日本の犠牲祭祀

 現代の宗教は、モノに大きく依存している。絢爛豪華な神殿、目を見張るようなきらびやかな仏像、お札にお守りといったグッズも充実している。お金さえ出せば、神仏に関する祭具も一式そろうし、様々な種類の祈祷も受けられる。供え物にしても、海のもの、山のものを近所のスーパーマーケットに行って買ってくることもできる。

 これに対し、古代人の祭祀は、神殿を造るにも、資材の調達は困難をきわめたし、あり合わせのものを集めてきて粗末な祭壇をこしらえ、心ばかりの品々を供えて、自然神や祖霊神に満足してもらおうと試みたに違いない。モノが絶対的に不足しており、モノを加工する技術力も低かった時代の祭祀は、現代のようにふんだんに物資を用いた祭祀はできなかっただろう。

 しかし、ムラ(共同体)が連合してクニを形成し始めた弥生時代には、クニの長を頂点として共同体連合を統率し、人心を掌握するための政治的なシステムを構築していく必要が出てきた。それは宗教・祭祀を共有し、祭祀を通じてクニの連帯を強化する祭政一致の神権政治のシステムである。神権政治の祭祀には、当時の技術の粋が結集され、ありとあらゆる<モノ>が神への供物として捧げられたのである。

 その原型は中国の古代国家、殷(商)(紀元前1600年頃-紀元前1000年頃)にその萌芽を認めることができる。殷は典型的な神権政治を行い、王はさまざまな決定をする際にかならず占いをし、神の意思を確認して命令をくだした。祖霊や自然神も重視され、神々に対して動物や奴隷などを生け贄としてささげ、祭祀を行うことも王の重要な役割であった。

 たとえば、殷墟の王墓周辺からは1178体の首なし人骨が出土している。王の埋葬に際して、数千人の人間が生け贄として捧げられ、数百頭の馬を犠牲にしていた。人間の多くは、戦争捕虜であったと推察されるが、生け贄を確保するために戦争を仕掛けることすらあったという。また、王室の定期的な祭祀の際にも、異民族の人間、牛、羊、犬などの動物を生け贄に捧げている。

殷王墓から出土した生け贄の人骨と馬の骨

【出典】鶴間和幸(編)2000NHKスペシャル 四大文明 中国 日本放送出版協会Pp.146

 このように、神権政治体制では、犠牲祭祀が執り行われ、王の権力は神と一体視され、政治、経済さえも祭祀のシステムの中に取り込まれたのである。人間でさえも神への供物にしてしまう。基本的人権の1つである生存権(自由や生命を脅かされずに生きる権利にとどまらず、人間としての尊厳を持って生きていくために必要な物資、基盤、環境等の条件の確立を国家に対して要求する権利の概念さえもなかった時代の話である。

 同じ事は弥生時代の日本にも当てはまる。規模こそ違え、2000年前の日本においても、祭政一致のシステムは存在した。弥生時代の出雲と対馬において神権政治が行われていた、というのが私の持っている仮説である。そこでは、現代に生きる我々の感覚では理解できないような血にまみれた儀礼が執り行われていた。


出雲の現神(あきつかみ)

われわれはすでに何度か出雲に巡礼を行い、霊媒によるサイコメトリーを行ってきた。出雲地方でも出雲大社のある杵築地方には、出雲王国とでも呼べる強大なクニが存在したことは、最近相次いだ考古学的発見によっても裏づけられつつある。我々が特に注目しているのは古代神殿に関する霊的情報である。とはいっても、既に見つかっている48メートルの掘っ立て柱神殿ではなく、八雲山の中腹に建設されていた弥生時代の96メートル高層神殿の方である。

【写真】出雲大社の背後にある八雲山
この山に古代神殿の謎を解く鍵が埋まっている。

出雲地方の祭祀がかなり血なまぐさいものであることは、すでにHPなどでもまとめているとおりだが、杵築の古代神殿では、宇豆柱を建てる前に、その下に生け贄を生き埋めにしている。また、山腹の神殿部分の建設にあたっては、生け贄を木に縛り付けて、鳥につつかせるというやり方で、完成をめざした。

工事は当時の技術的にもきわめて難しく、何度も工事中に倒壊し、当初の計画よりも低いところに神殿を建ててようやく完成した。しかも、神殿が倒壊するたびに、生け贄の数を増やして、神の加護をもらおうとした。

当時は個人という概念がなかったし、生け贄は「神の使い」として、神と一体化するという尊い役目として神聖視されていた。生け贄には子供が使われることが多かったが、親も悲しみというよりは、神聖な役目を担う我が子に畏怖の念さえ覚え、誇りに感じた。いずれにしても、生きたものを、生きたまま神に捧げる事に意味があったのである。

銅剣を地中に埋葬する祭祀においても、子供の生け贄を捧げている。これは子供の生命力を剣に宿らせる、という呪術的意味を持っていた。子どもたちは生き埋めにされた。死にかけて、身体の衰弱している子供が選ばれることが多かった。そうすることで、子どもの魂は神と一体化する。親も我が子が神の使いになって、自分たちの集団を守ってくれると信じていた。

また、古代の出雲では、奇形の子供を食べる風習があった。これも、神が与えたものとして神聖視されており、それを食することで神と一体化できると考えられていた。

 話を高層神殿に戻そう。どうして、そこまでして高さにこだわったのか。それは、古代出雲人の世界観に根ざしている。神の座である天に近づこうとしたというのも、理由の1つだが、彼らの世界観では天と地の中間に神殿を建設することで、天の神と地(海)の神の両方の力をまんべんなくもらおうとした。天の神は自然の恵みを与える神であり、万物を活かす自然神だった。これに対し、水平的な軸に沿った神の概念は少し異なり、海の向こうの「常世の国」からやってくる<異邦人>を神と見なしたのである。

すなわち、自分たちが知らない知恵と技術をもっていた渡来人を神格化し、生活の道具を教えてくれる<技術神>として祀った。高度な文明を持った人々を、出雲土着の人間は神と見なした。そういう神々の中に、素戔嗚尊たちの渡来集団もいた。出雲の古代信仰は、自然神信仰に加えて、未知の人を神と見なす<現神>(あきつかみ)の概念の交錯によって成立したというのが結論である。

八幡信仰にも<漂着神>という概念があって、関連性があるように思える。たとえば、「大隅正八幡宮縁起」によれば、震旦国(中国)の陳大王の娘である大比留女(おおひるめ)が、7歳のときに夢で朝日を受けて身籠もり、王子を生んだ。 王たちはこれを怪しみ、母子を空船(うつほぶね)に乗せて海に流したところ、日本の大隅の海岸に着いた。その太子を八幡と号して奉った。太子は大隅国に留まって、八幡宮に祭られたという。

出雲の場合も、朝鮮半島との交流があったことは間違いないわけで、海の向こうからやってきた人を神に押し上げていったものと思われる。


対馬天童(天道)信仰のタブー

 対馬の天童(天道)信仰は一種の太陽信仰で、天照大神の原型になるような対馬独自の祭祀から発生したものである。天道法師という超人伝説に姿を変えて中世以降伝わっているが、もとは弥生時代からの自然信仰がベースにある。原始天童信仰は、志多留貝塚よりも新しい時代の信仰である。

現在、天童信仰の中心地は南部の多久頭魂神社と北部の天神多久頭魂神社だが、どちらもご神体は天道山と呼ばれる山だ。

南部には天道山(龍良山)を中心にして、北側の麓に天道法師祠(裏八丁角)、南側の麓に天道法師塔(表八丁角)が建っている。どちらも聖地であり、特に南の表八丁角という場所は、「恐ろし所」といって、近寄ると祟りがあると言われ、地元の年配の人は今でも近寄るのをいやがる。(対馬に住む人から以前メールで教えてもらったこともあります)

【写真】対馬天道信仰(裏八丁角)の拝殿

古びて、何の変哲もない場所のように見えるが、霊的には強烈な波動が土地全体から出ている。
【写真】対馬天道信仰(表八丁角)の塔

原生林の中に塔はひっそりと建っていた。杜の精霊たちの声が聞こえてきそうな場所である。地元では、ここを「恐ろし所」と呼んで神聖視している。

なぜ祟りがあるのか?それは一種のカモフラージュであろう。ここから先の話は、霊的な情報によるもので、考古学や民俗学、歴史学の範囲を超える話であることをお断りしておきたい。

重要な秘儀を行う、宗教的、祭祀的なスポットには一般人を近寄らせないようにする必要があるわけで、恐いところだという噂を広め、立ち入り禁止区域にしておく必要がある。みだりに近寄るなと言うタブーを作るのは、そこが祭祀にとってきわめて神聖な意味を持った場所と見なされていた証拠だと考える。

弥生時代の対馬の信仰は、浦々に海の神、日の神を祀る祭祀場があり、儀礼を共同体のリーダーでもある神官が執り行っていた。共同体の中で神に選ばれた人が神官を務めるわけだが、そのためには特別な才能や能力をもった子供が生まれてくる必要がある。

その子供は神の使い、言い換えると神と人をつなぐ存在、その後の<眷属>の概念と同義だった。天童は神童であり、天の神、日の神の息子である必要があった。すなわち、日の子供=日子=彦となる。魏志倭人伝には対馬の首長の名前が【卑狗】「ヒコ」であったと伝えている。

世継ぎとなるヒコを産むための特別な儀式があった。引き潮の渚で、朝日の昇る時刻に、男性の神官と女性の巫女が交わりを持った。その巫女も共同体の中から特別に選抜されて育てられた女性であり、神を感じやすい女性であり、処女だった。

交わる場所、時刻は引き潮の渚、つまり潮が満ちたときには海になる遠浅の場所で、日の神の魂が入るためには、朝日が昇る時刻を選ぶ必要があった。

天道法師縁起には処女懐胎の物語が展開されている。天道法師の母は太陽の光に感精して、法師を身ごもったと伝えられている。実際はそこに男女の性愛的儀礼があったというのが、私の仮説である。

【写真】対馬の朝日
この太陽を、人々は天道(おてんとうさま)と呼ぶようになった。

さて、男女交合の後、巫女は龍良山の北側の祭祀場まで連れて行かれ、そこで妊娠したかどうかを確かめられた。もし、妊娠していなければ、巫女はその場で殺された。妊娠がわかったときは、臨月までその場に籠もり、神職以外の人間との接触はいっさい断たれた。

臨月になり、陣痛が始まる頃に、急いで龍良山を担いで登り、今度は南側に降りて塔のある場所に臨時の産屋を作り、出産させた。生まれた子供が男子ならば、天童である可能性があるとされ、子供は「神の子」として丁重に育てられたが、ある程度の年齢が来ると本当に天童なのかどうかの吟味が行われた。もし、子どもに特別な才能がないとわかったとすると、この子は神の子ではないと判断されて、生け贄として海の神に捧げられた。「蛇瀬」などの祭祀場で犠牲祭祀が行われたのである。

【写真】対馬の蛇瀬
ペルセウス−アンドロメダ型の伝説が残る。

蛇瀬島伝説:往古この瀬にしばしば悪害をなす蛇が住んでいたが、応永の頃(室町時代)宗総左衛門澄茂という武将が弓で退治したという伝説と、三月三日の干潮時、瀬上に現れたこの蛇を、人身御供の乙女の代わりに火桶を飲ませた里人の知略により退治した伝説二つが複合し、この瀬にまつわって伝えられている。

こうして代々神官たる男性、「ヒコ」が継がれていったというのが、私の仮説である。ヒコ何世というふうに、ヒコは世襲されていったのであろう。ヒコになった人は、先代のヒコが亡くなったときには、その力を受け継ぐ儀式として、彼の肉を食べる人食いの儀礼も行われていた。

こうした儀礼が行われていたのが、原始天童信仰であり、これは朝鮮半島から入ってきた知識に基づくものだったようである。優生学的発想もあるようで、特別な能力(霊能力にかぎらず優れた才能の持ち主)をもった者だけが神に仕える人物としてふさわしいと考えられ、共同体の代表として、念入りに選抜された。


中国の殷王朝は多数の人間を生け贄に捧げた結果、国内の人口も減少し、やがて周辺諸国からの侵略を受けて、滅びる運命をたどった。その意味で、神は決して人間を供え物としては要求していなかったというべきであろう。

ただ、現代人の感覚からは残酷としか言いようのない儀礼には、何か特別な意味が込められていたのかもしれない。民俗学の研究によれば、生け贄とは産まれたときから初なままで養育され、何の罪穢れも知らない無垢な状態の人間、動物を希少価値のあるモノとして神に捧げることを意味する。人間も神なる自然から産み出されてくるモノであり、その神の怒りを鎮めるため、あるいは加護を得るために、もっとも貴重なモノ=人間を捧げたのであろう。

犠牲にされた人間の魂は神なる自然に還っていき、それがまた巡り巡って共同体に恵みを与える。共同体全体の運命を左右しかねない重大な事態に陥ったとき、その局面を打開するために一番大切なモノを捧げること、すなわち人の命を捧げることを古代人は思いついたのかもしれない。モノが乏しかった頃の話、個人主義という思想が確立するずっと以前の話である。

今でも、決死の信仰をしている少数の人々がいる。私が関与している四国の拝み屋の世界である。自分の命を賭してでも、神仏にすがろうとするのが拝み屋である。身を削り、寿命を縮めてでも、神仏と交流し、奇跡を引き起こそうと試みる。私は、そのような姿に古代のシャーマンの営みを重ねて見てしまう。神と関わるのに自分の命のやりとりをするのは、シャーマンの宿命でもある。彼らにとって、神事とはいつも自分の命と引き替えなのである。これも、犠牲祭祀の名残なのだろうかと思えてくるのである。