ライター社納葉子のテララ町ぶるーす
部落差別は「特別な差別」なのか? 7
- 2012-02-08 (水)
- 未分類
11月30日、わたしは亀岡市教育委員会人権教育課に
抗議のメールを送ることにした。
あまりの非常識さに、それが組織全体の意向だとは思えなかったからである。
これまでのメールは人権教育課のアドレスに
個人名のタイトルをつけて送信していた。
今度は「亀岡市教育委員会人権教育課のみなさま」とした。
そして、何ヶ月も連絡がなかったにも関わらず
今になって、また問題点を明らかにしないままに
「話し合い」を求めてくることや、
電話をしないでほしいと伝えているのに電話をかけてくる、
「すぐに送る」と約束したものを2週間以上放置して謝罪もないなど、
あまりにも非常識かつ失礼ではないかと書いた。
そして、わたしの講演内容に関して亀岡市教育委員会内で
問題とされているとのことなので、
どこが問題なのかを具体的に文書で示してほしい。
しかしそれを受けて何をどう考えていくかはわたしが判断することであり、
こうした対応をする亀岡市教育委員会とともに
課長のいうような「よりよい方向に向けて一緒に考える」気持ちには
とうていなれないと伝えた。
最後に、この件は教育委員会全体で共有し、
今後のやりとりは「亀岡市教育委員会」の名でおこなってほしいと書いた。
12月6日、返信が届いた。
内容は以下の通りである。
・・・・・・・・・・・・・・・
社納葉子さま
社納さんにご講演いただいた講座について、
主催者として課題を整理し、今後の事業に生かしたいと考えています。
その過程で、社納さんのご講演内容につきましても、
主催者として確認しておきたいことなどがあり、
ご連絡させていただいたところです。
内容につきましては、教育委員会内で整理中であり、
今月半ば過ぎに文書を送らせていただく準備をしておりますので、
ご連絡申し上げます。
亀岡市教育委員会
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言葉遣いはていねいでも、主張は変わっていない。
しかもこの時点に至ってもまだ「整理中」で、
何を「確認」したいのかも言えない。
わたしはこれまで20回近く同じようなテーマで
行政や教育機関からの依頼を受けて講演をしてきたが、
こんなことを言ってきたところは初めてだった。
わたしは送られてきた講演の音声データを
部落解放運動関係者に聴いてもらった。
30年以上、運動に携わってきたひとだ。
「差別発言も、えせ同和行為も、ない」とのことだった。
つづく。
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部落差別は「特別な差別」なのか? 6
- 2012-02-07 (火)
- 未分類
わたしも向こうの要求を受け入れるわけにはいかなかった。
なぜ、理由も明らかにされないまま、
電話1本で呼び出されなければならないのだ。
怒りで血の気が引くのを感じながら
「冷静に」と自分に言い聞かせながら食い下がった。
「講演でわたしが十分に話しきれていないと感じられたのであれば、
なおさら今度お話する時にはきちんと準備しておきたいんです。
そのためにも事前にどこが問題だとされているのかを教えていただかないと困ります」
とにかく「話し合いを」と繰り返す相手に
わたしもこの台詞を繰り返して応じた。
やがて課長は一瞬黙った後、仕方ないという口調で言った。
「わかりました。
今日は講演の担当者が休んでいるので、
テープは明日確認してできるだけ早く送ります。
文書は少し時間がかかりますが、後で送ります」
電話を切ると、どっと疲れた。
そして今自分が何をすべきかを考えた。
まだ事態をよく理解できなかったが
とりあえず、今後のやりとりはメールか文書のみでおこないたい
というメールを課長あてに送信した。
口頭でのやりとりでは埒があかないと感じたこともあるが、
こちらの言い分をピンピンと跳ね返し、
自分の言い分だけを通そうとする冷たく固い態度に
人としての温かみや誠意は感じられなかった。
正直、もう二度と話したくないと思った。
わたしは10年ほど前にパニック障害を患っている。
2年の治療を経て治癒したが、
完治ではないと感じている。
精神的に追いつめられると、背筋からゾクゾクとしてきて
それが後頭部に達するとパニック発作が起きる。
そうならないように自分を追いつめそうなものからは距離をおくことを覚えた。
この時から「亀岡市教育委員会人権教育課」は
わたしにとってそういう存在になった。
しかし11月29日、当の課長から電話がかかってきた。
油断していたわたしはその名前を聞いた瞬間、動揺した。
それでも急いで「電話はやめてくださいとお願いしましたが」と言いかけると、
かぶせるように「いえ、住所の確認だけですので」と言う。
確認をするうちに少し落ち着いたので、
「文書はどうなっていますか」と尋ねた。
前回の電話から3週間が経っていたからだ。
返ってきたひと言は
「はあ? 文書ですか?」
完全にとぼけていた。
「いや、前回の電話で、時間はかかるけど文書を出しますと言われましたけど?」
「いやいやいや、文書といってもただの羅列になってしまうので、
とにかく一度お話し合いをして」
「だからそれはこの前もお話ししたように、事前に何が問題かを教えていただかないと
お話し合いはできません」
するとあろうことか、課長はこう言ったのだ。
「いや、まだこちらも振り返りをしていませんので文書は書けないんです」
振り返りをしていない?
それでわたしを呼び出す?
もう我慢できなかった。
わたしは大声で抗議した。
声が震えていた。
この場面は記憶が途切れ途切れで、
これまでのようにはっきりと再現できないが、こう言ったことは覚えている。
「あなたは11月9日にはっきりと”時間はかかるけど文書は出す”と言いました。
そちらで振り返りもしていない状態で、なんでわたしが行かないといけないんですか!」
不毛なやりとりの末、
とにかく講演の音声データを送るということで電話は終わった。
電話を切った後、パニック発作が起きた。
12月1日、講演の音声データが届いた。
課長からの一筆が同封されていた。
「縁を結んでいくのは大切なことだと考えています」とあった。
つづく。
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部落差別は「特別な差別」なのか? 5
- 2012-02-06 (月)
- 未分類
女性との”面談”を終えたわたしの胸には
相変わらずもやもやとしたものが燻っていた。
女性が経験してきた部落差別の厳しさは聞いたが、
わたしの講演のどこに、
その女性と息子であるという男性がひっかかったのかは教えてもらえなかった。
女性から渡された半紙に書かれていた「耳に痛い言葉」から逃げる気はない。
しかし具体的に言われなければわからない。
女性とは11月に再会する約束をした。
「今度はわたしが大阪に出るから、社納さんの仕事場を見せてね」と何度も言われた。
わたしは借りた冊子を読み、何となく心のなかで再会の準備をしていた。
その一方で、前回とは違い、気が重かったのも事実である。
「対話」が成り立っていないと感じていた。
11月に入り、大切な冊子を借りていることが気になってきた。
そろそろ連絡をとろうと思っていた矢先の11月5日、
夜遅く帰宅すると、留守番電話に女性からのメッセージが残っていた。
「本を送り返してほしい」と。
話が違うので驚いたが、
翌日、一筆添え、速達で女性の自宅に送った。
女性のほうが強く再会を望んでいたのに、どうしたんだろう。
もやもやは大きくなる一方だった。
考えた末に、自分の話した内容を確認しようと思った。
もっと早くにすべきだったと思うが、
なにしろ自分をさらけ出し過ぎて、聞き返すのがつらかったのだ。
11月9日、亀岡市教育委員会人権教育課に電話をかけた。
呼び出してもらった課長にあいさつをし、
講演のデータが必要になったが自分では録音していなかった、
録音をしていたら貸してほしいと伝えた。
すると課長は妙なことを言い始めた。
「あ、わたし共もちょうど社納さんにご連絡しようと思ってたところなんです。
実は関係機関から社納さんの講演に問題があると指摘がありまして、
ちょうど昨日、会議をもったところなんです。
本当に、ちょうど今、ご連絡するところでした。
お忙しいところ申し訳ないんですが、
一度こちらに来ていただいて、お話をさせてください」
驚いた。
このひとは何を言ってるんだ?
混乱しながら、「関係機関」という言葉にひっかかった。
「あの、関係機関とおっしゃいましたが、
具体的にはどちらですか?」と尋ねると、
課長は慌てて言い直した。
「いや、申し訳ありません。
関係機関とは教育委員会のことです。
教育委員会のなかで指摘があったということです。
とにかくですね、一度こちらへ来ていただいて・・」
何が何でも呼び出そうとする意思を感じて、
わたしは課長の言葉を遮った。
「ちょっと待ってください。
わたしの話のどこが問題だと言われているのか、
まずは具体的に教えてください」
すると課長は、
「いや、どこがというよりも、講演では十分に社納さんが
お話ししきれなかった部分もあるかと思うんです。
そこを確認させていただきたいということなんです」と、
具体的なことは一切言わないまま、「話し合い」を求めてくる。
わたしはだんだん腹が立ってきた。
「話し合い話し合いと言われますけど、
具体的にどこが問題なのかも言われずに、どんな話し合いができるんですか。
第一、教育委員会からは講演のあとに正式な礼状と参加者のアンケートも受け取っています。
わたしが伝えたかったことをきちんと受け止めてくださったことがわかる内容でしたし、
わたしは礼状を受け取った時点で教育委員会との仕事は終わったものと受け止めています」
怒りを必死で抑えながら、そう伝えると
課長は鼻先でフンと一笑し、
「礼状は確かに送りましたが、
社納さんのようなお仕事をされている方は
礼状を受け取ったから終わりというものではないんじゃないですか?」
と返してきた。
講演をした日、和やかに談笑した人とは思えない。
居丈高な物言いで、およそ筋の通らないことをごり押ししようとしていた。
つづく。
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部落差別は「特別な差別」なのか? 4
- 2012-02-06 (月)
- 未分類
10月8日。
人身事故の影響で電車が遅れ、
15分ほど遅刻してしまった。
急いで改札を出て見渡すと、
隅のほうに座り込んでいる女性がいた。
駆け寄ってしゃがみ、「すみません!」と謝ると、
「心配したわ。あなたが無事ならいいのよ」と手を握ってくれた。
駅のコンコース内にある喫茶店に落ち着くと
お手製のティッシュケースや紙で作ったブローチ、栗と次々に取り出し、
手渡してくれた。
手ぶらで出かけてきた自分が恥ずかしかった。
女性はさらにクリアファイルを取り出し、
「ああ、ちょうどこんなものが入ってるわ。
これも社納さんにあげましょう」と1枚の半紙をわたしに寄越した。
そこには達筆でこう書かれていた。
「耳に痛い言葉こそ
今の自分にとって
必要な意見である」
当然、わたしに向けた言葉だと受け止めた。
女性が話し始めた。
「今日はお互い率直に話をしたいと思ってるんですよ。
いくつになっても学ぶ姿勢が大事。
わたしも社納さんのお話を聞いて学びたいし、
社納さんにもわたしの話を聞いてほしい。
どっちが上とか下とか関係ない。
講演の時、社納さんが話しきれなかったことがあるんじゃないかと思うの。
今日はそのことも聞きたかったのよ」
わたしが講演で「話しきれなかった」こととは何なのか、わからなかった。
むしろプライベートなことやつらい経験を話し過ぎて
しばらく落ち込んでいたほどだった。
何を言われているのかよくわからないため、
わたしは自分の部落問題との出会いを最初から話そうと思った。
「まず、わたし自身は被差別部落出身ではないんです」と話し始めた瞬間、
女性は顔をしかめ、何度か首を横に振った。
その表情を見ながら、話を続けた。
「子どもの頃から本好きで、いろんな本を読んでいたので被差別部落の存在は知っていました。
でも実際に部落差別を目の当たりにしたのは、20代の始めに友だちが・・・」と話していると
突然、女性が「わかった!」と強い口調で言い、片手でわたしを制する仕草をした。
わたしは驚いて話を止めた。
すると女性はそのまま自分の話を始めた。
被差別部落に嫁いだ自分がどんな思いで立ち上がり、
運動を起こしたか。
その過程でどれほどつらい思いをしてきたか。
話しながら自分の半生がまとめられているという冊子を取り出し、
「もう手元にはこの1冊しかないけど、社納さんに貸してあげます」と言う。
わたしはありがたく貸していただくことにした。
一通り女性の話を聞くと、沈黙が訪れた。
わたしは意を決して、率直に尋ねることにした。
「それで、今回の講演の件ですが。
○○さん(女性の名)に言われたことを考えながら自分でも振り返ってみましたが、
自分ではどこが十分ではなかったのかわからないんです。
お恥ずかしい話ですが、具体的に教えていただけませんか?」
しかし女性は薄い笑みを浮かべたままで、口を開こうとはしなかった。
そして再び、部落差別の厳しさを話した。
わたしはなぜ答えてもらえないのかがわからなかった。
しばらくしてもう一度、さらにもう一度と繰り返し尋ねた。
三度目にようやくひと言、返ってきた。
「マイナスなことを言ったから」
わたしには「マイナスなこと」が何を指しているのかわからなかった。
「マイナスなこととは具体的に何ですか?」とさらに2回尋ねたが、
具体的なことは一切話してもらえなかった。
約2時間、女性と話した。
正確にいうと、女性の話を聴き続けた。
ここでも繰り返し「部落差別はほかの差別とは違う」と言われたが、
やはりわたしにはわからなかった。
しかし女性の口調は確信に満ちていた。
わたしの話など、とっくに置き去りにされていた。
ふと、女性がわたしに尋ねた。
「あの時、社納さんに質問したひとがいたでしょう。
あれ、どう思いました?」
先述したように、講演後、発言した男性がひとりいた。
わたしが話した内容に対し、「社納さんの行為はえせ同和行為である」と決めつけ、
さらに「社納さんが部落問題との出会いを通じて、
具体的にどのように考え方が変わったのかがよくわからなかった」と言った。
わたしにはその男性の言葉の意味がよくわからなかった。
講演のなかで、わたしは自分が経験したことを紹介しながら、
自分が何をどう考え、何に悩んだかをくどいほどていねいに話した。
当然、経験する前と後ではわたしの考えや行動は変化している。
それを伝えるための講演だったと言ってもいいのに、
なぜ「どう変化したのかわからない」と言われるのか。
自分が何を答えればいいのかもわからなかった。
そこでわたしは正直に答えた。
「実はあれも何を言われているのか、よくわからなかったんです」
すると女性は「やれやれ」という表情をしながら、こう言った。
「あれはわたしの息子です。
教育委員会(亀岡市役所と言われたかもしれない)に勤めてます」
驚いているわたしに、女性は家族のことを話し始めた。
「娘は運動をやっています」
「孫は・・孫の結婚相手は・・・」
女性は家族の名前を出そうとはしなかったが
聞いているうちに、知っているひとたちの顔が浮かんだ。
もしかして・・・。
割り勘で会計をすませ、改札に向かう途中、思い切って
「よろしかったら娘さんとお孫さんのお名前を教えていただけますか?」と訊いてみた。
返ってきたのは、やはり知っているひとたちの名前だった。
こんな形で出会うとは、不思議な縁だなあと思った。
つづく。
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部落差別は「特別な差別」なのか? 3
- 2012-02-05 (日)
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亀岡市教育委員会との仕事は終えたが、
わたしには「宿題」があった。
教えてもらった女性の連絡先は
手帳に貼り付けてあり、
常に私の目に入ってきた。
会う約束はしたものの、
迷いがあった。
会って、
再び「部落差別はほかの差別とは違う、特別な差別だ」と言われても
わたしは頷けないからだ。
夏の間じゅう迷い
暑さがようやく柔らいだ頃、
「でも約束したから」と心が決まった。
会うなら寒くなる前がいいだろう。
電話をすると女性は
「いやあ、うれしいわあ」と繰り返し、
とても喜んでくれた。
10月8日(土)の午後、
京都駅で落ち合うことにした。
電話を切った時、
わたしの気持ちは「これでよかったんだ」と晴れやかだった。
会う以上はまっさらな気持ちで向き合い、
もう一度学び直すつもりで話を聴かせてもらおうと思った。
つづく。
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閑話休題
- 2012-02-04 (土)
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なぜ今、わたしがこの話を書く気になったのかを書いておきたい。
これから詳述するが、
昨年末、亀岡市教育委員会から文書を受け取った。
そこにはわたしの両親を「障害者差別者」と決めつける文言があった。
わたしはそのような言葉を使っていないし、
両親が「障害者差別」をおこなった事実もない。
人は誰でも「差別者」になり得ると思っている。
両親も偏見や差別的な考えを一切もったことはないとは言えない。
しかし、わたしの両親と一面識もなく、
差別があった事実を確認もしていない亀岡市教育委員会に
「障害者差別者」と名指される筋合いはない。
わたしは亀岡市教育委員会に対し、撤回と謝罪を求め、
そう断じる根拠を示すよう求めた。
しかし、1月末に再び届いた文書にそのことは一切触れられず、
「社納さんとお会いし、お話合いをさせていただきたいという考えに
変わりはございませんので、社納さんも今一度ご検討いただきたいと存じます」という
昨年11月から変わらない、自分たちの主張のみが書かれていた。
これからどうするか。
考えあぐねているところに、父が体調を崩した。
つい先日、ここにも両親のことを書いたばかりだ。
わたしは父にとって決して「望ましい」娘ではなかった。
わたしがとことん父の望む方向とは反対を進むなかで、
父のほうから歩み寄ってきてくれたのだと今は思っている。
離婚後、住んでいた部屋の家賃が払え切れず
転居することになった時、
炎天下、いっしょに何軒も不動産屋をまわってくれた。
母子家庭で収入も少ないから保証人を2人たてろと言われた時、
弱気になったわたしに
「悔しかったら一流のライターになりなさい」と言った。
どうにか引っ越しをした日、
父は床をはいつくばって掃除をしてくれた。
そんな姿は見たことがなかった。
わたしと父との仲がずっとぎくしゃくしているのを知っていた母が
「そろそろお父さんを許してあげて」と言ったことがある。
わたしはとっくに許していたのに。
そんな父をなんで亀岡市教育委員会に「障害者差別者」と決めつけられなあかんねん。
あんたら、調べたんか。
残念ながら一流のライターには未だなれていないけれど、
どうにかこうにかライターで食べている、きかん気の娘として、
書くことで自分の筋を通しちゃるわいと思った。
わたしは社会派でも人権派でもない。
依頼があれば出かけていって、
インタビューや取材をして書くフリーライターだ。
自分の文章を売って生活してるフリーライターだ。
でも卑怯な真似は許さない。
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部落差別は「特別な差別」なのか? 2
- 2012-02-04 (土)
- 未分類
「部落差別はほかの差別とは違う、絶対に許せない差別なんです!」と
その女性がわたしに詰め寄っている間、
人権教育課の課長はわたしたち2人の傍らにいて、
黙って聴いていた。
女性はやがて「一度、社納さんと2人でお話ししたい。
年寄りの願いやと思って、社納さんのお時間のある時、
いつでもかまわないから時間をつくってください」と言い始めた。
わたしはとまどった。
女性の言い分には同調できなかった。
しかし目をうるませて「話をしたい」と言われると
むげに断ることもできなかった。
ここまで言われるということは、
自分の伝え方にも不十分なところがあったのだろうとも考えた。
「わかりました」とわたしは答えた。
すると女性は両手を口元に添えて喜び、
「うれしいわ。必ずお願いします。
いつまでも待ってますから」と言い、
傍らの課長を見やって、
「わたしの連絡先はこの人に聞いてください。
わたしのことをよく知っている人やから」と言った。
課長と控え室に向かう間、
その女性がかつて亀岡市役所に勤めていたことや
こうした講座に熱心に参加していることを聞いた。
「わたしも若い頃、とてもお世話になったんですよ」とも言った。
講座の内容についてはひと言も触れられず、課長の機嫌はよかった。
控え室で女性の住所と電話番号を教えてもらい、
男性職員の運転で亀岡駅まで送ってもらった。
車中も課長と話が弾み、「またゆっくりお話ししたいですね」と言って別れた。
2週間が過ぎた7月28日、教育長の名前で礼状が届いた。
ここに全文を記載する。
・・・・・・・・・・・
盛夏の候、貴方様には、益々ご健勝にてお過ごしのことと存じます。
さて、先日は大変お忙しい中、亀岡までお越しいただきましてありがとうございました。
御講演では、自らの半生を振り返りながら「部落問題」との出会いについて、
特にフリーライターという立場から実際に取材し関わった被差別部落の人たちや
差別的事象について、その時々の自分自身を巡る状況やそれまでの体験を踏まえて、
大変分かりやすくお話いただきました。
誠にありがとうございました。
御講演の中で、特に差別の問題が他人事ではなく「自分の問題」として捉えるためには
何が大切かということを、自身の結婚問題を踏まえて語られました。
また、差別の痛みを伝える難しさと差別の痛みを受け止める難しさに言及され、
差別する側とされる側の理性と感情面の両面から捉える必要性を訴えられました。
それは、私たち一人一人に突きつけられた問題だと受け止めました。
当日は、一般市民、市職員、人権教育担当など、100名以上の参加がありました。
参加者のアンケートの中には、「講師の先生が正直に自分の経験や心の内を話してくださり、
共感できました」とか、「社納さんと同じように自分の人生を振り返ってみました。
友人や親戚の気付きをするいいきっかけになりました。」、
「これまで聴いた講演とは一味違った内容でした。自分で考え、行動することが大切だと
理解できました」とかがありました。
結びに当たり、貴方様の今後益々の御健勝と御活躍を祈念いたしまして、
お礼の言葉とさせていただきます。
追伸
出席者のアンケートを数例同封します。
・・・・・・・・・・・・・・・・
同封された4通のアンケートが好意的だったのは
もちろん選んでくれたのだとわかっていた。
それでも、特に
・・・・・・・・・・・・・・
「教えてあげる」というのではなく、「共に考えていきたい」というスタンスが
言葉だけでなく、先生自身の生き方にしておられ、今後も様々な活動をされ、
再びお話を聴く機会があればいいなと思います
・・・・・・・・・・・・・
という一文には励まされた。
8月15日に交通費込みの謝金28,900円が振り込まれ、
亀岡市教育委員会との「仕事」は無事終えたものと受け取った。
つづく。
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部落差別は「特別な差別」なのか?
- 2012-02-03 (金)
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去年の秋から
とても奇妙なことが起きている。
事の始まりは、
昨年4月7日、京都府亀岡市教育委員会人権教育課からの
「人権教育講座」の講師依頼だった。
メールで、「ライターが出合った部落問題というような内容で」という依頼だった。
わたしは「わたしが出会った部落問題 〜個人として、ライターとして、部落差別と向き合う」と
自分でタイトルを考え、7月12日の講座で話した。
内容は自分と部落問題との出会いをはじめ、
ライターという仕事を通じて、あるいは女性として、
シングルマザーとして生きていくうえで
出会い、あるいは当事者として直面し、
時には人を傷つけ、自分も傷つきながら考え続けてきた、
そして今も考え続けていることを
具体的な経験を紹介しながら話すというものだった。
当日聴いてくださった亀岡市議の酒井あきこさんのブログに
具体的なことが書かれている。
率直に言うと、思い出すのもつらいほど
自分をさらけ出した講演だった。
けれど、壇上から人に向かって人権だの差別だのを語るなら、
自分の言葉で、自分をさらけ出したうえで語らなくてはと生真面目に考えていた。
わたしが話し終えた後、ひとりの男性が挙手をして発言し、
講演で紹介したわたしの言動を「えせ同和行為」だと指摘した。
(それがどの行為を指すのかは話されなかった。
もちろんわたしは同和団体を騙って人を脅したり商売をしたりしたことはない)
講座終了後、ひとりの女性(70代かという印象だった)がわたしのもとへやってきて、
「社納さん、わたしもあなたも障害者差別や女性差別を受ける可能性があります。
それは同じ。だけど部落差別は違う。
どんな差別も許せないけど部落差別はそのなかでも決して許せない、
特別な差別なんです。わかりますか?」と言われた。
正直に言うと、わたしには「わからなかった」。
わたしは部落差別だけが「特別な差別」で、
「ほかの差別とは違う」とは思えなかった。
「ほかの差別」も、死にたいと思い詰めるほど、そして実際に自死や心中が起こるほど
当事者を追いつめることがある。
さらに言えば、
わたしの話には「障害者差別」に苦しんだ人のエピソードもあったのだが、
それでもなお「障害者差別は誰でも受ける可能性があるが、部落差別は違う。
部落差別は絶対に許せない、特別な差別だ」と主張されることも理解しかねた。
長くなるので、続きます。
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生きてる。
- 2012-02-01 (水)
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楽しい知らせと
悲しい知らせと
めっちゃ腹立つ知らせと
元気づけられる知らせと。
1日は24時間だけど
起きている時間は18時間ぐらい。
その間にいろいろな知らせが届く。
喜んだあとに悲しみがやってくる。
そのひとを思いながらしんとした気持ちでいると、
不安に揺れていたひとから
一歩踏み出してみると弾んだ声が届く。
生きてるね、わたしたち。
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小学校で取材。
- 2012-01-31 (火)
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今日は「朝の読書」の取材で、ある小学校へ。
1年生のクラスにお邪魔して、
10分の読書タイムの後、いくつか質問に答えてもらった。
わたしたちも好奇心いっぱいで取材したわけだが
子どもたちも同じで、
さっそくカメラマンにまとわりついたり、
話しかけてきてくれたり、
じいっと観察してくれたり(笑)、
とても楽しい取材だった。
取材に応じてくださった図書室の先生もとてもすてきで、
「子どもの選んだ本に意見を言わない」
「アドバイスする時は子どもと同じ目線で、
”わたしはこうしてみたらよかったよ”というような表現で伝える」
「自分は”先生”ではなく、子どもたちが求める本や本の情報を提供する
”サービス業”だと考えている」といった言葉に共感した。
インタビューさせてもらった部屋から図書室に案内された時、
ブーツを履くのに手間取って、はぐれかけてしまった。
そこにすごい勢いで走っていく男の子がいたので
「ごめん、図書室どこかな?」と訊いたら、
黙って先を指差して教えてくれた。
そしてそのまま、その図書室へ入っていった。
その後、次々に子どもたちがやって来て、
10分の休み時間の間に
ある子は友だちとにぎやかに
ある子は黙って
本を選んで手続きをして教室に戻っていった。
子どもたちに愛されている図書室なんだなー。
帰りは取材メンバーで小学校時代の思い出話に盛り上がった。
「学校の匂い」に忘れていた記憶がいろいろとよみがえってきたのである。
匂いってすごいなー(そこ?)
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