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カテゴリ:小説・人間革命感想文  

  • 小説・人間革命 (法悟空著)
    [ 2011-10-29 22:57 ]
  • 小説・人間革命 第12巻
    [ 2011-08-03 20:15 ]
  • 小説・人間革命 第11巻
    [ 2011-08-02 20:20 ]
  • 小説・人間革命 第10巻
    [ 2011-07-10 00:05 ]
  • 小説・人間革命 第9巻
    [ 2011-07-08 20:01 ]
  • 小説・人間革命 第8巻
    [ 2011-07-07 06:49 ]
  • 小説・人間革命 第7巻
    [ 2011-05-25 05:47 ]
  • 小説・人間革命 第6巻
    [ 2011-05-19 21:21 ]
  • 小説・人間革命 第5巻
    [ 2011-05-07 00:26 ]
  • 小説・人間革命 第4巻
    [ 2011-03-03 23:02 ]

小説・人間革命 (法悟空著)  

2011年 10月 29日

              ◇小説・人間革命は、現代の法華経ですネ。

小説・人間革命。
この小説は、最初、戸田第二代会長が、ペンネーム妙悟空として書かれたものである。
最初の小説・人間革命が完成したのは、戸田先生の死去の1年前であった。
池田先生のペンネームは、法悟空。まさに、創価の師弟が、妙法として結実した小説である。特に、池田先生の小説は、史実に基づく、精密な内容となっている。
池田先生の全12巻の小説は、実に28年の歳月がついやされた。
(途中、激務のため10年以上の空白期あり)
かの大哲学者ソクラテスを弟子のプラトンが不朽ならしめたように、池田先生は戸田城聖先生を永遠ならしめたのである。
ある意味、この小説がなければ、私たちは、戸田先生や池田先生、あるいは創価学会の全体像を認識することはできなかったであろう。
故に、この小説の影響力は、途方もないものである。
創価学会の書物の中で、小説・人間革命を超える書籍はないだろうし、未来永劫、創価の中心軸に、この小説はあり続けるだろう。
人間革命第12巻46ページに、興味深い戸田先生の言葉が記されている。
「私は“人間革命”を書いて思ったのだが、人間の内面を語るためには、どうしても小説という手法をとらざるをえない面があるな。私の獄中体験も、小説でないと、細かな内面の描写はできないものだ。もし、日蓮大聖人が、今日、生きておられたなら、小説の手法を用いられた御書も、残されていたのではないだろうか」
小説・人間革命は創価三代会長の御書であり、現代の法華経といえるのではないだろうか。
人間革命12巻最終章には、伸一の思いがつづられている。
「これが、私の久遠の使命なのだ。そのための青春であり、人生であったのだ」(443ページ)
小説・人間革命は、読者である私たちの生き方を問うものである。
桜梅桃李の姿で人間革命を果たし、己が久遠の使命を果たしゆく私たち。
さあ、小説・人間革命を我がものとして、今日も祈り、今日も前進しよう!

※以下に、小説・人間革命の記事を列挙します。
(項目をクリックすると、菊川氏の読書感想文を見ることができます)^^

妙悟空著 ◆小説・人間革命(全2巻)
法悟空著 ◆人間革命・第1巻 ◆人間革命・第2巻  ◆人間革命・第3巻
◆人間革命・第4巻 ◆人間革命・第5巻 ◆人間革命・第6巻
◆人間革命・第7巻 ◆人間革命・第8巻 ◆人間革命・第9巻
◆人間革命・第10巻 人間革命・第11巻 ◆人間革命・第12巻

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by sokanomori | 2011-10-29 22:57 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(23)

小説・人間革命 第12巻  

2011年 08月 03日

                ◇戸田城聖の大願、75万世帯が成就。

昭和32年。戸田城聖は衰弱していた。
彼は逝去するまでの最後の1年間を、後継の山本伸一たちの育成に使った。
75万世帯への成就が近づくにつれて、自らの死について語ることが多くなった。
「来年の4月。桜の花の咲くころに、私は世を去るだろうな」
「間もなく、君たちともお別れだな。いまのうちに、なんでも聞いておきなさい。あとで後悔しても私は知らんぞ。はッはッはッ‥」
12月。病床にある戸田に、76万5000世帯の報告がされた。
戸田城聖は、願業成就の法悦に浸った。
戸田が会長就任の折、生涯の願業として75万世帯の達成を宣言したときには、会員はまだ3000名に過ぎなかった。それが、わずか、6年7ヶ月で75万世帯を超えたのである。
当時の記事は、→ここをクリック!
達成の直前、戸田城聖は、山本伸一に次のように語っている。
------------------------------
私は、この世でやるべきことは、すべてやったと思う。
人間として、なんの悔いがあるものか。
人間一人ひとり、皆、生涯になすべき仕事をもっている。
私は、広宣流布の未来のために幕を開いた。
伸一君、君は生涯を賭けて果たすべき自分の未来の仕事について、考えたことはあるかな。
僕が大きく幕を開いた舞台で、活躍するのは、他ならぬ君たちなのだ。
------------------------------
昭和33年元旦。40日間の病床から戸田は復帰した。
学会本部の幹部200名と共に、戸田は厳粛に勤行をした。
会長就任7周年の元旦であった。
同年3月1日。戸田は総本山大石寺にて、大講堂の落慶式に参加した。彼は、「いま、ここに本門の大講堂がかくも立派にできあがった。80万世帯を超える人々の真心が一致したればこそできたのであります」と語った。
同年3月16日。大石寺に男女青年部6000名が集結していた。戸田は、車駕(しゃが)に乗って登場した。そして、未来ある若者たちに広宣流布を託した。
「未来は君たちにまかせる。頼むぞ広宣流布を!」
4月2日午後6時30分、戸田城聖は58年の生涯を閉じた。
自ら予言したように、桜の花咲く季節にこの世を去った。
75万世帯を超える妙法の苗木を植え、幸の花を咲かせて。
戸田先生ご逝去の記事は、→ここをクリック!

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by sokanomori | 2011-08-03 20:15 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(12)

小説・人間革命 第11巻  

2011年 08月 02日

                   ◇競い起こる障魔との闘争。

昭和31年。
この年、創価学会は、ついに50万世帯を超えた。
大阪での衆院選を勝利し、創価学会は一躍、世間の注目を集めた。
出る杭は打たれる。障魔は競い起こる。
翌年の昭和32年。大阪での参院選補欠選挙に、創価学会は再び候補者を立てた。しかし、この選挙に、学会員の選挙違反者が摘発された。未熟な内部による個人的な勇み足であったが、このことが原因して、山本伸一が逮捕、拘留されるのである。
加えて、北海道の夕張炭鉱では、選挙の対立から創価学会員と組合との間に諍いが生じ、この解決にも伸一は矢面に立たされた。
くしくも、戸田城聖が出獄した7月3日に、伸一は入獄した。
戸田城聖先生の獄中闘争の記事は、→ここをクリック!
検察は、組織的な選挙違反として立件する腹積もりであった。
伸一に、検事は言い放った。
「君がそういう姿勢を崩さなければ、戸田を引っ張らなくてはならないことになる。私はやるといったら必ずやる。なめていると、とんでもないことになるぞ!」
体が衰弱している戸田が、再び入獄すれば命に及ぶ。そのことは、絶対に避けなければならない。伸一は断腸の思いで承認し、「後に裁判で戦う」ことを決意する。
出獄した伸一を待っていたのは、4年半に及ぶ冤罪事件の法廷闘争であった。
調書で罪を認め、それが無罪になる確率は極めて低い。
翌年、戸田城聖、逝去。その後も法廷闘争は続いた。
予測を覆し、山本伸一は、この冤罪事件に勝利する。
昭和37年1月25日、裁判長は言った。
「被告人、山本伸一は無罪!」
創価学会会長に就任して1年8ヶ月後の判決であった。
山本伸一は、創価学会のトップとして、この裁判を戦ったのである。
伸一は、後に書き残している。
「出獄と 入獄の日に 師弟あり」と。

牧口、戸田、池田の三代会長は、いずれも国家権力と闘争している。
牧口常三郎先生の獄中闘争の記事は、→ここをクリック!
正義を貫けば、必ず、三障四魔が憤然と競い起こる。そして仏は、その三障四魔と対決して勝利する。創価の三代会長は、いずれも大難に遭い、全ての障魔を打ち破った。創価三代の会長は、日蓮大聖人の真の弟子である。
私たちにも、障魔が競うことがある。そのとき、逃げるのか立ち向かうのか。
個々が、日蓮大聖人の弟子か否かを問われるのだ。
「臆病にては叶うべからず」(御書1282頁)である。
私たちも続かねばならない。断じて、勝利するしかない。

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by sokanomori | 2011-08-02 20:20 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(3)

小説・人間革命 第10巻  

2011年 07月 10日

                   ◇最高の作戦と最高の行動。

一念は、三千世界に分かれる。
その一念の中で、最大にして最高の境涯こそ、創価の広宣流布の境涯である。
昭和31年1月4日の夕刻。
山本伸一は、関西本部前の街路に立っていた。
伸一は、3万世帯の学会員の関西で、参議院選挙の新人候補を押して7月の国政選挙を戦うことになっていた。しかし、関西の創価学会員は、皆、信心歴も浅く、闘わずしてすでに甚だしい劣勢に置かれていた。
大阪地方区における当選ラインは20万票であった。不可能にしか思えない選挙を、山本伸一は前年の秋以降、その勝利を心に決し、準備を進めてきた。
不可能を可能にする戦いの要諦とは何か。
山本伸一は覚醒する。
「日蓮大聖人の仏法が真実であるなら、私にも、それが証明できないはずがない。『なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし』(1193頁)とあるではないか」
彼は、戦いの第一歩を「勝利」から逆算した。そして、目的の成就は、「信心を根本とした歓喜あふれる弘教」によって果たされゆくことを確信した。
彼は、深い祈りと教学を通じて、この偉大な仏法を教授することから開始した。
山本伸一は一人立った。そして、学会員と会い、苦労を聴き、一人一人の信力を奮い立たせ、深刻な個々の問題を乗り越えさせていった。
彼は、「強盛な祈り」を第一の要諦とし、「最高の作戦」と「最高の行動」を第二の要諦とした。
この2つが調和した時、不可能は可能となる。
------------------------------
日蓮大聖人の仏法は、「行」に尽きる。
日常の行なくして、光明はたちまち消え失せる。
行すれば行じただけ、その結果は、過不足なく現れざるを得ない。
------------------------------
祈りと学び。そして、決意と行動。
仏道修行の実践は、必ず、明確に現証となって現れることを伸一は語った。
関西の同志は奮い立った。社会の底辺で経済苦や病苦に沈む人々、さらに不運に虐げられた人々を救済するために烈々たる行動を開始した。
ある者は、朝5時に起床、7時まで唱題。退社からは、深夜に至るまで活動した。
ある者は、1年間に100世帯も折伏した。
歓喜は怒涛となった。大阪支部は、4月9002世帯、さらに5月、1万1111世帯の折伏となって爆発した。この折伏は、中国地方、四国へと伝播した。
6月12日に選挙が告示され、7月8日に投票となった。
7月9日、創価学会が推薦した候補は、定員3名の第3位で見事当選した。
不可能を可能とした「まさかの勝利」は、山本伸一が億劫の辛労を尽くした結果である。
東京に向かう飛行機の中で、伸一は振り返った。
「苦しいといえば、あれほど苦しい戦いもない。嬉しいといえば、あれほど嬉しい戦いもない。苦楽というものは、本来一つのものなのかも知れない‥」
選挙を終えた伸一は、戸田城聖に次のように質問している。
「本来の宗教活動が、政治的野心をもつように世間に誤解されることは、長い未来を思うとき、創価学会にとってプラスなのでしょうか。それとも、マイナスでしょうか」
戸田は答えた。
「避けて通ることはできない。広宣流布とは、人間社会の土壌を深く耕し、豊かな稔りある土壌に変えることにある。そのために政治の分野にも、真の政治家を育成することがこれからの課題だ」と。
以来、半世紀が経過した。
公明党は今、日本の第三の勢力となっている。

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by sokanomori | 2011-07-10 00:05 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(6)

小説・人間革命 第9巻  

2011年 07月 08日

                ◇日蓮宗身延派と創価学会の法論対決。

昭和30年2月。
寒い北海道の小樽の洋品店で、1人の婦人部と他宗の坊主とが法論になった。
入信した学会員が元の寺の坊主に説得され、「信心をやめたい」との意思表示をし、心配した婦人部が洋品店に出向くと、身延派の僧侶と遭遇したのである。
結果、小樽の学会員と小樽の妙龍寺の僧侶との間で、法論対決が実現するのである。
これが、有名な「小樽問答」の発端である。
当時の文部省による「宗教団体別の統計(昭和30年12月31日)には、以下のように記されている。
-----------------------------------
寺院数 日蓮宗4485ヵ寺 日蓮正宗119ヵ寺
信徒数 日蓮宗137万人 日蓮正宗34万人
-----------------------------------
当時、創価学会は無名に近かった。
まして、身延派は、当時の日蓮宗の最大の信者数を誇っていた。
身延派の僧侶が創価学会を侮ったのは無理もない。北海道全土の身延派の寺院は200以上あり、日蓮正宗の寺院はわずかに5か寺であったことも原因している。
法論対決は、3月11日、小樽公会堂で行われた。
創価学会員と身延派信者、合計1000名が見守る中、山本伸一を司会とし、壇上で学会員と身延派僧侶とが対決した。
白熱した質疑応答が行われると思われたが、結果は創価学会の圧勝に終わる。
身延派の僧侶らは、邪義と謗法を攻められ、ほとんど無抵抗で敗北した。
身延派髄一の秀才と呼ばれていた僧侶すら、金縛りにあったように一言も発することができなかった。「ぐうの音も出ない」とはこのことである。
身延派の僧侶、並びに信徒は、無言で公会堂から姿を消した。以来、日蓮宗身延派は、「創価学会との法論を、一切行うべからず」という警告を発している。
この法論対決後、北海道では、身延派の信徒が日蓮正宗創価学会に改宗するものが陸続とつづいた。北海道の学会世帯数の増加は、その後の2年で8倍にまで急増した。
この年、創価学会は19万4239世帯の本尊流布を果たし、30万世帯をはるかに超えた。
小樽問答をして知りたまえ。
日蓮大聖人の仏法正義は、我れらが創価学会にあると。
小樽問答の過去の記事は、→ここをクリック!

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by sokanomori | 2011-07-08 20:01 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(11)

小説・人間革命 第8巻  

2011年 07月 07日

                 ◇創価学会の発展と障魔の出現。
昭和29年。
創価学会は、大地から緑が一斉に萌え出すが如く、急成長を果たした。
この年、創価学会は15万世帯へと拡大。さらに翌年は、30万世帯へと急増した。
戸田城聖は、組織の成長に伴い、山本伸一を始めとする精鋭の青年部の育成に力を注いだ。戸田は、伸一を参謀室長に任命した。
伸一は誓った。「全学会、全青年部の推進力になる」と。
昭和29年5月9日。
大粒の雨が降りしきる富士大石寺に、男女青年部5500名が集結していた。
青年部が見つめる先に戸田城聖がいた。
戸田は、「拡大する創価学会の前途に難が巻き起こることは必定である」と語った。
ずぶ濡れの青年たちは、お互いにしずくを絞りあいながら誓い合った。
「前途は多難であろう。しかし、それを絶対に乗り越えてみせる!」
戸田は、式典終了後に伸一に告げた。
「10月にもう一度、青年部に総登山をしたらどうか。今度は1万だ。できるか?」
伸一は瞬時に答えた。
「できます。かならずやります。10月には、見事な総登山をお目にかけます」
入梅し、灼熱の夏が過ぎた。
10月31日、晴天の富士に、総勢1万名の青年男女が集った。
男子6308名、女子4082名。総勢1万390名であった。
戸田は語った。
「青年諸君!現今の日本の宗教界を見るに、幾多の宗教がある。あるものは営利目的であり、あるものは伝統の惰性に生き、どれ一つとして人間を幸福にし、安定させ、強い生命力を与えるものではない。他宗教は妥協をこととしている。つきつめてみようとしない他宗は、卑劣な宗教であり、惰弱な宗教とういわなければならない。我々の前途が多難であることは火を見るより明らかなことである。されば諸君は、御本尊を信仰し、創価学会を愛し、しこうして青年の力を存分に蓄えてほしい!」
1万の青年たちの心はマグマのように沸騰した。
ひきしまった顔、万雷の拍手‥。
戸田は、1万の青年に囲まれていた。この青年たちが、未来の学会を作るのだ。
広宣流布に障魔が競い起こることは必定である。
創価学会員の増加は、すなわち、他宗の人員の減少となる。
他宗の関係者が取った主要な方策とは、悪い噂の流布であった。
「神棚を焼く過激な新興宗教」、「強引な勧誘をする暴力宗教」など、恐ろしい新興宗教に仕立て上げることで、信者の損失を防ごうとした。
これらの陰湿な噂話は、やがて三流週刊誌やブラックジャーナリストなどに飛び火し、大規模な学会攻撃へと発展する。その原型は、すでに昭和29年に見られたのである。
参考に、ブラックジャーナリストの記事を掲げる。
ブラックジャーナリストの過去の記事は、→ここをクリック!

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by sokanomori | 2011-07-07 06:49 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(6)

小説・人間革命 第7巻  

2011年 05月 25日

                ◇創価学会の発展と学会本部の移転。
立宗700周年の翌年。
創価学会は、未曾有の発展を遂げる。
前年、創価学会は、2万世帯の規模であったが、昭和28年には7万世帯へと急増した。
1年間で、5万世帯もの本尊流布が行われたのである。
その急速な世帯増加の中、西神田の学会本部が信濃町に移転した。
価格1050万円、改造費200万円で完成した本部は、土地面積275坪、建坪207坪の3階建ての木造モルタルの洋館であった。これは、某国大使の公邸の売却に伴い、創価学会が購入したものである。
昭和28年11月13日の正午、旧学会本部から新設された信濃町の本部に、大法弘通慈折広宣流布の創価学会の御本尊が移され、2階の70余畳の大広間に奉安された。
信濃町の新本部は、戸田城聖を導師として、勤行、唱題をもってスタートしたのである。
新本部移転から4日後の11月17日のこと。
信濃町本部の2階の広間で、初代会長牧口常三郎先生の十回忌の法要が営まれた。
戸田城聖は、牧口常三郎の価値論を書籍として発刊し、同時にその内容を英訳させ、世界各国の大学に寄贈する準備を進めていた。
戸田は、発刊されたばかりの「価値論」を手にしながらマイクの前に立った。
「(牧口)先生は、じつに純粋な真面目そのものの方でありました。それほど立派な人が死なれた所は、牢獄の中である。(中略)私は弟子として、先生の遺された大哲学を世界に認めさせなければならない。私の代にできなかったなら、諸君たちがやってください。頼みます!」
師の栄光は、弟子によって決まる。
牧口先生の人生は、弟子の戸田先生によって今も燦然と輝いている。
年末、戸田城聖は、一人、自宅の書斎で机にむかっていた。
聖教新聞に投稿するための「小説・人間革命」の執筆のためであった。この小説は、やがて、池田先生が受け継ぎ、世界の人々を魅了する偉大な小説へと昇華する。
戸田城聖は、初稿を書き終えた。そして、牧口常三郎のことを偲び、将来のことを思案した。
「来年、15万世帯になる。そして、その次は‥」
厳密な戸田の計算は、75万世帯に及んでいた。
戸田先生の小説・人間革命の記事は、→ここをクリック!


      

第7巻に登場する学会本部は、1963(昭和38)年9月1日に新本部に生まれ変わりました。
その新本部も47年間の使命を終え、現在、次なる学会本部が建設中です。
完成は、2013年11月が予定されています。
過去の学会本部の映像(2010年12月)は、→ここをクリック!

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by sokanomori | 2011-05-25 05:47 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(12)

小説・人間革命 第6巻  

2011年 05月 19日

              ◇日蓮大聖人の立宗宣言から700年後の宗門。
昭和27年。
富士大石寺で、立宗700周年の記念慶祝大法会が行われた。
式典は、4月24日・25日と、4月27日・28日の4日間、2回に分けて行われ、第一次には、法華講員2500名、第二次には、創価学会員4000名が参加した。
日蓮大聖人は、次のように仰せである。
------------------------------
「仏滅後・二千二百二十余年が間・迦葉・阿難等・馬鳴・竜樹等・南岳・天台等・妙楽・伝教等だにも・いまだひろめ給わぬ法華経の肝心・諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字・末法の始に一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に日蓮さきがけしたり」(910頁)
「地涌の菩薩のさきがけ日蓮一人なり」(1359頁)
------------------------------
歴史を学ぶとき、昔が新しいという見方がある。
事実、大聖人は、いつも私たちの先端にいらっしゃる。私たちは、後継の弟子である。
立宗700周年の祝賀に、戸田城聖先生は獅子吼された。
「700年後の今日、時は今であります。私は出獄以来、まず、7年にわたり責務を遂行し、きょう諸君と共に登山できましたことを誇りとしたいのであります!」
戸田城聖率いる創価学会。戦後7年にして、広宣流布の基盤が完成した。
未来万年に渡る御書全集の発刊され、この700周年を勝ち飾られた。
集いし4000名の創価の人々。
そこには、殉死された牧口常三郎先生の墓石と、苦難を生きて乗り越えられた戸田城聖がいた。そして、第三代会長となる山本伸一こと、池田大作がいた。
何という巡りあわせであろう。何という不思議であろう!
しかし、魔は天界に住むのであろうか。
その輝かしい700周年の大石寺に、黒い影がくっきりと描き出される。
神本仏迹論(しんぽんぶっしゃくろん)という邪説を唱えて暗躍した笠原慈行(かさはらじこう)の破折によって、創価学会は宗門から厳しい処分を受ける。
戸田城聖への宗会の決議は、次の内容であった。
------------------------------
一、所属寺院住職を経て謝罪文を出すこと
一、大講頭を罷免す
一、戸田城聖氏の登山を停止す
------------------------------
戦時中に、国家神道への迎合に反対し、獄中の身となった戸田先生。そして、出獄後、宗門に赤誠を尽くされた戸田先生。その偉大なる広宣流布の中心人物を処罰し、元凶たる笠原慈行を処罰しない宗門。学会員は激怒した。
実は、この時代から、すでに、「僧侶が上、檀家は下」という、大聖人の仏法にはあるまじき毒素の種子が宗門内に生じていたのである。
僧侶は神聖なる存在‥。それは虚像である。
むしろ、神聖という虚像が、人々を堕落させるのだ。
宗門と創価学会との間に生じたこの事件は、半年後に解決したかに見えた。しかし、宗門の権威主義の体質は変わらなかった。やがて阿部日顕の出現を赦し、C作戦へと暴走するのである。
創価学会を切り、池田先生を切った宗門。
その歴史的事実は、永遠に消すことはできない。
宗門の使命は、魔僧日顕の出現によって終焉したのである。

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by sokanomori | 2011-05-19 21:21 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(21)

小説・人間革命 第5巻  

2011年 05月 07日

            ◇戸田二代会長の就任と真実の創価学会の誕生。
昭和26年5月3日。
第二代創価学会会長の推戴式が、日蓮正宗常泉寺で行われた。
戸田城聖先生、51歳の御時であった。
この席上、戸田城聖は、「創価学会の発迹顕本」について述べている。
過去の創価学会、なかんずく、過去の戸田城聖と決別したのである。
事業家としての過去を捨て去り、「宗教法人・創価学会」の代表として、ただ広宣流布の大願を成就するためにのみ生き抜くことを宣言した。
以下は、有名な戸田先生のスピーチである。(抜粋)
-------------------------------------
現代において、仏と等しい境涯に立ち、この世界を心から愛する道に徹するなら、ただ、折伏以外の方法は、すべて何もないのであります。
私は、広宣流布のために、この身を捨てます。
私が生きている間に、75万世帯の折伏は、私の手でいたします。
もし、私の願いが、生きている間に達成できなかったならば、私の葬式は出してくださるな。
遺骸は、品川の沖に投げ捨てなさい。よろしいか!
-------------------------------------
山本伸一は、聴衆の中から、この戸田の宣言を聞いた。
伸一は決意する。「絶対に勝たねばならぬ。負ければ、こちらが滅びるだけだ。生涯、一瞬の油断も許されぬ」と。
この5.3以降、戸田の会長就任期間は、わずか7年に過ぎない。この短期間に、創価学会は76万5000世帯の折伏を達成することになる。世にいう折伏大行進である。
この年、創価学会は、かねてから「宗教法人」設立を申請していたが、11月1日をもって宗教法人としての広告を済ませている。
さらに、「立宗700年」の記念事業として、御書全集の編纂を実行した。
日蓮大聖人の御書発刊は、創価学会と日蓮正宗・堀日亭御隠尊猊下が、力を合わせて編纂した大事業であった。この翌年の昭和27年4月24日、世界宗教の経典である御書が出版された。立宗700周年記念式典の3日前の出来事であった。
戸田城聖は語っている。
「今になって不思議に思うことは、私が出版事業の経験を積んできたことだ。この過去の経験が、この御書一冊を作るためにあったと思いあたり、じつに不思議に思うばかりです」
池田先生は、戸田二代会長について次のように記している。
「戸田城聖の晩年わずか7年の充実した活動は、まさに百年にも相当するものである。してみれば、人生の一生の重さを計る基準は、単に生きた年数の長短によって決するものではないということである」
わずか7年が百年に値する‥そのような金剛の人生がある。
今、私も51歳になった。日蓮大聖人が佐渡の地で発迹顕本され、戸田先生が会長に就任された年齢になった。嗚呼、不肖なりといえども、私も創価の端くれである。
心新たに、広宣流布を果たしてまいります。頑張ります!

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by sokanomori | 2011-05-07 00:26 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(10)

小説・人間革命 第4巻  

2011年 03月 03日

            ◇苦難をどのように受け止め、どのように開くのか。
昭和24年。
戦後沈黙していた大手出版会社が次々に復活。このことが原因して、戸田城聖の出版事業の返本率が急激に増加した。秋には莫大な赤字となり、事業は中断した。さらに、もう一つの信用組合事業も、翌年夏に破綻する。
下記は、巻末の壮絶な戸田城聖の苦悶のシーンである。
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昭和25年秋、戸田城聖は大石寺にいた。
丑寅勤行を終え、深夜、戸田は一人、大御本尊が安置されている御宝蔵前の石畳の上に単座し、静かに唱題を開始した。
何故、事業が破綻したのであろうか。
彼は悟る。牧口先生は価値論から日蓮大聖人の仏法を説明した。戸田自身は、天台の「摩詞止観」の精密な理論で大聖人の仏法を講義した。加えて、戸田は、創価学会の再建ために、事業と信仰という二足のワラジを履いていた。彼は、組織の躍進より、経済基盤の確立を急いでいた。
戸田は、自らの誤りに気付く。真実の日蓮大聖人の仏法の広宣流布、真実の創価学会の構築が、己の使命であるとを再認識する。
(翌年、戸田城聖は会長に就任し、75万世帯の折伏大行進を開始する)
昭和24年秋から、山本伸一は通っていた夜間大学を休学した。やがて戸田から、大学を断念することを勧められる。戸田城聖は言った。「伸、心配するな。ぼくが大学の勉強を、みんな教えるからな。学校は、ぼくにまかしておけ」
有名な戸田大学の開校である。
戸田大学の過去の記事は、→ここをクリック!
戸田は、さらに伸一に言った。「仏法は勝負だ。男らしく命のある限り、戦いきってみよう。生命は永遠だ。その証拠が、必ず何かの形で今世に現れるだろう」
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この第4巻には、経済苦の2年間が延々と描かれている。
人生には苦難もあれば敗北もある。努力が報われないこともあるだろう。その現実を、後世に知らしめるための辛酸だったのであろうか。
ともかく、この苦難の中から、「仏意仏勅(ぶついぶっちょく)の広宣流布の大道」が開け、真実の創価学会が誕生するのである。この苦難は、同時に、信心に不純な野心家をすべて離反させ、純真なものだけが創価学会に残るという「体質の変化」をもたらした。
そして、山本伸一と創価学会を強固に作り上げるのである。
苦難。その辛労が人間を鍛え、組織を作る。
私たちは、このことを忘れないようにしたい。

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by sokanomori | 2011-03-03 23:02 | 小説・人間革命感想文 | Trackback | Comments(12)