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那田尚史様

 投稿者:達磨禅  投稿日:2012年 4月28日(土)20時24分24秒
返信・引用
  出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

那田 尚史(なだ ひさし、1956年 - )は、日本の評論家。愛媛県出身。早稲田大学第一文学部文芸科卒業後、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了。専攻は映像研究で、主な活動は実験映画、個人映画、小型映画に関する批評・研究。 2001年から早稲田大学や東京工芸大学非常勤講師を勤めた後、2008年から「微笑禅の会」を設立し、独自の禅に取り組む。2009年度から大学教員を自主退職し「ロータス人づくり企画」を創設。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

那田尚史様は、評論家でしたか。

失礼致しました。

 

はじめまして

 投稿者:達磨禅  投稿日:2012年 4月28日(土)14時45分55秒
返信・引用
  はじめまして

達磨禅と申します。

誠に勝手ながら、スレッドを創らせて頂きました。もし、お気に入らない場合、削除されても結構です。

以後、宜しくお願い申し上げます。
 

沈空の夢

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 4月12日(木)18時14分29秒
返信・引用
  面白い夢を見た。

家の中で飼っている黒猫の一匹が首をつっている。驚いて抱き上げると手足を動かすので生きていると分かった。ところがそのネコが瞬間に赤ちゃんの頃の長男(現在高校生)の姿に変わった。暖かく、柔らかく、明らかに生きている。さて、ロープを外してやろう、と考えるが、待てよ、いずれ生き物は死んでしまう、地球も消える。ならば、折角涅槃に入ろうとしているのを無理に蘇生させて四苦八苦の娑婆に連れ戻すのが果たしていいと言えるのか、と考え込んでしまう。という夢だった。続けて、幼稚園手前ぐらいになった息子と楽しく遊んでいる夢も見たが。

前者の夢は典型的な禅の病、沈空というニヒリズムの夢である。実態としての個我などないのだから瞬きするほどの短い人生に囚われない、という病で、私はこれを批判してきた。が、ほんの瞬間にでも夢に出た。要するに疲れすぎるとこういうおかしな夢を見るわけだが、また別の角度から見れば、これも一種の救いではある。誤解がないように言っておくが、例えば愛しい子供を事故や病気で失った親にとっては、こういう夢は救いになるだろう、という意味であり、これを肯定しているのではない。空の病からさらに心境を進めて菩薩道に入り、生きている限りは世のため人のために努力する、という志を持たねばならない。

昔読んだ記憶だから正確ではないかもしれないが、しかしキリストは「私に母などいない、私の教えを聞くものが母である」と言い、釈迦は修行中に子供が生まれたとの知らせを聞いて、愛着の原因が増えたと思ったのだあろう、煩わしい、という意味の名前をつけた。仏教とキリスト教では教えが相当異なるが、仏教の影響を受けたユダヤ教がキリスト教だ、という説もあり、ともにマイホームの穏やかな生活に対する拒否の姿勢であることには違いない。

私はとてもそういう心境になれないし、家庭の幸福、自分の幸福がなければ、菩薩道など説けないと思う。とはいえ、日蓮は法難の一生だったし、キリストは「私はこの世に平和をもたらせに来たのではない。闘争をもたらせに来たのだ」と言った。

これから先は事実上の(つまり理念ではない)「百尺竿頭一歩(ひゃくしゃくかんとういっぽ)を進む」、の世界だろう。さて一歩踏み出せるかどうか? 答えは分かっているが難問、というやつですね。
 

久しぶりの投稿

 投稿者:那田尚史  投稿日:2012年 3月 1日(木)13時35分38秒
返信・引用 編集済
  寝禅の工夫について、会報などで書いてきた。
体が健康で、深刻な悩み事の無い場合、たまたま寝つきが悪い場合は寝禅は効果がある。具体的には大の字になって臍下丹田に意識を置き、すっと息を丹田に落として、吐く息は意識せず毛穴から漏れるイメージで、なるべく細く長く吐く。なにか言葉やイメージが邪魔して数息観、隋息観ができないときは、お題目でもいいし、南無観世音菩薩でもいいし、気に入った文句を心で唱えるようにすると、心が落ち着いてくる。

が、朝の寝禅は難しい。体に痛いところがあったり、強いストレスに襲われている場合は、ネガティブな想念が現れて、言葉やイメージが脈絡なくあちこちに飛び、余計苦しくなる。私の場合は心臓が痛くなるので、無理やり目を開き、起き上がってパソコンの前に座り、冷たい飲み物を飲む。そうすると溜まった用事の優先順位の高いほうから、意識を集中して取り組めるのでずっと楽になる。つまり、寝禅は目を閉じるために、至難の業なのだ。


なお、悟りのコツは、座禅の途中で様々な場所に快感が走るときがありますが、それに意識を集中させてその快感を十分に味わうことです。それを繰返していくと体全体が快感に溢れて、脳内の強烈な快感物質が噴出してきます。嬉しくて涙がこぼれてくる。それを毎回体験できるようになったら、法悦境の持続が生じます。見性体験は、これがそうかな、というような曖昧なものではなく、非常に強烈な覚醒体験が数日続きますので、明確に自覚できます。
 さらに、一発で大悟徹底する場合もあれば、私のように繰り返す場合もあります。

操体という日本医学でも健康の最大のエネルギーが「快の追求にあります」。同じように、言葉とイメージから離れ、無念無想になって喜びに溢れた状態を毎日繰返す、これに尽きるでしょう。歩いている時も、電車に乗っているときも、無念無想になる工夫をしてください。

如来は言語を使って思考していない。あまり理屈攻めをせずに、大体の直感で行動していればそれが最善の道になるでしょう。裁判で訴えるときなどは別ですが。

工夫、というのは本来禅用語です。自分で、ああでもないこうでもないと試みるわけですが、何事も基本の繰り返しが重要。最初に贈った「微笑禅入門 実践篇」のDVDに大事なことは映像で示してありますが、人間は中々自主的に稽古できないものです。もし近所に禅寺があれば週に一度の座禅会などしていることが多いので、そこに参加するのもいいでしょう。そして色々を質問して、飽き足らなくなったら私の説明をヒントにして、工夫してみてください。
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2011年12月18日(日)15時50分34秒
返信・引用
  川上雪担老師は平成23年5月20日、遷化されました。

 昭和11年神奈川県生まれ。東京大学文学部卒業後、新潟市内の高校で教鞭を執る。三年後思うところ あって出家、福井県小浜市発心寺僧堂に掛搭。以降日夜坐禅に明け暮れるが、この事なかな手に入らず、あるとき浜松市、井上義衍老師の事を聞き及んで早速かけつけ、しばらく逗留。ほどなく法の一端をかいま見る。昭和47年大本山総持寺に安居、その後新潟県東山寺の住職となる。その後も義衍老師の接心に通い、あるときもと脱落底なるを知る 。
______________________________________________________________________________
以上、川上雪担老師は亡くなられました。昨年、電話で老師から点検を受け「君はしばらく修行をやめて病院に入院しなさい。仕事の山はどうにかなる。万物のほうが動いてくれる」
と言って貰った方です。
 ご健在のうちにアドバイスを受けれて良かった。残るのは発心寺の老師ですが、HPが閉鎖されています。福井近辺の方はぜひ訪ねてみてください。
 

いろは雑感

 投稿者:那田尚史  投稿日:2011年12月17日(土)16時27分27秒
返信・引用
  平安時代末期に流行。
『涅槃経(ねはんきょう)』の
「諸行無常 是正滅法 生滅滅己 寂滅為楽」を表すと言われる。



色は匂へど 散りぬるを
香りよく色美しく咲き誇っている花も、やがては散ってしまう。
諸行無常(しょぎょうむじょう)

我が世誰そ 常ならむ
この世に生きる私たちとて、いつまでも生き続けられるものではない。
是生滅法(ぜしょうめっぽう)

有為の奥山 今日越えて
この無常の、有為転変の迷いの奥山を今乗り越えて
生滅滅己(しょうめつめつい)

浅き夢見じ 酔ひもせず
悟りの世界に至れば、もはや儚い夢を見ることなく、現象の仮相の世界に酔いしれることもない安らかな心境である。
寂滅為楽(じゃくめついらく)
_______________________________________

ご存知の通り、俗説では弘法大師が作ったといわれるいろは歌です。回文といい、こういうひらがなを一つずつ使う歌といい、天才がいたものだ、と感心します。

ところで、浅き夢見じ酔いもせず、の部分ですが、これには諸説あります。文法的なことをいえば、この通りなのですが、この部分はしつこい、所謂畳語になっていますね。夢を見ない、酔わない、では当たり前すぎます。
 私はずっと、浅き夢みし、酔いもせず、と解釈していました。3行目ではもう悟ったのですから、「酒も飲まず、つまらない夢を見てきたなぁ」あるいは「酒も飲んでなくても、ほのかに酔ったような夢の中にいるよ」と解釈していました。

文法的には、私の解釈だと、浅き夢見き、というべきらしいのですが、詩歌の技術としては、私のように詠むか、または「浅き夢見ず、酔いながら」と対立概念を取り入れたほうが出来栄えはいいでしょう。

いずれにしても、有為の奥山を超えたいものですね。嫉妬とか権威とか不要な金銭欲とか全て捨て去って、ほろ酔いでこの一瞬を楽しみたいものです。ほろ酔いというのは、(入鄽垂手 にってんすいしゅ)とか、武芸十八般の穏行のことです。ではまた。
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2011年12月 7日(水)13時01分43秒
返信・引用
  このところ12時間ぐらい寝ているので、起きて色んなことを作業していると時間が無くなり、この掲示板への投稿が随分遅れました。
 ここ数年の疲れが、よく眠ることで徐々に取れているのでしょう。体調は回復傾向にあります。入院しているときは息が浅くて丹田呼吸さえ出来ませんでした。吸う息が肺で止まってしまうので。今はきちんと丹田まで降りています。
 それにしても昨日は雨と寒さで凍えていましたが、今日は晴天で指先もそこそこ温かいですね。夏は涼しく、冬は暖かく、とは確か利休の言葉でいうまでもなく茶道は禅の影響下に生まれたものですが、昔の人はどうやって冬暖かく暮らしていたのか気になります。厚着をして火鉢を使うぐらいしか思い浮かびません。日本家屋は障子と襖ですから、火鉢の熱ぐらいでは大した効果は無いでしょう。綿入れの着物とか、私も持っていますが、とても暖かいですね。後はお酒でしょうか。肝臓が丈夫であれば、この時期は鍋物とお酒で体がポカポカになりますから。
 もうすぐ人が尋ねてくるし、どういうわけかHPの一部が消えているので直してみます。
継続は力なりで、何でも続けないとダメですね。
 ノロウィルスが流行っているそうです。私は外出しないのでまず心配ないですが、皆さん気をつけてください。
 

蛇の道はへび

 投稿者:那田尚史  投稿日:2011年11月30日(水)14時10分58秒
返信・引用
  私は法律の本を読むのが趣味みたいなところがあり、今メガネの度数が合っていないので余り読まないが、法律の解釈学とかを調べるのが好きだ。だから、本人訴訟で損害賠償金を取ったり、訴状に反論して勝ったこともある。今はだいぶ体調が戻ってきたとはいっても普通の人なら入院している状態だから、裁判の類は弁護士に委任している。若い弁護士だが、現場を知っているだけあって、さすがに良く分かっているので感心する。つまり法理論だけでなく、その適用に関して、これは不利のようだが有利だとか、理屈ではこうだが実際にはそれは最終手段として残したほうがいい、といった駆け引きに長けているわけです。

合気道の場合もきちんとした手順があって、毎日繰返さないと覚えられないぐらい複雑な動作をするが、師範いわく、実際に相手がかかって来たら要するに勝てばいい、とのこと。合気道は腕力は使わないで、下半身を鍛えて、体重移動や相手が逃げられない空間を探し逆関節をせめて行くが、私は剣道を若い頃からやっていたせいか、握力や腕の力が強い。本当はそれは邪道なのだが、とっさの時には手の力で投げてもいいらしい。

そんな感じで、裁判でも武道でも、結果的に相手に勝てばいいので、いくら正しいことを言っても、相手は嘘ばかりついてくるのだから、負けてしまっては何にもならないわけですね。

禅もそうですね。基本動作を繰返して身に染込ませたら、後は応用=工夫で、自分なりの形を作ればいい。

ダダイズムやシュルレアリスムは第一次大戦で大量殺戮があり、キリスト教道徳と信仰が役に立たないことに対する失望、嫌悪から出発しています。日本を含めて世界中で大災害や殺人、モラルの低下が進んでいる今、同じように宗教のあり方が問われ直す時期が来ていると思います。、
 

(無題)

 投稿者:那田尚史  投稿日:2011年11月28日(月)12時39分40秒
返信・引用
  悟ったと言っても痛い時は痛い、辛いと気は辛い、頭にきたら腹がたつ。人間ですから。ただ、機会があるごとに人を助けること。騙されないように気を配って。そんな感じかな。  

片目の猿

 投稿者:那田尚史  投稿日:2011年11月23日(水)14時41分19秒
返信・引用
  むかし むかし ある猿の 村が ありました この 猿村は 昔から

片目の 猿 ばかり 生まれていました 理由は 不明なんですが

この猿村に ある時 両目が あいている 猿が 生まれました

この猿は 小さいときから 自分は 両目が 開いていて とても おかしい

自分 は 何で 両目 が 開いているのか 悩みました

毎日元気が なく 親も 変だなーーと なやみつづけました

こんな生活 を 小さいときから 送っていると 性格も おかしくなり

自分 は この 片目の猿の村では 生きていけないと 感じ出しました



両目の猿は 悩み 続け この片目の 村 を 離れました

猿の 頭の中には どこの 猿村も 猿は 全て 片目 だと 思っていました

しばらく 旅を続けると 猿村 がありました 不思議な事に

この猿村は すべての 猿が 両目を 開いているでは ありませんか

よく話しを 聞いているうちに 自分が 生活しているうちに

両目 が 開いていることが 正常で あることに 気がつきました
_____________________________________

某サイトより引用。

面白い話ですね。私はどこかで読んだ記憶がありまた文章にしたことがあります。出典は今昔物語とのこと。
 当然、異状と正常の判断基準がテーマです。
私はブログに大道芸人やホームレスの易者の中に本物の霊能力を持った人たちに出会った話を書いています。
 彼らは時代と環境が違えば寺院の住職になったり、あるいは医者など、社会的地位を持った尊敬の対象になる立場で幸せに暮らしていたでしょう。坂本竜馬だって現代から見れば英雄ですが、当時の徳川幕府から見れば指名手配犯ですからね(だから竜馬暗殺ではなく、合法的な斬り捨てというべきです)。

ヤクザの中にも善人がいれば、警官、検事でも逮捕される人物がいる。事実は一つなのに有罪になったり無罪になったりする。

「裸の王様」の話も面白いですね。ファッシヨンにしても、美人美男の非普遍性にしても。
常識で考えろ、とよく言うけれど、その常識が時代と文化と環境の下では全く別物になります。

勝海舟は禅剣一如の達人で、維新後は明治政府の要職につき、いろんな言行録が出ていますが、庭番の爺やが勝御殿の庭の雑草を刈ろうとしたら「虫の住処がなくなるじゃないか。可哀想だから止めなさい」と言ったそうです。これは海舟が言ったから素晴らしい名言ですが、普通の人が同じことを言えば、変人、狂人と思われるでしょう。

だから「方便の風を吹かして、如来の蕾を開かせる」という対機説法が大事になってきます。皆さんもぜひ十牛図の9番目までは到達してください。10番目(入鄽垂手 にってんすいしゅ)は、その人の置かれた立場によって、必ずこうしなくてはダメ、というものではないでしょう。ちょっとアドバイスするだけで、人は苦しみから救われることもあります。合掌
 

以上は、新着順1番目から10番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  7  8  |  《前のページ |  次のページ》 
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