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当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
Comment agir, o coeur vole ?

此の世が奪う者と奪われる者で構成されるなら、
僕は間違いなく後者で、
彼はきっと前者なのだと思う。



Le Coeur supplicie




次のステージの打合せを終えて帰ろうした時、
「ああ、シワンだけは残って」
と言われた。皆の背中を見送り、部屋で一人で待っていると、事務所の人間が見知らぬ男を連れて戻って来た。
其の男の口元の髭が、まるで剃りたてのように尖り、頬に当たったことだけは鮮明に覚えている。部屋の空気が妙に生温く、やたら汗をかいたことも覚えている。

事が済んで、呆然としていると男はシワンの背中に言った。
「君が活躍すれば、君の大切なお友達にもきっとプラスになるよ」
朦朧として、意識を手放したいほどだったのに、やけに鮮明に沢山の顔が思考を通過していく。
「だから——ね?分かるだろう?君は、賢いんだから」
伸びて来る腕に、抵抗は、出来なかった。

好きで開く訳では無い脚が、嫌で。
激しくなる陵辱に抵抗しようとしたら下半身を殴られ、胃の中のものが全部喉の奥まで逆流して息が詰まった。
助けて。
助けて。
声を出すことも叶わず、意識を手放すことも許されず、肉体と精神が浸食されていく。
怖い——
ただ、体を男が通り抜けて行くのを待つことしか出来なかった。



「久しぶりに映画観ない?」
日曜日の朝、珍しく休みの予定が重複した二人で、映画を観ることにした。他のメンバーは、気を利かせたのか其れとも本当に他の予定があったのか、二人に着いてくる事はしなかった。
太陽の明るい、まだ春の遠い空の下を並んで歩く。
公開されている映画のことはよく知らず、ジュニョンが「好きそうだから」と言った映画を観ることにした。

雪の情景。全てを飲み込む白い闇を創り出す吹雪。のしかかる暗い空。
シワンの手をジュニョンが右隣から伸ばした手で、掴んだ。指を絡められ、少し人差し指の腹で手の甲をさすられる。
映画の情景に見入っていたシワンは、自分の右側にある顔をちらりと見た。整った顔が、スクリーンから反射する青白い光に照らされていた。表情は、ポーカーフェイス。逡巡すると、にこり、と笑顔が向けられた。

——ああ、好きだ。

何となく感じていたところだった。
「——!」
或る場面を見た瞬間、シワンは、息を詰まらせた。
画面を直視出来なかった。けれど様子が変わった、とジュニョンには分かって欲しく無くて、震え出しそうになる体を押さえ付けるように、ジュニョンの手をきつく掴んだ。
掴まるもの。
掴まるものが、欲しかった。
そうでなければ、自分の体中に開いた穴がみるみるうちに広がり、蜂の巣のように体に穴が開き、やがて崩れてしまう、と思った。

映画が終わってジュニョンの手を明るい場所で見た時、はっきりと分かるほど、赤い指の痕が付いていた。



ジュニョンに抱かれると、全身が悲鳴を上げた。

自分を抱く時のジュニョンの目は、何処か恐ろしい。他の男と、変わらない。
屈辱と悔しさに絶望した筈なのに、其れでも狂ったようにジュニョンを求める心臓。
同じ「男」で、「奪う者」なのに。

お前だけは特別なんだ。
お前だけが俺を「ウンジェ」と呼ぶみたいに。

「俺のウンジェ」
耳元で囁かれ、耳に舌を入れられれば、また脳が芯から痺れるような感覚に酔い、夢中で腰を振った。

拍手[13回]

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Ô flots abracadabrantesques,

Prenez mon cœur, qu'il soit lavé

Ithyphalliques et pioupiesques,

Leurs quolibets l'ont dépravé !

其のシーンを見たとき、僕は勃起していた。

彼は其のとき僕と繋いでいた手を握り返したけれど、其の手は細かく震え、握る、というよりも、握り潰されるかと思うくらいに指先に力が籠っていた。
映画館を出て、ぼんやりと明るいエレベーターホールでボタンを押したとき、彼の指の跡が手の甲に残っていたのに気付いた。

僕が其の意味に気付いたのは、もっと、ずっと先の話だった。



Le Coeur Vole



9人が揃った練習場で、遅れを取り戻し、何かを必死で追い掛けるかのようにシワンが振り付けを確認していた。
「もう休めば」
ケビンが声を掛けても「後少しだけ」と言って、そんな繰り返しがもう30分、1時間、2時間と続いている。
鏡から離れた場所から、ジュニョンは其れを見ていた。
「あーあ」
振り付けの練習や其の合間の息抜きに寄り添っていたヒョンシクが、ジュニョンの隣の壁際に腰を下ろし、床に足を投げ出して座った。手元のスポーツドリンクを喉に流し込んで行く。
「シワンヒョン、危ないよ」
「——え?」
遠くを見つめたまま、ぼそっと言葉を発した声が聞こえずに、ジュニョンは腰掛けていた椅子から、ヒョンシクの頭のつむじを見た。ヒョンシクが頭を持ち上げ、少し息の上がった様子でジュニョンをひくり場所から見つめる。
「ドーナツみたい」
「ドーナツ?」
危ない、と聞こえた筈なのに、全く似合わない言葉がかけられる。最近また少しだけ大人びた年下の目は、一緒に練習をしていて何を見たと言うのだろう。
「真ん中が、ごっそり無いの。ダンスしたい、とか、歌いたい、とかじゃないの。ただ、何も考えたくない、取り敢えず練習してる自分でいたい、って感じ」
遠くで今度はミヌに稽古付けられているシワンに目線をずらし、ヒョンシクは言った。両手で持ったスポーツドリンクの飲み口に歯が当たって、小さな音がする。
「——?」
此処から見ている細い体は、精一杯頑張るいつもの姿に見える。
周りのメンバーやスタッフ達が「此処まで」と線引きをしていく中、いつも一人、最後まで残ってポジショニングや振りの見え方を気にしている姿。今だって、ミヌに腕の位置についてどう動かしどの角度で見せるかを気にしているのに。
シワンが踊る。

「分かるけどね。気持ち抜いちゃった方が楽だもん」

ヒョンシクが呟いた。
ドーナツの意味を、ジュニョンは考えていた。

ドーナツの中心は、虚無。



数日後、公演をシワン抜きで行うことがアナウンスされた。

==================

夜中、宿舎のリビングでパソコンの青い画面を見つめていたシワンの目を、後ろから塞いだ。

「見ちゃだめだ」

暴力的でしかない質問や言葉を投げかけて来る画面から、綺麗な目を塞ぐ。其の目を塞ぐのは、右手の掌だけで足りる。小さな顔は、簡単に覆い隠せる。
「何を?お前をか?」
目を塞がれたまま、シワンの渇いた笑い声がして、息がかかるのを手に感じた。シワンの白い手が、彼の目を塞ぐジュニョンの手に重なり、ゆっくりと其れを下ろして行く。椅子の背もたれ越しで、背後に立っているジュニョンを振り返り、シワンは顎を自ら持ち上げた。
誘われるままに口付けて、其の物憂げな気配を消し去るように肩に回した手に力を込める。
「は……っ」
「ん……」
どちらともつかない吐息が、響く。
二人きりではない空間を無理矢理半径スーメートルだけ自分達の世界にする。宿舎であろうと、スタジオの片隅であろうと、構わなかった。
ジュニョンの服の袖を掴んだ力に引き寄せられて、更に深く、キスをする。最初から開いていた口に、ジュニョンは自分の舌を差し込んだ。
唾液が、混じり合う。体温を伝え合う。
「ん……!」
主導権がシワンに持って行かれそうになり、ジュニョンはたじろいだ。

「異性と付き合ったことはありません」
「女性と付き合ったことはありません」
何故か、シワンのあの言葉を思い出す。
——なら、男は。
お前は、男を知ってるんだろう?

シワンが此れ以上何も考えないように。
悪いものを見ないように。
そうやって目を逸らさせて、彼の翼が折れないように、閉じ込めておくのは罪になるのだろうか。

横目で見た画面に、様々な言語でのシワンへのメッセージがつらつらと並んでいる。
"応援してるよ"
"頑張って"
"寂しい"
"こっちに来てよ"
"どうして来てくれないの"
"酷い"
"悲しい"
"でも貴方の為だから"
沢山の言葉が並んでいる。
事務所は事務所の理屈で、ファンはファンの理屈で、彼を消費していく。
皆が寄ってたかって、幸福な王子のものを持って行こうとしている。
才能と言う名の宝石を、綺麗なものだけを映していた目を、穢れなき心臓を。
何もかもを盗まれた最後は、ハイエナとハゲタカが其の死骸を狙っている。

ジュニョンは、シワンの服の裾から手を入れて、其の生身の肌の熱を感じた。
「…っ、ジュニョン…だめ…」
「だめ?」
シワンが重ねていた唇を離し、慌てたようにジュニョンの手を掴んだ。其の手が急にがくんと震えて、其の震えが止まらなくなっていた。夢中という言葉が似合うと思うほど激しかったキスの後に、シワンは急に力を失っていた。
「その……」
「?」
「脱ぎたく……ない」
「え?……あ、そっか……」
ジュニョンは混乱した。
性急にキスを求めて来たり、体に触れるのを拒否したり、シワンの様子がいつもとは違うと思っていた。
いつも重ねていた肌を求めていた細胞が、ジュニョンの中で萎えて行くのが分かった。
「……やめよ」
「違うんだ」
「何が違うんだよ!」
思わず強くなった語気に、折れそうな体がびくりと動き、怯えた瞳でジュニョンを見つめた。
自分のとも、彼のとも見分けがつかない唾液で、真っ赤な唇がグロスを塗ったように暗がりの中で光った。
「したくないわけじゃ……なくて」
そう言って、シワンがジュニョンの手を引き寄せ、手首に口付けた。左手の指に自分の両手を添えて、指を確かめるように優しく振れ、また、口付ける。
そして、上目遣いにジュニョンを見て、名前を呼んだ。
「いいよ、来てよ。ただ、服は着たままで」
「着たまま、ね」



==================

シワンの涙が飛び散った。

白い頬を伝って、尖った顎から雫が落ちて来る。ジュニョンは椅子の上で、下半身を露にした体を抱えた。
長い靴下を履いたままの足は、酷く倒錯的で、ジュニョンを更に興奮させた。
「きつ……」
「あ、ジュニョン!ジュニョン!」
シワンは何度も名前を呼び、ジュニョンの体にしがみついた。ジュニョンの背に、椅子の背もたれがめり込んだ。
「ウンジェ…そんなしがみつかれたら動けない」
ジュニョンは其の度に少し笑って、彼の体を引き離した。
「それともいいの?動かなくて」
「う……」
動いて、と小さな声がして、がちがちだった体や腕の力が抜けて行くのが分かった。
軽く唇にキスをして、整った鼻先にもキスをする。切羽詰まったように、狂ったように求めて来るシワンに飲み込まれそうになるし、そんなセックスも悪く無いけれど、今日は……今夜は、焦りたくなかった。

繋ぎ止める術を其れ以外に知らなくて。
肌の下まで肌を重ねる。

「俺のウンジェ」
泣きながら何度も頷くシワン。首を振って快感に耐え、最終的には其の快感に敗北する細い体を、ジュニョンは何度も抱き締めた。
達した後の、鼓動の早さを重ね合わせた胸の、布越しに伝え合う。荒い息を整え、足りない酸素を求めるように呼吸を繰り返す。



==================



僕はずっと鈍感で、変化に気付けなかった。

容量の良い弟はずっと先に気付いていたのに。
警鐘を鳴らしていたのに。

皆が鳴り響かせていた警鐘に、僕だけが気付かなかった。
彼が僕に見せたサインも見逃した。



其のことを、今でも後悔している。

拍手[21回]

丸い月が地平線近くに浮かんでいるような気がした。

宿舎へ向かう車の中で、建物の隙間から見た月は、まるで遠くのビルのすぐ後ろにあるようだった。シワンは窓から見る空に釘付けになり、冷たい窓に額を寄せるように凭れ掛かって、頬杖をついた姿勢で外を見ていた。
景色が流れて行く。
月は建物の陰に隠れたり、顔を出したりしながら、低い空でどっしりと構えているように見えた。
同じ月を、いつか見たことを思い出す。

きゅ、と車が停止して、誰かが車のドアを開ける音がした。「早く」とマネージャーに急かされて、シワンも右側のドアから手と顔を出し、体を畳んでいた空間から外へ出る。
体感気温は氷点下9度。駐車場から宿舎へ向かう道のりだけでも、耳が千切られ頬が凍るのではないかという寒さに見舞われる。シワンはウールコートのポケットに手を突っ込み、肩をぐっと強張らせた。

窓越しではない月を見る。
其れは辺りに比べるものが無くて、とても小さく、頼りないように見えた。小学生だった頃に、月はいつでも同じ大きさで地球の周りを回っていて、大きく見えたり小さく見えたりするのは人間の錯覚でしかない、と聞いたことを思い出す。
無数の星が輝いている。辺りはしんとして、歩く人は勿論、通る車も無い。

「帰ろ」
ぼんやりと空を見上げていると、ジュニョンに肩を抱かれ、少し驚いた。見上げた顔の中心にある、整った形の鼻の頭が少しだけ赤くなっている。しばらく風邪気味だと言っていた彼は、鼻をすすった。ず、という呼吸音がして、ふっと吐いた息が白く漂った。
「あ、うん」
右肩を抱き寄せられ、左半身がジュニョンと触れ合う。正確にはジュニョンの衣服とくっついているだけだし、布越しの体温を感じられないほど着込んでいるのに、密着している感覚が心地良い。シワンは微かに笑い、頭を左側——ジュニョンの右肩にほんの僅かだけ押し付けた。
ジュニョンに肩を抱かれた格好で、またぼんやりと、辺りを見回す。数日前に降った雪が地面には残っていて、溶けないまま泥と混じり合って黒ずんでいた。寒い。何度経験しても慣れない冬が来ていた。
「ジュニョン……」
そっと、名前を呼ぶ。
「やっぱいいや」
言いかけてやめる。
二人で離れないまま部屋の前まで行く途中で、何となく思い付いた願いは、口にしても良いかどうか分からないままだった。
部屋の手前で、言いかけて、やめた。
「何だよ」
言いかけたことを口にしないシワンを咎めながら、ジュニョンはドアノブに手を伸ばした。
シワンは其の手首を掴んで、ドアノブから手を放させ、空中で停止させた。
目を見て、言う。

「もうちょっと、外に居たい」

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去年も同じ月を見たような気がしたんだ。
凍える寒さの中、冷たい窓から同じ形の月を見ていた。
抱かれた日のこと。
貴方は覚えていない、寧ろ気付いてもいなかったかもしれないけれど。

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気が付けば月は高い空にあって、白い光を地上に落としていた。

二人で屋台街へ繰り出し、焼酎とつまみをつつきながら他愛も無い話をした。
会話の中身なんて無くて、色っぽい話や下の話に持って行こうとするジュニョンを、強引に元の話に引き戻したりする。異性の話になるたびに、のらりくらりと交わしてみる。
ジュニョンが勢いで体を寄せてくれば、何となく離してみる。手を伸ばされれば指先で制する。
寒さで凍えた所為か、どれだけ飲んでもなかなか酔いが回らない。酔えれば良いのに、と思いながら何倍目かも分からない焼酎を、屋台を切り盛りする女店主に注文する。周りには学生のグループ客が居て、やれ単位だの、やれどのサークルの女の子が可愛いだのという話をしている。騒がしい客席で、ジュニョンのこもった声がさらに聞こえにくい。
酒の減ったグラスを眺めて、シワンは思う。
——甘えたいけれど、重たいと思われるのが嫌。こんなことを考えている時点で、既に充分重いのではないかとも思う。負担になりたくない。でも好きだから甘えたい。
あははという誰かの大声で我に返り、目の前のジュニョンの話す言葉を全く聞いていなかったことに気付く。
「酔った?気分悪い?」
覗き込む瞳をじっと見過ぎて、瞳孔に自分の姿であろう光の塊を見付けて、シワンは驚いた。
瞳の中に映っている。自分だけが。
「……ううん」
首を振る。簡易な作りでがたがたとシーソーのように動くテーブルの向こうで、ジュニョンは未だ心配そうな顔をしていた。
運ばれて来た焼酎のグラスのふちに、素面である証拠のように口をつける。本当に大丈夫か、という声が聞こえた気がした。



「……ごめん」
酔い潰れたシワンは、ジュニョンに肩を支えられ、吹き曝しの国道に立っていた。何台かの乗用車が通り過ぎる。テールランプをぼんやりと見送った。
「いいよ、別に」
国道の方向を見つめていたジュニョンが、シワンに笑いかけた。仕方無い奴だな、という感じの口ぶり。けれども、優しい響きで。
シワンは空を見上げた。
「……ごめんね」
其れは、今酔い潰れたことに対する謝罪、ではなく。
「だからいいって」
そして、言葉の真意が伝わることはなく。

程なくしてタクシーが来た。
ジュニョンが宿舎の住所を告げシワンを後部座席に座席に押し込む。暖房の効いた空間で、シワンの頭をぐいと引き寄せ、ジーンズの太腿の上に乗せた。其のジーンズの湿った冷たさに少し驚きながらも、髪を撫でてくれる手が気持ち良くて、シワンは目を閉じた。
時折瞼に差す、変な角度で感じる街灯の灯り。目を開けると、フロントガラスから街灯と、その後ろで輝く小さな月が確認できた。
「あーあ」
ジュニョンが口を開いた。
「なに……」
どうしたの。声をかける。

「何か、行き先変更したい気分」

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空室を知らせるランプは一つしか点いていなくて、狭まった選択肢で其のボタンを押す。フロントから声をかけられて対応するジュニョンに、未だこのような場所に慣れないシワンは酔いが覚めてしまった頭で何となく気恥ずかしく感じた。

いつ来ても疑問に思う二重ドア。
其れをジュニョンが開けて、狭い客室に入る。
部屋の面積は狭く、ほぼベッドしか無い。窓が無く、異様に明るい白熱電球のオレンジ色が狭い部屋を照らしている。入って右手側に小さなドアが合って、きっと其の先がバスルームになっているのだろうと思う。
ジュニョンはキーを入ってすぐそばの場所にあった大理石風のテーブルに放り投げ、どかっとベッドに仰向けになった。シワンもベッドのふちに腰掛けた。
「俺のが酔いが回って来たみたい」
ジュニョンが仰向けのまま言うので、シワンは振り返って、仰向けになっているジュニョンの顔を見た。其のとき、振り返る為にベッドについていた左腕を寝ていたジュニョンに引っ張られ、ばたんとベッドに引き倒された。
顔が近い。
ジュニョンは何も言わずにシワンの顔を見つめ、頭を撫でた。其の手でシワンの頭部の輪郭を辿るように耳に触れ、頬に触れ、頬を辿って唇に触れ、顎を持ち上げて——キス。
口付けられた瞬間、目を閉じた。横向きでしていたキスが、だんだんジュニョンの手の位置が変わり、頬に当てていた掌が肩に周り、腰を撫でて、ジュニョンの体が、シワンの上に重なった。

もどかしい。
全部の行程をスキップしたいくらい、欲しい。

口元の皮膚や、舌がどうしてこんなに感じるんだろうと思う。まるで意思を持った軟体動物に撫で回されているように、確実に性感帯をさぐってくるジュニョンの舌。

胸の中に押し込めている気持ちを言葉では伝えられなくて、ジュニョンの髪に滑り込ませた指先に力を込める。
照明をつけたままの空間で絡み合うまま激しくキスをする。
部屋には月の光も夜の闇も無く、ただ人工的に創り出された生温い室温と昼の灯りがあるだけ。

本当は、本当は——。
キスだってしたくない。すればするほど虚しくなるから。

せめて顔を見ないように、今日も後ろからして、と強請る。

拍手[17回]

「ああああああ!」
ジュニョンの叫び声に、目の前の男がいやらしい笑みを浮かべた。
「10分もすれば、気持ちよくなるよ……」
男は、跪いているジュニョンの股間に手を伸ばし、布越しに乱暴に掴んだ。
「彼のこと、好きだろう?ちょっと此のゲームにも飽きて来たし……」

君が此処でショーを見せてくれたら、今日はやめてあげてもいい。

男が、高らかに笑った。
ジュニョンが仰け反った時、シワンと目が合った気がした。

==================

鳥籠。

ジュニョンとシワンは、それぞれ別の男に両腕を押さえつけられながら、ステージになっていた場所に備え付けられている大きな鳥籠に押し込められた。
鳥籠の中には、簡易なベッドがあるものの、体を覆うためのシーツは無かった。
「ショー」とあの男は言った。
ジュニョンが周囲を見回すと、その鳥籠をステージの下から眺めるように、先ほどよりも増えた男や女が居て、いくつもの視線が自分たちに向いていることに気付く。
シワンの顔を窺うと、至近距離で目が合った。

その時だった。

シワンは、ふ、と腕を伸ばし、ジュニョンの首に絡めた。
ジュニョンに抱きつく格好で、観客の居ない方へ顔を向け、ジュニョンの耳許に唇を押し当てた。
「ジュニョン」
はっきりと響く、自分を呼ぶ声。
シワン!
「あいつらに逆らわないで」
小さな声が、響く。誰にも聞こえないように、自分の耳だけに差し込まれる言葉。フロアには騒々しさが広がり、サイケデリックな音楽が流れ始めた。爆音と光の洪水に押し流されそうになる。
「ごめんね。こんな目に遭わせて」
「——シワン」
「ごめん」
そう言ってシワンはジュニョンの耳から唇を離し、其の唇をジュニョンの唇に重ねた。

歓声が、上がった。

ジュニョンは自分の体中に血管があることを初めて感じるほど体内の血の流れを感じ、其れらが全て血液に乗って熱くなっていることを感じた。
鼓動が速くなり、息が苦しくなる。けれども気持ちは高揚した。
目を閉じ、シワンの入り込んで来る舌の動きに酔いしれる。自分の中心に熱が集まろうとしていた。
シワンの細い腰に腕を回し、周囲のことも見えなくなった。

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守りたい。
なのに。
傷付けてしまう。
優しい、君を。

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ジュニョンから回された腕を解き、シワンはジュニョンの肩を押して無機質なベッドに腰掛けさせた。其の太腿の上に自分の右脚を乗せ、片膝だけをベッドに乗せた格好になった。
指を伸ばし、ジュニョンのシャツのボタンを上から下へ一つ一つ外して行く。四つつ外した時点で覗いた胸元から両手を突っ込む。ジュニョンの肌に直接触れると、シワンは鳥籠の柵越しに、見張りをしている男に視線を送り、観客に視線を送った。最後に其の視線をジュニョンに戻すと、はらりと腕を入れてジュニョンの肩を光の下に晒した。そして、残りのボタンをまた外していった。
ジュニョンはされるがままになっていたが、何処か焦点の合わなくなった瞳で、目の前の相手を見つめていた。

——綺麗だ。
普段見ているときや、記憶の中のどの君よりもずっと綺麗。
此の世にこんな人間は男でも女でも何処を探してもきっと居ない。
居る筈が無い。

ジュニョンは脱がされかけたシャツを自ら剥ぎ取ると、シワンを抱き寄せて唇を求めた。お互いの腰がぶつかって、其の熱が上がっていることを伝え合う。
早く欲しくてたまらない。

「嫌だ……ジュニョン…………」
シワンの声がした。
其れが演技なのか薬の所為なのか本心なのかは、もうどうでも良くなっていた。

体勢を入れ替えてベッドに押し倒してキスをする。深く唇と舌を貪り、シワンの着ていた薄手のカットソーの裾を指でたくし上げながら肌に触れる。
行き着いた胸の飾りを指で引っ掻くと、声が漏れた。
「んんっ……」
「こういうの、気持ち良いの?」
「あ…や…」
「ねえ、男同士ってやったこと無いんだ。教えて?」
「……其処、もっと、触って」
乳首を右手の親指の腹で数回擦り上げると、シワンが喘いだ。
「こう?」
「うん」
シワンは目を閉じ、ジュニョンから与えられる感覚に小さく、ときに大きく声を上げた。

==================

時折、不意に意識が戻る。
狂っているふりをして、何人もの男に犯されているのが別の人格の「シワン」だと思っていれば、良かった。
犬に噛まれただけだと思えば、尊厳は穢されないと思っていた。

けれど、今目の前に居る相手は、ジュニョン。

すきな、ひと。

初めて抱かれるのが、こんなことになるなんて——。

流した涙に、誰も、目の前のジュニョンすら気付かなかった。

==================

鳥籠の中。
幾通りもの下劣な光と目線の合間で。
交わる。

ジュニョンは裸にしたシワンの体の奥に指を沿わせていた。
「此処に……入れるの?」
腕の中のシワンが、首を縦に振る。其の様子を見て、反射的に指に唾液を絡めた。
つぷりと人差し指の第一関節だけを入れてみる。あまり潤滑性の無いものを押し込まれ、シワンは苦痛に顔を歪めた。
「痛……」
「ごめん、我慢して」
一本入れて少し動かすと、既に何回も慣らされた場所はだんだんと馴染んで、感じられるようになっていたらしく、シワンの息が上がった。
「あ……う」
「どう?気持ち良い?」
折り曲げたり、小刻みに動かしてみると、シワンがいちいち鳴くのが可愛い気がして、ジュニョンは其の光景を楽しんでいた。
中指を這わせて、一緒に入れてみる。
「ああっ」
シワンが首を激しく振ってジュニョンの肩にしがみついていた指に力を込めた。
三本。
突き入れた指を激しく動かすと同時に、ジュニョンが息を奪うようにキスをした。
苦しそうに顔を歪めながらも、シワンの其処は既に快感を得られるようになっていた。

「ねえ、欲しい?」
ジュニョンは、未だ脱いでいないジーンズの膨らみを意識させるように、シワンの内腿に其処を擦り付けた。
「いや……」

「要らない?俺は、挿れたいけど」

シワンは熱にうかされたジュニョンの顔を間近で見た。
其れは幾通りものライトに照らされ、幻覚と幻聴と現実の感覚の狭間で酷くリアルに思えた。

「うん……」

許していた。

ジュニョンは荒々しくジーンズを脱ぎ去り、下着も脱ぐと、シワンの細い体を折り畳んで後ろに自分の其れを宛てがった。
一気に突き刺すと、貫かれたシワンは圧迫感に戦いた。

「やだ、ジュニョン……苦し、い、痛い」
「ウンジェ」
「痛い、よ……」
「ウンジェ」
狂ったように名前を呼び続けられる。指を絡めとられ、ひたすらに腰を打ち付けられて、異物感だけを感じた。同時にシワンの意識が戻り、異常な状況と体を求めて来るジュニョンの違和感を肌で理解するようになった。

ジュニョン……初めてだって、言ったじゃないか。
お前、どうしてそんな切羽詰まってるんだ?
薬が効いてるから?

シワンは自分が抱きそうになる淡い期待に全て蓋をした。
そんなことを考えるよりも、苦痛とやがて訪れるであろう快感だけに酔いたい。
——もっと、薬が欲しい。
今、お前が俺を好きだなんて、錯覚すらしたくないんだ。

==================

余りの快感と扇情的な態度に、ジュニョンは我を忘れて目の前の肉体を欲しがった。
薬の効果か、どんなに動いても快感が果てることが無い気がする。全身が性感帯になったかのように、快感が終わらない。そして、全てが蕩けるように甘美だった。

「ウンジェ……愛してる……」

普段、女とのセックスでも滅多に言わない台詞が、口から出た。
其の時、刹那的にジュニョンの意識が途切れた。

愛しているのに。
どうしてこんな方法でしか、繋がれなかったんだろう……

振り切るように、腰の動きを速めた。突き上げて、転がして。
奥の深いところを求めて、シワンの体を暴いていた。

「ああっ……はあっ、んん!」
二人の呼吸が荒く響く。雑な作りのベッドは何度も軋み、リズムを作った。



鳥籠で、二つの体が絶頂を迎え、真っ白な鳥のようになった。

==================



ミヌは、朝焼けを見つめていた。
遠くで椋鳥の鳴き声が聞こえた。
帰って来ない二人。
空っぽになったベッドと、人が寝ていたままの形をしたシーツを見る。

——全部、分かってるんだけど。

ジュニョンのことも、シワンのことも好きなのに。
神様。此れ以上僕らのサンクチュアリを壊して遊ばないで。

==================



体の中に体を入れたまま、果てて失神していた。
ジュニョンは腕の中の愛おしい人を見つめ、朦朧とした頭で尋ねる。

「——ウンジェ?眠っちゃったの?」


Fin.

拍手[15回]

あの手を離さなければよかったと、
僕は
何度あの夜を後悔するのだろう——。



==================

其の日もシワンは帰っては来なかった。
時計を見つめ、戻らない彼を思う。ドラマ撮影は一月まで続くと聞いた。

もう何日顔を見ていないだろう。
ジュニョンは、遠くの壁にかけられたカレンダーの数字を見つめた。

バラエティ番組とドラマの収録のあるクァンヒでも、かろうじて元気を残し帰宅して来ては、周囲にちょっかいをかけて存在を証明するのに、シワンは音も無く帰宅して寝入り、音も無くまた早朝に出掛けて行く。
「まあ、初めてのドラマだし、一人の仕事だしな」
ケビンの言葉に始めは納得していた。きっと緊張もあるだろうし、誰の顔も見たくないほど疲れることもある、とは思う。
けれど——

存在を確かめることすら出来ない。

自分もそうだったのだろうか、と過去を振り返る。あの頃は短期間ではあったし、疲れてはいたけれど、それなりに楽しみもあった。逆に外の世界で気を遣って疲れた分、メンバーとの気楽な時間に救われていたこともあったと思う。

シワン。
——いや、
ウンジェ。
今、お前に逢いたい気がする。
何処に居る?

ジュニョンは寝返りを打った。眠れない夜に無理矢理に閉じた瞼は開いてしまう。
其れを何度も閉じたり開けたりする。長い瞬きの間に時間が過ぎて行く。

==================

「——何処行くの」
靴ひもを結んで踵を数回床に押し付け、立ち上がると、背中から抱きつかれた。
細い腕が腰に回され、体が密着していた。
「ミヌ……」
「行かないで」
行かないで。
此処に居て。
腰に巻き付いている腕と、小刻みに震える体が物語っていた。
ジュニョンは、其の腕に手を添え、玄関の扉を見た。
「ね、こっちで皆で寝よう?眠れないなら、俺が話し相手になるから、ねえ……」
弱々しい声ときつく引き止める腕に心が揺らぐ。けれども、ジュニョンは其れをやんわりと解いた。
「ちょっと外の空気吸ってくるだけだよ」
暗闇でも分かる輝きを放つ金髪を撫でて、ジュニョンは冷たいドアノブを一気に回した。

——また、置いて行かれた。

いつも、いつも、貴方は遠くばかり見てる。
僕は、貴方の横顔ばかり見てる。

ミヌは、踵を返し、ぱたぱたと数歩だけ廊下を歩き、足を止めた。
左肩を壁に押しつけ、左半身と頭を凭れさせた。
悪い夢が早く終わりますように。そう思いながら、視界を右手で塞いだ。

==================

宛など無かった。
マネージャーから聞いたスケジュールも大まかなもので、彼が何処に居るのかなんて、見当もつかなかった。
ミヌの引き止める手に応えて、家で大人しく待っているべきだったのかもしれない。
けれど、何となく足は撮影場所だというスタジオに向かっていた。

車通りの少なくなった道を走り抜け、大きな交差点でタクシーは一時停止した。
深夜でも律儀に信号を守るタクシーの運転手を窺い、内心焦る気持ちを隠して、ジュニョンは対向車線を見つめていた。

数台の黒塗りの車が連なっている。
スモークガラス。
変わる信号。
発進。
対向車。
近付くヘッドライト。
助手席。

「——!!」

スローモーションのように。
其の人物を見た。

——シワン。

「すみません、あの黒い車……追い掛けてください」

==================

「シワン!」
運転手に金を押し付けて車を下り、ジュニョンは叫んだ。
叫ぶ声は、其の駐車場にこだました。
数名、数にして10名ほどの男に囲まれ、其のうちの一人に肩を抱かれたシワンがぼんやりと声に反応し、焦点の定まらない瞳でジュニョンの居る方向を見ていた。
「君は……」
シワンの肩を抱いた男は、怪訝そうな顔で自分たちを追い掛けて来たタクシーから降りて来た青年を見た。
明らかに、気質の人間では無い。顔に痣のある者も、腕に彫り物をしている者も居た。どの人間も目ばかりがぎらついて、けれども何処か生気のない顔をしている。
「そいつの同居人です」
ジュニョンは手短に素性を明かした。過去の経験上、此処で逆らったり、妙な態度が懸命な判断ではないと分かっていた。
「同居人」
興味が無さそうな顔で反応を返され、男の目線はシワンに移った。
「誰?」
男はシワンの顎を軽く撫で頬に手を当ててジュニョンに目が合うよう、仕向けた。

「……知りません」
シワンの目は、ジュニョンを見ていなかった。

「え」
ジュニョンが目を見開いた瞬間、左右から彫り物のある腕が伸びて来て、体を押さえ付けられた。
「シワン!」
押さえ付けられながら、名前を呼ぶ。
エコーする声は、届かない。

「まあいいや、君もゲストにしてあげよう」
男は銜えていた煙草を地面に落とし、先端の尖った革靴で踏みつけた。
「来い——」

==================

引き摺られ、アルルカンに導かれ、足を踏み入れた場所は異世界だった。
金色と赤色で彩られた空間。
其処に立ち籠める異様な匂い。

シワンの、目。

ジュニョンの思考は一つに行き当たった。

「薬か……」
其の呟きは、自分の腕を今にも折らんとする強さで掴んでいる相手に聞こえたらしい。
「勘が良いな、ボーズ」
下品な笑みを浮かべ、其の屈強な男はジュニョンの顔を覗き込んだ。
「安心しな。上物だから」

「知りたくて、来たんだろう?」
先ほどの男は一人掛けの椅子に深く腰を掛け、その肘掛けにシワンを浅く座らせていた。ジュニョンは床に膝をつかされ、左右の腕を羽交い締めにされて、其の対局に居る。
男が指を鳴らすと、アルルカンが何かを持って来た。

サイコロ。

「此の出た目の数だけ、シワン君に相手をして貰うんだよ」
そうだよね、と男がシワンの頭を引き寄せ、くちづけた。
シワンがゆっくりと瞼を閉じて、くちづけに応える。
「凄く良いんだよ。可愛くて、綺麗で、従順で」
恍惚とした表情で、男はシワンの髪を撫で、床のジュニョンに視線を投げかけた。

シワンが、一人で行動していたのはこういうことだったのか?
芸能界によくある話、事務所も何も言わなかった、こんな——事態?
薬漬けにされて、何人も男を相手にして?

あの夜、ふらついていたシワンを思い出す。

——もう、お前は意志もないの?俺のことも分からないの?

「やめろ」
ジュニョンが吐き捨てた言葉が部屋に響いた。
下を向いても、二人のくちづけの音が聞こえる。
「やめてくれ……」
「やめろだって、シワン君」
男は顔を離し、シワンを元の肘掛けの上の位置に座らせ直した。

サイコロが振られた。
小さな立法体はジュニョンの目の前に落ち、或る面を上にして止まった。
目を疑った。

「6」

——「6」?

ジュニョンの見つめていたサイコロが取り上げられ、ジュニョンの前に男の顔があった。
中年男はにやりと口元を歪めて笑った。
「ごめんね。大人には大人の事情ってのがあってね。彼のことはどうにでもしていいって言われてるんだ。だから好きなようにするのさ」

「やめてくれ……」
唇を噛んだ所為で、ジュニョンの口の中には血の味が広がる。
パチン、と目の前でまた指が鳴らされた。
「じゃあ、こうしよう。おい、此の子にも打ってやって」

椅子から二人の様子を見ていたシワンの目が、一瞬だけ、咎めるように男とジュニョンを見た。

抵抗するジュニョンの腕に針が刺さる。

拍手[5回]

サイコロが振られた。

其れはテーブルにぶち当たり、徐々に回転の速度を緩めて或る面を上にしながら停止した。
出た目は、3。
「——3人」
誰かの声がする。

シワンは背後から羽交い締めにされながら、朦朧とした頭で小さな立方体の面を眺めていた。
数分前に腕に突き刺された針から広げられた、気怠さと例えようの無い感覚。脳味噌は緩慢に死を選びとって其の方向へ進んでいく。
目の前に白い腕が幾つも伸びて来た気がした。
幻覚。幻聴。強い光に飲み込まれたような、上も下も分からない感覚だった。

「さあ、パーティーの始まりだ」
遠くでアルルカンが笑う。
何かが千切れて飛んで行った気がした。目を閉じて、全てを手放す。

==================

『    』

「——?」
「ヒョン、どうしたの?」
誰かに呼ばれた気がして振り返ったけれど、其処には誰も居ない。隣を歩いていたミヌが不思議そうに見つめているだけだった。
「誰かに、呼ばれたような気がしたんだけど……」
買い出しに出掛けたスーパーで、銀色のカートを押しながらもう一度だけ後ろを振り返った。深夜まで開いているスーパーに此の時間に買い出しに来ている人間はほとんどおらず、二人の居た冷凍食品の棚の傍には、ただ巨大な冷凍庫が並んでいるだけだった。
「誰も居ないよ?」
白熱電球の明る過ぎる光の下、ただ広いだけの通路があるのみだとミヌが笑う。
「気のせい、か……」
其の割には、此の胸を尖らない爪のある指で引っ掻かれるような感覚は何だろう。ジュニョンは逡巡した。其の好きに、ミヌは冷凍庫のドアを開け、箱詰めされたアイスクリームの箱を放り込んでいた。其れががさりと音を立てて、慌てて箱を取り上げ、丁寧に元の位置に戻す。
「あー」
「だめです」
ミヌが肩を落とした。
「……箱はだめ」
其の言葉にミヌがにこりと笑って、袋詰めされたワッフルコーンのバニラアイスをカートに一つ放り入れた。
そんなミヌを横目に「割れちまう」と笑いながら、もう一度だけ顔だけを動かして誰も居ない通路を見つめた。
——?
胸に広がる違和感。
耳に届くのは、デフォルメされた歌詞の無いポップスのみだった。

==================

「あ」
夜道でジュニョンが立ち止まる。
「え?」
ミヌも立ち止まって少しだけ上にある隣の相手の顔を見上げた。
「卵」
目線を外され、来た道にジュニョンの目が向けられた。
「買物リストには無かったよ」
また別の日に買えば良いじゃん、とミヌは引き止めようと腕を伸ばした。
——ふっ
ジュニョンの腕に伸ばした筈の左腕が、空を切った。
「買って来る。ミヌは先帰ってて」
「え?あ!」
ジュニョンは持っていたビニール袋をミヌの左手に握らせると、急に走り出した。
左手に袋を持たされ、右手にアイスのコーンを持っていた所為で、反射的には上手く動けず、もたついている間に、彼の背中は夜の闇に消えて行って見えなくなった。
自分よりも脚の速い彼に追い付くのに、条件は不利過ぎた。
「……ヒョン?」
見えない相手を呼ぶ。
食べ始めたバニラアイスの唾液の付いた部分が溶けて、ミヌの右手にぽたりと落ちた。

==================

乗り物酔いのような、酒に酔ったような感覚が続いている。
胃液が喉の奥の奥まで込み上げてくるのに、吐けない。寒い。悪寒が全身を包んでいる。身を包んでいる衣服が何も無いような気がした。
「はは……」
嘲り笑う声がして、誰のものかと思ったら自分のものだった。

今日は3人。此の間は4人——。

シワンは自分の体を両腕で抱き締めて、交差した腕に顔を埋めた。
寒い。
誰か、見付けて。
此処から、救い出して。
張り裂けそうだ。

「シワン!!」

聞き覚えのある声がした。ふと顔を上げると、見覚えのあるシルエットがあった。だらしの無いジャージに、黒のロングのダウンコートを羽織っただけの、簡単なよそ行きの格好をした相手が、息を切らし、白い溜め息を激しく吐きながら、膝に両手をついた格好でシワンを見ていた。
荒い呼吸を整えながら、ジュニョンはシワンの座っていたブランコに近付いた。
「何してんだよ、こんなとこで……」
咎める口調が、限りなく優しい。くぐもった声が、断続的に聞こえるのが愛しい。シワンは青白い顔を持ち上げた。
「顔色悪いな……気持ち悪いのか?」
シワンは口を噤んで首を左右に振った。
「嘘だろ。ほら」

冷たい手が、シワンの頬に触れた。

顔と顔。目と目が、合う。
随分長い間朦朧とし悪い夢と良い夢と現実とを行ったり来たりしていた頭は、初めてクリアに視界をとらえた。
目の前にあったのはジュニョンの、目と手だった。

「大丈夫か?」
心配そうな表情で覗き込まれて。

其の手を拒絶した。

「?おい……」
「大丈夫、何でも無い」
シワンはそう言って座っていたブランコの椅子から立ち上がろうとブランコチェーンを掴んだ。
ぐらりと足元がふらつき、体のバランスが崩れる。
「シワン!」

次の瞬間、支えようとしたジュニョンの腕の中に居た。

「話したくないなら、聞かない」
ジュニョンの声が、耳許に響く。
息苦しいほど、抱き締められている。嘔吐感は別の息苦しさに変わり、悪寒は布越しの熱で体から去って行く気がした。
優しく背中を擦られ、気分が楽になる。
気分が酷く優れなくて滲んでいた涙は、別の温かい涙に変わる。

——けれども、此の腕の中には居られない。

「話なんか無いよ。ただ『酔っ払った』だけ」
シワンは腕を振りほどいた。

「もうちょっと酔い覚ましてから帰る。わざわざ探してくれたのに、悪い」

放っておいてくれ。干渉しないでくれ。
優しく、しないでくれ。

ジュニョンに、背を向けた。

拍手[10回]

空に粉雪が降っている。

街は赤色と緑色と白で彩られた。
人々が慌ただしく動き回り一年の終わりを告げる。
何処かでJohn Lennonの歌声が聞こえる。
母親に手を引かれた少女が、ショーウィンドーの機械仕掛けの人形を見て笑う。

君を待つ。
吐く息は白く、目の前の空気を一瞬染めて消えて行く。

「お待たせ」
小走りに近付いて来て、最後雪が溶けて水たまりになった地面で滑りそうになった君が言った。
「ううん、全然待ってないよ」

「——鼻の赤くなってるの誤摩化してから言いなよ。ごめんね、遅れて」
少し低い位置から見上げられ、すまなそうな顔をされると、逆にこちらが悪いことをした気になる。思わず謝りそうになる。
「いいよ、行こ」
ポケットから出した手を差し出すと、遠慮がちに細く白い手が伸びてきて、握り返された。

==================

「ウンジェ、」

食事をした後、辿り着いたホテルで後ろから抱き締められて、キスをされた。

二人の間でだけ、呼ばれる、"名前"。
其れだけで体は熱くなり、言葉の入って来る耳許は熱傷を負ったようになる。鼓動が高鳴って、聞こえてしまわないか心配になる。
「ウンジェ」
酔いが回ったのか、少しだけアルコールの匂いのする吐息を感じる。未だお互い、コートすら脱いでいないまま。あまり室温の高くない部屋の、入口に居た。

「愛してるよ」

体温が、上がる。
重苦しいコートから出ていた冷えた首筋に、唇が這うのを感じる。唇の間から出された舌と歯の感覚を感じる。
「あ……ジュニョン……」
「愛してる」
体は翻されて、ジュニョンの腕の中に収まる。腰を抱かれ、ジュニョンの冷たい手が頬に当たった。
指先が頬を数回、撫でて。
ジュニョンの目が細められ、垂れ目気味になって色情を感じさせる。でも多分、自分も同じ色欲を持っていて。合わせていた目線を逸らすように、意思を持って目を伏せる。
体と体の距離が近付く感覚があって、唇が触れた。

まずは唇と唇。
先に口元を緩ませたのは自分からだった。
迎え入れた舌先を吸って、更に深く、重なり合うように角度を変えてキスをする。
「ウンジェ……好きだよ……」
「俺も……」
「俺も、何?」
一瞬、唇が離れて、二人を繋ぐ、細い糸が張った。
「……好き……」
「嬉しい」

「ベッド、行く?」
ジュニョンの声に、有無を言わせない響きが、ある。

==================

アウターを脱ぎ、中の服のまま正面からシワンを抱き締めると、ジュニョンはシワンを引き寄せたまま、どすんとベッドに倒れた。
沈む二つの体の重みで、ベッドが軋んだ音を立てた。

「何でも言って。してほしいこと、全部してあげる」
「……言わなかったら?」
「恥ずかしくて死にたくなるようなことをずっと言ってあげる」
そういうの、好きでしょ?
ジュニョンが笑ったので、好きじゃないよ、と言って厚い胸板を小突いて俯く。
髪に触れられ、頭にキスをされた。
顔を上げると、とても優しい眼差しが其処にあった。
「変な意味じゃなくてさ。伝えたいんだよ」



——ウンジェ、誕生日おめでとう。愛してるよ。

拍手[20回]

水面に浮かぶ花びら。
赤と紅の濃淡は、色が落ちて水の中へ溶け出す。

ジュニョンは、シワンの肩に付いた一枚の赤い花びらを指先で摘んだ。
真っ白い肌に、赤い雫。
其の雫を吸い取るように唇を近付ける。
鼻先で、薔薇の香りを感じる。
水が、掻き混ぜられて音を立てる。花びらが揺れる。
ジュニョンがシワンの肌に口付ける。

==================

「ちょっと此処で止まって貰えますか」
乗り込んだタクシーは歓楽街の入口の傍で停止した。
「待っててね」
と言ってジュニョンが座る位置をずらしたかと思うと、ジュニョン側にあったドアが開き、夜の風が一瞬吹き込んですぐに閉まった。
「……?」
シワンは其の姿を振り返って追おうとしたが、すぐに曲がり角に入ってしまい、死角になった。
「デートですか?」
運転手と、バックミラー越しに目が合う。不躾な質問ではあったけれど、乗り込んだ時から此の初老の運転手には嫌な印象は無かった。
「……そう、見えますか?」
他人の目と言うフィルター。今此の瞬間に其れを通して見た時に自分たちはどう映っているのだろう。シワンは質問を質問で返した。
「はい」
運転手は、かけていた眼鏡の鼻あてを持ち上げ、歓楽街の方を眺めた。
「そうですか」
会話は其れ以上には広がらず、狭い車内にはラジオの深夜放送が流れていた。
夜の街を見つめる。歓楽街とは言え、一旦人間は入るべき場所へ吸い込まれて行ったのか人通りは少なかった。
月曜日の前の日曜日の夜は、何処へ行ってもそれとなく大人しい。皆、明日から始まる"日常"に備えて、眠りについているのだろうか。

しばらくして、見慣れた姿がタクシーへ駆け寄って来た。
手に、
大きな花束を持って。

「お待たせ」
彼が乗り込んでドアを閉めた瞬間、むせかえるほどの薔薇の香りが一瞬で広がった。
暗闇でも分かる花弁の赤を見ると、其の赤は急に目の前に迫って来た。
「はい」
ゆるんだ笑顔で手渡され思わず両手で受け取ると、手にずしりと植物と包装紙の重みを感じた。此の国の男であれば、割と誰もが思い付く手段ではあったけれど——まさか、自分が其れを渡すのでは受け取る側に回るとは、シワンは思ってもみなかった。
「すみませんが、此処の道をまっすぐ行って、左に曲がって貰えますか」
ジュニョンは運転手に道を告げた。

そして、暗闇の中でシワンの手を握った。

==================

辿り着いたモーテルで、キスから始まる。

ジュニョンはシワンの細い体を壁と自分の間に挟んだ。左腕でシワンの頭を抱え、右腕でシワンの細い腰を服の上から掴む。シワンの手から花束が離れ、床に落下して花びらが数枚散らばった。
激しいキス。
シワンもジュニョンに手を伸ばした。背中に腕を回し、指先で力を込めて、絶対に離さないことを伝える。

早く、早く。
ひとつになりたい。

床から立ち上る薔薇の香りと、目の前にさらけ出されたお互いの色情。
そして、
愛情。



ジュニョンが花びらを散らして行くのを黙って見ていた。
一つ、一つ。
手折って湯に投げ入れられる薔薇の花の部分。湯船の中でゆらめく赤の色彩。
花束はどんどん緑の茨だらけになる。
水は赤く染まる。花びらの赤が溶け出して行く。

全部の花を投げ入れたジュニョンは、最後に右手の指を見つめて顔をしかめた。

血。
親指と人差し指から、血が出ていた。

シワンは其の手に気付いて、そっと手を取る。
ちゅ、
その指に刺さった刺を吸い出す。
シワンの口の中に鉄の味が広がる。夢中になって指を舐めていると、
「ありがとう」
とジュニョンが制止し、指を払った。離れて行く指をシワンが見つめる。
バスタブのふちに腰掛けた二人は未だ服を着込んでいる。
言葉は無くても、続きは用意されている。
あとは歯車に乗るだけ。乗って、落ちて行くだけ。

花びらの浮かんだ湯船に二人で浸かる。
恥じらうシワンがたまらなく愛おしくて、ジュニョンは逃げようとする其の体を自分の方に抱き寄せ、両脚の間にシワンの華奢な体を挟み、自分の胸をシワンの背中に押し付けた。
後ろからシワンの胸に手を回すと、
「あ」
と声が出た。
耳の後ろにキスをする。
動くたびに風呂の水が掻き混ぜられる水音が響く。
花の匂いは未だ衰えず、二人を酔わせていく。
キスが深くなり、シワンは体を引っくり返してジュニョンの脚の間で跪く格好になり、両手で顔を掴んでキスをした。
「あ…ああっ……」
微かな声すら残響を持って響いていく。
ジュニョンの指先が膝に触れて、太腿をなぞり、水の中でシワンの後ろの穴まで辿って行く。ジュニョンが口角を右側だけ少し上げて、シワンに挑発的な目を向ける。

予告無しに、指が突き入れられた。

細い一本の感覚でも、感じ易くなった体には凄まじい快感をもたらす。
シワンはジュニョンの腕の中で、何度も首を振り、喘いだ。
「ん……」
薔薇は、人の嗅覚を刺激して媚薬の効果ももたらすと言う。
ジュニョンは此処まで積極的で、乱れたシワンを見たことが無かった。
「ねえ、早く……」
「早く……何……?」
答えが分かっているのに、わざとシワンに問い返す。其れとシワンの中を掻き混ぜていた指の動きを止める。
「意地の悪いことするなよ……」
「聞きたいんだ。どうしてほしいのか言ってよ……」
耳許で囁くように言うと、シワンの背中がびくっと動いたのが分かった。
「ねえ、もっと欲しがってよ。俺のことが欲しいって言って」
「や……」
「欲しいでしょ?」
シワンの腰を抱き寄せて、その中心と自分の中心にあるものを教える。水の中ですら生々しく感じる性の象徴を花びらの隙間から見て、シワンが顔を背ける。
「……うん……」
「言って?」



「欲しい。挿れてよ……ね、挿れて」



ジュニョンはねだられたものを奥まで入れた。

顔を歪ませて痛みに耐えていた表情が、だんだんと快感に狂って行くのを見た。
激しく喘いで、バスルームに声が響いて行く。そして、水音が。
突き上げるたび、水面の花が激しく揺れた。

「ジュニョン……ジュニョン!」
シワンが、行為を始めてから、初めて、名前を呼んだ。
其の切羽詰まった声に、限界が近いことを悟る。自分の顔より少し高い位置にあるシワンの顔を右手で包み、ジュニョンは口付けた。
「どうしたの」
気付くとシワンが涙を流していた。ぽたり、ぽたりと汗でも水滴でもない雫が、目から溢れていた。
「泣かないで?」
濡れた頭を撫でると、シワンが両膝でジュニョンの腰を挟み抱きついて来た。

シワンは、思う。
好きだとか愛している以上の言葉を持ち合わせていれば良いのに。
此の気持ちを表すのはそれだけじゃ足りない。
自分の知っている言葉でしか自分の思考や感情を言語化できないのがもどかしい。
感情をぶつける手段を、此れ以外に知らない。

「一緒にいきたい」

そう言って、シワンは自分で腰を動かした。

其の様子に欲望を煽られて、ジュニョンもシワンをリードする。
もっと奥まで。
もっと深い所まで。

絶頂を迎えた二人は花びらの中に沈んでいった。

拍手[18回]

「さっき言ってた『いつか』はどうして今じゃダメなんだ?」

触れ合いそうな唇。

偽りの無い眼差し。
——いや、きっと。
例え偽りであったとしても。
嘘だらけでも。
優しい言葉が聞きたかった。

シワンが戸惑っていると、ジュニョンの顔は離れて行った。
彼の腕は急に糸を切られたマリオネットのように力無く地面に向かってに落とされ、ジュニョンが地面に膝を突く格好で其の場に崩れた。

映画で観たあの女性のように、跪く目の前の相手に、言うべき言葉が見つからない。
遠くで夜風が通って行く音が聞こえる。周りの風景は全てピン暈けしたように曖昧になっていく。目の前の数センチ、数メートルで二人の世界が完結しているように。

ぎゅ

シワンは一歩、距離を縮めて、ジュニョンの後頭部に両手を回し、立ったままで居る自分の側に引き寄せた。そのまま抱き抱えるように両腕を回し、自分の心臓の上にジュニョンの頭が来るように、身を屈めて抱き締めた。

「ごめんね、俺の方が先に本気になってたみたい」
腕の中で弱々しくなった相手が、呟いた。シワンは其の頭を抱える指先に力を込めた。
「ごめんね」

「謝らないで」
悪いことでは無いのに、謝らないでほしい。
ずっと欲しかった言葉を聞かせてくれたのに。
嘘でも良いと思っていたのに、其れが嘘だと知らされるのが一番怖いことなんだ。
ずっと酔っていたいから。
シワンは、ジュニョンの顔を持ち上げた。
潤んだ瞳で少し甘えたがりな目線で見つめられる。脆弱な表情だった。

今以上に誰かを愛おしいと思うことなんてないと思うのに、互いに其れを認められなくて、ずっと予防線を張っていた。

けれど今、ジュニョンが線を踏み越えた。
では、シワンは?

半径数メートルの二人だけの世界。
様々な光に抱かれて、二人の唇が数時間ぶりに重なる。

シワンから重ねた唇。最初から上唇と下唇の間に隙間があって、キスの続きを求める。映画館ではしなかった、深く絡ませるキス。指先が絡まるように、舌と舌、歯と歯、唇と唇、全てを味わおうとする。
くちゅ、と飲み干せない唾液の音が二人の間で響く。ん、とくぐもった声がする。

恍惚状態に二人で足を踏み入れる。
キスの罠にかかる。

ジュニョンの舌がシワンの口の中に押し入れられるのを感じて、シワンは咎めるように反射的に押し返した。
其れでも尚、割り込んで来る強引な舌に負けて、攻防を諦めると、包み込んで吸い上げる。
途端、ジュニョンが立ち上がって強くシワンの肩を抱いた。
其の間もキスをしたままで。

まるで呼吸の仕方を教えるように、吐息を交換する。

心地良いキスをしたら、もう戻れなくなった。

拍手[10回]

細い指の指紋。

指先でなぞって暗闇の中で確かめる。
自分の手が僅かに汗ばんでいるのが分かる。其れを伝えたくて、何度も逃げる指を捕まえて、絡みつかせた。

二人の距離が微妙過ぎて、身体だけ熱くさせる。
湿った手で、ジュニョンがシワンの手を握る。



黒塗りの画面にひたすら名も知らぬ人々の名前が下から上へ流れて行く。
見るとも無しに、名前の文字を目で追う。
挿入歌にThe Beatlesの曲が使用されていたことに気付く。
タイトルを見ればどの曲かは分かるのに、一体どの場面に使われていたのかが分からない。
映画なんか、観ていなかった。

徐々に劇場にオレンジ色の光が広がり、観客は暗い場所から明るい場所へ強制的に連れ戻されていく。
ジュニョンはちらり、と隣を窺った。
まだ手と手を繋げたまま、目だけで会話をする。

——此の後、どうする?
——どうしたい?

他の客が歩くまばらな足音を聞く。人が帰って行く。数組しか入場しなかった劇場に、二人は取り残された。
手が、離れた。シワンが両側の肘掛けに手を掛けて、立ち上がった。

==================

映画館の前に整列しているレイトショー帰りの客待ちのタクシーを無視する。

外に出れば手を繋いだりはしない。
微妙に間隔を取りながらも、真横に並んで空の下を歩く。
二人分の足音が、響く。アスファルトに月明かりに照らされた影が伸び、物陰で屈折した。
「映画……どうだった?」
シワンが尋ねて来た。
「あの女優、最初あんまりだったけど観てたら美人に思えてきた。雨のシーン、下着透けてた」
下世話な台詞で返す。
「そういうとこは観てたんだ」
「え?」
しらばっくれる。
「ずっと寝てたかと」
思ったよ、とシワンが信号を確認しながら言った。
横断歩道で立ち止まる。夜中でも未だ車通りは多く、ひっきりなしにエンジン音を立てて自家用車や商業車が通り過ぎて行った。
「寝てないよ」
「え?」
聞こえない、とシワンが左耳に手を当てて言う。ジュニョンの声は通り過ぎて行く車の音で掻き消されていた。
「寝てない」
「え?」

車道の信号が黄色に変わる。辺りがもう一度、静寂に包まれる。
「だから、寝てなかったんだってば」
其れだけ言うと、ジュニョンはシワンの顔も見ずに横断歩道の白い部分を踏んだ。
シワンが小走りする音が聞こえて、また二人は並んで歩いた。

他愛のない話をする。
あの女優は美人だとか美人でないとか。
男性の生き方に共感できるとかできないとか。
色んな会話をしているのに、言葉が頭の上を、空間を滑り落ちて行く気がした。

しばらく歩くと、漢江沿いの遊歩道に来た。
ウォーキングロードのそばには川と夜景が広がっている。既に真夜中に近付きつつあるので、人通りはほとんど無かった。
あるのは街灯のオレンジ色の光と、水面の深い淵の色、そして其処に映る青や赤や白のネオンだった。

二人、
歩く。

「あーあ、何で男と来てるんだろ」
シワンが渇いた声で言った。
「寂しいねえ」
調子を合わせてジュニョンが返す。
「いつか……」
「うん?」
シワンは遠くの光を見つめながら早口で言った。夜風がふわりと彼の前髪を揺らす。
「いつか、恋人ができてさ。其の人と歩けたら……良いよね」

シワンが線を引く。
恋人じゃない、と。其の相手ではない、と。
其の顔が今にも夜の暗闇に影ごと消えて行きそうだった。

ジュニョンが俯いて立ち止まったため、二人の間に等間隔にあった隙間が広くなった。シワンがジュニョンよりも数歩先を歩く格好になる。
二メートルほど離れた距離を保ったまま、二人は遊歩道で立ち尽くしていた。

「ジュニョン?」
顔を覗き込んで来るシワンの目は揺れていた。
「困ったな」
「うん、何が?」
「おかしくなったって笑うと思う」
「笑わない。何?今日——ずっと変だよ。俺でよければ、聞くけど」
「話しても無駄だよ」
「何でそういう風に言うんだよ」



「 好きだ 」



シワンの唇が震えるのを、まるでスローモーションの映像を見るかのように鮮明に見た。
至近距離で見つめ合う。
其の顔の距離が、だんだんと近付いて。
額と額がぴたりと接して離れなくなる。

ジュニョンはシワンに近付いて頬を両手で多い額と額、鼻と鼻を触れ合わせた。
シワンの目が落ち着きなく動き、瞬きを何回もする様子を間近で見る。
そして其の赤い唇が震えながら、言葉を必死に選んで語ろうとしている様子を。

「映画観てて、ずっと考えてた」
「何を……?」
「キスしたくなるなあって思ってた」

けれど今、二人の唇は触れ合わない。

「…………」
「好きだよ。ちゃんと向き合いたいんだ」
「ちゃんと、って……」

「さっき言ってた『いつか』はどうして今じゃダメなんだ?」

拍手[13回]

女性が、森の中を彷徨っている。
何処までも続く深緑の森。天上から雨が降り出して、女性の白いワンピースが透ける。
緑の大海原で、女性は叫喚する。
其の声だけが劇場の中でこだまする。
画面は闇で塗りつぶされ、其の中で緑色だけが鮮やかに、けれども重苦しく光を放った。

限りない哀しみ。
限りない切望。
きっと監督は其の繊細な感情を描き出したかったのであろう、と思う。
女性は光を失った瞳で、ただ何も無い闇を見つめていた。
彼女は何処へ行くのだろう——
シワンは、考える。

一体どうして此の映画を見よう、と言い出したのだろう。
ふと隣の相手の反応が気になって目だけで左隣を窺うと、

こつん、

肩に、彼の頭が当たった。

——何だよ。
大事なシーンなのに。

けれども其の頭を押し返したりは出来なかった。
肩にかかる人の頭の重さに、スクリーンを見比べる。

——手を、伸ばしても良いんだろうか……。
こういうとき、どう対応すれば正解なのかが分からない。
きっと彼は、誰かとこんな状況になったのなら、頭を撫でたり、自分も額を触れ合わせるように出来るのかも知れない。
けれど、出来ない。
そんなことはしてはいけない気がして。

画面の中の女性は、寒さに震え、下着が透けるほど衣服を濡らしながらも尚、彷徨い歩いている。雨は彼女を傷付けるためだけに降り注いでいる。
こんな結末だと分かっていたなら、此の女性はこんな愛し方はしなかったんじゃないか、と思う。

——けれど、恋は落ちるもの。

シワンは長回しのシーンが終わるまで微動だにせずに座席に腰掛けていた。
女性が、がくん、と森の中で力なく崩れ落ちた。
脆弱な人間を深い森が飲み込んで行くように、映像の中で女性の姿が小さくなっていき、ひたすらに広がる森が映し出された。



視線。
気付いて向けると、スクリーンからの光の中で、二人の目が合った。
「なに」と、目だけで問うと、ジュニョンは眩しそうに細めた目でシワンを見つめるだけだった。
「重いよ」
声を出さないように唇を動かすと、目線が膝の方へ向けられ、はぐらかされた。尚も頭はシワンの方に凭れ掛からせたままで居た。
「重いって……」
嫌がる素振りを見せても、撥ね除けることはしない。其れは怠惰な攻防だった。

映画に集中出来ない、とシワンが窘めようしたとき。

ジュニョンが、急にシワンの顔を見つめた。
暗がりで、スクリーンからの光の中で見つめ合う。
無言——。
映画の台詞も聞こえない。音楽も聞こえない。映像も、何も見ていない。ただお互いの顔を見ているだけ。

そらせない、と思った瞬間だった。

不意に、呼ばれるように服を引っ張られて、

深紅の座席の背もたれに隠れてキスをしていた。



驚いて離れようとするのを制止するように、ジュニョンはシワンのシャツの前見頃の辺りを掴んで握りしめていた。強く掴まれてシャツには皺が寄り、身体が二人の間の肘掛けを隔てていても密着する。

目を閉じると微かに映画の台詞が聞こえて来る。けれど全ての感覚は唇の触感に集中していた。其れから、服越しに触れ合う体に。指先に。
舌で唇を撫でられると、鼻の奥がつんとするような、心臓の辺りが息苦しくなるような感覚に包まれる。

キス。触れ合うだけの、長いキス。
夢中——。

(やめよう、周りの人が変に思うから……)
シワンが頭を振って拒絶しても、ジュニョンの唇は追い掛けて来る。だんだん深くなって音を立てそうな唇に不安が募ってシワンはジュニョンの方に手をかける。
"関係無いよ"
と一瞬離れたジュニョンの唇が声を放たずに言葉の輪郭だけを辿った。

顔を離すとジュニョンの唇が湿っているのに気付いてしまう。
映画の場面が変わり、雪の降る大地が映し出されていて、画面からの白い光で辺りが照らされていた。

スクリーンの女性は、別の男性と向き合い、雪の中で誓いを立てている。

其れから二人はエンドロールが流れ始めるまで、指を絡ませたまま、何事も無かったかのようにスクリーンを観ていた。

拍手[10回]

「世界という大きな舞台で、韓国、そして韓国企業が活躍する時代。
 それを支える真のビジネスパートナーとして、お客様にとって唯一無二の存在になりたい。
 こうした思いに共感できる人に、ぜひ入社していただきたいと思っています。
 ——以上、ご清聴ありがとうございました」
そう言ってシニアエグゼクティブはスピーチを締めくくりマイクを置いた。

——其のカリスマに、圧倒された。

==================

「ムンさん!一体何処ほっつき歩いてるんですか!あと5分でミーティングですよ!?起きてないでしょう!?」
非常階段の踊り場で口許を隠しながらシワンは携帯電話で捲し立てた。
「ん……ああ、シワン……?」
——やっぱり!
電話口の気怠い声を聞いて、シワンは確信した。
「全く、先方カンカンですよ!いまは嫌味言われる勢いです」
「ケビンに任せといてよ……いるだろ?俺あと1時間……」
「キムさんは恋人連れてオーストラリア行ってますよ!エグゼクティブ同士の引継くらいしっかりやってください。大体彼は此の案件ノータッチでしょう?1時間の根拠は何ですか。1秒でも早く来てください」
「うー……分かったって、怒るなよ。すぐ行くよ……」
絶対来ないな、とシワンは確信した。
「絶対ですよ!タクシーぶっ飛ばして来てください」
「……あ」
「何です?」
「ジュニョンって呼べって言ってるのに、また変えた……」
「今どうでもいいでしょう!とにかく早く来てくださいね!」
乱暴に言って電話を切ると、踊り場から階段を駆け上がり、元のフロアに戻った。

==================

機械工学科の教授から紹介された製造業ではなく此の業種を選んだのは、企業説明会で彼を見たからだった。
業界の中でもかなりの若手で、企業のシニアエグゼクティブまで上り詰めた実力の持ち主。其のカリスマに一目惚れした。
最終面接の面接官として彼の顔を見たときは、緊張で頭が真っ白になった。考えていた志望動機や自己PRが全て吹っ飛んだ。
貴方と一緒に働いてみたいと思った、とまるで好きな人に告白する中学生の少女のように言うと、彼はくすくすと笑い、「照れるね」と茶化した。世間話のような面接が終わり、此れは落ちたなと思っていると、オフィスビルの自動ドアを出て数歩歩いた瞬間に携帯電話が鳴った。
「内々定おめでとう」
くぐもった声が携帯電話から聞こえた。其れは数分前目の前にしていた相手の声だった。

入社後アサインされたのは、彼と同じプロジェクトだった。
何時か一緒に働いてみたいと思っていたけれど、まさか其のチャンスが早々に来るなんて思ってもみなかった。
新人でもキャリア採用でも異例だと後から人事担当から聞いた。

「色々しんどいと思うけど、よろしくね」
初めてオフィスに足を踏み入れたとき、そう言って、握手を求めて来た彼。
夢だと思った。

==================

「寧ろ夢であってほしいよ!!!」
「うわっ何!?シワン君怖い」
「え、クァンヒ?」
喫茶コーナーで独り言を言ったつもりが、背後に立った人間に声をかけられた。
「そうよー。シワン君に会いたくて、フロア下りて来ちゃった☆」
そう言って目を細め口を開けて笑った。
コイツの台詞はばかばかしいけれど、何かを救うな、とシワンは思う。
「サボるなよ」
「冷たいなあ、で、何?ストレス?」
クァンヒはソファに腰掛けたシワンの横にどかっと座った。
「まあね」
「どう?ムンSEは」
其の名前を聞いた瞬間に、シワンは顔を曇らせた。
「は?超ダメ人間だよ。朝起きないしネクタイ曲がって香水の香りぷんぷんさせたまま会社来るしネクタイしてないとき胸はだけてるし女いっぱいいるみたいだし酒飲むととんでもないしヤンキーだし」
「……よ、よっぽど溜まってるんだね」
「今朝も散々だったんだ!朝イチでミーティング入ってたのに、寝坊だよ寝坊。有り得ないだろ?」
苦虫を噛み潰したような表情とは此のような顔を言うのだろうか、とクァンヒはシワンの顔を見て思った。
「まあ、エグゼクティブにはエグゼクティブの仕事があるからさあ……」
「仕事してないのに……」

内定者同士の飲み会で、どれだけ自分がシニアエグゼクティブの彼を尊敬しているかなどを語っていたのに、入社して暫く経った今となっては「あいつ」呼ばわりの態度に変わったシワン。
クァンヒはシワンがあの部署に配属された秘密を知っている。
というかシワン以外の誰もが、その秘密に気付いている。
ただ、シワンだけが、知らない。

==================

結局シニアエグゼクティブが出社したのはランチの時間だった。
「——遅い!はい此れ、午後からの資料です。14時から別のミーティングもありますから目通しておいてください」
彼がデスクに着いたのを見計らい、シワンはクリアファイルにまとめた資料を渡した。
「うん」
渡された資料をぱらぱらとめくり、其の合間にカフェで買って来たであろうアイスコーヒーのストローを口にした。
「ミーティングは取り敢えずリスケするよう調整しましたから、午後は寝ないでくださいね」
「……」
じっと顔を見つめられて、シワンは不思議に思った。
「……何か?」
「其の眼鏡似合わないね。今度一緒に買いに行こうか」
「……失礼します」

==================

チャラ男。典型的チャラ男。
どうせダサくて理系でガリ勉で女の子ともそんなに付き合ったことが無い自分のことを馬鹿にしてからかっているのだと思う。

彼は、格好良い。其れは認める。
女の人の影が絶えないのだって納得だ。
身長は高いし、顔は整っているし、スーツもきちんと着さえすれば様になる。
何より、あの若さでシニアエグゼクティブの立場で居る実力は、やはり並大抵ではない。
ただ、実態が。
ギャップが。

==================

「あれ、クァンヒヒョン、シワンヒョンは?」
夜の20時。江南地区にあるこじんまりとしたカフェバーの入口で待っていたテホンが、クァンヒが連れてやって来ると思っていた一人の不在に気付いて声をかけた。
「ん、未だ仕事掛かりそうって」
「秘書も大変だねえ」
テホンの隣に立ったヒチョルが笑った。

「でもあれでしょ?ムンSEのアシスタントって前女の子だったんでしょ?」
ヒチョルはナッツをがりがりと摘みながら、クァンヒに尋ねた。
「妊娠させたって」
「え、其れは話が大分盛られてる気がするけど、俺も居たけど辞めたって聞いた」
テホンもヒチョルの質問に重ねた。
「まあ、手は出しそうだよね。顔からして女好きのオーラ出てるし」
ヒチョルが笑うと、クァンヒが急に真剣な眼差しで言った。
「でも女運無いらしいよ」
「——で、今度は男?で新人で一番可愛い子が生贄になった訳だ」
テホンがそう言うと、隣に座っていたヒチョルが思い切り足を踏んだ。
「俺だって可愛い!」
「はいはいヒチョルも可愛いです」
「棒読み!」
「……まあ、意外と上手くやれてる気もするけどね……外からじゃわかんないか」
クァンヒは昼間のシワンの表情を思い出していた。

==================

残業中。
コンサルタントなんて、裁量労働で残業はデフォルトのようなものだ。周りもやれ「1日28時間働いた」だの「1ヶ月近く家に帰っていない」だのという話を聞く。
そんな日々なのに、今日は珍しく、シニアエグゼクティブとシワンの二人きり、だった。

今日中に資料をまとめて、明日の会議で朝一でリカバリーしないと。
エクセルの見積表と手元のスケジュール帳を何度も見比べながら、シワンは頭の回転をキープしようとしていた。
「はぁ」
静かなオフィスに、溜め息とキーボードを押下する音が響く。

視線を感じると、窓際に座った彼と目が合う。
「疲れた?息抜きも必要じゃない?」
飲みに行かないか、と見えないグラスを飲み干すふりをした。
「……行きません、というか誰かさんの所為で仕事が押したので行けません」
ズレた眼鏡のふちを持って角度を直しながら、シワンは顔を背けた。
「……腹減ったなあ」
「一人で食べれば良いでしょう。俺同期と約束してますし、いいです」

シワンはキーボードを動かしているのに、
彼の方からはマウスのクリック音しか聞こえない。

——?

シワンは席を立って、シニアエグゼクティブの席に向かった。

「……何グルメサイト見てるんですか。仕事してくださいよ」
「俺此の店行ってみたいと思ったんだよねー」
画面を見ていた彼は、シワンの腕を取って、目を見て、言った。
「1時間食って、戻って来よう。上司の誘いは断らないのがセオリーだ」

職権乱用。

==================

「大体ムンさんはいい加減過ぎますよ……」
「上司に向かって、言うねえ」
二人は近所の居酒屋に居た。シワンは焼酎を既に3杯開けており、シニアエグゼクティブよりも飲んでいた。
「今日も遅刻して来るし、この間なんてお腹痛いって言ってどっか行くし」
「あの社長しつこかったからなあ」
「だからって逃げないでくださいよ」
「聞いてもしょうがない愚痴は聞かない。ネガティブな感情論なんて聞いてたって仕方無いだろ」
「でも俺は聞きましたよ」
「それはご苦労様でした」
シワンは少し酔いが回ったかな、と思う。
眼鏡のレンズ越しに見る彼は、やはり整った顔をしている。
どんなにいい加減で、胡散臭くても、シニアエグゼクティブはシニアエグゼクティブなのだろうと思う。

「シワンって彼女居るの?」
「……何ですか急に」
「居る?」
「……居ないです」
「あ、やっぱり」
何か気分の悪い話題になりそうだ、と思っていると、目の前に手が伸びて来て、急に視界が変わった。
眼鏡を取られたのだと思った。
「あ、一応度は入ってるのか」
彼が自分の眼鏡をかけて、言った。
「ねえ此れ、無い方が良いよ」
「彼女の話関係あります?」
「無いよ。興味あったから聞いただけ」
シワンは眼鏡を取り戻そうと二人を隔てているテーブルの上に腹這いになって手を伸ばしたが、彼が自分の眼鏡をかけるから取り戻せなくなった。
身長差、リーチの差を実感する。
「ムンさんは居るんですか」
「ねームンさんって言うのやめてってば。皆下の名前で呼びあってるじゃん。俺らだって、シワンって呼んでるのに」
「はぐらかさないでくださいよ」
「名前で呼んでくれたら、教えてあげる」

「じゃあ——ジュニョンさん」

初めて呼んだ。
口にして。

「居ます」

あ。
居るんだ。
ちくちくちくちく。
ピンクッションに先っぽだけ縫い針を刺すような感覚。しかも大量の細い針を。

「——って言ったら、どうする?」

==================

どうする?
どうするんだろう?

==================

「別にどうもしないですけど」
シワンはそう言ってそっぽを向き、勢いで焼酎を飲んだ。
「何か会話テンポもたないなー。就活のときは、あーんなに可愛かったのに」
「は?」
シワンは予想外のことを言われて、動転した。
「え、覚えてるんですか?」
「覚えてるよ。人の顔と名前と話した内容は全部記憶してる」
急にそんなことを言われて、俯いた。

あの時代、ちょっと此の人のことが好きだったと思う。
何となく説明会に行って、此の人を見て、著作物やインタビューは全部読んだ。
単純に一人のファンになっていて、芸能人に恋をする女の子の気持ちだった。

というか、
本当は——。

「凄い可愛かった。リクルートスーツ着てても女子学生かと思った。こんなの子に一緒に働きたいですなんて言われたら、勿論OKでしょ」
「……」
「俺、あんとき惚れたもん」

は?

え?

「学生には分からなかったかも知れないけど、コンサルタントは、一緒に働きたい、って人としか働かないんだ。基本的には自分の脳味噌売ってりゃ良いんだし」
「え……」
それって。
「でも、面白いこと言うなあって。学生の思考だとも思ったけどね。志望動機で告白されたのは流石に初めてだったから面食らってさ。しかも好みのタイプ。で、人事に言ったの。あの子採用で俺のプロジェクトアサインしてねって」
それって?
「ごめんね、俺どっちもいける人なの」
気持ち悪くてごめんね、とシニアエグゼクティブ——ジュニョンは言った。

あ。
今言わなきゃ。

「ジュニョン、さん」
「何?俺失恋するの?」
「——多分しないと思います」

==================

エレベーターに乗り込むと、ジュニョンがオフィスのある9階を押した。

前を開けて着ていたウールのコートの前見頃を開けて、開いたスペースにシワンを引き寄せてすっぽりと抱き込む。
シワンは特に抵抗もせず、されるがままに身を預けている。
上昇していくエレベーターの重力を足元で僅かに感じていると、目を細めたジュニョンの顔が迫って来て、目を閉じる。
——キス、されてる。
唇に生温かい感触があった。
ジュニョンの吐く息を感じる。
唇の角度を何度も変えられて、キスをされていた。

9階へエレベーターが到着したことを知らせる電子音が響く。

ロングコートを二人で羽織るようにして、そそくさとオフィスを出た。

顔から火が出そう。
今自分が誰と何処に居て何をして何をしようとしているのか。

==================

押し倒されたのはシニアエグゼクティブのデスクの上だった。
広いデスクに背中を凭れさせ、ジュニョンのキスを受ける。
ジュニョンがよけた書類の中で、昼間手渡した自分の資料を見付けてしまい、此処がオフィスなのだと実感する。
「好き」
耳許で、低温で囁かれれば腰に響いて堪えられない。
シワンは腕をジュニョンの首に絡めて、もっと、と強請るように顔を近付けた。
「可愛い。口、開けてみて?」
言われた通りにすると、口の中に何かが侵入して来た。
舌だ、と気付くと。其れが自分の舌を捕らえようと暴れ回る。
女の子とも、こんなキスをしたことがなくて息が上がりそうになる。
床から離れた足が心許なくて、震える。

「キスもしたこと無いの?」
「悪い……ですか」
唇を離して、至近距離で目を見つめられながら言われると、瞳の焦点がジュニョンの美しい目にあって脳内に像を作った。

手が届かない人だったのに。
今は、こんなに近い。

「ううん。嬉しい」
そう言ってまたキスをしてくる。
はだけていたシャツのボタンをまた二つ多く開け、ジュニョンはきつくシワンを抱き締めた。
「好きだよ、シワン」
「俺もです、ジュニョンさん……」
「敬語やめよ?二人のときだけ」
「はい」
「あ、」
「あ、……うん……」
「もう一回言って」
耳たぶを甘噛みされる。
「好きだって言って」
「好きだ……ジュニョン」
「ありがと」



御礼にいっぱい愛してあげるねと、いっぱいとんでもないことをされた。



体を引っくり返され、後ろに指を入れられた。
それだけでも恥ずかしいのに、あろうことか前と後ろを同時に弄られて。
一回絶頂を見て。
其の後、ジュニョンを皮膚の下に受け入れた。

粘膜への刺激で喘いだ。

「あ、痛い……ジュニョン……」
「いや?でもごめん、もうちょっと我慢して」
「痛い……あ、あん!あっ……あ……痛…」
「ごめんね、本当はこうするつもりじゃなかったんだ」
「え……」
「キスだけって…思ってたのに……」
「ああん」
ジュニョンが動くたびに、体の中に浸食して来る水や異物の大きさを感じる。
涙が出て、何度も首を振って零れる涙を落とす。
視界が滲むけれど、見失いたくない。
「シワンがいけないんだよ……」
「…な……に……?」
「エロ過ぎ……もう、顔見てたら、ヤバい……」
最後は激しく貫かれて、ジュニョンの背中に指を立てて果てた。
「好きだ……」



==================

「ムンさん!一体何処ほっつき歩いてるんですか!あと10分でミーティングですよ!?」
非常階段の踊り場で口許を隠しながらシワンは携帯電話で捲し立てた。
「ヤる方が体力居るんだよ……お前は楽だったかも知れないけど……頼むから寝かせて……」
「それは自業自得でしょう!!とにかく早く来てくださいね!今日こそクライアントに怒られますよ!」
通話終了。

社内を駆け回るシワン。

「わー大変だねえ、シワンヒョン」
たまたま同じフロアに居合わせたヒチョルは、慌ただしく電話をかけまくるシワンを発見した。
「本人も自業自得だからじゃないかなあ……」
テホンはシワンの首筋にキスマークを発見していた。

拍手[16回]

ジュニョンの好きなこと。
嫌がる僕を見ること。



「欲求不満だ」

イベントが移動したホテルの部屋に入るや否や、ジュニョンは着込んでいたパーカーを脱いで、ベッドの下に放り投げながら言った。
中に着ていた白のタンクトップ一枚になり、途端に彼の腕や逞しい胸板が薄いオレンジ色の灯りの中で露になる。
「……やめてよ、そういう直接的なこと言うの」
恐らく先刻のイベントで四文字の言葉を口走った所為で、本人のネジが外れたのだと思う。打ち上げあたりからずっと、ジュニョンのテンションはおかしい。
「セックスしたい……」
酒も入って、完全に酔っ払っているジュニョンが、言いながらベッドに突っ伏した。

肩甲骨が、見えて。
「翼の名残」と言う話を思い出す。

シワンはもう片方のベッドの足元側にぎこちなく腰掛けていた。
飲む量をセーブしていたから、此の部屋で、自分だけが素面。
あとは全部ジュニョンの垂れ流す空気に引き摺られ、酔うように甘かった。

「シワン……」
「シャワー、先浴びるね」
シワンは、自分の名前を呼ぶ声を無視して、顔も背けてシャワールームへ向かった。

灯りを付けると広い鏡に自分の顔が映った。
頬が紅潮し、酒酔いを僅かに感じる。
想いを巡らすのは、同室の彼のこと。
イベント中、ファンを見る目が、だらしなくて。
其れに嫉妬する自分がまるで醜い女のようで。
ジュニョンと一緒に居ると、彼のことも、自分のことも嫌いになりそうになる。

こんなことを考えるなんて馬鹿みたいだ、とシワンは蛇口を捻った。

熱い——熱湯のような湯が頭の上から降って来る。
其れを頭、顔に浴び、頭をクリアにする。
一瞬、さっき見た肩甲骨を思い出して、体に付いた雨を振り払う犬のように、頭を振った。

髪を吹きながら部屋に戻ると、ジュニョンは肩の出た服で突っ伏したままでいた。
「上がったよ」
無言の背中に声をかけても、返事は無い。
顔を右側を下にしてベッドに触れさせ、手は頭の前の空間に伸ばされている。
「風邪、引くよ?」
いずれにせよ少し肌寒く空調のきいている部屋でこんな格好で寝たら体調を崩すだろう、とシワンはジュニョンのベッドに近付いた。

その瞬間腕を取られて、
気付いたら寝技に持ち込まれていた。

「無視すんなよ」
「……ジュニョン……」
「しよ?俺はしたい」
まだ酔っているのかなあ、と思いながら、舌を受け入れる。

ほら、裏腹。
明け透けな物言いは嫌いなのに、ジュニョンこうされるのは嫌いじゃない。
寧ろ、好き——。
「うん、いいよ……」
そう言った瞬間に固くなった舌を口内に捩じ込まれ、バスローブの下に滑らされた指先で左胸の乳首を摘まみ上げられた。
「……ん……」
声とも呼吸ともつかない音が唇から零れて、その後で深い呼吸をする。息をする合間にまた口付けられ、早急にバスローブがはだけられる。
ジュニョンは打ち上げのときと変わらない格好で、ジーンズを履いていたが其の布越しでも分かる昂りをシワンの腰に押し付けてくる。
固い、性器が当たる。

「本当、頭ん中これのことしかなかったよ」
酒臭いキスの合間にジュニョンが呟く。
シワンは未だ彼が服を着込んでいるのに気付いて、服の裾に両手をかけて下から上へ引き上げた。最後はジュニョンが自分で万歳をする格好になり、其のままシワンに脱がされた。
脱いだタンクトップを床に落とすと、布ズレの音がした。
まるで其れが合図のように、ジュニョンはシワンに覆い被さった。

まず、唇。顎。
顔を話して乳首へ。舌先を見せつけるように突き出してシワンの顔を見ながら数回舐めると、顔をシワンの胸の上に載せたまま、右手でシワンの中心に触れた。
下着の中ですでに熱を帯びて濡れそぼちつつあった其れを、わざと焦らしながらシワンの反応を窺って手を這わせた。
「もう、こんなになってる」
「んんっ」
下着の上から握られると、声がはしたなく出た。ジュニョンの少し垂れた目が更に細められ、楽しそうに口許が歪められる。
「エロいなあ」
楽しそうに言われて、腰が疼く。顔を見ながら下を触られて、シワンは恥ずかしさと快感に身体と神経がばらばらになる感覚を味わった。
「ジュニョン……も、やだ、ちゃんと……」
「ちゃんと……何?」
「触って……」
「うん。じゃあ、自分で脱いで」
信じられない台詞を言われて、シワンが顔を動かすと、ジュニョンは手を止めたまま微動だにしないことを決め込んで、シワンを上から見下ろしていた。
「ほら」
促されて、自分で下着に手をかける。

見られている。

それを実感しながら脱ぐのが、こんなにも恥ずかしいと思わなかった。脱ぐのは一瞬なのに、凄く長い時間のように思えて、手が震えた。
両足を抜き取って、床へ落とすと露になった腰が冷たいシーツにあたって冷える。
全裸になったシワンの脚に、まだジーンズを履いたままのジュニョンの脚が絡められた。
顔を近付けて、もう一度深く長いキスをする。キスの合間に歯がぶつかって音を立てた。
「ゴム忘れた」
「良いよ、無しで……」
シワンはジュニョンの肩を押し、そのまま自分が上になるように体勢を入れ替えた。
ジュニョンのジーンズのジッパーを引き下げて、そのままジーンズを脱がせる。ジュニョンが手伝うように脚を上げて脱ぐと、下着の上からでも分かるものがある。
シワンはボクサーパンツの縁に手を掛け、其のまま中にあるものを取り出して口に含んだ。
「あん……」
今度はジュニョンが甘い声を出す。
先端にキスをして、まずはその周りをぺろりと舐めると、下に、下に下りて行く。顔を埋めて左右の袋を口に含むとジュニョンの腰と太腿が動いて快感を伝える。
夢中で、舐めていると突然頭を強く押さえられ、無理矢理口の中に其れを捩じ込まれた。
吐き気。
異物感。
「もっとちゃんと奥まで入れさせて?」
ジュニョンは自分の腰にシワンの頭を押さえつけ、無理矢理に口を上下に動かさせた。シワンは息苦しさで胸が痛くなる。反射的に涙が出てしまう。
「ほら、ちゃんと舐めて。でないと痛いよ?」
口の中で更に固さと質量の増して行く其れに、微かな喜びと苦しみを同時に感じる。

もっと優しくして欲しいような。
此のまま苦しんでいたいような。
狭間の感覚に、気が狂いそうになる。

「乗って」
ジュニョンはシワンの顔を上げさせると、そう促した。
二人で手を繋ぐように両手を取り合って、シワンは導かれるままジュニョンに馬乗りになる。彼の腰を両脚で跨いだ。
「自分で入れて」
ジュニョンは少し背を起こした格好でクッションに背を凭れさせたままでいる。困った顔が見たいだけなのだ。繋いでいた手を離して、シワンは自分の後ろに持って行く。一瞬だけジュニョンの先端に指を絡めて、其処で捕らえた蜜を潤滑剤代わりにして後ろを解して行った。
時折、ジュニョンを見つめる。
ジュニョンの余りにも性的な光を帯びた瞳に、見つめられるだけで何度も気分は変な方向へ行ってしまう。

彼が、セックス、と言ってしまった「あのとき」も。
いやらしい想像をして一番興奮していたのは、俺——。
欲求不満なのは誰?
セックスしたかったのは——誰?

「あ!」
突然後ろに図太い衝撃があって、シワンは目の前に火花が散ったような感覚になった。シワンの腰にはジュニョンの手が回され、無理矢理狭い場所に其れを捩じ込まれていた。
「痛……無理……」
「我慢して」
「やだ、痛いよ」
腕の力は抜けたのに、体は硬直していた。まだ慣らされていない場所に、大蛇が侵入して来る。それは凶暴に、シワンの体を犯す。
「気持ち良い……」
ジュニョンは自分の一番良いポイントを見付けて、粘膜の擦れ合う感覚を味わっていた。
「あ、ああ……」
乱暴にされても、だんだんと馴染んでくる其の感覚は徐々にシワンの体にも広がり、素直に其の快感に身を任せた。下から突き上げられる感覚に、後ろだけで達しそうになる。
「凄い……中、気持ち良いよ」
ジュニョンはシワンの両手に指を絡め、もう一度繋ぐ格好を取った。シワンが強く手を握り込み、自ら腰を動かした。
「やらしい……」
「ジュニョンが、そうさせるんだ。あ、ああ……凄い、深い」
首を振って快感を伝えると、ジュニョンも下から突き上げて来て、頭の芯が痺れるくらい気持ち良くさせてくれる。手を繋ぎ合っていると、どんなに激しいことをされても、大切にされているような感覚になる。
「シワン……俺、今日だめそう、抑えらんないみたい」
そう言われてシワンが目を見開くと手を強く引かれて、首筋を舌の面積をいっぱいに使って舐められ、甘噛みされ、手を解かれて腰を掴まれて激しく抜き挿しされた。
お互いの全身に快感が広がって、

シワンの、中に。
ジュニョンの腹の上に。

散らして、果てた。



「……あ、はあ」
息が切れるほどの行為に溺れ、二人が二人共100mを全力疾走した程の運動量を感じていた。
「あー……すっきり」
「下品」
「でも、シワンもでしょ?」
「何が」
「欲求不満だったんじゃない?」

「…………馬鹿」

拍手[22回]

「何処か、誰も知らない場所に行きたい」
「じゃあ、逃げようか」

迫り来る夕闇から逃げるように、ジュニョンとシワンの乗った車は、太陽の沈む方角へ疾走して行った。

二人は逃げる。
時速200kmで逆走する二人の少女のように。
二人は逃げる。
鳴り止まないサイレンを聞きながら。

二人が行き着いたのは、空港のそばにある淋しい海岸だった。
夜の海辺は、人工的に整備された堤防と真っ黒な海とアスファルトの道路が存在するばかりで、無機質な空間に思えた。
海も見えず、天上には星も月も見えない。
街灯がぽつりぽつりとあるだけで、光もまばらだった。

運転席に座ったジュニョンが、ハンドルに腕を乗せ、その上に顎を乗せた。
横目で、助手席に座った相手を流し見る。
そうして、顔を傾けて、
「外——出る?」
と聞いた。

二人を捕まえようとする何もかもから逃げて、やっと二人ぼっちになる。
そんな——夜。

ふっと車の照明が消えた。一気に暗くなった空間で、シワンの青白い顔の肌が街灯からの光で斜めに照らされる。
そこに浮かび上がる、赤色の唇。
二人を捕まえるのは、お互いだけであってほしい、と思う。

「ううん……此処にいる」

シワンが、ジュニョンの頭を両手で引き寄せた。
性欲の匂いのするキスを、ひとつ。

シートとシートの間に微妙な空間があって、身体が完全にくっつかないのがもどかしい。
それでも、身を乗り出して貪るように唇を合わせると、"こっそり"なんて言葉では片付かないくらいの想いが込み上げて来た。
ジュニョンが仕掛けて、シワンを背もたれに押し付けると肩を掴んでキスをした。
唇をついばんで、遠慮なく舌をねじ込む。
「好きだよ」
薄目を開けて見たジュニョンは、暗い闇の中で確かな質感を持って、シワンに迫っていた。

赤い髪。黒い髪。逞しい体。華奢な体。二人の肌。二人の唇。指、視線、吐息。
色んなものがもつれあってほどけなくなって、一つになる瞬間を待ちわびている。

「ジュニョン」
「うん」
「好きだよ」

ジュニョンの手や体がだんだん下に下がって行き、ジーンズの上から芯をゆっくりと形をなぞるように触れられれば、期待で喉が上下した。少し冷えた右手が、Tシャツの裾から入り込んで来て、左手は片手で、ジーンズの前を開けようとしている。
何をされるのか、が分かる分、期待と戸惑いで体が動かなくなったシワンは、両手を座席の両端に付いて、崩れそうになる体を支える。
ジッパーが下ろされて、下着の中に手を入れられると、声が漏れた。
「あ」
「固くなってる」
「言わないで」
恥ずかしくて、顔を背ける。
運転席から体を斜めにしたジュニョンが、自分の脚の付け根に顔を埋めている。
顔を背けると、今度は街灯の光が嫌に明るく、時折通る車のヘッドライトやテールランプに怯える。
車内には、当然自分たちしか居なくて。酸素も、二酸化炭素も、全部自分たちのものだった。
「可愛い」
ちゅ、とジュニョンが性器の形を指でなぞってから裏側にキスをすると、シワンは甲高い声で反応した。
「……やっ……」
「嫌……じゃない、でしょ?」
「喋んないで……」
文字通り、あっと言う間に飲み込まれ、舌先、口の中、全部で翻弄される。丁寧に舐められ、手と口で愛撫され、時折口に含んだまま目線を投げかけられれば、その光景の刺激は味覚以外の四つの感覚に直接的に訴えかけて来た。

ジュニョンの赤い頭が上下して、其れを見るのが酷くリアルだった。

「あ、も……いいよ……」
髪の毛に指を絡ませ、慌てて制止しようとするも、更に酷く追い上げられた。
「あっ……嫌……ダメ、ほんとダメ、放して」
「飲んであげる」
その台詞の卑猥さに反応して、更に強くジュニョンの頭を引っ張ってみたが、腰を押さえつけられて更に深く吸われる。
「やめて……」
目が合う。
ジュニョンは、舌を出して見せた後、開いたままの目を伏せ、わざと音を立てて吸い、もう一度シワンの目を見て、搾り取るように強く吸った。

——確信犯。

ジュニョンの喉仏が上下するのを、涙の流れる目の端で見た。

やめて、と言っても、いつも彼は飲み込んでしまう。
汚くて、穢らわしくて、でも、大嫌いで大好き。
いつも其の後にキスを遠慮されるのが気になってしまう。
確かに、其の唇に触れるのは、躊躇いが無いと言ったら嘘になるけれど。

ジュニョンの頭を引き寄せてキスをする。
最初はやはり少し戸惑われるから、自分から舌を絡めて、彼を誘うようなキスをする。

こんな場所で何をやっているんだろう。
でも今は目の前の相手しか見えない。

逃げるように辿り着いた場所で、こっそりとした遊びに二人で夢中になる。

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秘密がある。
でも君には伝えない。



赤い月をずっと眺めていた。
月が赤銅色に変化するのは、地球が太陽の光を遮り、赤い光だけが地球の大気で屈折し月へ届くためだという。
月の高度が低いのだと思う。もうすぐ、夜明けがやってきてしまう。
そっと視界が滲んで、瞬きを何回かする。

テレビでも観るか……

シワンはベッドに腹這いになり、テレビのスイッチを操作した。
時間が深夜だった為、モノクロの洋画か、通信販売、それから顔も知らないコメディアン達のコント位しかラインナップが無かった。
何回かチャンネルを回した後、洋画を観るとも無しに観る。

「何観てるの?」
シャワーを浴びたジュニョンが、シワンの後ろ姿に声をかけた。
「分かんない。洋物の映画」
「ふうん」
同じシャンプーの匂い。部屋に漂う風呂上がりの暖気と湿気。
テレビの中で、男女が何か口喧嘩をしている。



宿舎に帰りたくない、とシワンは言った。

飲みに行こうと誘い居酒屋で彼の話を聞こうとしたが、彼は酒をしこたま飲んでしまい、本音を吐き出す前に胃袋に詰め込んだものを全部戻してしまった。



「気分はどう?落ち着いた?」
「うん……何かごめんね……」
自分の方が年上なのに、という顔をする。
ジュニョンは当然のようにシワンの横の空いたスペースへ腹這いになった。シワンの横のスプリングが一度沈み軋む音を立てる。二人、同じバスローブ、同じ体勢でテレビのモニターを観た。

映画は場面が転換し、男女のベッドシーンになっていた。
白人と思われる女性が、男性に組み敷かれていた。

「あんまり美人じゃないね」
ジュニョンが画面の女性がアップになった際に言う。
「そ……そうかな……」
シワンは少しジュニョンから体を離しながら画面を見るふりをした。
「胸も小さいし。男も格好良くないしさ」
「そんなこと無いんじゃない……時代もあるだろうし」

意識してしまう。
テレビの映像。
隣にジュニョンが居るということ。

「あるよ。だってこの女優より」

——。
言いかけて、やめた。
三文オペラの安っぽい台詞だと思った。

冗談めかして、シワンが口に出してみる。
「『俺の方が』?」

「うん、ヒョンのが美人」
答えは返ってきた。

それから、徐にジュニョンは顔を近付けた。
唇が触れそうなくらいの至近距離で見つめられる。
逃げられないと思った。
見つめあったまま、無言になる。
数秒間の沈黙。
永遠のような沈黙。

「——なんてね、冗談だよ」
ジュニョンが近付けた顔を離して、俯いて笑い、ベッドから降りた。

——冗談?



ジュニョンが洗面所へ行った後ろ姿を見ながら、シワンは忘れていた呼吸をした。
渇いた喉から吐き出された、まだ酒臭い息に自分でもぞっとする。
飲み過ぎたんだ。
突っ伏したシーツから顔を動かすと、赤い月がますます低くなっていることに気付く。
頭痛がやまない。なのに思考が驚くくらいクリアだ。
『冗談だ』と言われたときに感じた痛覚は、決して頭痛の所為ではなかった。
その由来を、自分は知っている。
退屈な映画を、消した。
部屋は無音になった。

ジュニョンが洗面所から戻ると、シワンがベッドに突っ伏していた。
細い腕、細い脚、華奢な体がベッドに投げ出されている。
「ヒョン?寝ちゃった?」
問い掛けても返答が無い。
「襲うよ」
返答は、無い。
ジュニョンは一度首をひねって、ベッドサイドの椅子に座った。
空寝だということは何となく分かっていた。数分前に自分がかけた揺さぶりの所為だと。
「寝てないでしょ?」

「——冗談って」
シーツに押し当てた唇から声が漏れた。
「どこからが冗談?」
ベッドに両手を付き、上半身だけを反らしてシワンが起き上がる。
バスローブを羽織っただけの胸元が、裾を踏んで起き上がった為にはだけ、肌が露になる。

「ジュニョン…………したい……」
逡巡して、それでも最後ははっきりと告げた。

許されないことだと言われても、
そしてそれが誰かを裏切り、傷付けることだとしても。
それでも。
体が、心が、求めていると。



体を味わいながら、ジュニョンは思う。
最初の男になりたかった、と。

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深い海の底みたいだ。

薄暗い部屋で、ベッドに腰掛けたまま、シワンは思う。
窓の無い部屋は、朝も昼も夜も無い深海のようだと思う。
この部屋の天井が少し高いせいもあるのかもしれない。
だから尚更、暗い海の下で二人だけになった気になるんだよ。

背中の後ろで眠っている愛しい人を振り返る。ジュニョンは横向きになって、左頬をシーツに押し付ける格好で寝ている。左手は顔の傍のシーツをつまむ格好で、布地をたぐり寄せていた。
髪を撫でたくなり、手を伸ばしかけて、躊躇う。
触れちゃいけない、気がした。
また背を向けて俯く。
部屋の中の音響はオフにしており、照明器具も全て消してしまっているため、薄暗い部屋の中にはジュニョンの規則正しい寝息が聞こえるだけ。分厚い壁ばかりが目に入る部屋だと思う。
肘を膝にくっつけ、両手を組んでシワンはうなだれた。

「シワン?」
布ずれの音がして、背後から声をかけられた。
「眠れないの?」
はっと顔を上げるて振り向くと、ジュニョンが眠っている格好のまま目線だけをこちらに向けていた。
「あ、ううん……ちょっとぼうっとしてただけ」
「そう?」
ジュニョンが体を起こし、ベッドを這って、シワンを背中から抱き締めた。
何も身につけていない肌同士が触れ合う。自分の顔の前に回された腕。自分も手を回しても良いような気がして、躊躇いがちにその腕に左右の手を触れ合わせる。
髪に口づけられる感覚があって、そのまま唇が首の後ろ、背中、肩、脇、と流れて行く。
最後に彼が少し体勢を変えてシーツに膝立ちになり、後ろから自分の顔を抱え込んで、深く濃厚なキスをした。
背中に当たる性器の猛々しい感触に少し怯みながら、シワンはキスに応えて舌をのばした。

この時間が続くのなら、この海でずっと魚のままで沈んでいたい。

体を翻され、シーツを這い回る。
ベッドはさながら海底の白い砂。
彼に何かをされるたびに、シーツを掴んで、喘いだ。
「手」
指摘されるまで、ずっとジュニョンの肌に触れられなかった。
胸に手を伸ばすと、鼓動が掌に伝わる。彼が自分に欲情していることが嬉しい。胸から滑らせた手をジュニョンの肩にかけ、指先に力を込めて自分に引き寄せる。ジュニョンはそれに導かれ、体の距離を縮めてシワンにのしかかって抱き締める格好になる。

でも、こうして体を重ねていても。
決してひとつにはなれない。
お互いの肌の皮に境界線があって、体の何処を触れ合わせても、繋げ合わせても、
永遠にひとつにはなれない。

抱き締められながら、そんなことを考えてしまう自分は冷静だし、没頭出来ていないのかもしれない。
でも考えずにはいられない。
絶頂に達したいような、達したくないような感覚に襲われる。

ジュニョンは、2回目だからなのか無口だった。
シワンの体に指を滑らせ、口元にキスをして、追い上げる。
何か言葉を発してほしいような気もしたが、軽薄な口説き文句を言わないための彼なりの配慮なのかと思う。
無言で顔を見つめられながら、後ろに指を入れられたときは、流石に官能的過ぎて自分が喘ぐ声が激しくなった。
それでも何も言葉が無いまま、後ろに入れられているものの質量が増して来て、背筋に何とも言えない感覚が走る。小声で名前を読んでも、訴える声はキスで奪われてしまう。おかしくなりそうだ——。そう思って意識がぐらぐらしていたら、ぐい、と自分の腰に彼の腰を押し付けられた。

「あ…ああ……」
体の奥で質量を持ったものが動いているのが分かる。ジュニョンは相変わらず無口で、「手、回して」「力抜いて」くらいしか言ってくれない。ただ、激しく打ち付けられる腰と、ずっと観察するように観ているその視線に怯んで、シワンも言葉を発せられなかった。
二人とも無口で、甘い言葉なんて一つもなく。
シワンは腰を両手で掴まれ大きく揺さぶられたときに、限界を感じて首を振った。
そのとき、シーツを掴んでいた右手にジュニョンの左手が、左手に彼の右手が重ねられ、指を絡められた。
「ジュニョン……名前、呼んで……」
声が聞きたい。シワンは言いながら握られた指を強く握り返した。
「シワン」
「……うん」
「シワン」
そのまま激しく揺さぶられて、ジュニョンが自分の中に流れ込んできたのを生々しく感じた。



いつか、抱き合ってどろどろになって、お前と同化してしまいたい。
それが出来ないなら、
ずっとこの海の底で、朝も夜も来ない世界で生きていきたい。



そういうことを夢見るくらい。
ジュニョン、お前が好きだよ。

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はまうず美恵
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当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
某帝国の二次創作同人を取り扱っています。

女性向け表現を含むサイトですので、興味のない方意味のわからない方は入室をご遠慮下さい。

尚、二次創作に関しては各関係者をはじめ実在する国家、人物、団体、歴史、宗教等とは一切関係ありません。
また 、これら侮辱する意図もありません。
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