7−1.水野南北 の 提唱した「食のつつしみ」
「第五章 カロリーについて、一言」
の中で、「食をつつしむ」ということについて少しだけ触れていましたが、覚えていますか?
昔の日本では、「少食を守る」ことを
「食をつつしむ」、「食のつつしみ」と言っていました。この「食のつつしみ」について、ぜひ
紹介したい人物がいます。それは、江戸時代中期に大観相家として活躍した「水野南北(みずのなんぼく)」という人です。
では、「水野南北」の簡単な紹介文献を 見てみましょう。
(「水野南北」を すでに よくご存知の方は、一気に 下の方へ 進んでください。 私の考察があります。
その後、7−2 に 進んでくださいね。)
<水野南北(江戸中期の観相学の大
家)> (1760〜1834年)
水野南北は、『食は命なり』という名言を残しています。
「飲食により、人間の運命が変わる」という意味です。
水野南北の経歴は、それだけでも数奇な
人生です。両親を早く失い、子供の頃より 盗み酒を覚え長ずるに、酒と博打と喧嘩に明け暮れ、18歳の時、酒代ほしさに押し込み強盗をしでかし、とうとう
牢屋に入れられました。ところがこれが観相学への第一歩となったのです。
南北は牢屋の中で罪人たちの顔をまじま
じと観察して、ある事実に気付きます。それは「人の顔には、それぞれ相がある」ということでした。入牢して
いる罪人たちの顔と娑婆に過ごす一般人の顔とでは、その特徴に著しい相違がありました。
この時点から南北は、観相学に興味を持
つ様になります。出牢後、大道易者に「剣難の相がある。1年は生きられない。死相が出ている。」と告げら
れ、その災いから逃れるため禅寺へ行き、出家を願い出ます。
住職に「1年間、米飯を口にせず、麦と大豆のみで過せたら入門を許す」と言われ、南北は生命の危機の恐怖から、好きな酒もぷっつりと絶ち、麦と豆を常食に
し、川仲仕をして暮らします。
1年後、易者と再会し、「不思議だ!剣難の相が消えている!! 何か大きな功徳を積まなかったか」と聞かれ、「別に何もしなかったが、食事を麦と豆だけにした」ことを言うと、「食を節することは、天地に陰徳を積むことで
あり、それにより知らず知らずに、天録が書き換えられ、相まで変わったのだ」と教えられました。
こ
れが契機となり、観相学に興味を持ち、その道を志します。まず3年間、散髪屋の小僧になって頭の相を研究。次の3年間、風呂屋の三助をして裸体を観察。こ
れで生きている人間は「よし、解った」と。さらに 3年間、火葬場の隠亡(おんぼう・・・死体を処理する人)をして、死者の骨相や死因がわ
かっている死体を観察。これ以降も研究を積み重ね、学究の徒と化していく。
神道や仏教から始まり、儒教、史書、易
まで網羅する。南
北の名である「南と北」は「火と水」であり、「陰と陽」、すなわち「易」である。
しかし、そこまで研鑚を積み重ねても、
従来の観相学では百発百中とはいえず、悩んだ末に、伊勢の五十鈴川で断食水行 50日の荒行を行い、断食を続けるそのさなか、天啓が訪れる。
『食は 命なり!』・・・・・・「人の命運は、総て 食にあり!」、南北は 喝破した。
水野南北が言うには、運のいい人に共通している特色があるということです。
死体を切り開いて、運の悪い人は内臓とくに胃や腸の中の色やツヤ、残存物が悪いことを発見し
たのです。このことから
南北は、「運は食なり」という結論にたどりついたのです。食べるものが偏っている人は、運も悪いというので
す。
さらに 食事の量を見ると、その人の性格や運がわかるとさえいっています。食事量の少ない人は、たとえ人相が悪く見えても福相で長命型が多い。人間の欲望の中でいちばん強いものは「食べる」という欲望です。その「食べる」欲望をどのようにコントロールするかが、大切だということを説明されていた
ようです。
美味大食を戒め「慎食延命法」を説くに
至る。以後、観相にあたっては、必ず詳細に、その人の食生活を聞いて占断を下し、外れることがなかったという。
また 凶 相の者でも食生活を改善することにより、運を変えることが出来るとし、『南北相法極意』を執 筆、後『相法修身録』と改題し刊行され、広く世に知られた。
結論として
≪水野南北の教えの要点≫は、
いかなる良相・吉運・健康な人であって
も、常に美食をし、十二分に食事をしたならば、悪相となり凶運短命となる。
いかなる悪相・凶運・病弱の人でも、口
にする物を節し、食事を腹八分目にする人は良運となり、健康長命となる。
(以上、抜粋)
もうひとつ、紹介文献です。
<水野南北について>
■
江戸時代の中期に活躍した人相、手相の研究家である水野南北は、日本の人相、手相占いの元祖ともいわれている運命学者です。彼の著書である『南北相法』は
占い師の古典とされており、占いを志すものが必ず目を通さねばならない本とされています。
水野南北流の運命判断法が考案され、や
がてその弟子が日本各地に三千人を超えるほどの運命学者となっていったのです。
水野南北は人相や手相に関するさまざま
な判断法を考案し、その「相法」を弟子たちに教えるとともに、占い師としての生活の戒めを書き残したり、言い伝えています。
水野南北の占いが300年近くもの長い年月の間受け継がれているのも、彼のこの占い
師としての生活の戒めの効果が大きかったと思われます。
■
南北自身は『相法早引』の序文に、真言の高僧
海常律師により改心し相法を学び、師の俗姓「水野」の名字を許されたと述べている。(不思議にも南北の父も水野姓)海常律師から中国渡来
の相書『神相全編』を学んだのち、実地に観相して修行するため諸国を遊歴し、相法を確立する。
三十歳ごろ京にて観相家の看板を掲げ、
『南北相法』や入門書ともいえる『相法早引』などを出版、相法家として名声を博し、全国に多くの門人を持つにいたる。
享和3年(1803)、恩師
海常師の追善供養のため『相法早引』1千部を無料で施本し、そのことにより慈雲尊者から居士号を授けられた。しかし従来の観相では百発百中とはいえず、悩
んだ末、伊勢の五十鈴川で断食水行50日の荒行を行い「人の命運は総て食にあり」と悟り、美味大食
を戒め「慎食延命法」を説くに至る。
また 凶相の者でも、食生活を改善することにより運を変えることが出来るとし、『南
北相法極意』を執筆、 後『相法修身録』と改題し刊行され広く世に知られた。
南北の慎食説に傾倒して夭折の相を変え
た門人に、大坂 道修町の薬種商
三代目 小西喜兵衛がある。彼は、幼少より身体虚弱で三十歳まで生きられないと言われていたが、若い時から養生に努め、宴会も極力辞退、早退するほどで
あった。
五十歳の時に南北と出会い感銘を受け、
生涯の師と仰ぎ、八十余歳まで長命する。
また、自分の持ち家を南北の大坂での住
まいに提供し、南北の『安心辧論』を基に、文政8年(1825)
『安心辧論要決』を自費出版、無料施本した。この施本は、代々の小西喜兵衛が継承
し、昭和8年には南北の百回忌の事業として 六代目
小西喜兵衛により活版印刷に改め、施本が行われた。水野南北は天保5年(1834)、道修町の小西家 奥座敷で亡くなった。享年七十五歳。
(以上、抜粋)
水野南北は、現在に続く観相学(手相学、人相学など・・・)を確立した有名なお方ですが、南北翁の伝えてくれたことを簡単にいうと、「統計上の手相や人相
など、なんの判断材料にもならなかった・・・、ただただ 飲食をつつしむ者だけは 必ず運が良くなることが分かった」ということです。
『
手相人相も統計上のものですから、確かにある程度正確に当たるのだけれども、外れることも多い・・・、それを突き詰めて行ったならば、飲食をつつしんでい
るか 否かで、人間の人生に起こるものごと(運命・運勢)の良し悪しが決まっているということを発見した。
もともと
運命(相)が良い者でも、飲食を美食・飽食している者は、いずれ運勢が悪くなる。逆に、もともと
運命(相)が悪い者でも、飲食を厳重につつしんでさえいれば、相の悪さなど当てはまらなくなり、誰でも必ず、運勢が良くなって 幸せになっていく。』
つまり、下記のことです。
『 いかなる
良相・吉運・健康な人であっても、常に 美食をし、
十二分に食事をしたならば
悪相となり、凶運短命となる。』
『 いかなる
悪相・凶運・病弱の人でも、口にする物を節し、
食事を腹八分目にする人は、良運とな
り、健康長命となる。』
この水野南北翁の「南北相法修身録(なんぼくそうほう しゅうしんろく)」という本は、この、たった一つのこと・・・を、「食をつつしみなさい!
それでいいのだよ!」ということについてだけを、四方八方から、五方十方から、たんたんと あの手この手を使って 説いて説いて
説きまくっており、たった「この一事(食のつつしみ)を説いているだけ」の本なのです。
この南北翁の「修身録」という本は、江
戸時代中期から版を重ね重ねて、現在でもわずかですが出版されていて入手できます(絶版かもしれませんが・・・)。同じく江戸時代の食養学者(でもありま
した)「
貝原益軒(かいばらえきけん)」の『養生訓』に並ぶ、非常に有名な図書です(貝原益軒の「養生訓」の方が、一般的に広く知られていますね)。
この水野南北の「修身録」は、甲田光 雄先生の図書にも紹介されていて、「あぁ〜、甲田先生も御存じだったんだナァ〜、やはり 普通の医学博士とは 違うんだナァ〜」と感心してしまったものです(生意気にも・・・)。私は、甲田先生が、一般的には まず相手にされないような、こういう文献を知っていてくれたことが、もの凄く嬉しかったんですよね♪
現在、「水野南北」の「修身録」を知る
(その本質に気づく)人が たくさん増えてきましたね! 嬉しいことです!
以下、この水野南北翁の「南北相法修身
録」の内容を、簡潔に紹介します。
<修身録の中の本文の、水野南北自身の 自己紹介文>
私は長年、ずっと人の人相を占ってきたが、ただ人相のみで判断すると、金ができ出世し長生きをする人の相で、貧乏し若死にをする人があり、貧乏で若死に
をする相の人が、実際では金ができ出世をし長生きをする人があって、なかなか当たらぬことが多く残念に思っていた。
ところがある時、ふと食物が大事で は?と気づき、人の運、不運、寿命はみな食物、飲物をつつしむか、つつしまないかによって決まるのではあるまいか
と、ためしてみたところ、一年前には大難が来るようになっていた人が、断然飲食をつつしんだため大難をまぬがれただけでなく、かえって良いことがあり、
生涯貧乏である相の人が、飲食をつつしんだため相応の富貴を得て、今は大変出世している人があり、前々から病弱短命と判断していた人が、毎日飲食をつつ
しんだため、心身共健康で長生きしている人が少なくなく、こんな例をあげると数えきれない程である。
それからは、人を占うのにまずその人 の飲食の様子を聞いて、それによって一生涯の運、不運を判断したところ、万人に一人の失敗もないことがわかり、人の 運命は全く飲食一つであると確信し、これを私の相法の極意と定めた。 そしてこれを人にすすめるだけではなく、私自身が率先して実行し、一生涯、少しも米を食べず唯、麦を一日一合五勺だけとし、酒は大好物だがこれも一日一合 と定めた。 これは唯、自分のためばかりではなく、みんなが一日も早く飲食をつつしんで、開運幸福長寿を得られるように切望してやまないからであった。
(以上が、水野南北翁自身の経緯を述べた「自己紹介文」です)
○
人間一生の吉凶は、皆 只(ただ)その人の飲食による。
○ 飲食が分限(持ち前)より少ない人は、人相が悪くても吉であ
り、
相応の福分(しあわせ)を得、 長生きし、晩年幸福である。
○ 飲食が分限(持ち前)より多い人は
たとえ 人相がよくても 何事も順調に行かず、
手おくればかりで、生涯
気苦労がたえず、 晩年 不仕合せである。
○ 小食で
厳しく定めている人は、 たとえ 貧乏して悪い人相であっても相応のしあわせがあり、
長生きして 何事も大抵不自由することなく 晩年しあわせであり、
ひ弱そうに見えても 病気をすることがない。
○
大食であって、その上、量も時間も決まっていない人は問題外で、一生涯、運は
ついに家庭をこわし、病気になる。
○ 飲食に定めがあっても、時々 少しでも多かったり少なかったりすると、
収入も
飲食が一定していて変化が ないと、収入も また 一定して変化がなく、 ただ 食事を一定して 厳重に守るのが良い。
○ 寿命の長い短いは、 ただ 人相だけでは定めにくく、
平常(へいぜ
い)の食事
○ 病気のない吉相の人であっても、若い時 から 毎日ぜいたくな食事の人は、
年をとって 胃腸の病気になる。
○ 毎日 仕事に精を出すだけでは
立身出世するものではなく、
一所懸命、倹約して、
大食をつつしみ、少しでも 天から頂いている食物を延し、これを基礎として 立身出世を計るより他はない。
飲食にぜいたく三昧をし、
したい放題をして、立身出世を望むのは
大馬鹿ものだ。
返す返すも、飲食をつつし
むことが 第一です。
○ 厄年に大難の相があっても、いつも
おごった食事をせず、厳重に定めている人は
○酒や肉を多く食して太った人は 一生涯、 出世発展することがなく、 つつしまないと、晩年 不仕合せである。
○ 自分が後々、立身出世しようと思うならば、まず 第一に、食を減らして 厳重に定めること。
これができる人は 必ず立身出世をし、 できない人は 生涯立身出世の見込みがない。
○ 繁盛している家の運が尽きて、つぶれようとしておっても、
もし、 跡継ぎの主人が その食事を減らして 厳重に守ると、収入が自然に延び、 家運は栄える。
○
たとえ貧乏で苦労の多い人相でも、自分自身で、 貧乏人らしく
粗末な物を
これを厳重に守り抜くときは、自然に貧
しさから抜け出して、相応の財産
これを 自福自得という。
○ 普通「気が強い」というのは、 ただ 強気一方で、 がむしゃらに非道をおし切ってするのをいう。
酒や肉を、たらふく飲み、 たらふく食べて いかにも
本来、 天理にそむくもので 長くは続かない。
つつしみがあって、そう
して
身を立てる人であってこそ、 初めて いついつ
○ たとえ
千日千夜祈ったとしても、そこには 誠がなかったならば、
決して 神明
もし 誠をもって祈ろうと思うならば、 自分の命を神にささげよ。
飲食は、わが命を養う本であり、 飲食をささげることは 自分の命をささげるのと同じである。
神は 正直な人の頭に宿られる。 濁ったものは受けられない。
ふだん
三椀であれば、毎日 お膳に向かって、 自分の信ずる神仏を心に思い祈る
どんな願いでも
叶えられないことはない。
○ 命のある間は どんな人にも
運がある。 朝早くから起きて、
毎日の仕事に精を
その上
飲食をつつしんで怠らなければ、 自然に天理にかなって、運は 段々
これを 開運という。
○ 一つの道に秀れているものは、
たとえ つつしみが堅固であったとしても、天は
これは
更に一層、道に励まそうとされる
大人は
こんなことに心を煩わされず、ますます その道に励むので、遂に 天下に
小人は 心がすぐに乱れて つつしみを捨て、天を恨むので、一生 ふらふらして 目的を達成することができない。
たとえ 小人であっても 飲食を
心が乱れなかったなら、 そのうち
だから 先ず、飲食をつつしみ、そのほか
運は めぐるである。
善いことも 悪いことも、みんな 自分の実行に従って まわってくる。
運は
報いである。 自分で一度 善いことをすれば、その報いは
吉区とも その報いがまわってくることは、 天地の
運は、はこぶである。 自分の行う善事が小さくても、これを だんだん 積み重ねていくときは、
終いには、 天下の大きな善事を成し遂げる。
○ 飲食をつつしんでおると
心も体も健康で、気が自然に開けてくる。
気が開ける
決して 誤りはない。 先ず 三年つつしんで見なさい。それで、もし 運が開けなかったならば、世界に 神様はおられない。
水野南北は 天地の大敵だ。
○
人相の善い悪いをはっきり知ろうと思えば、先ず 自分で飲み食いをつつしみ、
いっさいの無駄をなくし、そうして
三年つづけたならば、
人相の善し悪しは 自然
私はいつも これを実行して、
自然の善し悪しを 自分で十分
これが占いの大道だ。 自分でこれをしなくて、どうして 人の善し悪しを占う事ができよう。
人を占うことは
私の相法皆伝の極意は、けっして
このほかには なにもない。
○
人を頼りにするのはいけないことで、自分がつつしむことによって吉兆があり、
世の中には自分を守り助ける人がたくさんいるものだ。
そこで もっぱらにすごし、安閑(あんかん)として 万物にかかる費用のことは考えず、
みだりに美食などしているものは、たとえ 顔かたちはよくても、
天の通りにかなわないから、ついには あなたのように 五臓が腐って 貧病になる。
これは 万物の徳をしらないで
倹約を忘れたからであり、皆 自分で作り出したものである。
ただ
つつしみを本(もと)として、食をうんと減じて
倹約を守り
そうすれば、おのずから 金もでき、病気も治るものだ。
○ 朝日には、少陽発達の気がある。 人がこの気を受ければ、心気おのずから、すこやかとなり、
心気 すこやかとなれば、運命 おのずからすこやかとなる。
○ ケチからくる倹約は、凶である。
真の倹約は、ものごとの始終や本末をおろそか
小人物は 倹約と称して、使用人の飲食をけちったり、世間のつきあいに出すべき金銭を出さず、
施すべき場合も
施さないのは倹約とはいえず、ケチというのである。
○ 食をつつしめば
気が開け、気が開けば 運が開く。身体は その家に属し、心は その家の主人に属す。
父母から 身体という家を
健全に産んでもらっても、
飲食のつつしみをなくし、不養生で病を
生じ、
○ 子孫のために 財産をのこすと、子のために おおきな仇となる。
財宝があれば 子はいつまでもそれがあると思い、いたずらに月日をおくり、家業に励まず、ついには 家を傾ける。
子孫を栄えさせようと思えば、その親が
正直を本とし、つつしみを常として、これを厳重に守り、
常に それを子孫にみせるべきである。
また 子孫のために 万事節約して、少しでもすたるものはこれを始末し、年々 その節約を蓄えることを家風として、
その家に残すべきである。 これが 万代にわたって つきることのない資産である。
つつしみを家風として
子孫に伝え、その
(以上、資料抜粋)
<重複しますが、これは、別の資料で
す>
<相法修身禄>
南北の相法は、「血色気色流年法」とい
う独特のもので、従来の
宿命論的観相法を打ち破り、『 いかなる運命の星の下にある人も、神仏を崇敬し、修身努力すれば、宿命を転換できる 』 と説いた 画期的なものである。
「人の運は、食にあり」
水野南北による
「幸運を招来する法」 とは 一言でいえば、『食の節制』である。
人間の生命の
根本は 食である。たとえどのような良薬をもちいても、食べなければ生命をたもつことはできない。
だから 人にとって、本当の良薬は
食である。
★
食事量の多少によって、人間の貧富や寿命や未来の運命を予知することができる。
古人の言葉に「天に禄なき人は生じず、地に根なき草は生えず」という言葉があるが、その身ほどによって天より与えられた一定の食事量があ
る。
み だりにむさぼり食う者は、天の戒律を破る者である。生命の存在するところに必ず食べ物があり、逆にいえば食べ物あるところに必ず生命が発生する。食べ 物は生命の源であり、生命は食べ物に随うものである。そして人間の生涯の吉凶は、ことごとく食によって決まるといっても過言ではない。
★ 三度の食事が粗食で少量の者は、悪相・貧相であっても金持ちになり、子孫に財産や名誉をのこすであろう。いつもは粗食だが時々大食するものは大凶である。
★ いつも身のほどに不相応の美食をしている者は、たとえ人相は吉であっても運勢は凶である。その美食癖をあらためなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼ つかない。まして貧乏人の美食家は「働けど働けどわが暮し楽にならず」で、一生苦労する。
★ 大いに成功・発展の相があっても、怠け者でずるく、酒肉をたのしみ、自分の本業に精を出さない者には成功・発展はない。
★
子供の相が貧相で悪くても、その親が食に慎しみをもつならば、みだりに貧相悪相というべきではない。子供は、その親のなすところによって悪相から善相
に一変することがある。子に対して親は本であるから、その本が正しければ子もおのずから正しくなる道理である。もっとも、過去世の因縁を解いて
やるのは親の務めであり、親が解けないほどの因縁の場合は、子が成長して自ら解くほかない。悪因を解き善因を積むには、陰徳を積むほかはない。
世に慈善事業や放生をして陰徳を積んだ
つもりになっている者があるが、これらはみな人に知られる行為であり、真の「陰徳」とはいえない。
★ 仏法は精神を治めることを本とするゆえに食を慎むのである。なぜなら万事心が乱れることは、みな飲食を本として起るからである。飲食を慎むときは心静かに なり不動心を得る。不動心を得れば、その道(仏道)を得ることはたやすい。
★千日千夜祈ってもあなたに実がなけれ
ば神明はどこにもおられない。また実を持って祈ろうとのぞむなら自分の命を神に献じ奉ることだ。食は自分の命を養うもとである、これを献じ奉るということ
はすなわち自分の命を献ずるのと同じである。
<また、重複します。>
★ 食事量の多少によって、人間の
貧富や 寿命や、未来の運命を予知することができる。
次に挙げる項目は、あまり
体を使わない人などに あてはまることがらである。肉体労働に従事する人は、その労働の内容によって
食事量の適量があり、また 肉体の大小や強弱によっても 適量が異なる。 しかし、この原則も、まだ 年齢が若く、一家の主でもない者には
あてはまらない。
ところが、若くても
一家の主人ならば、その食事量の多少によって、吉凶(運命)が決まる。
古人の言に
「天に禄無き人は生ぜず、地に根無き草は生えず」
という言葉があるが 貧富貴賤を問わず、その身のほどによって天より与えられた一定の食事量がある。そのことをわきまえず、みだりに むさぼり食う者は、天の規律を破る者で
ある。
生命ある者には、すべて
天与の食事量が 確保されている。
生れ落ちるとともに
得るものは食で、生命の存在するところ、必ず
食べものがあり、逆にいえば 食べもののあるところ、必ず 生命が発生する。
食べものは
生命のみなもとであり、生命は 食べものに随うものである。
そして 人間の生涯の吉凶(運命)は、ことごとく
食によって決まるといっても 過言ではない。
『 恐るべきは 食であり、
慎むべきは 食である。』
★ 食事の量が少ない者は、人相が不吉な相
であっても、運勢は吉で、それなりに
恵まれた人生を送り、早死にしない。
特に 晩年は吉。
★ 食事が常に
適量を超えている者は、人相学上からみると 吉相であっても、
手がもつれたり、生涯
心労が絶えないなどして、晩年は凶。
★ 常に
大食・暴食の者は、たとえ 人相は良くても 運勢は一定しない。
もし
その人が貧乏であれば、ますます 困窮し、財産家であっても
家を傾ける。
大食・暴飲して
人相も凶であれば、死後 入るべき棺もないほど
落ちぶれる。
★ 常に
身のほど以上の美食をしている者は、たとえ 人相が吉であっても
美食を慎まなければ、家を没落させ、出世も成功もおぼつかない。
まして 貧乏人で美食する者は、働いても働いても 楽にならず、一生 苦労する。
★ 常に
自分の生活水準より 低い程度の粗食をしている者は、人相が貧相で
いずれは
財産を形成して 長寿を得、晩年は楽になる。
★ 食事時間が
不規則な者は、吉相でも凶。
★ 少食の者には 死病の苦しみや
長患いがない。
★ 怠け者でずるく、酒肉を楽しんで
精進しない者には 成功はない。
成功・発展
大願成就まで美食を慎み、
自分の仕事を楽しみに変える時には 自然に成功するであろう。
★ 人格は、飲食のつつしみによって決ま
る。
★ 酒肉を多く食べて
太っている者は、生涯 出世栄達なし。
★ 従来の観相では 百発百中とはいえず、悩んだ末、伊勢の五十鈴川で 断食水行50日の荒行を行い、
「人の命運は、総て 食にあり」と悟り、美味大食を戒め、
「慎食延命法」 を説くに至る。
以後、観相にあたり、詳細に
その人の食生活を聞き、占断を下し、外れることがなかった。
※「断食水行50日の荒行を行い・・・」、これは普通の方ではありませんね。
ナザレのイエス(イエス・
キリスト)や 釈尊(ブッダ)でも、40日の断食ですから・・・。
断 食をすると 体が浄化しきって、とんでもない感性が 現出してくるといいます。中近東地方でも断食をしますが、断食をしたあとに「断食祭」と称して、牛を 屠殺し、まるごと一頭分の牛肉をお祭り気分で美味しく食べるシーンを見たことがあります。
(その国の国民性と言われてしまえばそ れまでですが)この中近東 地方の断食は 宗教色が強く、医学的な断食ではありません。中近東のこういった断食は、過去から続いてきた「断食の習慣」を ただ単に暗黙に続けているだけの 断食です。まるで「みんな、断食を頑張ったからご褒美だよ・・・、牛を殺して、みんなで美味しい牛肉を食べて祝お〜う♪」のような、その断食の 意味すら求めない単なる悪習慣(これを、私はドグマと呼んでいます)に堕しているようにしか見えません。断食を頑張ったご褒美に、牛を殺して祝いとす る意識が理解できません。そのシーンは非常に生々しい残酷なものでした(日本人だからそう思うのか・・・)。
断食をすると肉体が浄化し、肉体 とつながっている精神までもが浄化されてくるものです。私は、断食というものは医学的にも精神的にも優れており、もっと高尚なものだと思っているので、 中近東の暗黙な宗教断食行為が理解できません。
ましてや、断食をしたあとに肉食をする
なんてことは、断食医学からしたらば、体に異常が発生するかもしれない「とても 危険な行為」なのです
(また、文句を言っちゃいました・・・・・・)。
また、重複するかもしれません。
<水野南北の教えの概要>
○ 食が その人の分限、分より 少ない人は、顔かたちが 少々不細工といっても 吉である。
それ相応の 幸運の天分がある上に 短命ということもなく、高齢になっても、なお 吉がある。
○ 食が その人の分限、分より 多いと言う人は、どれほど 顔かたちが すぐれているといっても、
いろいろのこと すべてが 備わるということもなく、その備わるべきものも、もつれることが多い。
その上、一生を通して 気苦労も 絶えることがなく、高齢になってから 凶があるだろう。
○ 食が その人の分限、ほどほどに
応じている者は、吉凶とも 表に表れることも ほどほどであって、さしたる 善悪は無い。
○ ところが、いつも 大飲大食をする人は、いかように 顔かたちがうるわしかろうと、
身分、地位、分際に 不安定が生じ、確立はむずかしく 安定を得難い。
貧しい者は ますます 困窮していく。
○ いつもいつも 分限を超えて
美味贅沢を好む人は、どのように
顔かたちが立派であっても 非常な凶である。
○ 常々に
粗食をする者は、どのように
この上ない悪人であれ、みすぼらしい相であっても、幸福と 長寿をおさめる。
○
粗食だからといって、大いに食べるのは 大凶である。
○ 一方、小食を 日常としなければならない 厳しい定めのある人が、たとえ 賤しい悪相であったとしても、
相当の幸運の天分に恵まれ 長寿を全うし、ほとんどのことは おおかたうまくいく。
ゆえに 高齢になっても
吉である。
○ 手当たり次第 なんでもかんでも やたらと食う人は、常に 精神状態が 穏やかでない。
色々のことが乱れ 調和しないことばかりになる。
○ 少ない食というものは
婦人、女性の食である。
だから たいそうに 悪いことはない。
○ また
大いに食らうは 強く 勇ましい人の食といえよう。
しかし 強気にはみえるが
多くの人の気を のがしてしまう。
これは 自然からの徳が薄い
といえる。
○
また、食を厳しく定めている人は、正しく
誠意の心があるようにみえる。
これは また 自然の徳といえよう。
○ 婦人が大いに食らうということになれば、それは 夫を負かす、しのぐ と言うことになる。
男の食を
侮りさげすむ気性にして、当然のことながら 気は激しくなり 夫を負かすことになる。
しかし、夫の方が強ければ
そうした事態は成らない。
○ 一方、少ない食で夫を負かす女は
たいがい 心がねじれており、みだらで よこしまといった 悪女の類といえよう。
すでに 家の中が混乱していて
心が乱れているときは、食 そのものが乱れ、いっこうに
揃わないものである。
これは 災いがあっての後か、まだ
何ら 災いもない場合には、災い、苦しみの前兆である。
○ 家の後継ぎ 相続 すでに決まった人があると言っても、日夜 美食をほこりにして 何一つ 慎みがなければ、
その家が やがて滅ぶ、無くなるときが来ている と知るべきだろう。
若しくは
家の主人が早く退く と言う前兆である。
○ 表にみえる物や形が
厳重にみえるとはいっても、食が乱れ
揃わない人は、心の中は 厳重でなく、只 表のみ 飾り立てる人である。
○ 食を厳しく定める という心が在れば、それは ひとえに 心が厳重と言うことである。
したがって、かたちや
表も 知らず知らずのうちに 厳重になる。
しかし、心が厳しくなくて
顔ばかりが厳しい、というのであれば、これは やはり 表のみを飾る人である といえよう。
○ 一飯一菜を
常食に 貴人には 食無く、小人に食あり という。
つまり 貴人は 常に 正しくしており、むやみと 食べないが、小人は べらぼうに食らいながら なお その節度を知らない。
これを見て 次のように解釈できよう。
貴人は食して その与えられた天命を
知ることができるが、小人は食して
己を忘れ去り、ついには 自ら善をなくしてしまう。
故に 食の少ない人は なお
貴いといえる。
○ いつもいつも 小食の定めのある者が、もし 病みついてしまったとき 食を作らないとしたら、
脈や血色がすこぶる良いといっても
死なないことはない。
こうしたことは 食が尽きて
自然と滅ぶようになっている。
だから
さしたる罪はないし、病というほどのものもなく、困窮はさらにない。
ともあれ、人々 それぞれに
分限、ほどほどの食がある。
○ 身分の低い者は
粗末な食事、粗食を
もっぱらとして、一飯一菜を 常食とすれば良い。
○ そのうえ 慎みがあって 粗食を小食に定める というのであれば、家運が長く続く ということの兆しであり、
自然と
家の食禄をのばしていく。
この様な人は、一生涯に
一つの功をたてて、子々孫々に この功を残していく。
その上
長寿であり、病を患うと言うこともない。
○ 命の長短は
相で定まらず。
50歳より若い人で 患い病んでいる者に、もし 死相があるといっても、常に 小食だけを定めれば 死がやってくるとは いえない。
必ずや 生命が復してくる。
● 満ちれば 欠ける
● 子のない相は 食を厳しくせよ
● 慎み無ければ 長寿なし
● 大食 大いに苦しむ
● 食は 禄の基本
● 君と食を敬うのが 武士の道
● 金銀は 国をおさめる武器
● 乱心を退けるは 飲食にあり
● 食は 禄に応ずる
● おおいに食すれば 損失を招く
● 厄は 半膳をへらして
● 肥えた者に 出世無し
● 心の気強くても 大食すれば
大事ができぬ
● 自然の食に 罪なし
● 陰徳を積めば 因縁は解ける
● 徳は おのれで積むもの
● 倹約すれば 立身出世
● 食が尽きれば 家が滅びる
● 野菜食は 罪少なし
● 水と灯火を慎めば 命と福を保つ
● 紙を再生させるは おおいなる
陰徳
● 遊芸 みだりに好むべからず
● 庭には 花よりも食物を
● 慎み在れば 血色に神あり
● 妻は陰で 一家の宝
● 食は 道のはじめ
● 死生は 天によるもの
● 大食美食は あさましい
● 大鳥は 十分食べない
● 元気は 転地にあふれる気
● 淫色肉食は 徳を損ずる
● 福禄寿は 食に従う 《
福(幸) 禄(仕事:財産:富) 寿(寿命)》
● 祖師の妻帯肉食は 慈悲のあらわれ
● 元をわすれる者は 末を失う
● 人に頼らなくても 助けるもの多し
● 食慎めば 遊びもよし
● 食を慎めば 業備わる 《
業(職:仕事)》
● 相撲も 芸人も 道の豪傑
● 大食は 食を
雪隠にすてるがごとし
● 吉凶の元は 自分にあり
● 日々の食を献ずれば 一念叶う
● まことがあれば 祈らずとも
神は守りたもう
● こぼれた五穀が 養う物あり
● 高位に交われば 徳を損ずる
● 業をおろそかにすれば
発達なし 《
業(職:仕事)》
● 相は 活きて動くもの
● 天地の徳を知れば 五常は備わる
● むだ使いせぬが 陰徳
● ごちそう残すも 陰徳
● 物粗末にすれば 転死する
● 食すことは 生あるものの持前
● 人の心と体は 妙と法
● 丑寅は 気のはじまり
● 万物は 土から生じて 土に帰る
● 朝に日を拝めば 寿を保つ
● 仙法は 一人一徳の法
● 慎めば 食はすすむ
● 人は万代不易なれど 因縁因果あり
● 天寿のばすは 子孫のため
● 碗の大小は 分限に応じる
● 腹八分目は 危地であり 病なし
● 食を定めるは 仏法の元
● 大酒は 神命を苦しめる
● 小鳥を楽しむより 家業を楽しめ
● 夜業朝寝は 貧窮短命の元 《
夜業(夜の仕事:夜勤)》
● 女の慎みは 男を助ける
● 釈尊も 食を慎む
● 運は めぐりくる
● 衣食住は 分限に応ずるが吉
● 天理にしたがえば 運良し
● 早起きは 運気発達の元
● 倹約と慎みは 別のもの
● 学ばずとも 心が正しければ
身おさまる
● 心気が弱いと 命は短い
● 万物を捨てれば 人に捨てられる
● 泥の中にうまれても 玉は玉
● 命に長短無く 丹田に応ず
● 塩には 五穀と同じ徳あり
これは、水野南北翁の言葉集です。
★『
この世に生まれたということは、天より
生命を与えられた ということであり、
それは同時に
生命を全うするのに必要な一生分の食も与えられているということである。
命ある者に
は、全て 天与の食事量が確保されている。
この世で自分
が所有しているものは 天与の食事量のみであり、それ以外のものは お金でも 物品でも、たまたま
自分に巡り来たっているだけであり、自分のものではない。
天与の食事量 以外のものは、全て天の所有物である。
故に、お金や
物を貧しい人に施しても、また 自分が充分に食して、日々 神に美味を献じても、徳を積んだことには ならない。
常食が 三椀であれば 二椀にすることが 本当の徳というものである。
それは 自分の所有物である食を、天に献じることであるからだ。
自分が持っているものは 食のみであり、食以外に献じるものなど 何も持っていない。
自分の所有物
ではない、元々が 天の所有である物をいくら差し出したところで、それは 施しでも何でもない。
食べなければ
生命を保てない。 食は命である。 持っているものは命だけなのである。 食を献じてこそ 初めて 徳を積んだといえるのである。
天は
献じられた食を 他にまわすことが出来るので、三椀を 二椀にすれば 一椀を他の生あるものに施したことになり、一椀分 徳を積んだことになる。
逆に、自分の
割り当て以上に 食する者は、天に借りをつくっていることになる。
また、必要以上に
他の命を奪っていることになる。
借りたものを
返すのは 天地の真理である。 貸主が人間ならば 催促もしようが、天は 催促なしに取り立てる。 自分の代に 取り立てられなければ
子孫から取り立てる。
子孫から 取り立てられなければ、その家を亡ぼし 家系を断絶してしまう。
この真理に
よって、身の程知らずに 大食の者は 不運で、災難や 損失が多くなるのである 』
★ 南北は、「食を慎むのは
容易いのですが、遊所行きを止めるのは難しく、悩んで います … 」という質問に対して、こう答えている。
南北の答え:
『 それは
大いに結構なことだ。 何と言っても 慎みの第一は 食である。
遊所に行って散財し、放蕩と言っても、
食を慎んでいれば
家がなくなったり
長生きして
おのずから 富むのである。 食は 本である。
その本を厳しく慎めば
他のことは 枝であり 論ずるに足りない。
今後とも
食を慎んで 遊所に行きなさい。
★ 『 天子をはじめとして
生あるものは、食べるための業のないものはない。
鳥獣にいたるまで
日々駆けまわって、心身を労して食べている。
人として、その業をしないものはない
』
★ 『その人間の体の大小強弱、働きの多寡
(運動量)によって、おのおの適量が
ある。たとえば、三膳食べて
満腹する者は、二膳半 食するをもって 腹八分と
いい、また
腹に節なり、というのである。
空腹となって
食欲をおぼえたとき、人間の内臓は 自然とその口を開くもので
また、腹八分目になると、自然とその口
を閉じるものである。
そこで 節制すればよいのであるが、なおかつ食べるので、内臓の口が閉まらなくなり、
ますます
食べないと満腹感をおぼえないという悪循環が起こる。
これを
宿食(しゅくじき)といい、病の根源 かつ 凶運の原因
となるもので
非運
病身となるのは、みな 飲食より起こることを知らねばならない 』
★ また
南北は、「運が悪くて 難儀ばかりしているが、 神に祈れば 運が開くでしょうか?」という質問に対して、
こう答えている。
≪南北の答え≫
『 真心をこめて祈らなければ、神は感知してくれない。
どうするかというと、いつも ご飯を3膳食べる人なら、2膳だけにしておいて、1膳を 神に献じる。
といっても、本当に
1膳分を 神棚なら神棚にお供えする必要はなく、心の中で 念じればよい。
自分が祈りを捧げたい
神仏を思い浮かべて、その神仏に向かって「
3膳の食のうち、1膳を 捧げ奉ります 」 という。
そうして
自分で2膳を食べると、その1膳は 神仏が受け取ってくれる。
・・・・・・(中略)
そうすれば、
どんな願いごとでも叶えられる。
小さい願いごとなら
1年で、 普通の願いごとなら 3年、
<実践上の注意点>
水野南北が指摘した、食を節する上での
注意点。 箇条書きのまとめ。
○ 常に
腹七分目を 心がけよ。
○ 人
それぞれ、仕事や体格が違うのであるから、食べる分量は 自ずと異なる。
したがって、
食を節する場合は、その人 相応の分量で 節する必要がある。
○ 肉体労働をする者は
大食しても構わない。
○ 自分が 食を節しているからといって、家族や 他の人に 無理に それを押し付けてはいけない。
○ 節制は
吉だが、ケチは 大凶である。
従って
人をもてなす時は、自分の節制に関わりなく、盛大にもてなすこと。
○ 青菜の類は、いくら食べても
構わない。 《 青菜: 野菜 》
○ 昔の武士は 合戦の時は、1日 5食であったが、そういう非常時には 大食しても構わない。
○ 一芸に秀でるほどの者は、慎みを 堅く守っていても、ますます 天から 苦しみを 与えられことがある。
それは その道を
ますます 究めさせるためである。
○ 食欲がなければ
無理に 食べるな。
○ 早寝早起きを
心がけよ。
○ 腹
八分目は 危地であり、病なし。
常に
腹 七分目を 心がけよ。
<これは、水野南北ではありませんが、
付録として・・・・・・>
☆ 人格は、飲食のつつしみによって決ま
る。
☆ 孔
子は『 食こそが、人品を養う基本だ 』と述べました。
☆ 医学の祖 ヒポクラテスは、『 食べ過ぎは、病気まで養うことになる 』と、少食を勧めたとされています。
☆ 数学者であり哲学者でもある
ピタゴラスは、
『 人の病気は、食事の食べ過ぎと
質の間違いから 』
『
小食にすれば、心身ともに頑健になり、病の神も 汝(なんじ)よ
り去る 』
が
口癖。
ピタゴラス自身も、黒パン、野菜、ハチ ミツなどの粗食を、一日二食しか摂らず、99歳の天寿を全うしました。
※ ピタゴ ラスの死因は、いくつかの説があります。「殺された」「40日間の断食をした後で死んだ」などもありますが、私が見たピタゴラスの文献は、二木謙三先生の 「健康への道」という図書でした。
こ
の図書には「ピタゴラスという人は九十歳まで生きた人で、健康であった。小児の時も健康であった。その当時(ピタゴラスの時代)、非常に美食が流行してい
て、人々は酒のお祭りなんかの時になると、気ちがいのようになって仮装行列をやり、酒を飲んで、女も男も踊り騒いでいった。
ピタゴラスは これを嘆いて肉食を戒め(ピタゴラスは 植物食主義者でした。西洋では、ベジタリアニズムや
ビーガニズム(菜食主義)という呼称が登場する以前は、植物食主義のことを「ピタゴラスの食養法」と呼んでいたようです)、一日二食、黒パン(全粒穀物のパン:
玄麦のパン)と 蜂蜜と 野菜を食物とした」と載っているので、こちらを参考にしました。
結局、死因はピタゴラスの問題で、私た
ちはピタゴラスの残してくれた食養法の中身を参考にしましょう!
ピタゴラスは、優れた数学者、哲学者でもあったので、そちらも参考にできる方は、ぜひ 参考にしてくださいネ。
私は目下、食養だけで十分ですが・・・(そんな、頭がないので・・・・・・)。
☆
医食同源
『
You are what you
eat. = あなたは、食べたもの そのものである 』
あなたの体は、あなたが摂取した食べ
物、水からなります。
それらのものが 体に悪ければ、当然 あなたの体は何らかの故障を起こすでしょう。
良いものを食べれば、体はよくなるでしょう。
問題は、何を食べるか!
何を食べないか! です。
《入るを制して、出ずるを量る》
太りやすい体質というのは、人類の生存適応能力という視点からは
決して悪いことではありません。
飢餓に強いのが、省エネ体質の人の特徴なのです。しかし、このような体質を持った人が、飽食と運動不足の時代に生活していると、いつの間にか、余剰のエネ
ルギーを体脂肪として備蓄し、肥満に至ってしまうということになるのです。
そこで、肥満の予防とその解消においては、「摂取」と「消費」という両面からのエネルギーコントロールが必須となります。
企
業経営では、「入るを量りて、出ずるを制する」ですが、体重、体脂肪、内臓脂肪のコントロールにおいては、
若い時からの「入るを制して、出ずるを量る」が肝要です。
※
「入るを制して、出ずるを量る」とは、「摂取を少食にして食事を節制し(体に入ってくるものを制して)、排泄をしっかりと促す暮らしを持つ(体から不要物
や毒を出す排泄を意識する)」ということでしょう。
(以上、付録として)
以上が、現存する「南北相法修身録」
の現代語訳の簡単な内容紹介でした。
古臭かったでしょうか? それとも、現代にはない、何か新しい感覚を発見できたでしょうか?
人によっては古臭い馬鹿らしいものにし
か映らないでしょうし、人によってはなかなか面白い感覚を受け取ることでしょう。
甲田光雄先生は、よく同じようなことを
言われていましたね。
「水野南北の家憲」として、現在の水野 家にも残されているものの中に、次のようなものがあります。
『 人の貴く(たかく)なること、
また 賤 (いや) しくなることは、
みな 飲食のつつしみ にあるべし 』
これを現代語に翻訳すると、
『 人の貴くなること、
(人が立派になって
繁栄していくことも、)
また、賎しくなることは、
(また、みすぼらしく賎しい人になっ
て、落ちぶれてしまうことも、)
みな 飲食のつつしみにあるべし
(全ては
みんな、飲食をつつしめるかどうかにかかっているのだ)』
ということになるのでしょう。
「その人が、立派になって栄えていくの
も、いやしくおちぶれてしまうのも、全ては、飲食をつつしめるかどうかにかかっていますよ!」という、南北翁の残された「水野家の家憲」でした。
私は、この言葉がとても好きなのです。
とてもシンプルで、深い深い
奥深さを感じますね。
水野南北は、運の悪い人間は、「腸」が
荒れていて汚かった・・・と言っていました。 それは
やはり、その人の過食からきていたのかもしれませんね。
「腸を守る」ことが、「人の運命に 影響を与えている・関連している」のか
もしれませんね!
ち
なみに、「腸」という漢字は、「月」に「易」と書きます。「月(にくづき)偏」は、「臓」「腸」「肺」など、人や動物の体、肉体に関する漢字を表す偏です
ね。「易」は、人の「運命・運勢・占い」を表す漢字です。つまり、「腸」の漢字には、「月」に「易」で、『 人の運命を現していく 体の部分 』という意味があります。
「腸の状態」が、「人間の人生に関わっ
てくる」「人間の人生を左右する」ということです。
まさしく 昔の人が、漢字に込めてくれた叡智(真理)ですね!
「腸」という器官は『 人間の運命を預かる 器官 』『 人間の運命を左右する 司令塔 』なのかもしれません!
ま
たまた
ちなみに、単細胞生物から多細胞生物に進化していった過程で、動物の臓器の中では(当時は魚類です)、一番最初に誕生したとされる臓器は「腸」です。生物
学では、動物の臓器の中では「腸」が、「系統発生的に一番古い」とされています。私たち、動物の臓器は「腸」から発生し、脳や
心臓や 肺や
肝臓や・・・・・・
他の臓器たちは、「腸」のもっともっとあとに形成されて発生していったとされているのです。臓器の中では「腸」が、発生的に「一番目
の旗頭」なのですね。
単
細胞生物も、細胞膜で呼吸をし、摂取と排泄を繰り返して生きています。それが、多細胞生物に進化していく過程で、単細胞生物の細胞膜呼吸や未熟な摂取排泄
の仕方だけでは、多細胞生物の内部側の細胞たちに
呼吸や栄養が行きと届かなくなるので、消化器官の胃腸、心臓や肺臓器官、血液循環器官などが誕生してき
ます。口も 目も 耳も 鼻も、誕生してきます。
私
は、動物や人間にある、一般に五感と呼ばれる、目(視覚)、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、口(舌:味覚)、皮膚(触覚)などは、単細胞生物などにも
ある感覚だと思っています。まして、意識自体にそれらの感覚が備わっているだろうと思います。細菌やアメーバ−にも意識がありますね。この意識自体
にある感覚が、単細胞生物から多細胞生物へ、動物から人間へと進化していく過程の中で、単細胞生物とは比べようもないくらいの高度な活動を(この物質世界
で)していくため
には、もっともっと高度な器官として(体に)現出させることが必要になって、意識自体に備わる五感を高度に発揮していくための器官が(体に)誕生していっ
たのだと
思います。
腸
は系統発生的に一番古い器官なので、「腸の細胞」も「太古の細胞」に近い細胞であるようです。動物や人間の全ての器官の中では、「系統発生的に一番古いの
が腸」「全ての器官の中で真っ先に誕生したのが腸」ということは、生命にとっては、腸の重要優先順位は高いとも言えるのでしょう。「腸の状態」が「体
の良し悪し」に大きな影響を及ぼし、「腸の状態」が「その意識から起こる人生の現象」にも影響している、と見ても、これは実に面白いことだと言えるのでは
ないでしょうか?
私には、まったくの「おとぎばなし」と
は思えませんが・・・、いかがでしょうか?
現代医学の研究でも、「記憶というもの
は、脳ではなく
腸で行われている」という報告もありますからね。
ま
してや、食べたものが消化されたら、栄養成分は腸内で合成され、そして
吸収されて、全身の血液へとめぐり、全身の細胞という細胞に行き届き、体の全てを養う大本(おおもと)なのですから(血液を作るのも腸だといいます:腸造
血説)、人間の体を左右するのも、腸が肝心要(かんじんかなめ)なのです。
体内での「腸」の働きが、そのまま
人間の人生(運命・運勢)を決する働きとして 転写(反射)されているとしたら・・・・・・ どうしましょう?
人間の体の生命の要(かなめ)は
「腸」、そして、それはそのまま、人間の運命の要にも 転写・反映しているのかもしれませんね! 人間って、奥深くて 神秘ですからね!
「腸の状態」が「人生の状態」となって
現われてくる(現象化ともいいます)、「腸の良し悪し」が「人生の良し悪し」となって 現われてくる、と言えるのかもしれません。
甲田先生は、末期癌の患者さんの治療
で、生菜食や 断食をして、大量の宿便が出て、体内から宿便が排除されると 腸マヒが治り、腸がきれいになってから 末期癌が消滅していく・・
ということをよく言われていました。
つまりこれも、「腸の状態」が「寿命の
良し悪し」に転写された(現われた)姿なのかもしれませんね。「腸の状態」が整って、「寿命の状態」が整い、寿命が延びたのかもしれません。
「腸を守る」、そうすれば「人生を守
る」、という転写(反射)を受け取るかもしれません。 『 腸を守って、人生も守れる 』、水野南北翁は とーっても 深いところに 気づくことができたのかもしれません
ね。
『 腸 健やかなれば、人生も 健やかなり 』というところでしょう
か・・・・・・。
「腸を守る」という、「正食」「少食
(食のつつしみ)」をやってみる価値が、ここにあるのかもしれませんよ! 「人生も守られる」かもしれません。
「腸」という器官は、人間にとって 一番「神秘的な 場所」なのかもしれません。
自分の人生の、この先を左右する「重要
な 場所」かもしれませんよ♪ 大事にしたい「場所」ですね。
「しれません・・・」ばっかりでしたけ
れど、次項では、水野南北翁が唱えた、この「食のつつしみ(少食を守る)」の価値を、科学的に見つめてみたいと思います。
それが 事実であるのか、つまらん嘘であるのかを、科学的に検証してみましょう!