そもそも近代の憲法は、国家権力に歯止めをかけて、国民の人権を守るために生まれました。ですから、憲法は「人権保障の体系」であるということができます。そしてここで人権を保障される国民は、あくまでも個人として尊重されなければなりません。「個人の尊重」こそが憲法の基本的な価値なのです。
そのことを憲法は「すべて国民は個人として尊重される」と規定しました(憲法13条)。人権の発想はこのように国民を一人ひとりの個人ととらえることから始まります。社会的な地位や身分関係で国民をとらえるのではなく、あくまでも一人ひとりの個人として、その生き方や存在を尊重し肯定するのです。
このように「個人の尊重」を根本価値とする人権ですが、実は絶対に制限されないわけではありません。このことを憲法は「公共の福祉」という言葉を使ってあらわしました。12条には「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とあります。
また13条の後段にも、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とあります。他に22条や29条2項にも登場します。これらの「公共の福祉」とはどのような意味なのでしょうか。
皆さんは「公共の福祉によって人権が制限される」と聞くと、どのようなことを思いうかべますか。「社会の秩序や平穏という公共的な価値のために、個人はわがままをいってはいけない」というイメージを持ちませんか。または、「多数の人の利益になるときには、少数の人はガマンすべきだ」という意味だと感じませんか。
実はこれらの理解は、正しいものとはいえないのです。
仮に「社会公共の利益」といった抽象的な価値を根拠に個人の人権を制限できるとすると、「個人よりも社会公共の利益の方が上」ということになってしまいます。これでは「個人が最高だ」とする個人の尊重の理念に反してしまうのです。
個人が最高の価値であるのならば、その個人の人権を制限できるものは別の個人の人権でなければなりません。つまり個人の人権を制限する根拠は、別の個人の人権保障にあるのです。
私たちは憲法によって人権を保障されていますが、当然のことながら、他人に迷惑をかけることは許されません。たとえば、いくら私たちに「表現の自由」が保障されているといっても、他人の名誉やプライバシーを侵害してまで表現する自由が無制約に認められているわけではないのです。どのような人権であっても、他人に迷惑をかけない限りにおいて認められるという制限を持っています。
私たちが社会の中で生活をしていく以上、ときに、「ある人の表現の自由vs別の人の名誉権やプライバシー権」のように、人権と人権は衝突します。そしてその衝突の場面においては相手の人権をも保障しなければなりませんから、自分の人権はそのかぎりで一定の制約を受けることになります。
すべての人の人権がバランスよく保障されるように、人権と人権の衝突を調整することを、憲法は「公共の福祉」と呼んだのです。けっして「個人と無関係な社会公共の利益」というようなものではありません。また「多数のために個人が犠牲になること」を意味するのでもありません。
「公共の福祉」による人権制限の問題を考えるときには、対立する利益をつねに具体的に考えなければなりません。「誰のどのような利益を守るために人権を制限するのか」をしっかりと意識しないと、「国益」というような抽象的なものでの制限を許してしまいかねないからです。仮に「国益のため」という理由が語られたときには、その「国益」の中身が具体的にどのようなものなのかを考えてみることが必要です。
たとえば以前に、イラクで日本人が人質に取られるという事件が起こりました。このときに「自衛隊を撤退させずに国益を守る」というのであれば、「生命という最大の人権を犠牲にしてまで守るべき国益とは何か」を具体的に考えなければなりません。そうでないと、「国益」という言葉に安易に流されてしまいます。国の都合で人権が制限されることがあってはなりません。
そもそも「公共の福祉」のことを英語ではpublic welfare といいますが、このpublicとは、「人民」がもともとの意味です。つまり「人びと」ということです。ところが、日本語の「公」はもともと、「天皇」や「国家」をさしました。
人権を制限するときに「公共の福祉」とか「公のため」という言葉を使うときにも、私たちはあくまでも、具体的な人びとの幸せを想定して考えていかなければならないのです。
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