静寂の夜に、砂時計のような星座が浮かんでいる。
オリオンは、類い稀な美しい少年だったという。
思いに耽っていると、頬に冷たいものがあたった。
——雨?
ヒョンシクは頬に手をやり、星を眺めていた目の焦点を、手前にずらした。
雪。
雪が舞っている。
空の黒と、星と雪の白で、世界は一面モノクロに見えた。
身震いすると、隣に居た小さな体もぶるぶると震えた。シワンが隣でマフラーを巻き直した。
もう一度空を見上げた。
砂時計を描く星が輝いている。冬の星座に、隣に居る華奢な体の持ち主が重なる。
「——また雪か」
シワンが言う。もう何度目かの雪。
降り出した其れを二人で見上げる。
やわらかな雪が、静かに、空から散りばめられてくる。
空の星を隠すように、白い点が地上に降ってくる。
シワンの顔を見ると、モノクロームの世界でやけに其の唇だけが赤く、色を持って見えた。寒さで震える唇と、凍えて白くなった頬のコントラストに目を奪われる。
お帰りなさい、と言ったら、ただいま、と言ってくれた唇。
「寒いね」
肩をすぼめた格好で、下から見上げるように視線と笑顔を送られる。寒いね、なんて言っても、寒さは軽減されないのに。白い雪は、彼の肩も震わせるように、ただただ優しく揺れていた。
離れていても、言葉は届く。
でも、温もりは絶対に届かない。電話越しでは、抱き締められない。
「?シク……」
肩を引き寄せて、狂おしいくらい孤独を埋めるように抱き締める。腕の中に、すっぽりと納めて、雪から其の体を覆うようにヒョンシクはシワンの背中に腕を回した。
「どうしたの?」
「ヒョンが居なかったから、チャージしてるの」
「え?何其れ、あはは……」
抱擁の意味もきっと伝わっていないのだろう。
此の気持ちは可愛い弟の甘えなんかじゃないのに。
伝えたい想いは、まだ、届かない。
雪がヒョンシクの肩に降り積もる。
静かな空間に、ヒョンシクがふうっと吐く呼吸音だけが響いた。白い吐息が浮かび、夜の闇に吸い込まれて行った。
オリオンは、類い稀な美しい少年だったという。
思いに耽っていると、頬に冷たいものがあたった。
——雨?
ヒョンシクは頬に手をやり、星を眺めていた目の焦点を、手前にずらした。
雪。
雪が舞っている。
空の黒と、星と雪の白で、世界は一面モノクロに見えた。
身震いすると、隣に居た小さな体もぶるぶると震えた。シワンが隣でマフラーを巻き直した。
もう一度空を見上げた。
砂時計を描く星が輝いている。冬の星座に、隣に居る華奢な体の持ち主が重なる。
「——また雪か」
シワンが言う。もう何度目かの雪。
降り出した其れを二人で見上げる。
やわらかな雪が、静かに、空から散りばめられてくる。
空の星を隠すように、白い点が地上に降ってくる。
シワンの顔を見ると、モノクロームの世界でやけに其の唇だけが赤く、色を持って見えた。寒さで震える唇と、凍えて白くなった頬のコントラストに目を奪われる。
お帰りなさい、と言ったら、ただいま、と言ってくれた唇。
「寒いね」
肩をすぼめた格好で、下から見上げるように視線と笑顔を送られる。寒いね、なんて言っても、寒さは軽減されないのに。白い雪は、彼の肩も震わせるように、ただただ優しく揺れていた。
離れていても、言葉は届く。
でも、温もりは絶対に届かない。電話越しでは、抱き締められない。
「?シク……」
肩を引き寄せて、狂おしいくらい孤独を埋めるように抱き締める。腕の中に、すっぽりと納めて、雪から其の体を覆うようにヒョンシクはシワンの背中に腕を回した。
「どうしたの?」
「ヒョンが居なかったから、チャージしてるの」
「え?何其れ、あはは……」
抱擁の意味もきっと伝わっていないのだろう。
此の気持ちは可愛い弟の甘えなんかじゃないのに。
伝えたい想いは、まだ、届かない。
雪がヒョンシクの肩に降り積もる。
静かな空間に、ヒョンシクがふうっと吐く呼吸音だけが響いた。白い吐息が浮かび、夜の闇に吸い込まれて行った。
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真夜中、隣に姿が無かった。
薄目で辺りを見回すと、窓辺から空を眺めているヒョンシクが居た。
月に聞こえるように吠える犬の声が何処かでする。
深い雪の上を滑って、静寂を突き破る声が遠く響いて来る。
降り続いた雪は止んでいて、月が辺り一面を照らし、雪が其の光を跳ね返す夜。
ヒョンシクの横顔は青白く、夜中にだけ開花し大輪の花をつけながらも短時間で萎んで行く花を連想させた。
悲しい花言葉を持った花。思い描いた大輪の花の像に彼の表情が重なって、シワンは口をつぐんだ。
声がかけられなかった。
——其の心の闇に、触れたいのに。
見てはいけないものを見てしまった気がして、シワンは自分が起きていると気付かれないように息を潜め、瞳を閉じた。
==================
数時間前、夢を見た。
つまらないことで言い争いをした、あの日のことだった。
——『あー!』
——『え、どうしたの?シク』
——『どうしたのじゃないよ!何で俺のアイス食べちゃったの!?』
——『ごめんごめん、かわりのやつ買って来るつもりだったんだ』
——『やだ!やだ!風呂上がりに食べようって決めてたのに!』
——『だからごめんってば』
——『今食べたかったのに!』
——『……じゃあ、買って来るよ。ごめんね』
——『早く帰ってきてよ!』
彼は、帰って来なかった。
駆け付けると、道端で潰れどろどろに溶けて中身がはみ出していたバニラアイスのカップと、救急隊員に抱えられた彼を見た。
駆け付ける間自分が絶望しないようにと描いていた最悪のシナリオを、いきなり目の前に突きつけられた。
別れは唐突だった。
冷凍庫に入っていたのは、前日の晩彼が作ってくれたアイスクリームだった。
優しい卵の味がして、「ほっぺたが落ちる」と思った。
其れが好きで、本当は買ってきたものでは嫌だったのに。
何故あの日駄々をこねてしまったのだろう。我侭を言わなければ、あんなことにはならなかったのに。
もう、此の世界の何処を探しても貴方は居ない。
ヒョンシクは月を眺めた。
かけがえのないものを手にして、また失って。
ベッドで眠る小さな背中に目を向ける。
——また恋に堕ちて、また失うのだろうか。
==================
ヒョンシクが立ち上がり、部屋を出て行った音を背中で聞いて、シワンは寒気がした。
廊下を歩いて行く足音に聞き耳を立てる。
暖炉の扉を開け閉めする音が聞こえて、ヒョンシクがリビングで過ごそうとしていることを理解した。
未だ、夜明けまでは随分と時間があるのに——。
そう思っていると、今度はアトリエの方へ足音が向かって行った。
——こんな時間に?
シワンはシーツから体を滑らせて起き上がった。ベッドの上で脚を投げ出して座る格好になって、ヒョンシクの立てる物音に神経を集中させる。
ごとん
アトリエの机の、開け閉めのしにくい浅棚の木の擦れる音がし、ヒョンシクの足音はリビングへと響いた。
あの場所は。
次の瞬間、シワンは不安になってリビングへ向かった。
「ヒョンシク!」
リビングのドアから窺い見た中の様子に、シワンは慌てて駆け寄りヒョンシクの手を乱暴に掴んだ。
シワンが急に現れ、自分に怒鳴ったことに驚いたヒョンシクの右手から、一枚の絵が床に落ちた。
ひらり
「シワンヒョン!?」
シワンはヒョンシクの手を掴んだまま身を屈ませてその絵を取ると、後ろ手にしてヒョンシクから遠ざけるように隠した。
「……返して」
暗がりの中で、暖炉の光だけで。ヒョンシクはシワンの顔を見て言った。
「嫌だ」
「返せよ!」
「絶対嫌だ」
シワンは掴もうとするヒョンシクの腕を振り払い、絵を抱えた。
ヒョンシクは、絵を燃やそうとしていた。
たった一枚、此の家に残った人物画を。
「ヒョンシク」
シワンは名前を呼んだ。少し興奮していたヒョンシクは、その強い響きに気圧されて停止する。シワンは胸元に柔らかく抱えた絵を掴む指先に、僅かに力を込めた。
「過去は消せない」
シワンの言葉が一瞬の静寂を切り裂いた。
「なかったことになんて、できないんだ」
床にそっと絵を置き、ヒョンシクが落ち着いたことを確認しながら、暗闇の中、一歩ずつヒョンシクとの距離を縮めて、シワンは其の首の後ろに手をかけた。
そのまま肩へと手をずらし、前から抱きつく格好になって、ヒョンシクを抱き締めた。
「話してよ」
そのままヒョンシクの耳を左手で撫でた。
「どんなに時間がかかっても、聞くから」
==================
其のまま、暖炉の前で抱き合った格好で、ヒョンシクは全ての出来事を話した。
其れはシワンにとって大まかに推定していた事態と近かったが、やっと謎が解ける感覚でもあり、同時に、彼の止まない痛みの根本に触れて行く辛い体験でもあった。
シワンの服の肩に時折ヒョンシクの涙の粒が当たり、しみを作って行く。
温かい涙に触れながら、ずっとシワンはヒョンシクの髪を撫で、背をさすっていた。
「大人になりたくなかった。生きて、彼の年齢よりも長く生きるのが怖かった」
だから成長を拒んで、食事を削った。
彼との時間を凍結させるために、人物画を描かなくなり、人が一人も居ない風景画と人間の人形の無いジオラマを作って、空想の世界で過ごすようになった。
そうやって、「緩やかな自殺」を選んだ。
ヒョンシクが右手の手首で自分の目を擦った。
暖炉の火に照らされて、涙の付いた其処が光る。まるで手首が泣いているようで、其れが酷く悲しくて、シワンはそっと見つめていた手首を手に取った。
そっと涙の跡に口づける。
「俺に申し訳ないとか、そんな気持ちで、大切だったものまで歪めないで」
それからヒョンシクの首を引き寄せる。二人の目が交差して、暖炉の火の光の中、見つめ合う。穏やかな目と潤んだ目。どちらともなく唇を近付けて、キスをする。
其の合間に、シワンの瞼にヒョンシクの涙が零れた感覚があった。
「二年も時間があって、あの絵だけ残してたくらい、大切なものなんだから」
==================
「ねえ、ヒョン——」
「なに?」
「いつか、いつかだけどね。あの絵を捨てたいんだ」
「……」
「『火葬』するの。あっちと、こっちは違うって」
「無理、してない?」
「してないよ。だからね、そのときはヒョンも立ち会ってほしい」
「……うん」
「ヒョン」
「え?」
「約束」
指切り。
==================
「ヒョン」。
愛してたよ。誰よりも愛してた。ずっと傍に居て欲しかった。
貴方のことは忘れない。
今、大切な人が居る。
今度こそ、守り通します。
決して報われなくても。
彼と、生きて行くって誓ったんだ。
だから、見守っていて。
其処から。
薄目で辺りを見回すと、窓辺から空を眺めているヒョンシクが居た。
月に聞こえるように吠える犬の声が何処かでする。
深い雪の上を滑って、静寂を突き破る声が遠く響いて来る。
降り続いた雪は止んでいて、月が辺り一面を照らし、雪が其の光を跳ね返す夜。
ヒョンシクの横顔は青白く、夜中にだけ開花し大輪の花をつけながらも短時間で萎んで行く花を連想させた。
悲しい花言葉を持った花。思い描いた大輪の花の像に彼の表情が重なって、シワンは口をつぐんだ。
声がかけられなかった。
——其の心の闇に、触れたいのに。
見てはいけないものを見てしまった気がして、シワンは自分が起きていると気付かれないように息を潜め、瞳を閉じた。
==================
数時間前、夢を見た。
つまらないことで言い争いをした、あの日のことだった。
——『あー!』
——『え、どうしたの?シク』
——『どうしたのじゃないよ!何で俺のアイス食べちゃったの!?』
——『ごめんごめん、かわりのやつ買って来るつもりだったんだ』
——『やだ!やだ!風呂上がりに食べようって決めてたのに!』
——『だからごめんってば』
——『今食べたかったのに!』
——『……じゃあ、買って来るよ。ごめんね』
——『早く帰ってきてよ!』
彼は、帰って来なかった。
駆け付けると、道端で潰れどろどろに溶けて中身がはみ出していたバニラアイスのカップと、救急隊員に抱えられた彼を見た。
駆け付ける間自分が絶望しないようにと描いていた最悪のシナリオを、いきなり目の前に突きつけられた。
別れは唐突だった。
冷凍庫に入っていたのは、前日の晩彼が作ってくれたアイスクリームだった。
優しい卵の味がして、「ほっぺたが落ちる」と思った。
其れが好きで、本当は買ってきたものでは嫌だったのに。
何故あの日駄々をこねてしまったのだろう。我侭を言わなければ、あんなことにはならなかったのに。
もう、此の世界の何処を探しても貴方は居ない。
ヒョンシクは月を眺めた。
かけがえのないものを手にして、また失って。
ベッドで眠る小さな背中に目を向ける。
——また恋に堕ちて、また失うのだろうか。
==================
ヒョンシクが立ち上がり、部屋を出て行った音を背中で聞いて、シワンは寒気がした。
廊下を歩いて行く足音に聞き耳を立てる。
暖炉の扉を開け閉めする音が聞こえて、ヒョンシクがリビングで過ごそうとしていることを理解した。
未だ、夜明けまでは随分と時間があるのに——。
そう思っていると、今度はアトリエの方へ足音が向かって行った。
——こんな時間に?
シワンはシーツから体を滑らせて起き上がった。ベッドの上で脚を投げ出して座る格好になって、ヒョンシクの立てる物音に神経を集中させる。
ごとん
アトリエの机の、開け閉めのしにくい浅棚の木の擦れる音がし、ヒョンシクの足音はリビングへと響いた。
あの場所は。
次の瞬間、シワンは不安になってリビングへ向かった。
「ヒョンシク!」
リビングのドアから窺い見た中の様子に、シワンは慌てて駆け寄りヒョンシクの手を乱暴に掴んだ。
シワンが急に現れ、自分に怒鳴ったことに驚いたヒョンシクの右手から、一枚の絵が床に落ちた。
ひらり
「シワンヒョン!?」
シワンはヒョンシクの手を掴んだまま身を屈ませてその絵を取ると、後ろ手にしてヒョンシクから遠ざけるように隠した。
「……返して」
暗がりの中で、暖炉の光だけで。ヒョンシクはシワンの顔を見て言った。
「嫌だ」
「返せよ!」
「絶対嫌だ」
シワンは掴もうとするヒョンシクの腕を振り払い、絵を抱えた。
ヒョンシクは、絵を燃やそうとしていた。
たった一枚、此の家に残った人物画を。
「ヒョンシク」
シワンは名前を呼んだ。少し興奮していたヒョンシクは、その強い響きに気圧されて停止する。シワンは胸元に柔らかく抱えた絵を掴む指先に、僅かに力を込めた。
「過去は消せない」
シワンの言葉が一瞬の静寂を切り裂いた。
「なかったことになんて、できないんだ」
床にそっと絵を置き、ヒョンシクが落ち着いたことを確認しながら、暗闇の中、一歩ずつヒョンシクとの距離を縮めて、シワンは其の首の後ろに手をかけた。
そのまま肩へと手をずらし、前から抱きつく格好になって、ヒョンシクを抱き締めた。
「話してよ」
そのままヒョンシクの耳を左手で撫でた。
「どんなに時間がかかっても、聞くから」
==================
其のまま、暖炉の前で抱き合った格好で、ヒョンシクは全ての出来事を話した。
其れはシワンにとって大まかに推定していた事態と近かったが、やっと謎が解ける感覚でもあり、同時に、彼の止まない痛みの根本に触れて行く辛い体験でもあった。
シワンの服の肩に時折ヒョンシクの涙の粒が当たり、しみを作って行く。
温かい涙に触れながら、ずっとシワンはヒョンシクの髪を撫で、背をさすっていた。
「大人になりたくなかった。生きて、彼の年齢よりも長く生きるのが怖かった」
だから成長を拒んで、食事を削った。
彼との時間を凍結させるために、人物画を描かなくなり、人が一人も居ない風景画と人間の人形の無いジオラマを作って、空想の世界で過ごすようになった。
そうやって、「緩やかな自殺」を選んだ。
ヒョンシクが右手の手首で自分の目を擦った。
暖炉の火に照らされて、涙の付いた其処が光る。まるで手首が泣いているようで、其れが酷く悲しくて、シワンはそっと見つめていた手首を手に取った。
そっと涙の跡に口づける。
「俺に申し訳ないとか、そんな気持ちで、大切だったものまで歪めないで」
それからヒョンシクの首を引き寄せる。二人の目が交差して、暖炉の火の光の中、見つめ合う。穏やかな目と潤んだ目。どちらともなく唇を近付けて、キスをする。
其の合間に、シワンの瞼にヒョンシクの涙が零れた感覚があった。
「二年も時間があって、あの絵だけ残してたくらい、大切なものなんだから」
==================
「ねえ、ヒョン——」
「なに?」
「いつか、いつかだけどね。あの絵を捨てたいんだ」
「……」
「『火葬』するの。あっちと、こっちは違うって」
「無理、してない?」
「してないよ。だからね、そのときはヒョンも立ち会ってほしい」
「……うん」
「ヒョン」
「え?」
「約束」
指切り。
==================
「ヒョン」。
愛してたよ。誰よりも愛してた。ずっと傍に居て欲しかった。
貴方のことは忘れない。
今、大切な人が居る。
今度こそ、守り通します。
決して報われなくても。
彼と、生きて行くって誓ったんだ。
だから、見守っていて。
其処から。
火の匂いがする。
シワンは、燃え盛る暖炉の火を横目で見た。
顔の火照りは先ほど煽った少量のワインの所為だろうか。暖炉の前に居る所為だろうか。
それとも、火——。の所為だろうか。
ヒョンシクの手が、服の下へと伸びてきて、シワンはぎゅっと身を硬直させた。
其れに気付いたヒョンシクは、閉じていた目を開け、慌てて手を離した。
「——やっぱり、やめとく?」
馬乗りになった格好のまま、ヒョンシクは真顔で尋ねた。
「いいよ、続けて」
目を合わさずにシワンが答える。
「待ってよ。凄いがちがちだってば。やっぱり嫌なんじゃ——」
「やりたいならやればいいだろ」
「!」
「其の言い方は、やだ」
「……?」
頭を抱えてしまったヒョンシクに、シワンは怪訝そうな顔しか出来なかった。
「ねえ、何でいつもそうやって、体とか、命とか、どうでもいいみたいに言うの?」
眉根を寄せて真剣な眼差しで聞いてくる一重の瞳。
其の奥の黒目が、必死さを物語るように揺れずに居るのが分かった。
「ずっと気になってたんだよ。前、ヒョンは凄くなげやりに話してた。でも、本当は怖いんじゃないの?」
「怖くなんか」
「じゃあ、本当に何しても良いの?」
途端にヒョンシクはシワンの額を左手の掌で強く押し、シワンの頭を床に押さえつけ、そのまま自分の顔を近付けた。鼻が触れ合うギリギリの場所で目を見つめたられ、シワンは反射的に双眸を固く閉じた。
「ほら、違うでしょ」
急に額を押さえつけていた手の力が弱くなって其の手が髪へと滑り、頭を撫でた。
「もっと大事にしてよ。どうでもいいって言わないで。怖いって思うなら言ってよ。前も言ったじゃん、辛かったら辛いって言ってって」
「……何で年下に甘えなきゃいけないんだ……」
「其れは、シワンヒョンが俺を好きだからです」
「答えになってないよ……」
一つ、一つ。
服を剥いで行くと、数日ぶりに見た生々しい傷痕は、まだ其処にあった。
「消えないんだ」
シワンは自分の体を覆うように両腕を交差させて、自分で自分の肩を抱く格好で居た。此の傷は消えない、とヒョンシクに教える。ヒョンシクは右太腿の裏にあった傷に気付いて、遠慮がちに左手の人差し指で触れてみる。シワンが不安そうに体を震わせた。
「鞭?」
「ベルトだった」
二人は肌と肌を合わせて、そっと抱き合った。
「最後の方は依存だった。コイツの暴力を受け止めてやらないと、コイツは壊れる、って思ってた」
「…………」
「逃げても絶対に追いかけられてもっと酷いことをされる。だから、逃げることも諦めた」
「でも、逃げたんでしょう?」
「逃げることなんて出来ないって分かったときに、死のうと思った。ただ、一人じゃ死ねなくて、雪崩の起きそうな場所を探してたんだ」
「雪崩の?」
「巻き込まれて窒息死したかったんだ。そしたら、しばらく誰も気付かないし、発見されても、多分、俺は見た目は綺麗なんじゃないかって思ってた」
馬鹿だろう、とシワンは自嘲した。馬鹿だねえ、とヒョンシクも笑った。
「でも其れも怖くなって、そしたら、お前の家があって」
真っ白な闇——横殴りの吹雪——の中で、やっと見付けた人の家の光。
「やっぱり——生きたかったんだろうね。それで、人が居る、って思ったときに意識が途切れた」
其処まで話して、シワンは、ずっと一人で話し続けていたことを軽く詫びた。
「やっと、ちゃんと話してくれた」
ヒョンシクは優しい声で、シワンに言った。
「一個だけ質問」
ヒョンシクは顔を話して、神妙な表情で言った。
「なに?」
「抱いても良い?」
「馬鹿。キスだって、許可無しにしてきた癖に」
「——!」
驚いた丸い目と丸く開いた口が阿呆みたいだな、とシワンは思う。目の前で間抜けな顔をしているヒョンシクの額を、ぴっと指で弾いた。
「寝たふり、してたんだよ」
「何で寝たふりするの!?」
額を両手で押さえてヒョンシクが訴える。今の状況でヒョンシクが強気にシワンを訴えるのも立場はおかしいのだが、敢えて其処にはシワンも触れないようにした。
「キスしてくれるかなあって」
にこり、と。
シワンが笑う。
「キスとかそういうのは許可取ってするもんじゃないよ。奪うんだよ」
危険な、匂いをさせて、シワンはヒョンシクの首を自分の方へ引き寄せた。
床で。
暖炉の光に照らされながら。
丁寧に体の隅々までを撫でで。
愛しさを、温もりを、熱を、指先と舌で伝え合う。
何処までも、何処までも。
隙間が無い位に抱き合って、二人の距離を零に近付けて行く。
絨毯の上に横たえられて、少し体をずらすたびにみみず腫れが絨毯の毛に擦れて痛む。其れに眉根を顰めたらヒョンシクが気付いて体を起こさせた。
「あ、ごめん、背中……」
今までもずっと抱き合ったりしていたのに、暗にこれから始まることを気にされているようで、自分が大切にされているようで、くすぐったい。
「ヒョン、横向いて」
ヒョンシクはシワンの体の左側を下にして横向きにさせた。既に指で慣らした場所に自分のものを宛てがうと、シワンの左足に手を添えて肩に担ぎ上げた。
「あっ」
「入るよ……」
目の前で小さな星のような点が見えた。
脚を担ぎ上げられた所為で、酷く恥ずかしい格好を明るい場所でさせられている。
ずん、と大きな衝撃があった。
「あ、すごい……」
ヒョンシクの声が近いのに遠くで聞こえる。息苦しくて、異物感と痛いくらいの質量を感じる。
「ヒョン、大丈夫?」
「あ……大丈夫」
待っていたものを挿れられて、シワンは胸がいっぱいになった。
やっと一つになれた。
嬉しくて、苦しくて、シワンは涙を零した。
「本当に?泣いてる」
不安そうに尋ねて来るヒョンシクの手を握った。
「大丈夫だから、」
其れから、何回もヒョンシクはシワンの反応を確かめながら、腰を進めた。
「ん…」
目を瞑ろうとすると、ちゃんと見て、と言われる。其の方向を向くと、ヒョンシクの自分を見つめる目と目が合う。
熱を持った視線で見られたまま、また腰を打ち付けられる。
「あんっ」
奥の深い場所に当たって、シワンは仰け反った。背を反らせれば反動で脚に力が入り、摩擦が増して、お互い更に気持ちが高まる。
「ヒョン、自分で動いちゃった?」
「や……言わないで……」
「ふふ、可愛い」
ヒョンシクが愛しくてたまらない、とシワンの首筋にキスをしてから、舌を顎まで這わせて唇を一回舐め、腰を動かすのと同時にシワンの唇にキスをした。
「……シク、だめ、ヤバい」
涙目で訴えるシワンが可愛くて、ヒョンシクは覆い被さっていた体を少し離すと、肩に担いでいた脚に左手を這わせ、太腿を持って
ぺろ
と、シワンの左足の裏を舐めた。
「ひゃっ」
高い声が出て、シワンは慌てて口許に右手をやった。ヒョンシクが酷く挑発的な目で見返して来て、何かが悔しい。
ヒョンシクはもう一度足裏に舌を這わせてくる。
其の度に、シワンの体の中で不思議な快感が神経を犯してくる。
「ヒョンシク、やばい、もう……」
「うん」
ヒョンシクは脚をもう一度担いで、いっそう強く。腰を押し当ててきた。
「シワン」
「あん……ん……なに?」
「好き。どうしていいかわかんないくらい好き」
お互いの足りない欠片が埋められて行く。
濃密な、時間。
二人の吐息と体が混ざり合って、空気が、濃かった。
シワンは、燃え盛る暖炉の火を横目で見た。
顔の火照りは先ほど煽った少量のワインの所為だろうか。暖炉の前に居る所為だろうか。
それとも、火——。の所為だろうか。
ヒョンシクの手が、服の下へと伸びてきて、シワンはぎゅっと身を硬直させた。
其れに気付いたヒョンシクは、閉じていた目を開け、慌てて手を離した。
「——やっぱり、やめとく?」
馬乗りになった格好のまま、ヒョンシクは真顔で尋ねた。
「いいよ、続けて」
目を合わさずにシワンが答える。
「待ってよ。凄いがちがちだってば。やっぱり嫌なんじゃ——」
「やりたいならやればいいだろ」
「!」
「其の言い方は、やだ」
「……?」
頭を抱えてしまったヒョンシクに、シワンは怪訝そうな顔しか出来なかった。
「ねえ、何でいつもそうやって、体とか、命とか、どうでもいいみたいに言うの?」
眉根を寄せて真剣な眼差しで聞いてくる一重の瞳。
其の奥の黒目が、必死さを物語るように揺れずに居るのが分かった。
「ずっと気になってたんだよ。前、ヒョンは凄くなげやりに話してた。でも、本当は怖いんじゃないの?」
「怖くなんか」
「じゃあ、本当に何しても良いの?」
途端にヒョンシクはシワンの額を左手の掌で強く押し、シワンの頭を床に押さえつけ、そのまま自分の顔を近付けた。鼻が触れ合うギリギリの場所で目を見つめたられ、シワンは反射的に双眸を固く閉じた。
「ほら、違うでしょ」
急に額を押さえつけていた手の力が弱くなって其の手が髪へと滑り、頭を撫でた。
「もっと大事にしてよ。どうでもいいって言わないで。怖いって思うなら言ってよ。前も言ったじゃん、辛かったら辛いって言ってって」
「……何で年下に甘えなきゃいけないんだ……」
「其れは、シワンヒョンが俺を好きだからです」
「答えになってないよ……」
一つ、一つ。
服を剥いで行くと、数日ぶりに見た生々しい傷痕は、まだ其処にあった。
「消えないんだ」
シワンは自分の体を覆うように両腕を交差させて、自分で自分の肩を抱く格好で居た。此の傷は消えない、とヒョンシクに教える。ヒョンシクは右太腿の裏にあった傷に気付いて、遠慮がちに左手の人差し指で触れてみる。シワンが不安そうに体を震わせた。
「鞭?」
「ベルトだった」
二人は肌と肌を合わせて、そっと抱き合った。
「最後の方は依存だった。コイツの暴力を受け止めてやらないと、コイツは壊れる、って思ってた」
「…………」
「逃げても絶対に追いかけられてもっと酷いことをされる。だから、逃げることも諦めた」
「でも、逃げたんでしょう?」
「逃げることなんて出来ないって分かったときに、死のうと思った。ただ、一人じゃ死ねなくて、雪崩の起きそうな場所を探してたんだ」
「雪崩の?」
「巻き込まれて窒息死したかったんだ。そしたら、しばらく誰も気付かないし、発見されても、多分、俺は見た目は綺麗なんじゃないかって思ってた」
馬鹿だろう、とシワンは自嘲した。馬鹿だねえ、とヒョンシクも笑った。
「でも其れも怖くなって、そしたら、お前の家があって」
真っ白な闇——横殴りの吹雪——の中で、やっと見付けた人の家の光。
「やっぱり——生きたかったんだろうね。それで、人が居る、って思ったときに意識が途切れた」
其処まで話して、シワンは、ずっと一人で話し続けていたことを軽く詫びた。
「やっと、ちゃんと話してくれた」
ヒョンシクは優しい声で、シワンに言った。
「一個だけ質問」
ヒョンシクは顔を話して、神妙な表情で言った。
「なに?」
「抱いても良い?」
「馬鹿。キスだって、許可無しにしてきた癖に」
「——!」
驚いた丸い目と丸く開いた口が阿呆みたいだな、とシワンは思う。目の前で間抜けな顔をしているヒョンシクの額を、ぴっと指で弾いた。
「寝たふり、してたんだよ」
「何で寝たふりするの!?」
額を両手で押さえてヒョンシクが訴える。今の状況でヒョンシクが強気にシワンを訴えるのも立場はおかしいのだが、敢えて其処にはシワンも触れないようにした。
「キスしてくれるかなあって」
にこり、と。
シワンが笑う。
「キスとかそういうのは許可取ってするもんじゃないよ。奪うんだよ」
危険な、匂いをさせて、シワンはヒョンシクの首を自分の方へ引き寄せた。
床で。
暖炉の光に照らされながら。
丁寧に体の隅々までを撫でで。
愛しさを、温もりを、熱を、指先と舌で伝え合う。
何処までも、何処までも。
隙間が無い位に抱き合って、二人の距離を零に近付けて行く。
絨毯の上に横たえられて、少し体をずらすたびにみみず腫れが絨毯の毛に擦れて痛む。其れに眉根を顰めたらヒョンシクが気付いて体を起こさせた。
「あ、ごめん、背中……」
今までもずっと抱き合ったりしていたのに、暗にこれから始まることを気にされているようで、自分が大切にされているようで、くすぐったい。
「ヒョン、横向いて」
ヒョンシクはシワンの体の左側を下にして横向きにさせた。既に指で慣らした場所に自分のものを宛てがうと、シワンの左足に手を添えて肩に担ぎ上げた。
「あっ」
「入るよ……」
目の前で小さな星のような点が見えた。
脚を担ぎ上げられた所為で、酷く恥ずかしい格好を明るい場所でさせられている。
ずん、と大きな衝撃があった。
「あ、すごい……」
ヒョンシクの声が近いのに遠くで聞こえる。息苦しくて、異物感と痛いくらいの質量を感じる。
「ヒョン、大丈夫?」
「あ……大丈夫」
待っていたものを挿れられて、シワンは胸がいっぱいになった。
やっと一つになれた。
嬉しくて、苦しくて、シワンは涙を零した。
「本当に?泣いてる」
不安そうに尋ねて来るヒョンシクの手を握った。
「大丈夫だから、」
其れから、何回もヒョンシクはシワンの反応を確かめながら、腰を進めた。
「ん…」
目を瞑ろうとすると、ちゃんと見て、と言われる。其の方向を向くと、ヒョンシクの自分を見つめる目と目が合う。
熱を持った視線で見られたまま、また腰を打ち付けられる。
「あんっ」
奥の深い場所に当たって、シワンは仰け反った。背を反らせれば反動で脚に力が入り、摩擦が増して、お互い更に気持ちが高まる。
「ヒョン、自分で動いちゃった?」
「や……言わないで……」
「ふふ、可愛い」
ヒョンシクが愛しくてたまらない、とシワンの首筋にキスをしてから、舌を顎まで這わせて唇を一回舐め、腰を動かすのと同時にシワンの唇にキスをした。
「……シク、だめ、ヤバい」
涙目で訴えるシワンが可愛くて、ヒョンシクは覆い被さっていた体を少し離すと、肩に担いでいた脚に左手を這わせ、太腿を持って
ぺろ
と、シワンの左足の裏を舐めた。
「ひゃっ」
高い声が出て、シワンは慌てて口許に右手をやった。ヒョンシクが酷く挑発的な目で見返して来て、何かが悔しい。
ヒョンシクはもう一度足裏に舌を這わせてくる。
其の度に、シワンの体の中で不思議な快感が神経を犯してくる。
「ヒョンシク、やばい、もう……」
「うん」
ヒョンシクは脚をもう一度担いで、いっそう強く。腰を押し当ててきた。
「シワン」
「あん……ん……なに?」
「好き。どうしていいかわかんないくらい好き」
お互いの足りない欠片が埋められて行く。
濃密な、時間。
二人の吐息と体が混ざり合って、空気が、濃かった。
何も無い雪道を二人で歩く。
さく さく さく。
雪を踏みしめる音が響く。
二人の足跡は降り続く雪に消されて行く。
さく さく さく。
シワンが指先に息を吹きかけて温める。白い息がふっと指先にかかり、少しだけ温度が高くなる。
「あ、ごめんね気付かなくて」
手袋貸すの忘れちゃった、とヒョンシクが言い、ぱっとシワンの左手と自分の右手を繋いだまま自分のコートのポケットに入れた。
冷たい手と手。シワンはぎゅっとその指先を握り返した。
「このあたりだよ」
そう言うと、ヒョンシクは突然シワンの手を放しその場に顔面から倒れ込んだ。
「こんな風に倒れてたんだ」
雪の上に埋もれる格好になったヒョンシクがぼそぼそと喋った。
ヒョンシクの上に、雪が降り積もる。
「……何となく覚えてる、かも」
シワンは、倒れたヒョンシクと彼の家との距離を見比べ、大体の位置を確認した。
雪は二人が町を出たときよりも少し強くなって、あの日に近い降り方になっていた。風が吹く音がして、寒さを実感する。
「……ねえ」
ヒョンシクがシワンの方へ顔を傾けて言った。
「辛いことがあったら、話してね」
黙って言葉を返さずに居ると、シワンが持っていた傘が風にあおられ、慌てて持ち手を両手で持って押さえた。
ヒョンシクは「飛ばされそう」と笑った。
画廊へ絵を運ぶ、と言ったヒョンシクに着いて隣町まで行った。絵には高額が付き、お祝いだから何か買って帰ろう、とヒョンシクがシワンを市場へ誘った。
バゲット、鶏肉、チーズ、葡萄、プディング。
ヒョンシクが食料品を買うとは思っていなかったので理由を尋ねてみると、「たまにはね」と言った。多分それなりに「お祝い事」をしたいのかもしれない、と思う。
木製の長机の上に買ってきたものを並べて、シワンは今日の晩ご飯について考えた。
ふと、セラーのことを思い出す。
「ヒョンシクは酒飲めるの?」
「え?何急に」
妙な質問だった。
そもそも、シワンが此の家に来てから既にかなりの日数が経過しているのだ。其の間、お互い一滴も酒は口にしていない。セラーがあるほどの人間なら、かなりの酒好きなはずだった。
——シワンは、少し核心に迫りたかった。
「セラーがあるからさ」
「あ……」
ヒョンシクは、シワンが見ている方向の、自分の位置からは見えないセラーを見た。
「俺は苦手。弱いし。それは人のだよ」
気まずそうな、顔。
シワンは、そう、とだけ言ってセラーを開けた。ひんやりとした空間から、ボトルのラベルを確かめる。原産国は、ワイン新興国の国のものが多い。それから、自分でも名前を知っている程有名な銘柄ばかりが丁寧に五本、保管されていた。
「凄い……五大シャトー?」
思わず呟くと、遠くから声が飛んできた。
「いいよ、飲んでも」
——『同居』人のものを勝手に?
「本当に?」
セラーに突っ込んでいた頭を上げて、シワンは暖炉の前に居たヒョンシクに声を張り上げた。
「……うん」
暖炉の前で振り返った彼は、困った顔で笑っていた。
——こんな顔させたい訳じゃないのに。
グラスと布を探し出し、洗って綺麗に拭きあげて用意する。栓抜きは先に見付けていたから、丁寧にコルクを抜くと、軽快な音がした。ボトルに鼻を近付けてみる。ちょっと若い気もしたけれど、グラスの中でぐるぐる回してしまえばいい。其処まで舌が肥えている訳でもないし、今日は何だか手軽に酔いたい気分だった。
手にしたのは新興国のワイン。
ある一国に絞られたのは、多分持ち主が其の国の出身だからなのではないか。
数日前に見た港町の絵を思い出す。
——多分、貴方が好きだったんですね。
ヒョンシクをちらりと見ると、暖炉の前で買ってきたジェリービーンズを一粒一粒機械的な動きで頬張っていた。其れがやはり病的で、核心に迫るつもりが地雷を踏んでしまったのかな、と思う。
帰って来ないという言葉の頭には「二度と」という接頭語が付くのかも知れない。
口に含むと、甘い果実の香りが口の中で瞬時に広がった。渋みが弱く、酒というよりも葡萄ジュースという印象に近い。複雑な表現で酔わせる酒ではなく、素直に味と陶酔感を覚えさせてくれる酒だった。
美味しい。
シワンはもう一度空のグラスにワインを注ぐと、其れを手にして暖炉の方へ向かった。
「美味しいよ。飲んでみて」
緑色のジェリービーンズを手にしたヒョンシクが口を開けたまま、シワンの顔を見た。
「弱いんだってば」
差し出されたグラスに手をかざして、ヒョンシクは謝絶の意思を示した。
「酒の味は……知ってた方が良いよ?」
「何で?」
其れは、今飲んでいる此の酒の話に限った話ではなく。
「酒はね、手軽な夢を見せてくれる麻薬だから」
シワンはそう言って手に持ったグラスを飲み干していく。
「ほら、飲んでみて」
もう一度右手に持ったボトルからワインを注ぐ。暖炉の火の前で、液体の色は何とも言えない色に輝いた。ボトルに線のように入っていったワインは、水たまりをつくり、やがて水平線を作った。
「はい」
シワンは再度左手でグラスを差し出した。
目を丸くして其れを見ていたヒョンシクは、一瞬下を向き、顔を上げ下から見上げて言った。
「ヒョンが、飲ませてくれるなら」
そう言った彼は、ジェリービーンズの入った袋を自分の背と椅子の背もたれの間に隠し、他は何一つ身動きをしない。
固い笑顔を浮かべるばかりだった。
シワンは、手に持ったボトルを壁際の床に置くと、おもむろにグラスを傾けた。
右手の掌を天井に向け、そこにつくった窪みに、グラスから少量のワインを注ぐ。
零れないように、少しずつ。
水滴の流れる音が目の前で響く。
其れをヒョンシクの口許まで無言で持って行った。
ヒョンシクは顔を屈ませて舌先で其のワインを舐めた。
ぺろ
すっと液体を吸い込むと、残った雫を手相をなぞるように舐め上げた。
一瞬逃げそうになった手が、引っ込まないように両手で掴んで、ヒョンシクはワインがなくなっても其の白い掌や指に舌を絡ませていた。
「シワンヒョンはずるいよ」
「何が……」
「知ってて、やってるんでしょ」
座ったままのヒョンシクの目と、シワンの目が合う。
「俺が何考えてるか」
ヒョンシクに強く腕を引かれ、シワンはバランスを崩した。グラスの中身が揺れて、最後は床にこぼれ落ちて、赤いしみを作った。
ぱりん
硝子の割れる音が響いた。
気付いたら、床に組み敷かれていた。
そう気付いた瞬間に別の恐怖がシワンを襲った。脳内で過去の記憶、何時か見た悪夢がフラッシュバックして、呼吸が浅くなる。目を固く瞑って考えないようにすると、頬を撫でられる感覚があって、睫毛を触られ、反射的に目を開けた。
「好きだよ」
そう言ったのは、ヒョンシクだった。
他の誰でもなく、ヒョンシクが、言ったのだ。
目を開けて見た顔には悲しそうな表情があった。
「好きだ……」
体を抱き締められ、無言で肩に顔を埋められた。
「——ヒョンシクこそ、ずるい」
シワンは言った。
「どうして?」
肩越しに言葉が聞こえて来る。自分を包む手の力は強いけれど、温かい。
「俺は誰かのかわりじゃないの?」
「——!」
「ずっと聞けなかった。お前、同居人って言ってる人のこと好きだろ?」
「それは……」
「たまたまふらーって来た俺のこと、何となく好きになった気になってただけ」
「何でそんな言い方するの!?」
ヒョンシクは、馬乗りになった格好で、シワンの肩を揺さぶった。
違うと全身で訴えるように。
「——さあ」
「何で?ちゃんと答えてよ!」
「じゃあ俺の質問にも答えろよ!」
「かわりじゃないよ。確かに好きだったよ?でも、今は違う。今はねえ、シワンヒョン、ちゃんと好きだよ」
ぽたり
ヒョンシクの目から流れた涙が、シワンの鼻に当たった。
「好きなんだ……」
こんなにストレートな言葉と態度は、久しぶりだった。
今までは、もう、愛情と執着がぐちゃぐちゃになった真っ黒な感情をぶつけられていただけだった。
今目の前にあるのは、外に降り積もるような白い感情。
駆け引き無しの、純粋な感情。
其の涙に触れたとき、やっと気付いた。
自分も。
ということを。
「ごめん」
変なタイミングで謝った所為で、ヒョンシクは余計に泣きそうな表情になったと思う。
シワンは手を伸ばし、ヒョンシクの脇から手を入れて背中に腕を回すと、そっと自分の側に引き寄せた。
「泣かせたかった訳じゃないんだ」
ひっく
ヒョンシクの涙を堪えるために不規則になる呼吸音と体の揺れを感じる。
「ごめんね」
シワンから交わらせた舌は、ヒョンシクの口の中に少しの酒臭さを残していった。
「好きだよ、ヒョンシク」
さく さく さく。
雪を踏みしめる音が響く。
二人の足跡は降り続く雪に消されて行く。
さく さく さく。
シワンが指先に息を吹きかけて温める。白い息がふっと指先にかかり、少しだけ温度が高くなる。
「あ、ごめんね気付かなくて」
手袋貸すの忘れちゃった、とヒョンシクが言い、ぱっとシワンの左手と自分の右手を繋いだまま自分のコートのポケットに入れた。
冷たい手と手。シワンはぎゅっとその指先を握り返した。
「このあたりだよ」
そう言うと、ヒョンシクは突然シワンの手を放しその場に顔面から倒れ込んだ。
「こんな風に倒れてたんだ」
雪の上に埋もれる格好になったヒョンシクがぼそぼそと喋った。
ヒョンシクの上に、雪が降り積もる。
「……何となく覚えてる、かも」
シワンは、倒れたヒョンシクと彼の家との距離を見比べ、大体の位置を確認した。
雪は二人が町を出たときよりも少し強くなって、あの日に近い降り方になっていた。風が吹く音がして、寒さを実感する。
「……ねえ」
ヒョンシクがシワンの方へ顔を傾けて言った。
「辛いことがあったら、話してね」
黙って言葉を返さずに居ると、シワンが持っていた傘が風にあおられ、慌てて持ち手を両手で持って押さえた。
ヒョンシクは「飛ばされそう」と笑った。
画廊へ絵を運ぶ、と言ったヒョンシクに着いて隣町まで行った。絵には高額が付き、お祝いだから何か買って帰ろう、とヒョンシクがシワンを市場へ誘った。
バゲット、鶏肉、チーズ、葡萄、プディング。
ヒョンシクが食料品を買うとは思っていなかったので理由を尋ねてみると、「たまにはね」と言った。多分それなりに「お祝い事」をしたいのかもしれない、と思う。
木製の長机の上に買ってきたものを並べて、シワンは今日の晩ご飯について考えた。
ふと、セラーのことを思い出す。
「ヒョンシクは酒飲めるの?」
「え?何急に」
妙な質問だった。
そもそも、シワンが此の家に来てから既にかなりの日数が経過しているのだ。其の間、お互い一滴も酒は口にしていない。セラーがあるほどの人間なら、かなりの酒好きなはずだった。
——シワンは、少し核心に迫りたかった。
「セラーがあるからさ」
「あ……」
ヒョンシクは、シワンが見ている方向の、自分の位置からは見えないセラーを見た。
「俺は苦手。弱いし。それは人のだよ」
気まずそうな、顔。
シワンは、そう、とだけ言ってセラーを開けた。ひんやりとした空間から、ボトルのラベルを確かめる。原産国は、ワイン新興国の国のものが多い。それから、自分でも名前を知っている程有名な銘柄ばかりが丁寧に五本、保管されていた。
「凄い……五大シャトー?」
思わず呟くと、遠くから声が飛んできた。
「いいよ、飲んでも」
——『同居』人のものを勝手に?
「本当に?」
セラーに突っ込んでいた頭を上げて、シワンは暖炉の前に居たヒョンシクに声を張り上げた。
「……うん」
暖炉の前で振り返った彼は、困った顔で笑っていた。
——こんな顔させたい訳じゃないのに。
グラスと布を探し出し、洗って綺麗に拭きあげて用意する。栓抜きは先に見付けていたから、丁寧にコルクを抜くと、軽快な音がした。ボトルに鼻を近付けてみる。ちょっと若い気もしたけれど、グラスの中でぐるぐる回してしまえばいい。其処まで舌が肥えている訳でもないし、今日は何だか手軽に酔いたい気分だった。
手にしたのは新興国のワイン。
ある一国に絞られたのは、多分持ち主が其の国の出身だからなのではないか。
数日前に見た港町の絵を思い出す。
——多分、貴方が好きだったんですね。
ヒョンシクをちらりと見ると、暖炉の前で買ってきたジェリービーンズを一粒一粒機械的な動きで頬張っていた。其れがやはり病的で、核心に迫るつもりが地雷を踏んでしまったのかな、と思う。
帰って来ないという言葉の頭には「二度と」という接頭語が付くのかも知れない。
口に含むと、甘い果実の香りが口の中で瞬時に広がった。渋みが弱く、酒というよりも葡萄ジュースという印象に近い。複雑な表現で酔わせる酒ではなく、素直に味と陶酔感を覚えさせてくれる酒だった。
美味しい。
シワンはもう一度空のグラスにワインを注ぐと、其れを手にして暖炉の方へ向かった。
「美味しいよ。飲んでみて」
緑色のジェリービーンズを手にしたヒョンシクが口を開けたまま、シワンの顔を見た。
「弱いんだってば」
差し出されたグラスに手をかざして、ヒョンシクは謝絶の意思を示した。
「酒の味は……知ってた方が良いよ?」
「何で?」
其れは、今飲んでいる此の酒の話に限った話ではなく。
「酒はね、手軽な夢を見せてくれる麻薬だから」
シワンはそう言って手に持ったグラスを飲み干していく。
「ほら、飲んでみて」
もう一度右手に持ったボトルからワインを注ぐ。暖炉の火の前で、液体の色は何とも言えない色に輝いた。ボトルに線のように入っていったワインは、水たまりをつくり、やがて水平線を作った。
「はい」
シワンは再度左手でグラスを差し出した。
目を丸くして其れを見ていたヒョンシクは、一瞬下を向き、顔を上げ下から見上げて言った。
「ヒョンが、飲ませてくれるなら」
そう言った彼は、ジェリービーンズの入った袋を自分の背と椅子の背もたれの間に隠し、他は何一つ身動きをしない。
固い笑顔を浮かべるばかりだった。
シワンは、手に持ったボトルを壁際の床に置くと、おもむろにグラスを傾けた。
右手の掌を天井に向け、そこにつくった窪みに、グラスから少量のワインを注ぐ。
零れないように、少しずつ。
水滴の流れる音が目の前で響く。
其れをヒョンシクの口許まで無言で持って行った。
ヒョンシクは顔を屈ませて舌先で其のワインを舐めた。
ぺろ
すっと液体を吸い込むと、残った雫を手相をなぞるように舐め上げた。
一瞬逃げそうになった手が、引っ込まないように両手で掴んで、ヒョンシクはワインがなくなっても其の白い掌や指に舌を絡ませていた。
「シワンヒョンはずるいよ」
「何が……」
「知ってて、やってるんでしょ」
座ったままのヒョンシクの目と、シワンの目が合う。
「俺が何考えてるか」
ヒョンシクに強く腕を引かれ、シワンはバランスを崩した。グラスの中身が揺れて、最後は床にこぼれ落ちて、赤いしみを作った。
ぱりん
硝子の割れる音が響いた。
気付いたら、床に組み敷かれていた。
そう気付いた瞬間に別の恐怖がシワンを襲った。脳内で過去の記憶、何時か見た悪夢がフラッシュバックして、呼吸が浅くなる。目を固く瞑って考えないようにすると、頬を撫でられる感覚があって、睫毛を触られ、反射的に目を開けた。
「好きだよ」
そう言ったのは、ヒョンシクだった。
他の誰でもなく、ヒョンシクが、言ったのだ。
目を開けて見た顔には悲しそうな表情があった。
「好きだ……」
体を抱き締められ、無言で肩に顔を埋められた。
「——ヒョンシクこそ、ずるい」
シワンは言った。
「どうして?」
肩越しに言葉が聞こえて来る。自分を包む手の力は強いけれど、温かい。
「俺は誰かのかわりじゃないの?」
「——!」
「ずっと聞けなかった。お前、同居人って言ってる人のこと好きだろ?」
「それは……」
「たまたまふらーって来た俺のこと、何となく好きになった気になってただけ」
「何でそんな言い方するの!?」
ヒョンシクは、馬乗りになった格好で、シワンの肩を揺さぶった。
違うと全身で訴えるように。
「——さあ」
「何で?ちゃんと答えてよ!」
「じゃあ俺の質問にも答えろよ!」
「かわりじゃないよ。確かに好きだったよ?でも、今は違う。今はねえ、シワンヒョン、ちゃんと好きだよ」
ぽたり
ヒョンシクの目から流れた涙が、シワンの鼻に当たった。
「好きなんだ……」
こんなにストレートな言葉と態度は、久しぶりだった。
今までは、もう、愛情と執着がぐちゃぐちゃになった真っ黒な感情をぶつけられていただけだった。
今目の前にあるのは、外に降り積もるような白い感情。
駆け引き無しの、純粋な感情。
其の涙に触れたとき、やっと気付いた。
自分も。
ということを。
「ごめん」
変なタイミングで謝った所為で、ヒョンシクは余計に泣きそうな表情になったと思う。
シワンは手を伸ばし、ヒョンシクの脇から手を入れて背中に腕を回すと、そっと自分の側に引き寄せた。
「泣かせたかった訳じゃないんだ」
ひっく
ヒョンシクの涙を堪えるために不規則になる呼吸音と体の揺れを感じる。
「ごめんね」
シワンから交わらせた舌は、ヒョンシクの口の中に少しの酒臭さを残していった。
「好きだよ、ヒョンシク」
港町の絵を見付けた。
ヒョンシクの絵筆のタッチとは違う気がした。
「——」
見なかったことにしよう、とその葉書の大きさの絵を元の場所に仕舞い込んだ。
聞きたい。
でも聞けない。
何となく分かってきた、『彼』のこと。
シワンがヒョンシクの家へやってきて、十日が経とうとしていた。
いい加減出て行かなければと思うものの、ヒョンシクが言う通り行く当ては無かった。何もしない同居人が居ても迷惑だろう、とヒョンシクを説得しようとしたら、「お金持ちだから良いんだ」とはぐらかさてしまった。
何か仕事をさせてくれないと、自分が満足にならないと言ったら、家事を頼まれた。
「でも、食事は良いよ。俺一人で食べるから」
「——?ああ、うん」
傍で見ていて気付いたことだったが、ヒョンシクの食生活は散々なものだった。
スナック菓子。インスタント食品。冷凍食品。
最低限の調理——例えば加熱や解凍——をして食べるものしか、彼は口にしない。敢えて人工的な食べ物を食べようとしているように。
「体壊すよ?」
「良いんだよ、大人になりたくないもん」
身長だけは十分過ぎるほど大人なのにな、と、ピザを頬張るヒョンシクを見ながらシワンは思った。
==================
夜の帳が下りた。
いつものように手を繋いで眠っていると、シワンの握り返す手の力が急に強くなって、ヒョンシクは薄らと目を覚ました。
暗闇の中で慣れてきた目でシワンの顔を探すと、眉間に皺を寄せて苦しそうな表情をしていた。
「嫌だ……ごめんなさい、謝るから……」
「シワンヒョン、大丈夫?」
小声でヒョンシクが呼びかけても、反応は無かった。
「痛い……やめて、もうやめてよ……」
酷く苦しがり、消えそうな声で訴えるシワンに、きっと悪い夢を見ているのだろうと肩を掴んだ。
「ヒョン!シワンヒョンってば!」
ヒョンシクの大声と、強く肩を揺さぶった力に、シワンは目を覚ました。
「あ……」
ヒョンシクは暗闇の中で呆然としているシワンを抱き寄せた。
「大丈夫?凄くうなされてた」
「ごめん……俺、何か言ってた?」
「ううん、何も」
嘘をつく。
一瞬でもいい。
安らぎに、なれはしないだろうか。
そんなことを考えながら、ヒョンシクはシワンの頭を抱く。彼が落ち着くまで何度も髪を梳いて、其れから寝息を立て始めるまで、ずっと見守った。
==================
朝の光の中で目を覚ますと、隣の寝顔の目元に少し隈があるように見えて、寝不足なのだろうかと思う。
(もしかして、寝るまで見張っててくれた?)
口を半開きにして眠っている表情は、何とも幼い。整った顔立ちだし、精悍に見えるときもあるのに、寝顔が可愛い。
(何か口に詰めてみたい)
悪戯心が働いて、飴玉とか無いかなと探しに行こうと体をずらすと、ぐっと左手を掴まれた。
けれど眠ったままの表情は変わらない。
「朝だよ?ヒョンシク……」
仕方無く体を元の位置に戻して、寝顔に話し掛ける。返事は無い。
「おーい」
小声で読んでみても反応は無い。
シワンは、ヒョンシクのだらしなく開いた唇に、そっと右手の指先で触れてみた。
そして、その上の歯と下の歯の空間に自分の人差し指を、突っ込んでみた。
何となく行き場の無かった親指で、そっと下唇の形を確かめるように触れてみる。
柔らかい感覚が親指の腹にあたった。
人差し指を更に進ませて下に触れてみる。と、急に下が指先に絡んできて、吸い付かれた。
「わ」
慌てて指を引き抜こうとしても、絡み付いて来る舌と唇に第一関節まで飲み込まれてしまった。
ヒョンシクが、シワンの指を銜えている格好になる。
指突っ込んだら面白いかな、くらいにしか考えていなかったシワンは、自分の浅はかな発想を後悔した。
「ん……」
ヒョンシクが少し息を漏らしたときに力が緩んだので慌てて指を引っ込める。
しばらく間があって、ヒョンシクがゆっくりと目を開けた。
「おはよう」
そう言って邪気の無い笑みを見せられ、やや気まずい気分で笑顔を作りながらシワンも返事をした。
「おはよう」
==================
記憶は薄らとあった。
シワンが、唇に触れてきたこと。
彼の気持ちが分からない。
自分のカードは、シワンが出て行くと言ったあの日に、見せている。
好きになってしまったと、伝えている。
シワンの返事は無かった。
一緒に寝るのを嫌がらなかったり、抱き締めても逃げ出さなかったり、さっきみたいに唇に触れてみたり。
同じ気持ちだと良い——と思うのに、彼の過去を証拠付きで知らされている所為で、踏み込めない気持ちがあった。
気になるのに、聞けない。
==================
シワンは少しずつヒョンシクが時折見せる暗い表情に気付くようになった。
一緒に居ても、時折ふっと自分の世界に入って、帰って来なくなる。
「人の絵は描かないの?」
と尋ねたときも、「描けないんだ」と儚く笑われた。
広過ぎる家。
帰ってこない同居人。
好きな人が居なくなるのは嫌だ、という言葉。
ヒョンシクの絵とは違う、絵。
食生活に対する異様な執着。
人物画を描かない理由。
本当は聞きたいことだらけなのに、本当のことを知るのは何となく怖い。
家の中にあるアトリエでもう一枚、シワンの疑問に繋がる絵を発見していた。
人物画。日付は、二年前。
明らかにヒョンシクの絵のタッチで、サインもあった。
「——ヒョンへ」
誰だろう。サインの傍に書かれたメッセージは色褪せて読めなくなっている。
絵の中の人物は、笑みを浮かべている。
其の絵一枚で、モデルと描き手の関係が分かる気がした。
と言うよりも、描き手の、対象に対する愛情が滲み出していた。
此の人が、ヒョンシクの好きな人——。
胸の奥が痛んだのに、何故痛むのかが分からなかった。
==================
暖炉の前の安楽椅子の上で、頬杖を付いてうたた寝をしているシワンの膝掛けがずり落ちそうになっていたので、かけ直す。
船を漕いでいる横顔を眺めた。
(——好きだ)
綺麗で小さな顔。
炎の光の中で、その顔の中にある唇が更に赤く照らされる。
(好きだよ)
安楽椅子の左右の肘掛けに手を載せて体重をかけると、ヒョンシクはそっと顔を近付けた。
気持ちを口移しで伝えるように。
唇から唇へ、愛しさを表現する為のキスをした。
ヒョンシクの絵筆のタッチとは違う気がした。
「——」
見なかったことにしよう、とその葉書の大きさの絵を元の場所に仕舞い込んだ。
聞きたい。
でも聞けない。
何となく分かってきた、『彼』のこと。
シワンがヒョンシクの家へやってきて、十日が経とうとしていた。
いい加減出て行かなければと思うものの、ヒョンシクが言う通り行く当ては無かった。何もしない同居人が居ても迷惑だろう、とヒョンシクを説得しようとしたら、「お金持ちだから良いんだ」とはぐらかさてしまった。
何か仕事をさせてくれないと、自分が満足にならないと言ったら、家事を頼まれた。
「でも、食事は良いよ。俺一人で食べるから」
「——?ああ、うん」
傍で見ていて気付いたことだったが、ヒョンシクの食生活は散々なものだった。
スナック菓子。インスタント食品。冷凍食品。
最低限の調理——例えば加熱や解凍——をして食べるものしか、彼は口にしない。敢えて人工的な食べ物を食べようとしているように。
「体壊すよ?」
「良いんだよ、大人になりたくないもん」
身長だけは十分過ぎるほど大人なのにな、と、ピザを頬張るヒョンシクを見ながらシワンは思った。
==================
夜の帳が下りた。
いつものように手を繋いで眠っていると、シワンの握り返す手の力が急に強くなって、ヒョンシクは薄らと目を覚ました。
暗闇の中で慣れてきた目でシワンの顔を探すと、眉間に皺を寄せて苦しそうな表情をしていた。
「嫌だ……ごめんなさい、謝るから……」
「シワンヒョン、大丈夫?」
小声でヒョンシクが呼びかけても、反応は無かった。
「痛い……やめて、もうやめてよ……」
酷く苦しがり、消えそうな声で訴えるシワンに、きっと悪い夢を見ているのだろうと肩を掴んだ。
「ヒョン!シワンヒョンってば!」
ヒョンシクの大声と、強く肩を揺さぶった力に、シワンは目を覚ました。
「あ……」
ヒョンシクは暗闇の中で呆然としているシワンを抱き寄せた。
「大丈夫?凄くうなされてた」
「ごめん……俺、何か言ってた?」
「ううん、何も」
嘘をつく。
一瞬でもいい。
安らぎに、なれはしないだろうか。
そんなことを考えながら、ヒョンシクはシワンの頭を抱く。彼が落ち着くまで何度も髪を梳いて、其れから寝息を立て始めるまで、ずっと見守った。
==================
朝の光の中で目を覚ますと、隣の寝顔の目元に少し隈があるように見えて、寝不足なのだろうかと思う。
(もしかして、寝るまで見張っててくれた?)
口を半開きにして眠っている表情は、何とも幼い。整った顔立ちだし、精悍に見えるときもあるのに、寝顔が可愛い。
(何か口に詰めてみたい)
悪戯心が働いて、飴玉とか無いかなと探しに行こうと体をずらすと、ぐっと左手を掴まれた。
けれど眠ったままの表情は変わらない。
「朝だよ?ヒョンシク……」
仕方無く体を元の位置に戻して、寝顔に話し掛ける。返事は無い。
「おーい」
小声で読んでみても反応は無い。
シワンは、ヒョンシクのだらしなく開いた唇に、そっと右手の指先で触れてみた。
そして、その上の歯と下の歯の空間に自分の人差し指を、突っ込んでみた。
何となく行き場の無かった親指で、そっと下唇の形を確かめるように触れてみる。
柔らかい感覚が親指の腹にあたった。
人差し指を更に進ませて下に触れてみる。と、急に下が指先に絡んできて、吸い付かれた。
「わ」
慌てて指を引き抜こうとしても、絡み付いて来る舌と唇に第一関節まで飲み込まれてしまった。
ヒョンシクが、シワンの指を銜えている格好になる。
指突っ込んだら面白いかな、くらいにしか考えていなかったシワンは、自分の浅はかな発想を後悔した。
「ん……」
ヒョンシクが少し息を漏らしたときに力が緩んだので慌てて指を引っ込める。
しばらく間があって、ヒョンシクがゆっくりと目を開けた。
「おはよう」
そう言って邪気の無い笑みを見せられ、やや気まずい気分で笑顔を作りながらシワンも返事をした。
「おはよう」
==================
記憶は薄らとあった。
シワンが、唇に触れてきたこと。
彼の気持ちが分からない。
自分のカードは、シワンが出て行くと言ったあの日に、見せている。
好きになってしまったと、伝えている。
シワンの返事は無かった。
一緒に寝るのを嫌がらなかったり、抱き締めても逃げ出さなかったり、さっきみたいに唇に触れてみたり。
同じ気持ちだと良い——と思うのに、彼の過去を証拠付きで知らされている所為で、踏み込めない気持ちがあった。
気になるのに、聞けない。
==================
シワンは少しずつヒョンシクが時折見せる暗い表情に気付くようになった。
一緒に居ても、時折ふっと自分の世界に入って、帰って来なくなる。
「人の絵は描かないの?」
と尋ねたときも、「描けないんだ」と儚く笑われた。
広過ぎる家。
帰ってこない同居人。
好きな人が居なくなるのは嫌だ、という言葉。
ヒョンシクの絵とは違う、絵。
食生活に対する異様な執着。
人物画を描かない理由。
本当は聞きたいことだらけなのに、本当のことを知るのは何となく怖い。
家の中にあるアトリエでもう一枚、シワンの疑問に繋がる絵を発見していた。
人物画。日付は、二年前。
明らかにヒョンシクの絵のタッチで、サインもあった。
「——ヒョンへ」
誰だろう。サインの傍に書かれたメッセージは色褪せて読めなくなっている。
絵の中の人物は、笑みを浮かべている。
其の絵一枚で、モデルと描き手の関係が分かる気がした。
と言うよりも、描き手の、対象に対する愛情が滲み出していた。
此の人が、ヒョンシクの好きな人——。
胸の奥が痛んだのに、何故痛むのかが分からなかった。
==================
暖炉の前の安楽椅子の上で、頬杖を付いてうたた寝をしているシワンの膝掛けがずり落ちそうになっていたので、かけ直す。
船を漕いでいる横顔を眺めた。
(——好きだ)
綺麗で小さな顔。
炎の光の中で、その顔の中にある唇が更に赤く照らされる。
(好きだよ)
安楽椅子の左右の肘掛けに手を載せて体重をかけると、ヒョンシクはそっと顔を近付けた。
気持ちを口移しで伝えるように。
唇から唇へ、愛しさを表現する為のキスをした。
(——人が死んでる)
降り続く雪の中、大きな傘を差したヒョンシクは思った。
家まであと数メートルと言う場所に、黒いコートを着た人間が倒れていた。
降り積もった雪の上に足跡は無く、もう随分と其の人が其処に倒れていたことを物語っていた。黒いコートにもまばらに雪が降り積もっており、雪が体を飲み込もうとしているところである。
「聞こえる?」
屈み込んで、此れ以上雪が降り積もらないよう傘を立てかけた。ヒョンシクの頭に、肩に、雪が少しずつ積もって行く。
(女のひと?いや、違う)
コートのフードを取り払い、雪の中から其の小さな顔を持ち上げると、真っ白な肌は凍傷気味に赤くなっていた。閉じられた瞼、中途半端に開かれた赤い唇。一瞬見間違えたが、相手は男性だった。
ヒョンシクは右手の手袋を外し、頬に触れてみた。
(冷たい)
数回、はたいてみる。
「大丈夫?」
「う……ん……」
相手は少し身じろぎして、呼吸をした。
(生きてる)
ぱちりと瞼が開かれた。
ヒョンシクの目と、相手の目が合う。
半分に欠けた月の形の目は澄んでいて、真っ白な世界で彼のコートと瞳だけが黒かった。
==================
机の上に置かれた、雪に覆われた街のジオラマが目に入った。
酷い頭痛と体の熱さ、怠さで自分が生きていることを実感した。
見慣れない風景、見慣れない場所には居るけれど、取り敢えず自分が生きているのだと思った。
寝ていたベッドの傍には窓があり、のろのろと動いて窓の縁に手をかけ外を覗くと、雪が降っていた。
光のあたり具合で、せめて今が昼間であることを確認する。
(此処は何処?)
もう一度、部屋を見回す。見慣れない部屋だった。
よく見ると自分が着ているものも違う。見たことの無いデザインの服で、袖は少し余っているようだ。
時計を探したが見つからず、何月何日何時何分かが分からない。
「起きた!」
部屋に大声がして、どたどたと人の歩く音がした。
「わっ何?誰?」
目の前が急に真っ暗になった。
「良かった!目が覚めたんだね!」
視界が黒くなったのは、抱き締められたからだとぼんやりとしていた頭で理解する。人の体温を感じた体が、少し悲鳴を上げた。
「死んじゃったかと思ったよ。良かった」
「助けてくれたの?」
だんだん記憶が帰って来る。彷徨い歩いていたこと。
人の家の灯りを発見して、辿り着こうとしたときに、力尽きて倒れ込んだこと。
「家の目の前で死なれても困るし」
そう言って相手は笑った。幼さの残る微笑みだった。
「ありがとう」
素直に礼を言う。
「とにかく良かった」
自分のことのように喜ばれると、何だかくすぐったい感じがした。
お互い名前を教え合って、相手はヒョンシクという名前だということを知った。
彼は、此の煉瓦作りの家兼アトリエに同居人と住んでいて、ジオラマを作ったり絵を描いたりするのを生業にしていると言う。芸術家の端くれだとヒョンシクは笑った。
「同居人の人は?」
「——しばらく帰って来てないんだ」
少しだけ間があり、遠い目をしたので、其れ以上のことを聞くことは出来なかった。
自分が周りから何と呼ばれているかも聞かれたので「シワン」と答えると、早速呼び捨てで「シワン」と呼ばれた。
響きが面白いのか、何度も名前を繰り返して呼ばれる。
「多分俺の方が年上だよ」
「そうなの?何かちっちゃいし可愛いから年上だと思わなかった」
「小さいは余計だ」
「ごめんねシワンヒョン」
ヒョンシクの体は、大きい。
==================
雪の中で倒れていたシワンを家へ連れ帰り、ヒョンシクは懸命に看病した。
(早く、起きて。もう一回目を開けてよ)
シワンは一雪の中で一瞬だけ目を開けたものの、その後意識を失い、三日三晩眠り続けたのだった。
==================
暖炉の前に安楽椅子を移動させて座っていたシワンは、燃える火に手をかざしながら、火の様子をじっと眺めていた。
時間を忘れる。
ぱちぱちと薪が燃えていく音が静かな部屋に響く。
ふとコーヒーの香りがして振り向くと、ヒョンシクがマグカップを二つ持って片方を差し出してきた。
「どうぞ」
両手で受け取ると、掌にじんわりとした温かさが広がる。
ヒョンシクも安楽椅子を暖炉の前に移動させ、向き合う形にして腰掛けた。
二人共無言になって、ただ暖炉の火を見つめる。
シワンの顔を気付かれないように盗み見る。
穏やかな雰囲気なのに、何処か思い詰めた表情だと思う。
彼を連れ帰ったとき、取り敢えず着替えさせなくてはと雪の水分がたっぷり染み込んだ服を脱がせた。
そのときに見た肌に、何筋もの痛々しいみみず腫れがあったことを思い出す。
其れは背中に、腕に、脚に、体中に刻まれていた。
虐待。
其の言葉が頭を過った。
細い腕や指先がとても頼りなくて、ヒョンシクは悲しくなった。
「何?」
視線に気付いたシワンが、暖炉から目を離してヒョンシクを見た。
「いや、何でも」
「何か聞きたそう」
「特に無いよ」
ヒョンシクは慌てて暖炉に目線だけを移した。
「……聞きたいなら聞けば」
マグカップを両手で持ち、コーヒーを口にしながらヒョンシクから目線を外さずにシワンが言った。
見透かされている、と思った。
「体を見たんだろう」
微かに嘲るような響きを持って言い放たれた言葉。
シワンは、ヒョンシクに意識させる為に、着ていた服の袖を指差した。
着せてくれたんだろう?と言いたげに顔を傾けた。
「うん……」
「そういうことだよ」
成立しているのかしていないのか分からない言葉の遣り取り。
ただ其れは言葉が足りていないだけで、お互い察したことで十分だった。
"そういうこと"。
未だ会って間もない相手に打ち明けられる秘密ではない気もしたが、特に隠すこともないと思い、シワンは話し始めた。
恋人の暴力に耐え切れなくて逃げ出したこと。
行く当てもなく、雪の中で死のうとしていたこと。
けれども死ぬことは出来ず、彷徨い歩くうちにヒョンシクの家を見付けたこと。
倒れたこと。
「ごめん、重い話して」
「ううん……」
何となく想像はしていたものの、いざ本人の口から聞かされた衝撃は酷かった。
二人は黙って燃え盛る火を見つめた。
手の中のコーヒーは何時の間にか生温くなっていた。
==================
シワンが目を醒ましてから二日が経った。
毎日雪は降り続き、世界を此れ以上無いほどに真っ白に染めて行く。
ヒョンシクは絵を描いたり、ジオラマを作ったりして過ごしていた。シワンは用意されたゲストルームで寝泊まりし、家を掃除したり、食事や飲み物を作る手伝いをした。
広い家で、二人の時間が流れて行く。
==================
「ごめん、やっぱり出てく」
三日目の朝だった。
シワンはヒョンシクが軽く洗って干してくれていたコートを身に着け、ヒョンシクに握手を求めるように左手を差し出した。
「今までありがとう。いつか、返すね」
「え?ちょっと待って」
ジオラマ製作に夢中になっていたヒョンシクは、小さな人形を弄る手を止め、驚いて立ち上がった。
自分よりも少し下の目線が、上目遣いでヒョンシクを見た。
「あて……無いんでしょ?」
「無いけど、ずっと世話になる訳にも行かないし」
「此処に居たら良いじゃん」
「其れは出来ないよ」
「何で?」
「迷惑だろ」
「迷惑じゃないよ!」
ヒョンシクはシワンの肩を強引に掴み、抱き寄せた。
小さな体が、ヒョンシクの胸にすっぽりと納まった。
「もっと傍に居て欲しいよ」
「そんな……」
シワンの中で固く決心したことが崩れて行く。
此の家をいずれは出て行かなければならないと思っていた。
ヒョンシクには世話になったけれど、何時までも此処に居る訳にはいかないと思っていた。
何よりも、ヒョンシクに対する感情が少しずつ変化していくのが気になっていた。
たった数日間、一緒に居ただけなのに。
だから一人の世界に戻って、現実と向き合うために出て行こうとしたのに。
「もっと一緒に居たい」
「……」
「ダメ?」
駄々をこねて親の反応を窺う子供のように、ヒョンシクはシワンの顔を覗き込んだ。ヒョンシクの黒めがちの瞳が潤んで戸惑うように揺れている。シワンは其の瞳の光に気付いて、狼狽えた。
「ダメだよ……」
目を逸らし、腕から逃れようと抵抗すると、背に回されたヒョンシクの腕の力が更に強くなった。
「やだ。行かないで」
人の腕の力がこんなにも強く、温かいものだと、久しぶりに気付く。
「好きになっちゃったんだ。好きな人が居なくなるのは、もう嫌なんだ」
ヒョンシクの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
泣き出してしまったヒョンシクの涙を指先で拭い、シワンはコートを脱いだ。
==================
コンコン。
夜、シワンがランタンの光を頼りに本を読んでいると、部屋のドアをノックされた。
ベッドの上から「どうぞ」と声をかけると、ドアが開きクッションを抱えたヒョンシクが部屋に入ってきた。
「一緒に寝てもいい?」
「え?」
有無を言わさず、シワンのベッドに上がり込むとヒョンシクは堂々と空間を横取りして、シワンの横におさまった。寝てもいい?と聞いたことは、特に許可は求めている風ではなかったらしい。
二人で一つの毛布にくるまっている。
「いいなんて言ってないよ」
突然の来訪者に驚き、シワンは読みかけの文庫本を閉じて枕元に置くと、ヒョンシクの顔を見た。
お互いの顔が近い。
「いいんだよ」
ヒョンシクは目を閉じて答えた。
「勝手だなあ」
シワンは少し体をずらして、ヒョンシクに引っ張られてしまった毛布を取り戻すように自分の肩にかけた。
シワンはふっと記憶を呼び起こした。
時折取り戻す意識の中で、誰かの温かい腕に包まれて眠っていたことを覚えている。
今思えば其の腕は間違いなくヒョンシクの腕だった。
冷えきった自分の体を温めてくれようとしていたのだと思う。
前にも、此のベッドの上で、二人で眠っていたことがあった、と。
「もうちょっとこっち来て」
ヒョンシクの腕が、シワンの肩を引き寄せる。
素直に其れに身を任せると、脇から両手を入れられて其の手が背中まで回り、抱き締められた。
「あったかい」
ヒョンシクはシワンの肩に顎を載せ、呟いた。其の呟きはシワンの耳を刺激した。
優しい抱擁。人の腕がこんなにも優しく自分を包んでくれること。
其れは、シワンにとって久しぶりの感覚だった。
軽く頭を撫でられ、髪を細い指先で梳かれれば、気持ちが良くてもっとしてほしいと求めてしまう。求める合図に、ヒョンシクは尚も優しく髪を撫でてくれた。
吹雪の風が窓を揺らして、ガタガタと音を立てている。
ふと、ヒョンシクの指がシワンの指に絡まった。
離れないように手を繋いで二人は眠りに落ちた。
降り続く雪の中、大きな傘を差したヒョンシクは思った。
家まであと数メートルと言う場所に、黒いコートを着た人間が倒れていた。
降り積もった雪の上に足跡は無く、もう随分と其の人が其処に倒れていたことを物語っていた。黒いコートにもまばらに雪が降り積もっており、雪が体を飲み込もうとしているところである。
「聞こえる?」
屈み込んで、此れ以上雪が降り積もらないよう傘を立てかけた。ヒョンシクの頭に、肩に、雪が少しずつ積もって行く。
(女のひと?いや、違う)
コートのフードを取り払い、雪の中から其の小さな顔を持ち上げると、真っ白な肌は凍傷気味に赤くなっていた。閉じられた瞼、中途半端に開かれた赤い唇。一瞬見間違えたが、相手は男性だった。
ヒョンシクは右手の手袋を外し、頬に触れてみた。
(冷たい)
数回、はたいてみる。
「大丈夫?」
「う……ん……」
相手は少し身じろぎして、呼吸をした。
(生きてる)
ぱちりと瞼が開かれた。
ヒョンシクの目と、相手の目が合う。
半分に欠けた月の形の目は澄んでいて、真っ白な世界で彼のコートと瞳だけが黒かった。
==================
机の上に置かれた、雪に覆われた街のジオラマが目に入った。
酷い頭痛と体の熱さ、怠さで自分が生きていることを実感した。
見慣れない風景、見慣れない場所には居るけれど、取り敢えず自分が生きているのだと思った。
寝ていたベッドの傍には窓があり、のろのろと動いて窓の縁に手をかけ外を覗くと、雪が降っていた。
光のあたり具合で、せめて今が昼間であることを確認する。
(此処は何処?)
もう一度、部屋を見回す。見慣れない部屋だった。
よく見ると自分が着ているものも違う。見たことの無いデザインの服で、袖は少し余っているようだ。
時計を探したが見つからず、何月何日何時何分かが分からない。
「起きた!」
部屋に大声がして、どたどたと人の歩く音がした。
「わっ何?誰?」
目の前が急に真っ暗になった。
「良かった!目が覚めたんだね!」
視界が黒くなったのは、抱き締められたからだとぼんやりとしていた頭で理解する。人の体温を感じた体が、少し悲鳴を上げた。
「死んじゃったかと思ったよ。良かった」
「助けてくれたの?」
だんだん記憶が帰って来る。彷徨い歩いていたこと。
人の家の灯りを発見して、辿り着こうとしたときに、力尽きて倒れ込んだこと。
「家の目の前で死なれても困るし」
そう言って相手は笑った。幼さの残る微笑みだった。
「ありがとう」
素直に礼を言う。
「とにかく良かった」
自分のことのように喜ばれると、何だかくすぐったい感じがした。
お互い名前を教え合って、相手はヒョンシクという名前だということを知った。
彼は、此の煉瓦作りの家兼アトリエに同居人と住んでいて、ジオラマを作ったり絵を描いたりするのを生業にしていると言う。芸術家の端くれだとヒョンシクは笑った。
「同居人の人は?」
「——しばらく帰って来てないんだ」
少しだけ間があり、遠い目をしたので、其れ以上のことを聞くことは出来なかった。
自分が周りから何と呼ばれているかも聞かれたので「シワン」と答えると、早速呼び捨てで「シワン」と呼ばれた。
響きが面白いのか、何度も名前を繰り返して呼ばれる。
「多分俺の方が年上だよ」
「そうなの?何かちっちゃいし可愛いから年上だと思わなかった」
「小さいは余計だ」
「ごめんねシワンヒョン」
ヒョンシクの体は、大きい。
==================
雪の中で倒れていたシワンを家へ連れ帰り、ヒョンシクは懸命に看病した。
(早く、起きて。もう一回目を開けてよ)
シワンは一雪の中で一瞬だけ目を開けたものの、その後意識を失い、三日三晩眠り続けたのだった。
==================
暖炉の前に安楽椅子を移動させて座っていたシワンは、燃える火に手をかざしながら、火の様子をじっと眺めていた。
時間を忘れる。
ぱちぱちと薪が燃えていく音が静かな部屋に響く。
ふとコーヒーの香りがして振り向くと、ヒョンシクがマグカップを二つ持って片方を差し出してきた。
「どうぞ」
両手で受け取ると、掌にじんわりとした温かさが広がる。
ヒョンシクも安楽椅子を暖炉の前に移動させ、向き合う形にして腰掛けた。
二人共無言になって、ただ暖炉の火を見つめる。
シワンの顔を気付かれないように盗み見る。
穏やかな雰囲気なのに、何処か思い詰めた表情だと思う。
彼を連れ帰ったとき、取り敢えず着替えさせなくてはと雪の水分がたっぷり染み込んだ服を脱がせた。
そのときに見た肌に、何筋もの痛々しいみみず腫れがあったことを思い出す。
其れは背中に、腕に、脚に、体中に刻まれていた。
虐待。
其の言葉が頭を過った。
細い腕や指先がとても頼りなくて、ヒョンシクは悲しくなった。
「何?」
視線に気付いたシワンが、暖炉から目を離してヒョンシクを見た。
「いや、何でも」
「何か聞きたそう」
「特に無いよ」
ヒョンシクは慌てて暖炉に目線だけを移した。
「……聞きたいなら聞けば」
マグカップを両手で持ち、コーヒーを口にしながらヒョンシクから目線を外さずにシワンが言った。
見透かされている、と思った。
「体を見たんだろう」
微かに嘲るような響きを持って言い放たれた言葉。
シワンは、ヒョンシクに意識させる為に、着ていた服の袖を指差した。
着せてくれたんだろう?と言いたげに顔を傾けた。
「うん……」
「そういうことだよ」
成立しているのかしていないのか分からない言葉の遣り取り。
ただ其れは言葉が足りていないだけで、お互い察したことで十分だった。
"そういうこと"。
未だ会って間もない相手に打ち明けられる秘密ではない気もしたが、特に隠すこともないと思い、シワンは話し始めた。
恋人の暴力に耐え切れなくて逃げ出したこと。
行く当てもなく、雪の中で死のうとしていたこと。
けれども死ぬことは出来ず、彷徨い歩くうちにヒョンシクの家を見付けたこと。
倒れたこと。
「ごめん、重い話して」
「ううん……」
何となく想像はしていたものの、いざ本人の口から聞かされた衝撃は酷かった。
二人は黙って燃え盛る火を見つめた。
手の中のコーヒーは何時の間にか生温くなっていた。
==================
シワンが目を醒ましてから二日が経った。
毎日雪は降り続き、世界を此れ以上無いほどに真っ白に染めて行く。
ヒョンシクは絵を描いたり、ジオラマを作ったりして過ごしていた。シワンは用意されたゲストルームで寝泊まりし、家を掃除したり、食事や飲み物を作る手伝いをした。
広い家で、二人の時間が流れて行く。
==================
「ごめん、やっぱり出てく」
三日目の朝だった。
シワンはヒョンシクが軽く洗って干してくれていたコートを身に着け、ヒョンシクに握手を求めるように左手を差し出した。
「今までありがとう。いつか、返すね」
「え?ちょっと待って」
ジオラマ製作に夢中になっていたヒョンシクは、小さな人形を弄る手を止め、驚いて立ち上がった。
自分よりも少し下の目線が、上目遣いでヒョンシクを見た。
「あて……無いんでしょ?」
「無いけど、ずっと世話になる訳にも行かないし」
「此処に居たら良いじゃん」
「其れは出来ないよ」
「何で?」
「迷惑だろ」
「迷惑じゃないよ!」
ヒョンシクはシワンの肩を強引に掴み、抱き寄せた。
小さな体が、ヒョンシクの胸にすっぽりと納まった。
「もっと傍に居て欲しいよ」
「そんな……」
シワンの中で固く決心したことが崩れて行く。
此の家をいずれは出て行かなければならないと思っていた。
ヒョンシクには世話になったけれど、何時までも此処に居る訳にはいかないと思っていた。
何よりも、ヒョンシクに対する感情が少しずつ変化していくのが気になっていた。
たった数日間、一緒に居ただけなのに。
だから一人の世界に戻って、現実と向き合うために出て行こうとしたのに。
「もっと一緒に居たい」
「……」
「ダメ?」
駄々をこねて親の反応を窺う子供のように、ヒョンシクはシワンの顔を覗き込んだ。ヒョンシクの黒めがちの瞳が潤んで戸惑うように揺れている。シワンは其の瞳の光に気付いて、狼狽えた。
「ダメだよ……」
目を逸らし、腕から逃れようと抵抗すると、背に回されたヒョンシクの腕の力が更に強くなった。
「やだ。行かないで」
人の腕の力がこんなにも強く、温かいものだと、久しぶりに気付く。
「好きになっちゃったんだ。好きな人が居なくなるのは、もう嫌なんだ」
ヒョンシクの言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
泣き出してしまったヒョンシクの涙を指先で拭い、シワンはコートを脱いだ。
==================
コンコン。
夜、シワンがランタンの光を頼りに本を読んでいると、部屋のドアをノックされた。
ベッドの上から「どうぞ」と声をかけると、ドアが開きクッションを抱えたヒョンシクが部屋に入ってきた。
「一緒に寝てもいい?」
「え?」
有無を言わさず、シワンのベッドに上がり込むとヒョンシクは堂々と空間を横取りして、シワンの横におさまった。寝てもいい?と聞いたことは、特に許可は求めている風ではなかったらしい。
二人で一つの毛布にくるまっている。
「いいなんて言ってないよ」
突然の来訪者に驚き、シワンは読みかけの文庫本を閉じて枕元に置くと、ヒョンシクの顔を見た。
お互いの顔が近い。
「いいんだよ」
ヒョンシクは目を閉じて答えた。
「勝手だなあ」
シワンは少し体をずらして、ヒョンシクに引っ張られてしまった毛布を取り戻すように自分の肩にかけた。
シワンはふっと記憶を呼び起こした。
時折取り戻す意識の中で、誰かの温かい腕に包まれて眠っていたことを覚えている。
今思えば其の腕は間違いなくヒョンシクの腕だった。
冷えきった自分の体を温めてくれようとしていたのだと思う。
前にも、此のベッドの上で、二人で眠っていたことがあった、と。
「もうちょっとこっち来て」
ヒョンシクの腕が、シワンの肩を引き寄せる。
素直に其れに身を任せると、脇から両手を入れられて其の手が背中まで回り、抱き締められた。
「あったかい」
ヒョンシクはシワンの肩に顎を載せ、呟いた。其の呟きはシワンの耳を刺激した。
優しい抱擁。人の腕がこんなにも優しく自分を包んでくれること。
其れは、シワンにとって久しぶりの感覚だった。
軽く頭を撫でられ、髪を細い指先で梳かれれば、気持ちが良くてもっとしてほしいと求めてしまう。求める合図に、ヒョンシクは尚も優しく髪を撫でてくれた。
吹雪の風が窓を揺らして、ガタガタと音を立てている。
ふと、ヒョンシクの指がシワンの指に絡まった。
離れないように手を繋いで二人は眠りに落ちた。
真昼の月が、頭上に白んで浮かんでいる。
雑誌の写真撮影のために訪れた地方都市の公園の芝生に居た。
秋の風が肌に心地良い。
柔らかい空からの日差しが、千切れた薄い雲から地上へこぼれ落ちて来る。
先に撮影を終えたヒョンシクは、他のメンバーがソロカットの撮影を終えるまで暇があり、少し退屈していた。こっそりと座らされていた椅子から立ち上がると、ロケバスの裏に待機していた「それ」に近付いた。現場に来たときからずっと気になっていた。
チェレステカラーの自転車が、其処にはあった。
その緑色に近い青色は、今日の碧空に相応しい。
ぽつんと置かれ、鍵は無い。ロードバイクなのでやや不安定だったが、ぐっとまたがって漕ぎ出してみる。
「あ!こらヒョンシク!」
男のスタッフが気付いて制止に走って来るが、するりとかわした。
風を頬に感じ、せっかくすたいりすとが 時間をかけてセットしてくれた前髪は向かい風でぐしゃぐしゃになり、額を全開にさせる。
久しぶりの外での撮影で、少し自由に遊び回りたかった。
クルーの周りをぐるぐる回ったり、スタッフの制止を振り払ったり、他のメンバーにちょっかいをかけたりしながら、遊ぶ。
そんなときに誰よりも先に絡んできたのは、シワンだった。
ヒョンシクが走る自転車の後ろを全力で走り出して、追い掛けて来る。シワンもスタッフに「やめなさい!セットが崩れちゃう」と言われるのを無視して、ニコニコしながらヒョンシクとじゃれてきた。
可愛い人だよなあ、と思う。
たまに、物凄く子供っぽくて、可愛いんだ、此の人は。
ヒョンなのに、可愛くて仕方なくなる。
ヒョンシクは面白くなって、公園の奥の方へ、わざと走り出した。
大人げなく、シワンが追い掛けてくるであろうことを期待しながら。
後ろは、振り返らなかった。
公園の芝生エリアの先は林のようになっている箇所があり、小さく細い川が流れていた。
その傍に自転車を止め、ゆっくり深呼吸してみる。
水の音。
木漏れ日。
秋の匂い。
鳥の声。
虫の声。
辺りを見回しても他に誰も先客は居なかった。
「ダメだよあんまり離れちゃ」
衣装のまま走ってきたシワンが、ヒョンシクの数メーター傍まで駆け寄り、或る気長ら声をかけてきた。
白いニットに薄いグレーのジーンズを履き、足元にブーツを履いたシワンが肩で息をしている彼は、足元の小枝を踏みながら歩み寄って来る。
「ヒョンこそ、撮影サボっちゃダメじゃん」
「俺は次の次だからいいの」
そう言ってむきになって反論する姿も、可愛い。
「ほら、帰ろ」
木漏れ日から漏れる光に照らされたシワンの顔にまだらに光が映っている。
見上げた木々の隙間から、真昼の月が見える。
少し前から、どうしようもなく惹かれていた。
何事にもまっすぐで、可愛らしくて、そんな彼が大好きだった。
かまってほしくて、困った顔が見たくて、いたずらをしたこともある。
今も、物凄くいたずらをしたくてたまらない。
「せっかく綺麗な場所見付けたのに……」
ヒョンシクは仕方無いな、という素振りで自転車を押してシワンと並んで歩きはじめた。
地面に移る影の長さが全然違う。
年上なのに、可愛くて女の子みたいで危うくて、好きさ。
突然、ヒョンシクはわざと立ち止まった。
シワンと一瞬距離が離れ、シワンがくるりと振り返る。
「やっぱり行きません。まだ遊びたいもん」
ヒョンシクはがんとして立ち止まり、グリップを握る手に力を込めた。
賭け。
「ワガママ言わないの。ほら、皆待ってる」
「やだー行きたくないー俺撮影終わってヒマなのにー」
ほら、俺がこういう風にだだをこねたときに。
貴方の真っ赤な唇が、ぽかーんって半開きになるのを見るのが好き。
そして貴方は絶対に怒らないって分かってるんだ。
「シク……」
「ヒョンがキスしてくれたら行きます」
唇を突き出しておどけてみせる。
「何バカ言ってんの」
「じゃ行かない。俺此処に居るもん」
ヒョンシクは、自転車を引っ張って引き返そうとする素振りを見せる。
シワンの表情が見えなくなる。
でも何となく、読めるし、期待もしているし、其の通りになる自信もあった。
足音。
肩をぐっと掴まれる。
掴まれて力が入った所為で、自転車のタイヤが地面をズズッと音を立てて滑った。
「ワガママ言うなよ」
そう言うシワンが、グリップを握った腕に自分の指を絡めて体重をかけて引き寄せ、
背伸びをして顔を近付けてきた。
反射的に引き寄せられて、
キス。
ヒョンシクは自転車を支えているから、キスされる格好になる。
シワンは自分の身長差があるから背伸びをしてヒョンシクの小さな頭を自分の方へ向けさせていた。
まさかこんなに早くご褒美を貰えるとは思っていなかったヒョンシクが、目を瞑って唇の感覚を味わい、顔の角度を変えようとした瞬間、無情にも唇は離れていった。
何処かの木の上で鳥達が鳴く声が聞こえた。
ほら、行くよ。
と、シワンは少し顔を赤くしてヒョンシクの右腕の袖の部分を引っ張り、道を歩き出した。
ヒョンは、こういうことをたまにしてしまう。
本人は無邪気だし、多分コールド状態になった状況をどうにかするためにしてしまうのかもしれないが、それがまた危ういし、ややこしい事態を呼ぶって分かってないのかな。
——でも、そういう変な頭の弱さは嫌いじゃないよ。むしろ大好き。
「『キス』って言ったのに」
「しただろ」
「違う。ベロ入れるやつ」
シワンは頭を抱えた。
ヒョンシクはするりと身をかわし、自転車を押して木陰に行ってしまう。
そこで
おいでおいで
と右手の指先をひらひらさせてこまねいた。
——ほんと、しょうがないな。
シワンは少し離れたところに行ったヒョンシクとの距離を縮めていった。
光の当たる場所から、日光の遮られた木陰へ。
瞬間、自転車を木に立てかけたヒョンシクに抱き締められた。
木に背を押し当てられて、昼間から深いキスをされる。
衣装が汚れる……と思う暇も無く、溺れて行く。
真昼の空気の中で窒息しそうになる。
ヒョンシクのキスは自分をダメにさせる。
此のまま二人で抜け出しちゃおうか、なんてヒョンシクが囁くものだから、余計に気分は盛り上がってしまう。
風が木々を揺らして、光を乱反射させる。
此のまま、二人で抜け出せたら良いのにね。
雑誌の写真撮影のために訪れた地方都市の公園の芝生に居た。
秋の風が肌に心地良い。
柔らかい空からの日差しが、千切れた薄い雲から地上へこぼれ落ちて来る。
先に撮影を終えたヒョンシクは、他のメンバーがソロカットの撮影を終えるまで暇があり、少し退屈していた。こっそりと座らされていた椅子から立ち上がると、ロケバスの裏に待機していた「それ」に近付いた。現場に来たときからずっと気になっていた。
チェレステカラーの自転車が、其処にはあった。
その緑色に近い青色は、今日の碧空に相応しい。
ぽつんと置かれ、鍵は無い。ロードバイクなのでやや不安定だったが、ぐっとまたがって漕ぎ出してみる。
「あ!こらヒョンシク!」
男のスタッフが気付いて制止に走って来るが、するりとかわした。
風を頬に感じ、せっかくすたいりすとが 時間をかけてセットしてくれた前髪は向かい風でぐしゃぐしゃになり、額を全開にさせる。
久しぶりの外での撮影で、少し自由に遊び回りたかった。
クルーの周りをぐるぐる回ったり、スタッフの制止を振り払ったり、他のメンバーにちょっかいをかけたりしながら、遊ぶ。
そんなときに誰よりも先に絡んできたのは、シワンだった。
ヒョンシクが走る自転車の後ろを全力で走り出して、追い掛けて来る。シワンもスタッフに「やめなさい!セットが崩れちゃう」と言われるのを無視して、ニコニコしながらヒョンシクとじゃれてきた。
可愛い人だよなあ、と思う。
たまに、物凄く子供っぽくて、可愛いんだ、此の人は。
ヒョンなのに、可愛くて仕方なくなる。
ヒョンシクは面白くなって、公園の奥の方へ、わざと走り出した。
大人げなく、シワンが追い掛けてくるであろうことを期待しながら。
後ろは、振り返らなかった。
公園の芝生エリアの先は林のようになっている箇所があり、小さく細い川が流れていた。
その傍に自転車を止め、ゆっくり深呼吸してみる。
水の音。
木漏れ日。
秋の匂い。
鳥の声。
虫の声。
辺りを見回しても他に誰も先客は居なかった。
「ダメだよあんまり離れちゃ」
衣装のまま走ってきたシワンが、ヒョンシクの数メーター傍まで駆け寄り、或る気長ら声をかけてきた。
白いニットに薄いグレーのジーンズを履き、足元にブーツを履いたシワンが肩で息をしている彼は、足元の小枝を踏みながら歩み寄って来る。
「ヒョンこそ、撮影サボっちゃダメじゃん」
「俺は次の次だからいいの」
そう言ってむきになって反論する姿も、可愛い。
「ほら、帰ろ」
木漏れ日から漏れる光に照らされたシワンの顔にまだらに光が映っている。
見上げた木々の隙間から、真昼の月が見える。
少し前から、どうしようもなく惹かれていた。
何事にもまっすぐで、可愛らしくて、そんな彼が大好きだった。
かまってほしくて、困った顔が見たくて、いたずらをしたこともある。
今も、物凄くいたずらをしたくてたまらない。
「せっかく綺麗な場所見付けたのに……」
ヒョンシクは仕方無いな、という素振りで自転車を押してシワンと並んで歩きはじめた。
地面に移る影の長さが全然違う。
年上なのに、可愛くて女の子みたいで危うくて、好きさ。
突然、ヒョンシクはわざと立ち止まった。
シワンと一瞬距離が離れ、シワンがくるりと振り返る。
「やっぱり行きません。まだ遊びたいもん」
ヒョンシクはがんとして立ち止まり、グリップを握る手に力を込めた。
賭け。
「ワガママ言わないの。ほら、皆待ってる」
「やだー行きたくないー俺撮影終わってヒマなのにー」
ほら、俺がこういう風にだだをこねたときに。
貴方の真っ赤な唇が、ぽかーんって半開きになるのを見るのが好き。
そして貴方は絶対に怒らないって分かってるんだ。
「シク……」
「ヒョンがキスしてくれたら行きます」
唇を突き出しておどけてみせる。
「何バカ言ってんの」
「じゃ行かない。俺此処に居るもん」
ヒョンシクは、自転車を引っ張って引き返そうとする素振りを見せる。
シワンの表情が見えなくなる。
でも何となく、読めるし、期待もしているし、其の通りになる自信もあった。
足音。
肩をぐっと掴まれる。
掴まれて力が入った所為で、自転車のタイヤが地面をズズッと音を立てて滑った。
「ワガママ言うなよ」
そう言うシワンが、グリップを握った腕に自分の指を絡めて体重をかけて引き寄せ、
背伸びをして顔を近付けてきた。
反射的に引き寄せられて、
キス。
ヒョンシクは自転車を支えているから、キスされる格好になる。
シワンは自分の身長差があるから背伸びをしてヒョンシクの小さな頭を自分の方へ向けさせていた。
まさかこんなに早くご褒美を貰えるとは思っていなかったヒョンシクが、目を瞑って唇の感覚を味わい、顔の角度を変えようとした瞬間、無情にも唇は離れていった。
何処かの木の上で鳥達が鳴く声が聞こえた。
ほら、行くよ。
と、シワンは少し顔を赤くしてヒョンシクの右腕の袖の部分を引っ張り、道を歩き出した。
ヒョンは、こういうことをたまにしてしまう。
本人は無邪気だし、多分コールド状態になった状況をどうにかするためにしてしまうのかもしれないが、それがまた危ういし、ややこしい事態を呼ぶって分かってないのかな。
——でも、そういう変な頭の弱さは嫌いじゃないよ。むしろ大好き。
「『キス』って言ったのに」
「しただろ」
「違う。ベロ入れるやつ」
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ヒョンシクはするりと身をかわし、自転車を押して木陰に行ってしまう。
そこで
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——ほんと、しょうがないな。
シワンは少し離れたところに行ったヒョンシクとの距離を縮めていった。
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瞬間、自転車を木に立てかけたヒョンシクに抱き締められた。
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此のまま、二人で抜け出せたら良いのにね。
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はまうず美恵
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性別:
女性
職業:
吟遊詩人
趣味:
アート
自己紹介:
ハミエことはまうず美恵です。
当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
某帝国の二次創作同人を取り扱っています。
女性向け表現を含むサイトですので、興味のない方意味のわからない方は入室をご遠慮下さい。
尚、二次創作に関しては各関係者をはじめ実在する国家、人物、団体、歴史、宗教等とは一切関係ありません。
また 、これら侮辱する意図もありません。
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