インタフェースデザインやインタラクションデザインがなぜ重要か?

はじめに

人が関わるものすべてにインタフェースがある。そして、インタフェースは人の行為をつくる。あるいは「行為に影響するように物の設計を考えることがインタフェースの設計」と言えるかもしれない。

行為は人の経験をつくる。連続する行為は活動つくり文化をつくる。だからインタフェースは重要である。人にとってこんなに本質的で、文化にとっても重要な現象を、なぜもっと注目しないのだろうか。インタフェースに人類の未来があると言ってもいいほどだ。

この文章は、インタフェースやインタラクションだけにフォーカスし、その視点から、それがいかに重要であるかを記述する試みである。

*書いた後に思うことは、僕自身はインタフェースはコンピュータから外に向かっていて、コンピュータの中を操作すためのものじゃないこと。だからこんな発想になる。でもこれはユビキタスコンピューティングや実世界指向など一連の思想の流れの結果だとは思っている。

1.インタフェースは人の行為を生成する。

インタフェースの設計者が実際に利用者に提供するのは「物」である。ただしインタフェース設計において「物」は媒介に過ぎない。物は必要だが、設計の目的ではない。人がどこを見て、どうそれを持つのか、どう操作していくのか、を設計するのがインタフェースの設計である。目的は人の知覚や行為を設計することである。パソコンのキーボード、マウス、任天堂のWiiリモコン、AppleのiPhoneやiPadのマルチタッチ、 MicrosftのKinect、いずれも新しい行為を生み出している。インタフェースを「入力・出力」と発想するのは機器を中心にした発想であり、ごく一部を切り取った話でしかない。インタフェースとは「人の行為の話」なのである。だから行為がどう生まれるのかを考えなければならない。

人の行為というものは、具体的な環境(物)とセットで初めて生まれる。地面がなければ「歩く」という独特な行為は生成できない。泳ぐということだって、水が提供されなければその独特な行為は生み出すことはできない。地上でクロールしてくださいと言われてもクロールの真似はできるかもしれないが、泳げない。人の行為のすべては環境によって支えられていて、すべてその中で起きる現象である。行為と環境はセットである。そして、どんなものであれ物が提供されると人はそれに対して関係を持ってしまう。つまり行為が発生してしまう。そこにはいいことばかりでなく、危険も含む。だからこそ人にとって環境の一部となるプロダクトすべてのインタフェースの設計は、常に重要である。

2.行為は人の体験や経験をつくる。

「やった」という行為の結果は経験である。ユーザエクスペリエンス(以下UX)というキーワードがインタフェースやインタラクションデザインの分野とセットになっているのはそのためと言っていい。UXは、快適に使えるインタフェース(良い行為)であったとしても、全体としてみたときにそれが良い体験を得られるようにしなければ意味がないよね、という発想だ。たとえば優れたインタフェースを持つATM、優れたナビゲーション、音声ガイドで、何をするにも迷わずわかりやすいようなものが設計できたとしよう。しかし、インタフェースは迷わず明瞭だが、それによって1回の接客時間が長くなり、ATMに長蛇の列ができてしまっては「お金を引き出すという体験」は良くないものになってしまう。ディズニーランドも個別のアトラクションは面白いものを提供しても、混雑している、並ぶなどの問題が発生し、「ディズニーランドという体験」としては良くないものになる。ディズニーランドはもちろん、それを考慮して、並んでいる最中からアトラクションの一部とするように設計するなど、人の体験を総合的に設計していると言える。少し話は逸れたが、UXは少なくともインタフェース設計されたもを利用している最中の前後の文脈までも包括して設計する考え方である。すなわち、人の行為は連続していて生涯途切れることがない。だからある目的に対する一連の行為群を体験として定義し、それを設計しようというのがUXの根幹だろう。だから、メーカーや設計者は物に捕らわれていてはいけない。目的を設定しそれをひとつの区切れとしてあとはその目的に対する行為群を連なりスムーズにする設計をしなければならない。たとえば、Appleは「音楽を聴くことの最高の方法、体験」のような主張をする。

3.行為群は体験であり、人生である

私たちの生活は膨大な数の人工物に囲まれている。今、あなたのいる位置から周りを見渡してみてほしい。ほとんどすべて誰かが設計したもの中で暮らしている。人生はその中で繰り広げられる。多くの行為はつくられている。多くの体験もつくられている。そして、それはますます広がる。多くの時間をPCや携帯電話に向かって過ごすようになってきた、すべての操作方法は設計されたものである。その善し悪しで人の時間の質は変わっていく。インタフェースを設計する者は、人の行為を生成している、時間をつくっている、人生をつくっている。

こういったことを「私たちがそういうものに支配されている」と感じてしまうかもしれないが、そうではない。これは支配ではなく原理と考えた方がいい。つまり行為は環境とセットであるためだ。

4.行為は活動を産み、文化を生成する。

iPhoneのマルチタッチはあのタッチパネル技術は必要だが重要ではない。もっと重要なのは、タッチ操作の作法である。どうやってズームさせるか。たとえばピンチ操作でズームインしたりズームアウト。これは作法であり、文化である。国によって色々な挨拶がある。いわばそれを最初に決めてしまうくらいインパクトがある。iPhoneとAndroidでタッチパネル状のタッチ操作の作法は必ずしも共通ではない。またMacOS Lionからは、スクロール操作が逆になった(設定は変えられるが)。これによりWindowsと共通だったスクロール操作が異なるようになった。私はMacを使っているので、Lionの作法に慣れようと思って、しばらく使っていて比較的すぐに慣れて今は迷いがない。しかし先日Windowsを利用した際に、困ったことに、まともに使えないのである。

このように直感的な方法を発見し、作法として定義していくことは、インタフェース設計の仕事であり、日常へのインパクトは大きい。こういったタッチパネルの作法は比較的すぐわかる例であるが、目的や結果は同じでも、異なるインタフェースやインタラクション(関わり方)によって世界観、体験、人生は大きく変わってしまう。たとえば、海外へ行ったときの経験がまさにそれである。先日フランスに行ったときに感じたことだが、鉄道というものは日本にもある。しかし切符を買うというインタラクションが異なる。たとえば改札がなくタイムスタンプだけの鉄道もある。

インタフェースやインタラクションは行為を生成する。そしてそれにいつか慣れる。これが文化をつくりだす。今や文化の多くは、インタフェースやインタラクションの設計が暗黙的つくりだしてしまった作法によるところも大きいのではないかとも感じなくもない。

5.まとめ

インタフェースやインタラクションはあらゆる複合技術の「できる」要素の上になりなっている。それなしに語れないところはある。しかしどんな技術も「人が使う」ことをターゲットにしている限り、インタフェースは極めて重要だ。それは繰り返し述べてきたとおり、インタフェースは行為の方向性、質を左右させる。しかもそれが比較的長く使われるものになれば、経験や文化にも影響してしまう。エンジニアリングの議論では、こういった行為の発生源としてのインタフェースという風に議論することが、どういうわけかほとんどない。日常の文脈においてのそのプロダクトなりサービスの接点がどういう人の行為、行動、活動を生み出しているかという点でインタフェースを設計していく話をあまり聞かない。インタフェースが行為を生成するからこそ、この業界はエスノメソドロジーによって日常生活で人がどういう行為を発生させているかを注目している。エスノメソドロジーによって発見した日常の暗黙的な行為の価値を、インタフェースに適用し、そこから新しいサービスなり技術をつくっていく、それがトレンドだったりする。でもそれは2000年くらいからはじまっている。インタフェースが行為を生成するものであると捉えることができれば、インタラクションやインタフェース設計の流れや、何を学ばなければならないかも見えてくる。今回書いた理由は、もうちょっとこの手の方向で分野を盛り上げたいと思ったことと、企業もおそらくこういったインタフェースの考え方は持ち合わせないように思えてたから書いてみている。

6.おわりに

コンピュータは01の羅列の表現でしかなく、多様な表現が可能なマルチメディアである。アランケイはこれをメタメディアと言った。まだ見たこともない、道具でもないあらゆる表現が可能な装置であり、非常に高い表現の可能性があると言った。しかし、まだ我々はコンピュータやしかもネットワークにつながったそれが「何」であるのかをわかってない。計算機によってどれだけののことが表現可能であるかのポテンシャルもまだ把握できていない。コンピュータが価値を発揮するのは、「人間がどう定義するか」ということが大きい。これは、計算機である、文書書く装置である、楽器である、絵を書く装置である。これらはかつての人類の文化を表現したことである。しかしコンピュータはそれ以上のことができる。インタフェース研究者はこの定義を探る者とも思える。今現在、インタフェース系の学会でたくさんの試作が行われているのはそのためでもある。コンピュータがメタメディアであるから、その定義のバリエーションを探っているのである。しかもコンピュータの処理能力が劇的に高速化している時代の中で、である。正直、毎年似たような提案も数多い。しかしそれでもバリエーションが足りないと思う。また、プロトタイピングの重要性が数年前より言われ続けているが、この風潮も、コンピュータの技術がメタメディアであるから、実装して体験しないことには検証できないのが理由に思う。コンピュータの価値を定義していくのは、人間の想像力そのものである。これからは「メタファを抜きに」コンピュータの価値を定義していく、それがコンピュータという技術への課題だと思う。

インタフェースが行為を生成するものと書いてパブリッシュしたものは、InterCommunicationsの記事が最初。興味をがある人はそちらを参照してください。

余談:本当はこの文章にもっとリファレンスを入れながら書いた方が、より強い文章になるのだろうけれども、それはまた今後の自分の課題とさせてください。

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  • 渡邊恵太

    インタラクション の研究者。

    知覚や身体性に基づくインタラクションや、生活時間に溶け込む次世代メディアインタラクションの研究。

    「観察と記述」は2004年くらいからたまに書いてるブログ。