョルとシワンを見る。シワンはますます目線を上げられなくなった。
「可哀想に」
可哀想、という言葉が相応しいのだろうか。
自分には其の言葉が似合うのだろうか。
今の自分に向けられる視線のどれにも正解を見付けられない。シワンは幾つかの間に合わせの返事をして、話題が変わるのを待った。
名前を決める時が来た。
主の部屋に一人で来るように、と言われ、シワンは真新しく着慣れない着物を身にまとって髪を結わないまま主の部屋に行った。途中までテホンが世話をしてくれていたが、部屋の手前で其れじゃあ此処でと言う。
シワンは一人、戸を引いて座敷に足を踏み入れた。
部屋に入って来たシワンを見て驚いたのは主の方だった。表情は相変わらず不機嫌で何処か絶望した顔をしていたが、其れですら美しい。周旋屋はかなりの美人だと言っていたが、シワンの前にやって来た者が同じ紹介を受けたものの箸にも棒にも掛からぬ人材であったため、期待はしていなかった。其れなのにやって来た少年は他のどの花魁よりも美しい姿をしていた。其の少年が今、一人の「花魁」になろうとしているのだ。
主は自分の前に座るよう促すと、床に三枚の小さな札を伏せて置いた。木製の札に、名前が書いてあるという。
「一つは花の名、一つは全く新しい名、最後の一つは今の名だ」
主が一つ一つの札を指差して説明した。
——別世界に来てしまった。名前なんて要らない。「シワン」はあの家を出た瞬間に死んだのだ、と思い始めていた。働いて、借金を返せるだけ稼いで、早くあの家に戻ろう。だから此の世界で生きるために、新しい名前が欲しい。
すっと手に取った札には
「椿」
と書いてあった。
「花言葉は冷ややかな美しさ、だ。君にぴったりな花だと思って」
主は名が椿に決まったことを知ると、言った。
シワンは其の花が散る様子のことを思い出す。故郷の道にはところどころ椿の花があって、散る時にぼとりと落ちる花を何度も見たことがある。
斬られた首が地面に落ちたようで、縁起が悪いのだと母が教えてくれた。
「椿や」
名を、呼ばれた。
「明日からいよいよ店に出て貰うよ。とにかく優しい嘘をつき続けるようにするんだ。お酒を飲んで、客に膝をくっつけて座って、話を聞いてやれば良い。そうしたら小遣いが貰える。其の小遣いをどうやって、どれだけ多く早く貰えるかが大事なんだ。早くやれば、早く此処から出られるかもしれない。頑張りなさい」
そう言って主はシワンの顎を持ち上げると、着物の上からシワンの太腿を撫でた。
(——!)
声が出なかった。太腿を何度も執拗に撫でられ、其の手が体に周り尻やふくらはぎを行ったり来たりする。足の指を触られたと思えば、着物の裾から手が入って足の甲を撫でられた。
「椿はうぶだね。もう、行って良いよ。初めての客が、良い人だと良いね」
部屋を出るとテホンが待機していて、名前を尋ねた。
「椿になりました」
そう、短く答える。良い名前だね、と言われた。
シワンは少しのことで熱くなる自分の体に戸惑いを隠せず、先ほど触れられた場所と其の感触を思い出しては顔を熱くさせていた。何故、好きでもない相手に触れられて此の体は反応するのだろう。考えれば考える程おぞましい。
せめて、本当に自分が其のような状況になったときは、意識を早めに失っていられれば良いのに、と思った。
何も考えない、何も感じない体になれれば良いのに、と。
手折られても枯れても、声を出さない花ならば良いのに。
とうとう店へ出ることになる。
シワンがテホンに連れられ通されたのは、おびただしい数の花魁が待ち、それぞれのまとう匂いが立ち籠める部屋だった。
「此処で待っていてください。新入りは、お客さんが来たらまず顔を見せます。氏名の客であれば其の必要は無いです。私がお客さん、と言ったら取り敢えずすぐに出られるよう準備をしてください」
そう言ってテホンが姿を消すと、不安は倍増した。幾ら平気だ、犬に噛まれるようなものだと言い聞かせても「自尊心」が言うことを聞いてくれない。懐に忍ばせていた鏡で自分の顔を確認する。其処には頬に白粉を、唇に紅を塗られた別の自分が居た。他の花魁がひそひそと自分の話をしているのが分かる。新入りで経験の無いような人間に何が出来る、せいぜい恥をかけばいいなどという心ない声が聞こえた。
「お客さん!」
テホンの声がして、シワンは持っていた鏡を落とした。丸い鏡は床を回りながら転がり、ばたんと倒れて止まる。シワンがテホンを見たが、テホンは別の方向を見ていた。
「ミヌ!」
其の声に反応して一人の花魁が立ち上がった。金色の髪を揺らしながら、着物を引き摺ってシワンが居る出入り口の方へ歩いて来た。
ああ良かった、自分ではない、
シワンがそう思った時だった。
「其れから、椿!」
「!」
名前が、呼ばれた。
座敷に通されると、ミヌは馴染みの客の横に撓垂れ掛かった。其のミヌ馴染みの客の真正面に距離を持ってシワンが座ると、酷く粘り気のある目線で全身を見られた。ミヌはとても不機嫌で、シワンを睨み、牽制するような態度を崩さなかった。けれども馴染みの客には甘えるような声と目線を送り、膝と膝をつけて話をしては首に触れたり、腕に触れたりしている。
「君が新入り?」
年齢は然程変わらないだろうか。其の客は若い男だった。
「はい」
「成程」
相手は納得したようにそう言うと、ミヌの顎に手をやり、持ち上げた。
「お前が昨日言ったのが分かる気がする。確かに俺好みだ」
そう言って愛しそうにミヌの髪と耳を撫でる指がやたらにふしだらに見える。男は手に持った酒を一気に飲み干した。
「決めた。ミヌ、お小遣いあげるから今日は上がっていいよ。特に今日は弾んであげる。あんまり連日だと、お前も辛いだろう。明日可愛がって上げるから今日はお上がり」
「!?」
ミヌもシワンも意味が分からない、という顔をした。
「今日は、お上がり」
客は、そう言って部屋の戸を開け外に居た男に何かを言った。
ミヌが退室し二人だけになると男はシワンに自分の傍——先刻までミヌが居た場所に来るように言った。シワンが立ち上がり言われた通りに男の傍へ近付く。すると腕を引かれ、体の平衡感覚が狂わされて、男の膝の上に膝をついて乗るような格好になった。腰を抱き抱えられる。
間近で見て、男もまた美しい顔をしているのだと気付いた。
「君のことを余りにも悪くミヌが言うからね、気になってたんだ」
シワンは体を強張らせた。此れ程迄に人と近付くことなど、未だかつて無かった。
「番頭からも聞いた。今日が初めて店に出る日で、しかも『経験が無い』そうじゃないか。不憫な子も居るもんだとちょっと顔を見て小遣いをあげてすぐに返すつもりだったけど」
男の両腕が、シワンの背と腰に絡まるように纏わりついた。
「気が変わった」
あ、と思った時は既に遅く、相手の高い鼻が自分の鼻にぶつかり、唇に生暖かい感触があった。驚いて其のままで居ると後頭部の髪ごと頭を鷲掴みにされ、口に当たっていた感触が動き出した。其れが接吻であると気付いたときには、歯を舌で突かれていた。
「んうっ……」
シワンは息の仕方が分からず、目を閉じる。すると唇に当たっている其の感覚に意識が集中した。薄らと瞼を持ち上げると、閉じた他人の目が数寸も離れない場所にあった。
「っは」
一瞬唇が離れると、髪と項を撫でられた。
「——此れも初めて?」
質問には答えられず、俯く。経験が無いことも、今其の無い行為をしようとしていることも、何もかもが恥ずかしいものに感じられた。途端に、涙が出た。頬を伝う涙が何筋にもなる。泣き出してしまえば、流すのは容易だった。家族のことを思い出してしまい、更に涙が止まらなくなる。会いたい、と思うと同時に、こんなことになるのが分かっていて売られた身の上を考えると堪らなかった。
「ごめん」
男は泣き出したシワンの頬に指をやり、其の涙を拭うと舌で雫を吸った。
「泣く程嫌だったか」
シワンは頭を撫でられ、体を抱き締められた。背を擦られると、ますます想いは止められなくなってしまう。
「今日は何もしないから一緒に寝よう。此れで君を帰したらきっとミヌの面目も君の面目も潰れる。でも、君が嫌だって言うなら、俺は何もしない」
シワンは初めて其の相手の顔をしっかりと見た。親切な人だ、そう思った。
信じた自分が馬鹿だったと思った。
翌朝、手首に残った帯で縛られた痕を見つめた。
ヒチョルは持っていた箸を盆に置き、粥には然程手を付けていない様子で言った。足を崩して背を逸らして仰け反る格好で座り直すと、首をぐるりと左右に一回ずつ回している。
脈絡の無い質問だったが、文脈と現在自分が置かれた状況そして目の前の相手が居るからこそ、質問の意図は伝わった。
「——はい」
シワンの喉も食べ物は通らなかった。昨日、というか此処に来る前から暫く無かった食に対する欲望はいよいよ消滅したらしい。手元の香の物をかじって、すぐに食べかけを皿に戻してしまう。シワンは俯き、下を向いた目の端で窓の外を見た。硝子の向こうに見えた庭は、夜露を浴びた草木の緑が輝いているように見えた。
「まあそうだろうね。此処の作法も全然分かってないみたいだし、未だ『外の人』っぽいもんね」
着物の襟元を大胆に掴んで扇子で風を送る姿は、はしたない気がした。湿気のある部屋は、少し厚い。
「じゃあ、男は?男を抱いたり抱かれたりしたことはあるでしょ?」
「…………」
「——無いの?」
ヒチョルが素っ頓狂な声を上げた。隣の盆で向かい合わせに食事をとっていた花魁二人が其の声音にびっくりしてヒチョルとシワンを見る。シワンはますます目線を上げられなくなった。
「可哀想に」
可哀想、という言葉が相応しいのだろうか。
自分には其の言葉が似合うのだろうか。
今の自分に向けられる視線のどれにも正解を見付けられない。シワンは幾つかの間に合わせの返事をして、話題が変わるのを待った。
名前を決める時が来た。
主の部屋に一人で来るように、と言われ、シワンは真新しく着慣れない着物を身にまとって髪を結わないまま主の部屋に行った。途中までテホンが世話をしてくれていたが、部屋の手前で其れじゃあ此処でと言う。
シワンは一人、戸を引いて座敷に足を踏み入れた。
部屋に入って来たシワンを見て驚いたのは主の方だった。表情は相変わらず不機嫌で何処か絶望した顔をしていたが、其れですら美しい。周旋屋はかなりの美人だと言っていたが、シワンの前にやって来た者が同じ紹介を受けたものの箸にも棒にも掛からぬ人材であったため、期待はしていなかった。其れなのにやって来た少年は他のどの花魁よりも美しい姿をしていた。其の少年が今、一人の「花魁」になろうとしているのだ。
主は自分の前に座るよう促すと、床に三枚の小さな札を伏せて置いた。木製の札に、名前が書いてあるという。
「一つは花の名、一つは全く新しい名、最後の一つは今の名だ」
主が一つ一つの札を指差して説明した。
——別世界に来てしまった。名前なんて要らない。「シワン」はあの家を出た瞬間に死んだのだ、と思い始めていた。働いて、借金を返せるだけ稼いで、早くあの家に戻ろう。だから此の世界で生きるために、新しい名前が欲しい。
すっと手に取った札には
「椿」
と書いてあった。
「花言葉は冷ややかな美しさ、だ。君にぴったりな花だと思って」
主は名が椿に決まったことを知ると、言った。
シワンは其の花が散る様子のことを思い出す。故郷の道にはところどころ椿の花があって、散る時にぼとりと落ちる花を何度も見たことがある。
斬られた首が地面に落ちたようで、縁起が悪いのだと母が教えてくれた。
「椿や」
名を、呼ばれた。
「明日からいよいよ店に出て貰うよ。とにかく優しい嘘をつき続けるようにするんだ。お酒を飲んで、客に膝をくっつけて座って、話を聞いてやれば良い。そうしたら小遣いが貰える。其の小遣いをどうやって、どれだけ多く早く貰えるかが大事なんだ。早くやれば、早く此処から出られるかもしれない。頑張りなさい」
そう言って主はシワンの顎を持ち上げると、着物の上からシワンの太腿を撫でた。
(——!)
声が出なかった。太腿を何度も執拗に撫でられ、其の手が体に周り尻やふくらはぎを行ったり来たりする。足の指を触られたと思えば、着物の裾から手が入って足の甲を撫でられた。
「椿はうぶだね。もう、行って良いよ。初めての客が、良い人だと良いね」
部屋を出るとテホンが待機していて、名前を尋ねた。
「椿になりました」
そう、短く答える。良い名前だね、と言われた。
シワンは少しのことで熱くなる自分の体に戸惑いを隠せず、先ほど触れられた場所と其の感触を思い出しては顔を熱くさせていた。何故、好きでもない相手に触れられて此の体は反応するのだろう。考えれば考える程おぞましい。
せめて、本当に自分が其のような状況になったときは、意識を早めに失っていられれば良いのに、と思った。
何も考えない、何も感じない体になれれば良いのに、と。
手折られても枯れても、声を出さない花ならば良いのに。
とうとう店へ出ることになる。
シワンがテホンに連れられ通されたのは、おびただしい数の花魁が待ち、それぞれのまとう匂いが立ち籠める部屋だった。
「此処で待っていてください。新入りは、お客さんが来たらまず顔を見せます。氏名の客であれば其の必要は無いです。私がお客さん、と言ったら取り敢えずすぐに出られるよう準備をしてください」
そう言ってテホンが姿を消すと、不安は倍増した。幾ら平気だ、犬に噛まれるようなものだと言い聞かせても「自尊心」が言うことを聞いてくれない。懐に忍ばせていた鏡で自分の顔を確認する。其処には頬に白粉を、唇に紅を塗られた別の自分が居た。他の花魁がひそひそと自分の話をしているのが分かる。新入りで経験の無いような人間に何が出来る、せいぜい恥をかけばいいなどという心ない声が聞こえた。
「お客さん!」
テホンの声がして、シワンは持っていた鏡を落とした。丸い鏡は床を回りながら転がり、ばたんと倒れて止まる。シワンがテホンを見たが、テホンは別の方向を見ていた。
「ミヌ!」
其の声に反応して一人の花魁が立ち上がった。金色の髪を揺らしながら、着物を引き摺ってシワンが居る出入り口の方へ歩いて来た。
ああ良かった、自分ではない、
シワンがそう思った時だった。
「其れから、椿!」
「!」
名前が、呼ばれた。
座敷に通されると、ミヌは馴染みの客の横に撓垂れ掛かった。其のミヌ馴染みの客の真正面に距離を持ってシワンが座ると、酷く粘り気のある目線で全身を見られた。ミヌはとても不機嫌で、シワンを睨み、牽制するような態度を崩さなかった。けれども馴染みの客には甘えるような声と目線を送り、膝と膝をつけて話をしては首に触れたり、腕に触れたりしている。
「君が新入り?」
年齢は然程変わらないだろうか。其の客は若い男だった。
「はい」
「成程」
相手は納得したようにそう言うと、ミヌの顎に手をやり、持ち上げた。
「お前が昨日言ったのが分かる気がする。確かに俺好みだ」
そう言って愛しそうにミヌの髪と耳を撫でる指がやたらにふしだらに見える。男は手に持った酒を一気に飲み干した。
「決めた。ミヌ、お小遣いあげるから今日は上がっていいよ。特に今日は弾んであげる。あんまり連日だと、お前も辛いだろう。明日可愛がって上げるから今日はお上がり」
「!?」
ミヌもシワンも意味が分からない、という顔をした。
「今日は、お上がり」
客は、そう言って部屋の戸を開け外に居た男に何かを言った。
ミヌが退室し二人だけになると男はシワンに自分の傍——先刻までミヌが居た場所に来るように言った。シワンが立ち上がり言われた通りに男の傍へ近付く。すると腕を引かれ、体の平衡感覚が狂わされて、男の膝の上に膝をついて乗るような格好になった。腰を抱き抱えられる。
間近で見て、男もまた美しい顔をしているのだと気付いた。
「君のことを余りにも悪くミヌが言うからね、気になってたんだ」
シワンは体を強張らせた。此れ程迄に人と近付くことなど、未だかつて無かった。
「番頭からも聞いた。今日が初めて店に出る日で、しかも『経験が無い』そうじゃないか。不憫な子も居るもんだとちょっと顔を見て小遣いをあげてすぐに返すつもりだったけど」
男の両腕が、シワンの背と腰に絡まるように纏わりついた。
「気が変わった」
あ、と思った時は既に遅く、相手の高い鼻が自分の鼻にぶつかり、唇に生暖かい感触があった。驚いて其のままで居ると後頭部の髪ごと頭を鷲掴みにされ、口に当たっていた感触が動き出した。其れが接吻であると気付いたときには、歯を舌で突かれていた。
「んうっ……」
シワンは息の仕方が分からず、目を閉じる。すると唇に当たっている其の感覚に意識が集中した。薄らと瞼を持ち上げると、閉じた他人の目が数寸も離れない場所にあった。
「っは」
一瞬唇が離れると、髪と項を撫でられた。
「——此れも初めて?」
質問には答えられず、俯く。経験が無いことも、今其の無い行為をしようとしていることも、何もかもが恥ずかしいものに感じられた。途端に、涙が出た。頬を伝う涙が何筋にもなる。泣き出してしまえば、流すのは容易だった。家族のことを思い出してしまい、更に涙が止まらなくなる。会いたい、と思うと同時に、こんなことになるのが分かっていて売られた身の上を考えると堪らなかった。
「ごめん」
男は泣き出したシワンの頬に指をやり、其の涙を拭うと舌で雫を吸った。
「泣く程嫌だったか」
シワンは頭を撫でられ、体を抱き締められた。背を擦られると、ますます想いは止められなくなってしまう。
「今日は何もしないから一緒に寝よう。此れで君を帰したらきっとミヌの面目も君の面目も潰れる。でも、君が嫌だって言うなら、俺は何もしない」
シワンは初めて其の相手の顔をしっかりと見た。親切な人だ、そう思った。
信じた自分が馬鹿だったと思った。
翌朝、手首に残った帯で縛られた痕を見つめた。
春雨は、髪を肩を濡らして行く。
病院でも警察でも、身に受ける視線は憐れみと嘲笑混じりだった。帰り道、シワンは冷たい雨の中を傘も差さずに歩いた。昨日の夜、シワンの乗った列車の上空を包んでいた雨雲は、其のままシワンを追うように移動して、今も尚大地に降り注ぐ。
「自尊心」
病院と警察を巡る前にテホンが呟いたあの言葉が耳を離れない。
「検査」をした医師のような男にも、警察の男にも、思い出したくもないことを口々に言われた。不躾な手つきで体を触られ、撫で回され、もう行って良いと言われるまで、吐き気と不快感を堪えるのがやっとだった。
テホンはずっとシワンに付き添って居たが、「本当のこと」を告げられずに売られた無垢な魂に、どう接すれば良いのか迷っていた。
「イムさん、いい加減、傘に入ったらどうです。酸の雨は、体に悪いですよ」
「……」
着ているものが肌に貼り付く感触がある。テホンが赤色の番傘を掲げ、自分の隣に来るように手招きをした。けれどシワンは距離を保ったまま、首を横に振った。雨に濡れた子犬が身を震ったときのように、細かい水滴がぱらぱらと散る。
テホンはもう随分と長い間、此の世話役を引き受けていたが、今回の新入りは特に初々しく、穢れを知らなさそうで酷く不憫に思った。聡明そうな瞳は、店に足を踏み入れたときからずっと迷い、戸惑い、落ち着かない。
「でも……」
「いいんです」
シワンは俯く。其の白い項に、春の雨は容赦なく降り注いでいた。
「駄目です」
テホンは見ていられずにシワンの肩を強く掴んで引き寄せた。
「貴方は、うちの店の大事な売り物です」
売り物——
シワンは絶望した。
テホンは優しく見えたが、結局自分の商品としての価値にしか興味が無いのだ、と。店の人間が客に売り渡す「商品」をぞんざいに扱わないのと同じだ。
今傘に自分を招き入れたことも、風邪を引かれて仕事を休まれたら困る、ということなのだ。
ますます口が聞けなくなる。シワンは此れからの生活を思い、押し潰されそうな重苦しい感情を抱えて、歩いた。抱かれた肩が、痛かった。
埃だらけの部屋に戻ると、風呂を使っていいとテホンに言われた。
店の中は座敷と働き手の控え室のような部屋とが完全に分かれ、細い廊下で繋がっている。昼間の意地の悪そうな花魁だけでなく、他の花魁の姿も見なかったのは何故かと尋ねると、昼間は花魁は皆眠っているし、夜は仕事に出ているのだと言われた。
濡れた着物を脱ぎ、テホンから渡された寝間着を持って、教えられた道を通り風呂場を目指す。取り敢えず今の場所に慣れることで精一杯だった。
寧ろ、他のことを考えたくない、と思った。
狭い階段を下り、行灯が所々に置かれた長い廊下を歩く。シワンの足音だけがみしみしと響いた。
コホ…… コホ……
不意に、誰かが咳をする声が響いた。最初は咳払い程度であったのに、徐々に激しくなる。耳を澄ますと、近くの仕切りの反対側から聞こえてきたことが分かり、シワンは思わず其の隙間をそっと開け、中を覗いた。
目に飛び込んで来たのは、行灯の橙色に照らされて浮かび上がる、人間の背中。骨と皮膚。
着物が腰まではだけ、腰の低い位置で何とか下半身を覆っているだけになっている。上半身は低い机に乗り、体の半分は床に倒れて這いつくばっているような格好だった。顔は、見えなかった。
「!」
ゴホッ ゴホッ
激しい咳を繰り返し、白い肌が揺れる其の光景に、シワンは手に持っていた風呂桶を床に置いて仕切りの中に入って行った。
「大丈夫ですか?」
思わず手を伸ばした人の肌はやけに冷たく、思ったよりも薄い皮膚の下の骨が手に当たる。顔を覗き込むと、相手はまた苦しそうな咳をして、薬を、とだけ言って顔を伏せた。シワンが相手の倒れ込んでいる机の上を見ると、錠剤の入った小瓶があった。其れを手に取って渡す。
初めて、相手の顔を見た。
「——ありがとう」
薬を噛み砕くようにして飲んだ其の人物は、呼吸を整えて乱れていた着物を着直すと前見頃を直しながらシワンに言った。
「俺は此処じゃケビンって呼ばれてる。ケビンで良いよ」
言いながら、その人物は肘掛けのある座椅子に座り、頬杖をついた。
「『此処』の生活で分からないことがあったら聞いて」
そう言うと、また短く咳をした。此の人は体が何処か弱いのだろうか。其れこそ、医者に診て貰うべきなのに。シワンは出来るだけ悟られないように、心の中で考えながら、足を崩して立ち上がった。風呂桶を持ち上げると、仕切りのところでもう一度其の花魁——ケビンに向かって頭を下げる。行灯の光がケビンの顔には届かず暗闇に消えそうだったところに声をかけた。
「お大事に」
湯船に浸かると、疲れは一気に出て来た。今日一日で、十歳年を取った気がする。
手ですくった湯が、手の隙間から零れて行く。すくってもすくっても、温くなった湯を留めることは出来なかった。シワンは救った湯で顔をすすいだ。
故郷に残してきた家族のことを思う。
元気だろうか。
今此処に居る自分のことを、思い出してくれるだろうか。
どう思っているのだろう。
顔が見たい。
叶うなら今すぐにでも帰りたい。でも、帰れない。
帰ることは、身を売ったはずの息子が借金も返していないうちに帰郷することを意味していたし、更に多額の借金を父や母や姉が抱えることになる。此処を抜け出しても、結局地獄が待っているだけだ。
此処に来てすぐ聞いた話と、病院での話と警察での話。
あの花魁は
「お客と一緒に一個の布団で寝る」
と言った。
其れが何を意味するかは、幾ら自分でも察しがついている。
未だ、女も知らないのに。まして——
背筋がぞっとした。
舌を噛み切って死ねたとして、故郷の家族に自分の死のつけが回るだけである。
其れで良い、とはどうしても思えなかった。
修羅にはなりたくなかった。
夜中、ばたばたと騒々しい鳥の羽ばたきのような音で何度も目が覚めたから、相変わらずシワンは寝不足のままだった。朝何処に行けば良いのか迷っていると、眠そうな目をした花魁が一人、かろうじて羽織っている程度の着物を引き摺って歩いて来た。
「新入り?何ぼうっと突っ立ってんの。邪魔」
大欠伸をしながら、シワンに呼び掛ける。シワンがじっと其のはだけた肩を見たが、然程気に留める様子もなく、着崩れを直すこともなく、煙管を持った手をぶらぶらと動かしていた。
「あの、朝ご飯は」
「食べるの?」
「あ、はい」
とても腹が減っていた訳でも無かったが、昨日は夕食を断ってしまったため食事の場所を聞いておくのを忘れていた。テホンがいろいろと説明してくれたような気もするが、色々なことがあって、よく耳に入っていなかったのかもしれない。
「——案内してあげる」
掌で目を擦ると、その人物は着いて来い、と身を翻した。
食事の場所に着くと、色々な視線を感じた。初めて、他の——昨日から今日までに会った以上の数の花魁を見た。どれも、色とりどりの着物を着て個性的な髪型をしている。未だ寝間着の者も数えられる程度は居たが、基本的には着物で、広い机に数人ずつで座って粥を食べている。案内してくれた花魁は「ヒチョル」と言うらしく、会う相手会う相手に其の名前で呼ばれていた。
「ミヌは?」
ヒチョルが、其の当たりに居た髪の長い花魁に声をかけた。
「ミヌさんなら、今日は旦那のところですよ。昨日はしゃいでましたから、きっと今日は帰って来んでしょう」
些か幼い表情の彼は、シワンの隣で立っている新入りの花魁に向かって言った。
「何だお楽しみの日だったか。居たら紹介したかった。此処の店一番の花魁だよ」
物言いはつっけんどんだが、根は善人なのかもしれない。勿論其れすらまやかしかもしれないが——とシワンは思う。
「昨日会いました」
「会ったんだ?可愛いでしょ、俺のミヌ」
「——」
あまり、良い印象は無い。というか、寧ろ初対面の印象は良くないものだった。
「そうですね」
朝食は待っていれば気付いた女将が持って来てくれるのだとヒチョルが教えてくれる。其の間、軽く自己紹介をし、此の店の「秩序」を教えてくれた。
ミヌは花魁の中でも最上の階級で、其の下に現在はケビン、ヒチョルが続くのだと言う。ケビンは療養中のため、ヒチョルが実質の二番手だということになる。
「他に働き手は百はくだらないかな。調べたことは無いけど」
病院でも警察でも、身に受ける視線は憐れみと嘲笑混じりだった。帰り道、シワンは冷たい雨の中を傘も差さずに歩いた。昨日の夜、シワンの乗った列車の上空を包んでいた雨雲は、其のままシワンを追うように移動して、今も尚大地に降り注ぐ。
「自尊心」
病院と警察を巡る前にテホンが呟いたあの言葉が耳を離れない。
「検査」をした医師のような男にも、警察の男にも、思い出したくもないことを口々に言われた。不躾な手つきで体を触られ、撫で回され、もう行って良いと言われるまで、吐き気と不快感を堪えるのがやっとだった。
テホンはずっとシワンに付き添って居たが、「本当のこと」を告げられずに売られた無垢な魂に、どう接すれば良いのか迷っていた。
「イムさん、いい加減、傘に入ったらどうです。酸の雨は、体に悪いですよ」
「……」
着ているものが肌に貼り付く感触がある。テホンが赤色の番傘を掲げ、自分の隣に来るように手招きをした。けれどシワンは距離を保ったまま、首を横に振った。雨に濡れた子犬が身を震ったときのように、細かい水滴がぱらぱらと散る。
テホンはもう随分と長い間、此の世話役を引き受けていたが、今回の新入りは特に初々しく、穢れを知らなさそうで酷く不憫に思った。聡明そうな瞳は、店に足を踏み入れたときからずっと迷い、戸惑い、落ち着かない。
「でも……」
「いいんです」
シワンは俯く。其の白い項に、春の雨は容赦なく降り注いでいた。
「駄目です」
テホンは見ていられずにシワンの肩を強く掴んで引き寄せた。
「貴方は、うちの店の大事な売り物です」
売り物——
シワンは絶望した。
テホンは優しく見えたが、結局自分の商品としての価値にしか興味が無いのだ、と。店の人間が客に売り渡す「商品」をぞんざいに扱わないのと同じだ。
今傘に自分を招き入れたことも、風邪を引かれて仕事を休まれたら困る、ということなのだ。
ますます口が聞けなくなる。シワンは此れからの生活を思い、押し潰されそうな重苦しい感情を抱えて、歩いた。抱かれた肩が、痛かった。
埃だらけの部屋に戻ると、風呂を使っていいとテホンに言われた。
店の中は座敷と働き手の控え室のような部屋とが完全に分かれ、細い廊下で繋がっている。昼間の意地の悪そうな花魁だけでなく、他の花魁の姿も見なかったのは何故かと尋ねると、昼間は花魁は皆眠っているし、夜は仕事に出ているのだと言われた。
濡れた着物を脱ぎ、テホンから渡された寝間着を持って、教えられた道を通り風呂場を目指す。取り敢えず今の場所に慣れることで精一杯だった。
寧ろ、他のことを考えたくない、と思った。
狭い階段を下り、行灯が所々に置かれた長い廊下を歩く。シワンの足音だけがみしみしと響いた。
コホ…… コホ……
不意に、誰かが咳をする声が響いた。最初は咳払い程度であったのに、徐々に激しくなる。耳を澄ますと、近くの仕切りの反対側から聞こえてきたことが分かり、シワンは思わず其の隙間をそっと開け、中を覗いた。
目に飛び込んで来たのは、行灯の橙色に照らされて浮かび上がる、人間の背中。骨と皮膚。
着物が腰まではだけ、腰の低い位置で何とか下半身を覆っているだけになっている。上半身は低い机に乗り、体の半分は床に倒れて這いつくばっているような格好だった。顔は、見えなかった。
「!」
ゴホッ ゴホッ
激しい咳を繰り返し、白い肌が揺れる其の光景に、シワンは手に持っていた風呂桶を床に置いて仕切りの中に入って行った。
「大丈夫ですか?」
思わず手を伸ばした人の肌はやけに冷たく、思ったよりも薄い皮膚の下の骨が手に当たる。顔を覗き込むと、相手はまた苦しそうな咳をして、薬を、とだけ言って顔を伏せた。シワンが相手の倒れ込んでいる机の上を見ると、錠剤の入った小瓶があった。其れを手に取って渡す。
初めて、相手の顔を見た。
「——ありがとう」
薬を噛み砕くようにして飲んだ其の人物は、呼吸を整えて乱れていた着物を着直すと前見頃を直しながらシワンに言った。
「俺は此処じゃケビンって呼ばれてる。ケビンで良いよ」
言いながら、その人物は肘掛けのある座椅子に座り、頬杖をついた。
「『此処』の生活で分からないことがあったら聞いて」
そう言うと、また短く咳をした。此の人は体が何処か弱いのだろうか。其れこそ、医者に診て貰うべきなのに。シワンは出来るだけ悟られないように、心の中で考えながら、足を崩して立ち上がった。風呂桶を持ち上げると、仕切りのところでもう一度其の花魁——ケビンに向かって頭を下げる。行灯の光がケビンの顔には届かず暗闇に消えそうだったところに声をかけた。
「お大事に」
湯船に浸かると、疲れは一気に出て来た。今日一日で、十歳年を取った気がする。
手ですくった湯が、手の隙間から零れて行く。すくってもすくっても、温くなった湯を留めることは出来なかった。シワンは救った湯で顔をすすいだ。
故郷に残してきた家族のことを思う。
元気だろうか。
今此処に居る自分のことを、思い出してくれるだろうか。
どう思っているのだろう。
顔が見たい。
叶うなら今すぐにでも帰りたい。でも、帰れない。
帰ることは、身を売ったはずの息子が借金も返していないうちに帰郷することを意味していたし、更に多額の借金を父や母や姉が抱えることになる。此処を抜け出しても、結局地獄が待っているだけだ。
此処に来てすぐ聞いた話と、病院での話と警察での話。
あの花魁は
「お客と一緒に一個の布団で寝る」
と言った。
其れが何を意味するかは、幾ら自分でも察しがついている。
未だ、女も知らないのに。まして——
背筋がぞっとした。
舌を噛み切って死ねたとして、故郷の家族に自分の死のつけが回るだけである。
其れで良い、とはどうしても思えなかった。
修羅にはなりたくなかった。
夜中、ばたばたと騒々しい鳥の羽ばたきのような音で何度も目が覚めたから、相変わらずシワンは寝不足のままだった。朝何処に行けば良いのか迷っていると、眠そうな目をした花魁が一人、かろうじて羽織っている程度の着物を引き摺って歩いて来た。
「新入り?何ぼうっと突っ立ってんの。邪魔」
大欠伸をしながら、シワンに呼び掛ける。シワンがじっと其のはだけた肩を見たが、然程気に留める様子もなく、着崩れを直すこともなく、煙管を持った手をぶらぶらと動かしていた。
「あの、朝ご飯は」
「食べるの?」
「あ、はい」
とても腹が減っていた訳でも無かったが、昨日は夕食を断ってしまったため食事の場所を聞いておくのを忘れていた。テホンがいろいろと説明してくれたような気もするが、色々なことがあって、よく耳に入っていなかったのかもしれない。
「——案内してあげる」
掌で目を擦ると、その人物は着いて来い、と身を翻した。
食事の場所に着くと、色々な視線を感じた。初めて、他の——昨日から今日までに会った以上の数の花魁を見た。どれも、色とりどりの着物を着て個性的な髪型をしている。未だ寝間着の者も数えられる程度は居たが、基本的には着物で、広い机に数人ずつで座って粥を食べている。案内してくれた花魁は「ヒチョル」と言うらしく、会う相手会う相手に其の名前で呼ばれていた。
「ミヌは?」
ヒチョルが、其の当たりに居た髪の長い花魁に声をかけた。
「ミヌさんなら、今日は旦那のところですよ。昨日はしゃいでましたから、きっと今日は帰って来んでしょう」
些か幼い表情の彼は、シワンの隣で立っている新入りの花魁に向かって言った。
「何だお楽しみの日だったか。居たら紹介したかった。此処の店一番の花魁だよ」
物言いはつっけんどんだが、根は善人なのかもしれない。勿論其れすらまやかしかもしれないが——とシワンは思う。
「昨日会いました」
「会ったんだ?可愛いでしょ、俺のミヌ」
「——」
あまり、良い印象は無い。というか、寧ろ初対面の印象は良くないものだった。
「そうですね」
朝食は待っていれば気付いた女将が持って来てくれるのだとヒチョルが教えてくれる。其の間、軽く自己紹介をし、此の店の「秩序」を教えてくれた。
ミヌは花魁の中でも最上の階級で、其の下に現在はケビン、ヒチョルが続くのだと言う。ケビンは療養中のため、ヒチョルが実質の二番手だということになる。
「他に働き手は百はくだらないかな。調べたことは無いけど」
——夜雨が降っている。
列車の窓枠に指先をかけた。
もう随分と長いこと眠った気がしたけれど、古い列車は未だ夜の雨の中を走っていた。取り出した懐中時計は午前一時を指していた。
窓に付着した水滴が横に線を引くように流れ、また新しい水滴と混じり合う。シワンはぼんやりとその様子を目で追った。
——眠れない。
星の無い空があるばかりだった。
浅い眠りを繰り返して目的の駅で降りると、道路に車を停めて一人の男が立っていた。声をかけようか一瞬迷い遠巻きに様子を窺っていると、両手に荷物を抱えたシワンに気付いた其の相手と目があった。
「あ」
シワンよりも先に、相手が歩み寄って来た。
「イムさん?」
名前を呼ばれ、相手が待合せの相手だと悟る。
「はい」
「案内します」
男はシワンの両手から旅行用の支度を詰めた鞄を取り上げると、車の中に乗るよう促した。シワンは助手席の扉を開けて乗り込んだ。荷物重いですね、何が入ってるんですか、と一言だけ言って其れを荷台に詰める。運転席のドアを閉めると、男は助手席へ向いて、シワンと目を合わせた。
「自己紹介が遅れました。テホンです。キム・テホン」
男の手が差し出された。
「シワンです。イム・シワン」
「よろしく」
男らしく角張った手に、細い手首から伸びた掌が重なる。テホンと名乗った男は一見寡黙に見えたが穏やかさがあって、シワンは少し移動の疲れが癒された。
「まず店に行ったら主に挨拶しましょう。顔を見るのは初めてですよね?」
「はい」
二人を乗せた車は、街の中を走って行く。シワンは初めて見た街の風景に驚いた。故郷とは違う、建物が所狭しと立ち並び、大勢の人々が行き交う。腕を組み、男に媚びを売るように胸を押し付けて凭れ掛かる女を見て、シワンは目を逸らした。
「挨拶が終わったら、部屋に案内します。其の後は、病院と警察に行って今日は終わりでしょう」
シワンは耳を疑った
「病院と警察……?」
「働く前には色々必要なんですよ」
何でだ?と思ったけれど、テホンの笑みに疑問が聞き出せなくなって、黙る。
赤い提灯が無数に吊り下げられた店の前で車は停止した。テホンがシワンの席のドアを開け、降りるように誘導する。荷物を両手に持って石で作られた階段を上がって行った。引き戸をがらがらと開けた瞬間、独特な、何とも言えない香の匂いがした。
「御主人!新しい人を連れて来ましたよ!」
テホンが入口から一歩足を踏み入れた玄関で、店の中に向かって叫ぶ。
すると奥から黒の毛皮の付いた黒い着物を着た男が出て来た。
「御苦労様」
半月型の目を細め、主人と呼ばれた男はテホンに笑いかけて白い歯を見せた。そして、シワンの姿を見、——固まった。
「あ…」
顔を強張らせて固まった相手を見て、シワンは首を傾げた。何だろう、第一印象が良くないのだろうか、初対面で此れから働く場所なのに、会って早々に嫌われたのだろうか。帰ってくれなどと言われるのだろうか。
シワンもまた全身を強張らせていると、素っ頓狂な声が響いた。
「びっ……くりした!めちゃくちゃ可愛いじゃないか!凄い上玉だ。あんな田舎からどんな不細工連れて来るのかって全然期待してなかったけど、此れは美人だねえ」
男はシワンの傍に寄り、まずしげしげと其の顔を見た。不躾な物言いと視線で、随分失礼な印象があったが、シワンはぐっと堪える。頬を触られ、体を執拗に布越しに触られた。腿のあたりを撫でていた手が、一瞬有り得ない場所に触れて、シワンは目を見開いた。
「あはは、反応も初々しいね。これはいっぱい客取れるよ。ずっと初々しかったら、の話だけど……まあ、其処らへんは上手くやってよね」
触れていた手が離れ、主が体を翻す。シワンは鼓動が無駄に早くなったのを、不愉快に感じながらも、精一杯の造り笑顔で尋ねた。
「あの……お客さんには、何を……」
其の言葉を聞いた瞬間、テホンも主もはあ、という顔をした。
「知らないの?」
「え、本当に知らなかったんですか?」
やや責める言い方で二人から逆に質問されると、シワンはたじろいだ。
「——お客と一緒に一個の布団で寝るだけの簡単な仕事だよ」
声のした方向を向くと、豪華な着物が見えた。其の着物の襟から伸びた細い首と、外で吹く風になびく金色の糸のような髪をシワンは見た。
「そんなことも知らずに此処に来たの?おちびさん」
金箔の装飾のある紙が貼られた扇子を広げ、其の人物は口元を隠していた。細く、きつい印象の目が前髪と扇子の間から覗いていた。
「ミヌ!口は慎みなよね」
「は?本当のこと言っただけでしょ」
シワンと同じ位細い指が、扇子を折り畳む。にっこりと笑った笑顔は柔らかいが、先ほどの声音と一瞬覗いた瞳は、シワンを射抜くかのように冷徹なものだった。
扇子を端から閉じて行く。細く折り畳んだ其れを摘むように持つと、その金色の髪の持ち主はシワンの傍に近寄った。布が地面を引き摺られる音がした。扇子の端でシワンの顎をくい、と持ち上げる。
目と、目が合った。
「……」
沈黙。
「……ふうん」
一言だけ、息を吐くような言葉にもならないことを言って其の人物はシワンの顎を持ち上げていた扇子を離した。
「軒先でこんなことやられちゃ迷惑さ」
そう言うと、艶やかな着物を引き摺って其の人物は店の中へと消えて行った。擦れ違い様にシワンの足を着物の裾で隠した足で踏んで行く。痛みが走ったけれど、シワンは其れを顔には出さなかった——出せなかった。
其の着物が、誰よりも上質のものであることが一目で分かったから。あの目が、見たことのない色をしていたから。主である人物の前でも物怖じをしないあの態度は——
「花魁……ですか?」
ミヌ、と呼ばれたその人物が居なくなったのを確認して、シワンは尋ねた。
「そう。花魁を見たのも初めて?」
「はい」
「そうか。うちの一番の稼ぎ頭だよ」
シワンは踏まれた足の痛みが今更戻って来て、ほんの少し顔をしかめる。そして、何よりミヌが現れてすぐに言った言葉が気になった。
(——話が違う!)
「君にもああなって貰うさ。何、すぐだよ。すぐ。何なら俺が教えてあげても良いよ?今晩俺の部屋に……」
「御主人!」
主が口を滑らせたことを牽制するようにテホンの声が響いた。主は楽しみを削がれた顔をした。
「取り敢えず、彼を部屋に案内します。此の格好じゃ、出せませんから」
「宜しく頼むよ。『色々』教えてあげて」
「はい」
二人のやりとりを、まるで他人事のように見ていた。
部屋、と通されたのは屋根裏部屋の埃だらけの空間だった。新しく店に入った人間はいつも此処を使うのだと言う。此処に来る途中、何人か同僚のような人間を見た。
「あとで、皆に紹介します。取り敢えずまずは写真を撮りましょう。其れから病院、行けたら警察。今日は店の中の様子を見るくらいにしますか?」
テホンは淡々と話した。まるでからくり人形のような話し方だな、と思う。淡々とし過ぎていて、全ての感情が無いようにも見える。シワンは妙な違和感を感じていた。
「あの」
「はい」
「混乱してます。此の店の手伝いって、まさか」
「……言いたくないのですが」
『此処に足を踏み入れたら、自尊心は全て捨てなければなりません』
其のとき、シワンは置かれた状況を理解した。
自分が、家族の借金返済のために売られたことを。
そして、「自分」を売りものにしなければならないことを。
列車の窓枠に指先をかけた。
もう随分と長いこと眠った気がしたけれど、古い列車は未だ夜の雨の中を走っていた。取り出した懐中時計は午前一時を指していた。
窓に付着した水滴が横に線を引くように流れ、また新しい水滴と混じり合う。シワンはぼんやりとその様子を目で追った。
——眠れない。
星の無い空があるばかりだった。
浅い眠りを繰り返して目的の駅で降りると、道路に車を停めて一人の男が立っていた。声をかけようか一瞬迷い遠巻きに様子を窺っていると、両手に荷物を抱えたシワンに気付いた其の相手と目があった。
「あ」
シワンよりも先に、相手が歩み寄って来た。
「イムさん?」
名前を呼ばれ、相手が待合せの相手だと悟る。
「はい」
「案内します」
男はシワンの両手から旅行用の支度を詰めた鞄を取り上げると、車の中に乗るよう促した。シワンは助手席の扉を開けて乗り込んだ。荷物重いですね、何が入ってるんですか、と一言だけ言って其れを荷台に詰める。運転席のドアを閉めると、男は助手席へ向いて、シワンと目を合わせた。
「自己紹介が遅れました。テホンです。キム・テホン」
男の手が差し出された。
「シワンです。イム・シワン」
「よろしく」
男らしく角張った手に、細い手首から伸びた掌が重なる。テホンと名乗った男は一見寡黙に見えたが穏やかさがあって、シワンは少し移動の疲れが癒された。
「まず店に行ったら主に挨拶しましょう。顔を見るのは初めてですよね?」
「はい」
二人を乗せた車は、街の中を走って行く。シワンは初めて見た街の風景に驚いた。故郷とは違う、建物が所狭しと立ち並び、大勢の人々が行き交う。腕を組み、男に媚びを売るように胸を押し付けて凭れ掛かる女を見て、シワンは目を逸らした。
「挨拶が終わったら、部屋に案内します。其の後は、病院と警察に行って今日は終わりでしょう」
シワンは耳を疑った
「病院と警察……?」
「働く前には色々必要なんですよ」
何でだ?と思ったけれど、テホンの笑みに疑問が聞き出せなくなって、黙る。
赤い提灯が無数に吊り下げられた店の前で車は停止した。テホンがシワンの席のドアを開け、降りるように誘導する。荷物を両手に持って石で作られた階段を上がって行った。引き戸をがらがらと開けた瞬間、独特な、何とも言えない香の匂いがした。
「御主人!新しい人を連れて来ましたよ!」
テホンが入口から一歩足を踏み入れた玄関で、店の中に向かって叫ぶ。
すると奥から黒の毛皮の付いた黒い着物を着た男が出て来た。
「御苦労様」
半月型の目を細め、主人と呼ばれた男はテホンに笑いかけて白い歯を見せた。そして、シワンの姿を見、——固まった。
「あ…」
顔を強張らせて固まった相手を見て、シワンは首を傾げた。何だろう、第一印象が良くないのだろうか、初対面で此れから働く場所なのに、会って早々に嫌われたのだろうか。帰ってくれなどと言われるのだろうか。
シワンもまた全身を強張らせていると、素っ頓狂な声が響いた。
「びっ……くりした!めちゃくちゃ可愛いじゃないか!凄い上玉だ。あんな田舎からどんな不細工連れて来るのかって全然期待してなかったけど、此れは美人だねえ」
男はシワンの傍に寄り、まずしげしげと其の顔を見た。不躾な物言いと視線で、随分失礼な印象があったが、シワンはぐっと堪える。頬を触られ、体を執拗に布越しに触られた。腿のあたりを撫でていた手が、一瞬有り得ない場所に触れて、シワンは目を見開いた。
「あはは、反応も初々しいね。これはいっぱい客取れるよ。ずっと初々しかったら、の話だけど……まあ、其処らへんは上手くやってよね」
触れていた手が離れ、主が体を翻す。シワンは鼓動が無駄に早くなったのを、不愉快に感じながらも、精一杯の造り笑顔で尋ねた。
「あの……お客さんには、何を……」
其の言葉を聞いた瞬間、テホンも主もはあ、という顔をした。
「知らないの?」
「え、本当に知らなかったんですか?」
やや責める言い方で二人から逆に質問されると、シワンはたじろいだ。
「——お客と一緒に一個の布団で寝るだけの簡単な仕事だよ」
声のした方向を向くと、豪華な着物が見えた。其の着物の襟から伸びた細い首と、外で吹く風になびく金色の糸のような髪をシワンは見た。
「そんなことも知らずに此処に来たの?おちびさん」
金箔の装飾のある紙が貼られた扇子を広げ、其の人物は口元を隠していた。細く、きつい印象の目が前髪と扇子の間から覗いていた。
「ミヌ!口は慎みなよね」
「は?本当のこと言っただけでしょ」
シワンと同じ位細い指が、扇子を折り畳む。にっこりと笑った笑顔は柔らかいが、先ほどの声音と一瞬覗いた瞳は、シワンを射抜くかのように冷徹なものだった。
扇子を端から閉じて行く。細く折り畳んだ其れを摘むように持つと、その金色の髪の持ち主はシワンの傍に近寄った。布が地面を引き摺られる音がした。扇子の端でシワンの顎をくい、と持ち上げる。
目と、目が合った。
「……」
沈黙。
「……ふうん」
一言だけ、息を吐くような言葉にもならないことを言って其の人物はシワンの顎を持ち上げていた扇子を離した。
「軒先でこんなことやられちゃ迷惑さ」
そう言うと、艶やかな着物を引き摺って其の人物は店の中へと消えて行った。擦れ違い様にシワンの足を着物の裾で隠した足で踏んで行く。痛みが走ったけれど、シワンは其れを顔には出さなかった——出せなかった。
其の着物が、誰よりも上質のものであることが一目で分かったから。あの目が、見たことのない色をしていたから。主である人物の前でも物怖じをしないあの態度は——
「花魁……ですか?」
ミヌ、と呼ばれたその人物が居なくなったのを確認して、シワンは尋ねた。
「そう。花魁を見たのも初めて?」
「はい」
「そうか。うちの一番の稼ぎ頭だよ」
シワンは踏まれた足の痛みが今更戻って来て、ほんの少し顔をしかめる。そして、何よりミヌが現れてすぐに言った言葉が気になった。
(——話が違う!)
「君にもああなって貰うさ。何、すぐだよ。すぐ。何なら俺が教えてあげても良いよ?今晩俺の部屋に……」
「御主人!」
主が口を滑らせたことを牽制するようにテホンの声が響いた。主は楽しみを削がれた顔をした。
「取り敢えず、彼を部屋に案内します。此の格好じゃ、出せませんから」
「宜しく頼むよ。『色々』教えてあげて」
「はい」
二人のやりとりを、まるで他人事のように見ていた。
部屋、と通されたのは屋根裏部屋の埃だらけの空間だった。新しく店に入った人間はいつも此処を使うのだと言う。此処に来る途中、何人か同僚のような人間を見た。
「あとで、皆に紹介します。取り敢えずまずは写真を撮りましょう。其れから病院、行けたら警察。今日は店の中の様子を見るくらいにしますか?」
テホンは淡々と話した。まるでからくり人形のような話し方だな、と思う。淡々とし過ぎていて、全ての感情が無いようにも見える。シワンは妙な違和感を感じていた。
「あの」
「はい」
「混乱してます。此の店の手伝いって、まさか」
「……言いたくないのですが」
『此処に足を踏み入れたら、自尊心は全て捨てなければなりません』
其のとき、シワンは置かれた状況を理解した。
自分が、家族の借金返済のために売られたことを。
そして、「自分」を売りものにしなければならないことを。
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
「もうちょっとで完全犯罪だったんだけどなあ」
ヒチョルは引き金を向けられた格好で、左右の掌をドンジュンに見せるように開き、高く上げた。
「今の状況だと逃げられないかな?」
降参のポーズを見せているのに、太々しい態度でヒチョルは言った。
「何が『かな?』だよふざんけんな。お前の所為で、あの子は……あの子は!」
元の意識を取り戻したドンジュンだったが、激昂した様子で喚き、銃を構えたまま頭を何度も振っていた。ジュニョンが心配して顔を見やる。其の頬には、怒りと憎しみに彩られた赤みが差していた。
「君たちに教えてあげるよ、此の国の秘密」
「国……?」
ジュニョンは首を捻る。ドンジュンは変わらずに銃を構えていた。ヒチョルは手を掲げたまま、三人との距離を縮めるように一歩一歩歩きながら言葉を繋ぐ。
「そう。俺が何で生きて、何の為に生かされているのか……」
ドンッ
一瞬銃声が響き、次の瞬間ヒチョルの胸と口から、血が噴き出した。
「え?」
歩いていた筈のヒチョルの体は左右に大きく揺れ、其のまま前屈みになって、膝を地面について倒れ、横倒しになった。口元を押さえた手は血にまみれ、もう片方で胸にあてた手からも血が止めどなく溢れていた。
ジュニョン、ミヌ、ドンジュンの三人は自分達の背後を振り返った。
「お喋りが過ぎるな」
立っていた老紳士は、胸ポケットから取り出した白いハンカチで銃口を拭いながら言った。其の顔は、老いて尚、ミヌと同じように頬袋のふっくらとした顔で、能面のように表情が無かった。
「ミヌ。お前もお前だ。全く、お前は誰の味方だ?」
「……」
立っていた男——ハ法務大臣、ミヌの祖父に当たる人物——は、大げさに溜め息をつき、口元だけを歪ませてミヌに向かって笑みを向けた。目が笑っていないなとジュニョンは思う。
「先輩……?」
急な出来事にドンジュンは銃を下ろし、ミヌの顔を見たが、其れから地面に倒れてもがいているヒチョルへ駆け寄った。
「俺は誰の味方でもないです」
ミヌは、はっきりとした口調で行った。
「特に、あんたの味方にだけはなりたくない。俺はあんたの思い通りになるように協力はしたけど、あんたの味方じゃない」
「どういうことだ?」
「絶望してほしかったんですよ。俺が二年前絶望したみたいに、復讐して、あんたが絶望すればいいのにって思ってたんです」
「——今が其の復讐だと?」
「そうです」
大臣は、ふ、と笑った。また銃声が響き、今度はミヌと会話をしていた大臣の太腿から血が吹き出した。
「!」
地面に這いつくばっていたヒチョルが、銃を構えている。口から血を流し、息も絶え絶えになりながら、其の引き金はしっかりと握られていた。
「未だ生きていたか。しつこい奴だ」
「ふん、この…子達には……手ぇ……出さない約束だっ…たでしょ……」
満足げに笑い、ヒチョルは地面に仰向けになって空を見た。
「ドンジュン!そいつ、取り敢えず止血措置しろ、口をきける状態なら何でもいいけど、殺すなよ」
ミヌは大臣に顔を向けたまま、ドンジュンに向けた言葉を発した。そして視線だけを動かし、大臣の脚から流れる血を見た。血は地面に染みを作り、大地を赤黒くさせていた。
「痛いですか」
「ああ、痛くないことはないな」
「……其れが痛みです」
「不思議だな。お前からは物凄い殺気を感じるが、お前は一ミリも俺を殺そうとしていない。あいつらとは違って銃すら構えていないじゃないか」
「俺は、自分の手は汚しません」
ミヌはそう言って胸元からスマートフォンを取り出した。
「?」
大臣の目が、自然と其の携帯端末に向く。ミヌは液晶画面を見せながら言った。
「このアプリ……」
細い指が、画面の中央にあるアイコンを指差す。
「エミュレータになっていて、起動させたら、サーバーにアクセス出来るようになってるんです」
「生憎、パソコンのことは詳しくなくてね」
大臣は首をひねった。何の話が始まると言うのだ。
「前にあんたに言われてサーバーのデータを全消去したのも、改竄したのも、全部此処からです。此れを使えば、誰のことも居なかったことに出来るし、犯人を全く違う人物として扱うことも出来る」
「だから何だ!結論を言え」
「さよなら」
最後に大臣が見たのは、ミヌの悲哀の表情と、彼の指が小さな画面を押すところだった。
==================
ジュニョンの車にどう乗るかで一悶着があり、社内は殺伐とした空気のままだった。結局、運転するジュニョンは右ハンドルなので右側、其の左隣の助手席にドンジュン、左後ろにミヌ、右後ろにヒチョルが座った。
「……警察ってさ、こんなかっこいい車乗ってて良い訳?」
窓の外を眺めながら、手首に手錠をかけられたヒチョルが言った。
「うるせえ黙れ。止血した布全部剥ぐぞ」
ドンジュンは不愉快さを露にして、助手席から後部座席を振り返り、ヒチョルに向かって言う。
「おい、ちょっとは静かにしてくれよ。運転ミスったら全員死ぬぞ」
ジュニョンがハンドルを握ったまま、言った。
ミヌはずっと流れて行く景色を見ていた。車は、緑が鮮やかになってきた春の山々を越えて行く。
「君も変だよね。前に会った時も、ちょっと変わってるなって思ってた。結構俺と合うと思わない?」
少し眠たそうな目が、ミヌを見ていた。
「思わない」
「ねえ、刑事って皆馬鹿だねえ。誰かのことに必死になって、職務忘れたり、職権濫用したり」
ヒチョルの声が、しんとした車内に響いた。
「大義名分って言うの?がんじがらめになってさ。偽善ぽくて、好き。あんたのことも好きだよ。ジュニョンさん」
ヒチョルは体を前に屈め、ジュニョンの座っている椅子の背もたれの部分に顎を乗せ、其の耳元の傍で囁いた。
「其れは……迷惑だな」
「ふられちゃった。そう言えばシワンは元気?」
其の名前かよ。ジュニョンは思った。そして、自分の背後に居る相手が、改めて前に死刑になった筈の人物と同一人物なのだと言葉尻だけで確信した。
「…………」
ジュニョンが上手く言葉を繋げずに黙った所為で、また車内が静かになる。
「元気だよ。お前の心配なんかいらないくらい」
ミヌが冷たく言った。
手の鳴る方へ
「もうちょっとで完全犯罪だったんだけどなあ」
ヒチョルは引き金を向けられた格好で、左右の掌をドンジュンに見せるように開き、高く上げた。
「今の状況だと逃げられないかな?」
降参のポーズを見せているのに、太々しい態度でヒチョルは言った。
「何が『かな?』だよふざんけんな。お前の所為で、あの子は……あの子は!」
元の意識を取り戻したドンジュンだったが、激昂した様子で喚き、銃を構えたまま頭を何度も振っていた。ジュニョンが心配して顔を見やる。其の頬には、怒りと憎しみに彩られた赤みが差していた。
「君たちに教えてあげるよ、此の国の秘密」
「国……?」
ジュニョンは首を捻る。ドンジュンは変わらずに銃を構えていた。ヒチョルは手を掲げたまま、三人との距離を縮めるように一歩一歩歩きながら言葉を繋ぐ。
「そう。俺が何で生きて、何の為に生かされているのか……」
ドンッ
一瞬銃声が響き、次の瞬間ヒチョルの胸と口から、血が噴き出した。
「え?」
歩いていた筈のヒチョルの体は左右に大きく揺れ、其のまま前屈みになって、膝を地面について倒れ、横倒しになった。口元を押さえた手は血にまみれ、もう片方で胸にあてた手からも血が止めどなく溢れていた。
ジュニョン、ミヌ、ドンジュンの三人は自分達の背後を振り返った。
「お喋りが過ぎるな」
立っていた老紳士は、胸ポケットから取り出した白いハンカチで銃口を拭いながら言った。其の顔は、老いて尚、ミヌと同じように頬袋のふっくらとした顔で、能面のように表情が無かった。
「ミヌ。お前もお前だ。全く、お前は誰の味方だ?」
「……」
立っていた男——ハ法務大臣、ミヌの祖父に当たる人物——は、大げさに溜め息をつき、口元だけを歪ませてミヌに向かって笑みを向けた。目が笑っていないなとジュニョンは思う。
「先輩……?」
急な出来事にドンジュンは銃を下ろし、ミヌの顔を見たが、其れから地面に倒れてもがいているヒチョルへ駆け寄った。
「俺は誰の味方でもないです」
ミヌは、はっきりとした口調で行った。
「特に、あんたの味方にだけはなりたくない。俺はあんたの思い通りになるように協力はしたけど、あんたの味方じゃない」
「どういうことだ?」
「絶望してほしかったんですよ。俺が二年前絶望したみたいに、復讐して、あんたが絶望すればいいのにって思ってたんです」
「——今が其の復讐だと?」
「そうです」
大臣は、ふ、と笑った。また銃声が響き、今度はミヌと会話をしていた大臣の太腿から血が吹き出した。
「!」
地面に這いつくばっていたヒチョルが、銃を構えている。口から血を流し、息も絶え絶えになりながら、其の引き金はしっかりと握られていた。
「未だ生きていたか。しつこい奴だ」
「ふん、この…子達には……手ぇ……出さない約束だっ…たでしょ……」
満足げに笑い、ヒチョルは地面に仰向けになって空を見た。
「ドンジュン!そいつ、取り敢えず止血措置しろ、口をきける状態なら何でもいいけど、殺すなよ」
ミヌは大臣に顔を向けたまま、ドンジュンに向けた言葉を発した。そして視線だけを動かし、大臣の脚から流れる血を見た。血は地面に染みを作り、大地を赤黒くさせていた。
「痛いですか」
「ああ、痛くないことはないな」
「……其れが痛みです」
「不思議だな。お前からは物凄い殺気を感じるが、お前は一ミリも俺を殺そうとしていない。あいつらとは違って銃すら構えていないじゃないか」
「俺は、自分の手は汚しません」
ミヌはそう言って胸元からスマートフォンを取り出した。
「?」
大臣の目が、自然と其の携帯端末に向く。ミヌは液晶画面を見せながら言った。
「このアプリ……」
細い指が、画面の中央にあるアイコンを指差す。
「エミュレータになっていて、起動させたら、サーバーにアクセス出来るようになってるんです」
「生憎、パソコンのことは詳しくなくてね」
大臣は首をひねった。何の話が始まると言うのだ。
「前にあんたに言われてサーバーのデータを全消去したのも、改竄したのも、全部此処からです。此れを使えば、誰のことも居なかったことに出来るし、犯人を全く違う人物として扱うことも出来る」
「だから何だ!結論を言え」
「さよなら」
最後に大臣が見たのは、ミヌの悲哀の表情と、彼の指が小さな画面を押すところだった。
==================
ジュニョンの車にどう乗るかで一悶着があり、社内は殺伐とした空気のままだった。結局、運転するジュニョンは右ハンドルなので右側、其の左隣の助手席にドンジュン、左後ろにミヌ、右後ろにヒチョルが座った。
「……警察ってさ、こんなかっこいい車乗ってて良い訳?」
窓の外を眺めながら、手首に手錠をかけられたヒチョルが言った。
「うるせえ黙れ。止血した布全部剥ぐぞ」
ドンジュンは不愉快さを露にして、助手席から後部座席を振り返り、ヒチョルに向かって言う。
「おい、ちょっとは静かにしてくれよ。運転ミスったら全員死ぬぞ」
ジュニョンがハンドルを握ったまま、言った。
ミヌはずっと流れて行く景色を見ていた。車は、緑が鮮やかになってきた春の山々を越えて行く。
「君も変だよね。前に会った時も、ちょっと変わってるなって思ってた。結構俺と合うと思わない?」
少し眠たそうな目が、ミヌを見ていた。
「思わない」
「ねえ、刑事って皆馬鹿だねえ。誰かのことに必死になって、職務忘れたり、職権濫用したり」
ヒチョルの声が、しんとした車内に響いた。
「大義名分って言うの?がんじがらめになってさ。偽善ぽくて、好き。あんたのことも好きだよ。ジュニョンさん」
ヒチョルは体を前に屈め、ジュニョンの座っている椅子の背もたれの部分に顎を乗せ、其の耳元の傍で囁いた。
「其れは……迷惑だな」
「ふられちゃった。そう言えばシワンは元気?」
其の名前かよ。ジュニョンは思った。そして、自分の背後に居る相手が、改めて前に死刑になった筈の人物と同一人物なのだと言葉尻だけで確信した。
「…………」
ジュニョンが上手く言葉を繋げずに黙った所為で、また車内が静かになる。
「元気だよ。お前の心配なんかいらないくらい」
ミヌが冷たく言った。
火災報知器の警告音が鳴り響いている。
乙女が、スカートを爆風になびかせながら、ブーツの踵を鳴らして歩く。
「くそ、此の服動きにくいな……」
一応のカモフラージュのためとは言え、させられた女装は動きにくい。下に防弾服を来ているから別に脱いでも良いのだが、脱ぐ時間すら惜しく其の為に下手に隙を作りたくなかった。
"侵入者有り。精舎3階に居る模様"
コンピュータの機械的な女性の声がした。基本的な検知システム程度は供えているのだろう、とドンジュンが思った瞬間だった。
ガツンッ
ドンジュンの腹に、衝撃が加わった感覚があった。防弾服を着込んでいたため其の衝撃はかなり軽減されていたが、もし薄着であれば確実に内臓が破壊されていただろう、と思うほどの。
ドンジュンの体が弾かれたが、何とか足を踏ん張って倒れないようにする。
「もう、何てことしてくれるんだよ——君」
顔を上げると、目の前にクァンヒが鉄パイプを持って立っていたのに気付いた。
ヒュッ
振り掲げられた其れをドンジュンはぎりぎりの場所でよけたが、パイプが壁に当たり、既に脆くなっていた壁が崩れた。壁に当たって一瞬間が出来たことで、ドンジュンはクァンヒとの距離がほぼ数十センチになっていたところを後ずさって取った。
「全く、何か見覚えのある顔だと思ってたけど、あのときの子だよね?」
抑揚の無い、クァンヒの声が響く。シャツの袖口から伸びた細い右手首と、其の手に握られたパイプが地面を引き摺られているのがドンジュンの目に入った。
「全然入信する気は無いんでしょ?」
「当たり前だね」
ふっとクァンヒが笑う。二人の目が合った。
「どけよ。邪魔」
ドンジュンはスカートの中に手を突っ込み、足に仕込んでいた小銃を取り出して突きつけた。対峙すると、改めて目の前の相手——クァンヒが危険な男だと感じる。
「駄目だよ。部外者は本来立入禁止なんだから」
クァンヒが指を鳴らすと、ざわつく人の気配を感じた。今まで思念でしか感じなかった人間の気配。振り返ると、ドンジュンが突き進んで来た筈の背後に、大勢の人間が居た。皆顔が青白く、目はクァンヒだけを見つめている。武器になるような物は所持していないが、ざっと確認しただけでも50人はくだらないように見えた。
「!」
「ふふ、会いたいって言ってたから皆来てくれたよ」
クァンヒはあははと笑った。甲高い声だった。
「——ふうん、これだけ?もっと居ないの?」
ドンジュンはそう呟き、爆弾を一つ投げた。
==================
逃げる。
追う。
逃げる。
追う。
どちらが逃げているのか、追っているのか分からなくなる。
ドンジュンは敷地内を走った。後ろから何人もの人間が着いてくることを知っていながら、其れらを引き付けられるように走った。野外の位置関係は、事前の航空写真での照合を頭に入れていたことと、先ほどクァンヒからの丁寧な説明を受けた御蔭で大体把握が出来ていた。
「係長!」
ドンジュンはインカムに向かって話しかけた。少し間が有り、ジュニョンが応答する。
「解除キーを言って」
==================
モニターを眺めていた瞳が、動いた。
「へえ……こんなことも出来るんだ。面白い子」
冷徹な瞳は、楽しそうに細められる。
部屋の中に設けられた大画面には、侵入者の少女がざっと100人は集まったであろう信者を相手に一人一人叩きのめしていく。彼女の目は信者一人一人を区別せず、ただ怒りと憎しみに任せて相手を潰しにかかっていた。
「ま、動きは完全に男だね。もうちょっと色気があると楽しいのに……ねえ、大臣?」
携帯電話を耳に押し当て、電話口の相手に向かって言った。
「やっぱり彼らは面白いね。せいぜい生かしてあげなよ。あんたに牙を向くと怖そうな子も居るみたいだしね?」
「……お前こそ私の掌の上だということを忘れるなよ」
「忘れてないよ。"全ては此の国のために"でしょ?」
「そうだ」
「ふふ、じゃね、切るよ」
電話を切る。
其の男——チョン・ヒチョルは口の端を上げた。
==================
施設の門の傍で、守衛の男が倒れていた。
「此れじゃどっちが犯罪者か分からないですね……」
車から降りたミヌは施設の敷地内に足を踏み入れ、ジュニョンに向かって言った。
「良いのさ。『勝てば官軍』って言うだろ」
「だめ係長め……」
「ん?何か言った?」
「いえ何も」
警報音が鳴りっぱなしの空間。青空に、不似合いな真っ黒い煙が上がって行っている。ジュニョンとミヌは少し離れた場所から、其の煙を立ち上らせている金色に塗られた建物を見た。
其のときだった。
「あ!」
ジュニョンが声を上げると、ミヌも同じ方向を見て驚いた。地面に、長い髪の少女が立っていた。
「ドンジュン!」
ジュニョンが呼び掛けると、少女——の格好をしたドンジュンが、あっと言う間に離れて居た距離を縮め、ジュニョンに掴みかかった。
ドスッ
「!?」
ミヌが其のスピードに違和感を感じながらも動きを追えずに居た。ジュニョンはドンジュンの右腕からの殴打を避けきれず、左頬を殴られた。肉の殴られる、嫌な音が、晴れた空の下に響く。ドンジュンの服から妙な匂いがした。
「ヒョン!」
慌てて止めに入ろうとすると、普段のドンジュンではない顔だった。
「ミヌ!良い、離れてろ」
「え?」
「良いから離れろ!」
そう言うとジュニョンはドンジュンの足を本気で蹴り倒し、地面に体を倒させると、ドンジュンの体の上に馬乗りになる。地面に背を押し付けられたドンジュンが尚もジュニョンに掴みかかろうとすると、ジュニョンが頭を押さえ付け、掴みかかる手を無視してドンジュンの鳩尾を一発殴った。
「うッ……」
ドンジュンが、呻く。しかし更に目を見開いて歯を食いしばり、押さえ付けられていた脚を無理矢理動かしてジュニョンの背を蹴り返した。
「ッ!」
ひらり、と此の状況に不釣り合いなほど穏やかに、ドンジュンの履いていた柔らかい臙脂色のスカートが風に舞う。ジュニョンは蹴られた痛みで顔を歪め、ドンジュンに跨がっていた格好から地面に崩れた。其の隙にドンジュンは立ち上がり、ジュニョンの横顔を蹴る。相手が倒れようと何だろうと、迫って来るのはドンジュンの方だった。
「の野郎……手加減無しかよ」
ジュニョンはそう呟きスーツの裾を払いながら、ドンジュンの方を向いた。
「目ぇ覚ませ馬鹿!」
立ち上がり、其の頭部を持っていた銃で思い切り殴る。
「……ヒョン、大丈夫?」
地面に伸びたドンジュンを放って、ミヌは慌てた様子でジュニョンに駆け寄った。其の顔が普段のポーカーフェイスや皮肉を言う顔とは違っていて、ジュニョンは少し笑った。
「大丈夫」
「……何、あれ」
「あーお前は見たの初めてか」
「だから何なのあれ」
ふ、とジュニョンが笑うと口の端が先ほど殴られた所為で切れており、口の中に血の味が広がったことに気付いた。其れを手で拭いながら、ミヌに言葉を返す。
「こいつもちょっと訳ありでね」
地面で気を失っているドンジュンの体を起こすと、肩に担いでいく。意思の無い人間の体は重く、ミヌも其れを横から支えた。
「『前科』ってやつ?」
「そ。また話すよ。……さて、どうすっかなあ」
二人がドンジュンの体を支え、車へ戻ろうとすると、遠くに人影が見えた。
「久しぶり。特別捜査係の皆さん」
何時の間にか警報音は鳴り止んでおり、彼の声が全てのスピーカーから聞こえた。
「こんな場所まではるばるようこそ。よく気付いたね。此処に俺が居るって。まあ、俺が呼んだんだけどさ。また君たちと遊びたくて」
「——何が目的だ?」
ミヌが声を張り上げて尋ねる。やまびこのように、肉声は響いて山奥に吸い込まれて行った。
「『目的』?あはははは!白々しいね君も!君が一番知ってるんじゃないの、此の中では。ねえ、ハ・ミヌくん!」
ミヌの頬が一瞬引きつったのを、ジュニョンは見逃さなかった。
「俺は単純に遊びたかっただけ。気に入っちゃったんだ、シワンだけじゃなくて、君たち全員のこと」
「だからって何で人を巻き込む!?何だよこの宗教は。宗教とは名ばかりでただのマインドコントロールの施設じゃないか」
ジュニョンが反論した。
「俺は一切関心無いけど、此の形がベストだったからそうしただけだよ。俺自身、神様なんて居ないと思ってるし。やっぱり信者の中には馬鹿みたいになっちゃうやつも居るから面白かったけど」
"面白かった"
其の言葉でドンジュンが、意識を取り戻した。
「何だよ其れ!」
怒鳴り声が響いた。
あの子は此の施設のおかしさに気付いて逃げ出そうとした。結果逃げ出せず、狂信的な信者に「制裁」を加えられて捨てられたのに、「面白かった」だと?
「ああ、起きたの君。君には言われたくないよ。随分壊してくれたじゃないか。修復には金も時間もかかるのにさあ」
ヒチョルが尚もマイク越しに話し続ける。
ドンジュンは、ジュニョンとミヌに支えられていた体を離し、自力で立つと銃を構えた。
「良いから黙れ。俺にずっと呼び掛けてたのはお前だろ、捕まえに来たよ」
バンッ
銃声が、響いた。
==================
「嫌な予感がする」
シワンは唐突に呟いた。
「え」
テホンがパソコンをシャットダウンし終えると、シワンがテホンに話し掛けた。
「多分」
「多分?」
ヒョンシクは、珍しく弱気なシワンに尋ねた。彼は滅多に其の不確実な言葉を使わないのに、何故今其の言葉を言ったのかが気になった。
「テホン……どうして気付かなかったんだろう。俺。ねえ、死刑囚の『ヒチョル』の顔写真を見せてくれない?其れから、ヒチョルが、ヒチョルだったっていう証拠は?鑑識の結果も、全部見せて。まさか此の国は、冤罪どころか、全然関係無い人間を『チョン・ヒチョル』として死刑にしたんじゃないのか?」
シワンは早口でまくしたてた。
「……違うんです、教授。そもそも全部無いんです。其の辺りの証拠も、証跡も、全部消滅してるんです」
「は?」
「誰かが故意に削除させたとしか思えない」
「誰が……?」
ヒョンシクは其の声に、ふと、来る時に見た不自然な人物の顔を思い出した。
ハ法務大臣?
何を、考えてる……?
乙女が、スカートを爆風になびかせながら、ブーツの踵を鳴らして歩く。
「くそ、此の服動きにくいな……」
一応のカモフラージュのためとは言え、させられた女装は動きにくい。下に防弾服を来ているから別に脱いでも良いのだが、脱ぐ時間すら惜しく其の為に下手に隙を作りたくなかった。
"侵入者有り。精舎3階に居る模様"
コンピュータの機械的な女性の声がした。基本的な検知システム程度は供えているのだろう、とドンジュンが思った瞬間だった。
ガツンッ
ドンジュンの腹に、衝撃が加わった感覚があった。防弾服を着込んでいたため其の衝撃はかなり軽減されていたが、もし薄着であれば確実に内臓が破壊されていただろう、と思うほどの。
ドンジュンの体が弾かれたが、何とか足を踏ん張って倒れないようにする。
「もう、何てことしてくれるんだよ——君」
顔を上げると、目の前にクァンヒが鉄パイプを持って立っていたのに気付いた。
ヒュッ
振り掲げられた其れをドンジュンはぎりぎりの場所でよけたが、パイプが壁に当たり、既に脆くなっていた壁が崩れた。壁に当たって一瞬間が出来たことで、ドンジュンはクァンヒとの距離がほぼ数十センチになっていたところを後ずさって取った。
「全く、何か見覚えのある顔だと思ってたけど、あのときの子だよね?」
抑揚の無い、クァンヒの声が響く。シャツの袖口から伸びた細い右手首と、其の手に握られたパイプが地面を引き摺られているのがドンジュンの目に入った。
「全然入信する気は無いんでしょ?」
「当たり前だね」
ふっとクァンヒが笑う。二人の目が合った。
「どけよ。邪魔」
ドンジュンはスカートの中に手を突っ込み、足に仕込んでいた小銃を取り出して突きつけた。対峙すると、改めて目の前の相手——クァンヒが危険な男だと感じる。
「駄目だよ。部外者は本来立入禁止なんだから」
クァンヒが指を鳴らすと、ざわつく人の気配を感じた。今まで思念でしか感じなかった人間の気配。振り返ると、ドンジュンが突き進んで来た筈の背後に、大勢の人間が居た。皆顔が青白く、目はクァンヒだけを見つめている。武器になるような物は所持していないが、ざっと確認しただけでも50人はくだらないように見えた。
「!」
「ふふ、会いたいって言ってたから皆来てくれたよ」
クァンヒはあははと笑った。甲高い声だった。
「——ふうん、これだけ?もっと居ないの?」
ドンジュンはそう呟き、爆弾を一つ投げた。
==================
逃げる。
追う。
逃げる。
追う。
どちらが逃げているのか、追っているのか分からなくなる。
ドンジュンは敷地内を走った。後ろから何人もの人間が着いてくることを知っていながら、其れらを引き付けられるように走った。野外の位置関係は、事前の航空写真での照合を頭に入れていたことと、先ほどクァンヒからの丁寧な説明を受けた御蔭で大体把握が出来ていた。
「係長!」
ドンジュンはインカムに向かって話しかけた。少し間が有り、ジュニョンが応答する。
「解除キーを言って」
==================
モニターを眺めていた瞳が、動いた。
「へえ……こんなことも出来るんだ。面白い子」
冷徹な瞳は、楽しそうに細められる。
部屋の中に設けられた大画面には、侵入者の少女がざっと100人は集まったであろう信者を相手に一人一人叩きのめしていく。彼女の目は信者一人一人を区別せず、ただ怒りと憎しみに任せて相手を潰しにかかっていた。
「ま、動きは完全に男だね。もうちょっと色気があると楽しいのに……ねえ、大臣?」
携帯電話を耳に押し当て、電話口の相手に向かって言った。
「やっぱり彼らは面白いね。せいぜい生かしてあげなよ。あんたに牙を向くと怖そうな子も居るみたいだしね?」
「……お前こそ私の掌の上だということを忘れるなよ」
「忘れてないよ。"全ては此の国のために"でしょ?」
「そうだ」
「ふふ、じゃね、切るよ」
電話を切る。
其の男——チョン・ヒチョルは口の端を上げた。
==================
施設の門の傍で、守衛の男が倒れていた。
「此れじゃどっちが犯罪者か分からないですね……」
車から降りたミヌは施設の敷地内に足を踏み入れ、ジュニョンに向かって言った。
「良いのさ。『勝てば官軍』って言うだろ」
「だめ係長め……」
「ん?何か言った?」
「いえ何も」
警報音が鳴りっぱなしの空間。青空に、不似合いな真っ黒い煙が上がって行っている。ジュニョンとミヌは少し離れた場所から、其の煙を立ち上らせている金色に塗られた建物を見た。
其のときだった。
「あ!」
ジュニョンが声を上げると、ミヌも同じ方向を見て驚いた。地面に、長い髪の少女が立っていた。
「ドンジュン!」
ジュニョンが呼び掛けると、少女——の格好をしたドンジュンが、あっと言う間に離れて居た距離を縮め、ジュニョンに掴みかかった。
ドスッ
「!?」
ミヌが其のスピードに違和感を感じながらも動きを追えずに居た。ジュニョンはドンジュンの右腕からの殴打を避けきれず、左頬を殴られた。肉の殴られる、嫌な音が、晴れた空の下に響く。ドンジュンの服から妙な匂いがした。
「ヒョン!」
慌てて止めに入ろうとすると、普段のドンジュンではない顔だった。
「ミヌ!良い、離れてろ」
「え?」
「良いから離れろ!」
そう言うとジュニョンはドンジュンの足を本気で蹴り倒し、地面に体を倒させると、ドンジュンの体の上に馬乗りになる。地面に背を押し付けられたドンジュンが尚もジュニョンに掴みかかろうとすると、ジュニョンが頭を押さえ付け、掴みかかる手を無視してドンジュンの鳩尾を一発殴った。
「うッ……」
ドンジュンが、呻く。しかし更に目を見開いて歯を食いしばり、押さえ付けられていた脚を無理矢理動かしてジュニョンの背を蹴り返した。
「ッ!」
ひらり、と此の状況に不釣り合いなほど穏やかに、ドンジュンの履いていた柔らかい臙脂色のスカートが風に舞う。ジュニョンは蹴られた痛みで顔を歪め、ドンジュンに跨がっていた格好から地面に崩れた。其の隙にドンジュンは立ち上がり、ジュニョンの横顔を蹴る。相手が倒れようと何だろうと、迫って来るのはドンジュンの方だった。
「の野郎……手加減無しかよ」
ジュニョンはそう呟きスーツの裾を払いながら、ドンジュンの方を向いた。
「目ぇ覚ませ馬鹿!」
立ち上がり、其の頭部を持っていた銃で思い切り殴る。
「……ヒョン、大丈夫?」
地面に伸びたドンジュンを放って、ミヌは慌てた様子でジュニョンに駆け寄った。其の顔が普段のポーカーフェイスや皮肉を言う顔とは違っていて、ジュニョンは少し笑った。
「大丈夫」
「……何、あれ」
「あーお前は見たの初めてか」
「だから何なのあれ」
ふ、とジュニョンが笑うと口の端が先ほど殴られた所為で切れており、口の中に血の味が広がったことに気付いた。其れを手で拭いながら、ミヌに言葉を返す。
「こいつもちょっと訳ありでね」
地面で気を失っているドンジュンの体を起こすと、肩に担いでいく。意思の無い人間の体は重く、ミヌも其れを横から支えた。
「『前科』ってやつ?」
「そ。また話すよ。……さて、どうすっかなあ」
二人がドンジュンの体を支え、車へ戻ろうとすると、遠くに人影が見えた。
「久しぶり。特別捜査係の皆さん」
何時の間にか警報音は鳴り止んでおり、彼の声が全てのスピーカーから聞こえた。
「こんな場所まではるばるようこそ。よく気付いたね。此処に俺が居るって。まあ、俺が呼んだんだけどさ。また君たちと遊びたくて」
「——何が目的だ?」
ミヌが声を張り上げて尋ねる。やまびこのように、肉声は響いて山奥に吸い込まれて行った。
「『目的』?あはははは!白々しいね君も!君が一番知ってるんじゃないの、此の中では。ねえ、ハ・ミヌくん!」
ミヌの頬が一瞬引きつったのを、ジュニョンは見逃さなかった。
「俺は単純に遊びたかっただけ。気に入っちゃったんだ、シワンだけじゃなくて、君たち全員のこと」
「だからって何で人を巻き込む!?何だよこの宗教は。宗教とは名ばかりでただのマインドコントロールの施設じゃないか」
ジュニョンが反論した。
「俺は一切関心無いけど、此の形がベストだったからそうしただけだよ。俺自身、神様なんて居ないと思ってるし。やっぱり信者の中には馬鹿みたいになっちゃうやつも居るから面白かったけど」
"面白かった"
其の言葉でドンジュンが、意識を取り戻した。
「何だよ其れ!」
怒鳴り声が響いた。
あの子は此の施設のおかしさに気付いて逃げ出そうとした。結果逃げ出せず、狂信的な信者に「制裁」を加えられて捨てられたのに、「面白かった」だと?
「ああ、起きたの君。君には言われたくないよ。随分壊してくれたじゃないか。修復には金も時間もかかるのにさあ」
ヒチョルが尚もマイク越しに話し続ける。
ドンジュンは、ジュニョンとミヌに支えられていた体を離し、自力で立つと銃を構えた。
「良いから黙れ。俺にずっと呼び掛けてたのはお前だろ、捕まえに来たよ」
バンッ
銃声が、響いた。
==================
「嫌な予感がする」
シワンは唐突に呟いた。
「え」
テホンがパソコンをシャットダウンし終えると、シワンがテホンに話し掛けた。
「多分」
「多分?」
ヒョンシクは、珍しく弱気なシワンに尋ねた。彼は滅多に其の不確実な言葉を使わないのに、何故今其の言葉を言ったのかが気になった。
「テホン……どうして気付かなかったんだろう。俺。ねえ、死刑囚の『ヒチョル』の顔写真を見せてくれない?其れから、ヒチョルが、ヒチョルだったっていう証拠は?鑑識の結果も、全部見せて。まさか此の国は、冤罪どころか、全然関係無い人間を『チョン・ヒチョル』として死刑にしたんじゃないのか?」
シワンは早口でまくしたてた。
「……違うんです、教授。そもそも全部無いんです。其の辺りの証拠も、証跡も、全部消滅してるんです」
「は?」
「誰かが故意に削除させたとしか思えない」
「誰が……?」
ヒョンシクは其の声に、ふと、来る時に見た不自然な人物の顔を思い出した。
ハ法務大臣?
何を、考えてる……?
——違う。此れも違う。
テホンは書庫で過去の資料を漁っていた。脚立に上っては下り、上っては下りを繰り返し、資料の入ったバインダを何冊を取り出しては過去の鑑識のデータを見る。電子媒体よりも、取り扱った人間の念がこもっている気がする紙媒体を好むのは、其の証拠が仮想空間のデータよりも、現実に近い場所にある気がするからかもしれない。
——認めたくない。まさか。でも。認めざるを得ない。
確かに気付いていた。ドンジュンがあの遺体と向き合ったあの日、確かに感じた思い。またお前か、と何であのとき思ったのだろう。容疑者なら、とっくに拘束されていたはずなのに。模倣犯というよりも、テホンは人物を特定しながら、まるで生きていることが前提のように考えていた。「また、『お前』なのか?」と。
読み散らかした資料を床にばさばさと落として行く。床はみるみるうちに資料が重なって足の踏み場がなくなっていった。脚立の上に立ったまま、テホンは尚も資料から目を離せずに居た。
「——やっぱり、証拠が無い……?」
まさか。
テホンは手にしていた資料を床に投げつけ、脚立を下りると、書庫の鍵も閉めずに出て行った。
==================
「あ、キムさん」
特別捜査第1係の部屋に入ると、シワンが庁舎内にあるコーヒーショップで買って来たであろう紙のカップを口にしていたのを離し、テホンの名前を呼んだ。少し休憩をしていたらしく、シワンもヒョンシクも同じカップを持っている。
「テホンで良いですよ。と言うか、此処の人たち全員下の名前で呼んで問題無いと思います。寧ろ俺の方が教授より年下ですし、この辺キムって名字の人多いし……」
「じゃあ、テホン、ね」
新しく呼び始めた名前を口にして少し笑った彼は、やはり綺麗な人だと思う。前にも数回顔を見たことはあったし、テレビや新聞で目にすることもあったが、間近で見れば実物は更に綺麗だった。男に「綺麗」なんて形容詞を使うとは思わなかったが、事実、彼は美しい。
テホンは安心した。容疑者が生きているとするなら、彼こそが標的にされる筈なのだから。
「テホンさん、俺から質問」
シワンの顔を見てから一瞬空を見つめていると、ヒョンシクの声がした。
「何?」
「凄く失礼な質問なんですけど」
「いいよ、何?」
テホンはヒョンシクに向き直ると首を傾げた。
「……テホンさんの前に事件現場の別の鑑識が居たって聞きました。其の人は今何を?」
「辞めた」
テホンは手元のパソコンの画面を立ち上げながら言った。
「え?」
きょとん、とヒョンシクがテホンを見つめる。
「数日も立たないうちに辞めたよ。ちょうど、精神的に病んで、職場に来なくなって、其のままフェードアウト」
「え……」
「いや、俺も其処を疑ってる。何で気付かなかったんだろう、何で当時誰も気付かなかったんだろう」
テホンは少し焦るようにキーを叩き、検索を開始した。データベースを開き、情報の海に飛び込む。広過ぎる仮想空間を泳ぎ切って、一人のデータを見つけ出す
——筈だった。
"NOT FOUND"
「え?」
テホンは驚いた。
「え?」
テホンの上げた素っ頓狂な声に、シワンとヒョンシクが思わず反応した。
「どうか……した?」
シワンが尋ねる。
「——居ない」
「え?」
「そんな人間が、この世に存在しなかったことにされてる」
戸籍も、国民番号も、何もかもの存在証明としてのIDが見つからない。どのデータベースにアクセスをしても、結果は同じだった。
「抹消されてる……?」
テホンは口元を手で覆い、戸惑った。其のとき、ジャケットの胸ポケットに入れていた携帯電話が振動した。画面に表示された名前を確かめて、電話を受ける。
「——もしもし」
「——あ、キム検視官ですか。今使ってるPCをシャットダウンしてネットワークから切り離してください」
電話口の相手——ミヌは口早に言った。
「は?」
「0件データにアクセスしたでしょう?其れやるとこっちのアクセス履歴全部物理削除するようにワクチン仕込んだんです。ただ、一応切り離した方がいい」
テホンは未だ真っ黒な画面の中段中央で点滅し続ける"NOT FOUND"の赤い大きな文字を見ていた。
「ごめんミヌ、俺PCの中の話はちょっと分からないんだけど、つまり0件データにアクセスするとやばいってことなんだよね?」
「……」
テホンが質問をすると、まくしたてていた口調は急にスローダウンした。
「……YesかNoかで言ったら、Yesです」
其の声を聞いただけでも、充分な収穫はあった。
==================
「テホン?」
「はい。やっぱり気付いてた」
ジュニョンは真っ直ぐに伸びた道路を見つめたまま、ミヌに話し掛けた。ミヌは携帯電話を耳元から外すと、はあ、と溜め息をつく。
「『やっぱり』って。お前もかなりたちが悪いな?」
「悪くないですよ」
ミヌが反論すると、前を見つめたままのジュニョンが、ふ、と笑った。
「結構お前と一緒に居るけど、何処から何処までが演技なのか本気なのか、分からないときがあるな。わざと推理を外したり、ある証拠で納得してみたり」
「……」
静かになった空間に、エンジン音だけが響く。ミヌは俯いた。
「……全部演技だったら?」
「其れでも信じる」
車は、急カーブを曲がって行く。有り得ないスピードのままカーブに差し掛かって、道路際の標識の赤と白の模様が其れが模様だと判別も出来ないままあっと言う間に過ぎ去って行った。
「……」
じゃあ、貴方が好きだ、って言ったら?
其処まで言葉が出かかったのに、ポーカーフェイスでも言えなくて、口を噤んだ。
キスをして、抱いて、そんなことなら隣に座った相手になら幾らだって言える。でも、自分の感情だけは言えない。口にしてはいけない気がして、言えなかった。即物的な行為をしてくれとねだることよりも、ただ自分の思考を伝えて、押し付けるのは出来ない。
——そんなことを考える自分が嫌いで。
「ミヌ?」
一瞬——だったのだろうか。沈黙があって、上手く切り返せなかったジュニョンの言葉が宙ぶらりんだった。言い出した方のジュニョンが、ミヌの名を呼んだ。
「はい?」
「黙るなよ。笑うとこだぞ」
ははは、と間を埋める為に、ジュニョンが自分で笑った。
——其の無神経さが嫌いだ。
==================
ドンジュンがトイレから元の居た場所へ戻ろうと廊下へ出ると、やはり人の気配が無かった。
意識を集中する。
そのときだった。
「鬼さんこちら」
確かにはっきりと人間の声が聞こえた。
==================
「あそこか」
ジュニョンが運転するGT-Rは一度施設を通り過ぎ、かなり離れた道路の脇で停止した。
「……さっきっからドンジュンに繋がらないんですが」
ミヌは右耳に装着していたインカムを一度耳から外し、ジュニョンに言った。
「は?またあいつおっぱじめてたり……」
「の、可能性が高いと思います」
二人は顔を見合わせ、同時に目を逸らした。車の暖房の風が、本来無風の空間に吹いている。酷く人工的な、生暖かい風だった。
「……心配だな」
「はい」
「いや、相手がね。今回こそ原状回復不能な位、叩きのめす勢いだよ、あれは」
——確かに、今回の捜査へのドンジュンの執着は異様だった。現場プロファイリングも本当は一人で行っていたのを知っている。其の度に神経をすり減らすシンクロを行って、被害者の気持ちに歩み寄ろうとしていたことも。
「止めに行きますか」
そうジュニョンが言った瞬間、バックミラーに閃光が映った。
「え」
ミヌとジュニョンが同時に振り返った瞬間
ドンッ
爆発音が、エコーのように響いた。
「やっちゃったー……」
ジュニョンは頭を抱えた。
==================
爆音が耳に響いた。
敵が何処に居るかは分からなくても、此処までの悪意のある残存思念の中なら、手当たり次第に当てても別に害は無い。というか、此の方法で見付けて行くのが得策。何処に誰が居るか分からない状況でひたすら進むなら、爆発物で道を切り開いて行く方が良いのは常識。
「こっちだよ、こっち。捕まえに来たなら、おいで。分かってるんでしょ?おちびな鬼さん」
声がする。耳鳴りのようなものに混じって、声がする。
——チェックメイトだ。
テホンは書庫で過去の資料を漁っていた。脚立に上っては下り、上っては下りを繰り返し、資料の入ったバインダを何冊を取り出しては過去の鑑識のデータを見る。電子媒体よりも、取り扱った人間の念がこもっている気がする紙媒体を好むのは、其の証拠が仮想空間のデータよりも、現実に近い場所にある気がするからかもしれない。
——認めたくない。まさか。でも。認めざるを得ない。
確かに気付いていた。ドンジュンがあの遺体と向き合ったあの日、確かに感じた思い。またお前か、と何であのとき思ったのだろう。容疑者なら、とっくに拘束されていたはずなのに。模倣犯というよりも、テホンは人物を特定しながら、まるで生きていることが前提のように考えていた。「また、『お前』なのか?」と。
読み散らかした資料を床にばさばさと落として行く。床はみるみるうちに資料が重なって足の踏み場がなくなっていった。脚立の上に立ったまま、テホンは尚も資料から目を離せずに居た。
「——やっぱり、証拠が無い……?」
まさか。
テホンは手にしていた資料を床に投げつけ、脚立を下りると、書庫の鍵も閉めずに出て行った。
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「あ、キムさん」
特別捜査第1係の部屋に入ると、シワンが庁舎内にあるコーヒーショップで買って来たであろう紙のカップを口にしていたのを離し、テホンの名前を呼んだ。少し休憩をしていたらしく、シワンもヒョンシクも同じカップを持っている。
「テホンで良いですよ。と言うか、此処の人たち全員下の名前で呼んで問題無いと思います。寧ろ俺の方が教授より年下ですし、この辺キムって名字の人多いし……」
「じゃあ、テホン、ね」
新しく呼び始めた名前を口にして少し笑った彼は、やはり綺麗な人だと思う。前にも数回顔を見たことはあったし、テレビや新聞で目にすることもあったが、間近で見れば実物は更に綺麗だった。男に「綺麗」なんて形容詞を使うとは思わなかったが、事実、彼は美しい。
テホンは安心した。容疑者が生きているとするなら、彼こそが標的にされる筈なのだから。
「テホンさん、俺から質問」
シワンの顔を見てから一瞬空を見つめていると、ヒョンシクの声がした。
「何?」
「凄く失礼な質問なんですけど」
「いいよ、何?」
テホンはヒョンシクに向き直ると首を傾げた。
「……テホンさんの前に事件現場の別の鑑識が居たって聞きました。其の人は今何を?」
「辞めた」
テホンは手元のパソコンの画面を立ち上げながら言った。
「え?」
きょとん、とヒョンシクがテホンを見つめる。
「数日も立たないうちに辞めたよ。ちょうど、精神的に病んで、職場に来なくなって、其のままフェードアウト」
「え……」
「いや、俺も其処を疑ってる。何で気付かなかったんだろう、何で当時誰も気付かなかったんだろう」
テホンは少し焦るようにキーを叩き、検索を開始した。データベースを開き、情報の海に飛び込む。広過ぎる仮想空間を泳ぎ切って、一人のデータを見つけ出す
——筈だった。
"NOT FOUND"
「え?」
テホンは驚いた。
「え?」
テホンの上げた素っ頓狂な声に、シワンとヒョンシクが思わず反応した。
「どうか……した?」
シワンが尋ねる。
「——居ない」
「え?」
「そんな人間が、この世に存在しなかったことにされてる」
戸籍も、国民番号も、何もかもの存在証明としてのIDが見つからない。どのデータベースにアクセスをしても、結果は同じだった。
「抹消されてる……?」
テホンは口元を手で覆い、戸惑った。其のとき、ジャケットの胸ポケットに入れていた携帯電話が振動した。画面に表示された名前を確かめて、電話を受ける。
「——もしもし」
「——あ、キム検視官ですか。今使ってるPCをシャットダウンしてネットワークから切り離してください」
電話口の相手——ミヌは口早に言った。
「は?」
「0件データにアクセスしたでしょう?其れやるとこっちのアクセス履歴全部物理削除するようにワクチン仕込んだんです。ただ、一応切り離した方がいい」
テホンは未だ真っ黒な画面の中段中央で点滅し続ける"NOT FOUND"の赤い大きな文字を見ていた。
「ごめんミヌ、俺PCの中の話はちょっと分からないんだけど、つまり0件データにアクセスするとやばいってことなんだよね?」
「……」
テホンが質問をすると、まくしたてていた口調は急にスローダウンした。
「……YesかNoかで言ったら、Yesです」
其の声を聞いただけでも、充分な収穫はあった。
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「テホン?」
「はい。やっぱり気付いてた」
ジュニョンは真っ直ぐに伸びた道路を見つめたまま、ミヌに話し掛けた。ミヌは携帯電話を耳元から外すと、はあ、と溜め息をつく。
「『やっぱり』って。お前もかなりたちが悪いな?」
「悪くないですよ」
ミヌが反論すると、前を見つめたままのジュニョンが、ふ、と笑った。
「結構お前と一緒に居るけど、何処から何処までが演技なのか本気なのか、分からないときがあるな。わざと推理を外したり、ある証拠で納得してみたり」
「……」
静かになった空間に、エンジン音だけが響く。ミヌは俯いた。
「……全部演技だったら?」
「其れでも信じる」
車は、急カーブを曲がって行く。有り得ないスピードのままカーブに差し掛かって、道路際の標識の赤と白の模様が其れが模様だと判別も出来ないままあっと言う間に過ぎ去って行った。
「……」
じゃあ、貴方が好きだ、って言ったら?
其処まで言葉が出かかったのに、ポーカーフェイスでも言えなくて、口を噤んだ。
キスをして、抱いて、そんなことなら隣に座った相手になら幾らだって言える。でも、自分の感情だけは言えない。口にしてはいけない気がして、言えなかった。即物的な行為をしてくれとねだることよりも、ただ自分の思考を伝えて、押し付けるのは出来ない。
——そんなことを考える自分が嫌いで。
「ミヌ?」
一瞬——だったのだろうか。沈黙があって、上手く切り返せなかったジュニョンの言葉が宙ぶらりんだった。言い出した方のジュニョンが、ミヌの名を呼んだ。
「はい?」
「黙るなよ。笑うとこだぞ」
ははは、と間を埋める為に、ジュニョンが自分で笑った。
——其の無神経さが嫌いだ。
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ドンジュンがトイレから元の居た場所へ戻ろうと廊下へ出ると、やはり人の気配が無かった。
意識を集中する。
そのときだった。
「鬼さんこちら」
確かにはっきりと人間の声が聞こえた。
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「あそこか」
ジュニョンが運転するGT-Rは一度施設を通り過ぎ、かなり離れた道路の脇で停止した。
「……さっきっからドンジュンに繋がらないんですが」
ミヌは右耳に装着していたインカムを一度耳から外し、ジュニョンに言った。
「は?またあいつおっぱじめてたり……」
「の、可能性が高いと思います」
二人は顔を見合わせ、同時に目を逸らした。車の暖房の風が、本来無風の空間に吹いている。酷く人工的な、生暖かい風だった。
「……心配だな」
「はい」
「いや、相手がね。今回こそ原状回復不能な位、叩きのめす勢いだよ、あれは」
——確かに、今回の捜査へのドンジュンの執着は異様だった。現場プロファイリングも本当は一人で行っていたのを知っている。其の度に神経をすり減らすシンクロを行って、被害者の気持ちに歩み寄ろうとしていたことも。
「止めに行きますか」
そうジュニョンが言った瞬間、バックミラーに閃光が映った。
「え」
ミヌとジュニョンが同時に振り返った瞬間
ドンッ
爆発音が、エコーのように響いた。
「やっちゃったー……」
ジュニョンは頭を抱えた。
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爆音が耳に響いた。
敵が何処に居るかは分からなくても、此処までの悪意のある残存思念の中なら、手当たり次第に当てても別に害は無い。というか、此の方法で見付けて行くのが得策。何処に誰が居るか分からない状況でひたすら進むなら、爆発物で道を切り開いて行く方が良いのは常識。
「こっちだよ、こっち。捕まえに来たなら、おいで。分かってるんでしょ?おちびな鬼さん」
声がする。耳鳴りのようなものに混じって、声がする。
——チェックメイトだ。
黒と白で統一され、高い天井と吹き抜けで外部からの訪問者を迎え入れながらも拒むような場所だ、とヒョンシクは思う。色彩は一切無く、黒の多いモノクロの世界だった。辺りを見回すとやたら恰幅の良い男や、一瞬男性と見紛うような女性が行き交う。ぼんやりと行き交う人を見つめている。
「……?」
無柱の空間から少し離れ壁際に立っていると、見覚えのある男性が遠くのエレベーターホールから歩いて来るのが見えた。其の人物は矍鑠とした動きで、ヒョンシクの立っていた側に歩いて来ていた。
「あれ、何処かで……」
ヒョンシクは記憶を辿り、或る人物を弾き出したものの、其の人物の身分からすれば有り得ない程身軽に動き回っていた。
——ハ法務大臣?
いや、そんなはずは。でも。ヒョンシクは目を疑った。一人の警護も無しに、いくら警視庁の本部とは言え現役の大臣が一人で歩き回れるものだろうか。ちらりと周囲を見回すと、皆少し離れた場所から遠巻きに視線を送るばかりで、下手に近寄ってややこしいことにならないようにしよう、という戸惑う表情ばかりが見えた。周囲の態度に気を取られていると、大臣はヒョンシクに横顔を見せており、数メートル離れた先を歩いて行ってしまった。其の横顔を見て、ふ、と思い出す。
前に一度だけ会ったことのある、刑事の顔。其の刑事に頬のあたりが似ていた、気がした。
「ヒョンシク!」
ぼんやりと其の横顔に別の人物の横顔を重ねていると、名前を呼ばれた。
声の方向を振り返ると、まるで刑事ではないことを自らの背格好で語り尽くしてしまったような人物と、彼と然程身長は変わらないが、体格が良く一見すればSPと間違えそうな人物が歩み寄って来た。
「ようこそ警視庁本部へ。鑑識課のキム・テホンです」
体格の良い方の人物が、ヒョンシクの前に一歩出て右手を差し出した。ヒョンシクも手を出し、握手を交わす。
「迷わなかったですか?」
相手は自分よりも目線が上にあるヒョンシクの背に少し驚いたのか、確かめるように二度、ヒョンシクの顔を見た。
「あ、大丈夫です」
教授と違って其処まで鈍臭くないですし、と付け加えると、背の高くない方の男——イム・シワン教授がヒョンシクの脛に蹴りを入れようとし、ヒョンシクが其の空気を察してよけ、シワンの脚は空振ってから床に戻った。
「はは、兄弟みたいだ」
一連の場面を見ていたテホンが笑うと、「全然」と二人の心底嫌そうな声が同時に重なって響いた。
「さ、部屋まで案内します。後で生体認証用のデータ取るまでは、申し訳無いんですが僕と一緒に行動してください。データが反映されれば、ほぼ全てのロックが解除出来るようになります」
三人は連なってゲートを通過し、エレベーターへ戻って行った。
「あ、そう言えばさっき入口にハ法務大臣居ましたよね?」
ヒョンシクはエレベーターホールで身を少し屈め、シワンに話し掛けた。他にも数名、刑事らしき人物がホールで待っている人間が居たので、自然と声は小さくなる。
「え?気付かなかった。居た?」
下から見上げて来た、きょとんとした瞳は、普段仕事や調べ物をしているときの表情とは全く異なり、少し間の抜けたような顔で、一瞬白痴美という言葉がヒョンシクの頭を過った。
「ほらやっぱり鈍感」
エレベーターが到着した音がした。
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会議室に通され椅子に座ると、すぐにシワンが考察を語り出した。
気になる所がある、とシワンからヒョンシクに電話があったのは二日前。自分でもロジックが組み立てられない場所があるのだと。どう頭を捻っても意味の分からない箇所があるから力を貸して欲しい、どうせ前の鑑定が無くて暇なんだろう、と年上の教授に言われれば、助手は黙って従うしか無かった。
気になることはあった。
担当していた囚人の出所が決まり、突然鑑定の続行にNOを言い渡されたこと。ほぼ同じタイミングで、ケビンが担当していた死刑囚の刑が執行されたこと。死刑に立ち会った日のケビンはいつも隠しきれない暗い空気を纏って帰って来る。其の日は得に、何故か柄にも無く「理不尽だ」と呟いた。死刑囚に理不尽も何も無いだろうと思ったけれど、状況証拠ばかりで決定的な証拠が無かったにも関わらず、刑が確定し執行されたことも知っているので何も言えなかった。
「——どう思う?ぱっと聞いた感じで」
ヒョンシクは示された画像を思い出し、資料を繰った。
「捕まえてみろ」
ヒョンシクが、シワンの目を見て言った。
二人だけ残された会議室に、沈黙が流れた。
「って言ってる」
「誰が?」
「チョン・ヒチョル教授」
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鬼さんこちら
手の鳴る方へ
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
声がした、ような気がした。
クァンヒの後ろを着いて歩き、施設の一つ一つを見せて貰う。出来るだけ興味のある振りをして、大げさに笑ったり、大げさに驚いてみたりする。其の度にクァンヒも上機嫌になり、真偽は分からないとしても、取り敢えずは一通りの説明をしてくれた。そんな中で少しだけ開放されていた窓から、声が聞こえた気がした。
「此処は精舎と言う建物です。自然が豊かで、景色が綺麗でしょう。此の場所で散策や瞑想をして、魂が忘れていた天国的な気分を取り戻すことができるんです」
クァンヒが手を広げ、室内に作られたきらびやかな噴水を指差したり、窓の外の山々を指差したりしながら説明を続ける。其の足取りに、ドンジュンは始めから違和感を感じていた。くるぶしの辺りで弛ませたパンツを履いていて細部までは分からなかったが、破壊した筈の脚が酷く滑らかに動いていた。義足か本当の足か。短期間だったとは言え、医療刑務所でリハビリを受けていたことはデータとしてあるが、其れでも此処までに回復するとは思えない。
「……」
ドンジュンは鼻に神経を集中させた。
——また此の匂い。
此の施設に足を踏み入れた時点で感じていた香の匂いは此処にもある。
「あの」
ドンジュンは、出来るだけ可愛らしい声を意識して作った。
「他の信者の方ともお会いしたいのですが、今日は修行はされていないんですか?同じ位の年代の方が居れば、色々教えて貰えるし……」
「成程。では、少々お待ちください」
「——あ、じゃあ、いったんお手洗いに行っても?」
「良いですよ。突き当たり曲がって右です」
「どうも」
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鬼さんこちら
手の鳴る方へ
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
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ドンジュンは一瞬躊躇って女子トイレに入った。すぐに盗聴器発見器を着込んでいた服の裾から取り出し、確認する。正直なところ入口で金属探知器のようなものがあってボディチェックくらいされそうだと思っていたが、其処までの設備は無かった。或いは其れも罠か。
盗聴器の類いと監視カメラの類いがどちらも無いことを確認すると、小型マイクのスイッチを入れた。
「先輩」
小声でも、場所柄妙な女性的な声で話す。自分で自分が気持ち悪くなったが、捜査の為だと言い聞かせた。
「はい、もしもし」
ミヌの声が響く。恐らく車を運転しているらしく、エンジン音のようなものが声の後ろで僅かに聞こえた。
「此処、やばい匂いがする」
「やばいって」
「多分クスリ。クスリ使って人の神経乗っ取ってる可能性がある」
「ってお前、平気なのか?」
ミヌの少し心配したような声がした。ドンジュンは、くす、と笑った。
「大丈夫。俺の前科知らないの?」
「おい、ドンジュン!」
ジュニョンの声が乱入して来た。
「無茶するなよ」
「分かってる!ちょーっと痛めつけるだけ、でしょ」
「分かってねえよ。大体お前はいつも」
「大丈夫。先輩たちはガスマスクでも付けて来た方が良いよ。でないと此処の信者様たちと同類になっちゃいますからね」
ブツッ
ドンジュンは一方的に通信を遮断した。
——さて、そろそろ証拠でも掴んで帰ろうかな。
「……?」
無柱の空間から少し離れ壁際に立っていると、見覚えのある男性が遠くのエレベーターホールから歩いて来るのが見えた。其の人物は矍鑠とした動きで、ヒョンシクの立っていた側に歩いて来ていた。
「あれ、何処かで……」
ヒョンシクは記憶を辿り、或る人物を弾き出したものの、其の人物の身分からすれば有り得ない程身軽に動き回っていた。
——ハ法務大臣?
いや、そんなはずは。でも。ヒョンシクは目を疑った。一人の警護も無しに、いくら警視庁の本部とは言え現役の大臣が一人で歩き回れるものだろうか。ちらりと周囲を見回すと、皆少し離れた場所から遠巻きに視線を送るばかりで、下手に近寄ってややこしいことにならないようにしよう、という戸惑う表情ばかりが見えた。周囲の態度に気を取られていると、大臣はヒョンシクに横顔を見せており、数メートル離れた先を歩いて行ってしまった。其の横顔を見て、ふ、と思い出す。
前に一度だけ会ったことのある、刑事の顔。其の刑事に頬のあたりが似ていた、気がした。
「ヒョンシク!」
ぼんやりと其の横顔に別の人物の横顔を重ねていると、名前を呼ばれた。
声の方向を振り返ると、まるで刑事ではないことを自らの背格好で語り尽くしてしまったような人物と、彼と然程身長は変わらないが、体格が良く一見すればSPと間違えそうな人物が歩み寄って来た。
「ようこそ警視庁本部へ。鑑識課のキム・テホンです」
体格の良い方の人物が、ヒョンシクの前に一歩出て右手を差し出した。ヒョンシクも手を出し、握手を交わす。
「迷わなかったですか?」
相手は自分よりも目線が上にあるヒョンシクの背に少し驚いたのか、確かめるように二度、ヒョンシクの顔を見た。
「あ、大丈夫です」
教授と違って其処まで鈍臭くないですし、と付け加えると、背の高くない方の男——イム・シワン教授がヒョンシクの脛に蹴りを入れようとし、ヒョンシクが其の空気を察してよけ、シワンの脚は空振ってから床に戻った。
「はは、兄弟みたいだ」
一連の場面を見ていたテホンが笑うと、「全然」と二人の心底嫌そうな声が同時に重なって響いた。
「さ、部屋まで案内します。後で生体認証用のデータ取るまでは、申し訳無いんですが僕と一緒に行動してください。データが反映されれば、ほぼ全てのロックが解除出来るようになります」
三人は連なってゲートを通過し、エレベーターへ戻って行った。
「あ、そう言えばさっき入口にハ法務大臣居ましたよね?」
ヒョンシクはエレベーターホールで身を少し屈め、シワンに話し掛けた。他にも数名、刑事らしき人物がホールで待っている人間が居たので、自然と声は小さくなる。
「え?気付かなかった。居た?」
下から見上げて来た、きょとんとした瞳は、普段仕事や調べ物をしているときの表情とは全く異なり、少し間の抜けたような顔で、一瞬白痴美という言葉がヒョンシクの頭を過った。
「ほらやっぱり鈍感」
エレベーターが到着した音がした。
==================
会議室に通され椅子に座ると、すぐにシワンが考察を語り出した。
気になる所がある、とシワンからヒョンシクに電話があったのは二日前。自分でもロジックが組み立てられない場所があるのだと。どう頭を捻っても意味の分からない箇所があるから力を貸して欲しい、どうせ前の鑑定が無くて暇なんだろう、と年上の教授に言われれば、助手は黙って従うしか無かった。
気になることはあった。
担当していた囚人の出所が決まり、突然鑑定の続行にNOを言い渡されたこと。ほぼ同じタイミングで、ケビンが担当していた死刑囚の刑が執行されたこと。死刑に立ち会った日のケビンはいつも隠しきれない暗い空気を纏って帰って来る。其の日は得に、何故か柄にも無く「理不尽だ」と呟いた。死刑囚に理不尽も何も無いだろうと思ったけれど、状況証拠ばかりで決定的な証拠が無かったにも関わらず、刑が確定し執行されたことも知っているので何も言えなかった。
「——どう思う?ぱっと聞いた感じで」
ヒョンシクは示された画像を思い出し、資料を繰った。
「捕まえてみろ」
ヒョンシクが、シワンの目を見て言った。
二人だけ残された会議室に、沈黙が流れた。
「って言ってる」
「誰が?」
「チョン・ヒチョル教授」
==================
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
声がした、ような気がした。
クァンヒの後ろを着いて歩き、施設の一つ一つを見せて貰う。出来るだけ興味のある振りをして、大げさに笑ったり、大げさに驚いてみたりする。其の度にクァンヒも上機嫌になり、真偽は分からないとしても、取り敢えずは一通りの説明をしてくれた。そんな中で少しだけ開放されていた窓から、声が聞こえた気がした。
「此処は精舎と言う建物です。自然が豊かで、景色が綺麗でしょう。此の場所で散策や瞑想をして、魂が忘れていた天国的な気分を取り戻すことができるんです」
クァンヒが手を広げ、室内に作られたきらびやかな噴水を指差したり、窓の外の山々を指差したりしながら説明を続ける。其の足取りに、ドンジュンは始めから違和感を感じていた。くるぶしの辺りで弛ませたパンツを履いていて細部までは分からなかったが、破壊した筈の脚が酷く滑らかに動いていた。義足か本当の足か。短期間だったとは言え、医療刑務所でリハビリを受けていたことはデータとしてあるが、其れでも此処までに回復するとは思えない。
「……」
ドンジュンは鼻に神経を集中させた。
——また此の匂い。
此の施設に足を踏み入れた時点で感じていた香の匂いは此処にもある。
「あの」
ドンジュンは、出来るだけ可愛らしい声を意識して作った。
「他の信者の方ともお会いしたいのですが、今日は修行はされていないんですか?同じ位の年代の方が居れば、色々教えて貰えるし……」
「成程。では、少々お待ちください」
「——あ、じゃあ、いったんお手洗いに行っても?」
「良いですよ。突き当たり曲がって右です」
「どうも」
==================
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
==================
ドンジュンは一瞬躊躇って女子トイレに入った。すぐに盗聴器発見器を着込んでいた服の裾から取り出し、確認する。正直なところ入口で金属探知器のようなものがあってボディチェックくらいされそうだと思っていたが、其処までの設備は無かった。或いは其れも罠か。
盗聴器の類いと監視カメラの類いがどちらも無いことを確認すると、小型マイクのスイッチを入れた。
「先輩」
小声でも、場所柄妙な女性的な声で話す。自分で自分が気持ち悪くなったが、捜査の為だと言い聞かせた。
「はい、もしもし」
ミヌの声が響く。恐らく車を運転しているらしく、エンジン音のようなものが声の後ろで僅かに聞こえた。
「此処、やばい匂いがする」
「やばいって」
「多分クスリ。クスリ使って人の神経乗っ取ってる可能性がある」
「ってお前、平気なのか?」
ミヌの少し心配したような声がした。ドンジュンは、くす、と笑った。
「大丈夫。俺の前科知らないの?」
「おい、ドンジュン!」
ジュニョンの声が乱入して来た。
「無茶するなよ」
「分かってる!ちょーっと痛めつけるだけ、でしょ」
「分かってねえよ。大体お前はいつも」
「大丈夫。先輩たちはガスマスクでも付けて来た方が良いよ。でないと此処の信者様たちと同類になっちゃいますからね」
ブツッ
ドンジュンは一方的に通信を遮断した。
——さて、そろそろ証拠でも掴んで帰ろうかな。
「——はい、此れ」
シワンは一抱えもある事務用のファイルを、ジュニョンのデスクの上に置いた。上手く積み重ねられなかった上の方のファイルが崩れそうになり、ジュニョンは慌てて其れがデスクの下へと落ちそうになるのを防いだ。
「……」
「何だよ、折角調べたのにありがとうの一言も無しか?」
少し不貞腐れた表情でシワンが尋ねる。目の前のジュニョンはぼんやりとしていた。デスクに両肘を乗せ、ファイルを支えたままシワンをただ見つめるばかりだった。
「ありがと」
ぼんやりしているな、と思ったら素直に笑って、言うもので、シワンの調子が狂う。
「仕事早過ぎてびっくりした」
「ああ、そう」
此の位出来て当然だし、と言ってみる。本当は、其の自分だけに向けられる柔らかい笑顔や垂れた目や伸びる鼻の下が、愛しくて嬉しかった。
「本気で思ってるよ」
そう言いながら、ジュニョンはシワンのまとめた資料をぱらぱらとめくった。黄色い付箋紙が所々に貼られており、シワンの几帳面さを物語っていた。流石、引く手数多の鑑定士だな、と思う。其の鋭い考察と分析力には唸るしか無かった。
「——やけに、此の団体気になってるみたいだけど?」
ジュニョンは開いたページを見せた。其処にはパソコンのディスプレイのスクリーンショットが何枚か連なって載っている。ウェブサイトの画面を其のまま画像として取り込んだらしい其れには、大きな山を切り崩したらしい土地に、東洋と西洋の宗教文化を混合させたような真っ白な建物が在った。
「気付かない?」
シワンは、見せられた写真を見ながら曖昧に笑う。
「何が」
やはり気付かないか、とシワンは思う。ジュニョンが広げていたファイルを「貸して」と受け取り、ジュニョンと一緒に其れを見るように体を近付けた。
「見覚え無い?ほら、此処の屋根の形」
「……?」
ジュニョンは座ったまま、ぐい、と首を伸ばしシワンが指差した建物の屋根を見つめた。シワンは「ほら、気付いた?」という顔をする。其の表情は、少し楽しむような、けれど何か苦々しいような、複雑な色で彩られていた。
「調べてみる価値はあると思う……ってこら」
ジュニョンが重ねて来る手に、別の意図を感じてシワンはさっと手を引っ込めた。
「何か、此処最近ご無沙汰だし」
「!」
「シワンはいつも、仕事のことばっか。なあ、俺と仕事、どっちが大切?」
「……女みたいなこと言うなよ」
引いた筈の手をジュニョンに掴まれたシワンは、頼りなく微笑むジュニョンの瞳を見て、困ったような笑い方をした。
「言うさ。シワンが男前過ぎるから」
「……」
シワンは、黙った。葛藤が胸の奥で渦を巻いているような気がした。男らしく見せたいのに、何処かでジュニョンに甘えたくなる。ジュニョンの口から出た「男前」という言葉が重かった。
「——とにかく、調べよう。此処最近急に信者が増えた宗教だから、取り敢えずマネロンとか、薬とか、所得隠しあたりで摘発出来るかも」
甘くなりそうな空気を、無理矢理平常に戻そうとしてしまう自分が居た。
==================
鏡に映った自分を見て、ドンジュンは驚愕した。
嫌だ、放せ、ぶち殺すぞ、と抵抗したのに、服を無理矢理剥ぎ取られ、髪を掴まれ、二人掛かりで相手をされた。
「殺す!」
ドンジュンは怒りに任せて蹴りを繰り出そうとしたものの、脚に布切れが絡まり其れが空振りに終わった。
「大人しくしてろって!」
ジュニョンが一喝した。
——捜査は進み、或る団体にターゲットは絞られていた。
新興宗教団体。此処の信者が不審な死を迎えていたことに気付いたのはジュニョンが先立った。事件発生後真っ先にクァンヒの素性を調査し直し、彼が一時的に宗教家に引き取られていたことを知った。どのプロフィールにも其のデータは無かったが、彼についていた鑑定士の調査報告書に一部気になる記述があり、すぐにミヌにコンタクトを取った。
時系列は詳細には把握出来ていなかったが、ジュニョンの中で何パターンもの仮説を組み立て、どれも立証出来るよう論理だけは組み立てている。
そして。
「だから何で俺が女装なんだよ!?」
ドンジュンの罵声が響き、部屋の中で誰頭への救いを求めた。
「ドンジュンが一番適役かなって」
ミヌが、真面目に言おうとするものの堪えきれず、破顔しながら言った。
「じゃあ先輩がやればいいじゃないだろ!何で俺!?」
ドンジュンは、女性もののプリーツロングスカートにざっくりとしたドット柄のニットトップスを合わせ、短いボレロのカーディガンを腕を覆うように着させられている。頭には肩よりも20センチメートル程下まで伸びた濃い栗色のウィッグを被されている。其の姿は、遠目でも至近距離から見ても、紛うことなき「女」だった。
「俺は奴さんに顔割れてるし」
ミヌは笑い過ぎて目の端に溜まった涙を拭いながら言った。
「俺だって割れてますよ」
美少女がドスの利いた声で呟く。頬杖をついた横顔は、不機嫌さを丸出しにしていた。
パシャ
「あ!」
スマートフォンのカメラで撮影したジュニョンをドンジュンが咎める。手から端末を奪おうとするも、ジュニョンが高く掲げた腕の上にまでは手が届かない。
「さ、行った行った」
==================
施設
晴れた、春の近い日だった。
一台のタクシーが施設の手前で停止した。
「すげーな。意味わかんねえ」
タクシーから下りたドンジュンは、辺り一面を見回し、一回転する。
目に見える範囲だけでも広大だと分かる土地いっぱいに其の施設はあり、所々に門や堂のようなものが見える。
「係長。着きましたよ」
小型通信機を起動させ、本部と連絡を取る。ジュニョンの指示が聞こえた。
「よろしく。やばくなったらとっとと逃げろよ」
「了解」
通信を遮断した。
長い参道らしき場所を歩いて行くと、本堂の前で一人の人物が出迎えた。
其の人物こそ——
一度「退治」したはずの相手だった。
==================
施設の中には香の匂いが充満していた。
「初めまして、ハンさんですよね?」
「はい」
相手が確認してきたので、話を合わせる。一発で正体がばれる気もしていたが、今の相手——クァンヒからは其のような様子は微塵も感じない。夢中で施設や団体のことについて話している。
——罠?
——其れとも?
「家族という概念を特に大事にするんです。だから、此処に来る人たちは皆、家族同然。家族への恩を忘れず、孝養を尽くしましょうと言うのが我々の根底にあります」
話し続けるクァンヒの言葉に集中出来ないのは、ただ話の内容に興味が無いからというだけでなく、先ほどから部屋に漂う香りの所為な気がする。一刻も早く部屋を出たかったが、捜査が終わるまでは出られない。ドンジュンはうんざりしながら、笑顔でリアクションを取り続けた。
相手には話すだけ話させて、「楽しい会話」をしているのだという意識をさせること。其処でリラックスさせ、ボロを出すまで話し続けさせるのが一番だと心得ている。話の内容を覚えておく必要等無くて、目的の情報を得るまでは手っ取り早く信頼関係を築くしか無い。良い聞かせながら、教義や信仰の心得を聞いていた。
「此処までで、何か質問ありますか?」
——山ほどあるよ。
ドンジュンは内心そう思った。
「いえ、特には」
声帯を意識的に使い、女性らしい声で、ドンジュンは言った。
==================
ジュニョンとミヌの載ったGT-Rは、国道を北上していた。
「ドンジュン、大丈夫かな」
ミヌは流れて行く景色を眺めながら言った。制限速度をとっくに無視している車のスピードで、虫がフロントガラスにぶち当たり、汚い染みを作っている。
「心配はしてない。其れに、あいつは俺たちと違って、正義感が強いし」
「俺だって強いですよ」
一緒にするな、と咎めても其の言葉にはあまり説得力は無かった。
「——洗脳されてなきゃいいけど」
ドンジュンの顔が、過る。
「大丈夫だろ。あいつ、スイッチ入らないと人の気持ち全然分かんないから」
「常分かってない係長には言われたくないですね」
シワンは一抱えもある事務用のファイルを、ジュニョンのデスクの上に置いた。上手く積み重ねられなかった上の方のファイルが崩れそうになり、ジュニョンは慌てて其れがデスクの下へと落ちそうになるのを防いだ。
「……」
「何だよ、折角調べたのにありがとうの一言も無しか?」
少し不貞腐れた表情でシワンが尋ねる。目の前のジュニョンはぼんやりとしていた。デスクに両肘を乗せ、ファイルを支えたままシワンをただ見つめるばかりだった。
「ありがと」
ぼんやりしているな、と思ったら素直に笑って、言うもので、シワンの調子が狂う。
「仕事早過ぎてびっくりした」
「ああ、そう」
此の位出来て当然だし、と言ってみる。本当は、其の自分だけに向けられる柔らかい笑顔や垂れた目や伸びる鼻の下が、愛しくて嬉しかった。
「本気で思ってるよ」
そう言いながら、ジュニョンはシワンのまとめた資料をぱらぱらとめくった。黄色い付箋紙が所々に貼られており、シワンの几帳面さを物語っていた。流石、引く手数多の鑑定士だな、と思う。其の鋭い考察と分析力には唸るしか無かった。
「——やけに、此の団体気になってるみたいだけど?」
ジュニョンは開いたページを見せた。其処にはパソコンのディスプレイのスクリーンショットが何枚か連なって載っている。ウェブサイトの画面を其のまま画像として取り込んだらしい其れには、大きな山を切り崩したらしい土地に、東洋と西洋の宗教文化を混合させたような真っ白な建物が在った。
「気付かない?」
シワンは、見せられた写真を見ながら曖昧に笑う。
「何が」
やはり気付かないか、とシワンは思う。ジュニョンが広げていたファイルを「貸して」と受け取り、ジュニョンと一緒に其れを見るように体を近付けた。
「見覚え無い?ほら、此処の屋根の形」
「……?」
ジュニョンは座ったまま、ぐい、と首を伸ばしシワンが指差した建物の屋根を見つめた。シワンは「ほら、気付いた?」という顔をする。其の表情は、少し楽しむような、けれど何か苦々しいような、複雑な色で彩られていた。
「調べてみる価値はあると思う……ってこら」
ジュニョンが重ねて来る手に、別の意図を感じてシワンはさっと手を引っ込めた。
「何か、此処最近ご無沙汰だし」
「!」
「シワンはいつも、仕事のことばっか。なあ、俺と仕事、どっちが大切?」
「……女みたいなこと言うなよ」
引いた筈の手をジュニョンに掴まれたシワンは、頼りなく微笑むジュニョンの瞳を見て、困ったような笑い方をした。
「言うさ。シワンが男前過ぎるから」
「……」
シワンは、黙った。葛藤が胸の奥で渦を巻いているような気がした。男らしく見せたいのに、何処かでジュニョンに甘えたくなる。ジュニョンの口から出た「男前」という言葉が重かった。
「——とにかく、調べよう。此処最近急に信者が増えた宗教だから、取り敢えずマネロンとか、薬とか、所得隠しあたりで摘発出来るかも」
甘くなりそうな空気を、無理矢理平常に戻そうとしてしまう自分が居た。
==================
鏡に映った自分を見て、ドンジュンは驚愕した。
嫌だ、放せ、ぶち殺すぞ、と抵抗したのに、服を無理矢理剥ぎ取られ、髪を掴まれ、二人掛かりで相手をされた。
「殺す!」
ドンジュンは怒りに任せて蹴りを繰り出そうとしたものの、脚に布切れが絡まり其れが空振りに終わった。
「大人しくしてろって!」
ジュニョンが一喝した。
——捜査は進み、或る団体にターゲットは絞られていた。
新興宗教団体。此処の信者が不審な死を迎えていたことに気付いたのはジュニョンが先立った。事件発生後真っ先にクァンヒの素性を調査し直し、彼が一時的に宗教家に引き取られていたことを知った。どのプロフィールにも其のデータは無かったが、彼についていた鑑定士の調査報告書に一部気になる記述があり、すぐにミヌにコンタクトを取った。
時系列は詳細には把握出来ていなかったが、ジュニョンの中で何パターンもの仮説を組み立て、どれも立証出来るよう論理だけは組み立てている。
そして。
「だから何で俺が女装なんだよ!?」
ドンジュンの罵声が響き、部屋の中で誰頭への救いを求めた。
「ドンジュンが一番適役かなって」
ミヌが、真面目に言おうとするものの堪えきれず、破顔しながら言った。
「じゃあ先輩がやればいいじゃないだろ!何で俺!?」
ドンジュンは、女性もののプリーツロングスカートにざっくりとしたドット柄のニットトップスを合わせ、短いボレロのカーディガンを腕を覆うように着させられている。頭には肩よりも20センチメートル程下まで伸びた濃い栗色のウィッグを被されている。其の姿は、遠目でも至近距離から見ても、紛うことなき「女」だった。
「俺は奴さんに顔割れてるし」
ミヌは笑い過ぎて目の端に溜まった涙を拭いながら言った。
「俺だって割れてますよ」
美少女がドスの利いた声で呟く。頬杖をついた横顔は、不機嫌さを丸出しにしていた。
パシャ
「あ!」
スマートフォンのカメラで撮影したジュニョンをドンジュンが咎める。手から端末を奪おうとするも、ジュニョンが高く掲げた腕の上にまでは手が届かない。
「さ、行った行った」
==================
施設
晴れた、春の近い日だった。
一台のタクシーが施設の手前で停止した。
「すげーな。意味わかんねえ」
タクシーから下りたドンジュンは、辺り一面を見回し、一回転する。
目に見える範囲だけでも広大だと分かる土地いっぱいに其の施設はあり、所々に門や堂のようなものが見える。
「係長。着きましたよ」
小型通信機を起動させ、本部と連絡を取る。ジュニョンの指示が聞こえた。
「よろしく。やばくなったらとっとと逃げろよ」
「了解」
通信を遮断した。
長い参道らしき場所を歩いて行くと、本堂の前で一人の人物が出迎えた。
其の人物こそ——
一度「退治」したはずの相手だった。
==================
施設の中には香の匂いが充満していた。
「初めまして、ハンさんですよね?」
「はい」
相手が確認してきたので、話を合わせる。一発で正体がばれる気もしていたが、今の相手——クァンヒからは其のような様子は微塵も感じない。夢中で施設や団体のことについて話している。
——罠?
——其れとも?
「家族という概念を特に大事にするんです。だから、此処に来る人たちは皆、家族同然。家族への恩を忘れず、孝養を尽くしましょうと言うのが我々の根底にあります」
話し続けるクァンヒの言葉に集中出来ないのは、ただ話の内容に興味が無いからというだけでなく、先ほどから部屋に漂う香りの所為な気がする。一刻も早く部屋を出たかったが、捜査が終わるまでは出られない。ドンジュンはうんざりしながら、笑顔でリアクションを取り続けた。
相手には話すだけ話させて、「楽しい会話」をしているのだという意識をさせること。其処でリラックスさせ、ボロを出すまで話し続けさせるのが一番だと心得ている。話の内容を覚えておく必要等無くて、目的の情報を得るまでは手っ取り早く信頼関係を築くしか無い。良い聞かせながら、教義や信仰の心得を聞いていた。
「此処までで、何か質問ありますか?」
——山ほどあるよ。
ドンジュンは内心そう思った。
「いえ、特には」
声帯を意識的に使い、女性らしい声で、ドンジュンは言った。
==================
ジュニョンとミヌの載ったGT-Rは、国道を北上していた。
「ドンジュン、大丈夫かな」
ミヌは流れて行く景色を眺めながら言った。制限速度をとっくに無視している車のスピードで、虫がフロントガラスにぶち当たり、汚い染みを作っている。
「心配はしてない。其れに、あいつは俺たちと違って、正義感が強いし」
「俺だって強いですよ」
一緒にするな、と咎めても其の言葉にはあまり説得力は無かった。
「——洗脳されてなきゃいいけど」
ドンジュンの顔が、過る。
「大丈夫だろ。あいつ、スイッチ入らないと人の気持ち全然分かんないから」
「常分かってない係長には言われたくないですね」
「――上の空、って感じだな」
組み敷いたヒョンシクの上に跨がったケビンは、少し呆れた。
二人で横に並んで映画を見ていたのに、画面へ向けられた視線は、時折其の手前の空中で止まり、画面ではない何かを見ているようだった。映画の音声も耳に入っていないらしく、時折ケビンが笑ったときに、テンポが遅れて無理矢理に笑ったのが分かった。
少し悔しくなって、映画の場面が変わった瞬間に、隣同士に腰掛けていたソファに押し倒してみる。案の定、ヒョンシクのぼんやりとした体はいとも簡単にソファに寝かされ、其の視線が動揺した様子を隠そうともせずにケビンをただ見つめていた。
「いまそんな場面だったっけ……?」
「別に……」
言いながら、唇を重ねる。構って欲しいと思うなんて「らしく」ない。そう思うのに、ヒョンシクの意識が完全に何かに奪われているのが悔しくて、少し強引に舌を捩じ込んだ。
ぴちゃぴちゃと欲望を駆り立てる音がして、擦り合わせたズボンの布の下にあるもの同士が固くなっていることに気付く。ヒョンシクの頬から耳、頭皮へと左手の掌を滑らせながら、ヒョンシクの其処に手を伸ばす。
「ん……っ」
はあ、と息を吐く声にならないヒョンシクの声が聞こえて。無意識なのか計算なのか腰を擦り寄せて来る仕草にケビンは余計に興奮した。自分でヒョンシクの意識を埋め尽くせている、と思うと頭に血が上る。
カツン
歯と歯が当たるほど夢中でキスをする。既にどちらが夢中なのかすら分からなくなる。ヒョンシクの手がケビンの服の裾を引く。
「ん……ヒョン、電気」
「駄目」
冷たく言って、上からヒョンシクの顔を見下ろす。
「さっきまで意識飛ばしてたお仕置きだよ。今日は電気消さない」
耳に口を近付けて、はっきりと伝えてから耳朶にキスをした。
何時の間にか映画が終わり、DVDのデッキががたがたと機械音を立てていた。
其れも気にならないくらいに、二人の体の動きが激しくなる。
「ベッドの上では仕事のこと忘れるって約束だろ……」
ヒョンシクがこくりと頷く。
そうだ、約束――。
ヒョンシクは急に仕事を失った。
ファン・クァンヒという人間の鑑定は不要だ、と言い渡された。若い刑務官は不本意な表情を隠そうともせずに其のことを伝えに来、其の後見知らぬ中年の刑事から、ファン・クァンヒの出所が決まったということを聞いた。
「出所?すぐにですか?」
「すぐにだ。早ければ今日にでも此処を去る。ご苦労さんだったな」
そう言って刑事は、ヒョンシクの肩を叩いた。
意味が分からない。未だ自分は少ししか彼の鑑定が出来ていないのに。ヒョンシクは意味を成さないと分かっていながら、抗議した。
「何故ですか!?彼の鑑定は未だ終わっていない!其れを急に」
「あんたには関係の無い分野だ、パク先生さんよ」
「ほらまたそっぽ向いてる」
そう言われて左胸の乳首を摘まれれば、あ、とヒョンシクの唇から声が漏れる。眼前にケビンの顔があって、はっとする。
「どうしたのヒョン……今日は何かちょっと」
強引。
言いかけてまた口を塞がれる。
「ちょっと、何?」
ヒョンシクの股間をまさぐっていた手が、ぐいと其の中心を掴んでくる。強く見つめてくるケビンの瞳が、いつもの余裕が無い気がする。
「ちょっと、こわい」
「怖い?」
ヒョンシクは首を立てに2回振った。ケビンは、見つめた目に映る怯えに気付いてはっとした。
「……ごめん」
本当はケビンも、自分の言ったことに嘘をついていた。
仕事のことを忘れること。
例えば今日、確定後余りにも早く、或る死刑囚の刑が執行されたこと。
其れを忘れられず、朝からずっと何かが引っ掛かっていた。だから甘えたかったのかもしれない。此の年下の、自分よりも大きな図体と、其の肌に。
「あ、別にそうじゃなくて」
ヒョンシクは離れて行こうとするケビンの腕を掴んだ。
「電気消して良い?」
「……良いよ」
ケビンの許可を得て、ヒョンシクはリモートコントローラーで室内の照明を全て真っ暗にした。
遮光カーテンのある部屋は全て暗闇に包まれ、見えない中でしつこいほどに唇を求め合う。暗闇に慣れない目が見えない分、資格以外の感覚が鋭くなっていて、舌の絡まる音や衣服の擦れる音に意識が届いた。自分だけ脱がされるのがもどかしくて、ヒョンシクはケビンの着ていたトレーナーの下に手を入れてみた。
「んう…」
どちらともつかない、呼吸音が響く。キスをして、狭いソファの上から落ちないように身長になりながらも、足元でもたついていたジーンズを脱ぎ、下着をずらしていく。ソファーの皮に皮膚があたって、少し冷たいような感覚がある。
——何かにしがみついていなければいけないような、夜だった。
何故、とか、どうして、とか、疑問はいくらでも浮かんで来る。けれど二人の間での約束を果たすかのようにお互いの体に溺れて行く。
大きな手で扱かれれば、ヒョンシクの喘ぎ声が止まらなくなった。見えない中で手繰り寄せたクリームをヒョンシクの後ろに塗りたくると、期待に震えた其処がすんなりとケビンの指を受け入れた。
「んう……」
「声、出して良いよ」
「やだ」
少し苛めてみたくなって、指を日本に増やして乱暴に中を掻き回してみる。
「あ!やだ…あ、ん、」
「やならやめる」
「ちがう、指、もういい」
ヒョンシクの切羽詰まった声が響いた。ケビンの脚にヒョンシクの長い脚が絡み付き、下半身を密着させるように其の脚に力が込められた。
「入れて…入れたいでしょ?」
ヒョンシクは開脚させられ、其処に大きな杭を打たれた。ケビンの性器が入ってくるのを待ちわびていた身体と精神が悲鳴を上げる。
何も考えたくない。
ただ、考えたいのは、ケビンのことだけ。
何時の間にか約束は果たされていた。
最初から激しく突き上げられ、何度もソファーのがたつく音と、二つの肌のぶつかり合う音と、ヒョンシクの喘ぎ、ケビンのくぐもった呼吸が響いた。
部屋は何処までも淫靡な空気と、二人の連れて来た死の空気が充満する。
二人分の、蜂蜜のような体の匂いがした。
組み敷いたヒョンシクの上に跨がったケビンは、少し呆れた。
二人で横に並んで映画を見ていたのに、画面へ向けられた視線は、時折其の手前の空中で止まり、画面ではない何かを見ているようだった。映画の音声も耳に入っていないらしく、時折ケビンが笑ったときに、テンポが遅れて無理矢理に笑ったのが分かった。
少し悔しくなって、映画の場面が変わった瞬間に、隣同士に腰掛けていたソファに押し倒してみる。案の定、ヒョンシクのぼんやりとした体はいとも簡単にソファに寝かされ、其の視線が動揺した様子を隠そうともせずにケビンをただ見つめていた。
「いまそんな場面だったっけ……?」
「別に……」
言いながら、唇を重ねる。構って欲しいと思うなんて「らしく」ない。そう思うのに、ヒョンシクの意識が完全に何かに奪われているのが悔しくて、少し強引に舌を捩じ込んだ。
ぴちゃぴちゃと欲望を駆り立てる音がして、擦り合わせたズボンの布の下にあるもの同士が固くなっていることに気付く。ヒョンシクの頬から耳、頭皮へと左手の掌を滑らせながら、ヒョンシクの其処に手を伸ばす。
「ん……っ」
はあ、と息を吐く声にならないヒョンシクの声が聞こえて。無意識なのか計算なのか腰を擦り寄せて来る仕草にケビンは余計に興奮した。自分でヒョンシクの意識を埋め尽くせている、と思うと頭に血が上る。
カツン
歯と歯が当たるほど夢中でキスをする。既にどちらが夢中なのかすら分からなくなる。ヒョンシクの手がケビンの服の裾を引く。
「ん……ヒョン、電気」
「駄目」
冷たく言って、上からヒョンシクの顔を見下ろす。
「さっきまで意識飛ばしてたお仕置きだよ。今日は電気消さない」
耳に口を近付けて、はっきりと伝えてから耳朶にキスをした。
何時の間にか映画が終わり、DVDのデッキががたがたと機械音を立てていた。
其れも気にならないくらいに、二人の体の動きが激しくなる。
「ベッドの上では仕事のこと忘れるって約束だろ……」
ヒョンシクがこくりと頷く。
そうだ、約束――。
ヒョンシクは急に仕事を失った。
ファン・クァンヒという人間の鑑定は不要だ、と言い渡された。若い刑務官は不本意な表情を隠そうともせずに其のことを伝えに来、其の後見知らぬ中年の刑事から、ファン・クァンヒの出所が決まったということを聞いた。
「出所?すぐにですか?」
「すぐにだ。早ければ今日にでも此処を去る。ご苦労さんだったな」
そう言って刑事は、ヒョンシクの肩を叩いた。
意味が分からない。未だ自分は少ししか彼の鑑定が出来ていないのに。ヒョンシクは意味を成さないと分かっていながら、抗議した。
「何故ですか!?彼の鑑定は未だ終わっていない!其れを急に」
「あんたには関係の無い分野だ、パク先生さんよ」
「ほらまたそっぽ向いてる」
そう言われて左胸の乳首を摘まれれば、あ、とヒョンシクの唇から声が漏れる。眼前にケビンの顔があって、はっとする。
「どうしたのヒョン……今日は何かちょっと」
強引。
言いかけてまた口を塞がれる。
「ちょっと、何?」
ヒョンシクの股間をまさぐっていた手が、ぐいと其の中心を掴んでくる。強く見つめてくるケビンの瞳が、いつもの余裕が無い気がする。
「ちょっと、こわい」
「怖い?」
ヒョンシクは首を立てに2回振った。ケビンは、見つめた目に映る怯えに気付いてはっとした。
「……ごめん」
本当はケビンも、自分の言ったことに嘘をついていた。
仕事のことを忘れること。
例えば今日、確定後余りにも早く、或る死刑囚の刑が執行されたこと。
其れを忘れられず、朝からずっと何かが引っ掛かっていた。だから甘えたかったのかもしれない。此の年下の、自分よりも大きな図体と、其の肌に。
「あ、別にそうじゃなくて」
ヒョンシクは離れて行こうとするケビンの腕を掴んだ。
「電気消して良い?」
「……良いよ」
ケビンの許可を得て、ヒョンシクはリモートコントローラーで室内の照明を全て真っ暗にした。
遮光カーテンのある部屋は全て暗闇に包まれ、見えない中でしつこいほどに唇を求め合う。暗闇に慣れない目が見えない分、資格以外の感覚が鋭くなっていて、舌の絡まる音や衣服の擦れる音に意識が届いた。自分だけ脱がされるのがもどかしくて、ヒョンシクはケビンの着ていたトレーナーの下に手を入れてみた。
「んう…」
どちらともつかない、呼吸音が響く。キスをして、狭いソファの上から落ちないように身長になりながらも、足元でもたついていたジーンズを脱ぎ、下着をずらしていく。ソファーの皮に皮膚があたって、少し冷たいような感覚がある。
——何かにしがみついていなければいけないような、夜だった。
何故、とか、どうして、とか、疑問はいくらでも浮かんで来る。けれど二人の間での約束を果たすかのようにお互いの体に溺れて行く。
大きな手で扱かれれば、ヒョンシクの喘ぎ声が止まらなくなった。見えない中で手繰り寄せたクリームをヒョンシクの後ろに塗りたくると、期待に震えた其処がすんなりとケビンの指を受け入れた。
「んう……」
「声、出して良いよ」
「やだ」
少し苛めてみたくなって、指を日本に増やして乱暴に中を掻き回してみる。
「あ!やだ…あ、ん、」
「やならやめる」
「ちがう、指、もういい」
ヒョンシクの切羽詰まった声が響いた。ケビンの脚にヒョンシクの長い脚が絡み付き、下半身を密着させるように其の脚に力が込められた。
「入れて…入れたいでしょ?」
ヒョンシクは開脚させられ、其処に大きな杭を打たれた。ケビンの性器が入ってくるのを待ちわびていた身体と精神が悲鳴を上げる。
何も考えたくない。
ただ、考えたいのは、ケビンのことだけ。
何時の間にか約束は果たされていた。
最初から激しく突き上げられ、何度もソファーのがたつく音と、二つの肌のぶつかり合う音と、ヒョンシクの喘ぎ、ケビンのくぐもった呼吸が響いた。
部屋は何処までも淫靡な空気と、二人の連れて来た死の空気が充満する。
二人分の、蜂蜜のような体の匂いがした。
「——寝た?」
ジュニョンは受話器から聞こえた話を聞いて、驚いた。声は静かな執務室に響き、椅子に座って事件の資料に目を通していたシワンがジュニョンの顔を見上げた。
「というか、気を失っちゃった感じ」
テホンの落ち着いた、顰めた声が聞こえた。
「やばい?」
「うーん、本人もちょっと今回はヘヴィだったみたい。あんまり部下酷使しちゃ駄目だよ」
「してないけど」
「うん、知ってる」
ジュニョンはそんなことしないって知ってるよ、とテホンの笑う声がジュニョンの右耳に入った。其れは、全部分かっているとでも言いたげな声で、ジュニョンは少し気恥ずかしいような気持ちになる。誤摩化すように、口早になった。
「で、何、そっち行けば良いの?」
「そう、保護者が引き取りに来てよ」
「了解」
受話器を元に戻すと、ここぞとばかりにシワンが口を開いた。
「ドンジュン、大丈夫?病気?」
瞳が揺れていた。右手でペンを、左手で資料のA4用紙の端を掴んだまま、ジュニョンに話し掛ける其の姿が、何処か年齢よりもずっと下に見えた。不安げな表情の所為かも知れない。
「珍しいっちゃ珍しいけど、大丈夫だと思う」
問題無い、と思う。気にならない訳ではないけれど、そんなことを言っていちいち心配していられるほど暇な仕事でもないし、軟弱な仕事ぶりでもない。大人なのだ。
「でも……」
「俺らは、『刑事』。ね?」
だから心配するな、と言う素振りでシワンの髪に徐に手を滑り込ませた。髪をくしゃくしゃにし、手を放そうとする。あ、とシワンは思い咄嗟に其の指を掴み、指と指を絡ませた。
ジュニョンが絡めとられた指を見る。其のポーカーフェイスが驚きの表情に変わって、唇がほんの少しだけ上下に開いていた。
「何?」
ジュニョンは目線をまず指に、そしてシワンの半月型の目に動かした。
「あ……」
シワンが指をほどけず、けれども目も合わせられない、といった表情で俯く。
「意外とかまってちゃん?」
「うるさい!さっさと行ってやれよ!」
「言ってることとやってることがばらばら」
くすくす、と笑う。ジュニョンのくぐもった声が響く。
「うるさい!」
まだ絡まったままの指が逃げようとするので、ジュニョンが其の手を引く。一瞬腕を掴んで、素早く肩を抱き寄せた。テーブル越しに、二人の体が密着する。
ジュニョンがシワンの右耳に唇を押し当てた。
「あんまり可愛いことしない方が良いよ。俺、割と何処でも気にしないし」
「——!!」
シワンの体が硬直したことが、ジュニョンの掴んでいる肩の緊張から伝わる。可愛いな、と思う。まるで恋を知ったばかりの女学生のようだ。ジュニョンは唇で湿らせたシワンの耳にふ、と息を吹きかけた。ますます緊張してぶるっとシワンが震える。顔を近付けるとシワンが目を瞑っていたので、そのまま鼻を甘噛みしてみた。
「——っ」
甘い痛みにシワンが目を開ける。ジュニョンの視線とシワンの視線が絡まり、一瞬で焦点距離は近くなった。
シワンが事態を把握するよりも早く、軽くキスをされた。
「行けって!」
シワンが右手でジュニョンの体を押し返し、やっと声を発した。
「言われなくても?」
ジュニョンは、近くの椅子の背にかけてあったジャケットを手に持って部屋を出て行った。
——訳が分からない。
シワンは、資料を几帳面に重ねて机の右側に寄せると、自分の前に出来たスペースに突っ伏した。
==================
冷たい白い床に、ドンジュンは横向きになって文字通り寝転がっていた。
頬はやや色を失って、眉根が強張った状態で眠っている。
「ドンジュン……何か言ってた?」
ジュニョンは部屋の外からガラス越しにドンジュンを見ながら、目線を動かさずにテホンに尋ねた。
「『宗教だ』って。シンクロしてるとき怖い顔してたよ。完全に乗っ取られてた」
「どういう人格?」
「さあ……俺は今のジュニョンが居る所の位置から見てただけだから、何とも」
テホンがごめんねと軽く謝ったので、ジュニョンは其の謝罪を手で制止した。
「あ、謝らないで。そっか、分かった」
——宗教、か……
「本当、俺も含めて第1の子達は皆ジュニョンが好きで集まってるんだから、あんまりこき使っちゃ駄目だよ」
でなきゃあんな大変な仕事続かないよ、とテホンがコーヒーの入ったタンブラーを口に当てながら言った。ドンジュンのことを言っているのだろう。
「何だそりゃ」
「告白です」
「は?」
「嘘。こき使うなって牽制」
そう言ってテホンが笑う。何処か余裕のある笑みを見せられて、動揺した。
「はーびっくりした」
ジュニョンは異様に驚いた様子で、胸を撫で下ろす。
「其れは其れで傷付くんだけど」
「いや、びっくりするだろ」
ん……
「あ」
眠っていたはずのドンジュンがもぞもぞと床の上で動いて、二人の意識はそちらに向いた。
「——覚醒後は夢を引き摺ってるかもしれないから、一応気を付けて」
テホンがドンジュンの居る場所に続く扉を開けながら、ジュニョンに言った。ドアを押して開ける。
「知ってる。——オラドンジュン起きろ」
覚醒したドンジュンはドンジュンでしかなく、足で蹴り起こそうとしたジュニョンは見事に倍返し以上の扱いを受けた。
==================
法務大臣邸宅
「——二年ぶりか?元気にしていたか」
其の老いた大臣は葉巻を片手に、椅子に深々と座り、立ったままのミヌと向き合っていた。部屋には葉巻から出る独特の匂いと煙が充満しており、ミヌには其の匂いがスーツに付着するのが不愉快だった。
「用件のみお伝えしておいとまさせていただきます。お忙しい大臣のお時間をいただく訳にはいきませんので」
ミヌは其の葉巻の煙の元を見つめながら、一息で言った。
「相変わらず強情だな。久しぶりの孫との再会なのに、嬉しさに浸らせてもくれないのか。其れとも未だ、あのことを引き摺っているのかね?それに、其れが人にものを頼む態度かね」
老人はゆっくりと垂れ下がった頬の皮膚を持ち上げるようにして笑った。
「大臣」
冷たい、響き。
「用件は司法取引をご検討いただきたいことです。ファン・クァンヒという囚人が今医療刑務所に居ますが、其の人物を出所させてください」
応接間に沈黙が流れた。
「何?」
ハ法務大臣——ミヌの祖父——は葉巻を皿の上に起き、ミヌを見つめた。
「ですから早期出所を」
「……」
値踏みをするような不躾な視線を感じるも、ミヌは無視をした。
「YesですかNoですか?俺の話したいことは其れだけです。俺は一秒だって貴方と同じ空気を吸っていたくないんだ」
ジュニョンは受話器から聞こえた話を聞いて、驚いた。声は静かな執務室に響き、椅子に座って事件の資料に目を通していたシワンがジュニョンの顔を見上げた。
「というか、気を失っちゃった感じ」
テホンの落ち着いた、顰めた声が聞こえた。
「やばい?」
「うーん、本人もちょっと今回はヘヴィだったみたい。あんまり部下酷使しちゃ駄目だよ」
「してないけど」
「うん、知ってる」
ジュニョンはそんなことしないって知ってるよ、とテホンの笑う声がジュニョンの右耳に入った。其れは、全部分かっているとでも言いたげな声で、ジュニョンは少し気恥ずかしいような気持ちになる。誤摩化すように、口早になった。
「で、何、そっち行けば良いの?」
「そう、保護者が引き取りに来てよ」
「了解」
受話器を元に戻すと、ここぞとばかりにシワンが口を開いた。
「ドンジュン、大丈夫?病気?」
瞳が揺れていた。右手でペンを、左手で資料のA4用紙の端を掴んだまま、ジュニョンに話し掛ける其の姿が、何処か年齢よりもずっと下に見えた。不安げな表情の所為かも知れない。
「珍しいっちゃ珍しいけど、大丈夫だと思う」
問題無い、と思う。気にならない訳ではないけれど、そんなことを言っていちいち心配していられるほど暇な仕事でもないし、軟弱な仕事ぶりでもない。大人なのだ。
「でも……」
「俺らは、『刑事』。ね?」
だから心配するな、と言う素振りでシワンの髪に徐に手を滑り込ませた。髪をくしゃくしゃにし、手を放そうとする。あ、とシワンは思い咄嗟に其の指を掴み、指と指を絡ませた。
ジュニョンが絡めとられた指を見る。其のポーカーフェイスが驚きの表情に変わって、唇がほんの少しだけ上下に開いていた。
「何?」
ジュニョンは目線をまず指に、そしてシワンの半月型の目に動かした。
「あ……」
シワンが指をほどけず、けれども目も合わせられない、といった表情で俯く。
「意外とかまってちゃん?」
「うるさい!さっさと行ってやれよ!」
「言ってることとやってることがばらばら」
くすくす、と笑う。ジュニョンのくぐもった声が響く。
「うるさい!」
まだ絡まったままの指が逃げようとするので、ジュニョンが其の手を引く。一瞬腕を掴んで、素早く肩を抱き寄せた。テーブル越しに、二人の体が密着する。
ジュニョンがシワンの右耳に唇を押し当てた。
「あんまり可愛いことしない方が良いよ。俺、割と何処でも気にしないし」
「——!!」
シワンの体が硬直したことが、ジュニョンの掴んでいる肩の緊張から伝わる。可愛いな、と思う。まるで恋を知ったばかりの女学生のようだ。ジュニョンは唇で湿らせたシワンの耳にふ、と息を吹きかけた。ますます緊張してぶるっとシワンが震える。顔を近付けるとシワンが目を瞑っていたので、そのまま鼻を甘噛みしてみた。
「——っ」
甘い痛みにシワンが目を開ける。ジュニョンの視線とシワンの視線が絡まり、一瞬で焦点距離は近くなった。
シワンが事態を把握するよりも早く、軽くキスをされた。
「行けって!」
シワンが右手でジュニョンの体を押し返し、やっと声を発した。
「言われなくても?」
ジュニョンは、近くの椅子の背にかけてあったジャケットを手に持って部屋を出て行った。
——訳が分からない。
シワンは、資料を几帳面に重ねて机の右側に寄せると、自分の前に出来たスペースに突っ伏した。
==================
冷たい白い床に、ドンジュンは横向きになって文字通り寝転がっていた。
頬はやや色を失って、眉根が強張った状態で眠っている。
「ドンジュン……何か言ってた?」
ジュニョンは部屋の外からガラス越しにドンジュンを見ながら、目線を動かさずにテホンに尋ねた。
「『宗教だ』って。シンクロしてるとき怖い顔してたよ。完全に乗っ取られてた」
「どういう人格?」
「さあ……俺は今のジュニョンが居る所の位置から見てただけだから、何とも」
テホンがごめんねと軽く謝ったので、ジュニョンは其の謝罪を手で制止した。
「あ、謝らないで。そっか、分かった」
——宗教、か……
「本当、俺も含めて第1の子達は皆ジュニョンが好きで集まってるんだから、あんまりこき使っちゃ駄目だよ」
でなきゃあんな大変な仕事続かないよ、とテホンがコーヒーの入ったタンブラーを口に当てながら言った。ドンジュンのことを言っているのだろう。
「何だそりゃ」
「告白です」
「は?」
「嘘。こき使うなって牽制」
そう言ってテホンが笑う。何処か余裕のある笑みを見せられて、動揺した。
「はーびっくりした」
ジュニョンは異様に驚いた様子で、胸を撫で下ろす。
「其れは其れで傷付くんだけど」
「いや、びっくりするだろ」
ん……
「あ」
眠っていたはずのドンジュンがもぞもぞと床の上で動いて、二人の意識はそちらに向いた。
「——覚醒後は夢を引き摺ってるかもしれないから、一応気を付けて」
テホンがドンジュンの居る場所に続く扉を開けながら、ジュニョンに言った。ドアを押して開ける。
「知ってる。——オラドンジュン起きろ」
覚醒したドンジュンはドンジュンでしかなく、足で蹴り起こそうとしたジュニョンは見事に倍返し以上の扱いを受けた。
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法務大臣邸宅
「——二年ぶりか?元気にしていたか」
其の老いた大臣は葉巻を片手に、椅子に深々と座り、立ったままのミヌと向き合っていた。部屋には葉巻から出る独特の匂いと煙が充満しており、ミヌには其の匂いがスーツに付着するのが不愉快だった。
「用件のみお伝えしておいとまさせていただきます。お忙しい大臣のお時間をいただく訳にはいきませんので」
ミヌは其の葉巻の煙の元を見つめながら、一息で言った。
「相変わらず強情だな。久しぶりの孫との再会なのに、嬉しさに浸らせてもくれないのか。其れとも未だ、あのことを引き摺っているのかね?それに、其れが人にものを頼む態度かね」
老人はゆっくりと垂れ下がった頬の皮膚を持ち上げるようにして笑った。
「大臣」
冷たい、響き。
「用件は司法取引をご検討いただきたいことです。ファン・クァンヒという囚人が今医療刑務所に居ますが、其の人物を出所させてください」
応接間に沈黙が流れた。
「何?」
ハ法務大臣——ミヌの祖父——は葉巻を皿の上に起き、ミヌを見つめた。
「ですから早期出所を」
「……」
値踏みをするような不躾な視線を感じるも、ミヌは無視をした。
「YesですかNoですか?俺の話したいことは其れだけです。俺は一秒だって貴方と同じ空気を吸っていたくないんだ」
——貸し借りは嫌いだ、本当は。
通話を終えたミヌは、携帯電話を机の上に置くと、はあ、と溜め息をついた。壁一面が窓ガラスになっている空間で、足元に広がるビル群を見つめる。
此の街が壊れようと、世界が終わろうと、どうでも良いと思ったときもあったな、と思う。寧ろ其れは今でも変わらない。別に自分には関係が無いと思う。
ミヌはガラスに凭れた。
今此の背にしたガラスが粉々になったら、高層ビルから落下して、其の途中で気を失って、一瞬で死ぬのだろうかと想像してみる。きらきらと舞いながら散り行くガラスの欠片にまみれる自分の体を思い描いてみる。けれどガラスは砕けず、ミヌの体は冷えたガラスに密着しているだけだった。
目を閉じる。部屋の空調の僅かな音が耳に届く。ジュニョンとの会話を思い出す。
==================
数十分前
「頼みがある。聞いてくれないか」
「何?」
二人きりになると、油断してミヌの敬語が崩れた。
「進言してほしいんだ」
ジュニョンは少し苦々しい顔をして、まるで不本意だと語りかけるような表情で、口を開いた。其の仕草が酷くわざとらしくて、ミヌは顔を強張らせ同じ姿勢を保ったまま見つめる。
「……」
進言、という言葉のニュアンスから、思い当たるのは一つのことしかなかった。
「……ハ法務大臣に?」
「察しが良いな」
「貴方の考えなんてお見通しですよ」
ふ、と笑みを見せる。
「じゃあ」
ミヌの笑顔を見て、ジュニョンは自分の要求が通ったかのように表情筋を弛緩させた。
「嫌です」
にこり、と笑って拒絶した。貴方の頼みでも聞けないと。二人の間に、おかしな沈黙が流れる。ミヌは体を翻し、ジュニョンに背を向けた。
「ミヌ!」
呼ばれて、ミヌが振り返る。
「——キスしてくれたら考えてもいいかな?」
ジュニョンの居た場所から、ミヌの体は大きな窓から注ぐ日の光に照らされ、逆光で表情が見えなくなって、声だけが聞こえた。
其の光の中に、ジュニョンが飛び込む。
「——此れでいい?」
唇が、重なってすぐに離れた。
光の中で抱かれ、ジュニョンの顔を見る。
「ううん、もっと凄いやつ」
自分の唇を押し付け返した。
ミヌは唇から流し込まれたジュニョンの唾液と其の要求を飲んだ。
==================
鑑識課の部屋の前で、ドンジュンは忘れていた呼吸をした。極度の緊張状態で口がからからと乾き、何度も水が欲しくなる。震えそうになる体を必死で意思の強さで押さえ付けるように、足を踏み鳴らした。
「キム検視官!」
まるで道場破りか何かのように扉を開け放つと、ドンジュンは大声でテホンを呼び出した。
「そんな大きな声で呼ばなくても大丈夫だよ。先に内線かけてくれれば良かったのに」
部屋を見回そうとしたとき、丁度扉の傍にある本棚で資料を戻そうとしていたテホンと目が合った。
「面倒臭い」
「ああ、そう……」
半ば——というか大方諦めた表情で、テホンは手元にあった大きなバインダーを全て本棚に戻した。
「今からあれやるから、立会いお願いできる?」
向き合ったドンジュンは、少し緊張した顔をしていた。此の刑事は表情豊かで感情を隠すのは下手なようだな、と思う。少し震え、これから其の身に起こる変化を予知しているかのようだった。
「分かった」
白衣を着ていたスーツの上からざっくりと羽織ると、テホンは入口のジュニョンに歩み寄った。二人は無言で部屋を離れ、高セキュリティエリアの入口で入室の認証を突破し、部屋の中へ入った。
テホンが再び、「彼女」を連れ出す。冷たい冷凍庫のような機会の中で保存されていた遺体と、対面する。ドンジュンは其の体とテホンの顔を交互に見て、呟いた。
「ねえ、俺が暴走したり、血迷うことがあったら、絶対止めてね。ぶん殴っていいから」
表情は少し思い詰めている。
「あはは、どうしよう。ぶん殴ったら何倍にもお返しされそうだなあ」
わざと呑気な振りをして、テホンが言った。
「其れはするね。絶対。だから、そう出来るように、俺のこと見守ってて」
「了解」
——ごめんね、今からあんたを殺した奴らとシンクロする。だから、あんたの体に残ってる、傷、全部見せて。お願いだ。侵害してごめん。死んでも、こんな想いさせてごめんね。
ドンジュンは目を閉じて指を組み、何も願わない手を合わせ、其処に軽く口付けた。
目を見開き、感じることのできる全ての負の感情にシンクロしていく。体中の穴という穴から、遺体に残存する加害者の悪意や憎悪を取り込んで行く。加害者と一体化していく感覚があった。
==================
殺してやる。
一思いに楽になんて、させない。最初は爪、次は指。手先と、爪先からへし折っていこう。何処で気を失うかな。気を失ったら何度でも目を覚まさせよう。勿論、下を噛んで死ぬようなことはさせない。何か銜えさせよう、何がいいかな?
ああ、でもまずは此の子が処女みたいだから、膜を破れさせるくらいに犯そうか。
尊厳も、人格も、命も、全部奪うんだ。
裏切り者には、死を。
他の信者にも知らせなければならないからね。
終わったら背中に烙印を押そう。
逃れようとしても無駄だよ。
君たちが逃げようとするからいけないんだ。
見せしめだ。
==================
「——ジュン!ドンジュン!!」
テホンの大声で我に返った。気付くと後ろから羽交い締めにされている。ドンジュンは錯乱状態から意識を徐々に取り戻していった。
「しっかりしろ!」
後ろから回された腕で両肩を掴まれて体を揺さぶられた。
「あ……キム、けんしかん……おれ……?」
「しっかりして。意識はある?俺が誰だか分かる?自分のことは?」
「あ、だい、じょう、ぶ……」
「全然大丈夫じゃ無さそうだな」
テホンが手を放すと、ドンジュンは床に崩れ落ち、ばたばたと動いて仰向けに寝転がって、停止した。
「大丈夫……暗い、よく、分からない世界だった……宗教?かな?」
シンクロの過程で得たいくつかの情報を手繰り寄せる。人数まで把握出来ないが少なくとも複数の雑念が混じっており、やはり犯人が複数犯であることは理解できた。しかし、其の身元も、人数も分からない。ただ感じたのは、恐ろしい意図と、宗教の存在だった。
「宗教?」
「……多分。今日は、其れだけ……駄目、こんな疲れるの、久しぶりだ……ちょっと、眠らせて…………」
其のまま床で眠り込んでしまったドンジュンのことを、テホンは彼が次に自力で目を覚ますまで、ずっと見守っていた。
通話を終えたミヌは、携帯電話を机の上に置くと、はあ、と溜め息をついた。壁一面が窓ガラスになっている空間で、足元に広がるビル群を見つめる。
此の街が壊れようと、世界が終わろうと、どうでも良いと思ったときもあったな、と思う。寧ろ其れは今でも変わらない。別に自分には関係が無いと思う。
ミヌはガラスに凭れた。
今此の背にしたガラスが粉々になったら、高層ビルから落下して、其の途中で気を失って、一瞬で死ぬのだろうかと想像してみる。きらきらと舞いながら散り行くガラスの欠片にまみれる自分の体を思い描いてみる。けれどガラスは砕けず、ミヌの体は冷えたガラスに密着しているだけだった。
目を閉じる。部屋の空調の僅かな音が耳に届く。ジュニョンとの会話を思い出す。
==================
数十分前
「頼みがある。聞いてくれないか」
「何?」
二人きりになると、油断してミヌの敬語が崩れた。
「進言してほしいんだ」
ジュニョンは少し苦々しい顔をして、まるで不本意だと語りかけるような表情で、口を開いた。其の仕草が酷くわざとらしくて、ミヌは顔を強張らせ同じ姿勢を保ったまま見つめる。
「……」
進言、という言葉のニュアンスから、思い当たるのは一つのことしかなかった。
「……ハ法務大臣に?」
「察しが良いな」
「貴方の考えなんてお見通しですよ」
ふ、と笑みを見せる。
「じゃあ」
ミヌの笑顔を見て、ジュニョンは自分の要求が通ったかのように表情筋を弛緩させた。
「嫌です」
にこり、と笑って拒絶した。貴方の頼みでも聞けないと。二人の間に、おかしな沈黙が流れる。ミヌは体を翻し、ジュニョンに背を向けた。
「ミヌ!」
呼ばれて、ミヌが振り返る。
「——キスしてくれたら考えてもいいかな?」
ジュニョンの居た場所から、ミヌの体は大きな窓から注ぐ日の光に照らされ、逆光で表情が見えなくなって、声だけが聞こえた。
其の光の中に、ジュニョンが飛び込む。
「——此れでいい?」
唇が、重なってすぐに離れた。
光の中で抱かれ、ジュニョンの顔を見る。
「ううん、もっと凄いやつ」
自分の唇を押し付け返した。
ミヌは唇から流し込まれたジュニョンの唾液と其の要求を飲んだ。
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鑑識課の部屋の前で、ドンジュンは忘れていた呼吸をした。極度の緊張状態で口がからからと乾き、何度も水が欲しくなる。震えそうになる体を必死で意思の強さで押さえ付けるように、足を踏み鳴らした。
「キム検視官!」
まるで道場破りか何かのように扉を開け放つと、ドンジュンは大声でテホンを呼び出した。
「そんな大きな声で呼ばなくても大丈夫だよ。先に内線かけてくれれば良かったのに」
部屋を見回そうとしたとき、丁度扉の傍にある本棚で資料を戻そうとしていたテホンと目が合った。
「面倒臭い」
「ああ、そう……」
半ば——というか大方諦めた表情で、テホンは手元にあった大きなバインダーを全て本棚に戻した。
「今からあれやるから、立会いお願いできる?」
向き合ったドンジュンは、少し緊張した顔をしていた。此の刑事は表情豊かで感情を隠すのは下手なようだな、と思う。少し震え、これから其の身に起こる変化を予知しているかのようだった。
「分かった」
白衣を着ていたスーツの上からざっくりと羽織ると、テホンは入口のジュニョンに歩み寄った。二人は無言で部屋を離れ、高セキュリティエリアの入口で入室の認証を突破し、部屋の中へ入った。
テホンが再び、「彼女」を連れ出す。冷たい冷凍庫のような機会の中で保存されていた遺体と、対面する。ドンジュンは其の体とテホンの顔を交互に見て、呟いた。
「ねえ、俺が暴走したり、血迷うことがあったら、絶対止めてね。ぶん殴っていいから」
表情は少し思い詰めている。
「あはは、どうしよう。ぶん殴ったら何倍にもお返しされそうだなあ」
わざと呑気な振りをして、テホンが言った。
「其れはするね。絶対。だから、そう出来るように、俺のこと見守ってて」
「了解」
——ごめんね、今からあんたを殺した奴らとシンクロする。だから、あんたの体に残ってる、傷、全部見せて。お願いだ。侵害してごめん。死んでも、こんな想いさせてごめんね。
ドンジュンは目を閉じて指を組み、何も願わない手を合わせ、其処に軽く口付けた。
目を見開き、感じることのできる全ての負の感情にシンクロしていく。体中の穴という穴から、遺体に残存する加害者の悪意や憎悪を取り込んで行く。加害者と一体化していく感覚があった。
==================
殺してやる。
一思いに楽になんて、させない。最初は爪、次は指。手先と、爪先からへし折っていこう。何処で気を失うかな。気を失ったら何度でも目を覚まさせよう。勿論、下を噛んで死ぬようなことはさせない。何か銜えさせよう、何がいいかな?
ああ、でもまずは此の子が処女みたいだから、膜を破れさせるくらいに犯そうか。
尊厳も、人格も、命も、全部奪うんだ。
裏切り者には、死を。
他の信者にも知らせなければならないからね。
終わったら背中に烙印を押そう。
逃れようとしても無駄だよ。
君たちが逃げようとするからいけないんだ。
見せしめだ。
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「——ジュン!ドンジュン!!」
テホンの大声で我に返った。気付くと後ろから羽交い締めにされている。ドンジュンは錯乱状態から意識を徐々に取り戻していった。
「しっかりしろ!」
後ろから回された腕で両肩を掴まれて体を揺さぶられた。
「あ……キム、けんしかん……おれ……?」
「しっかりして。意識はある?俺が誰だか分かる?自分のことは?」
「あ、だい、じょう、ぶ……」
「全然大丈夫じゃ無さそうだな」
テホンが手を放すと、ドンジュンは床に崩れ落ち、ばたばたと動いて仰向けに寝転がって、停止した。
「大丈夫……暗い、よく、分からない世界だった……宗教?かな?」
シンクロの過程で得たいくつかの情報を手繰り寄せる。人数まで把握出来ないが少なくとも複数の雑念が混じっており、やはり犯人が複数犯であることは理解できた。しかし、其の身元も、人数も分からない。ただ感じたのは、恐ろしい意図と、宗教の存在だった。
「宗教?」
「……多分。今日は、其れだけ……駄目、こんな疲れるの、久しぶりだ……ちょっと、眠らせて…………」
其のまま床で眠り込んでしまったドンジュンのことを、テホンは彼が次に自力で目を覚ますまで、ずっと見守っていた。
医療刑務所
鉄格子の窓から空を覗く。
昼間だと分かるぼんやりと白い明るさを持った空から、雨は未だ降り続いていた。昨晩は激しく降っていた気がする。
昨晩――
思い出して、ヒョンシクは顔が綻びそうになるのを抑えた。思案顔を作るつもりで、何となく頬に掌を当て、目線を足元に泳がせた。
――"好きだよ、ヒョンシク"
囁く声を唐突に思い出してしまう。昨夜、本当は起きてケビンがシャワーから出てくるのを待っているはずだったのに、何だか気恥ずかしくなって目を閉じていたら、其のまま眠ってしまった。ケビンが出て来たことに気付いたのに、瞼が開けられない程疲れていて、結局寝たふりと本気で眠り込んでしまった状態のとの狭間で、ヒョンシクはケビンの告白を聞いた。
(幸せだ)
ヒョンシクはそう思った。
「パク先生、こちらです」
急にドアから顔を出した刑務官に名前を呼ばれて、ヒョンシクは我に返った。
「はい」
ぼんやりしていたところを隠すように、再度手元の資料の氏名の部分から目を通し、準備をしていたふりをする。
ファン・クァンヒ。
今日の面談の相手の顔写真は、半月型の目を細めて微笑む、囚人には相応しくない満面の笑みを見せていた。
案内された部屋に入ると、写真と全く同じ笑みを浮かべた、痩せた男が椅子に座っていた。
「お客さん!お客さん!」
甲高い声を上げ、来訪者を喜んでいる姿はまるで幼児のようだった。
「退屈してたんだよ。話し相手になってくれる?」
そう言って向けられた笑顔は邪気が無く、相変わらず離す度に落ち着きがなく体の一部が動くようだった。彼の床を踏む音が、白い衛生的な空間で鳴っていた。
——チック症。
ヒョンシクは資料にあった文字を思い出す。鑑定の際は相手の言葉に集中するために殆ど資料に目を通さないことが多かったが、何故か其の単語だけは頭に残っている。
狂っているのか。
狂ったふりをしているだけなのか——。
「ああ、良いよ。話し相手になろう」
ヒョンシクは笑い、其の精神異常とされた殺人犯の前に座った。
==================
「——ねえ、ねえってばぼくしさま」
低い所から聞こえた声にはっとした。声の主を探すと、自分の足元に少年が立っている。そう言えばミサでよく見る子供だが、彼はいつも両親に手を引かれ、母親か父親のどちらかに抱かれていることが多くて、周りの子供達と話しているところは見たことがなかった。
午後の庭で、植えられた木々に水をやっている手を止めた。ホースから吹き出していた水は止まり、ぼんやりと浮かんでいた小さな虹も消えていた。
「ごめんね、気付かなかったんだ。——どうかしたのかな?」
ケビンは立っていた姿勢から屈み込み、少年と目を合わせた。真正面から顔を見たのも、もしかしたら初めてかもしれない。彼は何処か恥ずかしがりやで、両親のどちらかに抱かれている時も、顔を其の胸に押し付けるようにして埋めており、半分くらいしか顔が見えないことの方が多かった気がする。
対面してみると、幼いながらも、整った、可愛らしい顔立ちだと思う。
其の黒目がちな瞳は、真っ直ぐにケビンを見返すと、後ろ手に持っていたものをすっとケビンの目の前に差し出した。
白い、花。
沈丁花の花だった。
「みんながね、ぼくのことへんだって、いうんだ。じんちょうげ、きれいだよねっていったら、へんだって。おんなのこみたいだって」
少年は手を真っ直ぐに伸ばし、ケビンに花を差し出した格好のまま、突然泣き始めた。
「じんちょうげ、きれいだよね?ぼく、おんなのこみたい?ぼくは……へん?」
彼が手で涙を拭ったとき、其の腕に傷があることに気付いた。未だ新しい傷の周りには痣のような痕がある。
「すきなこが、いてね。ぼく、あげたんだ、じんちょうげ。きもちわるいっていわれたの。それに、かみさまにさからうことだよって。かえって、おかあさんにいったら、おこられたんだ……」
ケビンは目の前で泣き出した小さな男の子の体をすっと抱き寄せた。
「ぼく……へん?かみさまにおこられる?ぼくしさまは、おこる?」
「じごくに、おちる?」
其の声にははっとした。
此の子供の好きな子は、きっと男の子なのだろう。だから子供の世界でも苛められたのだろう。両親にも受け入れて貰えず、いつか聞いたであろう自分の礼拝での話のことも思い出して、きっと絶望したのだ。
こんな小さな体で。
「堕ちないよ」
「ほんとう?」
少年は身を捩って涙を拭った。ケビンの体の傍で沈丁花の香りがする。
「堕ちないよ。絶対に」
其の言葉に安心したのか、少年はケビンの腕から逃れると、沈丁花をケビンに渡し、去って行った。其の走り去る先に、少年とは遥かに身長のかけ離れたシルエットを見付ける。
「良いのかなあ、牧師様が嘘教えて。説教引っくり返す気?」
仕事で多少神経を使ったのか、ヒョンシクの顔にはやつれが見えた。
「何でもかんでも真実を教えるのが良いことではないときもある」
「不良牧師だ」
「何とでも。——おかえり、ヒョンシク」
そう言うとヒョンシクがのろのろと近付いてきて、ケビンに抱き付いた。立ったままで抱き合うと、少しだけケビンが抱き締められているような格好になる。午後の庭で、誰か——そう、さっきの少年のような——来訪者が来るかもしれない場所で、ヒョンシクは堂々とキスをせがんだ。ごく自然に顔を近付け、ケビンの頭をかかえてキスをする。
「ただいま」
——"じごくに、おちる?"
そんなの、死んでみないと分からないし、死んだら無になるだけだから、天国も地獄も無いんじゃない?
そう毒づきたいのに、何処か何かを怖がる想いがあって、ヒョンシクは息を漏らしながら、腰を押し付けてキスをした。
ケビンが手にしていた沈丁花の花が地面に落ち、ヒョンシクが踏みつけていた。白い花弁にはヒョンシクの靴の裏の泥が付き、二人の足がもつれる度に、花びらがばらばらに千切れていった。
鉄格子の窓から空を覗く。
昼間だと分かるぼんやりと白い明るさを持った空から、雨は未だ降り続いていた。昨晩は激しく降っていた気がする。
昨晩――
思い出して、ヒョンシクは顔が綻びそうになるのを抑えた。思案顔を作るつもりで、何となく頬に掌を当て、目線を足元に泳がせた。
――"好きだよ、ヒョンシク"
囁く声を唐突に思い出してしまう。昨夜、本当は起きてケビンがシャワーから出てくるのを待っているはずだったのに、何だか気恥ずかしくなって目を閉じていたら、其のまま眠ってしまった。ケビンが出て来たことに気付いたのに、瞼が開けられない程疲れていて、結局寝たふりと本気で眠り込んでしまった状態のとの狭間で、ヒョンシクはケビンの告白を聞いた。
(幸せだ)
ヒョンシクはそう思った。
「パク先生、こちらです」
急にドアから顔を出した刑務官に名前を呼ばれて、ヒョンシクは我に返った。
「はい」
ぼんやりしていたところを隠すように、再度手元の資料の氏名の部分から目を通し、準備をしていたふりをする。
ファン・クァンヒ。
今日の面談の相手の顔写真は、半月型の目を細めて微笑む、囚人には相応しくない満面の笑みを見せていた。
案内された部屋に入ると、写真と全く同じ笑みを浮かべた、痩せた男が椅子に座っていた。
「お客さん!お客さん!」
甲高い声を上げ、来訪者を喜んでいる姿はまるで幼児のようだった。
「退屈してたんだよ。話し相手になってくれる?」
そう言って向けられた笑顔は邪気が無く、相変わらず離す度に落ち着きがなく体の一部が動くようだった。彼の床を踏む音が、白い衛生的な空間で鳴っていた。
——チック症。
ヒョンシクは資料にあった文字を思い出す。鑑定の際は相手の言葉に集中するために殆ど資料に目を通さないことが多かったが、何故か其の単語だけは頭に残っている。
狂っているのか。
狂ったふりをしているだけなのか——。
「ああ、良いよ。話し相手になろう」
ヒョンシクは笑い、其の精神異常とされた殺人犯の前に座った。
==================
「——ねえ、ねえってばぼくしさま」
低い所から聞こえた声にはっとした。声の主を探すと、自分の足元に少年が立っている。そう言えばミサでよく見る子供だが、彼はいつも両親に手を引かれ、母親か父親のどちらかに抱かれていることが多くて、周りの子供達と話しているところは見たことがなかった。
午後の庭で、植えられた木々に水をやっている手を止めた。ホースから吹き出していた水は止まり、ぼんやりと浮かんでいた小さな虹も消えていた。
「ごめんね、気付かなかったんだ。——どうかしたのかな?」
ケビンは立っていた姿勢から屈み込み、少年と目を合わせた。真正面から顔を見たのも、もしかしたら初めてかもしれない。彼は何処か恥ずかしがりやで、両親のどちらかに抱かれている時も、顔を其の胸に押し付けるようにして埋めており、半分くらいしか顔が見えないことの方が多かった気がする。
対面してみると、幼いながらも、整った、可愛らしい顔立ちだと思う。
其の黒目がちな瞳は、真っ直ぐにケビンを見返すと、後ろ手に持っていたものをすっとケビンの目の前に差し出した。
白い、花。
沈丁花の花だった。
「みんながね、ぼくのことへんだって、いうんだ。じんちょうげ、きれいだよねっていったら、へんだって。おんなのこみたいだって」
少年は手を真っ直ぐに伸ばし、ケビンに花を差し出した格好のまま、突然泣き始めた。
「じんちょうげ、きれいだよね?ぼく、おんなのこみたい?ぼくは……へん?」
彼が手で涙を拭ったとき、其の腕に傷があることに気付いた。未だ新しい傷の周りには痣のような痕がある。
「すきなこが、いてね。ぼく、あげたんだ、じんちょうげ。きもちわるいっていわれたの。それに、かみさまにさからうことだよって。かえって、おかあさんにいったら、おこられたんだ……」
ケビンは目の前で泣き出した小さな男の子の体をすっと抱き寄せた。
「ぼく……へん?かみさまにおこられる?ぼくしさまは、おこる?」
「じごくに、おちる?」
其の声にははっとした。
此の子供の好きな子は、きっと男の子なのだろう。だから子供の世界でも苛められたのだろう。両親にも受け入れて貰えず、いつか聞いたであろう自分の礼拝での話のことも思い出して、きっと絶望したのだ。
こんな小さな体で。
「堕ちないよ」
「ほんとう?」
少年は身を捩って涙を拭った。ケビンの体の傍で沈丁花の香りがする。
「堕ちないよ。絶対に」
其の言葉に安心したのか、少年はケビンの腕から逃れると、沈丁花をケビンに渡し、去って行った。其の走り去る先に、少年とは遥かに身長のかけ離れたシルエットを見付ける。
「良いのかなあ、牧師様が嘘教えて。説教引っくり返す気?」
仕事で多少神経を使ったのか、ヒョンシクの顔にはやつれが見えた。
「何でもかんでも真実を教えるのが良いことではないときもある」
「不良牧師だ」
「何とでも。——おかえり、ヒョンシク」
そう言うとヒョンシクがのろのろと近付いてきて、ケビンに抱き付いた。立ったままで抱き合うと、少しだけケビンが抱き締められているような格好になる。午後の庭で、誰か——そう、さっきの少年のような——来訪者が来るかもしれない場所で、ヒョンシクは堂々とキスをせがんだ。ごく自然に顔を近付け、ケビンの頭をかかえてキスをする。
「ただいま」
——"じごくに、おちる?"
そんなの、死んでみないと分からないし、死んだら無になるだけだから、天国も地獄も無いんじゃない?
そう毒づきたいのに、何処か何かを怖がる想いがあって、ヒョンシクは息を漏らしながら、腰を押し付けてキスをした。
ケビンが手にしていた沈丁花の花が地面に落ち、ヒョンシクが踏みつけていた。白い花弁にはヒョンシクの靴の裏の泥が付き、二人の足がもつれる度に、花びらがばらばらに千切れていった。
口元を無意識に手で覆った。
写真では見ていたものの、ドンジュンが目の当たりにした其れはやはり惨たらしいものだった。対象を目にするかしないかは、テホンが遺体の背面を向けるように肉の塊を動かすと、あの数字が見える。ドライバーのようなもので切り刻まれた皮膚の裂け目に、未だ生々しい血の塊が残っている。
「……ひどいよね」
テホンはそう小さな声で呟くと、遺体を低い台の上に横たえた。二人は立ったまま其の、数日前までは生きていた筈の「彼女」を見ていた。最早、面影も何もかもが無い。女性である証拠はかろうじて分かる背骨や其の肩幅くらいしかなかった。
ドンジュンは目を閉じ、神経を集中させた。
「――キム検視官。ちょっと外してくれない?」
一度閉じた目を開き、テホンと目を合わせて言った。彼は口を開くこと無くこくりと頷き、白衣を翻して部屋から出て行った。其の後ろ姿を目で追って、部屋のドアが閉まる音を確認し、もう一度遺体に向き直る。
――聞かせて。あんたの話。
ドンジュンがは「彼女」の口元に手を伸ばし、もう一度目を閉じた。
感応していく。彼女の、未だ僅かに残る精神の欠片を探して行く。
==================
ディスプレイはデフォルトのスクリーンセーバーに切り替わっていた。画面の中をチカチカと警視庁のロゴマークが動き回る。
机に肘をつき組んだ左右の指の上に顎を載せた姿勢で、既に30分以上の時間が経過していた。ミヌは、資料の裏紙に書き殴った文字を見つめていた。
"3 9"
「あー」
額に左手を当て、俯く。目の端で捉えた視界に、文字がぼんやりと見えた。
分からない。見当が容易に付いてしまうからこそ、過去の事例と照らし合わせてしまって目の前の真実が見えなくなる気がする。
ミヌは頭を抱える格好になり、無闇にパソコンのキーボードを叩いた。ダンダン、と乱暴な音が響く。大きな溜め息を、隠そうともしなかった。
不意に、後ろから腕が伸びて来て、ミヌを抱き締めた。
「煮詰まってる?」
背後に感じた胸板の厚みと、近付いてきた顔と声に緊張を解いた。
「当たり前でしょう」
此の部屋で、ミヌが敬語を使う相手は基本的に一人しか居ない。両肩にのしかかる重みを感じながら、ミヌは伸ばされた腕に自分の手を乗せた。
「気長にやろうぜ」
「またそんなこと……人が一人惨殺されてるんですよ」
窘める言い方でも、声は少し顰めて柔らかい響きを持たせた。擦り寄って来る頬に、甘えるように鼻を近付ける。其の鼻を向けた先に、僅かな香りを感じた。
「なあ、気付いた?」
「え?」
ミヌの体の前に右腕が伸ばされ、マウスを掴んでディスプレイを起動させる。何度かディレクトリを行き来して、目的の画像を表示させた。画面を覗き込む。
映し出されたのは、無惨な形で曲がる被害者の手の指だった。
「これ、生きてたときに折られてる、切り落とされてるのも、多分」
そう言ってミヌの指を掴み、本来曲がる方向ではない方向ににゆるく持ち上げた。其の行為と言葉に驚いて、ミヌは相手の顔を見た。掴めない表情のジュニョンと、正面から目が合う。
「……」
「相当な気違いだよ。拷問して、殺して、更に遺体を破壊してる」
ジュニョンがミヌの指から手を離し、密着させていた体をも離した。
「だから、其処が分からないんです。こういうケースなら、被害者自身か、近い人間にかなりの恨みを持つ人間の犯行でしょう。でも、今回は被害者が一体誰かも分からないし、誰かが居ないと騒ぐ人も居ない……其れに」
ミヌも画像を変えた。
被害者の、背中。
「また此のメッセージが」
3と9の数字が刻印のように鋭利なもので刻まれた、背。
「……ミヌ」
ジュニョンは立ったままの姿勢で、指先で名前を呼んだ。椅子に腰掛けていたミヌは、上司の呼び付けに従って立ち上がり、ジュニョンの傍へ近付いた。
「頼みがある。聞いてくれないか」
==================
「あれ、何してるんですか?」
テホンがガラス越しにドンジュンを見つめていると、通り掛かった別の検視官が訪ねて来た。新しく鑑識課に配属されてきた若い後輩に、事情を説明する。
「ああやって捜査するんだ。キム刑事は被害者と加害者の感情に自分の気持ちをシンクロさせることが出来るから……」
「シンクロ?」
「超能力とかではないんだけどね。ただ、神経を尖らせておけば大体の他人の感情は分かるんだって。キム刑事の現場プロファイリングは凄いし、優秀な警察犬みたい」
「警察犬ですか」
テホンは自分の言葉に言い得て妙だな、と思った。
足で動き回り自分の体で感じたことを全てとして、捜査をする少年のような警部。それがドンジュンだった。
==================
「彼女」はドンジュンに語り始めた。
「怖かったよ。何度も気を失うのに、其の度に殴られて、意識を失わせてくれなかった。早く殺して、って何度もお願いしたのに、聞いてくれなかった」
「そう」
「まだあたしは生きてるのに、体のはじっこからちょっとずつ切り取られてくみたいだった。袋みたいなやつを顔から被されて、色んなことをされたの」
「……」
「あいつら、絶対許さない。あたしが苦しむのを笑ってた。気持ち悪いとか、くずだとか言ってた。いやらしい言葉もいっぱい言われて、写真も撮られた。絶対許さない。あいつらだけは」
ドンジュンは、唇を噛み締めた。被害者の、死という静寂に至るまでの恐怖を思う。其の体は死して尚穢され、ばらばらにされ、今もまだ本当の意味での静寂には達していない。
「ありがとう。また話聞かせて。ごめんね、呼び出して」
「ううん、良いの。ただ、もう、早く楽になりたいな……ねえ、ちゃんと、綺麗にしてから天国に行かせてね。こんなこと頼めるの、あなたたちくらいしか居ないから」
「……うん」
ドンジュンは感応させていた神経を遮断した。がくり、と意識が戻り、自分の目の前にあるものは無機質な遺体でしかなく見える。変わり果てた姿にする程の動機とは、一体何なのだろう。思考を巡らせながら、扉を開けた。
「ありがとうございました」
扉を出た先で待機していたテホンに、頭を下げた。
「……何か掴めた?」
テホンが壁に凭れかけていた背を放し、ドンジュンに体を向けながら訪ねる。
「複数の男にやられてる。多分だけど。あとは、体のパーツがそれぞれどのタイミングで破壊されてるかもう一回確認して。其れが分かったらもう一回遺体と対面する。今度は犯人とシンクロしたい」
ドンジュンは口早にそう言うと、自分の部署へと帰って行った。
少し、やつれたかな。
テホンはドンジュンの頬に走っていた感情を見逃さなかった。
もう一度、死体に向き直る。
此処までの、恨みか。
ただの衝動か。
其れとも——
また、「お前」なのか?
写真では見ていたものの、ドンジュンが目の当たりにした其れはやはり惨たらしいものだった。対象を目にするかしないかは、テホンが遺体の背面を向けるように肉の塊を動かすと、あの数字が見える。ドライバーのようなもので切り刻まれた皮膚の裂け目に、未だ生々しい血の塊が残っている。
「……ひどいよね」
テホンはそう小さな声で呟くと、遺体を低い台の上に横たえた。二人は立ったまま其の、数日前までは生きていた筈の「彼女」を見ていた。最早、面影も何もかもが無い。女性である証拠はかろうじて分かる背骨や其の肩幅くらいしかなかった。
ドンジュンは目を閉じ、神経を集中させた。
「――キム検視官。ちょっと外してくれない?」
一度閉じた目を開き、テホンと目を合わせて言った。彼は口を開くこと無くこくりと頷き、白衣を翻して部屋から出て行った。其の後ろ姿を目で追って、部屋のドアが閉まる音を確認し、もう一度遺体に向き直る。
――聞かせて。あんたの話。
ドンジュンがは「彼女」の口元に手を伸ばし、もう一度目を閉じた。
感応していく。彼女の、未だ僅かに残る精神の欠片を探して行く。
==================
ディスプレイはデフォルトのスクリーンセーバーに切り替わっていた。画面の中をチカチカと警視庁のロゴマークが動き回る。
机に肘をつき組んだ左右の指の上に顎を載せた姿勢で、既に30分以上の時間が経過していた。ミヌは、資料の裏紙に書き殴った文字を見つめていた。
"3 9"
「あー」
額に左手を当て、俯く。目の端で捉えた視界に、文字がぼんやりと見えた。
分からない。見当が容易に付いてしまうからこそ、過去の事例と照らし合わせてしまって目の前の真実が見えなくなる気がする。
ミヌは頭を抱える格好になり、無闇にパソコンのキーボードを叩いた。ダンダン、と乱暴な音が響く。大きな溜め息を、隠そうともしなかった。
不意に、後ろから腕が伸びて来て、ミヌを抱き締めた。
「煮詰まってる?」
背後に感じた胸板の厚みと、近付いてきた顔と声に緊張を解いた。
「当たり前でしょう」
此の部屋で、ミヌが敬語を使う相手は基本的に一人しか居ない。両肩にのしかかる重みを感じながら、ミヌは伸ばされた腕に自分の手を乗せた。
「気長にやろうぜ」
「またそんなこと……人が一人惨殺されてるんですよ」
窘める言い方でも、声は少し顰めて柔らかい響きを持たせた。擦り寄って来る頬に、甘えるように鼻を近付ける。其の鼻を向けた先に、僅かな香りを感じた。
「なあ、気付いた?」
「え?」
ミヌの体の前に右腕が伸ばされ、マウスを掴んでディスプレイを起動させる。何度かディレクトリを行き来して、目的の画像を表示させた。画面を覗き込む。
映し出されたのは、無惨な形で曲がる被害者の手の指だった。
「これ、生きてたときに折られてる、切り落とされてるのも、多分」
そう言ってミヌの指を掴み、本来曲がる方向ではない方向ににゆるく持ち上げた。其の行為と言葉に驚いて、ミヌは相手の顔を見た。掴めない表情のジュニョンと、正面から目が合う。
「……」
「相当な気違いだよ。拷問して、殺して、更に遺体を破壊してる」
ジュニョンがミヌの指から手を離し、密着させていた体をも離した。
「だから、其処が分からないんです。こういうケースなら、被害者自身か、近い人間にかなりの恨みを持つ人間の犯行でしょう。でも、今回は被害者が一体誰かも分からないし、誰かが居ないと騒ぐ人も居ない……其れに」
ミヌも画像を変えた。
被害者の、背中。
「また此のメッセージが」
3と9の数字が刻印のように鋭利なもので刻まれた、背。
「……ミヌ」
ジュニョンは立ったままの姿勢で、指先で名前を呼んだ。椅子に腰掛けていたミヌは、上司の呼び付けに従って立ち上がり、ジュニョンの傍へ近付いた。
「頼みがある。聞いてくれないか」
==================
「あれ、何してるんですか?」
テホンがガラス越しにドンジュンを見つめていると、通り掛かった別の検視官が訪ねて来た。新しく鑑識課に配属されてきた若い後輩に、事情を説明する。
「ああやって捜査するんだ。キム刑事は被害者と加害者の感情に自分の気持ちをシンクロさせることが出来るから……」
「シンクロ?」
「超能力とかではないんだけどね。ただ、神経を尖らせておけば大体の他人の感情は分かるんだって。キム刑事の現場プロファイリングは凄いし、優秀な警察犬みたい」
「警察犬ですか」
テホンは自分の言葉に言い得て妙だな、と思った。
足で動き回り自分の体で感じたことを全てとして、捜査をする少年のような警部。それがドンジュンだった。
==================
「彼女」はドンジュンに語り始めた。
「怖かったよ。何度も気を失うのに、其の度に殴られて、意識を失わせてくれなかった。早く殺して、って何度もお願いしたのに、聞いてくれなかった」
「そう」
「まだあたしは生きてるのに、体のはじっこからちょっとずつ切り取られてくみたいだった。袋みたいなやつを顔から被されて、色んなことをされたの」
「……」
「あいつら、絶対許さない。あたしが苦しむのを笑ってた。気持ち悪いとか、くずだとか言ってた。いやらしい言葉もいっぱい言われて、写真も撮られた。絶対許さない。あいつらだけは」
ドンジュンは、唇を噛み締めた。被害者の、死という静寂に至るまでの恐怖を思う。其の体は死して尚穢され、ばらばらにされ、今もまだ本当の意味での静寂には達していない。
「ありがとう。また話聞かせて。ごめんね、呼び出して」
「ううん、良いの。ただ、もう、早く楽になりたいな……ねえ、ちゃんと、綺麗にしてから天国に行かせてね。こんなこと頼めるの、あなたたちくらいしか居ないから」
「……うん」
ドンジュンは感応させていた神経を遮断した。がくり、と意識が戻り、自分の目の前にあるものは無機質な遺体でしかなく見える。変わり果てた姿にする程の動機とは、一体何なのだろう。思考を巡らせながら、扉を開けた。
「ありがとうございました」
扉を出た先で待機していたテホンに、頭を下げた。
「……何か掴めた?」
テホンが壁に凭れかけていた背を放し、ドンジュンに体を向けながら訪ねる。
「複数の男にやられてる。多分だけど。あとは、体のパーツがそれぞれどのタイミングで破壊されてるかもう一回確認して。其れが分かったらもう一回遺体と対面する。今度は犯人とシンクロしたい」
ドンジュンは口早にそう言うと、自分の部署へと帰って行った。
少し、やつれたかな。
テホンはドンジュンの頬に走っていた感情を見逃さなかった。
もう一度、死体に向き直る。
此処までの、恨みか。
ただの衝動か。
其れとも——
また、「お前」なのか?
旧警視庁本部庁舎会議室
——ひどいな。
ドンジュンは言葉を失った。
まずは此れを見て欲しい、衝撃を受けるかもしれないから、覚悟すること。
そうメンションされながら画面に映し出された画像には、眼球を抉られ、耳と鼻に何本もの釘を刺され、歯を全て抜かれた遺体があった。最早、人だ、と言われなければ人だとは分からない姿で、家畜か何か別のものの死体だということくらいしか判別が出来なかった。
ジュニョンの話では、指という指が全て逆の方向にへし折られており、そのうち、左手の薬指だけが切断されていたという。切断された側は見つかっていない。
女性器には裂傷があったと。遺体の損傷が酷かった所為で、其れが無いと最初は「被害者が女性だ」ということすら、気付かなかったらしいとジュニョンの口から伝えられた。
「う……」
ちらりと見たシワンの顔が青ざめ、色素を失っていた。口元を押さえ、何とかスクリーンを見つめるものの、直視は出来ない様子で、小刻みに体が震えている。古びた会議室の劣化した白熱電灯の光の下で、其の姿はとても頼りなく見えた。
「気付いたことがあれば言ってくれ」
ジュニョンはスクリーンの傍に立っていた体を翻し、部屋の中に居た全員の顔を順々に見つめ、最後にシワンの顔を様子を窺うように見た。誰もが口数が少なくなって、見るとも無しに画面の遺体の写真を見つめていた。
「被害者の年齢は?」
ミヌが挙手し、ジュニョンに問う。
「推定で15〜17歳」
「——推定?」
ミヌは片方の眉を上げ、ジュニョンの目を見た。
「身元不明なんだ。只今絶賛鑑定中。あのテホンでも手こずってるから、テホンでだめだったら、誰が見たって駄目だな」
ジュニョンは信頼する検視官の名前を出し、肩をすくめた。
ドンジュンはもう一度、其の破裂させられていたという内臓のある胴の部分や、ばらばらになった指の画像を見た。原型が分からない程、生前「人」であったことが分からない程の遺体。此れまでも何度か死体の写真や本物の死体を見て来た中でも、今回のものは特に凄惨だった。
肉とも言い難い固体と化した其れに、ドンジュンは思考を巡らせた。
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
ふと、朝見た夢を思い出す。
目の前のパソコンに打ち込んでいた文字を見つめる。
"死体破壊"、"強い恨み?"、"異常性愛者?"、"強姦?"、"推定17歳"、"身元不明"、"現場は?"
思い付くキーワードを並べてみる。
「で、気になる所が一つ」
ジュニョンがリモコンを操作し、映し出した画像。
其処には、はっきりと人間の背中と分かる場所が切り裂かれ、
「3 9」
と刻まれていた。
==================
抱きしめて朝を迎える度に、幸福と罪悪を感じる。
ケビンは自分の腕に頭を載せている相手の、脳の重みを感じながら回した手で耳に振れ、薄茶色の髪を撫でた。
昨日は挿入はせずに抱き合って眠っただけ。腕の中で眠っている其の姿は無防備に口を半開きにしている。
ふ、と指を差し出して唇に触れてみる。何の夢を見ているかは分からないが、穏やかな寝顔は其のままに、唇が僅かに震えた。かまわず人差し指でなぞって、唇の中、上下の前歯に当たるように触れてみて、離す。
ケビンはヒョンシクの頭を抱き寄せた。
同じ香りのする髪に鼻を埋めてみる。規則的なようで不規則な呼吸の音を聞く。起きるべき時間には未だ早い気がした。最近少しずつ空が白んでくるのは早くなった気がする。
壁に吊るされたガウンとロザリオを見つめ、視線を逸らしてゆっくりと瞬きをした。目を開けると、間近にヒョンシクの顔があった。
ゆっくりと唇を近付ける。
柔らかい唇を自分の唇と重ね合わせて感触を確かめた。最初は、柔らかく。けれどもヒョンシクの腕はケビンに絡んで、体を引き寄せてきた。目は閉じたまま、無意識に唇を求めて来る。まるで、乳児が母親を求めるように。
「起きた……?」
答えは無く、ただ欲しがる唇。
遠くで雨音がする。そんな朝だった。
——ひどいな。
ドンジュンは言葉を失った。
まずは此れを見て欲しい、衝撃を受けるかもしれないから、覚悟すること。
そうメンションされながら画面に映し出された画像には、眼球を抉られ、耳と鼻に何本もの釘を刺され、歯を全て抜かれた遺体があった。最早、人だ、と言われなければ人だとは分からない姿で、家畜か何か別のものの死体だということくらいしか判別が出来なかった。
ジュニョンの話では、指という指が全て逆の方向にへし折られており、そのうち、左手の薬指だけが切断されていたという。切断された側は見つかっていない。
女性器には裂傷があったと。遺体の損傷が酷かった所為で、其れが無いと最初は「被害者が女性だ」ということすら、気付かなかったらしいとジュニョンの口から伝えられた。
「う……」
ちらりと見たシワンの顔が青ざめ、色素を失っていた。口元を押さえ、何とかスクリーンを見つめるものの、直視は出来ない様子で、小刻みに体が震えている。古びた会議室の劣化した白熱電灯の光の下で、其の姿はとても頼りなく見えた。
「気付いたことがあれば言ってくれ」
ジュニョンはスクリーンの傍に立っていた体を翻し、部屋の中に居た全員の顔を順々に見つめ、最後にシワンの顔を様子を窺うように見た。誰もが口数が少なくなって、見るとも無しに画面の遺体の写真を見つめていた。
「被害者の年齢は?」
ミヌが挙手し、ジュニョンに問う。
「推定で15〜17歳」
「——推定?」
ミヌは片方の眉を上げ、ジュニョンの目を見た。
「身元不明なんだ。只今絶賛鑑定中。あのテホンでも手こずってるから、テホンでだめだったら、誰が見たって駄目だな」
ジュニョンは信頼する検視官の名前を出し、肩をすくめた。
ドンジュンはもう一度、其の破裂させられていたという内臓のある胴の部分や、ばらばらになった指の画像を見た。原型が分からない程、生前「人」であったことが分からない程の遺体。此れまでも何度か死体の写真や本物の死体を見て来た中でも、今回のものは特に凄惨だった。
肉とも言い難い固体と化した其れに、ドンジュンは思考を巡らせた。
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
ふと、朝見た夢を思い出す。
目の前のパソコンに打ち込んでいた文字を見つめる。
"死体破壊"、"強い恨み?"、"異常性愛者?"、"強姦?"、"推定17歳"、"身元不明"、"現場は?"
思い付くキーワードを並べてみる。
「で、気になる所が一つ」
ジュニョンがリモコンを操作し、映し出した画像。
其処には、はっきりと人間の背中と分かる場所が切り裂かれ、
「3 9」
と刻まれていた。
==================
抱きしめて朝を迎える度に、幸福と罪悪を感じる。
ケビンは自分の腕に頭を載せている相手の、脳の重みを感じながら回した手で耳に振れ、薄茶色の髪を撫でた。
昨日は挿入はせずに抱き合って眠っただけ。腕の中で眠っている其の姿は無防備に口を半開きにしている。
ふ、と指を差し出して唇に触れてみる。何の夢を見ているかは分からないが、穏やかな寝顔は其のままに、唇が僅かに震えた。かまわず人差し指でなぞって、唇の中、上下の前歯に当たるように触れてみて、離す。
ケビンはヒョンシクの頭を抱き寄せた。
同じ香りのする髪に鼻を埋めてみる。規則的なようで不規則な呼吸の音を聞く。起きるべき時間には未だ早い気がした。最近少しずつ空が白んでくるのは早くなった気がする。
壁に吊るされたガウンとロザリオを見つめ、視線を逸らしてゆっくりと瞬きをした。目を開けると、間近にヒョンシクの顔があった。
ゆっくりと唇を近付ける。
柔らかい唇を自分の唇と重ね合わせて感触を確かめた。最初は、柔らかく。けれどもヒョンシクの腕はケビンに絡んで、体を引き寄せてきた。目は閉じたまま、無意識に唇を求めて来る。まるで、乳児が母親を求めるように。
「起きた……?」
答えは無く、ただ欲しがる唇。
遠くで雨音がする。そんな朝だった。
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
——遠くで誰かの声がする。女のような、子供のような、やけに高く響く声だ。
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
手の鳴る方へ……
ジリリリリリ
目覚まし時計のアラームが鳴って、ドンジュンは目を覚ました。開かない目を瞑ったまま、真っ白な枕を抱き込み顔を押し付ける。手探りでシーツの間から伸ばした腕に、こつん、と時計が当たる感触があった。寒い朝だ。冷たい空気が暖房の効いていない部屋で床の上で滞留して、Tシャツからはみ出た筋肉質の腕を撫でて行った。
リン
見えないままボタンを押してアラームを止める。指に当たる金属部分すら冷たい。そろそろ冬が終わると言うのに、未だ寒い朝だった。
「変な夢見たな……」
起き上がり、肘を付いて時間を確認する。時計は直角を描いていた。
「って、9時!!」
目覚まし時計のアラームは、最終宣告だった。
==================
「ジュニョ…ん…だ、め……」
「何でだめなの?」
「やだ…飲めない……苦い……」
「ほら、飲んで、ねえ」
ミヌは扉の前で絶句していた。旧庁舎の会議室の古びた扉を開けようとしたら、中から漏れ聞こえて来るだらしの無い二つの声に言葉を失った。
「…………。」
ドアノブに手を掛けたまま、額を冷たいドアに押し当てた。
後輩は遅刻、上司は取り込み中、時間通りに来た自分が馬鹿みたいだ。はあ、と短い溜め息を吐くと、遠くで誰かが走る音が聞こえ、あっと言う間に近付いて来た。
「スミマセン!」
「廊下では静かに」
ミヌはドアを背にし、何となくドアとドンジュンの間に立ちはだかるように立って、右手の人差し指を自分の口に押し当てる仕草をした。
「会議は?」
自分が遅刻した会議の、会議室の外に立ったままの先輩刑事を不思議そうに見つめる。
「取り込み中。遭遇したくない」
ミヌは心底呆れ返った表情で項垂れ、呟いた。ミヌの背後にあるドアを見つめる。
「んぅっ……ああ!」
シワンの、声。
バタン
ドンジュンは無言でドアを開けた。
「……何してんすか」
ドンジュンと、其の後ろから見たくないものを見る顔で部屋の中を覗き込んだミヌは、呆気に取られた。
「あ、おはよ。何かねこいつ風邪気味だって言うから、薬飲めって言ったんだけど嫌がっちゃって。薬に頼りたくないとか言って強情でさ。でも飲ましてたところ」
其の声の主——ジュニョンは、開いた扉の向こう側で立っている二人を交互に確認し、呑気な声でドンジュンの質問に答えた。
「薬は癖になるから嫌だって言ってるだろ。自然治癒でいいよ」
そう言って明後日の方向を見ているシワンの顔が、少し赤いのは気のせいだろうか、むしろ気のせいであってほしい、とミヌは思う。
机には薬局で貰ったらしい薬の袋が何袋もあり、粉薬やら錠剤やらが机に几帳面に並べられていた。そして、グラスに半分くらい入った水。
二人の唇が少し潤んでいること。
ミヌが朝から感じていた頭痛が、また少し酷くなった気がした。
「よし、皆集まったな。会議始めるぞ。あとドンジュンは遅刻だから会議の議事録担当な」
「え!俺!?先輩も」
ドンジュンが名指しされ、ジュニョンに噛み付き、ミヌを巻き込もうとした。
「ミヌはお前が来る前から居たよ」
「!」
言い当てられて、余計に複雑な気持ちになる。
本当、あんたには勝てない気もするんだ、ヒョン。
ミヌは少し笑った。
手の鳴る方へ
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
——遠くで誰かの声がする。女のような、子供のような、やけに高く響く声だ。
鬼さんこちら
手の鳴る方へ
手の鳴る方へ……
ジリリリリリ
目覚まし時計のアラームが鳴って、ドンジュンは目を覚ました。開かない目を瞑ったまま、真っ白な枕を抱き込み顔を押し付ける。手探りでシーツの間から伸ばした腕に、こつん、と時計が当たる感触があった。寒い朝だ。冷たい空気が暖房の効いていない部屋で床の上で滞留して、Tシャツからはみ出た筋肉質の腕を撫でて行った。
リン
見えないままボタンを押してアラームを止める。指に当たる金属部分すら冷たい。そろそろ冬が終わると言うのに、未だ寒い朝だった。
「変な夢見たな……」
起き上がり、肘を付いて時間を確認する。時計は直角を描いていた。
「って、9時!!」
目覚まし時計のアラームは、最終宣告だった。
==================
「ジュニョ…ん…だ、め……」
「何でだめなの?」
「やだ…飲めない……苦い……」
「ほら、飲んで、ねえ」
ミヌは扉の前で絶句していた。旧庁舎の会議室の古びた扉を開けようとしたら、中から漏れ聞こえて来るだらしの無い二つの声に言葉を失った。
「…………。」
ドアノブに手を掛けたまま、額を冷たいドアに押し当てた。
後輩は遅刻、上司は取り込み中、時間通りに来た自分が馬鹿みたいだ。はあ、と短い溜め息を吐くと、遠くで誰かが走る音が聞こえ、あっと言う間に近付いて来た。
「スミマセン!」
「廊下では静かに」
ミヌはドアを背にし、何となくドアとドンジュンの間に立ちはだかるように立って、右手の人差し指を自分の口に押し当てる仕草をした。
「会議は?」
自分が遅刻した会議の、会議室の外に立ったままの先輩刑事を不思議そうに見つめる。
「取り込み中。遭遇したくない」
ミヌは心底呆れ返った表情で項垂れ、呟いた。ミヌの背後にあるドアを見つめる。
「んぅっ……ああ!」
シワンの、声。
バタン
ドンジュンは無言でドアを開けた。
「……何してんすか」
ドンジュンと、其の後ろから見たくないものを見る顔で部屋の中を覗き込んだミヌは、呆気に取られた。
「あ、おはよ。何かねこいつ風邪気味だって言うから、薬飲めって言ったんだけど嫌がっちゃって。薬に頼りたくないとか言って強情でさ。でも飲ましてたところ」
其の声の主——ジュニョンは、開いた扉の向こう側で立っている二人を交互に確認し、呑気な声でドンジュンの質問に答えた。
「薬は癖になるから嫌だって言ってるだろ。自然治癒でいいよ」
そう言って明後日の方向を見ているシワンの顔が、少し赤いのは気のせいだろうか、むしろ気のせいであってほしい、とミヌは思う。
机には薬局で貰ったらしい薬の袋が何袋もあり、粉薬やら錠剤やらが机に几帳面に並べられていた。そして、グラスに半分くらい入った水。
二人の唇が少し潤んでいること。
ミヌが朝から感じていた頭痛が、また少し酷くなった気がした。
「よし、皆集まったな。会議始めるぞ。あとドンジュンは遅刻だから会議の議事録担当な」
「え!俺!?先輩も」
ドンジュンが名指しされ、ジュニョンに噛み付き、ミヌを巻き込もうとした。
「ミヌはお前が来る前から居たよ」
「!」
言い当てられて、余計に複雑な気持ちになる。
本当、あんたには勝てない気もするんだ、ヒョン。
ミヌは少し笑った。
病室
監視カメラが停止した。
点灯していた筈の青緑色のランプは稼働停止を示す赤色になっていた。
——やってくれるなあ。
ジュニョンは思う。良い部下を持ったものだ、と。
ベッドに寝そべったまま、こちらを見つめているシワンをベッドの柵越しに見た。
「今日って、何曜日?」
真っ白い壁に掛けられたカレンダーを見ても、時間の感覚が無かったので訪ねてみる。
「日曜日」
追跡の日から三日が経っていたことを教えられる。答えを言った其の顔は、少しやつれ、隈が出来ていた。細い指が伸びて来て、ジュニョンの頬に振れた。
「本当に心配したんだ。お前の目がずっと覚めなかったらって。凄く……怖くて」
細い指が頬を撫でて行く。頬を滑って、額を撫でた。
シワンの顔が近付いて来る。
額に手を当てたまま、身を屈めてシワンがジュニョンの唇にキスをした。
少し触れて、離れて、至近距離で見つめ合う。
無言の間があって、シワンが瞼を伏せるようにジュニョンの唇に視線を移動させ、もう一度ジュニョンの目を見た。
シワンの赤い唇が、少なくなった酸素を求めてすうっと開いて震えた。其の吐息をジュニョンも自分の唇に感じて、たまらなくなってシワンの頭を引き寄せる。
もう一度、キス。
今度はジュニョンからだった。
肉厚の唇を味わい尽くして、歯と歯の間に舌を押し込む。反射的に離れようとしたシワンの髪を掴んでぐいと引き寄せて、ジュニョンは更に深く繋がるようにキスをした。
舌を入れる。シワンの口の中に。
突き刺すように舌を入れて、細部を探るように動かす。ふと瞼を開けると、従順に目を閉じたまま、中を明け渡すようにしてシワンが吸い付いて来ていた。
入れた舌を包むような口内。熱に浮かされたようにキスに没頭する。
ジュニョンが舌を引くと、シワンの口が追い掛けて来て、吸った。
お互いの唇以上の求める空気が二人の半径1メートル以内にある。
シワンは一瞬体を離し、徐にベッドの柵を跨いで乗り越えて来た。
ジュニョンはシワンの強い瞳に見つめられたまま、相手の変化に驚いた。
寝そべるベッドに両手を付き、病院のシーツに土足のまま乗って、ジュニョンの上に跨がった。
そして、体をぴったりくっつけるようにして、またシワンからキスを求めてくる。
——おいおい。
ジュニョンはたじろいだ。
口をこじ開けて攻めて来る舌が、明らかに奥に進みたがっているのが分かる。
「シワン……此処、病院……」
覆い被さって来る肩を掴み、ジュニョンは唇を離して、言った。シワンの目に欲情を感じる。
「知ってる……」
そう言いながら、今度は甘えるようにジュニョンに細い腕が絡み付き、抱きついてきた。
「駄目だって……」
「嫌だ……」
こんなに可愛い彼を見たことが無い。聞き分けが無く、此処が病室であることも、監視カメラのことも全てを軽々と無視して来る。キスをしてきて、抱きついて離れようともしない。力が込められた腕に抱き締められながら、ジュニョンは不思議な感覚を味わった。
「好きだ、ジュニョン」
小さく呟く声が聞こえた。
「お前が生きてる、って教えてよ」
うん。
うん……。
返す言葉を失って、ただ一心不乱に唇を重ねた。
終わりの無いキスにもどかしさが募る。
シワンが履いていた靴を床に放り投げて、片時も離れないように寄り添ってくる。
病院から支給されたであろうジュニョンの寝間着の襟元に、シワンは指をかけた。ジュニョンの鎖骨に白い手が触れる。
——主導権、握られてたまるか。
ジュニョンもむきになってシワンの服を引っ張った。彼が着込んでいた真っ白なシャツのボタンを外し、素肌を曝して行く。
同じ動作をしていたシワンは、ガーゼに触れてからジュニョンの目を見た。
沈黙があって。
傷痕にガーゼの上から触れてみる。
「……」
シワンの脳内に、ジュニョンが撃たれたときの画像が過った。其の画像には乱れがあり、鮮明ではない。記憶が曖昧であり、覚めない眠りから覚めたときのようなぼんやりとした思考で銃声を聞き、目を開いた時にジュニョンの血を見たのだった。
そっと、傷痕に口付ける。
服を半分脱ぎかけた、白い背中の皮膚が見えた。
髪を撫でると、胸の上に居る相手はうっとりと見つめ返して来た。
其の唇にまた誘われるように口付ける。
キスをいつやめれば良いのかがわからなくなる。
本能と理性を天秤にかける。
離れるタイミングを失って。
本能の方が少し重かった。
剝き出しの真っ白な体を、自分が眠っていたベッドに横たえる。転がるように横向きになったかと思えば、ジュニョンの首に腕を絡めて来た。
血管やあばら骨が透ける胴の上にある、胸の突起に口付け、指先でなぞる。
「あ……」
か細い、女のような声を上げて、シワンはふと口元を右手の甲で押さえた。
シワンの反応を楽しみながら、ジュニョンは肌の上で指を滑らせて、核心に迫った。
まず太腿に触れる。軽く撫でると脚の神経がぴくりと動いたのが分かった。口元を緩めて、ジュニョンが焦らすように股関節に触れた。
「ジュニョン……」
シワンがジュニョンの手に触れた。男同士、どうされたら一番感じるか、逆にどうされたら狂うほどに焦らされてしまうのかが分かっている。
シワンの中心に初めて触れると、改めて彼が男であることを実感する。
其れなのに、こんなに愛しくて。
こんなに、欲しくて。
ジュニョンは性器の先端を軽く舐めて、先に流れていたものを吸った。
「あ、やだ……汚いよ……」
羞恥心にかられてシワンが両手で顔を覆いながら言う。其の頬が赤く染まったのを見た。
ジュニョンは指を離し、舌を出して唾液を絡ませた。
入口を撫でて、爪の付け根まで入れてみる。
「あ!」
声を出しながらシワンが息を飲んだのが分かった。けれど、拒絶の声は聞こえない。
シワンが乱れて行くのを確認しながら、ジュニョンは指先を沈めて行った。深く、深く。
奥まで。
キスで体験したのと同じことを、まずは指先で試してみる。シワンの中はジュニョンの指先の形を覚え、ぴったりと形状を記憶するように吸い付いて来た。
右手の中指だけ入れていたのを、もう一本増やしてみる。
「あ……ジュニョン……や……」
「我慢して」
もう一本。少し強引に指を捩じ込むと、シワンが喘ぐ声が大きくなった。増やした指を中でばらばらと動かすと、全身を震わせて快感を伝える。余っていた左手で胸や太腿に触れると、首を動かして荒く息を吐いた。
本当は、一秒でも早く繋がりたくて。照れるくらいに視線を交わす。
ジュニョンが服を脱いだ。
自身に手を添えてシワンの体の入口にあて、一気に貫くとシワンが其の衝撃で大声を上げた。幾ら壁の分厚い警察病院の一室でも、廊下を通る人間には聞こえたかも知れない。
「あ!ジュニョン!あ……」
シワンが息を荒げて名前を呼ぶのを、ジュニョンはとても満足した気持ちで聞いた。のたうち回り、シーツを掴んで快感を流そうとする指を左右の手で捕え、手を繋ぐ格好で、ジュニョンが腰を振った。
「凄い……気持ち良い。最高」
「あ、ん……ああっ」
腰を振る度に、壊れたように喘ぐシワンが美しくて、ジュニョンは血管が浮き上がった首筋に口付けたり、舌を這わせたりしながら、尚も奥を突いた。
「やっぱり……我慢してて良かった……」
ジュニョンも息を上がらせながら、言う。
「何……が」
「執着するものが無いと、死に易くなるんだよ……」
そう言って激しく腰を動かす。
ベッドが軋んだ音を立てて、二人の荒い声が白い部屋に響く。
——執着って、此れ?
シワンは自分の上に覆い被さる体を見た。逞しく鍛え上げられた男の体。整った顔立ちで、荒く息を吐いている男に抱かれている。ずっと待ち続けていたことをしている。
阿呆らしいな、と思ったけれど、実際そういうものなのかもしれない。
意識を別の場所に飛ばしていると、ジュニョンが緩急を付けて更に奥に入って来て、何も考えられなくなった。
「好きだ……愛してる」
どちらともなく言って、先にジュニョンが果て、追い掛けるようにシワンが果てた。
==================
——何てことを。
吊り橋理論も甚だしい。
一時の感情に任せ、あんな場所で、あんなことをしてしまった。
シワンは寝不足と其の他の倦怠感を引き摺った体の重みを感じながら、何日かぶりの仕事場に戻る為、病院の廊下を歩いていた。
エレベーターホールで他の見舞客とエレベータを待っていると、下の階から上がって来たエレベーターのドアが開いた。
「あ」
中から姿を現した金髪に、シワンは気付いた。
「ども」
ぺこり、と金髪が頭を下げる。少しだけ不機嫌そうな顔をしていた。
掛ける言葉を探して立ち尽くしていると、先に乗り込んだ乗客が、怪訝そうな視線をシワンとミヌに投げかけた。
慌ててシワンもエレベータ—に乗り込む。
エレベーターの中から、シワンは広い廊下を歩いていくミヌの後ろ姿を見ていた。
Fin.
監視カメラが停止した。
点灯していた筈の青緑色のランプは稼働停止を示す赤色になっていた。
——やってくれるなあ。
ジュニョンは思う。良い部下を持ったものだ、と。
ベッドに寝そべったまま、こちらを見つめているシワンをベッドの柵越しに見た。
「今日って、何曜日?」
真っ白い壁に掛けられたカレンダーを見ても、時間の感覚が無かったので訪ねてみる。
「日曜日」
追跡の日から三日が経っていたことを教えられる。答えを言った其の顔は、少しやつれ、隈が出来ていた。細い指が伸びて来て、ジュニョンの頬に振れた。
「本当に心配したんだ。お前の目がずっと覚めなかったらって。凄く……怖くて」
細い指が頬を撫でて行く。頬を滑って、額を撫でた。
シワンの顔が近付いて来る。
額に手を当てたまま、身を屈めてシワンがジュニョンの唇にキスをした。
少し触れて、離れて、至近距離で見つめ合う。
無言の間があって、シワンが瞼を伏せるようにジュニョンの唇に視線を移動させ、もう一度ジュニョンの目を見た。
シワンの赤い唇が、少なくなった酸素を求めてすうっと開いて震えた。其の吐息をジュニョンも自分の唇に感じて、たまらなくなってシワンの頭を引き寄せる。
もう一度、キス。
今度はジュニョンからだった。
肉厚の唇を味わい尽くして、歯と歯の間に舌を押し込む。反射的に離れようとしたシワンの髪を掴んでぐいと引き寄せて、ジュニョンは更に深く繋がるようにキスをした。
舌を入れる。シワンの口の中に。
突き刺すように舌を入れて、細部を探るように動かす。ふと瞼を開けると、従順に目を閉じたまま、中を明け渡すようにしてシワンが吸い付いて来ていた。
入れた舌を包むような口内。熱に浮かされたようにキスに没頭する。
ジュニョンが舌を引くと、シワンの口が追い掛けて来て、吸った。
お互いの唇以上の求める空気が二人の半径1メートル以内にある。
シワンは一瞬体を離し、徐にベッドの柵を跨いで乗り越えて来た。
ジュニョンはシワンの強い瞳に見つめられたまま、相手の変化に驚いた。
寝そべるベッドに両手を付き、病院のシーツに土足のまま乗って、ジュニョンの上に跨がった。
そして、体をぴったりくっつけるようにして、またシワンからキスを求めてくる。
——おいおい。
ジュニョンはたじろいだ。
口をこじ開けて攻めて来る舌が、明らかに奥に進みたがっているのが分かる。
「シワン……此処、病院……」
覆い被さって来る肩を掴み、ジュニョンは唇を離して、言った。シワンの目に欲情を感じる。
「知ってる……」
そう言いながら、今度は甘えるようにジュニョンに細い腕が絡み付き、抱きついてきた。
「駄目だって……」
「嫌だ……」
こんなに可愛い彼を見たことが無い。聞き分けが無く、此処が病室であることも、監視カメラのことも全てを軽々と無視して来る。キスをしてきて、抱きついて離れようともしない。力が込められた腕に抱き締められながら、ジュニョンは不思議な感覚を味わった。
「好きだ、ジュニョン」
小さく呟く声が聞こえた。
「お前が生きてる、って教えてよ」
うん。
うん……。
返す言葉を失って、ただ一心不乱に唇を重ねた。
終わりの無いキスにもどかしさが募る。
シワンが履いていた靴を床に放り投げて、片時も離れないように寄り添ってくる。
病院から支給されたであろうジュニョンの寝間着の襟元に、シワンは指をかけた。ジュニョンの鎖骨に白い手が触れる。
——主導権、握られてたまるか。
ジュニョンもむきになってシワンの服を引っ張った。彼が着込んでいた真っ白なシャツのボタンを外し、素肌を曝して行く。
同じ動作をしていたシワンは、ガーゼに触れてからジュニョンの目を見た。
沈黙があって。
傷痕にガーゼの上から触れてみる。
「……」
シワンの脳内に、ジュニョンが撃たれたときの画像が過った。其の画像には乱れがあり、鮮明ではない。記憶が曖昧であり、覚めない眠りから覚めたときのようなぼんやりとした思考で銃声を聞き、目を開いた時にジュニョンの血を見たのだった。
そっと、傷痕に口付ける。
服を半分脱ぎかけた、白い背中の皮膚が見えた。
髪を撫でると、胸の上に居る相手はうっとりと見つめ返して来た。
其の唇にまた誘われるように口付ける。
キスをいつやめれば良いのかがわからなくなる。
本能と理性を天秤にかける。
離れるタイミングを失って。
本能の方が少し重かった。
剝き出しの真っ白な体を、自分が眠っていたベッドに横たえる。転がるように横向きになったかと思えば、ジュニョンの首に腕を絡めて来た。
血管やあばら骨が透ける胴の上にある、胸の突起に口付け、指先でなぞる。
「あ……」
か細い、女のような声を上げて、シワンはふと口元を右手の甲で押さえた。
シワンの反応を楽しみながら、ジュニョンは肌の上で指を滑らせて、核心に迫った。
まず太腿に触れる。軽く撫でると脚の神経がぴくりと動いたのが分かった。口元を緩めて、ジュニョンが焦らすように股関節に触れた。
「ジュニョン……」
シワンがジュニョンの手に触れた。男同士、どうされたら一番感じるか、逆にどうされたら狂うほどに焦らされてしまうのかが分かっている。
シワンの中心に初めて触れると、改めて彼が男であることを実感する。
其れなのに、こんなに愛しくて。
こんなに、欲しくて。
ジュニョンは性器の先端を軽く舐めて、先に流れていたものを吸った。
「あ、やだ……汚いよ……」
羞恥心にかられてシワンが両手で顔を覆いながら言う。其の頬が赤く染まったのを見た。
ジュニョンは指を離し、舌を出して唾液を絡ませた。
入口を撫でて、爪の付け根まで入れてみる。
「あ!」
声を出しながらシワンが息を飲んだのが分かった。けれど、拒絶の声は聞こえない。
シワンが乱れて行くのを確認しながら、ジュニョンは指先を沈めて行った。深く、深く。
奥まで。
キスで体験したのと同じことを、まずは指先で試してみる。シワンの中はジュニョンの指先の形を覚え、ぴったりと形状を記憶するように吸い付いて来た。
右手の中指だけ入れていたのを、もう一本増やしてみる。
「あ……ジュニョン……や……」
「我慢して」
もう一本。少し強引に指を捩じ込むと、シワンが喘ぐ声が大きくなった。増やした指を中でばらばらと動かすと、全身を震わせて快感を伝える。余っていた左手で胸や太腿に触れると、首を動かして荒く息を吐いた。
本当は、一秒でも早く繋がりたくて。照れるくらいに視線を交わす。
ジュニョンが服を脱いだ。
自身に手を添えてシワンの体の入口にあて、一気に貫くとシワンが其の衝撃で大声を上げた。幾ら壁の分厚い警察病院の一室でも、廊下を通る人間には聞こえたかも知れない。
「あ!ジュニョン!あ……」
シワンが息を荒げて名前を呼ぶのを、ジュニョンはとても満足した気持ちで聞いた。のたうち回り、シーツを掴んで快感を流そうとする指を左右の手で捕え、手を繋ぐ格好で、ジュニョンが腰を振った。
「凄い……気持ち良い。最高」
「あ、ん……ああっ」
腰を振る度に、壊れたように喘ぐシワンが美しくて、ジュニョンは血管が浮き上がった首筋に口付けたり、舌を這わせたりしながら、尚も奥を突いた。
「やっぱり……我慢してて良かった……」
ジュニョンも息を上がらせながら、言う。
「何……が」
「執着するものが無いと、死に易くなるんだよ……」
そう言って激しく腰を動かす。
ベッドが軋んだ音を立てて、二人の荒い声が白い部屋に響く。
——執着って、此れ?
シワンは自分の上に覆い被さる体を見た。逞しく鍛え上げられた男の体。整った顔立ちで、荒く息を吐いている男に抱かれている。ずっと待ち続けていたことをしている。
阿呆らしいな、と思ったけれど、実際そういうものなのかもしれない。
意識を別の場所に飛ばしていると、ジュニョンが緩急を付けて更に奥に入って来て、何も考えられなくなった。
「好きだ……愛してる」
どちらともなく言って、先にジュニョンが果て、追い掛けるようにシワンが果てた。
==================
——何てことを。
吊り橋理論も甚だしい。
一時の感情に任せ、あんな場所で、あんなことをしてしまった。
シワンは寝不足と其の他の倦怠感を引き摺った体の重みを感じながら、何日かぶりの仕事場に戻る為、病院の廊下を歩いていた。
エレベーターホールで他の見舞客とエレベータを待っていると、下の階から上がって来たエレベーターのドアが開いた。
「あ」
中から姿を現した金髪に、シワンは気付いた。
「ども」
ぺこり、と金髪が頭を下げる。少しだけ不機嫌そうな顔をしていた。
掛ける言葉を探して立ち尽くしていると、先に乗り込んだ乗客が、怪訝そうな視線をシワンとミヌに投げかけた。
慌ててシワンもエレベータ—に乗り込む。
エレベーターの中から、シワンは広い廊下を歩いていくミヌの後ろ姿を見ていた。
Fin.
雑居ビル
他の刑事達を突き飛ばす勢いで押しのけ、ジュニョンが階段を駆け下りて行った。
「ムン警部!」
誰かが叫んでも、制止の声は届かない。
ミヌは窓に駆け寄り、ジュニョンの乗ったGT-Rが回転を速めながら走り去る姿を見た。勇ましい排気音をまき散らしていった。
「ジュニョンヒョン!」
ミヌは、滅多に呼ばないファーストネームをスーツの襟元の発信器に向かって叫んだ。
しかし、其の声に対する返答は無い。叫んだ声は、雑居ビルの白い壁に当たって虚しく反響するだけだった。
——ジュニョンの、あの眼。
ミヌの胸がざわつく。
修羅、という言葉が頭を過った。
「先輩!どうしたんすか?」
ドンジュンの声が耳元の受信器から聞こえ、ミヌは我に返った。ドンジュンだけに通じるように手元で設定を変え、マイクに唇を近付ける。
「——係長がキレた。バーサク状態でGT-Rで暴走中。そっちは?」
「化け物だよ!頭ぶっ壊れてるって係長のプロファイリング通りだった。痛覚も恐怖心も無いみたいだった。足首潰しても全然痛がってなくて、不気味だった」
「……」
やはりミヌとジュニョンの嫌な予感は当たったらしい。
「まさか殺してないだろうな」
「其処迄馬鹿じゃないよ。正当防衛で説明が付かないことはしない」
「よく言うよ」
呆れながらも、何とか容疑者がまだ口をきける状態で捕縛出来たことが分かり、安堵した。
「——あ、そう言えばあいつ、変なこと言ってたよ。『先生』って」
思い出したようにドンジュンが口に出した言葉に、ミヌは反応した。
標的は一人に絞られた。
「ドンジュン。係長が単独行動してる。すぐに目的地をデータで送るから、バイクで向かってくれ」
「了解」
ミヌはパソコンを取り出し、猛スピードで目的地を検索してドンジュンのバイクに取り付けているナビゲーションシステムに向けてデータを同期させた。
勿論、イム教授の無事は気になる。明らかに犯人に彼は狙われている。
けれど、あの写真——シワンの写真の隣に映った人物に、無数の針が刺さっている——を思い出すと、どうしても胸はざわついた。あの写真を、きっとジュニョンは見ていなかったと思う。
針の先にあった顔は、ジュニョンのものだった。
犯人はイム教授を次の『ドール』として狙いながら、同時に激しい恨みをジュニョンに向けている気がする。むしろ、あの部屋にあったどの被害者の写真よりも、イム教授の写真は多かった。
全ての事件は、ただの予行演習——。
ミヌは近くに居た警官から警察車両のキーを奪った。
==================
医学部キャンパス
「教授?」
ヒョンシクは研究科の棟を彷徨っていた。
朝にイム教授の姿を見た筈なのに、何処にも居ない。被疑者の供述にどうしても分からない論理があり、其処の鑑定について意見を尋ねたかったのに。
朝から電話も繋がらないが、大方何処か抜けている教授のことだから、電話を自宅に置いて来たとか、充電を忘れたとか、そんなことだろうと思っていた。
しかし、どんなに探しても見当たらない。誰に聞いても知らないと言う。事務室の女性には「他の学生からも苦情が来ているんですが、むしろパクさん御存知無いですか」と言われてしまい、キャンパス内で顔を合わせた女学生にも「シワン先生知らない?」と言われてしまった。
彼の教授室の電話は一日中鳴りっ放しで、恐らくマスコミやら何やら、あらゆるところからの、取材や出演依頼の照会の電話であろうと思う。
ふと、ヒョンシクは一度も確認していなかった場所を思った。
——教授の親友。
「失礼します!」
ノックも無く勢い良くドアを開けると、其処には医学書の塔が幾つもそびえ立っていた。
「うわ」
今迄見たどの教授の部屋よりも汚い。
「チョン教授?いらっしゃいますか?」
書類ばかりの殺風景な部屋に響いたのは、ヒョンシクの声だけだった。
「——居ないの?」
勝手に他の教授の部屋に押し入って申し訳ないと思いつつ、辺りを一通り見て回り、誰も居ないことを確認する。
「何だよ」
ソファに腰掛けたヒョンシクは、嫌な胸騒ぎを感じた。
何だか、此の部屋には悪念がこもっている気がする。陰鬱で、他のものに対するどろどろした念を感じる。
——最近、教会に通ってる所為かな。何となく「悪いもの」に対して、感覚が鋭くなってきた気がする。
此の部屋は、邪悪だ——。
ヒョンシクは追い立てられるように教授室を出た。
何か、浄化して欲しい。あの場所に居るだけで、「よくないもの」に飲み込まれる気がした。
或る場所に向かって走り出す。
ただ落ち着きたくて、あの顔が見たくなる。あの声が聞きたくなる。
==================
「完全犯罪狙いなら、もっと上手くやれよ」
屋敷の中の部屋に、ジュニョンは立っていた。
「——刑事の台詞?」
部屋の奥に立った人物が声を発した。部屋は真っ白な床に赤い別珍のカーペットが弾かれている。窓際に真っ白なカーテンが引かれ、午後の太陽の光をやわらげていた。
部屋の奥にカーペット同じ色のワインレッドの布張りがなされた椅子がある。金で縁取られた其の一人椅子に、人形が座っていた。
——シワン。
ジュニョンは持っていた拳銃を床と垂直に構え、部屋の奥で人形の——椅子の上に腰掛ける格好で眠っているシワンの傍に立つ男に向けた。
「安心してよ。薬で眠ってるだけだから」
男はにやにやと笑い、整った顔を破顔させた。
——チョン・ヒチョル容疑者。
ジュニョンは其の顔を見つめ、彼の頭を確実に撃ち抜く場所から銃口を決して動かさなかった。
「褒めてあげるよ。もう少し馬鹿だと思ってた」
男は椅子の傍を移動し、金色の肘掛けにほんの少し腰掛け、腕をシワンに回した。
「ねえ、刑事サン。アンタもこっちの人間じゃないの?シワンのこと、好きなんでしょ?」
「——ああ」
あっさりと、ジュニョンは答えた。
「つっまんないなあ。もっと取り乱してよ!馬鹿が這いつくばって、半狂乱状態になってるのが見たいのに」
ドンッ
ジュニョンが銃を撃った。
ヒチョルの左の耳から血が流れた。
「シワンから離れろ。変態野郎」
==================
屋敷の扉の外で控えていた警官隊は、銃声に戦いた。
「——俺が行く。お前らは此処で待ってろ」
バイクから下りたドンジュンが、脱いだヘルメット地面に投げ捨てた。地面を鈍い音を立ててヘルメットが転がって行く。
扉を開けた。
其処には、ジュニョンと——容疑者、そして、椅子に人形のように腰掛けたイム教授が居た。
ジュニョンは容疑者に向け、立ったまま銃を向けている。
イム教授誘拐の容疑者であるヒチョルは、ノーモーションでシワンの首に小銃を突きつけ、もう一方の手でジュニョンへ小銃を向けた。
「動くな、はこっちの台詞だよ」
「……」
「動いたら此の首を撃ち抜く。でも、アンタらを始末したあとで、綺麗に飾ってあげるけどね」
「てめえ!」
ドンジュンが大声を上げた。
「——よせ」
噛み締めた唇の端から血を流しながら、ジュニョンは背後に居るドンジュンを制止した。
「目的は何だ?快楽殺人か?」
目の前の容疑者に問う。
「違うよ。此れだから芸術の分からない馬鹿は嫌なんだ。俺が欲しいのは、此れ」
ヒチョルが、銃をシワンの首に突き付けたまま、眠るシワンの髪の上に口付けた。
「此の人形が欲しかった」
白い頬を撫でる手に、虫酸が走った。
「だから整形手術を希望したファン・クァンヒの前科を知りながら法外の手術をしたな?そしてそのときにロボトミー手術と記憶の刷り込みをした。都合良く自分の言うことを聞くように」
ドンジュンが、ジュニョンの言葉に反応した。
あいつの言っていた先生、ってこいつだったのか。
「そしてお前は幼女を誘拐して殺し、実験してたんだ。どうやって殺せば良いか、どうやって解体すれば良いか、どうやって飾れば良いか!」
「其の通りだよ、ムン・ジュニョン刑事」
「……」
ヒチョルは意思を持って動かなくなったシワンの体を抱き寄せた。
「シワンはね、ずっと俺のことだけ見ててくれたんだよ。なのに、お前がシワンの前に現れてから、ずっと様子がおかしかったんだ。早く、俺だけのものにしないとってね」
ははは、と容疑者は高らかに笑った。
「……だから、彼女達を殺して、次はシワンか?何だよ其れ!」
ジュニョンが徐に発砲した。すかさずヒチョルが椅子から離れて射撃する。
其のときだった。
——チャッ
「——お前、誰に向かって銃を向けてる?」
ジュニョンは、背後を窺い、目だけで制した。
後ろの扉から現れたミヌが、右手の拳銃をジュニョン、もう左手の拳銃をヒチョルに向けていた。
ヒチョルの銃の銃口はジュニョンとドンジュンに、ドンジュンの銃口はヒチョルに向けられている。
沈黙。
「させません」
ミヌが言った。
「今のジュニョンヒョンなら、そいつを蜂の巣にしてしまう。ヒョンはそんな外道になっちゃいけない。今のあんたは、そいつと変わらない」
鋭いけれど、悲しい眼差しだった。
「あんたは、『こっち側』に来ちゃいけない……」
ミヌが苦痛に顔を歪めて、言った。
ドンッ
爆音が響き、窓が割れた。其の場に居た全員が、状況を把握仕切れていなかった。
降り注ぐガラスと粉塵の中で、ヒチョルは警官隊に取り押さえられ、シワンは保護された。ジュニョンとミヌとドンジュンの三人は、其れを酷くスローモーションで見つめた。
粉塵の粒子の中、ドンジュンが其の姿を見付けた。
「課長!?」
体格の良過ぎる中年警視。
「全く、全員始末書ものだな。取り敢えず全員動くな」
ヒチョルが、動いた。
周囲に居た警官へ発砲し、真っ先にジュニョンに向けて発砲した。
爆音で目を覚ましたシワンは、ジュニョンの胸から血が吹き出るのを見た。
==================
病室
誰かに額を撫でられている。
細くて、冷たい手。何となく、優しい。柔らかいような、けれど陶器のようにつるりとした手だと思う。心地良くて、ずっと触れていて欲しい。
ふ、とジュニョンは瞼を開けた。
何度か見たことのある天井があり、周囲を目だけで確認して、ジュニョンは納得した。
警察病院の個室。何度か世話になったことがあるので、何となく部屋のレイアウトで認識した。
「あ」
手の、持ち主。
「シワン…」
「ジュニョン!」
自分の上に影が出来た、と思ったら、其の影が確かな体重を持って覆い被さって来たので、ジュニョンは慌てて其れを抱きとめた。
「——イム教授、一応、病人ですので」
いつもよりも更に冷徹な声が聞こえる。
と同時に、自分の上に被さっていた細い影が離れ、けれどもまだジュニョンの上にあって、顔を覗き込んだ。
細くとがった顎。
無駄な肉の無い頬は更に痩せこけて血色が悪い。
真っ赤だった唇も、少し色を失っている。
何より、あの目が潤み、心配そうに自分を覗き込んで揺れていた。
シワン。
シワン。
「気付きましたか。全く、油断しないでくださいよね。あと数センチ逸れてたら確実に死んでましたよ」
シワンの横に、天井からの光が透けるような金色の髪の頭が見えた。
「とにかく、目が覚めて良かったです、係長」
柔らかい笑顔が、頭上から二つ零れてくる。
「課長に報告してきます。しばらく入院でしょうから、あとのことは俺たちに任せてください。あ、始末書はたんまり書いてくださいね」
ミヌの顔が離れ、彼が病室を去って行く支度をしているのが分かる。ジュニョンはシーツの上の少し怠い体を翻して、ミヌが出て行く背中を見つめた。
「——あ、それから、まあ、御存知かとは思いますが一応此処警察病院なんで……監視カメラありますから。それにあんた一応怪我人なんで、変なことして悪化させたら徹底的に俺とドンジュンでぶちのめしますんで宜しくです」
ミヌの革靴の音が遠ざかるのと、病室のドアが閉まる音を聞いた。
他の刑事達を突き飛ばす勢いで押しのけ、ジュニョンが階段を駆け下りて行った。
「ムン警部!」
誰かが叫んでも、制止の声は届かない。
ミヌは窓に駆け寄り、ジュニョンの乗ったGT-Rが回転を速めながら走り去る姿を見た。勇ましい排気音をまき散らしていった。
「ジュニョンヒョン!」
ミヌは、滅多に呼ばないファーストネームをスーツの襟元の発信器に向かって叫んだ。
しかし、其の声に対する返答は無い。叫んだ声は、雑居ビルの白い壁に当たって虚しく反響するだけだった。
——ジュニョンの、あの眼。
ミヌの胸がざわつく。
修羅、という言葉が頭を過った。
「先輩!どうしたんすか?」
ドンジュンの声が耳元の受信器から聞こえ、ミヌは我に返った。ドンジュンだけに通じるように手元で設定を変え、マイクに唇を近付ける。
「——係長がキレた。バーサク状態でGT-Rで暴走中。そっちは?」
「化け物だよ!頭ぶっ壊れてるって係長のプロファイリング通りだった。痛覚も恐怖心も無いみたいだった。足首潰しても全然痛がってなくて、不気味だった」
「……」
やはりミヌとジュニョンの嫌な予感は当たったらしい。
「まさか殺してないだろうな」
「其処迄馬鹿じゃないよ。正当防衛で説明が付かないことはしない」
「よく言うよ」
呆れながらも、何とか容疑者がまだ口をきける状態で捕縛出来たことが分かり、安堵した。
「——あ、そう言えばあいつ、変なこと言ってたよ。『先生』って」
思い出したようにドンジュンが口に出した言葉に、ミヌは反応した。
標的は一人に絞られた。
「ドンジュン。係長が単独行動してる。すぐに目的地をデータで送るから、バイクで向かってくれ」
「了解」
ミヌはパソコンを取り出し、猛スピードで目的地を検索してドンジュンのバイクに取り付けているナビゲーションシステムに向けてデータを同期させた。
勿論、イム教授の無事は気になる。明らかに犯人に彼は狙われている。
けれど、あの写真——シワンの写真の隣に映った人物に、無数の針が刺さっている——を思い出すと、どうしても胸はざわついた。あの写真を、きっとジュニョンは見ていなかったと思う。
針の先にあった顔は、ジュニョンのものだった。
犯人はイム教授を次の『ドール』として狙いながら、同時に激しい恨みをジュニョンに向けている気がする。むしろ、あの部屋にあったどの被害者の写真よりも、イム教授の写真は多かった。
全ての事件は、ただの予行演習——。
ミヌは近くに居た警官から警察車両のキーを奪った。
==================
医学部キャンパス
「教授?」
ヒョンシクは研究科の棟を彷徨っていた。
朝にイム教授の姿を見た筈なのに、何処にも居ない。被疑者の供述にどうしても分からない論理があり、其処の鑑定について意見を尋ねたかったのに。
朝から電話も繋がらないが、大方何処か抜けている教授のことだから、電話を自宅に置いて来たとか、充電を忘れたとか、そんなことだろうと思っていた。
しかし、どんなに探しても見当たらない。誰に聞いても知らないと言う。事務室の女性には「他の学生からも苦情が来ているんですが、むしろパクさん御存知無いですか」と言われてしまい、キャンパス内で顔を合わせた女学生にも「シワン先生知らない?」と言われてしまった。
彼の教授室の電話は一日中鳴りっ放しで、恐らくマスコミやら何やら、あらゆるところからの、取材や出演依頼の照会の電話であろうと思う。
ふと、ヒョンシクは一度も確認していなかった場所を思った。
——教授の親友。
「失礼します!」
ノックも無く勢い良くドアを開けると、其処には医学書の塔が幾つもそびえ立っていた。
「うわ」
今迄見たどの教授の部屋よりも汚い。
「チョン教授?いらっしゃいますか?」
書類ばかりの殺風景な部屋に響いたのは、ヒョンシクの声だけだった。
「——居ないの?」
勝手に他の教授の部屋に押し入って申し訳ないと思いつつ、辺りを一通り見て回り、誰も居ないことを確認する。
「何だよ」
ソファに腰掛けたヒョンシクは、嫌な胸騒ぎを感じた。
何だか、此の部屋には悪念がこもっている気がする。陰鬱で、他のものに対するどろどろした念を感じる。
——最近、教会に通ってる所為かな。何となく「悪いもの」に対して、感覚が鋭くなってきた気がする。
此の部屋は、邪悪だ——。
ヒョンシクは追い立てられるように教授室を出た。
何か、浄化して欲しい。あの場所に居るだけで、「よくないもの」に飲み込まれる気がした。
或る場所に向かって走り出す。
ただ落ち着きたくて、あの顔が見たくなる。あの声が聞きたくなる。
==================
「完全犯罪狙いなら、もっと上手くやれよ」
屋敷の中の部屋に、ジュニョンは立っていた。
「——刑事の台詞?」
部屋の奥に立った人物が声を発した。部屋は真っ白な床に赤い別珍のカーペットが弾かれている。窓際に真っ白なカーテンが引かれ、午後の太陽の光をやわらげていた。
部屋の奥にカーペット同じ色のワインレッドの布張りがなされた椅子がある。金で縁取られた其の一人椅子に、人形が座っていた。
——シワン。
ジュニョンは持っていた拳銃を床と垂直に構え、部屋の奥で人形の——椅子の上に腰掛ける格好で眠っているシワンの傍に立つ男に向けた。
「安心してよ。薬で眠ってるだけだから」
男はにやにやと笑い、整った顔を破顔させた。
——チョン・ヒチョル容疑者。
ジュニョンは其の顔を見つめ、彼の頭を確実に撃ち抜く場所から銃口を決して動かさなかった。
「褒めてあげるよ。もう少し馬鹿だと思ってた」
男は椅子の傍を移動し、金色の肘掛けにほんの少し腰掛け、腕をシワンに回した。
「ねえ、刑事サン。アンタもこっちの人間じゃないの?シワンのこと、好きなんでしょ?」
「——ああ」
あっさりと、ジュニョンは答えた。
「つっまんないなあ。もっと取り乱してよ!馬鹿が這いつくばって、半狂乱状態になってるのが見たいのに」
ドンッ
ジュニョンが銃を撃った。
ヒチョルの左の耳から血が流れた。
「シワンから離れろ。変態野郎」
==================
屋敷の扉の外で控えていた警官隊は、銃声に戦いた。
「——俺が行く。お前らは此処で待ってろ」
バイクから下りたドンジュンが、脱いだヘルメット地面に投げ捨てた。地面を鈍い音を立ててヘルメットが転がって行く。
扉を開けた。
其処には、ジュニョンと——容疑者、そして、椅子に人形のように腰掛けたイム教授が居た。
ジュニョンは容疑者に向け、立ったまま銃を向けている。
イム教授誘拐の容疑者であるヒチョルは、ノーモーションでシワンの首に小銃を突きつけ、もう一方の手でジュニョンへ小銃を向けた。
「動くな、はこっちの台詞だよ」
「……」
「動いたら此の首を撃ち抜く。でも、アンタらを始末したあとで、綺麗に飾ってあげるけどね」
「てめえ!」
ドンジュンが大声を上げた。
「——よせ」
噛み締めた唇の端から血を流しながら、ジュニョンは背後に居るドンジュンを制止した。
「目的は何だ?快楽殺人か?」
目の前の容疑者に問う。
「違うよ。此れだから芸術の分からない馬鹿は嫌なんだ。俺が欲しいのは、此れ」
ヒチョルが、銃をシワンの首に突き付けたまま、眠るシワンの髪の上に口付けた。
「此の人形が欲しかった」
白い頬を撫でる手に、虫酸が走った。
「だから整形手術を希望したファン・クァンヒの前科を知りながら法外の手術をしたな?そしてそのときにロボトミー手術と記憶の刷り込みをした。都合良く自分の言うことを聞くように」
ドンジュンが、ジュニョンの言葉に反応した。
あいつの言っていた先生、ってこいつだったのか。
「そしてお前は幼女を誘拐して殺し、実験してたんだ。どうやって殺せば良いか、どうやって解体すれば良いか、どうやって飾れば良いか!」
「其の通りだよ、ムン・ジュニョン刑事」
「……」
ヒチョルは意思を持って動かなくなったシワンの体を抱き寄せた。
「シワンはね、ずっと俺のことだけ見ててくれたんだよ。なのに、お前がシワンの前に現れてから、ずっと様子がおかしかったんだ。早く、俺だけのものにしないとってね」
ははは、と容疑者は高らかに笑った。
「……だから、彼女達を殺して、次はシワンか?何だよ其れ!」
ジュニョンが徐に発砲した。すかさずヒチョルが椅子から離れて射撃する。
其のときだった。
——チャッ
「——お前、誰に向かって銃を向けてる?」
ジュニョンは、背後を窺い、目だけで制した。
後ろの扉から現れたミヌが、右手の拳銃をジュニョン、もう左手の拳銃をヒチョルに向けていた。
ヒチョルの銃の銃口はジュニョンとドンジュンに、ドンジュンの銃口はヒチョルに向けられている。
沈黙。
「させません」
ミヌが言った。
「今のジュニョンヒョンなら、そいつを蜂の巣にしてしまう。ヒョンはそんな外道になっちゃいけない。今のあんたは、そいつと変わらない」
鋭いけれど、悲しい眼差しだった。
「あんたは、『こっち側』に来ちゃいけない……」
ミヌが苦痛に顔を歪めて、言った。
ドンッ
爆音が響き、窓が割れた。其の場に居た全員が、状況を把握仕切れていなかった。
降り注ぐガラスと粉塵の中で、ヒチョルは警官隊に取り押さえられ、シワンは保護された。ジュニョンとミヌとドンジュンの三人は、其れを酷くスローモーションで見つめた。
粉塵の粒子の中、ドンジュンが其の姿を見付けた。
「課長!?」
体格の良過ぎる中年警視。
「全く、全員始末書ものだな。取り敢えず全員動くな」
ヒチョルが、動いた。
周囲に居た警官へ発砲し、真っ先にジュニョンに向けて発砲した。
爆音で目を覚ましたシワンは、ジュニョンの胸から血が吹き出るのを見た。
==================
病室
誰かに額を撫でられている。
細くて、冷たい手。何となく、優しい。柔らかいような、けれど陶器のようにつるりとした手だと思う。心地良くて、ずっと触れていて欲しい。
ふ、とジュニョンは瞼を開けた。
何度か見たことのある天井があり、周囲を目だけで確認して、ジュニョンは納得した。
警察病院の個室。何度か世話になったことがあるので、何となく部屋のレイアウトで認識した。
「あ」
手の、持ち主。
「シワン…」
「ジュニョン!」
自分の上に影が出来た、と思ったら、其の影が確かな体重を持って覆い被さって来たので、ジュニョンは慌てて其れを抱きとめた。
「——イム教授、一応、病人ですので」
いつもよりも更に冷徹な声が聞こえる。
と同時に、自分の上に被さっていた細い影が離れ、けれどもまだジュニョンの上にあって、顔を覗き込んだ。
細くとがった顎。
無駄な肉の無い頬は更に痩せこけて血色が悪い。
真っ赤だった唇も、少し色を失っている。
何より、あの目が潤み、心配そうに自分を覗き込んで揺れていた。
シワン。
シワン。
「気付きましたか。全く、油断しないでくださいよね。あと数センチ逸れてたら確実に死んでましたよ」
シワンの横に、天井からの光が透けるような金色の髪の頭が見えた。
「とにかく、目が覚めて良かったです、係長」
柔らかい笑顔が、頭上から二つ零れてくる。
「課長に報告してきます。しばらく入院でしょうから、あとのことは俺たちに任せてください。あ、始末書はたんまり書いてくださいね」
ミヌの顔が離れ、彼が病室を去って行く支度をしているのが分かる。ジュニョンはシーツの上の少し怠い体を翻して、ミヌが出て行く背中を見つめた。
「——あ、それから、まあ、御存知かとは思いますが一応此処警察病院なんで……監視カメラありますから。それにあんた一応怪我人なんで、変なことして悪化させたら徹底的に俺とドンジュンでぶちのめしますんで宜しくです」
ミヌの革靴の音が遠ざかるのと、病室のドアが閉まる音を聞いた。
国道66号線
逃がさない。
国道を一台の大型二輪が疾走していく。
『其処のCB750!止まりなさい!』
チッ。ドンジュンは舌打ちした。サイドミラーに映るパトカーの気配を確認する。更に速度を上げ、振り切る気だった。並の警察車両であれば、ドンジュンには追い付けない。唯一追い付けるとするなら、ジュニョンの乗るGT-Rくらいだ。
「先輩!」
ライダースジャケットの襟元に仕込んだ発信器に向かってドンジュンが喋った。
「何?」
耳許のイヤホンから、不貞腐れたミヌの声が響く。
「交機に連絡してあいつら制御して!邪魔!」
一方的な希望を伝え、ドンジュンはマイクを切った。
ハンドルを握り締める。眼差しはただ一筋の道路の先を見つめる。
邪魔はさせない。雑魚なんて振り切ってやる。
絶対に逃がさない。お前は俺の獲物だ。
==================
国道6号線
交通機動隊に連絡をするよう課長に連携を取ったミヌは、運転席のジュニョンと目を合わせた。
「また始末書ものだ」
携帯電話を閉じたミヌは、呆れて溜め息をついた。最近自分は溜め息ばかりついているな、と思う。
「今月は新記録更新かもなあ」
呑気な声が返って来た。
「そんなので記録更新してどうするんです。課長の昇進が遅れてるの、俺らの所為だってまた課長にしめられますよ」
「あー、ヨンギルのおっさんなあ。ま、適当にあしらっといてよ。あと始末書も」
「俺は書きませんから。書くなら係長とドンジュンで書いてください」
景色が猛スピードで背後へ流れて行く。後ろに警官隊の乗った警察車両を引き連れ、其の先頭を黒塗りのGT-Rが導いて行く。
ピッ
通信の音が入った。
すかさずミヌがマイクのスイッチを入れ、通話可能状態にする。ジュニョンとミヌの耳に装着されたスピーカーから、音が流れた。
「BINGO!」
ドンジュンの弾んだ声が聞こえる。
「ちょっとぶちのめして来るね」
通信断絶。
ちょうど信号で停止した車の中、二人は顔を見合わせた。
「目的違くないか?」
「またかよ……」
ドンジュンは熱血新米刑事を絵に描いたような人物で、高い身体能力と地理的プロファイリング能力の持ち主だったが、熱血するあまり容疑者を過剰に暴行する凶暴さを持ち合わせていた。
「殺さないように祈るか」
ジュニョンは半ば諦めの響きをもって、言った。
==================
アトリエ
部屋の入口と片隅。
二人の人物が対比する。背の高い影と低い影が同じ距離を保ったままで居た。
「ファン・クァンヒだな?」
拳銃を構え、ドンジュンが尋ねる。
相手は、白衣からはみ出た腕に、小さなマネキンの腕を抱えていた。
しかしそれはマネキンのものではなく——解体された人間の腕だった。細く白い其れは、かつてドンジュンが検証の際に目にした子供のものとは違い、少し大きなもののように見えた。
「遺体遺棄容疑で現行犯逮捕する」
「あはははは!」
急に笑い声を上げた相手に、ドンジュンはやや驚いた。
「愚かだね」
「何?」
「分かんない?」
「何がだ」
ドンジュンはやや苛立ち、相手の——容疑者であるクァンヒの顔を見た。やけに耳に残る特徴的な大声で話す。
「芸術なんだよ!全部、全部芸術さ。美しいものを一番美しい時に時間を止める。僕らが加工して、永遠の命をあげる」
「黙れ」
ドンッ
ドンジュンは一発、クァンヒの足元を目掛けて拳銃を撃った。
「あはは、君、面白いね。此の国の警察なんて、どいつもこいつも発砲しない軟弱者ばかりだと思ってたけど、撃っちゃうんだ」
更に大声で、クァンヒは喋った。やけに声が大きく、狂人じみている。確かにミヌのプロファイリングの中にも、既に目にした他のデータでも、精神異常者であろうことはデータにあった。
「黙らないと、次は其のやけに整った額と鼻の間に穴開けるぜ」
ドンジュンはもう一度、拳銃の安全装置を解除し、相手の顔面を目掛けて銃口を向けた。
==================
雑居ビル4階
ジュニョンとミヌはドンジュンが地理的プロファイリングで割り出したもう一つの場所に居た。近所の人間に聞き込みをして回ったが、住人のことは知らないと言う。
ジュニョンは後から合流したテホンに、鍵の突破を頼んだ。
「何で司法警察官が此の特技あるんですかねー……」
「ミヌちょっと静かにしてて。もうちょっとだから」
カチャリ
扉が開き、ドアが開く。
「突入」
其処は使われていない何かの病院のような場所だった。
「何だ?此処……」
ジュニョンは白い建物の中をぐるりと見回した。白い天井。白い壁。所々に蜘蛛の巣があり、埃が舞っている。けれど通常のクリニックに入って真っ先に目に入る筈の受付にあたる場所が無い。まるで学校の保健室のような場所だった。駆け付けた他の刑事達も、不審げに辺りを観察している。
ミヌはふと、本棚に目をやった。
——医学書ばっかり。
当たり前か、と思う。が——
よく見ると脳神経外科と形成外科の本ばかりが規則正しく並べられていた。
脳がオーバーヒートするくらい、思考をフル回転させる。記憶を全て辿る。
複数犯。
最初はジュニョンの人物プロファイリングを信じて、ファン・クァンヒという人物が複数の人格を使い分けて犯行に及んだと思い込んでいた。
けれどやはり自分の勘も間違っては居なかったのだ。
幼女を好む人格。
暴力を振るう人格。
死体に腐食防止の技術を施す人格。
死体を解体する人格。
死体を装飾する人格。
自分の犯行を世間に知らしめたがる人格。
事件はたった一人の人物に備わったものではない。やはり二人或いは複数の人物のものだった。そして其れは——
「係長。ファン・クァンヒはやはり二人居ます。だからドンジュンが最後までプロファイリングの位置が特定出来なかったんだ。こっちはもう一人の人物に関わるところなんです」
ミヌはテホンと鑑識官に声をかけた。
「指紋鑑定を」
テホンが頷く。
ジュニョンは辺りの壁際に移動し、壁をごんごんと叩いていた。
「何を?」
ミヌは上司の行為に首をひねった。
「いや、隠し扉が無いかなって」
「其れは流石に……」
ガタッ
「ほらね」
==================
雑居ビル・隠し部屋
ジュニョンとミヌは言葉を失った。
足を踏み入れた薄暗い其の場所には、壁面いっぱいに写真が貼られていた。天井ぎりぎりの場所から、床すれすれの場所まで、無数の人の顔、無数の瞳に見つめられているような気がした。
被害者の女児の写真。
ビスクドールになった、バラバラ死体の写真。
ジュニョンはペンライトで辺りを照らし出し、其れが全て被害者の写真であろうことを確認した。
しかし、其の中で、あるものを見付けてしまった。
「——シワン?」
壁を一点照らし出し、或る場所を見つめて動かなくなった上司に、ミヌも顔を近付けた。
其処には、あの精神科医の写真が貼り付けられていた。
笑顔、泣き顔、困ったような顔、おどけた顔、怒り顔……
どれも盗撮であろう写真。
ミヌも其の近くをペンライトで照らした。
——シワンの写真の隣に映った人物に、無数の針が刺さっている場所があった。
「——係長、イム教授が危ない!」
ジュニョンは焦って携帯電話を取り出した。焦り過ぎて、ボタンが上手く押せない。更に焦る。
電話の発信音は鳴らなかった。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
事務的な女性の声が、受話部分のスピーカーから漏れていた。
==================
アトリエ
クァンヒは、持っていた腕を放り投げ、ドンジュンの方へ殴り掛かるように走って来た。思いの外素早い身のこなしに、ドンジュンは驚く。ドンジュンは相手の肩が僅かに動く瞬間を見計らい、其の肩と同じ方向の脚で肩目掛けて蹴りを繰り出した。
ドスッ
ドンッ
肉に足首から下の足がめり込む感触と、確実に相手の足の甲を撃ち抜いた感覚があり、ドンジュンは笑みを浮かべた。しかし次の瞬間、足首を掴まれ、地面に倒される。
其の力の強さに戦いた。怪力、とでも言うべきか。かつてやくざの屈強な男と接近戦になったときすら感じなかった力であった。
「ってぇ……」
手から転がった銃を掴み、地面に叩き付けられた背をかばいながら壁際に退避する。
「あははは!俺、怖い、とか、痛い、とか無いの。先生が全部そういうの考えないようにしてくれたからね」
「先生?」
「うん。君もなる?先生の好きそうな顔だし。其れとも、お人形になりたい?」
「どっちも勘弁!」
ドンジュンはもう片方の足の首を狙って撃った。弾は確実に足首を破壊したけれども、目の前の人物は尚も立った格好でドンジュンに近付いて来た。
化け物——。
ドンジュンは目を疑った。本当に苦痛を感じていないらしい。
けれど、血は大量に流れ、辺りに水たまりを作っていた。放っておくと死に至る可能性もある。そうするとまた始末書が増えて課長と係長から白い目で見られるのが関の山だ。ドンジュンは銃をしまった。
「死なれても困る」
言った瞬間、ドンジュンは背後の壁を駆け上がり、身を翻して跳び、クァンヒの顔に鮮やかな飛び蹴りを食らわせた。
地面にクァンヒが顔面から倒れることを計算し、そのままクァンヒの背に跨がる。素早く後ろ手にした手に手錠をかけた。
「其処でくたばってろ」
一暴れしたところに、他の警察官が駆け付けて来た。
「死体遺棄の現行犯逮捕だ!ファン・クァンヒ!」
誰かが叫ぶのを聞き、其の体が複数の男によって運ばれて行くのが見えた。
「——あ」
ドンジュンは、尋ねようとして聞きそびれた答えについて思った。
「先生って、何だ?」
逃がさない。
国道を一台の大型二輪が疾走していく。
『其処のCB750!止まりなさい!』
チッ。ドンジュンは舌打ちした。サイドミラーに映るパトカーの気配を確認する。更に速度を上げ、振り切る気だった。並の警察車両であれば、ドンジュンには追い付けない。唯一追い付けるとするなら、ジュニョンの乗るGT-Rくらいだ。
「先輩!」
ライダースジャケットの襟元に仕込んだ発信器に向かってドンジュンが喋った。
「何?」
耳許のイヤホンから、不貞腐れたミヌの声が響く。
「交機に連絡してあいつら制御して!邪魔!」
一方的な希望を伝え、ドンジュンはマイクを切った。
ハンドルを握り締める。眼差しはただ一筋の道路の先を見つめる。
邪魔はさせない。雑魚なんて振り切ってやる。
絶対に逃がさない。お前は俺の獲物だ。
==================
国道6号線
交通機動隊に連絡をするよう課長に連携を取ったミヌは、運転席のジュニョンと目を合わせた。
「また始末書ものだ」
携帯電話を閉じたミヌは、呆れて溜め息をついた。最近自分は溜め息ばかりついているな、と思う。
「今月は新記録更新かもなあ」
呑気な声が返って来た。
「そんなので記録更新してどうするんです。課長の昇進が遅れてるの、俺らの所為だってまた課長にしめられますよ」
「あー、ヨンギルのおっさんなあ。ま、適当にあしらっといてよ。あと始末書も」
「俺は書きませんから。書くなら係長とドンジュンで書いてください」
景色が猛スピードで背後へ流れて行く。後ろに警官隊の乗った警察車両を引き連れ、其の先頭を黒塗りのGT-Rが導いて行く。
ピッ
通信の音が入った。
すかさずミヌがマイクのスイッチを入れ、通話可能状態にする。ジュニョンとミヌの耳に装着されたスピーカーから、音が流れた。
「BINGO!」
ドンジュンの弾んだ声が聞こえる。
「ちょっとぶちのめして来るね」
通信断絶。
ちょうど信号で停止した車の中、二人は顔を見合わせた。
「目的違くないか?」
「またかよ……」
ドンジュンは熱血新米刑事を絵に描いたような人物で、高い身体能力と地理的プロファイリング能力の持ち主だったが、熱血するあまり容疑者を過剰に暴行する凶暴さを持ち合わせていた。
「殺さないように祈るか」
ジュニョンは半ば諦めの響きをもって、言った。
==================
アトリエ
部屋の入口と片隅。
二人の人物が対比する。背の高い影と低い影が同じ距離を保ったままで居た。
「ファン・クァンヒだな?」
拳銃を構え、ドンジュンが尋ねる。
相手は、白衣からはみ出た腕に、小さなマネキンの腕を抱えていた。
しかしそれはマネキンのものではなく——解体された人間の腕だった。細く白い其れは、かつてドンジュンが検証の際に目にした子供のものとは違い、少し大きなもののように見えた。
「遺体遺棄容疑で現行犯逮捕する」
「あはははは!」
急に笑い声を上げた相手に、ドンジュンはやや驚いた。
「愚かだね」
「何?」
「分かんない?」
「何がだ」
ドンジュンはやや苛立ち、相手の——容疑者であるクァンヒの顔を見た。やけに耳に残る特徴的な大声で話す。
「芸術なんだよ!全部、全部芸術さ。美しいものを一番美しい時に時間を止める。僕らが加工して、永遠の命をあげる」
「黙れ」
ドンッ
ドンジュンは一発、クァンヒの足元を目掛けて拳銃を撃った。
「あはは、君、面白いね。此の国の警察なんて、どいつもこいつも発砲しない軟弱者ばかりだと思ってたけど、撃っちゃうんだ」
更に大声で、クァンヒは喋った。やけに声が大きく、狂人じみている。確かにミヌのプロファイリングの中にも、既に目にした他のデータでも、精神異常者であろうことはデータにあった。
「黙らないと、次は其のやけに整った額と鼻の間に穴開けるぜ」
ドンジュンはもう一度、拳銃の安全装置を解除し、相手の顔面を目掛けて銃口を向けた。
==================
雑居ビル4階
ジュニョンとミヌはドンジュンが地理的プロファイリングで割り出したもう一つの場所に居た。近所の人間に聞き込みをして回ったが、住人のことは知らないと言う。
ジュニョンは後から合流したテホンに、鍵の突破を頼んだ。
「何で司法警察官が此の特技あるんですかねー……」
「ミヌちょっと静かにしてて。もうちょっとだから」
カチャリ
扉が開き、ドアが開く。
「突入」
其処は使われていない何かの病院のような場所だった。
「何だ?此処……」
ジュニョンは白い建物の中をぐるりと見回した。白い天井。白い壁。所々に蜘蛛の巣があり、埃が舞っている。けれど通常のクリニックに入って真っ先に目に入る筈の受付にあたる場所が無い。まるで学校の保健室のような場所だった。駆け付けた他の刑事達も、不審げに辺りを観察している。
ミヌはふと、本棚に目をやった。
——医学書ばっかり。
当たり前か、と思う。が——
よく見ると脳神経外科と形成外科の本ばかりが規則正しく並べられていた。
脳がオーバーヒートするくらい、思考をフル回転させる。記憶を全て辿る。
複数犯。
最初はジュニョンの人物プロファイリングを信じて、ファン・クァンヒという人物が複数の人格を使い分けて犯行に及んだと思い込んでいた。
けれどやはり自分の勘も間違っては居なかったのだ。
幼女を好む人格。
暴力を振るう人格。
死体に腐食防止の技術を施す人格。
死体を解体する人格。
死体を装飾する人格。
自分の犯行を世間に知らしめたがる人格。
事件はたった一人の人物に備わったものではない。やはり二人或いは複数の人物のものだった。そして其れは——
「係長。ファン・クァンヒはやはり二人居ます。だからドンジュンが最後までプロファイリングの位置が特定出来なかったんだ。こっちはもう一人の人物に関わるところなんです」
ミヌはテホンと鑑識官に声をかけた。
「指紋鑑定を」
テホンが頷く。
ジュニョンは辺りの壁際に移動し、壁をごんごんと叩いていた。
「何を?」
ミヌは上司の行為に首をひねった。
「いや、隠し扉が無いかなって」
「其れは流石に……」
ガタッ
「ほらね」
==================
雑居ビル・隠し部屋
ジュニョンとミヌは言葉を失った。
足を踏み入れた薄暗い其の場所には、壁面いっぱいに写真が貼られていた。天井ぎりぎりの場所から、床すれすれの場所まで、無数の人の顔、無数の瞳に見つめられているような気がした。
被害者の女児の写真。
ビスクドールになった、バラバラ死体の写真。
ジュニョンはペンライトで辺りを照らし出し、其れが全て被害者の写真であろうことを確認した。
しかし、其の中で、あるものを見付けてしまった。
「——シワン?」
壁を一点照らし出し、或る場所を見つめて動かなくなった上司に、ミヌも顔を近付けた。
其処には、あの精神科医の写真が貼り付けられていた。
笑顔、泣き顔、困ったような顔、おどけた顔、怒り顔……
どれも盗撮であろう写真。
ミヌも其の近くをペンライトで照らした。
——シワンの写真の隣に映った人物に、無数の針が刺さっている場所があった。
「——係長、イム教授が危ない!」
ジュニョンは焦って携帯電話を取り出した。焦り過ぎて、ボタンが上手く押せない。更に焦る。
電話の発信音は鳴らなかった。
『おかけになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため、かかりません』
事務的な女性の声が、受話部分のスピーカーから漏れていた。
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アトリエ
クァンヒは、持っていた腕を放り投げ、ドンジュンの方へ殴り掛かるように走って来た。思いの外素早い身のこなしに、ドンジュンは驚く。ドンジュンは相手の肩が僅かに動く瞬間を見計らい、其の肩と同じ方向の脚で肩目掛けて蹴りを繰り出した。
ドスッ
ドンッ
肉に足首から下の足がめり込む感触と、確実に相手の足の甲を撃ち抜いた感覚があり、ドンジュンは笑みを浮かべた。しかし次の瞬間、足首を掴まれ、地面に倒される。
其の力の強さに戦いた。怪力、とでも言うべきか。かつてやくざの屈強な男と接近戦になったときすら感じなかった力であった。
「ってぇ……」
手から転がった銃を掴み、地面に叩き付けられた背をかばいながら壁際に退避する。
「あははは!俺、怖い、とか、痛い、とか無いの。先生が全部そういうの考えないようにしてくれたからね」
「先生?」
「うん。君もなる?先生の好きそうな顔だし。其れとも、お人形になりたい?」
「どっちも勘弁!」
ドンジュンはもう片方の足の首を狙って撃った。弾は確実に足首を破壊したけれども、目の前の人物は尚も立った格好でドンジュンに近付いて来た。
化け物——。
ドンジュンは目を疑った。本当に苦痛を感じていないらしい。
けれど、血は大量に流れ、辺りに水たまりを作っていた。放っておくと死に至る可能性もある。そうするとまた始末書が増えて課長と係長から白い目で見られるのが関の山だ。ドンジュンは銃をしまった。
「死なれても困る」
言った瞬間、ドンジュンは背後の壁を駆け上がり、身を翻して跳び、クァンヒの顔に鮮やかな飛び蹴りを食らわせた。
地面にクァンヒが顔面から倒れることを計算し、そのままクァンヒの背に跨がる。素早く後ろ手にした手に手錠をかけた。
「其処でくたばってろ」
一暴れしたところに、他の警察官が駆け付けて来た。
「死体遺棄の現行犯逮捕だ!ファン・クァンヒ!」
誰かが叫ぶのを聞き、其の体が複数の男によって運ばれて行くのが見えた。
「——あ」
ドンジュンは、尋ねようとして聞きそびれた答えについて思った。
「先生って、何だ?」
警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
唇が、離れる。
月明かりに照らされて、お互いの濡れた其処が少しの猥褻さを曝け出していて、目を逸らす。シワンは背筋がぞくりと震えた。
——今日は此処まで。
そう言って、ジュニョンとシワンは長いキスを終えた。キスを終え、顔を少し離した状態で、でも抱き合った格好のままでいると、とても恥ずかしい。シワンはジュニョンの背に回した腕を、名残惜しく感じながらも力を抜けさせて、放した。
おやすみ。ジュニョンがシワンの額にキスをした。
束の間の、甘い時間だった。
==================
医療刑務所
牧師は、コンクリートの高い塀が続く道のりをまた一人、歩いていた。冬の木枯らしが吹き、壁にぶつかる音がした。足元で枯葉が音を立てて渦を巻き、其れも何処かへ流されて行く。
見上げた空は曇り空だった。
「寒いな」
冬の朝は特に痛いくらいに寒い。黒いガウンの上から、自分の体を少し抱き締めるように腕を組み、身震いをした。
ふと顔を上げると、遠くからでも目立つ背の高い青年が歩いてくるのが見えた。
——ああ、此の間の。
昔見た映画のように、十字路でぶつかった彼だ。面会の時間を此の日、と決めているのだろう。自分がいつも医療刑務所を訪問する週の二番目の曜日、また同じ時間帯によく顔を見た。
歩いて来る青年と牧師の距離が近くなり、お互い気付いていたので軽く会釈をした。
==================
教会
何時の間にか軽い会釈をする程度の顔見知りから言葉を交わすようになった。
先に話し掛けて来たのは青年——パク・ヒョンシクの方だった。
たまたま同じ時間帯に刑務所を出たときがあって、駅迄タクシーに相乗りすることにした。其の時に何となくで牧師は自分の自宅兼教会となっている場所へヒョンシクを案内した。彼が教会のパイプオルガンが見たいと言ったから。
他人のことを根掘り葉掘り聞く趣味は無かったが、彼は色々と自分から話してくれた。
彼自身が精神科医であること。最近は或る事件の受刑者の精神鑑定のために此処に来ていること。助手をしていた教授が居ないため、仕事を引き継いだこと。其の教授はかなり変わり者であること。
ヒョンシクが一生懸命に話す様子を見ていると、ミサの際に教会を訪れ一週間の出来事を話していく子供と重なって見えて微笑ましかった。
「教授は怖い人だよ。昔は少しでも居眠りしてる奴見付けると色んなものが教壇から飛んで来た。教科書やらノートやら。ホワイトボードのペンで顔押さえ付けられて眉毛繋げられそうになったときもあったよ。あれはほんとにSだと思った」
助手をしている教授の話を聞くこともあれば、逆に牧師の話をしてくれとせがまれることもあった。
「教誨の授業と歌の指導で行くんだ。火曜日は歌がメインだよ」
「歌?牧師さん、歌うたいなの?」
「うん」
そう言うと、目の前の相手の顔がぱっと明るくなる。
「聞いてみたい。ねえ、歌ってよ」
牧師は教会のオルガンに触れた。普段はミサや特別な行事のときくらいしか弾かない。其れに自分が弾くこと自体余り無いので、ヒョンシク一人だけを観客としたミニコンサートのようになった。
高い丸天井に、オルガンの音、そして牧師の——ケビンの声が響く。
歌ったのはソウルフルなゴスペルだった。
ヒョンシクの声が其処に重なる。ケビンは一度目を見開き、其の声質に驚いた。
花のある声だと思う。ビブラートが秀逸で、声に抑揚があって美しい。
聞けばかつては舞台俳優を目指していたときもあったと言う。ケビンは納得した。
「うちの教会に来ないか?」
単純な興味で、ケビンはヒョンシクを誘っていた。
「え、でも俺信心深くなくて……」
ヒョンシクがばつが悪そうに言った。
「知ってる。ただ、単純にシクの声に価値があるって思ったんだよ」
「え……」
「綺麗な声だし、歌うまいのな。だから皆に聞いて貰えれば良いのにって思った」
ヒョンシクは『価値がある』と言われたことに驚いた。心がぐらりとぐらついた。
「日曜の朝なら、差し入れ沢山あるよ。ドーナツとか食べ放題」
「来る!」
即答。
==================
医学部キャンパス医学部医学研究科G棟4階教授室409号室
ヒチョルは呆気に取られた。
「ヒチョル……眠い……」
徹夜明けらしく目に隈を作った親友は、書籍の塔を崩しながら教授室に殴り込んで来たかと思えば、ヒチョルが自分専用にしているソファーにダイブし、体がだるいだの何だのと訳の分からないことを言いながら勝手に微睡んで居た。
「教授室間違えてるんじゃないの。お前のはあっちだよ!あっち!」
ヒチョルが揺さぶっても全く起きようとしない。どんなに細く華奢でもやはり大人一人分の体積を取る物体は、ソファの上でだらだらされると重かった。
「何があったか知らないけど、毎回毎回甘えに来ないでよ」
ヒチョルはそう言って、自分のデスクチェアにかけてあった毛布を、シワンの肩にそっとかけた。
——家か自分の部屋で眠れば良いのに。
無防備な睫毛と薄く開いた唇を見ていると、言葉にならない言えない気持ちになる。
整った小さな顔を見つめ、ヒチョルは右手の人差し指と中指で其の顔の中心にある鼻をつまんだ。
苦しくなったシワンが、喉の奥を鳴らして変な呼吸をするのを確認し、ヒチョルは指を離した。
——此処は休憩室でもお前を匿うシェルターでも無いんだぞ。
そう思いながらも、頬の筋肉が柔らかく運動するのを抑えられなかった。
綺麗な寝顔。何かいいことあった?
==================
警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
「…長、係長!」
「んあ?」
「『んあ?』じゃないですよ。また今朝は飛び切りに眠そうですね?」
ミヌは冷たい視線を上司に送った。全く、ドンジュンと自分は昼夜を問わず働いたのに、此の人は一体何処で何をしていたんだ、と思う。心当たりがあるだけに、当たり散らしてしまう。
「あー眠気冷ましにミヌの毒は効くなあ」
耳が痛いな、とジュニョンは小さな欠伸をした。
「其の口縫い止めて、地の底に沈めますよ此のドM野郎」
ミヌは、はあ、と長い溜め息をついた。
「あ!」
執務室内に大声が響いた。ジュニョンとミヌが其の声の方向を見ると、地図を見ていたドンジュンが何かの異常に気付いたらしい。
「何?どうした?」
二人も壁に貼付けられた地図の傍に近付き、三人で雁首を揃えて地図を眺めた。
「此処か……此処」
ドンジュンが指差したのは、二カ所だった。
「居るのか?」
ジュニョンが問うと、強い眼差しに気圧された。
「絶対だ。俺はこっちに行くから、あとは皆分散して来て!重装備で」
ドンジュンはそう言うや否や、立ち上がってバイクのキーを片手に走って行った。驚くべきスピードで階段を駆け下り、走って行ったのだろう。暫くして、ドンジュンが愛用している白いバイクの改造済みのエンジン音がけたたましい音を立てながら遠ざかって行った。
「俺らも行こう」
ジュニョンがミヌの肩を叩いた。
唇が、離れる。
月明かりに照らされて、お互いの濡れた其処が少しの猥褻さを曝け出していて、目を逸らす。シワンは背筋がぞくりと震えた。
——今日は此処まで。
そう言って、ジュニョンとシワンは長いキスを終えた。キスを終え、顔を少し離した状態で、でも抱き合った格好のままでいると、とても恥ずかしい。シワンはジュニョンの背に回した腕を、名残惜しく感じながらも力を抜けさせて、放した。
おやすみ。ジュニョンがシワンの額にキスをした。
束の間の、甘い時間だった。
==================
医療刑務所
牧師は、コンクリートの高い塀が続く道のりをまた一人、歩いていた。冬の木枯らしが吹き、壁にぶつかる音がした。足元で枯葉が音を立てて渦を巻き、其れも何処かへ流されて行く。
見上げた空は曇り空だった。
「寒いな」
冬の朝は特に痛いくらいに寒い。黒いガウンの上から、自分の体を少し抱き締めるように腕を組み、身震いをした。
ふと顔を上げると、遠くからでも目立つ背の高い青年が歩いてくるのが見えた。
——ああ、此の間の。
昔見た映画のように、十字路でぶつかった彼だ。面会の時間を此の日、と決めているのだろう。自分がいつも医療刑務所を訪問する週の二番目の曜日、また同じ時間帯によく顔を見た。
歩いて来る青年と牧師の距離が近くなり、お互い気付いていたので軽く会釈をした。
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教会
何時の間にか軽い会釈をする程度の顔見知りから言葉を交わすようになった。
先に話し掛けて来たのは青年——パク・ヒョンシクの方だった。
たまたま同じ時間帯に刑務所を出たときがあって、駅迄タクシーに相乗りすることにした。其の時に何となくで牧師は自分の自宅兼教会となっている場所へヒョンシクを案内した。彼が教会のパイプオルガンが見たいと言ったから。
他人のことを根掘り葉掘り聞く趣味は無かったが、彼は色々と自分から話してくれた。
彼自身が精神科医であること。最近は或る事件の受刑者の精神鑑定のために此処に来ていること。助手をしていた教授が居ないため、仕事を引き継いだこと。其の教授はかなり変わり者であること。
ヒョンシクが一生懸命に話す様子を見ていると、ミサの際に教会を訪れ一週間の出来事を話していく子供と重なって見えて微笑ましかった。
「教授は怖い人だよ。昔は少しでも居眠りしてる奴見付けると色んなものが教壇から飛んで来た。教科書やらノートやら。ホワイトボードのペンで顔押さえ付けられて眉毛繋げられそうになったときもあったよ。あれはほんとにSだと思った」
助手をしている教授の話を聞くこともあれば、逆に牧師の話をしてくれとせがまれることもあった。
「教誨の授業と歌の指導で行くんだ。火曜日は歌がメインだよ」
「歌?牧師さん、歌うたいなの?」
「うん」
そう言うと、目の前の相手の顔がぱっと明るくなる。
「聞いてみたい。ねえ、歌ってよ」
牧師は教会のオルガンに触れた。普段はミサや特別な行事のときくらいしか弾かない。其れに自分が弾くこと自体余り無いので、ヒョンシク一人だけを観客としたミニコンサートのようになった。
高い丸天井に、オルガンの音、そして牧師の——ケビンの声が響く。
歌ったのはソウルフルなゴスペルだった。
ヒョンシクの声が其処に重なる。ケビンは一度目を見開き、其の声質に驚いた。
花のある声だと思う。ビブラートが秀逸で、声に抑揚があって美しい。
聞けばかつては舞台俳優を目指していたときもあったと言う。ケビンは納得した。
「うちの教会に来ないか?」
単純な興味で、ケビンはヒョンシクを誘っていた。
「え、でも俺信心深くなくて……」
ヒョンシクがばつが悪そうに言った。
「知ってる。ただ、単純にシクの声に価値があるって思ったんだよ」
「え……」
「綺麗な声だし、歌うまいのな。だから皆に聞いて貰えれば良いのにって思った」
ヒョンシクは『価値がある』と言われたことに驚いた。心がぐらりとぐらついた。
「日曜の朝なら、差し入れ沢山あるよ。ドーナツとか食べ放題」
「来る!」
即答。
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医学部キャンパス医学部医学研究科G棟4階教授室409号室
ヒチョルは呆気に取られた。
「ヒチョル……眠い……」
徹夜明けらしく目に隈を作った親友は、書籍の塔を崩しながら教授室に殴り込んで来たかと思えば、ヒチョルが自分専用にしているソファーにダイブし、体がだるいだの何だのと訳の分からないことを言いながら勝手に微睡んで居た。
「教授室間違えてるんじゃないの。お前のはあっちだよ!あっち!」
ヒチョルが揺さぶっても全く起きようとしない。どんなに細く華奢でもやはり大人一人分の体積を取る物体は、ソファの上でだらだらされると重かった。
「何があったか知らないけど、毎回毎回甘えに来ないでよ」
ヒチョルはそう言って、自分のデスクチェアにかけてあった毛布を、シワンの肩にそっとかけた。
——家か自分の部屋で眠れば良いのに。
無防備な睫毛と薄く開いた唇を見ていると、言葉にならない言えない気持ちになる。
整った小さな顔を見つめ、ヒチョルは右手の人差し指と中指で其の顔の中心にある鼻をつまんだ。
苦しくなったシワンが、喉の奥を鳴らして変な呼吸をするのを確認し、ヒチョルは指を離した。
——此処は休憩室でもお前を匿うシェルターでも無いんだぞ。
そう思いながらも、頬の筋肉が柔らかく運動するのを抑えられなかった。
綺麗な寝顔。何かいいことあった?
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警視庁刑事部第五強行犯捜査特別捜査第1係
「…長、係長!」
「んあ?」
「『んあ?』じゃないですよ。また今朝は飛び切りに眠そうですね?」
ミヌは冷たい視線を上司に送った。全く、ドンジュンと自分は昼夜を問わず働いたのに、此の人は一体何処で何をしていたんだ、と思う。心当たりがあるだけに、当たり散らしてしまう。
「あー眠気冷ましにミヌの毒は効くなあ」
耳が痛いな、とジュニョンは小さな欠伸をした。
「其の口縫い止めて、地の底に沈めますよ此のドM野郎」
ミヌは、はあ、と長い溜め息をついた。
「あ!」
執務室内に大声が響いた。ジュニョンとミヌが其の声の方向を見ると、地図を見ていたドンジュンが何かの異常に気付いたらしい。
「何?どうした?」
二人も壁に貼付けられた地図の傍に近付き、三人で雁首を揃えて地図を眺めた。
「此処か……此処」
ドンジュンが指差したのは、二カ所だった。
「居るのか?」
ジュニョンが問うと、強い眼差しに気圧された。
「絶対だ。俺はこっちに行くから、あとは皆分散して来て!重装備で」
ドンジュンはそう言うや否や、立ち上がってバイクのキーを片手に走って行った。驚くべきスピードで階段を駆け下り、走って行ったのだろう。暫くして、ドンジュンが愛用している白いバイクの改造済みのエンジン音がけたたましい音を立てながら遠ざかって行った。
「俺らも行こう」
ジュニョンがミヌの肩を叩いた。
Profile
HN:
はまうず美恵
HP:
性別:
女性
職業:
吟遊詩人
趣味:
アート
自己紹介:
ハミエことはまうず美恵です。
当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
某帝国の二次創作同人を取り扱っています。
女性向け表現を含むサイトですので、興味のない方意味のわからない方は入室をご遠慮下さい。
尚、二次創作に関しては各関係者をはじめ実在する国家、人物、団体、歴史、宗教等とは一切関係ありません。
また 、これら侮辱する意図もありません。
当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
某帝国の二次創作同人を取り扱っています。
女性向け表現を含むサイトですので、興味のない方意味のわからない方は入室をご遠慮下さい。
尚、二次創作に関しては各関係者をはじめ実在する国家、人物、団体、歴史、宗教等とは一切関係ありません。
また 、これら侮辱する意図もありません。
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