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当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
ふわふわのパンケーキの端っこを、ナイフとフォークで細長く切り取る。
其れを一口だけ口に入れて、ごちそうさまをした。

オッパの作ってくれるご飯は大好き。でも今朝はごめんね、喉を通ってくれないの。手も、唇も動くのに、飲み込む力が出ないの。あたしはミルクをちょっとだけ飲んで、部屋に戻ろうとした。
「ちょっと待った」
同じテーブルに居たシクちゃんが椅子を引いた音がした。歩いて行くあたしの手を掴んでシクちゃんがあたしを引き止める。
「なあに?」
「手出して」
「?」
言われるまま、右手の掌をシクちゃんに向けて出してみた。シクちゃんは着ていたズボンのポケットに手を入れて、取り出した物をふわっと掴む格好で右手を出した。あたしの掌に、シクちゃんの左手が添えられて、其処にシクちゃんが右手の中に持ってるものを渡してくれた。
「はい」
「?」
あたしの掌には、何も無かった。
「『きぼう』だよ」
ひとひらの、希望。
シクちゃんが穏やかに笑った。其の笑顔は、あたしの心の中にあるわだかまりを全部無意味なものに変える力があって。
あたしはなんにもない掌を、ぎゅ、と握った。
「ありがとう。貰ってくね」
そう言って握った拳を自分のブレザーのポケットに入れた。
「送ってこうか?」
「ううん、大丈夫。ありがと」



空が高いなあ――。
外に出たあたしは空を見た。初めて此の街に来た時も今日みたいな風が吹いてた。太陽が眩しくて、久しぶりに施設の外の限りない世界を見たんだ。
何でそんなこと思い出したんだろう。
あたしは、もうポケットに入れた両手を握り締める。最後に散るための花びらが舞う風の中、あたしは歩き出した。緩やかな坂道を上り始める。

教室はいつもみたいにざわめいてた。
転校生が、教室の開け放たれたドアから入って来るあたしに気付いて包帯の巻かれた手を右手を振った。
「……」
言葉が見つからない。あたしはポケットに手を隠したまま、転校生を見た。
――大丈夫だよ、おいで。
唇は動いていなかったのに、そう呼ぶ声が聞こえた気がした。あたしは頬や頭に同級生のちら見する視線を感じながら、転校生の傍へ机の合間を擦り抜けるようにして歩いた。
「おはよ」
人の良さそうな笑みだった。何時かあたしが凍り付かせた笑みが、今は柔らかく笑ってた。
「……手」
あたしが、訳分かんなくなってたときに、やったの?
「ああこれ?何とも無いよ」
転校生はガーゼの上をそっと撫でてから、あたしの目を見て言った。あたしはじっと其の腕を見つめる。ガーゼでぐるぐるの腕を。
ずっと黙ってそうしてたあたしに、転校生は苦笑して合図をした。

屋上に続く階段の最後の段のところに並んで座った。
ねえ、だからどうして何も言わないの。
ケビンオッパも、シクちゃんも、転校生も。
どうして皆、あたしが悪いのに、何も言わないの。
「ねえ」
包帯の巻かれた右手に、触れた。ガーゼが指先に当たる。転校生が、急に動いたあたしの手に驚いたみたいだった。
「どうして」
転校生の綺麗な目があった。くっきりとした二重の切れ込みの間に、吸い込まれそうになる。授業の始まりを告げるチャイムの音が響いた。その音で、壁やあたしたちの座ってる廊下が微かに振動する。授業の前に居た二人が授業が始まる前に居なくなった、なんて言ったらまた同級生は噂をするのだろう。
其れでもいい、と思った。
「何で、一緒に居てくれるの」
チャイムが鳴り終わって、残響が消えるか消えないかのところで、転校生が言った。

「……好きだから」

其れは、凄く小さな声で。ぼそっと早口で言った言葉だったけれど。
確かに、
確かにあたしの耳に届いた。

「初めて此の街に来た時、君を見たんだ。猫の写真を撮ってた。ときどき通る家族連れを物凄い目で見たりして、でも凄く寂しそうだったから」
転校生の瞳の中にあたしの、あたしの瞳の中に転校生の像がある。
「ほっとけなかったんだよ」
あたしは自分が耳まで真っ赤になってるんじゃないかと思った。ばくばくと心臓の音が聞こえる気がして、照れ臭くて逃げ出したくなる。どういう顔をすれば良いのか、本当に分からない。
「好きだ」
オッパや、シクちゃんから言われる『好き』とは違う『好き』。

ガーゼに触れてたあたしの指を掴んで、転校生が其のまま指にくちづけた。
転校生の伏せた睫毛と、下から見上げる目線に、あたしは完全にやられて、「うん」と肯定的に首を振った。






「——本当に良いの?」
鋏を持ったシクちゃんが、あたしの髪を指でとかしながら言った。
「良い、ばっさり行って」
庭の真ん中に椅子を置いて、芝生の上で、晴れた空の下ケープをかぶったあたしが居る。背後にシクちゃんの気配を感じる。大きな姿見を両手で支えてるオッパがあたしの目の前に居た。姿見に、あたしとシクちゃんが映ってる。
春の緩やかな風が吹いてる。
「うわあ、緊張する」
シクちゃんはさっきから銀色のハサミを持ったままああだこうだ言って、あたしよりもずっと緊張してるみたいだった。
「早く」
あたしは鏡越しに、シクちゃんを急かす。
「お前なら出来るよ」
「ほらオッパも応援してくれてることだし、こういうのは一気にやった方が良いのよ」
「うん……じゃあ」
チョキ、チョキ、チョキ……
長い髪が地面に落ちて行く。時折ふわっと風に飛ばされて、少し不気味だった。あとで庭の手入れをするから、そのときにまとめて片付けよう、と思う。シクちゃんは真剣にあたしの髪を切り落として行った。
理髪師じゃないのに、割と上手く出来た、と思う。プロが見たら細かいところががたがたなのかもしれないけど、少なくとも正面から見る限りは綺麗だった。
あたしは小さく、短くなった髪を撫でて、さよならと呟いた。



制服に着替える。
あの頃から、三度目の春が来ていた。

ピンポーン……

「あ、来た!」
玄関に駆け出して行き、ドアを開けるとがっしりとあの頃よりも更に男らしくなった体と見慣れた笑顔があった。
「おはよう」
「おはよ」
お互い挨拶をしたのを見計らったように、猫が足元でにゃあと鳴いた。
「猫もおはよう。さ、行こ」
「うん」

「定期持った?携帯は?生徒手帳は?」
出掛けようとすると、ケビンが声をかけてくる。
「大丈夫だってば、心配性だな」
オンマのように心配して来る優しい声は、くすぐったい。
「ケビンさんおはようございます」
「おはよう。気を付けろよ。二人共入学初日早々遅れたりフケたりすんなよ」
「大丈夫ですよ、ね」
ケビンに向けられた笑顔が、こっちを向いてウィンクをした。
玄関から歩いて、一人一台の自転車に乗る。駅まで、数分。
其処から
同じ電車で、
同じ道を通って、
同じ学校に、
同じ制服で、
通う。
桜並木のトンネルを走ると、白い花びらがきらきらと舞っていた。花粉が飛んでいるのを感じて、肌がほんの少しちくちくする。花の芽の息吹を感じる。
「へくしっ」
くしゃみが出た。
「——凄い声」
「るさいなあ。変声期終わったらこうなってたんだよ」
余りに盛大なくしゃみに自分でもちょっと照れ臭くなって、信号待ちの此の瞬間に高い空を見上げる。花びらが舞っている。光の中で、きらめいている。
新しい日々の、始まり。





ケビンとヒョンシク、二人だけが残った部屋。ヒョンシクの隣に、二人の見送りを終えたケビンがどかっと座った。ソファの背もたれに両手をかけ、天井を仰ぐ。シーリングがくるくると回って、僅かな物音を立てている。ケビンは目を閉じた。
「寂しい?」
本を読んでいたヒョンシクが、片方の眉を上げて尋ねる。
「そりゃ、ちょっとは」
「娘を取られた父親の気分になったケビンヒョンであった」
本から目を離さずにヒョンシクが呟く。
「おい変なナレーション入れるな」
ぱちりと目を開けたケビンは背もたれから体を起こしながらヒョンシクの方を向いた。
「そうじゃないの?」
「かもしれない」
「ねえ、今度4人で遊園地行こうよ。夢の国が良いなあ。かぶり物かぶって、アトラクション待ってる間に誰がジュース買うかじゃんけんしたりしてさ。夜は遊園地の中のホテルに泊まるの」
「……お前が行きたいだけだろ」
ケビンは体を起こして、ヒョンシクの顎を捉えた。

「今度下見に行くか?」
ヒョンシクがにっこりと笑った。



Fin

拍手[16回]

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事件が起こったのは、数週間後のことだった。

其の日、一年生の頃から嫌がらせをしてきた男子が教室に居た。
皆、腫れ物にでも触れるように接して、誰も「久しぶり」とか「おはよう」なんて声はかけなかった。勿論あたしも声はかけなかったけど、『誰もかけなかった』ことを見てるくらいは関心があったのかもしれない。
転校生も特には声をかけなかった。
前よりも色白になった皮膚。ひどい目の下のくまがあった。
異様——
そんな言葉を思い付いて、あたしは目を逸らした。逸らした頬のあたりに視線を感じる。嫌がらせを受けていたときよりも、ずっと、遥かに悪意のある視線だった。
——気味が、悪いな。
最近来なかった同級生が来ただけなのに、あたしは尋常じゃない気持ち悪さを感じてた。一日中、粘着質の視線を感じて授業を受けて、教室を行ったり来たりして、周囲と会話してた。監視されてるような、つきまとわれてるような、視線。

事件は、起こった。

あたしが帰ろうとするとき、其の男子はあたしの前に急に立ちはだかった。無視をして横を通ろうとすると足を出された。
古典的な仕草だったのにあたしは避けきれず、其の足に躓いて体のバランスを崩す。あ、と思った時にはカバンを持っていた手の力が、自分の体を支えようと咄嗟に抜けてた。其のバッグを勢い良く奪われ、あたしはよろけた背中を突き飛ばされて床に倒されてた。
「ちょっと、何……」
男子はバッグのチャックを開けると、中のものをぶちまけるようにバッグを投げた。
教科書、ノート、ペンケースが飛び出て床に落ちる中、ひときわ大きな物が床に落ちてごつんという音がした。きゃあ、と誰かが言う声がした。他の男子もびっくりした顔で出来事を見てた。
あたしは一気に頭に血が上った。
なのに男子は更に其の落ちたものを拾い上げて、床に叩き付けた。上から踏みつけて、其れから、あたしを、じっと見た。
「きもいんだよ、お前」
男子の足元で、ブラウン色の紐が踏みつけられて、上履きの跡が付けられてく。
汚くなる、合皮。踏みつけられる、金色の猫。
「大体お前の本当の親なんて死んでて、今はホモと一緒に暮らしてんだろ?気持ち悪い。男同士とかめちゃくちゃ気持ち悪いんだよ」
——!

其れからのことは、良く覚えてない。

あたしは男子に掴み掛かり頭を押さえ付けて髪を掴んで、落とされて割れたカメラのレンズに男子の顔を押し付けた気がする。
男子が何か言った気がするけど、あたしは奇声を発して無視した気がする。あたし自身も仕返しを食らったのだと思うし体にそういう傷は残ってたけど、あたしは自分の体の痛みなんて、これっぽっちも感じてなかったんだろう。
ペンケースから散らばってたシャープペンシルを掴んで、書く方を下に向けて目を目掛けて手を振りかざした。

潰してやる!

そう思ったあたしの手が振り下ろされることはなかった。



生徒指導室に連行されたあたしは、壊れて電源の入らなくなったカメラを膝に抱えてた。夕暮れ、部活動らしき声が校庭から響いて来る。陸上部かな。担任、陸上部の顧問なのに、時間取らせちゃってごめんね、と思う。
あたしは正気を取り戻してた。
「カメラが大事なのは分かるけどなー……」
あたしは首を振った。
「カメラはどうでもいいんです、ほんとは」
下を向いたまま、汚されたストラップを撫でた。金色の猫は何とか綺麗になったけど、合皮は指で拭っただけじゃ駄目だった。
「ただ、あたしは」
ばん、と生徒指導室のドアが開いて、あたしは言いかけた言葉を飲み込んだ。
「先生、一体どういうことですか?分かってます?大問題ですよ。生徒同士が教室で喧嘩して相手の子の顔に怪我させるなんて……」
部屋に入って来たのは学年主任の女教師だった。此の人、知ってる。一年生のときの、担任。
「全く、貴方も急に学校に来るようになったと思えば此れですか?一体どれだけ周りに迷惑をかければ良いと思ってるんですか?」
うるさい、ばばあ
「——ません」
「はあ?」
「迷惑をかけた覚えはありません。仮にかけてたとして、迷惑代混みで給料貰ってるんでしょ。大体、あたしがいじめに遭ってても一年生のとき何も言わなかったくせに。何もしてくれなかったくせに」
座ったまま、あたしは一息で言った。ばばあの顔が凍り付いたのが分かった。担任は、あたしとばばあの顔の間を目線を行ったり来たりさせてる。
「私は」
「五月蝿い」
あたしは立ち上がって、座らされてたパイプ椅子を掴んだ。
「おい!」
担任が叫ぶ。
「放して!嫌い!皆嫌いよ!」
あたしはばばあ目掛けて椅子を放り投げた。ぶつけるつもりで投げた其れは、見事にばばあの体に当たって、彼女が床に倒れた。暴れるあたしは担任に羽交い締めにされた。
「——主任。まずはコイツと二人で話をさせてください」
担任が言うのが聞こえた。あたしは酷く息切れしたような、ちょっと記憶の飛ぶ感覚があった。

「——さっき、言いかけただろ。何か」
「何も」
ばばあはあたしと担任が何を話すのか、意地でも聞こうとしていて部屋の隅っこに居た。視界から、というかああいうタイプの人間は此の世界から消え去って欲しかったけど、無理な注文らしく、諦めた。
「謝れよ」
「嫌です」
「お前のやったことはやり過ぎだ」
「嫌」
「んの……」
「ごめんなさい」
「……」
「って言えば満足なんでしょ?」
あたしは席を立った。
「話は終わってない」
「終わりましたよ。あたしは一応謝りました。心からの反省じゃなくても取り敢えずポーズは見せました」
「ポーズとか言うな。『心からの反省』をしろよ」
「無理ですよ。悪いって意識が無いから」
ばばあがぴく、と反応した。
「反省文でも何でも書きますよ。でも絶対貴方達には謝らない。謝ってるふりと反省してるふりをしてほしいんなら幾らでもしてあげますよ」
コンコン
生徒指導室のドアがノックされる音が響いた。
今度は、二人分の影が入って来た。
背の高い二人の影が、部屋の開け放たれた入口から中に伸びる。二人共、スーツ。何で、どうして、いつも今くらいの時間なら、未だ仕事なのに——ああ、そうか寧ろ仕事だからね。ごめんなさい。ごめんなさい……
あたしは、部屋に入って来た二人の顔を見た。でもケビンオッパもシクちゃんもあたしとは目線を合わせずに
「すみませんでした。」
オッパとシクちゃんは、腰を90度に折って、軍隊の人がするみたいな最敬礼をした。まず、ばばあに。そして、担任に。

やめて
「——相手の子は?」
オッパが担任に尋ねる。
「保健室に居ると思います」
「其の子のお母さんも一緒ですか?」
「ええ、さっき来て」
二人は目配せをして、行くか、という合図をした。
やめて
「待って、オッパ、シクちゃん」
あたしの声に二人は振り向いてくれなかった。



夕暮れの街を、三人で歩く。
あたしは首から壊れたカメラをぶら下げて、前を歩く二人の後ろを、微妙な間合いを取りながら歩いた。
二人は何も言わなかった。
何も、言わなかった。

どうして。
どうして。
あたしが、悪いのに。あたしが悪いところだってあったのに。
あたしのかわりに謝って、あたしのかわりにお詫びして。
また、何か言われるのは二人なのに。
なのに何で今、何も言わないの。
あたしのこと、叱ったりしないの。

二人は笑いながら、全然別の話をしてた。
「さっき学校にめちゃくちゃ可愛い先生居たよ」
シクちゃんが悪戯っぽい笑みを作りながらオッパに言う。
「どの人?」
オッパが乗っかる。
「華奢で、線の細い感じの」
「ああ」
其の先生は、担任のだよ——

あたしは会話にも混じれず、二人から叱られることもなく、ただ、変な距離で歩いた。
不意に涙が出て来た。
ねえ、どうしてなんにも言わないの——
「何泣いてんだ、置いてくぞ」
二人とあたしの距離が離れたことに気付いたシクちゃんが、振り返って声をかけた。手が、呼んでる。こっちにおいでって。
「帰ろう」
「そうだよ帰ろ。俺たちの家に」
オッパも、振り返って呼んだ。あたしを、呼んだ。
あたしは離れてしまった数メートルの距離で助走をつけて、シクちゃんの背中に飛びついておんぶして貰う格好になった。シクちゃんの広い背中に背負って貰って、三人であの家に帰る。
「ほら泣くなー鼻水付けるなー」
シクちゃんがからかう。
温かい背中にしがみつく。
涙が止まらなかった。二人の優しさがしみて、泣きたくなるんだ。
本当は、二人に愛されてるかどうか、あたしが本当に此処に居ていいのか、いつも不安だった。二人の間に入っちゃ駄目な気がして、いつも様子を窺ってた。怖かった。でも居場所が欲しかった。

欲しがらなくても、ちゃんと、あったんだね。

部屋に戻って、体の傷を確かめるように、服を脱いでみた。もみ合いになったときに細かいかすり傷とか、殴られたときの痣みたいな跡があった。絆創膏を貼ると、あたしはベッドに寝転がった。
今までずっと我慢してたし平気だったのに、色んなものを踏みにじられた気がして我慢してた物を吐き出したらああなった。特にやっぱりオッパとシクちゃんの悪口は許せなくて、頭に血が上った。
なのに、結局二人に謝らせて、二人に迷惑かけて——。
枕に顔を埋めながら抱き締めると、涙が染み込んで行った。
優し過ぎる二人の気持ちが、辛い。
あたしに謝らせてもくれないのが、辛い。
机の上に置いた、壊れたカメラとストラップをぼうっと見た。

あのとき、あたしを止めたのは真っ白い指だった。
転校生の力強い腕があたしの手首を持って、シャープペンシルを指から奪った。
あたしを突き飛ばして、あの男子から引き離したのも。
止められてなかったら、あたしは多分目を本当に突き刺してた。頭に血が上ると何をしでかすか分からないのは家系かしらと、あのばばあが言ってたのも聞いた。でもきっと其の通りなんだと思う。
でも、あたしには止めてくれる人が居た。
転校生はあたしに、落ち着け、と何度も繰り返して肩を掴んで揺さぶった。

今日あの出来事から、転校生にちゃんと会えてない。
会ったら、何か言わなきゃ。
何か——。

拍手[13回]

風が、少しずつ変わり始めてた。

遮断機が上がるのを待ってると、反対方向からの電車が来た。
通り過ぎる電車を見つめてたら、隣に、見慣れた人の気配を感じた。
「よう、今から帰りか?」
電車の音に掻き消されないよう、其の人は大声で話した。
「こんにちは」
あたしは其の人――担任の教師――に挨拶をした。
「休日に会うとはなあ」
服装は、スポーツブランドのジャージの胸のジッパーをかなり下まで開けて、両手にスーパーのビニール袋をぶら下げてる。足元はサンダルで、本当に此の人が教師なのかと言われたらかなり疑問を覚える格好だった。此の人はかなり顔で色んなものをカバーしてる、と思う。相変わらず鼻が特徴的だなと思った。
「買物帰りですか?」
あたしはビニール袋の中身をちら、と見た。一人分、じゃなさそう。
「そうだよ」
あたしは一個、此の人のことを知ってる。
「二人暮らし上手く行ってます?」
「え?」
遮断機が、上がる。
人がいっせいに歩き出そうとするのに、列の先頭で歩き出さなかったあたしたちにぶつかりそうになって歩道を避けながら進んで行った。
担任の反応が面白かった。あたしはにやりと笑った。
「かまかけたつもりだったんだけど、当たりですか?」
あたしも人の群れに紛れるように一歩踏み出す。振り返って、出遅れた担任に言った。
「先生、数学の先生のこと目で追ってるの、あからさまだから気を付けた方がいいですよ」
吹いて来る風に髪がなびいた。担任があたしの背中に何か言ったみたいだったけど、歩き始めたあたしには聞こえなかった。

「あの先生が?」
家に帰ってシクちゃんと一緒にテレビに向かってゲームをしてた。怪獣の徘徊する世界で、あたしとシクちゃんは仲間として冒険する。
「うん。分からなかった?」
「確かに差別心は無さそうだと思ったけど」
シクちゃんの操る分身は急に現れた雑魚の怪獣を剣で切り倒した。
「おいお前ら何時までやってんだ。もうすぐ飯出来るぞ」
ケビンオッパの声がした。背中から声をかけられても、振り向けなくてテレビ画面を見つめたまま返事をする。
「ねえ、オッパも分からなかった?担任、どっちもいける人だって」
「ああ、そうっぽいかなとは思ったよ」
「ほら」
シクちゃんに目配せする。今度は草むらから小型の怪獣が出て来てあたしは弓で射た。
「相手の先生はどんな人なの?」
シクちゃんが興味本位で聞いて来た。
「生真面目で勉強しかしてませんでしたった感じ」
「担任と真逆じゃないか」
「人は自分に無いものを求めるでしょ?鍵には鍵穴が必要だし、鍵穴には鍵が必要なんだもん」
あたしは二人を見て、言ってみる。
「ちょっと中学生が……」
ケビンオッパが気まずそうに笑ったのに対して、
「確かに鍵と鍵じゃ駄目だね」
とシクちゃんがのほほんと切り返しながら、目の前の怪獣をやっつけてた。



学校の空気も少しずつ変わり始めてた。

嫌がらせはなくなって、ぎこちなく始まった友達ごっこはいつの間にか本物っぽくなってた。此れが仮に同級の仲良し演技だとしても、いつも受けてた嫌がらせに比べれば、無駄な疲れは無くなった。
例えば、朝おはようと挨拶をすること。休憩時間に喋ること。教室を移動するとき、校庭に出る時に話すこと。昼食を一人で食べなくなったこと。じゃあね、と言って別れる相手が居ること。
春が来て、転校生が来てから、あたしにいつも冷たかった北風と向かい風は、別の方向から吹くものに変わったのかもしれない。
いじめの主犯格の男子のことは、保健室を出入りするのを二、三回見かけたくらいだった。くだらないプライドがそうさせてたのかもしれないし、転校生が体育の授業中組み手でぶっ飛ばしたというのもちょっと空気が読めてなかったんじゃないかと思うけど、きっと同い年の男子なら気にするんだろう。嫌がらせの主犯格が、いとも簡単に投げ飛ばされたなんて言ったら、色々格好悪いもんね。
学校は学校で、ときどき、息苦しい。でも其れは皆感じてるのかもしれない。
あたしたちは、水槽に入れられて、酸素の薄い水の中でぱくぱく呼吸をしてるだけの金魚だ。

放課後の教室。日直のあたしは、生温く平和だった今日のことを日誌に書いてた。
「ねえ」
転校生が未だ教室に居る。あたしの目の前の子の机に座り、あたしが日誌を書いてるのを、宙に浮かせた足をぶらぶらさせながら待ってる。
「何?」
「合気道経験者なら、素人相手に本気出しちゃいけないんじゃないの」
あたしの言葉に「何の話?」と顔を覗き込んで来る。あたしは、此処最近ずっと空席のままの席を見るように目線動かして顎をしゃくった。あの子、という合図。
「あいつもやってたって言ってたよ」
合気道の話。
「……」
しれっと、言うから。
「俺はね、ちょっとかじっただけから手加減出来ないんだよ」
そういう言い方ってさ。あたしは今日の欠席の人数に1と書いて、日誌から目を離した。夕方の光が、転校生の白い顔に差してた。
「授業って便利だよね」
こいつ、確信犯だ。

何となく一緒に帰る雰囲気だったから、日の長くなった空の下を二人で歩く。
「待って」
小川の傍の道を歩いてたとき、転校生が急に立ち止まってリュックをごそごそと漁った。
「此れ」
「?」
ちょっとだけぶっきらぼうに差し出された小包を思わず受け取った。
「あげる」
「何?」
転校生は、凄くぎこちなかった。渡された箱は掌くらいの大きさで中身はそんなに重く無さそう。あたしは箱と転校生の顔をそれぞれ見た。
「気に入らなかったら捨てて」
早口で言って、転校生は分かれ道を歩いて言った。

「ただいま」
玄関から叫んでも、今日は誰も居ないみたいで、猫だけがあたしを出迎えた。
「ただいま。オッパもシクちゃんも居ないのね?」
猫を抱き上げて、自分の部屋に連れてく。あたしは手に持ったまま持って帰って来た小包を開けた。

シンプルな薄紅色の包み紙を破ると、プラスチックの箱が指に当たる。プラスチックの箱に、可愛らしい、けれどすました顔の猫の絵が描かれてた。其の絵の下に、ストラップが入ってるのが見えた。箱を開ける。中の物を手に取る。
カメラの、ストラップだった。幅の広い其れは一眼レフのカメラ用だと思う。合皮っぽい素材で、色はブラウン。ストラップの合皮部分の端っこに、金色の猫の細工があった。猫が歩いてる姿の、ワンポイントが、合計二つ。

「かわいい」

あたしの視界をうろうろしてた猫が急にあたしの言葉に振り返って膝に乗って来た。
「こら、お前のことじゃないよ」
手にしたストラップを何度も眺めた。
「かわいい」
捨てるなんて、絶対にない。
あたしは早速お気に入りのカメラに、お気に入りのストラップを通した。

窓の外を見ると日は暮れていて、あたしは首からストラップとカメラを下げたまま、窓辺に立った。
空に浮かぶ丸い月に向かって、カメラを構えてみる。三脚無しじゃ、月は撮れないけど。

転校生は此のストラップを見て、あたしを思い出したんだろうか。
其れとも、あたしのことを考えてて、ストラップを見付けてくれたんだろうか。
どっちでもいい。
多分、どっちでも、嬉しい。

拍手[17回]

自転車に二人乗りをして、ペダルを漕ぐ。

散り始めた桜の並木道を通り抜けて、駅に向かう人たちと反対方向にあたしたちは向かう。朝早くから仕事や学校に向かう人たちに逆流すると、少しだけおかしくなった。腕時計を見ながらバスを待っている人を見かけたりすると、ご苦労様、と自分がまるで高い身分になったみたいに思った。
転校生の持っていた自転車は、少しだけあたしの腰の位置には合わない。そんなアンバランスな自転車を漕いで、人通りの少ない道を選んで、走ってく。空がどんどん高くなる。太陽も少しずつ高い位置に昇ってく。
転校生の広い背中にほっぺたをくっつけて、向かい風から隠れるようにして道案内する。かわりばんこにペダルを漕いだ。

何個目かの坂道を上り切ると、視界が開けた。
山と緑、そして大きな川。晴れた空の下、一面に広がる春の景色。街の中に居たら絶対に見られなかったもの。
転校生の顔をちらりと見る。頬が赤くなって、瞳は360度全部の景色を目に焼き付けようと動いてた。此の場所は、昼を過ぎればもう観光客でごった返してしまう。だから、来るならいつも朝だけだと決めてた。昔うっかり早起きをしてしまったときに、ふらっと自転車で辿り着いたのをきっかけに、何度か来たことがあった。
「——連れて来てくれてありがとう」
あたしの髪に触れて、転校生が笑った。眩しい、そう思った。
ありがとうという言葉にどういう顔をすれば良いのかが分からなくて、ただ、うん、うん、と頷いた。

橋の欄干に手をあてて、緩やかな川の流れを見つめながら、幾つかの話をした。
転校生は自分が暴力組織の人間の息子だと言った。断言はしなかったし、あたしも詳しく聞いたりはしなかったけど、あたしの家のあるエリアに一軒だけやたらセキュリティの厳しい家があるから、きっと其の組織の頭が住んでると思ってた。だから多分転校生は今其処に住んでるんだと思う。
「母さんのヒステリーが怖くてさ」
転校生は手元に舞い降りて来た花びらをつまんで川に落としながら言った。
「……」
「普段は、良い人なんだけどね。俺と二人きりになると駄目なんだ。今日は怖くなって逃げてきちゃった」
「怖いって、身の危険を感じるくらい?」
「どうだろう?包丁持ってたからなあ」
「なら怖いね」
転校生の言った「居心地が悪い」なんて言葉のレベルじゃない気がした。ざあ、ざあ、と川の音を聞く。水面に太陽の光が反射してきらめいてる。
「ときどき君の家族が羨ましくなる」
「え」
急に言われて、あたしは二人の顔を思い出した。
「三月頃、見たんだ。君は、空の写真を撮ってて——其処にお父さんたちが来て、三人で歩いてくのをさ」
「あたしたち、家族に見えた?」
疑問をそのままぶつけてみる。転校生は、えっ、という顔をして首をちょっとだけ傾げてから笑った。
「当然さ」
「そう」
人から見ると、そんなものなのかもしれない。私も口角を上げてみた。
転校生の携帯電話が鳴った。ごめんね、と転校生は目で合図して、電話に出る。
「——もしもし。うん、ごめん、学校にはそう伝えて。ありがとう。あの人は?そっか、分かった。じゃあ、戻るよ」
電話を切って、あたしの顔を見た。



転校生の家は本当にお屋敷で、防犯カメラが所々に何台も取り付けられてた。入口から入ると、女の人が一人出迎えに来た。化粧が派手で、香水の香りもきつい。長い髪はゆるやかなウェーブがかかっていて、体のラインを強調するような服装だった。顔のパーツが転校生に似てた。
「おかえり」
「ありがとう——母さんは」
「今は薬飲んで離れで寝てるわ」
「そっか」
あたしは転校生の隣で初めて足を踏み入れる空間に少し緊張した。あまりきょろきょろしない方が良いのかな、と思ったり、何が自然な態度なのかが分からなかった。
「そちらは?」
彼女は顎をくいとあたしに向け、目線を送って来た。やっぱり派手な印象の二つの瞳があたしを見てる。肉食動物のような、きついイメージがある。手に持った煙草の日を地面に落として、もう一度口にくわえて煙を吐き出す。
「友達だよ」
あたしは頭を下げた。彼女は値踏みするみたいにあたしを見てからもう一度息を吐いた。
「そう。どうぞ」

家に入ると、本当に何人もの男の人が居た。若い人から中年の人まで、転校生と女の人、それとあたしが廊下を歩く度に、起立して頭を下げる。転校生は「ぼっちゃま」と呼ばれて、皆おかえりなさい、おかえりなさいと言ってた。
あたしは目の前を歩く女の人がきっと転校生の本当の母親なんだと直感的に悟った。
「面白いのね」
あたしは次々と頭を下げてく光景にちょっと笑って、長い廊下を歩きながら転校生に耳打ちした。
「いつもやらなくていいよって言ってるんだ」
「テレビの中の話だと思ってた」

転校生の家はとにかく広い。広過ぎて、一人でいま帰れと言われても帰り道がよく分からない。多分侵入者を攪乱するためにわざと複雑な構造なんだ。内部にも明らかに其れと分かる防犯カメラだけでもかなりの台数があって、更に隠しカメラがあると思えば完全な監視体制が敷かれてるんだな、と思った。
部屋の中に水槽があって、三匹の金魚が泳いでる。
あたしは一室に通された。伝統的な造りの部屋で、一つ一つの家具はシンプルだけどきっと高価なのだろう、というデザインだった。転校生は一回自分の部屋に行って来る、と言って戻ってしまったので、あたしは女の人と二人きりになった。
「友達を家に連れて来たのは初めてなの」
「はい」
「貴方はとても大人っぽいのね。中学生に見えないし、凄く落ち着いてるのね」
若々しくない、子供っぽくない、って意味かな。
「気を悪くしたら謝るわ」
彼女はまた煙草に火を点けた。髪をかきあげる仕草が、あたしなんかよりずっと大人っぽい。ちょっとくたびれた、大人の色気を感じた。
「仲良くしてあげてね」
「はい」
あたしが頷くと、転校生とそっくりな顔で彼女は口元を綻ばせた。

夜遅く帰るとシクちゃんとオッパがちょっと心配した顔で出迎えてくれた。
玄関を入るなり「何処行ってたんだ、心配したんだぞ」とオッパが抱き締めてくれたけれど、親指を隠したパンチで一発だけあたしの頭を殴った。二人が、一発ずつ。計二発、あたしの頭にはお仕置きのパンチがお見舞いされた。

「彼氏できたの?」
寝る前にあたしが歯を磨いてると、シクちゃんが洗面所の柱から顔だけを出して尋ねて来た。顔がだらしなくにやけてて、凄くお節介そうな顔をしてた。
「ううん」
水を吐き出しながら、下を向いて返事をする。
「シクちゃんとオッパが悲しむから、ううんって言っておくわ」
「生意気だ!」
「ふふ、嘘よ。そんなんじゃないわ」
「友達?」
ともだち?
胸の奥がかゆくなる。そういう言い方も、慣れてないんだ。
「かな?」

枕元の電気を消して、ベッドに入ると、寝転がって今日撮ったカメラの中の画像を確かめる。画像をコマ送りにしていくと、あたしは一枚、苦手だったはずの人間の写真が上手く撮れてたことに気付いた。
何度も何度も、其の四角い枠で切り取られた人物を見つめる。

好感を持ってるんだろうな、と他人事みたいに思う。
カメラを枕元に置いて、シーツを被った。少しだけ脚のだるさを感じる。久しぶりに漕いだ自転車の所為かもしれない。しかも、二人乗り。
あたしは転校生の夢を見る。

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あたしは白い闇を一人で歩いてる。
雪の中か、霧の中か、何処までも真っ白な空間に居て、一人彷徨ってた。
此処は何処?
誰も居ないの?

何かに呼ばれた気がして振り返ると、白い闇が消滅して見慣れた景色があった。
あの朝に14歳のあたしともう一人、幼過ぎる背の低いあたしが居た。ちびのあたしはあたしの存在に気付かず、玄関で右足の靴ひもを結んでた。
「駄目」
あたしはあたしに声をかける。でもちびのあたしは気付かない。あたしの声は、自分の耳には届くのに存在しないみたいだった。
ちびのあたしは玄関のドアノブに手をかけた。青空と、真っ白な光が差し込んで来る。あたしは其のドアを咄嗟に閉めようとした。なのに、透明なあたしの手はドアを擦り抜け、空を切っただけだった。
「お願い、待って!出掛けちゃ駄目」
出したつもりの大声も、ちびのあたしには届かない。
ちびのあたしは、行ってきますと家の中に向かって言い、小走りに玄関から出て行った。
あたしは相変わらず家の中に居て、自分があの日の朝開けた筈のドアをずっと見つめてた。



はあ、と荒くなった呼吸を整えていると、ぐっと手を掴まれた感覚があった。
「大丈夫?」
優しい声が微かに響いて、シクちゃんが手を握ってくれたのだと知った。
「うなされてた」
シクちゃんの腕があたしの頭に周り、後ろのあたりを撫でて背中をさすってくれた。あたしの左側ではケビンオッパが規則正しい寝息を立てながら眠ってた。
「うん……」
夢を見た。昔の夢――
目の前にあるの縋り付く。何度も髪を梳いて背中をさすってくれる手があった。
「ゆっくり呼吸して。楽になるから」
どんなに大丈夫なふりをしても、昔のことを思い出すのはつらいし、思い出せても断片的だった。気持ちが記憶の邪魔をしているのかもしれない。
忘れていた呼吸の仕方をシクちゃんは横になったまま教えてくれた。暗い夜の闇の中でも、其の黒目がちの瞳が真っ直ぐにあたしを見ていてくれていた。
月明かりが、見える。
今日は嫌な予感がして、眠る前に二人に頭を下げてベッドに入れてもらった。
ごめんね、ごめんね。二人の時間に水を差したい訳じゃないの。
でも傍に居て欲しいの。

一人になるのが怖かったの——。

シクちゃんに抱き締められていると、オッパの気配がした。オッパが居なかったのはグラスに水を汲んで持って来てくれたからで、あたしはオッパがからグラスを受け取ってゆっくりと水を飲み干した。体の中の毒が流れて行くみたいな感覚だった。
オッパもベッドに入って来て、あたしは二人の腕に抱かれて、目を閉じた。寝返りを打って、オッパに抱き着く。
今日だけは、いいよね。
オッパの匂いを肺一杯に吸い込んだ。大きな呼吸を何度かすると、ほんの少しだけ体をずらして、二人がキスをし易いように避けてあげる。そんなことをしなくても、シクちゃんもオッパもあたしよりもずっと背が高いから軽々とあたし越しにキスは出来るけど、其れでも少しは遠慮してみる。
ちゅ……
案の定、二人はあたしが眠ったと思ってキスをしてた。
オッパの体が先に反応したのが分かって、ごめんね、ともう一度あたしは思いながらも、オッパの体に回した手を放したり出来なかった。



朝はきちんと起きられた。目尻に大量の目やにがあって、きっとあたしは寝ている間にまた泣いたんだと思う。
早朝、気怠そうにしている二人を置いて、あたしはこっそり家を出る。猫の姿は見えなかったけど、きっと何処かで丸まってるんだ。
夜中にオッパをほぼ独り占めの状態で寝たから、朝くらいシクちゃんに返してあげる。一度、二人にお休みをあげたい。一日中、ベッドの上で過ごすような、非生産的で生産的な一日を過ごしてくれたら良いのに、と思う。

朝の衛生的な空気の中で、あたしはカメラを構えた。
光が溢れてる。誰も居ない朝の横断歩道。役目の無い信号。何処かで聞こえるクラクション、鳥の声、木のざわめき。
覗いたファインダーの向こう、見慣れてしまった姿を見付けた。
「あ」
道路の向こうを、リュックを背負った転校生が歩いてる。あたしには気付いてないみたいだった。カメラをカバンにしまい、其れを方から掛けてあたしは朝の道を走った。革靴の踵を鳴らして、転校生に近付いた。
「わ!」
いきなり走って来たあたしに、転校生は面食らったように驚いた。其の顔は酷く生気が無くて、だからあたしは走り出したんだ。
「おはよ」
「……おはよう。早いね」
「居心地悪くなっちゃって」
本音半分冗談半分であたしが言ってみる。
「同じだ」
転校生が同意した。

転校生の噂を耳にするようになってた。
「特殊な家の子」らしいとか、「怖いお兄さん」たちが家に居るとか、お母さんは本当のお母さんじゃないとか、どれも転校生本人からではなく、本人以外の相手から聞いた。あたしは其の真偽を確かめたりしなかった。
「同じ?」
「居心地悪くなることがさ」
複雑な家庭らしい、こと。転校生が喧嘩が強い理由。誰も逆らったりしないこと。
「俺のこと、聞いたこと無い?」
あたしは顔を左右に振った。転校生は力無く笑った。

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朝、ぱちりと目が覚めた。瞬きを何回もする。
こんなに爽快に目が覚めたのは久しぶりだった。壁時計の針は午前七時前を指してる。寧ろ目が冴えてしまって良く眠れもし無いまま朝を迎えたのかもしれない。其の割には体はだるくないし、気分はちょっとだけ良い。
暖かい布団の中で、もう一度目を閉じようかどうしようか迷う。ふとコーヒーの香りが漂って、オッパが起きてるんだと思った。
あたしは梯子を下りて、キッチンに向かった。

椅子に座って新聞を読んでるケビンオッパの首筋に、赤い痕を見付ける。
ああ、やっぱり。
「おはよう」
「おはよ……うわっ」
後ろから勢い良く抱き着くと、オッパがコーヒーの入ったマグカップを持ったままの格好で驚いた。
「零れるって」
「ごめんごめん。急に抱き着きたくなっちゃったの」
そう言ったあたしの足元を猫がうろちょろした。
「トースト?」
「うん」
あたしの返事を聞いたオッパが、マグカップと新聞をテーブルに置いて立ち上がった。やっぱり、髪の毛の短いオッパの首筋に、赤い鬱血の痕がある。冷蔵庫の前で扉を開けてバターやらハムやらを取り出してるオッパの傍にあたしも近付く。
「オッパ」
「何?食欲無い?」
冷蔵庫に頭を突っ込んでいたオッパと目が合う。ひんやりとした空気が扉の中から漏れてる。
「そうじゃなくて」
「どうした?」
「今日は首に何か巻いてった方が良いよ」
「?」
あたしは指を伸ばす。オッパの白い首に触れる。
「此処」
「……!」
オッパは、あたしが触れた場所を覆うように、左手の掌を押し当てて、首の痕を隠す仕草をして、あたしの顔を見た。オッパが手をかけたまま、締められずに居た冷蔵庫のドアのアラームが鳴った。同じポーズのまま、オッパは慌てて右手で其れを締めた。
「マーキングね」
あたしは勝手に取り出したオレンジジュースの紙パックにストローを突き刺して飲みながら言う。ストローを噛んで、オッパの顔を見た。
「最近してなかったの?」
「中学生がそういう言い方するなよ」
苦虫を噛み潰した顔、ってこんな顔かしら。
「図星だ」
いひひ、と笑うと急に真顔になってオッパが言った。
「違うけどさ」
「律儀に返事しないで」
其処は多分、適当にはぐらかしていいところだったよ。

朝ご飯のハムトーストと、少量のプレーンヨーグルトを胃袋の中に入れてあたしは家を出た。
春の、少し強い風が吹いてる。黄色い帽子を被った小学生が、じゃんけんで勝った手の分だけ進む遊びをしてるのを横目に、あたしはゆるやかな坂道を歩く。周辺の民家から伸びた木の葉の間から、和らいだ太陽の光が差し込んでた。
風が吹く度に其の光がちらばって、道に影と光のまだら模様を作る。
——綺麗。
あたしは素直にそう思った。
「遅刻するよ?」
不意に声をかけられて、振り返る。転校生だった。
「……おはよう」
何となく、挨拶をしてみた。転校生は丸い目をぐりっと見開いて、少し驚いた表情を作ってから、またにこりと笑った。其の白い肌にも、木漏れ日が差してた。
「おはよう」
転校生はあたしと歩幅を合わせて歩いた。あたしは無言で、転校生も無言だった。ただ一緒に、同じ歩幅で、同じスピードで歩いた。

教室に入る。
いつもの習慣で机の中に手を突っ込んでみると、其処には何も無かった。
転校生がウィンクをしてきたので、あたしはそっぽを向いて、其のまま目を合わせないように机に突っ伏した。
休み時間に、話し掛けて来る子が転校生以外にも増えた。
教室の窓から、花粉混じりの温い空気が入って来る。肌だけでなく何かがかゆくてくすぐったいような感覚だった。

後で知ったことは、転校生が体育の授業であたしをいじめていた主犯格の男子をぶっ飛ばしたらしい、ということだった。

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猫をキャメル色した革のトートバッグに押し込んで、あたしは家を出た。

春の風が吹いて、何処までも青い空に白い花びらが舞った。もうすぐ春、ではなく、春は其処にやってきていたんだ。
猫がにゃあにゃあ鳴くので、ちょっとうるさい。出て行こうと言ったのはお前なのに。
昼下がり。日差しは眩しくなくて、穏やかに景色を照らし出していた。
知らない名前の花の香りがする。毎年嗅ぐ此の香りは、何と言うんだろう。何回聞いても忘れてしまう。

街の小川の向こうを、家族連れ――三、四歳の女の子が両手を父親らしき男と母親らしき女に引かれて歩いてる――を見た。
子供は、両親の顔の悪い所を取ってしまったような顔をしていて、凄く不細工だった。彼女が左右の手を引く相手の遺伝子を受け継いでいることは間違い無い。
入学式の帰りなのか、子供は不細工な顔と体では到底着こなせないスーツを着ていて、母親――これもまた不細工――はピンク色の中年女性らしいスーツを着ている。父親は何てことは無いスーツ姿だった。
ちっと舌打ちをすると、また猫がみゃあと鳴いてあたしの顔色を窺うように肩ひものところから顔を出して来た。嘘をつけなくなる目が、ある。
「ふふ」
馬鹿らしくなって、誤摩化すように笑った。
其の家族を此れ以上見ないように、あたしは右折して、何時も行く道とは別の道を歩いた。

ケビンオッパとシクちゃんを二人にさせてあげるために、あたしはこうやって家を出る。
大体、二人共分かり易いから。
オッパだって、凄くクールに振る舞おうとしてるけど、今朝みたいなキスをするときは、ずっと色欲のことしか頭に無いと思う。まるで同い年の男の子たちみたいに、シクちゃんが大好き、ってオーラを出すからあたしは其れに負ける。シクちゃんはシクちゃんで、たまにはぐらかしたりもするんだけど、オッパのことが大好き。あたしとどっちがオッパから愛されてるかを競いたがるから、あたしは其れももう不戦敗だよと思う。疲れたときは、あたしが居てもオッパに寄り掛かろうとする。其れは精神的にも肉体的にもだから、昔の母親にそういう姿が重なって、シクちゃんがおんなのひとじゃなくて本当に良かったと思う。疲れたシクちゃんが、帰って来てオッパに無言で抱き着いて、服のジーンズのボタンに手をかけるのを見てしまって、あたしは今日みたいに慌てて家を出た。ああいうことをしちゃうシクちゃんは、ちょっと怖い。でもそうやって曝け出して愛せてるシクちゃんは、ちょっと羨ましいし、受け止めてあげてるオッパの愛に感心する。



あたしは持っていたカメラのファインダーを覗いた。
ファインダー越しに切り取った四角い世界を見れば、世界と対話が出来る。カメラはあたしと世界をインターフェースさせてくれる。
ズームインズームアウトを繰り返して、春の、動き出した街を撮る。
空。風に舞う花びら。坂道。
猫がバッグから飛び出して、橋の赤い欄干によじのぼって見返りのポーズをとったからを其れを撮ってみたり。
撮った画像を確認して、もう一回撮り直させて、と思いカメラを確認すると、猫は急に欄干から飛び降りて、地面を駆け出して行った。予想外のことにあたしはびっくりして、一歩テンポがずれてから駆け出した。
待って、何処行くの――
猫は普段こんなことはしない。でも今日は特別だった。
「あ」
誰かの膝の上に飛び乗ったな、と思ったら、其の人も屈んだ格好で一眼レフっぽいカメラを構えていた。余程集中しているらしく、猫が飛び乗っても姿勢を崩さない。其の人もやっぱり、何テンポかずれて、わあ、と驚いた。其の顔に、見覚えがあった。
転校生だった。
「あ」
向こうもあたしに気が付いて、声を上げた。
「君の猫?」
「うん」
「名前は?」
「『猫』」
面倒臭いな、こういうお決まりの会話。そう思いながら答えた。
「猫に猫って名前つけたの?」
そう言って、転校生は笑った。
「悪い?」
「いや、悪くは無いけど、変わってるなって」
「ありがと。最大の褒め言葉よ」
あたしは指を鳴らして猫を呼んだ。けれど、猫は余程其の膝の上が居心地が良いのか、あたしの元に戻って来ない。
「戻りたくないみたい」
「じゃあ、置いてく」
あたしは踵を返して帰ろうとする。転校生が呼び止めるように駆け寄って来た。腕に、猫を抱いて。
「だめだよ。動物を飼うなら、責任持たないと。――はい」
猫があたしの腕に帰って来る。
「学校、たまにしか来ないの?」
「うん」
「明日は?来る?」
「分かんない」
此の何となくだらだら続く会話を遮りたくて、適当に返事をする。じゃあね、と軽く手を振って来た道を帰ろうとしたときだった。
「――あの、さ」
「何?」
振り返る。
「明日も会える?」

「分かんない」
また前を向く。



次の日、朝からあたしが学校に行ったものだから、まずオッパとシクちゃんにからかわれて、学校に行けば教室はざわざわと五月蝿かった。
嫌がらせのように机の中には相変わらず「ホモの子供」「気持ち悪い」「死ね」とか、見慣れた文句が書かれた紙切れが突っ込まれていた。
「来たんだ。学校」
転校生が、休み時間に友達と話しているのを中断して突撃して来た。ちょっと空気の読めない子なのかな、と思う。
「ねえ、あたしと喋らない方が良いよ」
「どうして」
空気を読んでよ。
「……どうしても」
偽善ぽい気がしたの。あたしは、いじめを傍観する人が一番普通の反応じゃないかなと思う。あたしだって逆の立場なら、止めたりしない。子供の世界では、余程の権力者じゃないと次の標的にされるのは其の止めた人物なんだ。暴力の構図を維持し続けさせる傍観者に徹した方が、ややこしいことに巻き込まれなくて済む。揉め事なんて、皆関わりたくないでしょ。
「ほっといてよ」
突き放した言い方をすると、流石に人の良い顔が凍り付いてた。



或る日、担任の教師が家に来た。逃げることも無いので、四人で話をした。
ケビンオッパとシクちゃんは、彼の話を、はい、はい、と聞いてた。一応返事だけは同意しているようだった。
学校で見た時は気怠そうな印象があったけれど、意外と面倒臭いことに首を突っ込んでくる人なのかな、と思った。もしかしたら学年主任とか、教頭とか、校長とか、誰かに言われてポーズとしてやっているのかもしれないけど。
空中戦のような、微妙な会話が続いた。
彼もまた、帰る時に次はいつ学校に来るのかと聞いた。
何日か前に同じことを聞いたな、と思った。

その日の夜に、オッパとシクちゃんは、あたしが眠ったと思ってこっそり二人でキッチンで話をしてた。あたしの部屋から台所の声は、全ての音をシャットアウトすれば割とクリアに聞こえる。話題はあたしのことだった。
「学校、変えた方が良いかな?」
シクちゃんの声。
「あいつがどうでもいいって思ってるからなあ」
其の通り。
「先生、大変そうだね。俺絶対学校の先生にはなりたくないな」
「俺も」
あたしも。と言うか、なれない。きっと。
「ヒョン……」
シクちゃんの甘え声がする。また張り合ってる。心配しないでよ、オッパは永遠にシクちゃんのものなのに、何が不安なの。子供に張り合って馬鹿みたい。
物音。キッチンに置かれた椅子に、人の体がぶつかった音。多分――二人分。
二人分の足音が聞こえて、浴室のドアが開く音がした。やめてよ。其処、響くんだから。
二人のキスとかは見られても、ちょっと其の先のものは見たくない気もするし、覗きの趣味も無い。
浴室から、「お前だけが好きだよ」っていうオッパの腰に来る声が響いた気がした。多分空耳なんだけど、今頃、シクちゃんにだけ聞こえる声で、そんなことを囁いてるんだと思う。

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二人がキスをしているのをこっそり見るのが好き。



日曜日の朝、シクちゃんがリビングのソファで眠ってた。

近くのテーブルに、食べかけのアイスクリームのカップが放置されてた。ガラスのテーブルに直にスプーンが置かれて、溶けてどろどろになったバニラアイスの染みを作ってる。あたしは部屋のエアコンの温度を一度下げた。
食べながら寝ちゃったなんて意味分かんない。
でもきっと、其れくらい疲れてたし、お腹が減ってたんだと思う。
昨日の夜はオッパと二人で彼が作ってくれたキムチチゲを食べた。鍋料理なのに二人で囲むとちょっと寂しくて、でもシクちゃんは仕事だって言って帰って来なかった。明け方バイクの音がして、ああ帰って来たんだろうなと思ったけど眠くてお帰りが言えなかった。多分オッパも言わなかったんだと思う。

シクちゃんが横になっているソファの僅かなスペースに、小さな猫が寄り添って丸まってた。ソファの黒革と、猫の黒い毛がちょうど同化してる。シクちゃんはスーツ姿のまま、長い脚をはみ出させて、一本の棒のようなすらりと伸びた体を横たえてる。
声をかけようかなと思うけど、少し青白い頬を見て躊躇う。何か体にかけないと、とリビングを出た。

自分の部屋からフリースの膝掛けを持って来ると、既にブランケットを片手にした人影があった。オッパおはよう、と言いかけたあたしは、咄嗟に気配を消した。

ケビンオッパが、目を閉じて仰向けになっているシクちゃんに近付く。
ブランケットを広げて、シクちゃんと猫を覆うようにふわっと掛けた。オッパが体をずらすと、シクちゃんが頭を乗せている肘掛けの端っこに両手を付いて、シクちゃんの顔と180°違う方向から、口付けた。
ちゅ、と唇を触れ合わすだけの逆さまのキスをして、其の後にオッパの舌がシクちゃんの唇の周りをなぞるように動くのが見えた。ああ、口の周りに残ってたアイスを舐めとったんだろう。
顔を離してから、オッパが、恥ずかしくなるくらいに柔らかい顔をしてシクちゃんのことを見つめてたから、あたしは完全にリビングに行くタイミングを失った。

そう、二人がこういう秘めたキスをしているのを見るのが好き。
わざと覗くんじゃなくて、「見ちゃった」感覚が好き。

オッパが、シクちゃんの頭を撫でてる。
ああ、もう、その指がやらしい。
あたしを見つめるときの目とは、やっぱり全然違う。悔しいけど、あの愛情があたしに向けられることはない。

はいはい、ごちそうさま。



其の場から立ち去ろうとすると、足元に猫が走って来て、まるで「お邪魔虫は退散だよ」と言ってるみたいにあたしの前を導くようにずんずんと歩いて行った。

拍手[13回]

—— 学校は、嫌い。

シクちゃんが乗せてくれたバイクが遠ざかって行くのを見て、振り返ると校門があった。
教科書に載っていた遠い国の収容所みたいだ、と思う。門の中心には勿論空洞があるのに、其の空洞が、ブラックホールか世界の終わりか何処かに繋がっているんじゃないかって気がしてた。
あたしはいつも此の空っぽの空間が嫌いで、息苦しくて、居場所が無いと思ってた。

教室はやっぱり居場所が無かった。

自分が進級したことも、新しいクラスの場所も知らなくて、あたしは教材室から出て来た大人に聞いた。
というか、聞かれた。
「君、授業は?」
「分かりません」
其の人は多分数学の教師で、授業で使うであろう大きなコンパスやら三角定規やらを抱えていた。眉を寄せる仕草をして、あたしの顔を覗き込んだ。
「転校生?」
あたしは首を振った。
「久しぶりに来たの」
其の人はもう一度困った顔をして、其れでも頑張ってあたしの身元を調べてくれて、教室まで送り届けてくれた。

其の人が声をかけた、担任らしい其の教師の顔も知らなかった。
何となく彼の鼻の形と、小さい方の教師の身長だけを覚えた。

担任の教師が指差した場所は、あたしの席だったけど、あたしの居場所じゃなかった。
其のまま、担任の何を言っているのかよく分からない英語の授業を子守唄に、あたしは授業に出席はしていたけれど参加はせず、眠った。
遠くで頭の悪そうな男子が、「先生、セックスって発音よく言ってみてください」とリクエストしたのが聞こえて、馬鹿みたいだと思った。

其れから午後の授業を受けて、何となく、一日で新しいクラスのことを把握した。
転校生が一人。知っている子が一人。あとはほとんど知らないか、知っていても忘れてしまったような、どうでもいい子たちばかりだった。

荷物をまとめて帰宅する。机の中には、子供じみた不幸の手紙やら、落書きやら、真新しいのに既に破られている教科書やら宿題らしきプリント用紙やらが詰め込まれていた。選別が面倒臭くなって、全部、持っていたバッグに詰め込んだ。
午後から数時間しか過ごしていないのに、凄く疲れた感覚があった。

「どうだった、新しいクラス」
家に帰ると、シクちゃんが猫と遊んでた。遊んで貰ってた。
猫に顔を舐め回されながら、シクちゃんがあたしに聞いてくる。
「別に」
「またそうやって全部別にって言うのよくないよ」
「説教しないで。本当に何も無かったよ」
あたしはカバンをリビングのソファに放り投げると、自分の部屋のベッドにダイブした。

世の中では「いじめ」とか「差別」とか言うのかもしれない。
あたしはその類いのものにさらされてた。



夜が来るまで少し眠って、其れでも何となく眠かった。
リビングに行って、猫を無理矢理起こして、そいつを抱えて今度は二人の部屋に行った。扉に耳をぴったりとくっつけて、中の様子を窺う。
にゃあ にゃあ
猫が鳴いて、あたしの腕から逃れようともがいたので、うっかり手を放してしまった。猫がばたばたと廊下を走って行く。
「——居るの?」
扉を一枚隔てた向こう側から、オッパの声が聞こえた。
「うん。入っていい?」
「どうぞ」
シクちゃんの声も聞こえた。
扉を開けて入ると、暗い部屋で二人がキングサイズのベッドに居た。オッパは体を起こして、シクちゃんはほぼ寝たままの姿勢で肘をついて、あたしの方を見ていた。
「一緒に寝る?」
オッパが呼んでくれた。あたしは開けた扉を後ろ手に閉めながら頷く。のそのそとベッドに近付いて、二人の間に割って入るようにベッドに潜り込む。二人の体温で既に暖かくなっていたシーツは、凄くぬくぬくして、一人で眠るよりずっと落ち着く気がした。オッパはあたしの髪を撫でて、シクちゃんの髪をあたし越しに撫でた。シクちゃんが其れに応えるように、あたしの頭にキスをして、オッパの鼻をぺろっと舐めた。
「ふふ、ごめんね」
あたしは何となく、自分がお邪魔虫だと思ってしまって軽く詫びた。
「本当に悪いと思ってる?」
シクちゃんが、物凄く変な顔を作って威嚇してきたので、笑ってしまった。
「全然」
シクちゃんが反論してくるのを分かっていて、わざとそう言う。シクちゃんに背を向けるように、オッパの方を向いた。目の前にある、オッパの唇に触れてみる。
「新しい担任が英語の先生だったの」
唇の形を指先で確かめてみる。シクちゃんがやめさせようとして後ろからくすぐってくるのを無視する。
「へえ、英語」
オッパが目を細めて笑った。此の人の、笑う時に何処かへ行っちゃう黒目が好き。
「ねえオッパ、セックスって言ってみて」
「いいけど、何で"性別"の言い方なんか知りたいの」
「いいから言ってみて」
「セックス」
「ぶっ」
「……シクちゃん笑うタイミング変」
「そうだよ何でお前が照れるんだよ」
オッパの腕が伸びて、シクちゃんの頭をからかうように小突いた。

三人分の体温で暖かくなったシーツの海で、二人の優しい腕を添えられながら、あたしは何となく気が重くて、一人で寝たくなかった夜を越えようと思った。

拍手[16回]

自殺遺児だったあたしは、養子として引き取られた。



   H O M E



「朝だよ」
ロフトベッドの上で眠っていると、枕元から少し離れた場所から声が響いた。うっすら目を開けると、ふわりとした笑顔がベッドの柵の隙間から顔を出していた。
「何時?」
長い抱き枕を抱き締めたまま、気怠く呟く。あたしが寝転がっているから、彼の顔は傾いて見えた。
「12時。今日くらい、午後から行けば。学校」
相手は笑いながら、起きることと学校へ行くことを促して来た。其の顔に、昼の柔らかい日差しが当たって、綺麗に見えた。
「嫌。気分じゃないの」
学校は、嫌い。
「駄目。たまには行く、が約束」
そう言って彼は、あたしの布団を問答無用で引っ張ろうとする。男の人の力に、あたしは勝てなくて、あっけなく負けてしまう。ベッドの柵に手を掛けて、其の段を一つ一つ下りて行った。
「分かったよ。行くよ。行きますってば。行けば良いんでしょ」
あからさまに不貞腐れた表情を作って、乱暴にベッドの梯子を下りると、下りた先で、貴公子よろしくお兄ちゃんが立っていた。

床に下りている時に、卵が焼ける良い匂いがした。お昼だから、何か作ってるのかな。キッチンを覗くと、彼が居た。
「オッパおはよ、お昼ご飯、オムライス?」
彼の腰に抱き着きながら言うと、エプロン姿でフライパンとフライ返しを持ったもう一人のお兄ちゃんが振り向いた。
「おはよ。今コンソメスープも出すから、ちょっと待ってて。食ったらちゃんと学校行けよ?」
「うん、行く行く」
テーブルは、私を挟んで、お兄ちゃんが左右にお兄ちゃんが座るようになっている。木製の四角い天板には、黄色のふわふわの卵が乗ったとても大きなオムライスが一つと、中くらいのサイズのオムライスが二つ、更に盛られて並んだ。其れから、グリーンサラダにコンソメスープが加えられた。
部屋の中に、良い匂いが立ち籠めていた。優しい水曜日の正午だった。
「こら、シク、ちゃんと噛めよ。お願いだからオムライス飲み物みたいに食べないでくれ」
「シクちゃんほんと食い意地貼り過ぎ」

ケビンオッパとシクちゃん。

其れがあたしのお兄ちゃん。
ケビンオッパのことは、シクちゃんがヒョン、って言うから真似してそう呼んでる。シクちゃんのことは、オッパが「シク」って言うからそう呼んでる。

あたしは遺児だった。
お兄ちゃんたちとは、血の繋がりは、無い。
でも、血よりも濃い繋がりで、あたし達は繋がっているのだと思う。そして何より、彼ら自身が。

同性愛者の二人が、あたしを養子で引き取った。

拍手[13回]

絶対に此の手を放したりしない。



==================

真っ白いキャンバスのようなシーツに押し倒す。
月日を埋めるように、指と指、足と足を絡ませる。
未だに不安げに、心許なく揺れる瞳がケビンを見つめた。黒目に涙が潤んで、黒い輪郭が滲んでいる。
「そんな顔するなよ」
ヒョンシクの額に掛かっていた前髪を左手でかきあげて、額にキスをする。そして、鼻と鼻を触れ合わせ、少し伏せるようにしていた瞼を開けてヒョンシクの目を見つめながら、唇同士を重ねた。
「んうっ……」
ケビンの舌の侵入を許したヒョンシクは、少し絡めていた指先に力をこめた。ベッドの上でまるで縛られたように二人の体がもつれあう。キスが深くなる。お互いを口元から飲み込んで丸ごと食べてしまうくらいの、キス。
「は……ん、ケビン、ヒョン…………」
か細くなった、ヒョンシクの甘い声が静かな部屋に響いた。ヒョンシクが顔を離し、酸素を求めるように何度か口をぱくぱくと開けた。ケビンの両頬に手を当てて、其の顔を鑑定するようにじっと見つめた。
「ヒョン……」
ぽたり、と。いつか見たヒョンシクの涙をまた、もう一度、見た。見ている方が辛くなって、ケビンはヒョンシクの体を抱き締めた。柔らかい髪の香りが、鼻に届いて来た。

「ヒョン……好き。大好き。ずっと言いたかった。ずっと逢いたかった」

抱き締めた体が震えて、小さな告白が聞こえた。
「俺の方がもっと逢いたかったよ」
大人げなく、反論する。けれど事実だった。本当に逢いたかった。何処で何をしているのか、考えない日は無かった。でも、見つからなかった。
ヒョンシクの子供じみた提案に乗っかったふりをして、冷静に振る舞いたかったのに、其れは出来なかった。衝動を抑えるのに必死で、何度も自分を見失いそうになってヒョンシクに手を出してしまいそうになった。
——そう、今のように。
さらさらとした髪を撫でて、もう一度短くキスをした。
「お前、嘘ついただろ?」
「!」
ヒョンシクの表情が変わった。
「盗作どころか、あの絵はお前の絵じゃないのか?」

ヒョンシクはゆっくりと首を縦に振って、肯定の意を示した。

「やめよ?こういう話」
頷きながら、自分からキスをねだって、ヒョンシクは顔を近付けた。二つの唇が重なる。時間を追うごとに溺れて行く感覚。とにかく、離れていた時間を埋める為に、キスをして、体をぴったりとくっつけて眠る。狭いベッドの上で、二人の匂いと呼吸が混じり合って、部屋の空気が濃くなった。
「大好き、ヒョン、本当に好き」
壊れた玩具のように同じ囁きを繰り返すヒョンシクの声が、何度も響いた。子供のように笑い、涙目になりながら誘う姿に、愛しさが込み上げる。ケビンは其の体を何度も抱いた。



==================

個展は中止となり、結果的にマスメディアの格好の餌食にされ、芸術はまた消費されていった。
其れはあの芸術家の言った「ハイエナ」の行為だったのかもしれない。
盗作どころか作家違いの作品を飾ろうとしていた美術館側の人間すら糾弾された。
結局、芸術は消費され消化されていく。値と価値がつき、其れらがつかなかったものにはついたものとの明確な線引きがなされていく。

彼が罵り、行動で示した通り、どう転んでも芸術の世界は皮肉に溢れているのかもしれない。
人によって値と価値のつき方も異なり、其の値と価値すら疑わしいのかもしれない。
——そう考えながら、ケビンは、アトリエの中を見回した。
其処には何枚もの完成品の絵があり、どれも豊かな光と色彩に彩られていた。
ヒョンシクが絵に向き合っていたアトリエの中で、ケビンは初めてヒョンシクの絵を見た。
——此処に居たんだな。
フェルメールと絵を描くことが大好きな少年は、此の場所で絵と向き合っていたらしい。

「でも、最後まで怖かった。何となく逃げたのも、漠然と不安で。怖くて」
そう語ったヒョンシクの手を握り、 ケビンはもう一度誓った。

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結局、ヒョンシクに逢うことは無かった。



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最終搭乗案内のアナウンスが流れている。

出発ゲートの椅子に腰掛け、地面を離れて行く飛行機を眺めていた。
何処か急かされるように行動して、空港には三時間も前に到着したのに、いざ離れるとなると、其れ単体としては縁もゆかりも無い空港の窓からの景色も、懐かしく離れ難い景色に見えた。売店で買った味の薄いコーヒーを手に、ぼんやりと、此れからの生活を考える。韓国語で、自分の名前が呼ばれている。

いつかは此処に、戻ってくるような気がしていた。

一年前にまとめた荷物をあまり解かないようにしていたのは正解だった。むしろ、一年も仕舞い込んでも問題の無い品ばかりだったのかもしれない。あの国から持ち帰ったのはそのようなものばかりで、其れらをまた全部まとめて持って、移り住むために、今日、移動する。
「あの、キム・ジヨプ様でしょうか?」
若いグランドスタッフの女性が少し焦った、けれど申し訳無さそうな様子で声をかけてきた。
あまりに感傷に耽っていたのかも知れない。
「あ、はい、すみません」
「ゲートまでご案内いたしますので」
「はい」
温くなったコーヒーを一気に飲み干すと、カップを近くのゴミ箱に投げ入れてケビンは搭乗ゲートへ向かった。

さよなら。
育った土地に、別れを告げる。



既に乗り込んでいた乗客達に白い目で見られながら、ケビンは荷物棚にリュックを預け、二人掛けの窓側のシートに座った。隣に座った西洋人らしき老紳士は、遅刻気味の隣席の客にもにこやかに対応してくれた。

手にした画集を開く。飛行機はすぐにがたがたと大きな音を立てて揺れ始め、前絵と飛び立つ重力が掛かり出すのが分かった。窓の外は晴れている。午前中のフライトなので、向こうへ着けば次は違う大地の上で昼を迎えるのだろう。
加速して行く。
体中で重力を感じ、地面が傾くのを見た。

席の前にある布のポケットに入れた、画集を取り出して開く。
モノクロの絵ばかりの中に、一枚だけ、数々の色で彩られた絵がある。
春の庭園。
色とりどりの花がひしめくように咲き、ピンクや赤、黄色の暖色の色合いが美しい。キャンバスの中央よりもやや右側の、庭園の中心にあたる芝生の上に小柄な女性が立っており、体を少し傾け、舞うように両手を広げている。彼女は白いドレスをまとっていて、斜めになった顔は見えない。

きっと、此れ。

「——其の絵、綺麗ですよね」
見入っていると、隣に座った男性が話し掛けて来た。
「御存知ですか?」
急いで別言語の脳へ切り替えてケビンが顔を上げると、長いひげを生やした口元を緩め、男性が頷いた。
「ええ。最近有名じゃないですか?鬼才のアーティストだって。好きですよ、彼の絵。でも此れだけはちょっと」
「え?」
話の流れが変わった気がして、ケビンはほんの少し表情を変えた。
「彼の絵ではないでしょう」
「——!」
考えていたことを言い当てられて、驚く。
「良かった。同意見だ、という反応ですね。君みたいな人と働きたいです、キム・ジヨプ君」
「え?何で俺の名前……」
「あれだけなんべんもアナウンスで流れてたら嫌でも覚えますよ。それがまた、自分の新しい部下と同じ名前ならね」
「え?」
「ようこそフランスへ。明日から忙しくなりますよ」
ふふふ、と老紳士は笑った。よく見ると彼の身に付けているものが全て品の良いものばかりであることに気付く。男性は丸眼鏡の鼻当てを人差し指で押し、右手を差し出した。
彼は自分が学芸員で、研究と講義のためフランスを離れていたと言った。アジア各国を転々として最後に訪れた韓国からフランスに帰るところだということも。
そして、新しく学芸員として採用される新人のことも。
「ダミアンです。宜しく」
「ケビンです。イングリッシュネームがケビン。宜しくお願いします」
皺だらけだけれど、大きく、力強い手を握り返した。
「厳しくやるから、ついてきなさい。向こうに戻ったら、遅刻は認めませんよ」
「はい!」

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始めのうちは仕事を覚えることで精一杯だった。
ダミアンは専属のトレーナーとしてケビンの指導にあたり、彼を様々な場所に連れ出した。学芸員としてのヒントだけを与え、あとは殆どケビンの判断に任せる。しかし考え抜いた結果と認められるものでなければ、何度でも諾せず、やり直しを命じた。
真贋を見極めろ。
仕事論はシンプルだった。

「頑張ってますね。でも、アジア人は少々働き過ぎだ。たまには帰ってデートでもしたらどうです」
美術史の資料をデスクで確認していると、背後に気配を感じた。
「相手が居ないですよ」
苦笑まじりに、答える。
「さてそんなケビンくんにパーティーの連絡だ」
「パーティー?」

==================

真っ白な展示室の壁には、モノクロの大きな絵が額縁に入れられ、掲げられていた。
空と雪原、海沿いの街にそびえるビル、暗闇にある蛇と花……
それぞれの絵の前で、人々は立ち止まり、絵の意味についてあれこれと討議し合っていた。
ケビンは実際に目にするのは初めての絵を注意深く、見た。
けれど、一番見てみたいと思っていた絵だけが展示されていなかった。

「無かったですね」
スピーチが始まる、というので、会場の中心にあった広場にゲストが集められていた。其の団体の前の方にダミアンの姿を見付け、ケビンは人の合間をぬって無理矢理に其の傍まで歩み寄った。ダミアンへ話し掛けると、彼もケビンの言葉に同意した。
「きっと、サプライズがあるんですよ。あ、ほら」
ゲスト達がざわめき出し、小高く作られた簡易的な白いステージに注目が集まった。全員の目が向いていた壁の裏から、黒いジャケットと黒いスラックス、其処にジレと黒いワークブーツを合わせ、首にも腕にも指にも銀色のアクセサリーを付けた男性が現れた。彼が暗闇から姿を見せた瞬間に、会場は静まり返り、其の黒いブーツの立てる靴音だけが会場に響いた。
ケビンが彼の姿を見たのは二度目だった。

「皆さん、本日はお集りいただきありがとうございます」
彼は深々とお辞儀をし、スタンドマイクに手を添え、彼は独特の発音の英語でゆっくりと話し始めた。
滅多に人前に姿を現さず、インタビューにも応じない鬼才。
其の彼が初めてフランスの、しかも世界有数の美術館で企画展を開くと言うので、招待されたゲストたちは彼に注目していた。
「——って言うと思った?」

え?

会場にも、一瞬何を言われたのかが分からないという空気が漂った。

「ハイエナと、知ったかぶりしてる皆さんこんばんは。今日は俺のフィナーレに来てくれてありがとう」
役者のように声のトーンを変え、地を這う低い声で彼は言った。
フィナーレ?
「もう、俺は絵は描きません。いつ辞めてもいいやって思ってたから今日辞めます」
彼は両手でマイクを持ち、会場に集まった百数十という人数のゲストを見渡した。その視線と、ケビンの視線が合った。彼はケビンを見つめたまま、マイクに向かってもう一度語り出した。
「ずっとうんざりしてた。俺のなら何でも良いんだろ。点だろうが線だろうが、全部俺の人間性への勝手なこじつけも含めて、解釈してくれてありがとう。うんざりなんだよね、そういうの。俺が描けば何でも良いなんて、そんな訳無いだろ。バーカ」
彼は笑う。其の笑顔と態度を見て周囲は完全に混乱に陥っていた。けれども、何となく、其の言動と論理が分かる。ケビンはそう思いながら次の言葉を待っていた。
ぱちん、と彼が指を鳴らした。
控えていたサングラスをかけたシークレットサービスらしき二人の人間が、大きな布を被ったものを運んで、彼の傍らに立った。彼は設けられた小さな舞台の上で其の覆いを暴いた。

春の庭園。

ケビンはまず其の現物の大きな絵を見つめ、次にくるりと隣で立って様子を見ていたダミアンを見た。あれだ!あれ!目で合図をする。
壇上の彼は、ふん、と笑い上着の内側に手を入れた。

スプレー缶。
あ、
と思った瞬間に、絵は、色彩は、過去のものになった。

シンナー臭。
春の庭園の色彩の上に、一瞬にして十字架のように真っ黒な縦線と横線が引かれ、室内には其の臭いが充満した。鼻の粘膜を麻痺させるかのような臭いで、近くに居たケビンは一瞬噎せ返った。
彼はマイクスタンドからマイクを分離させ、派手なパフォーマンスをするように会場のある一点を見つめながら、言った。
「シク!」
ケビンははっと彼が壇上から見つめている視線の先を振り返った。
会場の、隅。ケビンの居た場所から5メートルほど離れた場所。何時来ていたのだろう。飛び抜けて高い背の人間が居た。ちょうど、壇上の彼と其の人物との視線を線でつないだ直線上に当たる部分に、ケビンは立っていた。
壁際に居た、黒目がちの目が、暗闇で揺れ、ケビンの顔を瞳に映し出した。
ヒョンシク——!
「ずっと後悔してた。ごめん」
其の人間が走り去るのを見、ケビンも思わず走り出した。「おい!」というダミアンの声も、ぶつかって聞こえた非難の声も、全部ケビンの耳には届かなかった。会場に集まった人間を掻き分け、出口を探す。ドアを開けると、夜の暗闇の中だった。いつか二人で訪れた、ナイトミュージアムのときのような。
広く、誰も居ない空間に響く遠くなって行く足音。

何故。
どうして。
其の疑問は拭えなかった。
恨んでた、とも言っていたくせに。
何故。
頭の中に疑問文ばかりが浮かぶ。
あれだけ自分が探しまわって見付けられなかったのに。
本当は、一日だって忘れた日は無くて。
思い出すのがつらくて、逢いたくて、何処に居るかも分からなかったのに。

ケビンは去って行く後ろ姿と少しずつ距離が近くなって行くのが気付いていた。



運動神経がめちゃくちゃ悪くて。
彼は猫に向かって言っていたっけ。



「シク!」
ライトアップされたガラスのピラミッドの前で、追い詰めた。
腕を掴み、顔を背けようとするのを、見た。
「俺だよ!」
「……あ……」
ヒョンシクは、追い掛けて来た人物の顔を見て、何度も瞬きをした。
「離して」
強く掴まれた腕を振り払おうと、ヒョンシクが暴れる。
「嫌だ」
「離してって」
「絶対、離さない——絶対に」

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冬は幕を引き、春の訪れを知らせる風が吹き始めていた。

ケビンは部屋の窓を開放して、荷物を片付けていく。
昨日までの出来事を、一つ一つ、大切なものを取り扱う手つきで、段ボールに仕舞い込んだ。
埃を被ったリモートコントローラー。柔らかい髪の為のシャンプー。借りて着るには趣味と袖丈の合わないパーカー。
遺失物のようになった其れらを棄てることは出来なくて、ケビンは自分の荷物とは別の段ボールに詰めて行った。

荷物の無くなった部屋には、黒いソファと白いベッドだけが取り残された。

自分と交替でやってくる大学院の後輩に譲ろうかとも考えたけれど、どちらも自分ともう一人以外の誰かに使われることに拒否反応があって、譲ることはしなかった。
其れらは今、解体業者に引き取られるのを待っている。

——空っぽだな。
引っ越して来た日のことを、ケビンは思い出した。
——元々、空っぽだったんだ。元々の状態に戻っただけ。
其処にヒョンシクが居るのが当たり前になって、でも其れがまた当たり前でなくなって、彼はいなくなり、荷物も無くなり、とうとう自分も居なくなる日が来た。
ケビンは思う。
積み上げた段ボールに背を凭れて、広い部屋を見つめた。開け放った窓からの風が、心地良く頬を撫でて行った。

Miaou Miaou

小さな声が聞こえて、ケビンはふと顔を窓の方へ向けた。
小さな猫が、窓枠の影から隠れたりはみ出たりしながら、部屋の中を——ケビンの方を見ていた。
茶色と金色の混じった柔らかそうな毛が、太陽の光に照らされ、少し強く吹いた春風になびいた。

Miaou……

突然の来訪者は、窓枠の影に体を半分だけ隠して、もう一度だけ鳴いた。ケビンは凭れ掛かっていた姿勢を起こし、窓に近付いていく。子猫は逃げずに其処に居て、じっとしていた。
窓の外で、誰かが叫ぶ声が聞こえた。
警戒心と好奇心を半分半分で持った目が、ケビンを見上げていた。手を出すと、びくっと小さな体を震わせるけれど、逃げたりはしない。ケビンはそっと其の小さな命を抱き上げた。なされるがまま、子猫はケビンの胸元に抱きとめられた。
「どうしたの?迷子?」
顔を見つめて、問う。垂れ耳の猫だった。
「Seek!」
先ほどから聞こえていた叫び声が大きくなって、ケビンはベランダに出て、地面を見下ろした。
「Seek!」
誰かの声が、建物と建物の間に消えて行く。目を凝らすと、髪の長い人が忙しなく辺りを見回しながら、歩いていた。
「どうかしましたか?」
ケビンは二階から叫んだ。地面に居た人は其の叫び声に気付き、声の方向ー—ケビンが立っていたベランダを見上げながら、ケビンの居たアパルトマンの方へ近付いて来た。
「其れ」
其の人はケビンの腕の中に居る茶色いかたまりを指差して、言った。
「そいつ」
ベランダの下まで近付いて来た人を見て初めて、彼が男であることに気付いた。そして、何処かで見たことのある顔だということに気付いた。

階段を下りて外に出る。腕の中の子猫はすっかり居心地が良くなったのか、一向に身動きせずに丸まり、抱かれたままでいた。下で待っていた男性に近付くと、思っていたよりも小柄で、華奢な人だという印象を受けた。
何より、美しい。男に対して滅多に使わないイメージの形容詞が、違和感無くぴったりと当てはまる顔立ちだった。
——思い出した。彼が誰だか分かった。
「ありがと」
ケビンが子猫を抱いて現れると、目の前の相手はにこりと笑った。
「いえ」
ケビンは其れを胸から引き渡した。子猫は一瞬だけ爪を立てて抵抗したけれど、引き寄せるもう一つの手に、強く寄せられていった。
「こいつ、滅多に逃げたりしないし、運動神経めちゃくちゃ悪いからまさかあんなとこに居るとは思わなかった」
男性は穏やかな声で言いながら、ケビンが来たベランダの方を見上げた。そして、猫の頭を撫でる。
「かわいいですね」
ケビンは腕に抱かれた毛玉のようにふわふわとした猫を見つめた。心の奥にしまい込んだ何かを思い出させるような、そんな存在だった。
「此の子の名前、何て言うんですか」
「Seek」
彼の独特の英語の発音は聞き取りにくかった。
「え?」
聞き返す。
「シーク」
口をはっきりと開けて、彼はもう一度子猫の名前を言った。

——偶然だ。
告げられた名前に、軽い衝撃を受けた。

「ペットに逃げられたのは二回目。最初のは、何処行ったのかも分かんなくなっちゃった。Seekは二代目なんだ」
美しい人は、そう言って猫の頭を嬉しそうに撫でた。戻って来たことを心から安堵している顔だった。

ふと感じる違和感。
ばらばらになった破片が、一つの像を構築して行く。
「あの」
気になって、声をかける。頭の中で再構築されようとしている或るものを、繋ぎ止めるのに必死だった。ケビンの声に、相手は、ん?と顔を上げ、瞬きを数回した。長い睫毛が揺れ、彫りの深い目の回りでホネガイのような影を作った。
「貴方は——」
ケビンが其処まで言いかけたとき、子猫が彼の腕の中で身を捩ってもがきだした。地面にぱたん、と降りた猫を、彼は慌てて拾い上げ、もう一度腕の中に包み込むように抱き締めた。
「あかんよ、シーク」
窘める響きの、知らない国の言葉が聞こえた。
「お兄さん、ありがと」
目の前の相手はケビンに向かって英語で礼を言うと、彼が歩き回っていた方向へ、立ち去ろうとした。
其の小さな後ろ姿を見送る。言いかけた言葉を飲み込んでしまった。
「——あ」
くる、と子猫を抱いた彼が振り返る。幾重にも編み込まれた長い髪が強い風に揺れ、ぱたぱたと音を立てた。猫の目と、彼の目がケビンを見つめていた。
「お兄さんなら、逃げたペットの行き先が分かるかも知れないから、もし分かったら伝えて」
何を言い出すんだ?

「『愛してる。馬鹿なことをしてごめん。お前とお前の才能を愛し過ぎたんだよ』って。『俺はお前になりたかったんだ』って」
猫が、ケビンに別れを告げるように鳴いた。

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何時の間にか部屋にはヒョンシクの荷物が増えていた。

日替わりで眠るルールになっているベッドに潜ると、枕から彼が使っているらしい柔らかい髪のためのシャンプーの香りがして、ケビンは妙な気分になった。初日は全く熟睡できず、其れ以後は枕は無い状態で眠るようにしていた。

寝室の灯りを消そうとして、かたん、とリビングを確認する。
同じ音楽が何回もループして薄いドアを揺らしていた。

細長い人体がソファに俯せに横たわっていて、頭から被ったブランケットから、手足がはみ出ている。ソファーの肘掛けから盛大にはみ出ている右手はリモートコントローラーを握り締めていた。テレビは付けっぱなしになっており、画面の中でサッカー選手たちがデモンストレーションを見せていた。
部屋の空調と体温が合わないのか、少し寝苦しそうにヒョンシクがもぞもぞと動いた。ぱさりと渇いた音を立ててブランケットが床に落ちたので、ケビンは拾い上げてヒョンシクの肩にかけ直した。
ジーンズにパーカー。「ゲームやるからテレビ使っていい?」「どうぞ」と言って部屋を出て別々の行動をを取った二時間前の格好のままだった。
「やってないならテレビ消すぞ?」
「んー……」
俯せで、鼻の奥にかかる声でヒョンシクは言った。
「やってる……」
「寝てる奴は皆そう言うんだよ」
「う…だから、やってるってば……」
のろまな攻防戦。
「寝るんならちゃんと着替えろよ」
「あは、ヒョン、お母さんみたい」
ヒョンシクが伏せた顔を上げ、立っているケビンを見上げながら言った。頬を持ち上げ、八重歯を見せるように笑う。
変わらない調子のゲーム音楽が、また回転して同じメロディを辿っている。
「……俺はお前の母親じゃない」
「じゃお父さん」
一向に起き上がる様子は無く、まるで動物園の大熊猫のようにソファに垂れている。

からかっているこいつを、からかってやりたい。

衝動的に、ヒョンシクの肩を掴んで、顔を思いきり寄せて鼻と鼻をぶつけた。
「恋人だろ?」
目の前の瞳がぱちぱちと激しく瞬きをするのが見えた。ケビンは満足げに歯を見せずに笑って、顔を数センチ離した。そしてもう一度肩を引き寄せて、ヒョンシクの体を自分の側に来るようにし、
其の右耳を一回、甘噛みした。
「おやすみ」



==================

「ナイトミュージアム?」
「そ。急に決まったの」
新しい美術作品の調査資料をまとめていると、資料係の中年女性が話し掛けて来た。其の単語に、キーボードを打つ手が停止した。また館長の気まぐれ、面倒臭いわ、と女性はあまり気乗りしない様子だった。
「いつですか?」
「今度の金曜日。職員と家族に開放するんですって」
カレンダーを確認する。確かに随分と急な日程で、計画的な手法とは思えなかったが、ストが多発している世間の状況を鑑みれば無理も無い話だとケビンは思った。つい先日も鉄道は止まり、飛行機は飛ばなかった。スーパーは休業し、ガスステーションも営業を中止していた。少しでも職員のご機嫌取りをしようとする館長の思惑も理解出来ないでは無かった。
「どうせ大してIDチェックもしないでしょうし、友達連れてくれば?」
ふと、フェルメールの絵を見つめていた彼の背中が、脳裏に描き出された。
「そうですね、誘ってみます」



「今度の金曜、インビテーションイベントで夜間開放があるけど、興味ある?」
其の日の夜、ケビンは家のテーブルで向き合っていたヒョンシクに尋ねた。ナイフとフォークの音がかたかたと響く。牛肉を端から切り、ケビンは口に運んだ。
「ある!」
ヒョンシクが素直に反応した。ナイフを振り回して子供のようにはしゃぐので、食器は振り回すなと教える。
「じゃ、開けといて。身分証明書持って来いよ」
「あ、うん」

==================

金曜日の夜がやってきた。

光を取り入れるように計算され作られた建物の中には、影と、美術品を照らし出す白熱電球の温かい灯りが立ち籠めていた。
職員や其の家族だけで、やはり昼間に訪れるときよりもずっと人が少なく、閉館直前の館内のように静かだった。けれど人々の高揚した感情による、胸が躍るような空気が其処にはあった。闇は人の気持ちを募らせ、対象物に対する興味の度合いを高めるのに有効だな、とケビンは思う。

数々の絵や銅像を無視して、二人は三階を目指した。階段を一つ一つのぼっていく。目的地はただ一つ、小部屋の一画だった。
天井の窓から、薄らと月の光が差し込み、青白く周囲を照らし出して二人の影を階段の別珍の絨毯に作った。其の影は重なったり離れたりしながら、やがて月の光の届かない場所に吸い込まれるように消えて行った。

二人で其の絵と相対するのはあの日以来のことだった。
と言うよりも、二人で美術品を目にすること自体、此れが初めてのことだった。

白熱電球の灯りが、緩やかに絵を照らしていた。
灯りの中で、レースを黙々と編んでいる。

「——フェルメールの絵が一番好きだよ」
ヒョンシクが短く言った。
「こうやって光を切り取れたらって、何度も何度も思う。柔らかくて繊細でさ。此の人に降り注ぐ光を集めてるみたいな」
絵に、そして彼自身に語りかけるように、ヒョンシクはぽつぽつと話した。
「俺ね、……もう辞めようって、全部嫌になって、此処に来たんだ」
ヒョンシクは急にケビンに向き直った。其の口元には自嘲の笑みが浮かんでいた。
「絵を描くのが?」
——気付いていた。彼が美術大学の学生なのに、絵の話をあまりしたがらないこと。どんどん部屋に増えて行く彼の荷物の中で、画材だけが無いこと。芸術の話をする度に、苦い顔をして曖昧に笑う彼のこと。
ヒョンシクは頷いた。

彼は低く抑えた声で、重苦しい気持ちを語った。
自分が製作した作品とまるで同じ作品が、ある芸術家の作品として発表されたこと。其れが「大先生の作品」として高く評価されたこと。自分が製作したときに、評価しなかった周囲のこと。盗作した芸術家のこと。
「勿論、其れが盗作じゃない可能性だってある。自意識過剰だって言う人も居るかも知れない。でも、許せなかった!恨んだよ!何で俺じゃ駄目なんだろうって!大先生が描いたものなら何でも良いのかって。高い値段を付けて、額縁に入れて、「誰々の作品」ってラベルを描いたものがあれば、皆満足なのかって。皆馬鹿だって思ってた。大馬鹿だって」
抑えきれられなくなった声を上げ、胸の内を絞り出すかのように体を震わせるヒョンシクを、ケビンはじっと見つめていた。
「嫌になった。芸術家も評論家も全員馬鹿で、結局金とコネクションだけが全てだって。誰かの名前があれば、盗作も贋作もクソみたいな作品も何だって売れるんだって。名前があれば、何でも良いんだよ。馬鹿みたいに賞賛するんだ」
ヒョンシクは酷く汚い言葉で、他人を罵った。此処まで感情を露にするのを見たことがなかった。フェルメールの絵の周りには人は居らず、ただ立ったまま話をしている二つの影があるのみだった。

ケビンは、暴走するヒョンシクの背中に手を回して、自分よりもほんの少し背の高い、大きな子供を抱き締めた。
「で?お前は馬鹿な学芸員でも一人引っ掛けてみようとか思った訳」
「そうだよ」
「発想があほうだなあ」
「あほうとか言うなよ」
「あほうだよ」
「……そうだね」

——あの日、自分と賭けをした。知ったかぶりをする大人に復讐をしようと。
——でも、自分は自分に負けてしまった。
「ごっこ」なんて言って、最初から其のつもりが無かったのは自分自身だった。
誰かに、見付けて欲しかった。分かって欲しかった。
もう一度、絵が描きたかった。なのに、描くのが怖かった。

「でもそのあほうに引っ掛かってるあほうも居る訳だから」
ケビンはぽんぽんとヒョンシクの頭を叩くように左手の掌で撫でた。
「イーブンだろ」



==================



次の日、ヒョンシクは姿を消した。

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お互い、長く此の地に居られないことは薄々分かっていた。
だから、彼は「ごっこ」と口にしたのかもしれない、と思う。



或る日ケビンがまだベッドの中に居た頃、けたたましくチャイムが鳴り響く音を夢の中で聞いた。
最初は居留守を決め込み、シーツを頭から被り直したけれども、一向に鳴り止む気配が無い。其れどころか、入口のドアを叩く音が聞こえた。
こんな時間に尋ねて来るなんて、隣の部屋に住む料理好きの婦人だろうか。また、オリーブを安く手に入れたからあげるわよ、とでも言うのだろうか。ケビンはのろまな動作で起き上がり、ぱたぱたと廊下を歩いた。
玄関の覗き穴を見て、一気に虚ろだった目が覚めた。
バタン
「どうしたの?」
「俺、今日から此処に住む」
「は?」
長い脚がケビンとドアの間にある僅かな隙間に伸びて、其のまま空間をこじ開けた。ボストンバッグをぶら下げたヒョンシクが強引な仕草で扉の内側に入って来る。
「どういうこと?」
「だから、今日から一緒に住むの」
扉を閉めて、部屋の中に足を踏み入れる空間で、ヒョンシクがケビンに向き合った。
接続詞の「だから」という言葉が、強烈に順接の意味を失っていた。どの文脈をも無視して、ヒョンシクはケビンの境界線も飛び越えて来る。
「恋人同士なんだから、一緒に住んでも問題無いでしょ?」
靴のまま部屋の中へ上がり込んだヒョンシクは、周囲の壁や扉を見回しながら廊下を歩いて行く。ケビンは慌てて玄関の鍵を閉め、ヒョンシクが部屋を見て回るのを追い掛けた。
ヒョンシクが辿り着いたケビンの寝室にしていたスペースで、ヒョンシクは立ち止まっていた。朝のやわらかい日差しがカーテン越しに差し込み、白い光の中で塵が見えた。
「前住んでた家は」
「出て来ちゃった」
床にボストンバッグを放り投げると、さっきまで自分が寝床にしていたベッドにヒョンシクがジーンズのまま腰掛けた。ベッドのスプリングや、固さを確かめるように両手をばたばたと動かし、床から離した足を揺らした。
「わ、ベッドふかふか!」
「お前あっちのソファで寝ろよ」
ケビンはリビングの方向を右手の親指を立てて示し、顎をしゃくった。其の様子を見て、ヒョンシクはますます声を弾ませた。
「……住んでも良いんだ」
「だめって言った所で出てく気なんか無いだろ」
「うん」
「だろ?」
だから良いよ、別に。そのかわり全部家賃も家事も部屋の使い方も全部イーブンにしよう。ケビンは諦めの響きを含ませて、言った。
「じゃあベッドもイーブンにしようよ」
そう言って目を細め、流し目を送って来る年下の男。
「ベッドとソファでイーブンだ」
シングルにしては広いくせに、ダブルにしては狭い大きさのベッドに座っている相手に、背を向けた。

「——待って」
後ろから小走りに駆け寄る音が聞こえて、抱き締められた。
腰の回りに両腕を回され、背中の真ん中あたりに頭を押し付けられる。

「恋人ごっこ」を始めて2週間、平日は毎日ケビンの仕事終わりに会って、其の日に思い付いたレストランで会話をした。週末は恋人のふりをして手を繋いで街を歩いた。たまたまケビンの仕事が午前中で終わった日には大きな犬を借りて、塔の見える公園へ出掛けた。海老とレタスが挟まれたバケットサンドをかじりながら、雑貨店を冷やかしたりもした。そんな日々が続いていた。

——幼いヒョンシクと、大人びたヒョンシク。偽りの恋人の彼に、惹かれていないと言ったら、嘘になる。ケビンは回された腕に、自分の手を重ねた。

「しばらくこうさせてよ……」
にこにこしていた割には、其の言葉は頼りなく響いた。
何となく、振り返る。揺れる眼差しと、ケビンの眼差しがぴったりと合わさった。ヒョンシクに絡められた腕の中で、ケビンが体を反転させ、少し高い位置にあるヒョンシクの顎に手を添えた。
何となく。
何となくした方が良いかなあって。
先に瞼を閉じたのはヒョンシクだった。

キスをする。

突拍子も無く行動して人のテリトリーに踏み込んでくるくせに、自分のことを話したかがらない「恋人」。多分、何かを抱えている。其の「何か」の正体は未だに分からないけれど、触れるようになれないだろうか。其れは「恋人ごっこ」の域を逸脱することだろうか。分からない。分からないけれど。
「ん……」
ヒョンシクが吐息を吐いた。其れがまた頼りなく、朝の光の中に吸い込まれて消えていきそうになる。手繰り寄せるように頬を掴んで、気持ちを伝えるためのキスをする。

"傍に居るよ"

言葉にすれば嘘になるから、ただ、唇を重ねる。
一瞬目を開けた時に、ヒョンシクが左目から一粒零した涙に気付いた。

拍手[12回]

——まるでスタンプラリーか借り物競走だな。

もう何度目か。
首の無い女神像の置き場を尋ねられたり、両腕の無い女神像の置き場を尋ねられたり。彼らが手にしている案内書を目にする度に、ケビンはうんざりした気分になった。
限られた時間で、効率良く広い館内を回るためには、或る程度展示物を絞って見なければならない。しかし、余りにも慌ただしく見て回り、他の展示品を素通りすることは、作り手に対しても展示品そのものに対しても何処か申し訳無い気がする。

——ガイドブックに載っている写真と実物とを見比べて、「確かに実物を見た」と思いたいのかも知れない。けれども、其れは果たして芸術品の鑑賞なのだろうか。彼らは自分の意志で其の美を見つめようとしているのだろうか。

宛の無い問答を脳内で繰り返しながら、事務作業のように英語で道案内をする。英国人らしき老夫婦はにこやかに頭を下げ、ケビンが指差した方向に向かって行った。軽く会釈をして、また学芸員が腰掛けるための椅子に座り直す。
ぼんやりと人が行き交うのを見つめていた。
「すみません」
呼び掛けられて顔を上げた。いつ近付いていたのだろう、大きな影がケビンの体を覆い隠していた。
顔を上げると、腰を追って身を屈めた格好の「彼」と目が合う。えくぼを作る笑い方をして、彼は言った。

「フェルメールの絵は何処に在りますか?」

愚問だな、と思う。ケビンも笑顔を作った。他の観覧者に迷惑を掛けないよう、小声で返答する。
「なら三階ですので……」
知っている筈だろう。此の間あんなに穴が開くほど見ていた癖に。ケビンは初めて会ったときのことを思い出していた。
「案内して」
ケビンが首から下げていたストラップに右手の人差し指を掛けて引っ張りながら、ヒョンシクが笑った。まるで飼っている犬の手綱を引くような仕草で、細長い指が動いた。
「此処をまっすぐ行けば階段がありますから、階段から右手側に行って38番という部屋に行けばありますよ」
ケビンは淡々と説明し、彼が引っ張るストラップを手繰り寄せた。
すると彼は手を放し、首を左右に数回振った。
「つれないなあ」
「持ち場は離れられませんから」
「成程ね」
遣り取りに飽きたのか、ヒョンシクは言われた通り階段へ続く道の方向を見るように体を動かした。
「——あ、じゃあ」
「?」
「離れるのはいつ?」
ヒョンシクは、ケビンが座り直した椅子を指差した。
「美術館が閉まったら」
ケビンの回答に納得した仕草で人差し指を立てた。
「あともう一個教えて。美術館が閉まった後、時間のあるアジア人の学芸員さんって居るかなあ?」

「——逆さピラミッド広場に」

ケビンの反応を少しだけ恐る恐る窺っていた顔が、満面の笑みに彩られた。
あの日と同じコートを翻し、ヒョンシクは教えた通りの道を歩いて行った。其れを見送ると、また別の観光客から道を尋ねられた。此の国の言葉で、恐らく田舎の出身なのだろう、少し訛りのきつい話し方をする男性だった。しきりにヒョンシクが希望したのと同じ画家の絵を見たがっていた。

==================

職員専用出入口を出て、今日は地下のフロアを目指して行く。細長く、柔らかいベージュ色の歩道を歩いて行くと、逆さまになったガラスのピラミッドがあった。
そして、人混みに埋もれきれない、細長い彼を見付ける。
「お待たせ……で、合ってる?」
ケビンは近付きながら疑問符を投げかけた。
「合ってる合ってる。待ってたもん」
人懐っこい笑顔が目の前で弾けた。

ショッピングモールを歩いていく。雑貨店。洋菓子店。時折遅くなるヒョンシクの歩みに合わせて、ケビンも行儀良く並べられた売り物を見つめた。ショコラを取り扱う店の前でヒョンシクが動かなくなったので、一粒だけでも高価なショコラを買って与えると、大口を開けて一口でぱくりと食べられてしまった。

歩いている最中に、ぱっと左手を掴まれ、何となく繋いだままで歩いた。
其れは、大きな子供があっちへ行きたい、こっちへ行きたいと言うのに振り回されている気分だった。



「——唐突な質問していい?」
フードコートでベトナムの麺料理を注文して食べているヒョンシクが麺をすすりながら言った。
「何?」
「恋人居る?」
「居ないよ」
何だそんなことか、とケビンは手元のスープを口に運びながら答えた。
「じゃあさ、」
食器の触れ合う音。人の話し声。店員たちの呼び声。周囲ががやがやと騒がしい中、ヒョンシクは少し声を大きめに出した。
「恋人ごっこしようよ」
「!?」
吹き出しそうになったのを慌てて堪え、恐ろしい回数の瞬きをした。ごくん、と口の中のものを嚥下すると、目の前で笑っている相手の顔をまじまじと見た。
「其処まで吹くこと?」
「吹くだろ……」
「嫌?」
「って訳じゃないけど」
「じゃいい?」
「……」
「いいって言ってよ」
「強要?」
「同意してくれたら嬉しいな、って話だよ」
「…………」
拗ねたように口を歪め、頬杖をついて遠くに視線を動かす。其の様子に、何だか自分はとんでもない次元の違う人間と出会ってしまったのではないか、という気になる。
「まあ……」
有無を言わせない問いに対する回答は、諾しか存在し得ない。ペースは完全に彼のものだった。
ヒョンシクが頬杖をついた姿勢のまま、口角を上げ、視線をケビンに向ける。
其れは何処か挑発するような、試しているような眼差しだった。



奇妙な生活の始まりだった。

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レースを編む女を描いた絵の前に、誰かが立っていた。

館内には閉館を告げる放送が、様々な言語でかわるがわる流れている。
出口へと向かう観光客たちと逆方向に向かいながら、ケビンは其の人影に近付いた。
「ご観覧中申し訳ありません」
遠目からでも背の高い人物だと思ってたが、背後から声をかけると、やや自分よりも頭の天辺が高い位置にあることに気付く。ケビンは目線をほんの少し上向きにし、其の小さな後頭部に向かって英語で声をかけた。
「もうすぐ閉館時刻ですので」
振り向いた相手は、整ったアジア系の顔立ちをしていた。後ろ姿では気付かなかったが、年齢は自分と同じくらいか——少し下。色白で、目は黒い部分の方が多い。

「——此処で働いてる人?」
青年が、口を開いた。ケビンの胸元にあるネームプレートを見つめながら質問する。其の口から零れたのは韓国語だった。
「一ヶ月前から」
質問に同じ言語で答えると、相手は納得したように頷いた。
相変わらず、閉館の放送は途切れない。其れどころか、人の少なくなった館内で壁に音が当たって反射を繰り返し、余計に大きく響くようであった。
青年はきょろきょろと高い位置にある首を軽く回し、辺りに自分とケビンしか居ないことを確認した。
「退散するよ。手間かけてごめんね」
青年が小回りにターンをすると、羽織っていたロングコートが無風の空間ではためいた。去って行く背中を見、彼が見つめていた絵を見た。

「フェルメール、か」
小さな小さな絵は、暗く人の少ない館内でも、時が止まったかのように明るい光の中でレースを編んでいた。

==================

インターンの活動日誌をレポートにまとめると、ケビンはシステムをシャットダウンし、ノートパソコンを鞄の中にしまった。周囲の仲間に声をかけ、先に帰宅することを告げる。

今日は何を食べよう。
家にあるハムとトマトとチーズで、適当にサンドイッチを作って……
あまり腹が減っている訳では無いし今日は其れで済ませて、明日の朝の為にカマンベールチーズとバケットだけ買って帰ろうかな。

料理のメニューをあれこれ考えながら寒空の下を歩く。
ガラスのピラミッドが見えて来た。昼間よりも人は少なくなったとは言え、夜のピラミッドを見ようと未だ観光客はちらほら見かける。彼らの構えたカメラのシャッターが時折光り、青白い光を感じる。
夜空には星が煌めいていた。
ケビンはふと、見覚えのある面影に気付いた。

——さっきの。

相手も気付いたようで、こちらを見ていた。黒いコートの左右のポケットに手を入れたまま、息を白く吐きながら立っている。背の高い、青年。
「ね、暇?」
随分長いこと外に居たのか、頬が赤い。彼は其の頬を緩ませながら、柔らかい笑顔で言った。
「付き合ってよ。夕飯一緒に食べる相手探してたんだ」
探した割に、二時間見つからなかったのか?
ケビンはちらりと時計塔の時計を確認した。閉館時刻から、既に二時間が経過している。
特に予定は無い。今日の予定は帰って、料理をして、食べて、寝るだけだった。
其れに——インターンシップで此の国に来て、わざと母語を封印した生活を送っていた分、気軽に話せる韓国語の話者に飢えていたことも事実だった。
何より、相手の邪気の無さに、疑念を削がれたというのが一番だった。
「良いよ。ワインは飲める?」
仕事場を離れ、一般人同士の立場になったので、ケビンも言葉遣いをフランクなものに変えた。

==================

ワインを片手にガレットを食べ、二人は話した。

年はケビンの方が少し上。
彼はヒョンシクと言い、大学で油画を学んでいること。

「学校は休みじゃないだろ?良いのか、単位とか」
ケビンはふと、気になって尋ねてみた。
「良いの。煮詰まったから旅行してるんだ」
大口を開けてガレットの最後の一口を放り込み、ヒョンシクは白ワインを飲み干した。
今までよく笑っていたのに、煮詰まった、と本人が口にして苦い顔をしたので、ケビンは其れ以上質問を重ねる気は無かった。

其れからまた幾つかの他愛のない話をして、夜は更けて行った。
腕時計を確認すると、夜22時を回っていた。
気分が高揚していた所為か、やけに饒舌になっており、話し過ぎて喉が渇いたのか酒量が増えていた。少し酔ったかな、と思う。目の前にテーブルを隔てて座っている相手も、頬が赤い気がする。
焦点の定まったような定まらないような目で、ケビンは相手に今日一番の質問をした。
「何で俺に声かけてきたの?」

口を開かずに立っていれば、他の観光客の女でも現地の女でも、放っておかないような容姿の持ち主である。少し会話しただけでも、彼が聡明で、頭の回転が速いこともすぐに分かるし、愛想も良い。なのに、何故。
食事の相手なら、誰でも良いじゃないか。俺でなくても。

「理由が無きゃだめ?」
ヒョンシクはそう言ってにこりと笑う。
其の切り返しに、ケビンは「だめってことは無いけど」と言うのが精一杯だった。

不思議な魅力のある奴だな、と思う。
顔は男の自分から見ても整っていると思う。身長も高く、手足が長くて見栄えが良いし、どんな服を着ても似合うのかもしれない。
嫌味も無い。言葉遊びも上手いし、何となくテンポが合う。けれど、ときどきふっと感情の掴めない表情になる。例えば、さっき本人の創作について尋ねたときのように。
自分が女だったら、とっくに流されているかも知れないし、彼の性別が男ではなく女だったら間違いなく惹かれている気がした。

同性だから、で感情を片付ける。



ヒョンシクは転がり込んでいる知人の家に帰ると言い、ケビンも別方向に或るスーパーに寄ってアパルトマンに帰る、と言って別れた。
特に連絡先も交換しないまま、ごく自然に別れはやってきた。



帰り道の地下鉄のホームで、彼がやってくるのではないかと一度、振り返る。

けれど人気の無いホームでは何組かのカップルと新聞を手に持った中年男性が居るのみで、距離の無い隣の駅を出た地下鉄の音が聞こえるばかりだった。

拍手[11回]

今自分が居る場所の住所を伝え、ヒチョルが固定電話の受話器を置いた。
「——其れで良いの?」
背後で声が響いた。背中から抱き締められ、腰に腕が回される。肩に顔を乗せられたまま、少し彼が揺れた。
「分からない……もう、行くね」
体を翻して、相手の腕から逃れる。彼は「支度をしろ」と言っていた。其れは元々自分が頭数に入っていなかったことを意味していたし、そうでないにせよ此処を離れてすぐに宿舎に戻るべきだと思った。
暗がりの中、黒いシャツを羽織り、袖口のボタンを止める。傍にあった鏡を見た。
自分と、相手が映り、鏡の中で目が合う。
「ヒチョル」
名前を呼ばれた。
「本当に良いの?」
「——あんたには分かんないかも知れないけど、そういう『好き』もあるんだよ。報われなくても、相手が今幸せなら良いみたいな……綺麗事かもしれないけど、其のくらいでちょうどいいんだ」
言葉が全てではない。行為も全てではない。ただ、見守るだけの愛情もあるのだと。
「分かるさ」
「え?」
「何でも無い」
「?」
「さ、行きな」
ヒチョルは促されるまま、扉を押し、外に出た。

最後の挨拶は、無かった。

==================

ヒョンシクは泣いていた。
ケビンの腕に抱かれて、冬空の下、佇む。
其の涙に気付いて、ケビンがヒョンシクの頬に触れ、人差し指の膨らみで泣いたそばからぱりぱりと乾き凍って行く涙を拭う。
睫毛に涙の水滴が小さな雫となって付着し、瞳は潤んで、ケビンを見つめた。

「ごめんね」
謝り、話す声は涙声となって途切れ途切れになった。
「俺が、変な目で見てるの、気付いてたんでしょ……其れで、俺の様子がおかしいから、って、ヒョンは、優しいから、合わせてくれてるんだね……。ごめんね、変なこと言わせて。ごめんなさい……」
鼻が赤くなっていた。ケビンがヒョンシクの背中を擦ろうとすると、ヒョンシクの手がやんわりと拒絶してきた。
「やめて……此れ以上惨めな気持ちにさせないで」

——俺が、同情や間に合わせの感情で「好きだ」と言っていると思っている?

「ヒョンシク!!!」
大声で名前を呼び、両肩を掴んで揺さぶった。
「惨めって何だよ!俺が本気じゃないとでも思ったか?」
「本気じゃないだろ!?違う!?」

失うものが多過ぎる。貴方の抱えているものの大きさが、痛いくらいに、泣きたいくらいに分かるから。

「違う!!!」
ケビンはもう一度強く、強く抱いた。

「好きな人が出来た。たまたま好きになったのが、お前だった」

其の言葉に、ヒョンシクはまた涙を流した。
きつく抱き締められている所為で、涙が頬に触れたまま凍り付き、その上を冷たい風が滑って行く。寒い。けれども寒いのは顔の肌だけだった。
あとは、強く、深く、人の温もりを感じていた。
「ヒョンシクの気持ちが知りたい」
耳許で囁かれた声は先ほどの怒鳴り声とは異なり、脆弱な響きを持って耳に届いた。

「好き。ヒョンが……好き」

泣きながら呟き、ケビンの腰に触れた指先に力を込める。かじかんだ手が震えて、少し痛かった。
其れでも暫く二人は抱き合ったままで居た。
まるで世界に二人しか居ないかのように、冬の夜の黒と白と灰色の景色の中、何時前も抱き締めあった。



「死にたいくらい寂しかった。居場所なんか無いと思ってた」
「あるよ。此処に」



ケビンが顔を近付ける。
ヒョンシクが瞳を閉じる。
唇に冷えた相手の唇が当たる。そして、口を開ければ舌が絡まって暖かい人間の体温を感じた。
深くなり、貪り合う。
孤独を重ねるように、不安や迷いを分け合うように、口づけを交わした。
時間にして一瞬。
けれども果てし無いキスだった。



fin.

拍手[9回]

微睡みの中で彼が誰かと話している声を聞いた。
音のしないアナログ時計を針を見ると、午前2時を20分ほど回っていた。
開かない目で声だけに意識を集中する。

「今から?——いいよ」

其の返事に、ヒチョルは被っていたシーツを持ち上げた。
「駄目だって……!」
ヒチョルはベッドから飛び降り、携帯電話を持って部屋の隅に立っていた相手の腕を掴んで携帯電話を奪った。既に会話は途切れており、耳に当てたスピーカーからは、通話が終了していることを知らせる音が響いた。
「支度して?ヒョンシク君が、来るよ」

==================

ケビンとジュニョンが話していると、がたん、と何処かの部屋から音がした。
誰かが出掛けるのだろうか。

足音。
一緒に住んでいれば、誰が立てる物音か位、顔を見なくても分かるものだ。

「ヒョンシク!」

ジュニョンが気付き声を上げて引き止めたが、相手は激しい勢いで玄関に移動するように走る音を立てた。
こんな時間に、何も断りを入れずに出掛けるなんて妙だと、ジュニョンは思った。
——人と逢って来る、と言って出掛けたヒチョルならまだしも。

糸。
ジュニョンの網膜に、蜘蛛の巣のように張り巡らされた糸のイメージが広がり、脳内に映像を描いた。
糸が、絡まって行く。
誰かが、蜘蛛の巣を壊そうとしている。
其の巨大な手。

椅子から立ち上がったジュニョンは、キッチンの傍で立ったままのケビンの顔を見た。
「ケビン、俺はさっきの質問には答えない」
ケビンの傍に歩み寄り、彼の腕を掴んで言った。
「答えは出てるんじゃないのか。質問している時点で、疑ってるんだろう?」
ジュニョンの眼差しの強さに、ケビンは詰問されている気になり瞳を逸らした。
「追い掛けてこい」
二人の背後で、宿舎の固定電話が鳴った。

==================

足の遅いヒョンシクに追い付くのに、時間はかからなかった。
深夜でタクシーも見当たらない中、人通りの少ない道を走る音を目掛けて、ケビンは走った。

夢中だった。

「ヒョンシク!」

叫ぶと、数メートル先の相手は肩をびくつかせて立ち止まり、振り返った。
長い影が、街灯に照らされ、アスファルトの道路に伸びている。
「ケビン……ヒョン」
「待ってくれ」
「やだ」
ヒョンシクは後ずさりをした。影が、ケビンの足元から逃げて行こうとする。その影を踏みケビンは逃げる相手の手を取った。
「話を聞いてくれ」
「話なんかない!」
振り解かれる。
「ほっといてよ……ヒョンには関係無いだろ」

「ある」
もう一度、其の手を掴んだ。
「あるよ」

暗がりで、ヒョンシクの表情が見えづらい。
街灯の光が目に入り、月の角度を知る。仄かな逆光だった。
マフラーをぐるぐると巻き、目元だけをちらりと覗かせていた。

ケビンは、手にした冷たい手を、握った。

「言わなきゃならないことがある」
「聞きたくない」
ヒョンシクはマフラーに顔を埋め、掴まれていない方の右手で右耳を塞いだ。
「聞いてくれ」
手を、引っ張る。
「どうしようもないほど、お前が好きだ」

ヒョンシクが、顔を上げた。
右耳に当てていた手が、はらり、と力無く地面に向かって下ろされた。
彼の体の力が抜けた瞬間を見計らって、ケビンはヒョンシクを抱き寄せた。
影が、
重なった。

「好きだ……」
また少し背が伸びて男らしくなった背中を抱き締め、聞こえるようにケビンは言った。
きつく抱き締めた。
ただ其れしか出来ることが無かった。
きつく抱いてやれることしか。

ヒョンシクは抱き締める力の強さに体を固まらせていたけれど、
もう一度ケビンが「好き」と言ったとき、両脇の下から手を入れて、両肩に触れた。

氷点に達しようとしている気温の中、お互いのコート越しの温もりだけが確かだった。

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Profile
HN:
はまうず美恵
HP:
性別:
女性
職業:
吟遊詩人
趣味:
アート
自己紹介:
ハミエことはまうず美恵です。

当Blogは恋愛小説家はまうず美恵の小説中心サイトです。
某帝国の二次創作同人を取り扱っています。

女性向け表現を含むサイトですので、興味のない方意味のわからない方は入室をご遠慮下さい。

尚、二次創作に関しては各関係者をはじめ実在する国家、人物、団体、歴史、宗教等とは一切関係ありません。
また 、これら侮辱する意図もありません。
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