PLANETS VOL.5 p104-

〈デタラメな奇跡〉としてのアニメ
山本寛×更科修一郎

テレビアニメ版『涼宮ハルヒの憂鬱』の衝撃から二年――京都アニメーションを離れ、新天地で新作に挑む「ヤマカン」と、アニメ批評撤退を宣言したアウトロー批評家・更科修一郎。肥大し、拡散するアニメはどこへ向かい、何を目指すのか――?

構成:黒瀬陽平

 

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更科
  以前、お話を伺った時は京都アニメーションの社長さんも交えての三人だったんですが、今回は単独インタビューということで(笑)。
  そして、今回は武梨えりさんの漫画『かんなぎ』のアニメ化になるとのことですが、まずは『かんなぎ』という作品と山本さんの出会い、そのあたりからお聞かせいただけますか?

山本
  京都アニメーションを、というかアニメーションDoなんですけれども、そこを辞めることになって、とにかく次の仕事が無いということで危機意識を持ちまして、旧知の仲だった水島努さんに相談したんです。『ジャングルはいつもハレのちグゥ』からずっとお世話になっていて、アニキ的な存在というか、辞めるとなってパッと浮かんだのが水島さんだったんですね。
  そうしたら、水島さんから、さっそく会ってもらいたい人がいるということで、紹介していただいたのが、更科-1Pixturesの落越友則・清水暁プロデューサーだったんですね。そこで、まずいただいた仕事が『おおきく振りかぶって』のエンディングです。
  そこから更科-1さんとのご縁がはじまりまして、また、自分でも『おお振り』をやりつつ、営業活動をしていたんです。辞めてから会社を立ち上げるまでに何回か東京に通って、『撲殺天使ドクロちゃん』のハルフィルムメーカーさんともご縁ができたんですけども、07年の夏に落越プロデューサーから改めてご連絡いただいて、大阪まで行くから会って欲しいと。
  東京の方が発注する時って、電話一本だったり、あるいは東京に来て下さい、なんですよね。でも、落越さんは大阪まで行きますうから、とりあえず会いましょうって。来てくれるんだったら会わないと失礼だと思って、梅田の喫茶店でお会いしたんですね。そしたらとりあえずこれ、読んでみて下さいって『かんなぎ』の一巻を渡されたんです。当時の僕はもう、井のなかの蛙が大海に出た、という感じでしてね。本当に右も左も分からんし、どうすりゃええねん、って。とりあえず日銭を稼ぐことはできるだろうけど、長期的な展望が全く見えなかったんで、だから、『かんなぎ』の話をいただいた時はうれしかったんですけど、さすがにこれは僕には合わない、という場合もあるんで、とりあえず預かります、と答えたんです。
  で、まあ、読んでみたんですよ。そうしたら、パッと開いた瞬間になんか直感的なものを感じて、これはもう直感です。『ハルヒ』の時も、『らき☆すた』の時もそうだったんですけど、僕はパッと開いた瞬間のファーストインプレッションで決めてしまうんです。最初はお見合いみたいなもんですね。会った瞬間、あ、なんか付き合えそうやな、じゃあ、お付き合いしましょうか、と。そんな感じで落越さんに返したんですね。

更科
  原作を一通り読んでみて、どういう作品にしようか、というイメージはありましたか?
山本
  『ハルヒ』から『らき☆すた』へ移行する時もそうだったんですが、前の作品とは違うことをやりたい、という衝動が常にあるんです。
  『ハルヒ』はそれこそ魔球の連続で、肩がイカれるような球ばっか投げていたんで、『らき☆すた』はちょっと緩めの球投げたいな、と、ちょうどいいかなと思って引き受けたんですよ。全力で腕ちぎれんばかりに投げるばかりがもの作りじゃないと思っているんで、まったりやりたいな、と思っているところに『らき ☆すた』の話が来た。でも、刺激がなさ過ぎて失敗するわけにはいかないんで、みなさんご存じのとおり、あのオープンエンドとか、「らっきー☆ちゃんねる」とか、いろいろ仕掛けをしたんですよ。本編でもアニメ店長とか出したりしたんですけど、ただ原作のまったりした感じはなんとか維持しようと。
  変にドラマチックになることもなく、萌え一辺倒になることもなく、その方針を象徴しているのが第一話なんですよね。「これが『らき☆すた』だよ。よろしくね。僕はこう作るよ」と意思表示したのが第一話。本編はまったりと会話劇中心に、それもd−でもいいことをしゃべtってる女子高生の普段の日常で行くから、それで刺激がないという人は、オープニングとエンディングと「らっきー☆ちゃんねる」で楽しんでね、と。まあ、そういうエクスキューズというか、予防線は張っていたんです。「思いっきりやって失敗しました、ごめんなさい」というわけにはいかないので、ただ、本音としては、あのまままったり行きたかった。

 

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山本
  でもやっぱり、結果としてはデコレーションの部分がウケたわけですよね。オープニングがヒットしたり、エンディングが騒がれたり、白石エンディングになって賛否両論になったり、いろいろ騒がれて。その様子を降板してからフッと見た瞬間に、ああ、やっぱり『ハルヒ』と同じく、アクロバティックな手法に偏ってしまったなあ、と。反省も含めて思ったんです。
  でも、後悔はしていないんです。『らき☆すた』はそうしなければ、作品の性質上、アニメとしてどれだけ評価を受けていたかわからない。それをある程度、原作を守りながらできたという点で、後悔はしていないんですけど、やっぱり端から見ているとネタアニメになっちゃったな、と。

更科
  緩いストレートも使って、配球の組み立てで勝負しようと思っていたのに、やっぱり変化球を投げすぎてしまった、と。

山本
  そうですね。本当はもっと直球を交えたかったんだけど、直球よりも変化球中心の組み立てになっちゃった。やっぱりもっとシンプルに作らないといけないな、と思ったんですよね。
  『ハルヒ』『らき☆すた』がヒットして、世間の流れ的にも、話題性というか、ネタを散りばめとけば、なんとかなるだろうみたいな作品が増えたように見えるんですよね。現時点でも、その流れはあまり変わってないと思います。ギミックを用意しないとある程度のヒットは見込めない、と。どうしても直球勝負……ドラマをしっかり作ってシンプルな構成にしました、という作品は受けが悪い。
  そういう流れに対しては、いろんな意味で異を唱えていかないといけないと思うんです。もっと言うと、作っていた僕が飽きているんだから、観ている側も飽きてるやろと。

更科
  過剰なギミックのエスカレートは慣れてしまえば飽きてしまうし、エスカレートするにしても、作り手側の限界がありますからね。

山本
  ええ。そういうセンセーショナルでワーっと引っ張るような作り方というのは、次第にお客様のニーズに応えることができなくなるのではないか、という危機感があるんですよ。
  その一方で、細田さんが『時をかける少女』作ったり、原恵一さんが『河童のクゥと夏休み』を作ったり、『true tears』のような作品が現れたり、庵野さんが健全な『新世紀エヴァンゲリオン』を作ってしまったり……僕らにとっては、狂っていてこそ『エヴァ』だったのに(笑)。物語の構成からすべてが破綻していてこそ面白いと思っていたのに、非常に辻褄の合う『エヴァ』を作りはじめた。そういうことも含めて、なんらかの空気の変化を感じ取っている人は、シンプルなものづくりに行こうとしてるんだと思います。

更科
  シンプルなドラマ作りへ回帰していると。

山本
  そうですね。これも宮崎駿さんが数年前にもう言ってるんですけどね。シンプルな物語が今、必要とされてるんだ、ということを。それは『ハウル』の前から予言してるんですけど、『スチームボーイ』や『あらしのよるに』とかを見ても、名だたる作り手がシンプルな物語を求めている。まあ、言い方はエラそうですけど、その流れに受け手もやがてついて来るんじゃないかという予感がしていて、『かんなぎ』がその予感と見事に合致したんです。これを今、作れと。これはアニメの神様に与えられた仕事だな、と感じたんですよ。
  もっとも、フタを開けてみたら、そんな単純なだけの物語なんて存在しないわけで、その裏に潜んでいた非常にデリケートな構図にちょっと面食らったりして、なかなかコンテは進まなかったんですけど。

×

更科
  原作を読んでみて、これを映像化すれば面白くなるな、と判断した決定的な箇所はありましたか?

山本
  ふとももですね(笑)。ふとももを必死で描いている監督さんって、今もいらっしゃるんですよね。後藤圭二さんとか、そういうフェティシズムがありますけど、それとはちがうアプローチの仕方があって、そ9れはやっぱり女性の目から見た女の脚だったんですよね。男が見た女の脚――宮崎駿さんの脚でもない、沖浦さんの脚でもない、後藤圭二さんの脚でもない。武梨えりさんという女性の作家が『女の脚萌え』にこだわったという

 

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ところが一番大きかったりするんですね。とはいえ、それで萌えアニメになるかというと、ちょっと違うんですよ。

更科
  原作はシンプルな「萌え」ではない、というか、読者との微妙な共犯関係の上で成立している作品で、必ずしも男の欲望に最適化されているわけじゃありませんからね。それで、どちらかというと、谷崎潤一郎みたいなフットフェティシズムに持って行きたかった、と?

山本
  その程度に抑えておこうっていうか、内在化させたいってことですよね。そのへんのバランスがすごく難しくて、いま苦戦してるんですけど。

更科
  いわゆる「萌え」とフェティシズムの中間をどう取るかという。

山本
  そんな感じですね。「萌え」というものをもうちょっと後衛に落として、背景化させる。たとえば80年代によくあった、知らんうちに一つ屋根の下に暮らしているという設定とかでも、萌えアニメはそれを当たり前のものとしてそこからあれこれ付け足しちゃうんですけど、そのシチュエーションそのもののドキドキ感を描くという、たとえば『翔んんだカップル』みたいな、すごくシンプルな構造、ラブコメですよね。萌えアニメじゃなくてラブコメ。
  だから、僕は打ち合わせの時に必ず『ママはアイドル』と『パパはニュースキャスター』見てねって言ってるんですけど、この二本によく似てるなって思ったんですよ。

更科
  ああ、シチュエーションコメディですね。七十年代だったら『雑居時代』とか『お荷物小荷物』とか。

山本
  そうですね、それを前面に押し出して、脚の描写は後衛に配する。僕はそれを宮崎さんから学んだつもりなんですよ。
  それこそ『コナン』であったり、『カリオストロの城』であったり、『ナウシカ』でもなんでも、そういうフェティシズムを濃厚に出してるんですけど、それをシンプルな枠で納めている。そういう作業を今一度しなければいけないんだろうと思ったんですね。『かんなぎ』の脚を見た瞬間、そういう構図が見えたんですよ。シンプルなストーリーに脚フェチ。つまり『古典』ですよ。宮崎さんから連綿と受け継がれている伝統的な手法というものを今、復活させなきゃ、というところで繋がった。『かんなぎ』原作の見せ方も、狙ってるようですごくスマートなんですよね。

更科
  そうですね。ストライクゾーンひとつ外してくるみたいな。

山本
  ボール1個ぶん外してるんですよ。『オイ! オマエら! 脚好きやろ! 見ろ!』って感じじゃないんですよ。そのさじ加減が非常に上手い。脚ひとつで決めたような感触はありますね。

更科
  脚の扱いを「萌え」の中心に置いているのに、タイミングひとつ外しているところに惹かれた、みたいな感じですか?

山本
  これも実は『(旧)妄想ノオト』に書いたんですが、脚に関して、塩田明彦さんの『害虫』という映画を取り上げて、その論評をしたんですよ。少女を描くためにはまず脚だと。立ち方ひとつにも不安定さであるとか、思春期の揺れであるとか、全部表現できるんだと。ぶっちゃけ、上半身はなくてもいい、下半身だけで表現するんだというポリシーがあって、それを実写の中で塩田明彦さんもやってるんですね。『害虫』だけじゃなくてデビュー作、えーと……。

更科
  『月光の囁き』ですね。

山本
  そうです。あれも完全に脚フェチの映画じゃないですか。それで蓮實(重彦)さんから突っ込まれてましたけど。脚フェチは分かるけど、この撮り方は良くないんじゃない? って(笑)。とにかく、女の子を主人公にするためのポリシーやノウハウが『かんなぎ』には詰まっていた。その象徴的な部分が、脚の描き方だったな、と思いますね。

更科
  女性作家が男性読者へ向けて描いているものを、改めて男性作家がどう扱うかというところで、バランス取りの難しさがあると思います。

山本
  実は、『純情ロマンチカ』みたいな女性向け作品もやろうかな、と考えてはいるんですけど、やっぱり『ハルヒ』『らき☆すた』の後、もう一回、女の子を主人公にしてシンプルな脚フェチの物語を描け、と言われたのは、キャリア的な流れとして、すごく腑に落ちた部分ですね。

 

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×

更科
  山本さんにとっては実質、「初」のシリーズ監督になりますね。

山本
  いやー、一応「初監督」は『らき☆すた』だって言い張ってるつもりなんですが、ひとシリーズ通してとなるとこれが「初」ですね。でもまだ「初」になるかわかんないですよ(笑)とりあえず5話までは作ろうと、みんなで言ってるんですけど(笑)。

更科
  また『その域に達していない』と言われるかもしれない(笑)。

山本
  そうそう(笑)。

更科
  監督の視点で、現場を統括して見るようになって、意識的に変わったところはありますか?

山本
  『らき☆すた』の時から思ってたんですけど、いい意味でも悪い意味でも「守り」に入りましたね。守りっているのは、作品を守るっていうことですね。
  各話演出の頃も、もちろん原作があったら原作を読み込んで、作品世界はどうであるとか、全体の構成はどうであるとか、前の話数と自分の話数、次の話数をどうリレーして行くのかっていうのを考えてやってたんですけど、やっぱりまずはその自分の話数さえ良ければいいっていう感覚だったんですよね。

更科
  目立ってナンボや、みたいな感じで。

山本
  目立つというか、他のは知らんっていう感じで。とりあえず自分の仕事は各話だけだから、他のことなんざ構っていられるかって感じだったんですけど、やっぱり監督をやるとなったらシリーズ一本を最初から最後まで面倒を見なければいけない。オンエアの最初から最終回まで面倒見なきゃいけない。
  これは庵野さんの喩えなんですけど、両脇に穴の開いた軍艦をどうやって軍港までたどり着かせるか、テレビアニメはそういうものだと庵野さんは言ってるんですけど、そういうことをやっぱり実感しましたね。とにかく軍港にたどり着かなきゃ、やっぱり最初っから最後まで面倒見る、ちゃんとやりきる、というところが大事なんだなと。力の配分であったり、スタッフの編成であったりとか、そういうとこにすごく気を使うようになりました。『らき☆すた』はそれをちゃんとやろうとしている最中にわけもわからず降ろされちゃったんですが(笑)。まぁ、自分が今度はコントロールする立場になったんだなと。これはね、意図的に切り替えた部分もあったんですけど、ぶっちゃけ、僕は監督をやりたくなかったんです。一生懸命、各話一本ずつ作って結果を出していくのが自分の性に合っているというか、暴れやすかった。トータルなことは監督に任せて、あとは監督とプロデューサーがやってくれたらいいや、みたいな感覚で。
  でも、ある日、とある監督と大ゲンカした時に諭されたんですよ。「山本、お前卑怯や」と。「お前は安全圏から石投げてるだけや」と。「もうそういう時期やない、お前が責任持って一本監督やるべきや」と。「でないと卑怯や」って言われたんですよ。それからですね。

更科
  それは、いつ頃でしょうか?

山本
  えーと、『AIR』の直前です。そういう話もあって、あー、そろそろなんだなと。
  やっぱり、各話演出の頃はとにかく俺に全部任せろと、コンテチェックでワンカットも触るなと。ワンカットでも触られたら頭にきて文句言いに行ってたんですよ。こっちはもう一から十まで計算し尽くしているから、ワンカット変わった瞬間にやっぱり全体が変わるんですよ。それがモンタージュ理論ってもんだから、そこを適当に変えられたら困るっていう感覚で、これも何回もいろんな監督とケンカしたんですね。
  でも、意識的に全体で見るようになってから、やっぱり作品は監督のもんだな、と思うようになりましたよ。もちろん、各話演出さんに思いっきりやってもらって、そこから自分が予想しなかったようないい結果が出たら、それに超したことはないんだけど、ある程度は手綱を締めないかん、コンテも直さないかん、という考え方に傾きましたね。
  昔は「俺が監督になったらどの演出のコンテも素通しする。絶対直さん」って言っていましたから。なんでかっていうと、やっぱり自分で全部描けないからまわりにお願いしてるんであって、

 

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描かせておいて細かいところをちょこちょこ直すってのは、卑怯だと思っていたんですよ。

更科
  今回、脚本で倉田英之さんが参加していますが、倉田さんの脚本は演出側にとって、技術的な特徴はありますか?

山本
  倉田さんはもちろん過去の仕事も見ていたし、仕事しててやっぱりすごい人だと思いました。

更科
  プロの仕事をちゃんとやる、という意味ですか?

山本
  やっぱりまず脚本・構成っていうのは、最初から最後まで、矛盾のないようにキャラクターの心情から、物語の展開から、物理的なものまで、ちゃんと合理的な落としどころにおさめる作業なんですね。だけど、同時にやっぱりアイディアマンでもあって欲しい。倉田さんはアイディアをものすごく豊富に持ってらっしゃる方で、ぶっちゃけ僕が本読み参加しなくても一本できちゃうわけですよ、ちゃんとした『かんなぎ』が。滅多にそういう機会にはお目にかかれないですね。

更科
  そういうタイプの脚本家に、はじめて出会ったと?

山本
  これだけ持ちネタの豊富な方ははじめてですね。それでいて、全体の構成はもちろん矛盾なくやってくれる。バランスのとれた素晴らしいライターさんだな、と。倉田さんに今更優秀だというのも失礼な話ですけど、改めて思いました。やはりもう、それこそ高名なライターさんだから、その名に恥じないというのかな、その名の通りの力を発揮していただいてるな、と。

更科
  アニメでは、演出・作画至上主義のファンが多かったり、逆にダメな脚本家が演出に助けられて大きな顔をしていたりしているけど、やっぱり脚本は重要なんだな、と。

山本
  もちろん重要ですよ!

更科
  いや、なんでこんなことをわざわざ聞いたのかというと、最近はネタ志向の影響もあるのか、監督が好き勝手に演出するためにあらかじめ脚本をスポイルしているな、というか、単なるネタ帳として扱っている作品もあったりして、オレのようなテレビドラマの延長線上でテレビアニメを観ていた人間にとっては、テレビアニメを観るのがちょっと辛くなっていたんですよ。バラエティもいんだけど、やっぱドラマが観たいよ、と。

山本
  なんというか、どっかにも書きましたけど、シナリオと絵コンテと演出の三位一体みたいなものなんですよね。もちろん、作画やいろんな部署もありますけど、もっと全体のクオリティ、各話のクオリティと言った方がいいのかな。各話の作品をきちんと成立させるためには、この三位一体にならんといかん、と思うのですよ。

更科
  同時に三つがせめぎあわないと、良いものは作れない、と。

山本
  そうですね。どれが欠けてもやっぱり、まともなものにはならないんですよ。

更科
  『エヴァ』のMAGIシステムみたいなものですね。

山本
  ええ、そうです。だから、脚本をどう生かすか、どう直すかは、脚本と相談しながらコンテを切るし、演出をやっている時は、コンテと相談しながら演出をやるし、脚本を担当した時は、コンテマンはどうするかな、演出はどうかな、というのを想定しながら書くし、あくまで紙の上ですけど、三者のコミュニケーションが欠けている作品は、やっぱり作品としてのバランスも欠いているんです。『らき☆すた』シリーズ構成の待田(堂子)さんとも非常にいい関係を築けたんですけども、倉田さんはやっぱりやりやすかった。

更科
  倉田さんは漫画原作なども手がけていますが、頭の中にある程度、絵がある脚本家の方がやりやすいですか?

山本
  ええ。でも、絵があっても、ダメな脚本家はいますからね(笑)。

更科
  むしろ、頭の中で絵が描けてしまうから、ダメな脚本家を書いてしまう人もいる、と。
山本
  というかつまり、画作りの才能がないんですね。「お前の絵なんか全然浮かばないよ!」って頭抱えたこともありました。

×

更科
  Ordetとしては『かんなぎ』が初のシリーズ作品になりますが、実質的な代表者として、Ordetの方向性をどのようにイメージしていますか?

 

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山本
  まあ、みんあで決めようと(笑)。次は何をやりたい? みたいな。でも完全な民主主義ではないですし、最後はもちろん僕が決めることになるんですけど。
  もちろん『かんなぎ』が、Ordetにとって大きな作品になるのは間違いなくて、そのあとも何本かやっていくことになるでしょう。そのなかでひとつひとつ、それこそ京都アニメーションへの恩返しとして、しょうもない仕事をしたらいかんと。元京アニスタッフが集ったらこれだけすごいもんができるんだぞということを証明しないと、古巣に対して失礼だと思うんですね。だからこそ自分たちは、良いものを作っていかなきゃいけない、と思っています。それだけですね。
  目の前の仕事を一本一本こなしていこう、というのは、何度となく言ってきましたね。今でもそうですし、監督になってからもやっぱりそこへ立ち返るんですね。最終的には目の前のワンカットをどれだけこだわれるかが勝負やと。そういうところで、恥ずかしくないフィルムを作り上げて行こうと。
  たまに「会社としての展望は?」と聞かれたりするんですけど…ないです、そんなもん(笑)。あってもしょうがないと思うんです。そういう会社作りをしたくもなかったし、する気もないし、実際してないし。

更科
  これは、山本さんのクリエイターとしての生き方の問題でもあるんですが、それこそ京アニの八田社長のように、今のところは原作ものが続いていて、それで高い評価を得ていても、やっぱりオリジナルをどこかでやりたいという気持ちはあるのでしょうか?

山本
  あまりこだわりはないんですよ。良い作品を、良いフィルムを作るということに関しては、原作ものであろうが、オリジナルであろうが、あんまり関係ないな、と。ただ、オリジナルの方が儲かるんだろうなー、という、そういう下世話な感覚くらいで……(笑)。

更科
  まあ、アニメ会社の多くがオリジナル作品を作りたがるのは、オリジナルなら自分の会社の版権になってマーチャンダイジング的にも儲かるから作りたい、ということが大きいんですけど、山本さんの場合は会社として、もっと大きくなってからの話、だと。

山本
  そうですね。でも、オリジナル作品を作らないと会社を維持できないというのは、本末転倒なんですよね。そういう意味でも会社を、ちゃんとした会社にしたくないんです。それはやっぱり、自分のクリエイター魂にも反するし、そういうことをやるために京アニを出たわけじゃない。やっぱり一本一本、良い作品を作りたいという感覚、これだけを維持しようと思っているので、それにオリジナル云々が障害になるんだったらやる必要はない、そう思ってます。

更科
  あくまで、良い映像を作ることが最大の目的だと。

山本
  そうですね。青臭いですけど、そうでなければ集う意味がない。はっきり言って、弊社にいるスタッフは全員、一人でも食っていけますから。

更科
  ワンマンアーミーの集合体みたいな。

山本
  そうですね。当分は、傭兵部隊みたいなフリー集団が会社として体を成している状態にしておこうと。ただ、そのうち、GAINAX時代に岡田斗司夫さんが陥ったジレンマに僕もハマるんだろうな、と思っているんですよ。オタク集団をやるつもりだったのが会社になっちゃったと。たぶん、感覚は今の僕と似てると思うんですよ。会社を維持するために仕事を入れる風潮になる、その瞬間が怖いですね。そうなったら俺、社長辞めるからと、Ordet解散だと言っていますから(笑)。

更科
  『涼宮ハルヒの憂鬱』の演出以降、良くも悪くもアニメファンたちに注目される存在になって、しかも一国一城の主となった今、いまのアニメ業界をどのように捉えていますか? また、立場が変わったことで物の見方は変わりましたか?

山本
  繰り返しになりますけども、地に足をつけようと思うんですよ。
  もちろん有名になったことで、いろんなところからいい仕事をいただけるようになったというのはありがたいと思いますけど、やっぱり初心なんですね。僕が演出になりたてだった頃の気持ちをずっと維持していいく。その初心がなくなったらもう終わりだと思っているんですよ。僕らはたぶ

 

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ん最後まで、たぶん死ぬまで青臭い連中なんだと思います。だから、会社ができたとか、『ハルヒ』や『らき☆すた』がヒットしたというのは、正直、もうどうでもいいことなんですよ。むしろ、その次の作品、目の前の一本一本でどんな結果を出していくか、ということの方にはるかに興味がある。こうやってインタビューされたら、昔話のように『ハルヒ』や『らき☆すた』ではこうでした、と言わざるを得ないんですけれど、もう、どうでもいいんですよ。

×

更科
  名前を「Ordet」としたのもそういうことなんですか? 元ネタはカール・ドライヤーの映画……。

山本
  『奇跡/Ordet』です。ただ、会社名とした理由は、ちょっと意味合いが違うんですよ。
  よく「アニメって何?」と聞かれるんですが、「デタラメな奇跡」だと僕は思っているんですよ。『奇跡/Ordet』というのは、まさに死んだ嫁さんが生き返って、『えーっ!?』みたいな話で、その撮り方もえらくシンプルに、あっけなく撮るんですよ。でも、そういうミもフタもないデタラメな奇跡を作り続けるのが映画であり、また、アニメでもあると思うんですよ。全部でっち上げのご都合主義なんですよ。どの作品も。本当にリアルに撮ろうと思ったら、アニメなんて作らなくていいんですよ。絵に描いている時点で、もうリアルじゃないんですよ、現実じゃないんですよ。そんな意味で「Ordet」という名前をつけたんですね。
  カール・ドライヤーの『奇跡/Ordet』は、まだ京アニにいた頃ですね、四年前、渋谷のユーロスペースで観たんですよ。偶然観て「あー、いいなー」と思って、で、将来、会社を立ち上げることになったら、この名前にしようと決めたんです(笑)。でも、その時は京アニを出ようとか、まったく思ってなかったですよ。なんとなく漠然と、あー、社名にいいなーと思って。自分のやりたい、自分のアニメ観を象徴するタイトルだな、と。
  やっぱり、アニメというのは、絶えず奇跡を突きつけられているんですよ。これはギャルゲーとかも含めてですけど、安っぽいものであろうがなんであろうが、常に奇跡を要求されていて、奇跡を作り続けなきゃいけない。keyの作品はその使命に果敢に挑んでいると思います。原作を見るとその気持ちはよく分かる。まあ、他のエンターテインメントも全部そうだと思いますけど、みんな、奇跡的な展開でハッピーエンドになって欲しいし、笑ったり泣いたりしたいんですよ。

更科
  しかも、映像は小説や漫画以上に視覚的というか、より直感的に見せなければならない。

山本
  僕らはそういう瞬間をでっち上げなければいけない。時には物語を捩じ曲げてでも持っていかなきゃいけない。『奇跡/Ordet』は、そういう宿命を象徴しているタイトルですよね。
  でも、奇跡を起こしたから、俺らすごいやろ、と威張るつもりもないんです。それは当然だと。奇跡を起こすことでお金をもらってるんだから、それは当たり前だ、という感覚があります。
  その感覚を失って「俺が『ハルヒ』を作ったんだよ! すごいでしょ?」とかなったら、自分がアホらしくなって、多分廃業してしまうでしょうね。

更科
  自己嫌悪でやめてしまう?

山本
  自己嫌悪もありますし、第一以前の自分を超えられないことを納得してしまった時点で、アニメを作りたくなくなると思います。今もこれからもアニメを作り続けたいと思っている以上は、後ろは振り向かず、あれはもう思い出話だと思えないといかんのですよ。というか、もう『ハルヒ』は忘れたい(笑)。目の前の『かんなぎ』も終わったら、やっぱりいったん忘れるでしょう。次の作品を超えたらまた次、と。貪欲に、日々ご飯を作るように作り続けていくんでしょう。

更科
  スタイルを毎回変えたいというのも、そういうことなんでしょうか?

山本
  と、思います。単に飽きっぽいっていう性格もあるんですけど。子どものころから三日坊主で、将来の夢が一年ごとに変わってたんですよ。小学校から中学までかな? もう、事業家になりたいとか、医者になりたいとか、スペースシャトル作りたいとか、いろいろ変わって、ようやく落ち着いたのがアニメだったんですよ。すごいベタな言い方になりますけど、かつていろいろやりた

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かったことを全部かなえようとしているんでしょうね。結局、アニメだったらいろんなものになれるという。恋愛もできるし、ロボットにも乗れるし、戦争の悲惨さを訴えることもできる。あるいはコメディであるとか、家族であるとか、いろんなものを全部まとめて表現できるのが、まあ、映画もそうですけど、僕の場合はアニメだった。ということですね。
  だから、表現手段に対するこだわりもあんまりないんですよ。実写や舞台の演出をやってくれ、と言われても大丈夫。

×

更科
  お話を伺っていて、やっぱり実写の映画が好きなんだな、というのを端々に感じます。
山本
  いや、これは、アニメだけ勉強していてもダメだと思ったんで……。
  大学時代はアニメーション同好会にいて、ひたすらアニメばっかり観ていたんですよ。だから、僕が大学時代シネフィルだったとかいうのはウソですよ(笑)。むしろ全然観てない。唯一観ていたのが黒澤映画ですね。あとはこの業界に入ってからです。
  で、アニメにはノウハウがあるようで、全くないのに気づいたんですね。監督が十人いたら十通り違うことを言うんですよ。映画の文法書と照らし合わせてみると全然逆のことを言ってたりするんで、こりゃいかんと思って、ちゃんと勉強するようになったんですね。だから富野さんの『映像の原則』も読みはしましたがね(笑)。後輩に「もういらんわ!」とあげました。

更科
  あげちゃまずいでしょう(笑)。その人は真面目に読んでしまうかもしれないんですから。

山本
  押井さんとか富野さんはかなり我流でやってきたところがあって、それを僕らが絶対視するとまずい部分があると思うんですね。たしかにちゃんと縦のつながりがあって、宮崎さんから学んだこと、押井さんから学んだこと、庵野さんから学んだこと、もちろんあるんですけど、それだけじゃ足りんということですね。手塚治虫が言っていたじゃないですか。良い作品を描くためにはどうすればいいか? いい映画を観て、いい舞台観て、いい音楽聴いて、そういう話ですよ。それが全部欠落した状態で、ただひたすらアニメを観て作ってたんじゃダメだなと。そういう単純な話ですよ。

更科
  ちなみに、どういう映画がお好きなんですか?

山本
  最近のハリウッド映画、ここ十年くらいのハリウッド映画は一切観てないんですよ。『マトリックス』観た瞬間に「もう、ハリウッドは見なくていい」という実感があったんです。こりゃ日本のアニメと一緒だと思って。そこから、ちょいちょいつまみ見はしてるんですけど、観るたびに「あかんわ!」って(笑)。しまいには『ドラゴンボール』映画化……「もうええわ」って(笑)。
  さっきの話にも出ましたが、塩田明彦さんは大好きです。立教ヌーベルヴァーグの作家さんのなかでも一番好きなんですよ。黒沢清さんではなく塩田さんなんですよ。『ユリイカ』とかは好きだけど、青山(真治)さんでもないんですね。やっぱり、塩田さんがいちばんバランス取っているな、と。「俺の世界を見ろ!」っていう押しつけがないじゃないですか。『黄泉がえり』とか、『どろろ』とか、ああいう『雇われて撮りました』みたいのもソツなくこなせる人だなと思ったんで。そういう意味では、犬童一心さんも大好きなんですけど。

更科
  邦画はかなり観ているんですね。

山本
  邦画が中心ですね。最近のハリウッドは観てもしょうがないと思ってるんで、洋画はどうしても白黒映画が中心になりますね。去年一年間でやっとヒッチコック映画を観たんですよ。これまで全く観てなかったんで、ちゃんと押さえとこうと思って。ちょうど仕事がなかった時に、今のうちにと思ってガンガンDVD借りて観ましたね。20本くらい観たかな。

更科
  たとえば、若いアニメーターとかに、「こういうのを観とけよ」ということを言ったりもしますか?

山本
  京アニ時代はそういう授業もやったんですけど。観なくてもいいからタイトルだけ覚えておこう、って(笑)。恥ずかしくないから。たとえば、外の方々とお話する時もあるでしょう。その時に「このタイトル知ってますよ」とか、「ちょっとだけ観ました」とか言うだけで全然違う。黒澤明から小津からカール・ドライヤーからグリフィスからリストアップしてあることはあるんですよ。それで、「もっと演出のことを知りたいです」という人にはビデオを渡すんですね。これとこれ観といて、って。

更科
  いまちょうど、清水宏の『按摩と女』を、石井克人が『山のあなた』というタイトルでリメイクしてますけど…。

山本
  ああ、最近いろいろ観逃してるんですよね…。でも、その前に「ルノワール+ルノワール』展にいかないと。ルノワールの『ピクニック』を観なきゃいけないんですよ。一番好きなのは『フレンチカンカン』なんですが、あれはいいなー、って。ペーソスもエスプリもきいてて最高。

更科
  でも、現場で若手に知識を伝えていく作業が難しくなってきますよね。過去の作品のメソッドを教えるにしても、いわゆる、サンプリングというか、つまんできて組み合わせる技術の工夫くらいしか伝えられない。

山本
  いや、それはそれでいいと思いますよ。寧ろそれしかないと思ってます。ツギハギなんですよ。2chのスレでよく、さんざんパクリだパクリだと騒いでいますけど、それは昔からずっと繰り返されてきたことが、webの発達でたまたま可視化されただけなんですよ。以前、岡田斗司夫さんが『オタク学入門』で「すべての映画はパクリである』と言っていたのと一緒で。

更科
  おそらく、問題なのは、パクリの範囲が偏ってたり、狭かったりすることの方が問題だと思うんですよ。多岐に渡るジャンルや作品から引用した集合体なら、それはもうオリジナルですから。

山本
  結局、どれにも似ていない、完全なオリジナル作品は、誰も理解できないんだろうと思うんですよ。だから『かんなぎ』に関しても、宮崎駿の作り方を踏襲しようとしているだけなんですよね。別に新しいことをしようとは全然思ってない。『古典化』だと言っているくらいなんで。まあ、あまりその方向へばかり偏らないようにしようとは思っていますが。客商売なんで、お客さんをちゃんと絶えず刺激して、飽きさせない作り方をするのは当然だと思うんで。
  だからもう、手を変え、品を変え、味を変え……『ヤマカンだったら、躍らせてくれるだろう』とか、そういう要素は特徴として残しておいてもいいですけど、正直、そろそろ自分が飽きているのも事実です(笑)。やっぱりちょっとずつ変えていかないと、飽きられて行くと思いますね。
  クラシック音楽では、よく「演奏の一回性」と言いますね。演奏は一回きりで、同じ演奏は二度とできないと。アニメにもそれは応用できるんじゃないかなと思ってます。同じスタイルでも、同じものを作るわけじゃないんですからね。
  でも、市川崑さんは完全なリメイクするでほう。カット割りから何から。

更科
  ああ、まったく同じリメイクをしますね。

山本
  ずっと不思議だったんですが、一応、納得はしたんですよ。むしろ、新しいものを作ろうとして裏をかいているんですよね。あれは。同じカット割りで新しいものを見せてやろうと。
  『黒い十人の女』も、テレビ版でまったく同じことをやってるんですよ。基本的にはつまらなくて、やっぱり失敗だとは思うんですけど、そのチャレンジ精神はすごいと思う。全く同じことをやって、それでも新しく見える方法論があるはずだと、あの人は考えたと思うんです。

×

山本
  いつも思ってるんですけど、僕がアニメ演出の最低レベルであって欲しいんですよ。それが謙虚すぎるんだったら、自分がボーダーラインでいいと思うんですよ。僕は普通の演出をやっているだけなんだと。

更科
  それはカッコよすぎるんでしょう。(笑)

山本
  いや、そうあるべきだと思うんです。若い頃、そこまで頭にきたんです。なんで俺程度のものすらできないんだと。もっと言うと、なんで俺程度のものができてないヤツが、エラそうに演出やってんの? 監督やってんの? という思いがあったんです。
  だから「お前の演出、普通じゃん」と言われ

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るとうれしいんですよ。普通ができたらええねんって。ハルヒダンスとか、あれはほんとに味付け程度なんで。演出は過不足なく、ストーリーが分かって、キャラの心情が分かって、言動に矛盾がなくてという、当たり前のことを当たり前のようにやることが大事なんだと。

更科
  当たり前のことをやって、他の作品とちょっと違うと思われるくらいがいい、と。

山本
  そうです。もちろん商売気はあるから、スパイスはちょっと効かせますけど、そんなものはタバスコ一滴程度ですよ。やっぱり味のベースになるパスタの作り方をみんあ学んでよ、と。後輩には必ず言ううんですよ。まず、普通の見た目になるように作ってと。奇をてらって、これは絶対、誰もやったことのない演出だと思っても、それは絶対に誰かにやられてるから、普通の画面をまず作れよ、って。普通の演出ができれば、違うやり方もあることが分かってくるからと。だから、普通の画面を見て、普通の作り方を学んで、普通の演出をして……そこからスタートかな、と思ってるんですよ。

更科 それは、飛び道具でガッとつかむよりも、はるかに難しいことをやろうとしているような気がしますね。

山本
  シャフトの新房(昭之)さんもそうだと思うんですけど、ああいう方々って、普通の演出できるんですよ。だから奇をてらえるんですよ。たぶんこういう人たちの名前出しはじめたら、全部そうだと思うんですけど、普通のことをできるんですよ。できてない人間はどんどん落ちて行くんだと思うんですけど。

更科
  オレはマンガ編集者時代、そういうコマ運びのスキルを「基礎体力」と言っていたんですが、アニメ業界にもやっぱり、その体力が低下しているということなんですか?

山本
  全体的に低下していると思います。
  最近、リズムを作れる演出家がいないんですよ。四、五年前に水島さんと飲んだ時に、水島さんとも意見一致したんですけど、セリフでリズムが作れない。マスターショットがあって、切り返しで会話劇を続ければ、切り返しの応酬で自ずとリズムが形成されていくはずなんですよ。これができてない。編集の基本中の基本なのに。だから最近、演出家の腕じゃなくて、編集マンの腕を疑うようになってきて。たとえば、テレビドラマはちゃんとそれができてるんですよ。もちろん、アメリカのテレビドラマや映画も、それはできている。なんで日本のアニメだけできてないんだ、と。
  その中ではやはり東映(アニメーション)がいいんですよ。枚数の少なさを補いきれなくてダメな回もあるんですけど、やっぱりメソッドがしっかりしているから観れちゃうんですよ。『プリキュア』はその最たる例ですよ。

更科
  東映アニメーションの場合は、枚数制限による演出上の制約が大きいので、その意味で常にスキルアップを要求される環境ということなんでしょうね。

山本
  知り合いの大塚隆史くんが、東映で『プリキュア』の演出やってるんですよ。それで、彼の仕事をずっと見ているんですが、どんどん上手くなるなー、って。そういうのが撮影所というか、一から十まで自分たちで作って納品できる環境の強みなんですね。京アニでもそれができるはずなんですけどね(笑)。

×

更科
  最後にちょっとお聞きしたいんですが、『ニュータイプ』のクリエイターアンケートで、山本さんがオレの名前を出していて、えらいびっくりしたんですよ。
  オレはいわゆるアニメジャーナリズムとは、ついに縁がなかった人間なんですが、そのオレの名前が他のアニメ批評家を差し置いて出てきてしまうのが、微妙に気まずいというか、他の人じゃダメなのかなぁ、と。

山本
  ダメだと思います(笑)。

更科
  ダメですか(笑)。

山本
  あのー、『ニュータイプ』で「アニメの門」というのをお書きになっている……。

更科
  藤津亮太さんですか?

山本
  そうそう、藤津さん。この前も『true tears』について面白いものを書いていたんですけど、やっぱり面白いだけじゃダメなんですね。これは『唯物論研究』のインタビューでも、さんざん答えているんですけど、ちゃんと書いているだけじゃなくて、刺激がないと。それこそもう、作品とは逆に、評論というのは今、ネタとして機能しなければダメなんですよ。「これを見ないとオマエらは死ね」とか「こんな糞アニメ見るな」とか、それくらいの論調を、僕は『妄想ノオト』でやっていたんですけど、そのくらいやらないと、評論は評論として機能できないんじゃないかと。

更科
  これだけweb上に言説が氾濫している状況で、安全な評論に意味があるのか? と。

山本
  ぶっちゃけ、わざわざ誰が読むんだっていう話になるんですよね。

更科
  ただ、読者を刺激する評論はコンテンツホルダーに睨まれますから、専門誌もできるだけ評論を載せたくない。藤津さんは保守本流に配慮した正しい意見を書く方なので、辛うじて『ニュータイプ』に書いていますけど、ちゃんとした専門誌ではあれが限度でしょうね。

山本
  更科さんのお書きになっている文章って、本当に電波、電波って言われているじゃないですか(笑)。それは同時に、評論としての強度があるということなんだから、それを今、出さないと。

更科
  どうなんでしょうか。『ニュータイプのアンケートと前後して、山本さんからの紹介ということで『唯物論研究』から原稿を頼まれて、その論文でも書いたんですが、現実問題として、『オトナアニメ』というゲテモノ雑誌を降りてから、商業媒体でアニメについて書く機会はないんです。「更科には書かせるな」という話はいくつも聞きましたが。
  まあ、間違った意見であることは自分でも自覚していますよ。別に重箱の隅を突くようなアニメの専門知識に長けているわけもないし、主義主張がアニメ業界の保守本流から外れているのも分かっていますから。ただ、間違った意見が一つの意見として存在を許されず、問答無用でスポイルされる業界というのもどうなのよ、という疑問はあるんです。水面下の根回しで読者を排除し、それを指摘すれば、今度は被害妄想と罵り、排除したことすら隠蔽していく──結局、マニア向けの閉鎖型ジャンル商売はどれもカルトビジネスになってしまうんだな、と確信せざるを得ないというか、まだ、映画や小説を論じている方が気楽ですよ。

山本
  アニメ評論業界って変ですね。他の評論業界と比べると際立ってそう見える。僕もまあ、ビッグマウスとか呼ばれていますけど、そういう人がアニメ批評家にも出てこないと、ジャンルは活性化しないと思うんですよ。コンテンツホルダーの人たちの顔色を伺って、重箱の隅を突くような言葉狩りに怯えて、おとなしく優等生的な論文を書きました、地味に提出しました──その程度では、アニメという表現に対して何のプラスにもならないと僕は思ってるんです。まあ、いろいろありますけど、お互い頑張りましょう(笑)。

<了>

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