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旧日本軍による民間人虐殺など戦争犯罪行為のまとめ
ライター:gojira_gojira_gojiragayattekitaさん(最終更新日時:2012/4/7)投稿日:2012/4/7 アドバイス受付中!
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・旅順虐殺事件 1894年11月21~25日
日清戦争で日本軍が旅順攻略で清国軍敗残兵掃討中に旅順市民も虐殺した事件。被害者は2千~2万人と言われている。12月12日の新聞『ニューヨーク・ワールド』のクリールマンの記事によってであった。「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた」と述べている。
・朝鮮東学党の鎮圧 1894年8月~1895年3月
日韓両軍による朝鮮東学党農民に対する掃討。日本軍の記録によれば戦闘で6000人、処刑5600人とされているが、5万人という説もある。
・乙未事変 1895年10月8日
朝鮮正妃の閔妃が、王宮で日本軍兵士、壮士、大陸浪人らによって惨殺され、遺体は焼却された事件。
・3.1独立運動 1919年3月1日
朝鮮における最大規模の反日運動で日本官憲により多数の死傷者をだした。約3カ月の間、全国で展開されたが、日本軍の弾圧によって、住民を礼拝堂に閉じこめ火を放つなどして約30人を虐殺した堤岩里事件などが起きた。一連の運動をめぐり死者7509人、負傷者1万5961人のほか、4万6948人が投獄された。[1]
・台湾霧社事件 1930年3月27日
台湾原住民による日本時代後期における最大規模の抗日暴動事件。日本統治下の台湾霧社で先住少数民族タイヤル人の武装蜂起に対し日本軍、警察は大砲や機関銃、航空機、毒ガス弾(ルイサイト)などの近代兵器を用いて暴動部族を制圧した。日本統治下で禁止されていた首狩りを許可、懸賞金の対象は、婦女子まで含まれていた。この措置は同族間での凄惨な殺し合いを助長したとされる。700人ほどが死亡もしくは自殺、500人ほどが投降。
・平頂山事件 1932年9月
満州国建国半年後、満鉄の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊が近くの平頂山集落の中国人住民を大量殺害した事件。被害者数は400~3000名。
・チャハル作戦・陽高事件 1937年9月
察哈爾派遣兵団の本多旅団が南城門から、篠原旅団が北城門から城壁を乗り越えて城内へ突入したが、強引な攻撃方法だった事や中国軍守備兵の猛抵抗で140人ほどの死傷者を出す。頑強な敵の抵抗で多数の死傷者が発生したことで激高した現地部隊が敵愾心のあまり実行したものと言われている。夜が明けて戦闘が終わると、日本軍は老幼を問わず城内の男性を捕縛し、機銃掃射を浴びせて殺害した。その数は350人から500人とされる。
・南京大虐殺 1937年12月
日本軍が中華民国の首都南京市を占領した際、約6週間から2ヶ月にわたって中国軍の投降した便衣兵、一般市民などを大量に殺害・残虐行為が行われた事件。中国側は南京戦犯裁判の30万人説や東京裁判の20万人説と、いずれも戦後行われた裁判の判決に依った犠牲者数を主張している。日本国内においては20万人説、数万人説、数千人説、否定説などが存在する。
・百人切り競争 1937年11~12月
日中戦争初期の南京攻略戦時に、日本軍将校2人が日本刀でどちらが早く100人を斬るかを競ったとされる行為。当時の大阪毎日新聞と東京日日新聞において報道されたが、事実か否か、誰を斬ったのかを巡って論争となり、訴訟問題にも発展している。
・重慶爆撃 1938年12月~1941年9月
日本空軍爆擊後の重慶
日本軍により断続的に218回行われた重慶に対する戦略爆撃。中国側の主張では死者は計11,800人、家屋の損壊は17,600棟となっている。この事件による重慶市民の反日感情は今も根強い。
・七三一部隊と生物兵器の実験的使用 1933年~1945年
生物兵器の開発などの目的のため、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていたとする見解がある。終戦後にソ連・中国が行なった調査では、犠牲者数は3,000人以上とされていた。これはハバロフスク戦犯法廷での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言に基づく数値である。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700-800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある。
1940年10月27日に南京の一六四四部隊が寧波市でペスト蚤を散布。この攻撃後から2ヶ月間の寧波市でのペストによる死者106名。しかし、化学兵器の実戦例とは異なって、生物兵器使用については公式報告書といった文献史料は確認されていない。
・真珠湾攻撃 1941年12月7日
休日である日曜日を狙ってハワイオアフ島真珠湾にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空攻撃および潜航艇による攻撃。
真珠湾攻撃の翌日、フランクリン・ルーズベルト大統領の要請により、アメリカ合衆国議会は日本に対して宣戦布告した。
・中立国タイとの交戦 1941年12月8日
シンガポール攻略を目指す日本軍が、タイ政府の許可前に南部タイへ上陸、タイ軍と交戦し、タイの中立を侵犯する。
・香港戦における英軍捕虜の処分 1941年12月18日
香港戦における投降英軍兵士に対するいくつかの殺害事件。
・バリスト・スロン捕虜殺害事件 1942年1月22日
近衛師団長西村琢磨中将が、バリスト・スロン捕虜収容所で捕虜の処分を命じ150名が処刑されたとされる事件。
事件自体でっち上げの説あり。しかし西村中将はこの事件の責を負わされ戦犯として処刑される。
・アレクサンドラ病院事件 1942年2月14日
シンガポール陥落の当日、日本軍が英軍アレクサンドラ病院を襲撃。非武装の軍医、衛生兵、ナース、患者の区別なしに小銃と銃剣で殺傷。手術台の上に横たわっていた患者さえ銃剣で剌された。軍医たちは赤十字の旗を振ったが、利きめはなかったらしい。30人ばかりを殺傷したのち、日本車は降伏した200人余の一団をひきつれて近くの建物へつめこんだ。そして翌日、建物から引き出した病院のスタッフを次々に殺害した。[2]
・シンガポール華僑の虐殺事件 1942年2月15日
シンガポールを占領した第二十五軍が行った反日華僑粛清事件。被害者数6000人~2万人。
太平洋戦争中の1942年(昭和17年)2月に日本軍がシンガポールの戦いの際、約1ヶ月にわたって「親連合国」と目された一部の中国系住民(華人、華僑)を殺害したとされる事件。"好ましからざる分子"として重点的に検証をおこなったうえ抗日分子を処刑したとされる。東京裁判においては「6000人の華僑が殺害された」とされた。昭南警備司令官であった河村参郎少将が戦犯として処刑されている。
・バンカ島豪軍看護婦殺害事件 1942年2月
シンガポールからバンカ島の脱出した豪陸軍看護婦21名が日本兵により殺害された事件。[3]
・ラハ事件 1942年2月
日本軍によるインドネシア・アンボンのラハ飛行場占領時に約200人の捕虜を殺害した事件。
・バターン死の行進 1942年4月
作者:Office for Emergency Management. Office of War Information. Domestic Operations Branch. Bureau of Special Services.
米国民を激怒させた、このポスターには「殺人者ジャップを追い払え」と書かれている。
日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍捕虜民間人が、収容所に移動するときに多数死亡したことを言う。全長は120キロで、その半分は鉄道で運ばれ、残りを3日で歩いた。1日平均20キロの3日間の行進であった。トラックで運ばれたものや行進の先頭にいたもの以外に対し、多くの虐待行為があったと言われる。約7千人から1万人がマラリアや飢え、疲労、その他殴打、処刑などで死亡したものと見られている。米軍の死亡者は2300人と記録されている。フィリピンでは、バターン半島が陥落した4月9日を勇者の日 (Araw ng Kagitingan) として休日に定めている。
・マキン島米捕虜の処刑 1942年8月
アメリカ軍が潜水艦で海兵隊を送りこみ、マキン島を占領していた日本海軍陸戦隊を壊滅させて引き上げた。取り残された9名の米海兵隊員を捕虜としクェゼリン環礁に移送されて丁重な取り扱いを受けていたが、後に現地を訪れた大本営海軍部参謀の指示により処刑された。戦後に、当時の第6根拠地隊司令官だった阿部孝壮中将が責任を問われBC級戦犯として死刑となっているほか、部下2名が禁錮刑となった。
・駆逐艦秋風虐殺事件 1943年3月18日
東部ニューギニアより当艦でラバウルへ移送中の外国人が艦上において全員虐殺された事件。内訳はカイリル島の26名(修道士12名、修道女11名、2~7歳の中国人児童3名)と、マヌス島の40名(神父と修道女各3名、ドイツ人宣教師夫妻2組と子供1名、ドイツ人農園主2名、中国人2名と原住民3名)が乗船。外に少なくとも5名のオランダ人、1名のハンガリー人、1名の米国人。
・泰緬鉄道建設 1942年1月
連合軍捕虜6万2000名が鉄道建設工事に投入され、過労と伝染病などで1万2000名が死亡。
・潜水艦による捕虜洋上処分
「潜水艦による捕虜洋上処分」
1943年12月14日、呂110潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
1944年2月22日、伊37潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
1944年3月26日、伊8潜が蘭船を撃沈し、生存者98名を艦上で処刑。
1944年3月29日、伊26が米商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明
1944年7月2日、伊8が米商船を撃沈した際、揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。
・ビハール号事件 1944年3月
重巡利根がインド洋でイギリスの商船「ビハール号」を撃沈した際、捕虜80名を得たが、後に65名を虐殺した。
・ババル島虐殺事件 1944年10月~11月
インドネシア・ババル島の日本軍守備隊による住民虐殺事件。被害者数704名とされる。
・ポンナチャック事件 1943年10月~1944年1月
インドネシア・ポンナチャックで発生した大規模な住民検挙粛清事件。被害者数4000~2万人
・デュエナス神父処刑事件 1944年7月
日本軍占領下のグアム島で島民への影響力が強かったデュエナス神父を逮捕、公衆の面前で拷問し処刑した。
・メリッソ村民虐殺事件 1944年7月15日
グアム東南部のメリッソ村民が日本軍により虐殺。被害者数46人。
・トラック諸島のデュプロン島における海軍病院生体解剖事件 1944年2~7月
米兵捕虜4人に生体切開を行い、このうち2名がショック死。生き残った二人はダイナマイトで爆殺された。
さらに他の4名にぶどう状球菌を注射し全員死亡させる。[4]
・ティンブンケ事件 1944年7月
東部ニューギニアのティンブンケ村で、約100名の村民が日本軍に集団殺害された事件。
「この悲惨な出来事は、わたしの目の前で起きたのです。日本兵がわたしの母をレイプし、そのあと殴り殺したのです。母は体をばらばらに切断され、皮をはがされ、肉片として軒先に吊るされ、この飯ごうでゆでられました」[5]
・パラワン島米兵捕虜殺害事件 1944年12月13日
米軍の上陸が迫るフィリピン・パラワン島で飛行場の保守作業に従事していた米軍捕虜150名が処刑される。
・父島人肉食事件 1945年2月
日本軍が米軍の捕虜8名を殺害し、そのうち5名の人肉を嗜食したとされる事件。
・九州大医学部生体解剖事件 1945年5月17日~6月2日
米兵捕虜8名を生体実験。肺の全摘出を行った後、輸血の代用として海水を点滴。どのくらい生きながらえるかを実験した。8名の捕虜は収容先が病院であったため健康診断を受けられると思い、「サンキュー」と言って医師に感謝したという
・マニラ大虐殺 1945年2月
マニラ市街戦で多数の民間人が虐殺された事件。
聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄での集団殺害など。
・石垣島事件 1945年4月15日
石垣島で米兵捕虜3名が殺害される。日本軍は事件の発覚を恐れ米兵らの遺体を焼却後、西表島の海上に捨てるなどして隠蔽工作した。
・ランソン事件 1945年3月
仏印北部のランソンで仏兵捕虜300人を処刑。[6]
・サンダカン死の行進 1945年2月~6月
1945年10月24日のサンダカン捕虜収容所の様子。
1945年、太平洋戦争中に大日本帝国が設置したマレーシア・サンダカン捕虜収容所における日本軍によるオーストラリア・イギリス軍兵士捕虜に対する死の行進である。過酷な使役に加え、伝染病、栄養失調が蔓延。これに伴い1000人以上の捕虜が、ラバウル豪軍総司令部軍法会議の豪側検事によれば、7人を除き全員死亡したとされる。
・花岡事件 1945年6月30日
日本へ強制連行され、秋田県花岡炭鉱で過酷に働かされていた中国人労務者がおこした蜂起・逃亡事件。
警察、自警団、鹿島組などが鎮圧、見せしめの為、数百人が拷問後殺害されたとされる。
・ヤルート島民処刑事件 1945年5月
マーシャル諸島ヤルート島で陸海軍将校が島民21名を殺害。
・ビルマ・カラゴン事件 1945年7月
日本軍が南ビルマのカラゴン村の村民637名を集団殺害した事件。兵士3人とともに死刑判決を受けた同大隊の少佐が「(英軍に協力する)住民を殺せという連隊長命令に従っただけ。子どもを殺したのは、助けても孤児になって生きていくことはできないと判断したからだ」と供述した調書や 「慰安婦」になることを拒否したビルマ人女性75人が集団暴行を受けたとされる事件の記録もあった。[7]
・オーシャン島住民殺害事件 1945年8月19日
島民140名に終戦を告げた後、全員をがけの上で銃殺。
・従軍慰安婦問題
終戦から25年以上経った1970年代に、旧日本軍が戦地の女性を強制連行し、慰安婦にしたとする本が数冊出版された。 中でも、元陸軍軍人の吉田清治(本名:吉田雄兎)は『朝鮮人慰安婦と日本人』(新人物往来社 1977年)で、軍の命令で自身が韓国の済州島で女性を「強制連行」して慰安婦にしたと告白。そして、日本、韓国、アメリカなどで講演を行なったり、新聞やテレビなどのマスメディアに精力的も出演し、裁判の証人としても朝鮮人の奴隷狩りを証言したり、1990年代には国連の人権委員会に働きかけるなど、この問題を世の中に大きく広めた。
日本ではこの問題の報道を『朝日新聞』が主導した。吉田の証言を紹介し、韓国の元慰安婦が名乗り出たこと、慰安所に対する旧日本軍の関与を示す資料が見つかったことなどと大々的に報じた。
政府の第一次調査では「軍の関与」は認めたものの、「強制連行」を立証する資料は無かったとしたが、反日世論の中で韓国政府が受け入れなかったため、1993年、第二次の調査を行ない、その結果発表の際に、河野洋平官房長官がいわゆる「河野談話」を発表。
河野談話
- 慰安所の設置は日本軍が要請し、直接・間接に関与したこと、慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったこと、慰安所の生活は強制的な状況の下で痛ましいものであったとし、慰安婦の存在は認めた。
旧日本軍による強制連行を認め、反省とお詫びの意を示した。これにより、平成六度版の高校歴史教科書から、韓国政府から強く要請されていた慰安婦の記述がなされるようになり、やがて、中学校の歴史教科にも及び、ほとんどの歴史教科書で慰安婦についての記述が掲載されるようになっていった。
1965年の日韓請求権協定は、日本の植民地支配に対する個人請求権を韓国側が放棄する代わりに、日本側が経済協力資金を払うことで締結された。これに対し、韓国側は「慰安婦」問題は協定に含まれないと主張している。
韓国政府は2005年、日韓条約締結に関する外交文書を公開したが、このなかで、対日請求権要綱には「慰安婦」が含まれていないことが明らかになっている。韓国憲法裁判所が、元「慰安婦」の個人請求権で日本政府との交渉を求めたのも、この事実が明らかになったからだ。一方、日本側はいまだに日韓条約での対日請求権に関する外交文書を公開していない。
また、68年に国連で採択された「戦争犯罪及び人道に対する罪に対する時効不適用条約」により、人道上の罪に時効は存在しないことが明確になっている。日本政府が真に「未来志向の日韓関係」をのぞんでいるのなら、「法的に決着済み」という木で鼻をくくった態度に終始するのではなく、誠意をもった姿勢を示すべきである。
ポイント
-
日本はアメリカ、朝鮮、中国、シンガポール、オーストラリア、イギリス、ビルマ、フィリピン、台湾など、様々な国の人々に対し多大な迷惑をかけ、非人道的で残虐な行為を行いました。恐ろしい国でした。深く反省し同じ過ちを繰り返さないようにしなければなりません。
!
- アドバイスにて、訂正・異論を募集しています。
注)
[1]http://kotobank.jp/word/3・1独立運動
[2]http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/Singapore/jiten.html
[3]http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/burogu.html#17
[4]http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/25948418.html
[5]http://www.midori-kikaku.com/mariko/j-ist01.html
[6]http://www.kaho.biz/main/taisen/butuin.html
[7]http://uyotoubatsunin.seesaa.net/article/18714731.html
引用・参考文献:
「世界戦争犯罪辞典」(編・秦郁彦、文藝春秋).
特に注釈がない場合、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参考.
先日投稿した同内容の記事が「著作権違反の恐れがある」との理由で削除されました。この記事に紹介されている写真・画像は全てwikipediaの画像の転用であり、それらの画像は戦時に作成されたもので、全てパブリックドメイン(知的財産権が消滅した状態)であることを確認しています。
記事の最後に「特に注釈がない場合、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参考.」 と記載しています。
wikipediaを見れば、著作権侵害でないことはすぐに確認できます。
削除人はその確認を怠り、自称保守派の人間の執拗な削除依頼に屈したことは明らかです。
このような対処を典型とする日本人の言動は、まさに諸外国人が「日本人は反省の態度が見られない」 と主張する主因である。
自国の悪行から目を逸らすために、削除の理由を粗探しするのはやめなさい。
写真の著作権の所在(全てパブリックドメイン)
霧社事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:The_scene_of_the_Wushe_Incident.JPG
重慶爆撃
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Chongqing_bomb.jpg
真珠湾攻撃
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:USSArizona_PearlHarbor.jpg
バターン死の行進
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Anti-Japan2.png
マニラ大虐殺
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Manila_Walled_City_Destruction_May_1945.jpg
サンダンカン死の行進
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Awm_120461_sandakan.jpg
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