■Yoshiyuki Ymazaki

3月14日 山崎昭八の長男として群馬県高崎市下小鳥町に生まれる。小さい時から、落ち着きがなかったらしい(現在もそうだが)毎日のように朝食の時間になると姿を消し、隣家の家、家を点々と食事をごちそうになりにいっていたらしい。(のどかな時代だったんだろう)



よく怪我をする子で、(これも未だに変わっていない)小学3年のときに、運動会の鉛筆を食わえて歩き、教室でつまずき咽に刺し、危うくあの世行きなめに会い、その1年後も祭りの屋台で買った吹き矢をくわえたままガラスドアにぶつかり、同じところから出血!そのため声帯にポリープができ、2ヶ月間筆談を強いられる。その反動か、回復してからはとにかく話し好きに!!

中学時代はほんとうにただのガリ勉君。1、2年は水泳部に所属。
高校時代になって現在のAMWAYのスポンサーである茂木君に出会う。彼は僕より2歳年上で高校中退、DISCO DANCEでは日本2位という凄腕で、偶然僕の叔母が経営する美容室に働きに入店。彼と出会ったことでそれまでのガリ勉君がにわかに遊びに目覚める。彼の影響は大きかったな?。今なら理解できるけど、その当時彼の口癖は「世の中仕事も含めて、いろんな経験をしてるやつが、成功する」その当時の日本はガチガチの終身雇用制、僕も一般の価値観に染まり切ってた頃だから、彼の発想には驚かされっぱなしだった。でもそのころから彼の影響は確実に僕を変えていった気がする。

18歳の時横浜国立大学の教育学部に入学。
そして、その当時の夢であった、ミュージカル俳優を目指し、大学を休学し単身LAへ、、、
実はLAに行く前、2ヶ月ほどSEATTLEに滞在、これは全く話せない英語を学ぶため、ワシントン大学の寮にステイして語学学校にいっていた。
そこでの体験はその後の人生にかなりのインパクトを与えてくれたんだけど長くなるので、もし興味のある方はAMWAYから発売されているCDをきいてね(CMのようだな)そしてダンスのために行ったLA、時は1982年音楽もブレイクダンスに象徴されるようにストリートMUSIC,などいろんなことが始まろうとしていた時代だった。サンタモニカからダウンタウンまで続くSANTAMONICA,BLVD WILSHER,BLVDをオートバイでダンススクールに通う毎日だった。(お金がなくて車を買えなかった)
こう言うと聞こえがいいんだけど、レッスンはほとんどついていけない状態!全く基礎のない僕にはあたりまえなんだけど、そんなとき誘われてはじめたサーフィンでフィンを左太ももに刺し大怪我、、、なんだか好奇心が多い割にどんくさい。(のちにオートバイでも肩を脱臼することに、、、トホホ)
そして、1ヶ月以上も足が治らず毎日意味もなく時間が過ぎていった。そして今でも忘れない「お年玉事件」!!これもCDに入ってることなんだけど、まー世の中は半端じゃないってことを本当に学んだ日々だった。

1年たって、日本に帰る時 頭にあったのはすでにダンスではなく、とにかく「大きい生き方がしたい」だった。だから大学に復学しつつも、毎日なにかを探す毎日。仲間とコピーバックの会社を作ったり、LAのRADIO局のテープをダビングして学校内で売ったり、(今思えばあれは違法だったな〜・・・でもかなり売れた!なんたってFM局がなかった時代だったからね)なにか、何をやってもちょっとは燃えるんだけど、不完全燃焼というかピンとこないというか毎日もやもやしてたな〜。
そんなこんなで1年が過ぎ周りのみんなが就職を口に出し始めた頃、1984年の5月のはじめに忘れもしない一本の電話があの茂木さんからかかってきた。何のきなしに取ったその一本の電話が僕の人生を大きく変えることになった。

AMWAYとの出会いだ。