ブログ内検索: | |
まず、労働基準監督署の職員を大増員して、サービス残業を厳しく取り締まるようにする。
そんなことをしたら、経営者が困るだろうって?
いえいえ、経営者は困りません。
むしろ、喜ぶ経営者も出てくると思います。
それどころか、生産性が高まり、利益が増える企業も出てくると思います。
なぜか?
そもそもなんのためにサービス残業をするのかというと、自社もサービス残業をしないと、サービス残業をしてコストを引き下げて商品を安くしたライバル企業にお客さんを奪われてしまうからです。
ところが、労働基準監督署の職員が大幅に増員されて、自社だけでなく、ライバル企業も含めて、全てサービス残業がなくなれば、サービス残業をしてまで商品を安く販売するライバル企業はいなくなります。
そうなると、自分の会社も無理してサービス残業してまで、商品を安く提供しなくても、ちゃんと案件を受注できるし、利益も出るようになるのです。
もちろん、顧客から見ると、商品やサービスの価格が一斉値上げされることになりますから、市場全体の需要は縮小します。
「安いならたくさん買うけど、高くなったから少ししか買わない」というお客さんも、たくさんいるからです。
しかし、そもそも、サービス残業を前提とした低価格で維持されていた市場規模というのは、そもそも不健全なのです。
だから、サービス残業がなくなって、商品やサービスの価格が上がった分だけ顧客が買い控えて市場規模が縮小するとしても、それはそれでいいのです。
もちろん、市場が縮小すると、その分だけ倒産する企業は増えますし、リストラされて失業する人も増えます。
しかし、サービス残業をすることでしか維持できない雇用というのは、そもそも不健全なので、それによって失業者が増えてもいいのです。
その失業者は、後述する別の政策で、対処した方がいいのです。
また、社員を長時間サービス残業させるために、経営者自身が長時間労働しているケースもよくあります。
本当は、もっと早く帰りたいのに、社長だけ先に帰ってしまって、社員にだけ残業しろとは言いにくいからです。
なので、全社一斉にサービス残業がなくなれば、社長も社員をサービス残業させるために無理に長時間労働しなければならない圧力が減り、QOLが改善することも多いのではないでしょうか。
また、朝から深夜まで、ひっきりなしに社員に指示だしをしていると、じっくり経営改善策を考える時間がとれません。
社員がさっさと帰れば、経営者は一人でじっくりと経営方針について考えることができ、適切な経営効率化のプランを練ることができるのです。
これによって、経営効率を上げ、生産性を上げることができるのです。
末端の労働者が工夫を積み重ねるのも生産性向上にはなりますが、経営者が陳腐化した経営方針を素早くアップデートし、見込みのない事業を素早く打ち切り、的確に会社の人員その他のリソースを配分し直す方が、生産性の上昇効果は大きいのです。
国家の生産性は、上位3%の行動しだいで、かなりの部分、決まってしまうのです。
サービス残業を厳しく取り締まると、日本人労働者は、新興国の低賃金労働者よりも割高になるから、輸出企業は国際競争力を失って、海外へ流出し、産業の空洞化が起こる、という話もあります。
しかし、そもそも、なぜ、サービス残業をしないと国際競争力が維持できないかというと、新興国の通貨に比べて、円が高すぎるからです(実質実効為替レートで)。
なんで円が高すぎるのかというと、世界中に、日本製品を買いたがる人がたくさんいるからです。
日本製品を買うには、日本円を手に入れる必要があります。
なので、みんなが日本円を手に入れたがります。
そうすると、需要と供給の関係で、日本円の相対価格が上がってしまうのです。
しかし、サービス残業が禁止されたために日本製品の価格が割高になれば、その分だけ、日本製品は買われなくなります。
日本製品は魅力的だけど、すごい割高になったから、それよりも割安な韓国製でがまんするか、という人が増えるのです。
そうなれば、日本円を手に入れたいという人が減ります。
すると、日本円の需要が減って、日本円の相対価格が下がり、円安になるのです。
そして、円安になれば、日本製品はその分だけ割安になるので、また売れるようになるのです。
もちろん、為替レートは投機筋など、それ以外の要因でも動くのですが、それは別勘定でいいと思います。
重要なのは、サービス残業を禁止することによって国際競争力が落ちたら、その分だけ円安圧力が高まるので、それによって国際競争力が元に戻るという力が働くので、為替の変動要因まで考慮すれば、サービス残業の禁止は、それほど国家経済に与える影響は大きくない、という点が肝要なのです。
また、サービス残業を前提とした超低価格製品を売ることで、ギリギリ経営が成り立っている零細企業もたくさんあるかもしれません。
サービス残業を前面禁止すれば、そういう零細企業は商品を値上げせざるをえないわけですが、そうすると、顧客は買わなくなり、その分野で中小零細企業がバタバタ倒産するのではないか、という指摘もあるかもしれません。
しかし、実際には、倒産するくらいなら、それ以前に、従業員の賃金単価を下げると思います。
時給2000円でもサービス残業をすればぎりぎり経営が成り立っていたけれども、サービス残業が禁止されて経営が立ちゆかなくなったら、経営者は、倒産するか、社員の時給単価を下げるかの二択になります。
そうなると、サービス残業を禁止する代わりに、時給単価を1500とか1000円とかにしてもらうことで、つじつまを合わせる企業も多くなるのではないでしょうか。
問題は、サービス残業を禁止すると、最低賃金以下にしないと、採算が合わなくなるケースです。
その場合、その企業には潰れてもらうことになります。
しかし、そもそも、サービス残業を禁止したら、最低賃金以下にしなければ採算が合わないようなビジネスは、あまり健全とは言えないことが多いので、潰れてもらう、という政策もアリだと思います。
それによって、国の文化遺産的な何かが失われるケースに対しては、国が補助金を出すなど、別の政策で拾い上げる方が、スジがよいと思います。
労働基準監督署の人員を強化し、サービス残業などの違法労働を厳しく取り締まれば、それによって商品やサービスの価格が上がって、市場が縮小し、雇用も縮小し、失業者が増えます。
それをそのまま放置すると、働けるのに就職先が見つからずに生活保護を受給する人がどんどん増えてしまいます。
そういう人を無理に働かせようとするマネージメントコストは、その人に生活保護を支給して養うコストよりも大きいので、普通に生活保護を支給した方がいいのではないか、という意見もありますが、それは疑わしいと思います。
もちろん、十分に景気がよいのに、それでも就職先が見つからないという人であれば、もしかしたら、そのとおりである可能性もあります。
労働に適さない人というのは、たしかにいますから。
しかしながら、不景気の時は、それなりにちゃんと働ける人まで、失業してしまうものなのです。
労働基準法の厳格適用による市場縮小が生み出した失業も、それと同じく、マクロ経済的要因で生まれるものなので、働く適性がないので無理に働かせない方がいいという人材ではないと思われます。
また、非伝統的な大規模な金融緩和やインフレターゲットなどのマクロ経済政策によって、景気を回復させ、雇用を生み出し、失業率を下げることで対処すべきだ、と言う方もいらっしゃるかもしれません。
しかしながら、その政策だけでは十分ではありません。
第一に、そのような思い切った金融緩和策は、いつ、どれくらいの規模でできるものなのか、不透明です。もちろん、政治的な意味でです。
それに反対する人も多いのです。
ですから、思い切った金融緩和策を進めると同時に、それが政治的に頓挫したときの保険として、それ以外の方法で、雇用を確保する政策も、平行して進めておく必要があるのです。
第二に、思い切った金融緩和策を行えば、それだけで大部分の失業者が吸収できる保証はありません。効果はあるでしょうが、それによっても救済されない失業者が、依然大量に残る可能性も大きいのです。その、残りの失業者たちの対策も、必要なのです。
もちろん、生活保護は必要なのですが、働けるのに生活保護を受給しながら働かずに暮らすということは、本人とっても、社会にとっても、悪い副作用が多いと思うのです。
私の場合、働いて月に14万円もらうのと、働かずに月に14万円もらうのでは、後者の方がはるかに気持ちも体も楽だと思います。
そして、私のような人は、かなり多いのではないかと思います。
おそらく、私が働かずに月に14万円もらえる経験をしたら、あらゆる知恵を振り絞って、その状態を維持しようとするようになると思います。
いったん私がその状態になったら、私を働かせようとするお役所の職員の方は、まったく割に合わない酷い苦労をしたあげく、結局あきらめることになるのではないかと思ったりします。
もちろん、全ての人が私と同じぐらい怠惰だと言うつもりはありません。
むしろ、働かないと落ち着かない、気分がよくない、という方もたくさんいると思います。
しかし、一方で、口には出さないだけで、私と同じような人はかなりの割合でいると思うのです。
そういう、私のような人種にとっては、働けるのに生活保護で暮らすというのは、一種の麻薬的な効果を持つのではないかと思うのです。
ごく短期間ならいいですが、長期になると、中毒になって、是が非でもそれにしがみつこうとしてしまうのではないかという気がするのです。
そして、それよりも、もっと現実的な理由もあります。
働けるのに職がないという理由で生活保護を受ける人が増えると、それに反発する納税者が増え、生活保護受給者への風当たりが強くなると言うことです。
もっと分かりやすい言葉で言うと、納税者の憎悪がふくれあがると思うのです。
もちろん、私のような人間が働けるのに働かずに生活保護にしがみついている場合、その怒りはまっとうなものですが、ほんとうに働けなくて生活保護を受給している人たちまで、巻き添えを食って酷い目にあうケースが増えるのではないかと思うのです。
その憎悪の方が間違っていると非難することはたやすいですが、いくらそれを非難したところで、納税者の生活保護受給者に対する憎悪は、そんなことでは押しとどめることはできないと思います。
これに対し、働けるのに職が見つからない人を、臨時雇い公務員として雇って働いてもらっている分には、生活保護受給者に対するほどの憎悪は起きないのではないかと思います。
もちろん、今後所得税も消費税もどんどん上がっていくでしょうから、その重税感から、自分たちの収めた税金がそういう人たちに使われているという点は変わらず、やはり怒りや憎悪はなくならないでしょうが、少なくとも、働けるのに働かない生活保護受給者に向けられる憎悪よりは、はるかに程度がマシになるのではないかと思うのです。
また、ベーシックインカムにしてしまえという人もいます。
たしかに、それなら、全員がもらえるので、それをもらっている人に対する憎悪は、生活保護受給者に対する憎悪よりは少なそうに見えます。
しかしながら、少なくとも現時点では、システムとしてのベーシックインカムは、まだきちんと機能するのかどうか、十分に実証されているとは言い難いと思います。
まずは、人口が1000万人に満たない北欧の小国などで運用し、数十年にわたって破綻しないことを確認してから、日本へ導入する、という手順にするのが妥当だと思われます。
世界で人口が億を超えている先進国って、日本とアメリカしかありません。
ちゃんと機能するかどうか分からないシステムを、いきなり日本のような世界最大級の規模の先進国に導入して、機能するかどうか見てみるというのは、手順として妥当だとは考えにくいです。
一方で、失業対策の臨時雇い公務員なら、欧米で十分に導入実績があります。
もちろん、成功例も失敗例もあります。
なので、その成功と失敗を十分に検討した上で、日本の実情に合わせて、少しずつ日本バージョンを作っていけば、十分に機能する可能性があると思うのです。
もちろん、今後、欧米などでベーシックインカムが導入され、それが長期にわたって機能することが確かめられたら、そのときに、日本へのベーシックインカム導入について、じっくり議論し、十分に機能する可能性が高いという結論に達すれば、導入すべきだと思います。
既得権益による不正な利益獲得の温床となっていると指摘されている天下り先法人はけっこうあります。
そういう天下り先法人の問題点は、税金が投入されているのに、政府機関でないために国民の監視の目が行き届かず、無駄遣いが起きてしまうということです。
また、一部の独占的な事業を行う天下り先法人の場合、独占的にサービス価格を決定することができますから、税金は投入されていなくても、実質的に擬似的な税金を国民から徴収しているわけです。
しかし、それにも関わらず、公務員ではなく、民間の会社なので、十分に国民の監視の目が届かず、実質的な税金が無駄遣いされてしまうということも発生します。
もちろん、民営化することによるメリットもあるので、それとのバランスです。
問題は、なんでもかんでも民営化して、とにかく公務員の数さえ減らせば、税金の無駄遣いが減るという硬直した考え方にあります。
税金が投入されている事業や、独占的な事業の場合、場合によっては、民営化した方が、国民の監視の目が届きにくくなる分だけ、無駄遣いが増え、国民の負担が増えるケースもあるのだから、民営化することによる効率化のメリットと、監視の目が行き届かなくて無駄遣いが発生するデメリットをケースバイケースで念入りに吟味するべきだと思います。
そして、民営にするよりも国営にした方が安く付く、民間の社員として雇うより公務員として雇った方が安く付く場合、むしろ積極的に公務員を増やした方が、トータルでは国民の負担が減ると思うのです。
これに関して、「民主主義がアフリカ経済を殺す」という本の中で、多様性が高い社会では公共部門の効率が下がって民間部門の効率が上がり、多様性が低い社会では公共部門の効率が上がって民間部門の効率が下がる可能性について言及しているのが興味深いです。
民主主義がアフリカ経済を殺す 最底辺の10億人の国で起きている真実
もし実際にそうなのだとすると、アメリカのように多様性の高い社会では、公共部門を小さくして民間部門を大きくした方が、すなわち、できるかぎり民営化した方が、社会全体の生産性は高くなり、日本のように多様性の低い社会では、公共部門をアメリカよりも大きく、民間部門をアメリカよりも小さくした方が、社会全体の生産性は高くなる可能性があるということです。
これは、まだ研究段階なのだそうですが、少なくとも、なんでもかんでも民営化して公務員の数を減らしさえすれば、国の経済力が上がる、というほど単純な話ではない、という指摘は、日本の今後の国家デザインをしていく上で、極めて重要なのではないかと思われます。
中長期的な国力というのは、やはりその国の教育システムの質に大きく左右されると思います。
しかしながら、残念なことに、日本の教育の現場は、慢性の人手不足で、現場の教員の方々は、かなりハードな労働を強いられていることが多いようです。
このような状態では、生徒一人一人の適性をよく見て質の高い教育を施すのは、かなり難しいと思われます。
そこで、クラスをもっと少人数にして、しかも、授業を行う教師のサポートをする教師を追加するなどして、生徒一人当たりに割り当てられる教師のリソースを増やします。
また、教師の仕事は事務処理などの雑用が多いので、それらの事務や雑用を行う教師でない要員も大増員します。
これによって、教師たちは、本来の教師としての仕事により集中し、教育の質を高めることができます。
これによって、単に生徒一人当たりの授業濃度が高まるだけでなく、教師は、もっと頻繁に子供の親たちを学校に招いて、授業方針について話し合うことで、より親や子供たちのニーズにあった授業をするようにする余裕も生まれます。
もちろん、単に人員リソースを増やすだけではそれはできません。ですから、授業カリキュラムを、それぞれの学校の教師たちが親と話し合ってある程度カスタマイズする権限を現場に与えるなどの、裁量権に関する改革も、セットで行う必要があるでしょうが。
いずれにしても、少なくとも教育分野の公務員を削減すれば、一時的には税負担は軽くなるかもしれませんが、それによって教育の質が下がると、将来、がんがん稼いで税金を収めてくれるような子供の数が減ってしまいますので、数十年というスパンで見れば、結局は、国民の負担は増えることになると思います。
教育に関する公務員数をケチることで税負担を軽くするのは、まるでたこが自分の足を食べて、空腹をしのいでいるようなものです。
結局、安物買いは高く付くのです。
ここは気前よく税金を払っておいた方が、結局は得だと思います。
もちろん、上記の4つの項目は、ほんの思いつきにしか過ぎないし、内容もあまりちゃんと吟味していないので、けっこう怪しい部分もあります。
しかしながら、上記の4つの点を並べることで、私が指摘したかった最大のポイントは、「なんでもかんでもとにかく公務員さえ削減すれば、国民負担が軽くなる」という固定観念が間違っているということです。
公務員は、減らした方が得なケースもあれば、損なケースもあるので、個別具体的なケースのそれぞれについて、こういう公務員は増やした方がいいか、減らした方がいいかを、個別具体的な議論をしていく必要があると思うのです。
■ランキング ■通算ランキング ■メダルって?■メダル付与 ■コメント&トラックバック一覧 ■ 1人、コメント1人、スタンプ9人、メダル0ポイント
|
最近書いた記事一覧 |
ブログ内検索:
|