都市はツリーではない:資料
定本柄谷行人集索引より
アレグザンダー.Alexander,Christopher,❷M.52, 231
セミラティス,❷M.52-9(セミ・ラティス)/❸T.464(-型),513(-的)
ツリー,❷M.52-9,120(-化)/❸.T(-型).276,459,464
「都市はツリーではない」
「別冊国文学」22号、前田愛編「テクストとしての都市」(1984,5、原著は1965発表)所収。
参考サイト:
http://www.rudi.net/pages/8755
http://www.patternlanguage.com/archives/alexander1.htm
http://www.patternlanguage.com/archives/alexander2.htm
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A city is not a tree
都市はツリーではない
C・アレクザンダー/押野見邦英訳
標題のツリー(tree)というのは葉をつけた樹のことではなく、抽象的な構造の名です。私はそれを最も複雑なセミラチス(semi- lattice)と呼ばれる構造と比較してみたい。都市はセミラチスでツリーではありません。この二つの抽象的な構造と都市の性格とを結びつけるために簡単な比較をしてみよう。
自然の都市と人工の都市
長い年月にわたりともかく自然に出来上がった都市を<自然の都市>、又デザイナーやプランナーによって慎重に計画された都市やその部分を<人工の都市>と呼びます。シュナ、リバプール、京都、マンハッタンは自然の都市の例で、レヴイットタウン、チャンディガール(*)、イギリスにおけるニュータウンは人工の都市の例である。今では多くの人々がなにか本質的なものが人工の都市には欠けていると感じている。人間生活の垢がしみこんでいる古い都市と比較したときヒューマンな観点から見ると我々の人工的に都市をつくるという行為は完全に失敗でした。
*クリストファー・アレクザンダー
一 九三五年、ウィーンに生まれる。ケンブリッジ大学卒、ハーバード大学で博士号取得.バークレイのカリフォルニア大学教授。システム・エンジニアリングなど の新しい技術を導入し、都市デザインに新生面を開いた。著書に『コミュニティとプライバシイ』(一九六三、S・シャマイエフとの共著。一九六七年に鹿島出 版会より邦訳刊行)、『パターン・ランゲージ』(一九七七、オックスフォード大学、S・イシカワなどとの共著)。
*チャンディガール
ネール大統領の命をうけ、ル・コルビジュが設計したデリー北部にある未来都市。
正直のところ建築家自身も最新の建物より古い建物に住みたいと思っている。芸術を愛好しない一般大衆は建築家の行為に感謝するどころか現代建築や現代都市のみさかいのない進出をどうにもならない悲しむべきことであり、世の中を住みにくくしているものの一つであると考えている。このような考え方を単に昔に執着し伝統的でありたいと膜う気持の表われにすぎないと決めてしまうわけにはいかない。私もこの保守主義を支持している。人は時代の流れに応じて変化してゆくものである。人々の現代都市を受け入れまいとする気持は次第に高まってきたが、これは本当のもの当分手にはいらないものを望んでいる証拠である。このままでは世界は小さなガラスとコンクリートの箱で一杯になると警告する建築家も多い。ガラス箱の未来と戦うために数々の立派な宣言や計画案が発表されたが、これらはみな自然の都市にあって我々に活気を与えてくれるものを近代的な形で蘇らそうとしている。しかしこれらのデザインは単なる昔のものの復元であり新しいものの創造ではなかった。 "Architectural Review"誌のキャンペーン"Outrage"のなかでイギリスの町は新しく建物や電柱が建てられ町並は破壊に瀕していると非難していたが、この悲劇は建物とオープンスペースの空間的な調和はスケールが変わらないかぎり踏襲されなければならないという考え方に本当の原因がある。この考え方はスクエアーやピィアザについて書かれたカミロジッティの本(*)に由来するものである。レヴイットタウンに見られる単調さに抵抗して、自然の古い町の家々がもつ豊かな形をとりもどそうとする試みも又悲劇である。レウリン・デイビスの設計によるイギリスのラッシュブルックの村も一つの例である。そこではひとつひとつの家が隣りの家と僅か違っていて屋根は絵にあるような角度で突出たり凹んだりしている。その形は面白いし可愛いい。第三の悲劇とは都市に高密度をとりもどすことである。もしメトロポリス全体が幾層にも入り組み、いたるところに地下道があり、人々がごったがえしているニューヨーク中央駅のようになれば、ヒューマンなものに蘇るだろうという考え方である。ヴィクター・グルーエンの計画やLCCによるフック・ニュータウンの人工的な都市化はこの考えに基づいている。どこにでも見られる廃退を見事に批判したのはジェーン・ジェイコブスである。彼女の批判は正鵠を射ている。しかし我々のなすべきことについて彼女の具体的な提案を読むと、女史は現代の大都市を街並が短かく人々が道路にたむろしているイタリアの丘陵都市の合の子にしたいのではないかと思いたくなる。-
*カミロ・ジッティの本
『都市建築の美的原理』(一九二二)。
-デザイナー達が解決しようとしてきた問題は実際的なことである。活気を与えてくれる古い町の本質を発見し、現代の人工の都市に復活させることは大切であるが、イギリスの田舎、イタリアのピィアザ、ニューヨーク中央駅を再現したところで失なわれたものは得られない。現代のデザイナーの多くは昔の都市にそなわっていて現代の都市概念からは把握できない抽象的な秩序を研究せずに、事象的、具体的なものを求めようとしているようだ。こうしてデザイナーは都市に新しい息吹を加えることはできなかった。なぜなら彼らは単に昔の都市のみかけだけを模倣し、その実体となる背後の本質を見つけることができなかったためである。背後の本質とは、又人工の都市と自然の都市を区別している秩序の法則とは何か。私が考えている秩序の法則については冒頭の文章でおわかりのことと思う。自然の都市はセミラチス構造であると私は考えているが、現在は都市をツリー構造として計画している。
ツリーとセミラチス
ツリー、セミラチスは共に数多くの小さなシステムがどのようにして一つの巨大で複雑なシステムを構成していくかを考える方法である。即ちどちらもセット(set)の構成の仕方に対する呼名である。このような構造を定義するために始めにセットの概念を明らかにしておこう。セットとは互いに何んらかの関係があるエレメントの集まりである。我々デザイナーとしては目に見える現実の都市に、又目に見える都市のバックボーンに関心があるので、人々、芝生、自動車、レンガ、微粒子、住宅、庭、水道管、その内を流れる水滴など、物質のエレメントの集まりであるセットに関心がある。セットをつくるエレメントが相互に関連作用するとき、エレメントからつくられるセットを一つのシステムと呼ぶことにしよう。
例を一つあげよう。バークレイ(*)のヒーストとユークリッドの街角にドラッグストアーがあり、そのドラッグストアーの外に信号がある。ドラッグストアーの入口の新聞スタンドにその日の新聞が並んでいる。赤信号のあいだ道路を横断しようとする人々は陽を浴びてなんとなく待っている。所在なく目についた新聞スタンドの新聞をながめる。-
*バークレイ サンフランシスコの衛星都市の一つ。サンフランシスコ湾の東岸にあり、カリフォルニア大学があることで有名。
-信号を待つあいだ見出しを読む人もいるし、実際に新聞を買う人もいる。このことは新聞スタンドと信号とが関連していることを表わす。新聞スタンド、並べられた新聞、人々のポケットからダイムスロットへ入る金、陽なたに立ちどまって新聞を読んでいる人、交通信号、信号を変える電流の変化、人々の立っている歩道、これら全てが作用している。デザイナーとしては変化しない目に見えるものに特に興味がある。新聞スタンド、信号、横断歩道は上に述べたように固定した部分を形成する。即ち変化しない器である。器の内でこのシステムの変化する部分、即ち人々、新聞、金、電気的信号が相互に作用している。私はこのような固定された部分を都市のユニットと定義する。ユニットとしての性格はエレメントの結びつく力や固定し変化しない部分を含む大きなリビング・システム全体がもつ動的な性格によって決められる。都市におけるシステムは他にも様々の例がある。建物を構成する部分のセット。人体を形成する部分のセット。フリーウェイを走る自動車、串に乗っている人、車が走るフリーウェイ。電話をかけている2人、手に持つ受話器、それをつなぐ電話回線。テレグラフヒルに建つ建物、サービス施設、住民。レクザル・ドラッグストアー・チューン。シティー・ホールに管理されているサンフランシスコの目に見えるエレメント。サンフランシスコの見わたすかぎりのあらゆるもの。この町を定期的に訪れ、発展につくしてくれる人達(ボップ・ホープ、即ちアサー・D・リトルの社長)。町の繁栄を支える主要な財源。隣家の犬、我家のごみ箱、犬にひっくりかえされた我家のごみ箱からこばれたごみ。ジョン・バーチ協会のサンフランシスコ支部。以上はいずれもエレメントがいくつか集まって出来ているセットである。エレメントは内部にはたらく力によって一つの性格をもち、相互に作用する。又それぞれのセットは交通信号と新聞スタンドのシステムがもつと同様の、目に見える固定した部分を含み、都市のユニットを形成する。都市に数多く見られる固定した具体的なサブセットは上に述べたシステムの器となっている。従って目に見える重要なユニットとされる。我々は通常ユニットのなかから数例をとりあげて考えている。街のどこの場所の写真であれ、写真に写っているサブセットによってユニットの集まりであることが証明される。
このような1枚の写真を構成するサブセットの集まりはもはや単なる形のない集まりではない。サブセットを一旦選ぶと、相互の関連が生まれるから、サブセットの集まりは明確な構造をもつことになる。この構造を理解するために、しばらく数字をシンボルとして用いて抽象的に考えてみよう。都市に無数に存在する実際の因子のかわりに、六つのエレメントから出来ている簡単な構造を考えよう。これらのエレメントを1、2、3、4、5、6とする。エレメントを全て含むセット (1、2、3、4、5、6)、まったく含まないセット(一)、エレメントを一つしかもたないセット (1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)を除けば、六つのエレメントからは56通りの相異なるセットが得られる。この56通りのセットのなかから任意に選ぶとしよう(我々が街の場面を描いたとき、どれかセットを選びユニットと名づけたと同じように)。例えば次のセットを考えよう。(123)、(34)、(45)、(234)、(345)、(12345)、(3456)。以上のセットの問にはどんな関係が存在するだろうか。(34)は(345)、(3456)の部分であるように、大きなセットのまったく一部分になるものや、(123)、(234) のように重なり合うセットもあろう。又なかには(123)、(45)のように共通のエレメントをもたず無関係のものもある。-
(図をクリックすると拡大)
-以上の関係は二通りの方法で表現できる。図aではユニットを構成するセットが線で囲まれている。図bでは選ばれたセットの大きさに従い上に示される。従ってあるセットが他のセットを含むとき<(345)が(34)を含むように>直線で結ばれる。見やすくするために、一番近くのセットで未だ線で結ばれていない組合せにかぎって線で結ばれる。即ち(34)と(345)、(345)と(3456) の間は結ばれるが、(34)と(3456)を線で結ぷ必要はない。この二通りの表わし方からわかるように、サブセットがつくる全体の構造はサブセットの選び方ひとつで決定される。この構造がここで述べようとしている構造なのである。この構造がある条件を満足するときセミラチスと呼ばれる。又もっと特殊な条件を満足するときツリーと呼ばれる。セミラチスの法則は次のように表わせる。
<セットが集まってセミラチスを形成するとき、この集まりに属する二つの重なり合うセットをとれば、両方に共通なエレメントのセットもこの集まりに属している>。
図aと図bに示された構造はセミラチスである。ここにあげた構造はこの法則を満足している。例えば(234)と(345)は共にこの集まりに属していて、共通部分(34)も又この集まりに属している。都市に関してはこの法則は簡単に次のように述べられる。<二つのユニットが重なり合うところでは、重なり合った部分が目に見える存在であり、即ちユニットとなっている。ドラッグストアーの例では一つのユニットは新聞スタンド、歩道信号から構成され、もう一つのユニットは歩道に店先が面し新聞スタンドのあるドラッグストアーそのものから構成される。この二つのユニットは新聞スタンドで重なり合っている。確かにこの重なり合った部分は目に見えるユニットである。即ち既に述べたセミラチスの性格を定義する法則を満足している>。ツリーの法則は次のように述べることができる。
<セットが集まってツリーを形成するとき、この集まりに属する任意の二つの組合せをとれば、一方が他方に完全に含まれるか、全く無関係かのどちらかである>。
図Cと図dに示された構造はツリーである。ツリーの法則によれば、セットの重なり合う可能性はないからセミラチスの法則はあてはまらない。即ち全てのツリーはセミラチスのごく特殊な一つの場合にしかすぎない。この論文ではツリーもセミラチスになるという事実に深入りするのではなく、重なり合ったユニットを含み、即ちツリーにはならない一般的なセミラチスとツリーの間の相違について調べてみたい。我々は重なり合わないものと会う構造の相違に興味をもっている。
二つの構造の相違をなしているのは単なる重なり合いの有無だけではない。もっと大切なことは本来セミラチスがツリーよりもはるかに複雑で安定した構造になるということである。次の事実を知れば、セミラチスがツリーと比較していかに複雑になり得るかわかるであろう。20個のエレメントから成る一つのツリーでは、高々20番目のサブセットが19個のサブセットをもつにすぎない。一方、同じ20個のエレメントから成るセミラチスは100万通り余りのサブセットをもち得る。ツリー構造の単純さと比較したとき、セミラチス構造のもつ移しい多様性こそこの構造の複雑さを如実にものがたっている。ツリー構造が複雑さを欠いていると同様に、我々の都市に対する認識においても複雑さを欠いている。
ツリーである人工の都市
わかりやすくするために、都市についての最近の考え方をいくつか見てみよう。それらはどれも本質的にはツリー構造をなしているが、プランを見ながら次の歌詞でも思いうかべることにしよう。
<大きなノミの背の上で小さなノミが刺そうとしてる。小さなノミの背の上にゃ、もっともっと……>この節は見事にツリー構造を言い表わしている。
1.コロンビア、マリーランド、設計:コミユニティー・リサーチ・デベロップメソト社=五つのクラスターから構成される近隣住区が郷を形成し、交通幹線によってニュータウンに結ばれる。この組織はツリーである。

2.グリーンベルト、マリーランド、設計:クラレソス・スタイン=この田園都市はスーパーブロックに細分されていて、スーパーブロックはそれぞれ学校、公園、パーキング・ロットの周囲に建てられた住宅などから構成されている。この組織はツリーである。

3.大ロンドン計画(1943)、設計:アバークランピー、ファーシォウ=これは数多くのコミュニティーから構成されていて、隣接するコミュニティーどうしは明瞭に区分されている。アバークランピーは次のように述べている。<この提案は従来のコミュニティーの形を踏襲しつつ独立性を強めて、必要なところではコミュニティーを完全に独立させるために編成しなおすことを計画している>。そして又、<コミュニティーは近隣住居の規模に応じた店舗や学校をもつ連続したサブユニットから構成されている>。この都市は二つの面からツリーとして考えられる。コミュニティーはこの構造の大きい方のユニットであり、小さなサブユニットは近隣住居である。ここでは重なり合うユニットはなく、構造はツリーである。
4.東京計画、設計:丹下健三=これは見事な例である。
この計画は東京湾上に連続して伸びるループから構成されている。四つのメイジャーループがあり、それぞれ三つのメディアムループをもっている。二番目のメイジャーループに含まれるメディアムループの一つは鉄道の駅であり、他の一つは港である。行政機関や工場のある三番目のメイジャーループを除いて、他のメディアムループはそれぞれ住区を形成する三つのマイナーループを含んでいる。

図1。(図をクリックすると拡大)

5.メサ・シティー計画、設計:パウロ・ソレリイ=メサ・シティーは有機的な形をしているので注意せずに見ると、はっきり機械的な構造とわかるものと違い、はるかに豊かな構造をしていると思いこんでしまう。しかし詳細に調べると、まったく同じ原則から構成されていることがわかる。大学中心地区をとりあげてみよう。ここでは町の中心地区が大学と住区に区分されている。又各地区はそれぞれ4000人収容する村(実際には塔状のアぺート)に分割され、村はさらに小さな住居単位に細分されていて、全体をとりかこむように配置されている。

6.チャンディガール(1951)、設計:ル・コルビュジェ=都市全体が中心にあるコマーシャルセンターによってサービスされている。コマーシャルセンターは都市の頂点にある政府機関センターに隣接している。二つの競合して発展するコマーシャルコアーほ南北屯走る主要幹線道路沿いに伸びている。さらにこの都市の20のセクターに対し、それぞれ一つずつ行政機関とコマーシャルセンターがある。

7.ブラジリア、設計:ルチオ・コスタ=全体の形は中心軸に対して左右対称でありどちらも1本の主要幹線からサービスされている。この主要幹線は平行に走る補助幹線につらなっている。そして最終的にはスーパーブロック全体をとりかこむ道路につながっている。野道はツリーである。図2。(図をクリックすると拡大)


8.コミュニタス、設計:パーシバル、ポール・グッドマン=コミュニタスがツリー構造をしていることは明らかである。即ちまず全体は四つの同心円状のメイジャーゾーンに分割される。一番中心はコマーシャルセンター、次は大学、三番目が住居や病院、四番目がオープンな田園でふめる。これらはそれぞれ、さらに細分されている。即ちコマーシャルセンターは五つの層に分かれた巨大な円筒状のスカイスクレーパーとして表現されている。空港、政府機関、軽工業、商店、娯楽、そして低層部に鉄道の駅、バスターミナル、メカニカルサービスを備えている。大学は歴史、動物園、水族館、プラネタリウム、科学実験室、造形美術、音楽、演劇から成る八つのセクターに分割されていて、三番目の同心円は4000人の住区に分割され、それぞれ独立住宅だけでなく個人の住居ユニットも含むアパートブロックから構成されている。最後にオープンな田園は森林保護区、農地、休暇村の三つの地区に分割されていて、全体の構造はツリーとなっている。

9.この問題を完全に象徴する最も見事な例を最後に掲げよう。それは"The Nature of Cities"(都市の本質)と名づけられたヒルベルゼイマーの著書に書かれている。彼はローマ時代の都市のなかには、その起源を軍隊の兵営にもつものがあることを指摘したうえで都市のひとつの原形として現代の軍隊の野営陣地の写真を紹介している。純粋なツリー構造をもつことなどまずあり得ぬことである。当然ツリー構造は規律と秩序を旨として厳格につくられている軍隊の組織を反映することになる。都市がツリー構造をなすとき都市やそこに住む人々は強い束縛を受ける。

以上の構造はいずれもツリーである。
人工の都市を組立てているユニットはいずれもツリー構造となるようにつくられている。この意味を実際にはっきりと理解するために、ここでもう一度ツリー構造を明らかにしておこう。我々がツリー構造を考えているときは常に、ユニットは他の大きなユニットを媒介しないで他のユニットと直接結びつくことはないと考えてきた。この束縛の厳しさは信じがたいくらいである。例えば、家族ぐるみで交際する以外、自由に他人と友達になることを禁じられているようなものである。単純なツリー構造を求めることは、端正で整然としていることを望むあまりマントルピースの上のローソク立てを真直ぐしかも完全に左右対称にしたいと願うようなものである。ツリーと比較してセミラチスは複雑な織物の構造である。それは命あるもの、即ち偉大な絵画、交響曲の構造である。セミラチス構造は重複性、不確定性、多様性などの性質をもち、ツリー構造のように、アーティキュレイト、カテゴライズされていないが、秩序をそなえていて、ツリー構造と比較しても、混乱していることはけっしてないと強調しておこう。セミラチスは深く、強く、安定した複雑な構造の考え方を反映している。人工的な考え方に束縛されない自然の都市は、どのようなセミラチス構造となっているだろうか。
現実の都市はセミラチスであり、セミラチスとしなければならない。
私が前に述べたツリーに含まれるユニットはいずれも固定されていて、現実の都市に存在するシステムの不変の残余となっている。例えば一つの住居は家族めいめいの交わり、喜怒哀楽、財産などの実際の残余である。フリーウェイは移動や交易の残余である。しかしツリーはこのようなユニットをはとんど含まない。即ちツリー構造の都市では実際に即応するユニットの数はきわめて少なく、重要なシステムで実際に即応しないものも数多くある。ツリーの最も悪い例では、現実に即応するユニットを全く含まない場合がある。都市の命ともいえる現実のシステムがはいる容器が存在しないのである。
例えばコロンビア計画やスタイン計画は現実の社会にあてはまらない。実際のプランのレイアウトやその機能の仕方をみると、都市全体から家族に至るまでの社会集団のヒエラルキーがきわめて閉塞的で、それぞれの社会集団が長さの違う共同の帯で結ばれていることがわかる。だがこれは全く非現実的である。古い社会では誰かに一番親しい友達の名前をたずね、次にその友達一人一人打二番親しい友達の名前をあげてもらえば、皆が互いの名前をあげる。即ち閉塞的集団を形成している。村はこのようなばらばらの閉塞的集団からできている。しかし現代の社会機構は全く違っている。もし誰かに友達の名前をたずね、次にその友達一人一人に自分の友達の名前をあげてもらったとしても、各人が違った名前をあげ、おそらく始めの人はその名前さえ知らないだろう。又この人達は違った友達の名前をあげ、次第に外へ向かってゆくだろう。現代の社会では閉塞的集団など実際にあり得ない。現代の社会機構は重なり合いに満ちあふれている。即ち友人のシステムはツリーではなくセミラチスを形成する。図3。(図をクリックすると拡大)

自然の都市では細長い通りに面した家(小さなクラスターの内ではなく)一つをとりあげても、ここに住む人の友達は隣りに住んでいるのではなく、バスか車でなければ行けない遠く離れたところに住んでいるという事実がはっきり示されている。この点ではマンハッタンはグリーンベルト以上に重なり合いに満ちている。グリーンベルトでは友達は車で僅か数分のところに住んでいると主張する人もいるだろうが、構造が明確な現実のユニットによってグループとしてのまとまりが強調されているのに、なぜ彼等が社会に無関係なのか考えてみなければならない。ツリーでは正しく表わせない社会機構のもう一つの面はラス・グラス女史にょる人口20万の都市、ミドルスボローの再開発計画に示されている。女史はこの地域を29のばらばらの近隣住区に分けようとしている。建物の種類、住む人々の収入、職種などが著しく異なるところを見きわめたうえで29の近隣住区を選んだが、女史は次のような疑問を発している。<こうして決められた近隣住区に住む人々、この人々が構成する様々の社会のシステムを調べると、社会のシステムがもつユニットは全て同一の空間的広がりをなす近隣住区を実際に形成していると言えるだろうか>。女史はこの問題に対して<けっしてそうではない>と答えている。女史が調べた社会のシステムはどれもノードのシステムである。これはいくつかのセントラルノードとセンターを利用する人々から成り立っている。女史は特に幼児学校、中学校、青少年クラブ、成人クラブ、郵便局、青果物店、食料品店を選んだ。以上のセンターはいずれも特定の空間的広がり、即ち空間的ユニットに属した人々に利用されている。空間的ユニットとは社会のシステム全体の残余であり、即ちこの論文で扱うユニットとなっている。ワーテルロ−ド住区にもうけられた様々の種類のセンターに対応するユニットが図4に示されている。-(図をクリックすると拡大)

-実線はいわゆる近隣住区の境界である。灰色の点は青少年クラブを、小さな円はクラブの会員が住んでいる地域を表わしている。円形の点は成人クラブで、その 会員の分布する地域が鎖線で囲まれている。白い正方形は郵便局で、点線は利用者のあるユニットを表わす。中学校は白い三角形のついた点で示されている。生 徒と共に一点鎖線で表わされるシステムを形成する。すぐ気がつくように種類の違うシステムは一致しないが、全く無山関係というわけでもない。それらは重なり合う。我々は、29個に便宜的に分けられ近隣住区と称された大きな住居集団をもととしてミドルスボローの現在の姿及び将来のあるべき姿を適切に描くことはできない。我々が近隣住区の見地から都市を考えるとき、一つ一つの近隣住区のエレメントの結びつきは緊密で、他の近隣住区のエレメントとはエレメントの属する近隣住区を媒介として相互に作用するものであると晴に仮定している。ラス・グラス女史はこれが事実に反することを明らかにしたのである。図5と図6はワーテルロー住区についての二つの図である。議論しやすいようにワーテルロー住区を無数の微小部分に分割した。

(図をクリックすると拡大)
図5は微小部分が実際にどのように結びついているかを示したものである。図6は再開発計画に示された微小部分の結びつき方を示している。様々のセンターの流域が同一でなければならぬという理由はまったくない。センターの性格が異なるから、センターによって決められるユニットも異なっている。自然の都市ミドルスボローはセミラチス構造を忠実に表わしている。ツリーの考え方から生まれた人工の都市ではユニットの自然で、正しく、しかも必要な重なり合いが壊されている。
同様なことは小さなスケールでも見られる。車と歩行者の分離をとりあげてみてもル・コルビュジエ、ルイス・カーン(*)その他多数の人々がツリーの考え方を提案している。-
*ルイス・カーン一九〇一〜一九七四。アメリカの建築家。はじめはル・コルビジェの影響をつよくうけたが、のちに古代ローマの建築やピラネージの版画からヒントを得て、独自の重厚なスタイルを開拓した。フィラデルフィアの都市計画は有名。
-原則的に必要なことは明らかである。路上で遊ぶ子供達の横を時速60マイルで車が通過するのはまったく危険なことである。だがかならずしも賛成しかねる場合がある。社会生態学的な情況ではこれと反対の要求が起る場合がときどきみられる。我々が百貨店から出てくるときのことを想像してみよう。一日の買物で腕はいっばい、のどは渇き妻は足を引きずっている。タクシーが来ないとしたら! タクシーは歩行者と車とが全く厳密に分離されていない場合に機能するわけである。また空のタクシーが客をあさって広大な地域をおおうためには交通の速い流れを必要とする。歩行者はどこででもタクシーを呼んで好きなところへ行くことを必要とする。タクシーをもったシステムでは高速交通システムと歩行者のシステムとが重なり合う必要がある。マンハッタンでは歩行者と串は街の一部分を共有し、必要な重なり合いが確保されている。
(図をクリックすると拡大)

CIAMの(*)理論家達が好きな思想の一つにリクレエションと他のものの分離がある。この考え方は現実にみられる都市の運動場に具現化されている。アスファルト舗装され柵で仕切られた運動場は、<遊び>が我々の心のなかでは独立した概念として存在するという証拠を表わすに他ならない。この考え方は遊びそのものの本質とは無関係である。自尊心の強い子供は運動場では遊ばないものである。遊びそのもの、子供達のする遊びの舞台は毎日変わる。屋内で遊ぶときもあるし、仲良しのガソリンスタンド、空家、川岸、週末で休みの工事現場などで遊ぶときもある。遊びと必要な遊び場は一つのシステムを形成する。このようなシステムが町の他のシステムと切離されて独立に存在すると考えるのは間違いである。種類の異なったシステムが互いに重なり合い、さらに数多くのシステムとも重なり合う。ユニット、即ち遊び場として看なされる具体的な場所も同様でなけれはならない。自然の都市ではどこでも見られることである。遊びはあらゆる場所でおこなわれる。遊びは大人の生活のすき間を埋めてくれる。子供は遊んでいるうちに、まわりの環境に溶けこむ。柵がめぐらされたなかで子供はどうしてまわりに溶けこむことができるだろうか。セミラチスでは可能でも、ツリーでは不可能である。
*CIAM(Congres Inteternationaux d' Archtecture Moderne) 近代建築国際会議。一九二八年に結成。ジークフリード・ギーディオン、ル・コルビジュら、機能主義の建築家が中心人物。
グッドマンのコミュニタスやソレリイのメサ・シティー計画ではツリーの考え方にもとづいて大学とその他の部分を区分しているが前と同様の間違いをおかしている。これは実際にアメリカの孤立したキャンパスなどによく見られる。なぜ都市に境界線を引いて境の内は全て大学、外は全て大学以外のところと決めたがるのだろうか。たしかに明快な考え方ではあるが、現実の大学生活に即応するだろうか。それは本来の大学都市に見られる構造ではない。ケンブリッジ大学を例にあげよう。-
(図をクリックすると拡大)

-場所によってはトリニティー街は事実上はとんどトリニティー・カレッヂと区別がつかない。この通りの横断歩道の一つは全くカレッヂの一部と看なされる。この通りの建物の1階は商店、喫茶店、銀行が占めているが、2階以上は学部学生の下宿となっている。多くの場合、通りの街並がそのまま古めかしいカレッヂの建物群に溶けこみ全く一体となっている。大学生活と市民生活が重なり合うところには酒場の喧嘩、喫茶、映画など様々な行為のシステムがかならず存在する。学部全体が町に住む人々の生活と密接に関連する場合さえある。(医学部付属病院は一つの例である)。ケンブリッジは大学と町がいっしょになって次第に発展した町であるが、ここでは目に見えるユニットが都市と大学両方の重なり合ったシステムの具体的残余となっているから、日に見えるユニットそのものも重なり合っている。
次にブラジリア、チャンディガール、ロンドンのMARS計画、完成して間もないマンハッタンのリンカーンセンターなどの都市のコア一に見られるヒエラルキーについて調べてみよう。リンカーンセンターではニューヨーク市民に供される各種の舞台芸術が一堂に集められ一大コアーを形成している。しかしコンサートホールはオペラハウスの隣りに必要だろうか。コンサートホールとオペラハウスが並んでいると、うまいことでもあるのだろうか。誰が一晩のうちにがつがつと両方へ行ったり、コンサートを聞いた後で別の切符を買うだろうか。ウィーン、ロンドン、バリーでは舞台芸術のセンターはそれぞれふさわしいところにあり、いずれも市民の親しみやすい場所となっている。マンハッタンにおいてもカーネギーホールとメトロポリタン・オペラハウスは並んでいない。それぞれふさわしい場所を占め、独自の雰囲気をかもしている。各センターのある場所は独自の雰囲気がつくられているが、一方他のセンターの影響も受けてそれぞれ重なり合っている。機能が全てリンカーンセンターに集中されたのは、舞台芸術の概念が互いに接しているという唯一つの理由からである。都市とコアーの関係をツリーとして考えても、又このコアー(ツリーのもとになっている)を一義的なヒエラルキーから考えても芸術と市民の関係は明らかにされない。同じ名前のものは同じ容器に入れないとどうしても気がすまないという単純な動機からリンカーンセンターは生まれたものである。
トニー・ガルニエの工業都市に始まった工場と住区の完全な分離は一九三三年のアテネ憲章(*)に結実したが、今ではゾーニングが強調された人工の都市ではどこでも見られ、当然のこととして受け入れられている。だがこれはいつでも正しい原則だろうか。今世紀の初めにみられた悪条件を解決しようとして、都市計画家が汚ない工場を住区から遠ざけようとしたことは承知している。-
*アテネ憲章 CIAMの第四回国際会議で採択された。「都市計画の鍵は以下の四種類の機能にある。居住、労働、休養、交通」に要約される機能主義的な都市計画の要項が首十一項にまとめられている。
-だがまったく切離されたために両方にまたがって生計をたてていたシステムが失なわれてしまった。ジェーン・ジュイコブスはブルックリンのバックヤード・インダストリーの発展について述べている。小さな事業を始めようとする人はまずスペースを必要とし、そのスペースを自分の家のバックヤードに求めるようだ。彼は大きく発展しつつある企業と顧客の仲立ちをしようとしている。このことはバックヤード・インダストリーのシステムが住居地域とエ業地域の両方にまたがっている必要のあることを示している。即ちこの二つの地域は重なり合う必要がある。ブルックリンでは重なり合っているが、ツリーである都市ではそれがない。

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最後に独立したコミュニティーへの都市の分化について調べてみよう。アバークランピーのロンドン計画でみたように、これはツリー構造である。個々のコミュニィーは機能するユニットとしての現実性をもっていない。ロンドンでは他の大都市と同様に家の近くで自分に適した仕事を見つけることはほとんど不可能である。あるコミュニティーに住む人々は別のコミュニティーの工場で働いている。労働者・職場のシステムが無数に存在し、それぞれ人と勤める工場から成り立っている。このシステムはアバークランピーのツリーが決めた境界からはみでている。境界をはみだすユニットの存在、ユニットのもつ重複性は、ロンドンのリピング・システムがセミラチスを形成していることを物語る。都市計画家の心のなかでのみそれらはツリーになっている。我々が今までこれを具体的に表現できなかったという事実は重要な意味をもつ。労働者とその職場が別の行政区域に属している場合、職場を含む方のコミュニティーは多額の税収入を得るが、歳出は少ない。一方労働者が住んでいるコミュニティーは主として住居区であれば税収入も多くないのに、学校病院などに余分の金がかかる。この不公平を解決するためには、労働者・職場のシステムは、課税できる都市の具体的ユニットとして固定されなければならない。大都市の個々のコミュニティーは住民の生活のなかでなんら機能的な重要性をもたないが、コミュニティーはまだ最も便利な行政単位であり、従って現在のツリーの構造のまま残すべきであるという意見もある。しかし現代都市にみられる複雑な政治機構のなかでは疑問である。最近出版された"Political Influence"(政治勢力)という本のなかで、エドワード・パンフイールドはシカゴで実際に活動している施政の機構について詳しく述べている。役所の管理機構は典型的なツリー構造をしているが、新たに都市の問題が発生したとき、関係者が集まって自然にできる個別の組織にくらべると全く影がうすい。このような個別の組織は一つの問題に関心をもち、利害関係にあり、あるいは取引をして利益を得ようとする人々から構成されている。形式的な機構の枠のなかにつくられた自由な組織が実際の大衆と結びついている。次々と問題が移り変わるにつれて、この機構も週毎に、時間毎に変化する。各人の掌捏範囲が全て決められているので、問題が変化してゆくにつれ担当者も変わるのである。市長室にかけられた組織図はツリーであっても、実際の施政機構はセミラチス構造である。
ツリー状思考の根本
ツリーは思考法として秩序だっていて美しく、複雑な全体をユニットに分割するという単純で明快な方法をもたらしてくれるが、自然に出来上がった都市の構造を正しく表わさないし、我々が必要な都市の構造も措いてくれない。自然の構造はかならずセミラチスをなしているというのに、多くのデザイナーが都市をツリーとして考えるのはなぜだろうか。ツリー構造が都市に住む人々に本当に役にたつと信じてわざとそうするのだろうか。それともツリー構造とせざるを得ない理由があるのか。思考法の習慣、多分人間の頭の働きそのものの落し穴だろうが、この落し穴にかかっているのが原因だろう。デザイナーは複雑なセミラチス構造を考えやすい形におきかえることができないから、ツリーに見えるときはいつでもツリーにしてしまう傾向があり、又ツリーの考え方をどうしても脱しきれないからなのだろうか。ツリーが提案され都市として実現されているのは二番目の理由からであることを証明しよう。即ちデザイナーは直感的に把握できる能力には限界があり、一度の思考では複雑なセミラチスを理解できない。
一つ例をあげよう。次の四つのものを頭にうかべるとしよう。オレンジ、メロン、フットボール、テニスボール。この四つのものを頭に、即ち心の目にどのようにして留めておくだろうか。いずれにしてもそれらをグループに分けて記憶するであろう。オレソジとメロンの果物を一組とし、フットボールとテニスボールの二つのポールを一組とする人もいるだろう。なかには形状が似ているという理由で前とは違ったグループ分けをする人もいるだろう。即ち小さな球形をしたオレンジとテニスボールを一組とし、大きな玉子形をしたメロンとフットボールを一組とする方法もある。両方に気がつく人もいるだろう。グループ分けは一つ一つ見ればツリー構造である。二つが合わさるとセミラチスとなる。図10。_
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四つのセットは重なり合っているので、二通りのグループ分けを具体的な図式に表わそうとしても、四つのセットを同時に頭に描くことはできない。セットを一組ずつに描くことはできる。又この二組を交互に素早く描くこともできる。あまり素早くできるので二つを同時に頭に措けると錯覚しやすい。だが実際四つのセットをいっしょに一度で描くことは不可能である。セミラチス構造を一度の思考操作で形に表わすことはできない。一度の思考操作ではツリーを措くことしかできない。これは我々デザイナーが直面している問題である。我々はかならずしもー度の思考操作で全体像を描きたいと思っているわけではないが、結局は同じことになる。ツリーは頭に描きやすく扱いやすい。セミラチスは描きにくく、従って扱いにくい。
グループ化とカテゴリー化は最も初歩的な心理学的プロセスであることはよくしられている。現代の心理学では思考ということについて、既に頭のなかにあるスロット(区切り)やピジョンホール(整理棚)に新しい状況を適合させるまでの過程と考えている。具体的な事象をそのまま心理学でいうピジョンホールにおさめることができないように、アナロジーを用いた思考過程では一つの心理学上の概念をそのまま心理学的カテゴリーに分類することはできない。このような思考過程をたどる本当の理由を調べてみると、遭遇する様々の事象の問に障壁をつくって、複雑な問題をできるだけ簡単にしてしまわなければならない人間の思考能力に原因がある。内部でセットが重なり合う都市のような構造を結局ツリーとして考えるのは、混沌とした状況に含まれる曖昧さや重複を整理しようとする人間の頭の働き、又曖昧さを嫌う性格にもよるものである。同じような潔癖さは具体的な図形の認識の仕方にも表われる。ハーバード大学におけるホッジンと私が行った実験では、内部のユニットが重なり合った図形を人々に見せたが、図形をセミラチスとして考えた方が全体をとらえやすい場合でさえ、図形をツリーと看なす方法を発見してしまうのであった。フレデリック・バートレット卿の実験では基本的な図形でさえツリーとして考えてしまう人々の驚くべき傾向が証明されている。卿は人々に一つの図形を1/4秒見せて見たままの図形を描かせた。数多くの人々が自分の見た複雑な図形全体を把握することができず、重なり合いを無視して図形を単純化している。図11は上に示された図形を間違って記憶した典型的な例である。-

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-間違って記憶された図形では円が他の部分から切離され、三角形と円の重なり合いは無視されている。以上の実験によれば複雑な構造のものに出会った場合、人はユニットが重複しないものと心理的に歪曲して考える強い傾向のあることがわかる。セミラチスの複雑さが単純でわかりやすいツリーの形に置きかえられている。
そろそろあなたはツリーではなくセミラチスである都市が一体どのようなものになるのかと思っているでしょう。残念ながら私はまだプランやスケッチをおみせすることができません。しかし実際に重なり合いがおきる実例を示すだけでなく、この重なり合いが適切なものでなければならないことを強調しておきたい。これはきわめて大切である。なぜなら重なり合いはなかなか魅力があるので、作意的に重なり合いがおきるようなプランをつくりやすい。即ち最近の高密度の<活気に満ちた>都市計画に見うける誤りである。ごみ箱でも重なり合いに満ちている。構造が形成されるためには正しい重なり合いを必要とする。我々が必要なのは歴史的な都市に存在する古い重なり合いとは違ったものである。機能の結びつき方が変化するにともない、複雑な結びつきを受けいれるために重なり合いを必要としていたシステム自体も変化しなければならない。歴史的な重なり合いを再生しても構造は形成されず、混乱を招くにすぎない。現代都市がまさに必要とする重なり合いを理解し、必要な重なり合いを具体的、可塑的な形に置きかえる研究が現在進行している。未完成なうちに充分検討されていない構造を簡単なスケッチで発表しても役にたたない。しかし私は重なり合いの具体的な結論を一つのイメージによってわかりやすくさせることはできる。図12に示された絵画はサイモン・ニコルソンの最近作である。-
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-この図はいくつかの単純な三角形のエレメントから構成されているが、エレメントが様々に結合して絵の大きなユニットを形成するところに魅力がある。もしこの絵に見られるユニットを全て調べると一つの三角形はどれも四つか五つの全く種類の違ったユニットに含まれていて、どのユニットも他のユニットの一部になることはなく、重複する部分は全て三角形におけることがわかる。三角形に番号をつけ、視覚的に強くユニットと感じられる三角形のセットを拾い上げると図13に示されるセミラチスが得られる。-
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-3・5はいっしょになって長方形をつくるから一つのユニットであり、平行四辺形となる2・4、二つとも暗色で同じ方向を指している5・6、互いに他の平行移動した6・7、互いに対称である4・7、長方形をつくる4・6、Z字形をなす4・5、細長いZ字形をなす2・3、正反対の頂点にある1・7、長方形をなす1・2、5・6と同様一つの方向を指す3・4、又5・6の中心をはずした対称となる3・4、4・5 を挟む3・6、2・3・4を挟む1・5などいずれもーつのユニットを構成している。私は二つの三角形から成るユニットをあげたにすぎないが、ユニットが大きくなればそれだけ複雑になる。白地の部分はさらに複雑で明確なエレメントに分けることができないので、この図には示されていない。この絵が意味があるのは絵に重なり合い(重なり合いのある絵は数多い)があるためではなく、重なり合い以外はなにもないからである。この絵を魅力的にしているのは重なり合いの事実とこの形がもつ多様な見方である。あたかもこの画家は重なり合いを構成を豊かにする原動力として積極的に試みているようである。私がとりあげた人工の都市はいずれもニコルソンの絵に見られるようなセミラチス構造ではなく、むしろツリー構造をなしている。これは絵画であるが、これと同様のイメージが我々の思考手段となるはずである。正確を期する場合、現代数学の一分野となっているセミラチスはこのようなイメージのもつ構造を解明するために非常に役立つ。
我々が追求しなければならないのはセミラチスであってツリーではない。
我々がツリーを考えているときは、デザイナー、都市計画家、行政当局、開発業者だけに適合のよい観念的な単純さを求めるあまり、生々とした都市にそなわった豊かな人間性を失なっているのである。都市の一部が破れるごとにツリーが以前そこにあったセミラチスにとってかわり、都市は次第に崩壊へとむかう。どの有機体においても過度の区画化と内部のエレメントの分裂は分袖が近づいた最初の徴侯である。社会にたいして分裂は謀叛である。人においては分裂は精神分裂症で自殺に至る徴侯である。全市にわたる分裂の悪い例はアリゾナのサン・シティーに見られる。ここでは老人のための殺風景な町が出現し、隠居した老人は隔離され、人々の都市生活とは切離されている。このような分裂はツリーのような考え方をしなければ起り得ない。この町の分裂は若者と老人の交わりを奪うだけではなく、悪いことに個人の生活のなかにも同じような分裂を起している。サン・シティーへ行き老人の町へ入ると、あなた自身の過去との結びつきは意識されなくなり、失なわれ、やがて隔離されてしまう。あなたの青年時代はもはや老年には生きておらず、この二つは分解し、人生も二つに断ち切られてしまうのである。ツリーは複雑な問題を考えるためには最も安易な思考手段である。しかし都市はツリーではありません。ツリーにもなりませんし、ツリーにしてはなりません。都市は生活の容器です。もしこの容器がツリーを構成し、ここで営なむ生活のはしばしの重なり合うことが制限されるとしたら、この容器は押しっけられるものはなんでも切り落してしまうカミソリの刃をつけたボールのようなものになるだろう。こんな容器のなかでは生活はこまぎれにされてしまう。もし我々がツリーである都市をつくるとしたら、まさに我々の生活はばらばらになるにちがいない。 (「デザイン」一九六七年七、八月号所載)
(C)1965 Christopher Alexander
初出:"Architectral Forum"(1965.4,5)。一九六五年度カウフマン国際デザイン賞受賞 ル・コルビジェに代表される近代主義的なツリー型の都市デザインにたいして、豊かな人間性を内包するセミラチス型の都市デザインを提唱した画期的な論文。近年は、ドゥルーズ=ガタリのリゾームとの相同性が指摘され、テクスト理論の領域からも注目されている。
アレグザンダー.Alexander,Christopher,❷M.52, 231
セミラティス,❷M.52-9(セミ・ラティス)/❸T.464(-型),513(-的)
ツリー,❷M.52-9,120(-化)/❸.T(-型).276,459,464
「都市はツリーではない」
「別冊国文学」22号、前田愛編「テクストとしての都市」(1984,5、原著は1965発表)所収。
参考サイト:
http://www.rudi.net/pages/8755
http://www.patternlanguage.com/archives/alexander1.htm
http://www.patternlanguage.com/archives/alexander2.htm
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A city is not a tree
都市はツリーではない
C・アレクザンダー/押野見邦英訳
標題のツリー(tree)というのは葉をつけた樹のことではなく、抽象的な構造の名です。私はそれを最も複雑なセミラチス(semi- lattice)と呼ばれる構造と比較してみたい。都市はセミラチスでツリーではありません。この二つの抽象的な構造と都市の性格とを結びつけるために簡単な比較をしてみよう。
自然の都市と人工の都市
長い年月にわたりともかく自然に出来上がった都市を<自然の都市>、又デザイナーやプランナーによって慎重に計画された都市やその部分を<人工の都市>と呼びます。シュナ、リバプール、京都、マンハッタンは自然の都市の例で、レヴイットタウン、チャンディガール(*)、イギリスにおけるニュータウンは人工の都市の例である。今では多くの人々がなにか本質的なものが人工の都市には欠けていると感じている。人間生活の垢がしみこんでいる古い都市と比較したときヒューマンな観点から見ると我々の人工的に都市をつくるという行為は完全に失敗でした。
*クリストファー・アレクザンダー
一 九三五年、ウィーンに生まれる。ケンブリッジ大学卒、ハーバード大学で博士号取得.バークレイのカリフォルニア大学教授。システム・エンジニアリングなど の新しい技術を導入し、都市デザインに新生面を開いた。著書に『コミュニティとプライバシイ』(一九六三、S・シャマイエフとの共著。一九六七年に鹿島出 版会より邦訳刊行)、『パターン・ランゲージ』(一九七七、オックスフォード大学、S・イシカワなどとの共著)。
*チャンディガール
ネール大統領の命をうけ、ル・コルビジュが設計したデリー北部にある未来都市。
正直のところ建築家自身も最新の建物より古い建物に住みたいと思っている。芸術を愛好しない一般大衆は建築家の行為に感謝するどころか現代建築や現代都市のみさかいのない進出をどうにもならない悲しむべきことであり、世の中を住みにくくしているものの一つであると考えている。このような考え方を単に昔に執着し伝統的でありたいと膜う気持の表われにすぎないと決めてしまうわけにはいかない。私もこの保守主義を支持している。人は時代の流れに応じて変化してゆくものである。人々の現代都市を受け入れまいとする気持は次第に高まってきたが、これは本当のもの当分手にはいらないものを望んでいる証拠である。このままでは世界は小さなガラスとコンクリートの箱で一杯になると警告する建築家も多い。ガラス箱の未来と戦うために数々の立派な宣言や計画案が発表されたが、これらはみな自然の都市にあって我々に活気を与えてくれるものを近代的な形で蘇らそうとしている。しかしこれらのデザインは単なる昔のものの復元であり新しいものの創造ではなかった。 "Architectural Review"誌のキャンペーン"Outrage"のなかでイギリスの町は新しく建物や電柱が建てられ町並は破壊に瀕していると非難していたが、この悲劇は建物とオープンスペースの空間的な調和はスケールが変わらないかぎり踏襲されなければならないという考え方に本当の原因がある。この考え方はスクエアーやピィアザについて書かれたカミロジッティの本(*)に由来するものである。レヴイットタウンに見られる単調さに抵抗して、自然の古い町の家々がもつ豊かな形をとりもどそうとする試みも又悲劇である。レウリン・デイビスの設計によるイギリスのラッシュブルックの村も一つの例である。そこではひとつひとつの家が隣りの家と僅か違っていて屋根は絵にあるような角度で突出たり凹んだりしている。その形は面白いし可愛いい。第三の悲劇とは都市に高密度をとりもどすことである。もしメトロポリス全体が幾層にも入り組み、いたるところに地下道があり、人々がごったがえしているニューヨーク中央駅のようになれば、ヒューマンなものに蘇るだろうという考え方である。ヴィクター・グルーエンの計画やLCCによるフック・ニュータウンの人工的な都市化はこの考えに基づいている。どこにでも見られる廃退を見事に批判したのはジェーン・ジェイコブスである。彼女の批判は正鵠を射ている。しかし我々のなすべきことについて彼女の具体的な提案を読むと、女史は現代の大都市を街並が短かく人々が道路にたむろしているイタリアの丘陵都市の合の子にしたいのではないかと思いたくなる。-
*カミロ・ジッティの本
『都市建築の美的原理』(一九二二)。
-デザイナー達が解決しようとしてきた問題は実際的なことである。活気を与えてくれる古い町の本質を発見し、現代の人工の都市に復活させることは大切であるが、イギリスの田舎、イタリアのピィアザ、ニューヨーク中央駅を再現したところで失なわれたものは得られない。現代のデザイナーの多くは昔の都市にそなわっていて現代の都市概念からは把握できない抽象的な秩序を研究せずに、事象的、具体的なものを求めようとしているようだ。こうしてデザイナーは都市に新しい息吹を加えることはできなかった。なぜなら彼らは単に昔の都市のみかけだけを模倣し、その実体となる背後の本質を見つけることができなかったためである。背後の本質とは、又人工の都市と自然の都市を区別している秩序の法則とは何か。私が考えている秩序の法則については冒頭の文章でおわかりのことと思う。自然の都市はセミラチス構造であると私は考えているが、現在は都市をツリー構造として計画している。
ツリーとセミラチス
ツリー、セミラチスは共に数多くの小さなシステムがどのようにして一つの巨大で複雑なシステムを構成していくかを考える方法である。即ちどちらもセット(set)の構成の仕方に対する呼名である。このような構造を定義するために始めにセットの概念を明らかにしておこう。セットとは互いに何んらかの関係があるエレメントの集まりである。我々デザイナーとしては目に見える現実の都市に、又目に見える都市のバックボーンに関心があるので、人々、芝生、自動車、レンガ、微粒子、住宅、庭、水道管、その内を流れる水滴など、物質のエレメントの集まりであるセットに関心がある。セットをつくるエレメントが相互に関連作用するとき、エレメントからつくられるセットを一つのシステムと呼ぶことにしよう。
例を一つあげよう。バークレイ(*)のヒーストとユークリッドの街角にドラッグストアーがあり、そのドラッグストアーの外に信号がある。ドラッグストアーの入口の新聞スタンドにその日の新聞が並んでいる。赤信号のあいだ道路を横断しようとする人々は陽を浴びてなんとなく待っている。所在なく目についた新聞スタンドの新聞をながめる。-
*バークレイ サンフランシスコの衛星都市の一つ。サンフランシスコ湾の東岸にあり、カリフォルニア大学があることで有名。
-信号を待つあいだ見出しを読む人もいるし、実際に新聞を買う人もいる。このことは新聞スタンドと信号とが関連していることを表わす。新聞スタンド、並べられた新聞、人々のポケットからダイムスロットへ入る金、陽なたに立ちどまって新聞を読んでいる人、交通信号、信号を変える電流の変化、人々の立っている歩道、これら全てが作用している。デザイナーとしては変化しない目に見えるものに特に興味がある。新聞スタンド、信号、横断歩道は上に述べたように固定した部分を形成する。即ち変化しない器である。器の内でこのシステムの変化する部分、即ち人々、新聞、金、電気的信号が相互に作用している。私はこのような固定された部分を都市のユニットと定義する。ユニットとしての性格はエレメントの結びつく力や固定し変化しない部分を含む大きなリビング・システム全体がもつ動的な性格によって決められる。都市におけるシステムは他にも様々の例がある。建物を構成する部分のセット。人体を形成する部分のセット。フリーウェイを走る自動車、串に乗っている人、車が走るフリーウェイ。電話をかけている2人、手に持つ受話器、それをつなぐ電話回線。テレグラフヒルに建つ建物、サービス施設、住民。レクザル・ドラッグストアー・チューン。シティー・ホールに管理されているサンフランシスコの目に見えるエレメント。サンフランシスコの見わたすかぎりのあらゆるもの。この町を定期的に訪れ、発展につくしてくれる人達(ボップ・ホープ、即ちアサー・D・リトルの社長)。町の繁栄を支える主要な財源。隣家の犬、我家のごみ箱、犬にひっくりかえされた我家のごみ箱からこばれたごみ。ジョン・バーチ協会のサンフランシスコ支部。以上はいずれもエレメントがいくつか集まって出来ているセットである。エレメントは内部にはたらく力によって一つの性格をもち、相互に作用する。又それぞれのセットは交通信号と新聞スタンドのシステムがもつと同様の、目に見える固定した部分を含み、都市のユニットを形成する。都市に数多く見られる固定した具体的なサブセットは上に述べたシステムの器となっている。従って目に見える重要なユニットとされる。我々は通常ユニットのなかから数例をとりあげて考えている。街のどこの場所の写真であれ、写真に写っているサブセットによってユニットの集まりであることが証明される。
このような1枚の写真を構成するサブセットの集まりはもはや単なる形のない集まりではない。サブセットを一旦選ぶと、相互の関連が生まれるから、サブセットの集まりは明確な構造をもつことになる。この構造を理解するために、しばらく数字をシンボルとして用いて抽象的に考えてみよう。都市に無数に存在する実際の因子のかわりに、六つのエレメントから出来ている簡単な構造を考えよう。これらのエレメントを1、2、3、4、5、6とする。エレメントを全て含むセット (1、2、3、4、5、6)、まったく含まないセット(一)、エレメントを一つしかもたないセット (1)、(2)、(3)、(4)、(5)、(6)を除けば、六つのエレメントからは56通りの相異なるセットが得られる。この56通りのセットのなかから任意に選ぶとしよう(我々が街の場面を描いたとき、どれかセットを選びユニットと名づけたと同じように)。例えば次のセットを考えよう。(123)、(34)、(45)、(234)、(345)、(12345)、(3456)。以上のセットの問にはどんな関係が存在するだろうか。(34)は(345)、(3456)の部分であるように、大きなセットのまったく一部分になるものや、(123)、(234) のように重なり合うセットもあろう。又なかには(123)、(45)のように共通のエレメントをもたず無関係のものもある。-
-以上の関係は二通りの方法で表現できる。図aではユニットを構成するセットが線で囲まれている。図bでは選ばれたセットの大きさに従い上に示される。従ってあるセットが他のセットを含むとき<(345)が(34)を含むように>直線で結ばれる。見やすくするために、一番近くのセットで未だ線で結ばれていない組合せにかぎって線で結ばれる。即ち(34)と(345)、(345)と(3456) の間は結ばれるが、(34)と(3456)を線で結ぷ必要はない。この二通りの表わし方からわかるように、サブセットがつくる全体の構造はサブセットの選び方ひとつで決定される。この構造がここで述べようとしている構造なのである。この構造がある条件を満足するときセミラチスと呼ばれる。又もっと特殊な条件を満足するときツリーと呼ばれる。セミラチスの法則は次のように表わせる。
<セットが集まってセミラチスを形成するとき、この集まりに属する二つの重なり合うセットをとれば、両方に共通なエレメントのセットもこの集まりに属している>。
図aと図bに示された構造はセミラチスである。ここにあげた構造はこの法則を満足している。例えば(234)と(345)は共にこの集まりに属していて、共通部分(34)も又この集まりに属している。都市に関してはこの法則は簡単に次のように述べられる。<二つのユニットが重なり合うところでは、重なり合った部分が目に見える存在であり、即ちユニットとなっている。ドラッグストアーの例では一つのユニットは新聞スタンド、歩道信号から構成され、もう一つのユニットは歩道に店先が面し新聞スタンドのあるドラッグストアーそのものから構成される。この二つのユニットは新聞スタンドで重なり合っている。確かにこの重なり合った部分は目に見えるユニットである。即ち既に述べたセミラチスの性格を定義する法則を満足している>。ツリーの法則は次のように述べることができる。
<セットが集まってツリーを形成するとき、この集まりに属する任意の二つの組合せをとれば、一方が他方に完全に含まれるか、全く無関係かのどちらかである>。
図Cと図dに示された構造はツリーである。ツリーの法則によれば、セットの重なり合う可能性はないからセミラチスの法則はあてはまらない。即ち全てのツリーはセミラチスのごく特殊な一つの場合にしかすぎない。この論文ではツリーもセミラチスになるという事実に深入りするのではなく、重なり合ったユニットを含み、即ちツリーにはならない一般的なセミラチスとツリーの間の相違について調べてみたい。我々は重なり合わないものと会う構造の相違に興味をもっている。
二つの構造の相違をなしているのは単なる重なり合いの有無だけではない。もっと大切なことは本来セミラチスがツリーよりもはるかに複雑で安定した構造になるということである。次の事実を知れば、セミラチスがツリーと比較していかに複雑になり得るかわかるであろう。20個のエレメントから成る一つのツリーでは、高々20番目のサブセットが19個のサブセットをもつにすぎない。一方、同じ20個のエレメントから成るセミラチスは100万通り余りのサブセットをもち得る。ツリー構造の単純さと比較したとき、セミラチス構造のもつ移しい多様性こそこの構造の複雑さを如実にものがたっている。ツリー構造が複雑さを欠いていると同様に、我々の都市に対する認識においても複雑さを欠いている。
ツリーである人工の都市
わかりやすくするために、都市についての最近の考え方をいくつか見てみよう。それらはどれも本質的にはツリー構造をなしているが、プランを見ながら次の歌詞でも思いうかべることにしよう。
<大きなノミの背の上で小さなノミが刺そうとしてる。小さなノミの背の上にゃ、もっともっと……>この節は見事にツリー構造を言い表わしている。
1.コロンビア、マリーランド、設計:コミユニティー・リサーチ・デベロップメソト社=五つのクラスターから構成される近隣住区が郷を形成し、交通幹線によってニュータウンに結ばれる。この組織はツリーである。
2.グリーンベルト、マリーランド、設計:クラレソス・スタイン=この田園都市はスーパーブロックに細分されていて、スーパーブロックはそれぞれ学校、公園、パーキング・ロットの周囲に建てられた住宅などから構成されている。この組織はツリーである。
3.大ロンドン計画(1943)、設計:アバークランピー、ファーシォウ=これは数多くのコミュニティーから構成されていて、隣接するコミュニティーどうしは明瞭に区分されている。アバークランピーは次のように述べている。<この提案は従来のコミュニティーの形を踏襲しつつ独立性を強めて、必要なところではコミュニティーを完全に独立させるために編成しなおすことを計画している>。そして又、<コミュニティーは近隣住居の規模に応じた店舗や学校をもつ連続したサブユニットから構成されている>。この都市は二つの面からツリーとして考えられる。コミュニティーはこの構造の大きい方のユニットであり、小さなサブユニットは近隣住居である。ここでは重なり合うユニットはなく、構造はツリーである。
4.東京計画、設計:丹下健三=これは見事な例である。
この計画は東京湾上に連続して伸びるループから構成されている。四つのメイジャーループがあり、それぞれ三つのメディアムループをもっている。二番目のメイジャーループに含まれるメディアムループの一つは鉄道の駅であり、他の一つは港である。行政機関や工場のある三番目のメイジャーループを除いて、他のメディアムループはそれぞれ住区を形成する三つのマイナーループを含んでいる。
図1。(図をクリックすると拡大)
5.メサ・シティー計画、設計:パウロ・ソレリイ=メサ・シティーは有機的な形をしているので注意せずに見ると、はっきり機械的な構造とわかるものと違い、はるかに豊かな構造をしていると思いこんでしまう。しかし詳細に調べると、まったく同じ原則から構成されていることがわかる。大学中心地区をとりあげてみよう。ここでは町の中心地区が大学と住区に区分されている。又各地区はそれぞれ4000人収容する村(実際には塔状のアぺート)に分割され、村はさらに小さな住居単位に細分されていて、全体をとりかこむように配置されている。
6.チャンディガール(1951)、設計:ル・コルビュジェ=都市全体が中心にあるコマーシャルセンターによってサービスされている。コマーシャルセンターは都市の頂点にある政府機関センターに隣接している。二つの競合して発展するコマーシャルコアーほ南北屯走る主要幹線道路沿いに伸びている。さらにこの都市の20のセクターに対し、それぞれ一つずつ行政機関とコマーシャルセンターがある。

7.ブラジリア、設計:ルチオ・コスタ=全体の形は中心軸に対して左右対称でありどちらも1本の主要幹線からサービスされている。この主要幹線は平行に走る補助幹線につらなっている。そして最終的にはスーパーブロック全体をとりかこむ道路につながっている。野道はツリーである。図2。(図をクリックすると拡大)
8.コミュニタス、設計:パーシバル、ポール・グッドマン=コミュニタスがツリー構造をしていることは明らかである。即ちまず全体は四つの同心円状のメイジャーゾーンに分割される。一番中心はコマーシャルセンター、次は大学、三番目が住居や病院、四番目がオープンな田園でふめる。これらはそれぞれ、さらに細分されている。即ちコマーシャルセンターは五つの層に分かれた巨大な円筒状のスカイスクレーパーとして表現されている。空港、政府機関、軽工業、商店、娯楽、そして低層部に鉄道の駅、バスターミナル、メカニカルサービスを備えている。大学は歴史、動物園、水族館、プラネタリウム、科学実験室、造形美術、音楽、演劇から成る八つのセクターに分割されていて、三番目の同心円は4000人の住区に分割され、それぞれ独立住宅だけでなく個人の住居ユニットも含むアパートブロックから構成されている。最後にオープンな田園は森林保護区、農地、休暇村の三つの地区に分割されていて、全体の構造はツリーとなっている。
9.この問題を完全に象徴する最も見事な例を最後に掲げよう。それは"The Nature of Cities"(都市の本質)と名づけられたヒルベルゼイマーの著書に書かれている。彼はローマ時代の都市のなかには、その起源を軍隊の兵営にもつものがあることを指摘したうえで都市のひとつの原形として現代の軍隊の野営陣地の写真を紹介している。純粋なツリー構造をもつことなどまずあり得ぬことである。当然ツリー構造は規律と秩序を旨として厳格につくられている軍隊の組織を反映することになる。都市がツリー構造をなすとき都市やそこに住む人々は強い束縛を受ける。
以上の構造はいずれもツリーである。
人工の都市を組立てているユニットはいずれもツリー構造となるようにつくられている。この意味を実際にはっきりと理解するために、ここでもう一度ツリー構造を明らかにしておこう。我々がツリー構造を考えているときは常に、ユニットは他の大きなユニットを媒介しないで他のユニットと直接結びつくことはないと考えてきた。この束縛の厳しさは信じがたいくらいである。例えば、家族ぐるみで交際する以外、自由に他人と友達になることを禁じられているようなものである。単純なツリー構造を求めることは、端正で整然としていることを望むあまりマントルピースの上のローソク立てを真直ぐしかも完全に左右対称にしたいと願うようなものである。ツリーと比較してセミラチスは複雑な織物の構造である。それは命あるもの、即ち偉大な絵画、交響曲の構造である。セミラチス構造は重複性、不確定性、多様性などの性質をもち、ツリー構造のように、アーティキュレイト、カテゴライズされていないが、秩序をそなえていて、ツリー構造と比較しても、混乱していることはけっしてないと強調しておこう。セミラチスは深く、強く、安定した複雑な構造の考え方を反映している。人工的な考え方に束縛されない自然の都市は、どのようなセミラチス構造となっているだろうか。
現実の都市はセミラチスであり、セミラチスとしなければならない。
私が前に述べたツリーに含まれるユニットはいずれも固定されていて、現実の都市に存在するシステムの不変の残余となっている。例えば一つの住居は家族めいめいの交わり、喜怒哀楽、財産などの実際の残余である。フリーウェイは移動や交易の残余である。しかしツリーはこのようなユニットをはとんど含まない。即ちツリー構造の都市では実際に即応するユニットの数はきわめて少なく、重要なシステムで実際に即応しないものも数多くある。ツリーの最も悪い例では、現実に即応するユニットを全く含まない場合がある。都市の命ともいえる現実のシステムがはいる容器が存在しないのである。
例えばコロンビア計画やスタイン計画は現実の社会にあてはまらない。実際のプランのレイアウトやその機能の仕方をみると、都市全体から家族に至るまでの社会集団のヒエラルキーがきわめて閉塞的で、それぞれの社会集団が長さの違う共同の帯で結ばれていることがわかる。だがこれは全く非現実的である。古い社会では誰かに一番親しい友達の名前をたずね、次にその友達一人一人打二番親しい友達の名前をあげてもらえば、皆が互いの名前をあげる。即ち閉塞的集団を形成している。村はこのようなばらばらの閉塞的集団からできている。しかし現代の社会機構は全く違っている。もし誰かに友達の名前をたずね、次にその友達一人一人に自分の友達の名前をあげてもらったとしても、各人が違った名前をあげ、おそらく始めの人はその名前さえ知らないだろう。又この人達は違った友達の名前をあげ、次第に外へ向かってゆくだろう。現代の社会では閉塞的集団など実際にあり得ない。現代の社会機構は重なり合いに満ちあふれている。即ち友人のシステムはツリーではなくセミラチスを形成する。図3。(図をクリックすると拡大)
自然の都市では細長い通りに面した家(小さなクラスターの内ではなく)一つをとりあげても、ここに住む人の友達は隣りに住んでいるのではなく、バスか車でなければ行けない遠く離れたところに住んでいるという事実がはっきり示されている。この点ではマンハッタンはグリーンベルト以上に重なり合いに満ちている。グリーンベルトでは友達は車で僅か数分のところに住んでいると主張する人もいるだろうが、構造が明確な現実のユニットによってグループとしてのまとまりが強調されているのに、なぜ彼等が社会に無関係なのか考えてみなければならない。ツリーでは正しく表わせない社会機構のもう一つの面はラス・グラス女史にょる人口20万の都市、ミドルスボローの再開発計画に示されている。女史はこの地域を29のばらばらの近隣住区に分けようとしている。建物の種類、住む人々の収入、職種などが著しく異なるところを見きわめたうえで29の近隣住区を選んだが、女史は次のような疑問を発している。<こうして決められた近隣住区に住む人々、この人々が構成する様々の社会のシステムを調べると、社会のシステムがもつユニットは全て同一の空間的広がりをなす近隣住区を実際に形成していると言えるだろうか>。女史はこの問題に対して<けっしてそうではない>と答えている。女史が調べた社会のシステムはどれもノードのシステムである。これはいくつかのセントラルノードとセンターを利用する人々から成り立っている。女史は特に幼児学校、中学校、青少年クラブ、成人クラブ、郵便局、青果物店、食料品店を選んだ。以上のセンターはいずれも特定の空間的広がり、即ち空間的ユニットに属した人々に利用されている。空間的ユニットとは社会のシステム全体の残余であり、即ちこの論文で扱うユニットとなっている。ワーテルロ−ド住区にもうけられた様々の種類のセンターに対応するユニットが図4に示されている。-(図をクリックすると拡大)
-実線はいわゆる近隣住区の境界である。灰色の点は青少年クラブを、小さな円はクラブの会員が住んでいる地域を表わしている。円形の点は成人クラブで、その 会員の分布する地域が鎖線で囲まれている。白い正方形は郵便局で、点線は利用者のあるユニットを表わす。中学校は白い三角形のついた点で示されている。生 徒と共に一点鎖線で表わされるシステムを形成する。すぐ気がつくように種類の違うシステムは一致しないが、全く無山関係というわけでもない。それらは重なり合う。我々は、29個に便宜的に分けられ近隣住区と称された大きな住居集団をもととしてミドルスボローの現在の姿及び将来のあるべき姿を適切に描くことはできない。我々が近隣住区の見地から都市を考えるとき、一つ一つの近隣住区のエレメントの結びつきは緊密で、他の近隣住区のエレメントとはエレメントの属する近隣住区を媒介として相互に作用するものであると晴に仮定している。ラス・グラス女史はこれが事実に反することを明らかにしたのである。図5と図6はワーテルロー住区についての二つの図である。議論しやすいようにワーテルロー住区を無数の微小部分に分割した。
(図をクリックすると拡大)
図5は微小部分が実際にどのように結びついているかを示したものである。図6は再開発計画に示された微小部分の結びつき方を示している。様々のセンターの流域が同一でなければならぬという理由はまったくない。センターの性格が異なるから、センターによって決められるユニットも異なっている。自然の都市ミドルスボローはセミラチス構造を忠実に表わしている。ツリーの考え方から生まれた人工の都市ではユニットの自然で、正しく、しかも必要な重なり合いが壊されている。
同様なことは小さなスケールでも見られる。車と歩行者の分離をとりあげてみてもル・コルビュジエ、ルイス・カーン(*)その他多数の人々がツリーの考え方を提案している。-
*ルイス・カーン一九〇一〜一九七四。アメリカの建築家。はじめはル・コルビジェの影響をつよくうけたが、のちに古代ローマの建築やピラネージの版画からヒントを得て、独自の重厚なスタイルを開拓した。フィラデルフィアの都市計画は有名。
-原則的に必要なことは明らかである。路上で遊ぶ子供達の横を時速60マイルで車が通過するのはまったく危険なことである。だがかならずしも賛成しかねる場合がある。社会生態学的な情況ではこれと反対の要求が起る場合がときどきみられる。我々が百貨店から出てくるときのことを想像してみよう。一日の買物で腕はいっばい、のどは渇き妻は足を引きずっている。タクシーが来ないとしたら! タクシーは歩行者と車とが全く厳密に分離されていない場合に機能するわけである。また空のタクシーが客をあさって広大な地域をおおうためには交通の速い流れを必要とする。歩行者はどこででもタクシーを呼んで好きなところへ行くことを必要とする。タクシーをもったシステムでは高速交通システムと歩行者のシステムとが重なり合う必要がある。マンハッタンでは歩行者と串は街の一部分を共有し、必要な重なり合いが確保されている。
(図をクリックすると拡大)
CIAMの(*)理論家達が好きな思想の一つにリクレエションと他のものの分離がある。この考え方は現実にみられる都市の運動場に具現化されている。アスファルト舗装され柵で仕切られた運動場は、<遊び>が我々の心のなかでは独立した概念として存在するという証拠を表わすに他ならない。この考え方は遊びそのものの本質とは無関係である。自尊心の強い子供は運動場では遊ばないものである。遊びそのもの、子供達のする遊びの舞台は毎日変わる。屋内で遊ぶときもあるし、仲良しのガソリンスタンド、空家、川岸、週末で休みの工事現場などで遊ぶときもある。遊びと必要な遊び場は一つのシステムを形成する。このようなシステムが町の他のシステムと切離されて独立に存在すると考えるのは間違いである。種類の異なったシステムが互いに重なり合い、さらに数多くのシステムとも重なり合う。ユニット、即ち遊び場として看なされる具体的な場所も同様でなけれはならない。自然の都市ではどこでも見られることである。遊びはあらゆる場所でおこなわれる。遊びは大人の生活のすき間を埋めてくれる。子供は遊んでいるうちに、まわりの環境に溶けこむ。柵がめぐらされたなかで子供はどうしてまわりに溶けこむことができるだろうか。セミラチスでは可能でも、ツリーでは不可能である。
*CIAM(Congres Inteternationaux d' Archtecture Moderne) 近代建築国際会議。一九二八年に結成。ジークフリード・ギーディオン、ル・コルビジュら、機能主義の建築家が中心人物。
グッドマンのコミュニタスやソレリイのメサ・シティー計画ではツリーの考え方にもとづいて大学とその他の部分を区分しているが前と同様の間違いをおかしている。これは実際にアメリカの孤立したキャンパスなどによく見られる。なぜ都市に境界線を引いて境の内は全て大学、外は全て大学以外のところと決めたがるのだろうか。たしかに明快な考え方ではあるが、現実の大学生活に即応するだろうか。それは本来の大学都市に見られる構造ではない。ケンブリッジ大学を例にあげよう。-
(図をクリックすると拡大)
-場所によってはトリニティー街は事実上はとんどトリニティー・カレッヂと区別がつかない。この通りの横断歩道の一つは全くカレッヂの一部と看なされる。この通りの建物の1階は商店、喫茶店、銀行が占めているが、2階以上は学部学生の下宿となっている。多くの場合、通りの街並がそのまま古めかしいカレッヂの建物群に溶けこみ全く一体となっている。大学生活と市民生活が重なり合うところには酒場の喧嘩、喫茶、映画など様々な行為のシステムがかならず存在する。学部全体が町に住む人々の生活と密接に関連する場合さえある。(医学部付属病院は一つの例である)。ケンブリッジは大学と町がいっしょになって次第に発展した町であるが、ここでは目に見えるユニットが都市と大学両方の重なり合ったシステムの具体的残余となっているから、日に見えるユニットそのものも重なり合っている。
次にブラジリア、チャンディガール、ロンドンのMARS計画、完成して間もないマンハッタンのリンカーンセンターなどの都市のコア一に見られるヒエラルキーについて調べてみよう。リンカーンセンターではニューヨーク市民に供される各種の舞台芸術が一堂に集められ一大コアーを形成している。しかしコンサートホールはオペラハウスの隣りに必要だろうか。コンサートホールとオペラハウスが並んでいると、うまいことでもあるのだろうか。誰が一晩のうちにがつがつと両方へ行ったり、コンサートを聞いた後で別の切符を買うだろうか。ウィーン、ロンドン、バリーでは舞台芸術のセンターはそれぞれふさわしいところにあり、いずれも市民の親しみやすい場所となっている。マンハッタンにおいてもカーネギーホールとメトロポリタン・オペラハウスは並んでいない。それぞれふさわしい場所を占め、独自の雰囲気をかもしている。各センターのある場所は独自の雰囲気がつくられているが、一方他のセンターの影響も受けてそれぞれ重なり合っている。機能が全てリンカーンセンターに集中されたのは、舞台芸術の概念が互いに接しているという唯一つの理由からである。都市とコアーの関係をツリーとして考えても、又このコアー(ツリーのもとになっている)を一義的なヒエラルキーから考えても芸術と市民の関係は明らかにされない。同じ名前のものは同じ容器に入れないとどうしても気がすまないという単純な動機からリンカーンセンターは生まれたものである。
トニー・ガルニエの工業都市に始まった工場と住区の完全な分離は一九三三年のアテネ憲章(*)に結実したが、今ではゾーニングが強調された人工の都市ではどこでも見られ、当然のこととして受け入れられている。だがこれはいつでも正しい原則だろうか。今世紀の初めにみられた悪条件を解決しようとして、都市計画家が汚ない工場を住区から遠ざけようとしたことは承知している。-
*アテネ憲章 CIAMの第四回国際会議で採択された。「都市計画の鍵は以下の四種類の機能にある。居住、労働、休養、交通」に要約される機能主義的な都市計画の要項が首十一項にまとめられている。
-だがまったく切離されたために両方にまたがって生計をたてていたシステムが失なわれてしまった。ジェーン・ジュイコブスはブルックリンのバックヤード・インダストリーの発展について述べている。小さな事業を始めようとする人はまずスペースを必要とし、そのスペースを自分の家のバックヤードに求めるようだ。彼は大きく発展しつつある企業と顧客の仲立ちをしようとしている。このことはバックヤード・インダストリーのシステムが住居地域とエ業地域の両方にまたがっている必要のあることを示している。即ちこの二つの地域は重なり合う必要がある。ブルックリンでは重なり合っているが、ツリーである都市ではそれがない。
(図をクリックすると拡大)
最後に独立したコミュニティーへの都市の分化について調べてみよう。アバークランピーのロンドン計画でみたように、これはツリー構造である。個々のコミュニィーは機能するユニットとしての現実性をもっていない。ロンドンでは他の大都市と同様に家の近くで自分に適した仕事を見つけることはほとんど不可能である。あるコミュニティーに住む人々は別のコミュニティーの工場で働いている。労働者・職場のシステムが無数に存在し、それぞれ人と勤める工場から成り立っている。このシステムはアバークランピーのツリーが決めた境界からはみでている。境界をはみだすユニットの存在、ユニットのもつ重複性は、ロンドンのリピング・システムがセミラチスを形成していることを物語る。都市計画家の心のなかでのみそれらはツリーになっている。我々が今までこれを具体的に表現できなかったという事実は重要な意味をもつ。労働者とその職場が別の行政区域に属している場合、職場を含む方のコミュニティーは多額の税収入を得るが、歳出は少ない。一方労働者が住んでいるコミュニティーは主として住居区であれば税収入も多くないのに、学校病院などに余分の金がかかる。この不公平を解決するためには、労働者・職場のシステムは、課税できる都市の具体的ユニットとして固定されなければならない。大都市の個々のコミュニティーは住民の生活のなかでなんら機能的な重要性をもたないが、コミュニティーはまだ最も便利な行政単位であり、従って現在のツリーの構造のまま残すべきであるという意見もある。しかし現代都市にみられる複雑な政治機構のなかでは疑問である。最近出版された"Political Influence"(政治勢力)という本のなかで、エドワード・パンフイールドはシカゴで実際に活動している施政の機構について詳しく述べている。役所の管理機構は典型的なツリー構造をしているが、新たに都市の問題が発生したとき、関係者が集まって自然にできる個別の組織にくらべると全く影がうすい。このような個別の組織は一つの問題に関心をもち、利害関係にあり、あるいは取引をして利益を得ようとする人々から構成されている。形式的な機構の枠のなかにつくられた自由な組織が実際の大衆と結びついている。次々と問題が移り変わるにつれて、この機構も週毎に、時間毎に変化する。各人の掌捏範囲が全て決められているので、問題が変化してゆくにつれ担当者も変わるのである。市長室にかけられた組織図はツリーであっても、実際の施政機構はセミラチス構造である。
ツリー状思考の根本
ツリーは思考法として秩序だっていて美しく、複雑な全体をユニットに分割するという単純で明快な方法をもたらしてくれるが、自然に出来上がった都市の構造を正しく表わさないし、我々が必要な都市の構造も措いてくれない。自然の構造はかならずセミラチスをなしているというのに、多くのデザイナーが都市をツリーとして考えるのはなぜだろうか。ツリー構造が都市に住む人々に本当に役にたつと信じてわざとそうするのだろうか。それともツリー構造とせざるを得ない理由があるのか。思考法の習慣、多分人間の頭の働きそのものの落し穴だろうが、この落し穴にかかっているのが原因だろう。デザイナーは複雑なセミラチス構造を考えやすい形におきかえることができないから、ツリーに見えるときはいつでもツリーにしてしまう傾向があり、又ツリーの考え方をどうしても脱しきれないからなのだろうか。ツリーが提案され都市として実現されているのは二番目の理由からであることを証明しよう。即ちデザイナーは直感的に把握できる能力には限界があり、一度の思考では複雑なセミラチスを理解できない。
一つ例をあげよう。次の四つのものを頭にうかべるとしよう。オレンジ、メロン、フットボール、テニスボール。この四つのものを頭に、即ち心の目にどのようにして留めておくだろうか。いずれにしてもそれらをグループに分けて記憶するであろう。オレソジとメロンの果物を一組とし、フットボールとテニスボールの二つのポールを一組とする人もいるだろう。なかには形状が似ているという理由で前とは違ったグループ分けをする人もいるだろう。即ち小さな球形をしたオレンジとテニスボールを一組とし、大きな玉子形をしたメロンとフットボールを一組とする方法もある。両方に気がつく人もいるだろう。グループ分けは一つ一つ見ればツリー構造である。二つが合わさるとセミラチスとなる。図10。_
(図をクリックすると拡大)
四つのセットは重なり合っているので、二通りのグループ分けを具体的な図式に表わそうとしても、四つのセットを同時に頭に描くことはできない。セットを一組ずつに描くことはできる。又この二組を交互に素早く描くこともできる。あまり素早くできるので二つを同時に頭に措けると錯覚しやすい。だが実際四つのセットをいっしょに一度で描くことは不可能である。セミラチス構造を一度の思考操作で形に表わすことはできない。一度の思考操作ではツリーを措くことしかできない。これは我々デザイナーが直面している問題である。我々はかならずしもー度の思考操作で全体像を描きたいと思っているわけではないが、結局は同じことになる。ツリーは頭に描きやすく扱いやすい。セミラチスは描きにくく、従って扱いにくい。
グループ化とカテゴリー化は最も初歩的な心理学的プロセスであることはよくしられている。現代の心理学では思考ということについて、既に頭のなかにあるスロット(区切り)やピジョンホール(整理棚)に新しい状況を適合させるまでの過程と考えている。具体的な事象をそのまま心理学でいうピジョンホールにおさめることができないように、アナロジーを用いた思考過程では一つの心理学上の概念をそのまま心理学的カテゴリーに分類することはできない。このような思考過程をたどる本当の理由を調べてみると、遭遇する様々の事象の問に障壁をつくって、複雑な問題をできるだけ簡単にしてしまわなければならない人間の思考能力に原因がある。内部でセットが重なり合う都市のような構造を結局ツリーとして考えるのは、混沌とした状況に含まれる曖昧さや重複を整理しようとする人間の頭の働き、又曖昧さを嫌う性格にもよるものである。同じような潔癖さは具体的な図形の認識の仕方にも表われる。ハーバード大学におけるホッジンと私が行った実験では、内部のユニットが重なり合った図形を人々に見せたが、図形をセミラチスとして考えた方が全体をとらえやすい場合でさえ、図形をツリーと看なす方法を発見してしまうのであった。フレデリック・バートレット卿の実験では基本的な図形でさえツリーとして考えてしまう人々の驚くべき傾向が証明されている。卿は人々に一つの図形を1/4秒見せて見たままの図形を描かせた。数多くの人々が自分の見た複雑な図形全体を把握することができず、重なり合いを無視して図形を単純化している。図11は上に示された図形を間違って記憶した典型的な例である。-
(図をクリックすると拡大)
-間違って記憶された図形では円が他の部分から切離され、三角形と円の重なり合いは無視されている。以上の実験によれば複雑な構造のものに出会った場合、人はユニットが重複しないものと心理的に歪曲して考える強い傾向のあることがわかる。セミラチスの複雑さが単純でわかりやすいツリーの形に置きかえられている。
そろそろあなたはツリーではなくセミラチスである都市が一体どのようなものになるのかと思っているでしょう。残念ながら私はまだプランやスケッチをおみせすることができません。しかし実際に重なり合いがおきる実例を示すだけでなく、この重なり合いが適切なものでなければならないことを強調しておきたい。これはきわめて大切である。なぜなら重なり合いはなかなか魅力があるので、作意的に重なり合いがおきるようなプランをつくりやすい。即ち最近の高密度の<活気に満ちた>都市計画に見うける誤りである。ごみ箱でも重なり合いに満ちている。構造が形成されるためには正しい重なり合いを必要とする。我々が必要なのは歴史的な都市に存在する古い重なり合いとは違ったものである。機能の結びつき方が変化するにともない、複雑な結びつきを受けいれるために重なり合いを必要としていたシステム自体も変化しなければならない。歴史的な重なり合いを再生しても構造は形成されず、混乱を招くにすぎない。現代都市がまさに必要とする重なり合いを理解し、必要な重なり合いを具体的、可塑的な形に置きかえる研究が現在進行している。未完成なうちに充分検討されていない構造を簡単なスケッチで発表しても役にたたない。しかし私は重なり合いの具体的な結論を一つのイメージによってわかりやすくさせることはできる。図12に示された絵画はサイモン・ニコルソンの最近作である。-
(図をクリックすると拡大)
-この図はいくつかの単純な三角形のエレメントから構成されているが、エレメントが様々に結合して絵の大きなユニットを形成するところに魅力がある。もしこの絵に見られるユニットを全て調べると一つの三角形はどれも四つか五つの全く種類の違ったユニットに含まれていて、どのユニットも他のユニットの一部になることはなく、重複する部分は全て三角形におけることがわかる。三角形に番号をつけ、視覚的に強くユニットと感じられる三角形のセットを拾い上げると図13に示されるセミラチスが得られる。-
(図をクリックすると拡大)
-3・5はいっしょになって長方形をつくるから一つのユニットであり、平行四辺形となる2・4、二つとも暗色で同じ方向を指している5・6、互いに他の平行移動した6・7、互いに対称である4・7、長方形をつくる4・6、Z字形をなす4・5、細長いZ字形をなす2・3、正反対の頂点にある1・7、長方形をなす1・2、5・6と同様一つの方向を指す3・4、又5・6の中心をはずした対称となる3・4、4・5 を挟む3・6、2・3・4を挟む1・5などいずれもーつのユニットを構成している。私は二つの三角形から成るユニットをあげたにすぎないが、ユニットが大きくなればそれだけ複雑になる。白地の部分はさらに複雑で明確なエレメントに分けることができないので、この図には示されていない。この絵が意味があるのは絵に重なり合い(重なり合いのある絵は数多い)があるためではなく、重なり合い以外はなにもないからである。この絵を魅力的にしているのは重なり合いの事実とこの形がもつ多様な見方である。あたかもこの画家は重なり合いを構成を豊かにする原動力として積極的に試みているようである。私がとりあげた人工の都市はいずれもニコルソンの絵に見られるようなセミラチス構造ではなく、むしろツリー構造をなしている。これは絵画であるが、これと同様のイメージが我々の思考手段となるはずである。正確を期する場合、現代数学の一分野となっているセミラチスはこのようなイメージのもつ構造を解明するために非常に役立つ。
我々が追求しなければならないのはセミラチスであってツリーではない。
我々がツリーを考えているときは、デザイナー、都市計画家、行政当局、開発業者だけに適合のよい観念的な単純さを求めるあまり、生々とした都市にそなわった豊かな人間性を失なっているのである。都市の一部が破れるごとにツリーが以前そこにあったセミラチスにとってかわり、都市は次第に崩壊へとむかう。どの有機体においても過度の区画化と内部のエレメントの分裂は分袖が近づいた最初の徴侯である。社会にたいして分裂は謀叛である。人においては分裂は精神分裂症で自殺に至る徴侯である。全市にわたる分裂の悪い例はアリゾナのサン・シティーに見られる。ここでは老人のための殺風景な町が出現し、隠居した老人は隔離され、人々の都市生活とは切離されている。このような分裂はツリーのような考え方をしなければ起り得ない。この町の分裂は若者と老人の交わりを奪うだけではなく、悪いことに個人の生活のなかにも同じような分裂を起している。サン・シティーへ行き老人の町へ入ると、あなた自身の過去との結びつきは意識されなくなり、失なわれ、やがて隔離されてしまう。あなたの青年時代はもはや老年には生きておらず、この二つは分解し、人生も二つに断ち切られてしまうのである。ツリーは複雑な問題を考えるためには最も安易な思考手段である。しかし都市はツリーではありません。ツリーにもなりませんし、ツリーにしてはなりません。都市は生活の容器です。もしこの容器がツリーを構成し、ここで営なむ生活のはしばしの重なり合うことが制限されるとしたら、この容器は押しっけられるものはなんでも切り落してしまうカミソリの刃をつけたボールのようなものになるだろう。こんな容器のなかでは生活はこまぎれにされてしまう。もし我々がツリーである都市をつくるとしたら、まさに我々の生活はばらばらになるにちがいない。 (「デザイン」一九六七年七、八月号所載)
(C)1965 Christopher Alexander
初出:"Architectral Forum"(1965.4,5)。一九六五年度カウフマン国際デザイン賞受賞 ル・コルビジェに代表される近代主義的なツリー型の都市デザインにたいして、豊かな人間性を内包するセミラチス型の都市デザインを提唱した画期的な論文。近年は、ドゥルーズ=ガタリのリゾームとの相同性が指摘され、テクスト理論の領域からも注目されている。
4 Comments:
転載ありがとうございます.
気付いた誤字につきまして,下記に示します.
* 4.東京計画
> メディアムループの一つほ鉄道の駅であり、
→メディアムループの一つは鉄道の駅であり、
* 5.メサ・シティー計画
> はるかに豊かな構造
→ほるかに豊かな構造
* 6.チャンディガール
> 二つの競合して発展するコマーシャルコアーほ南北屯走る主要幹線道路沿いに伸びている。
→二つの競合して発展するコマーシャルコアーは南北に走る主要幹線道路沿いに伸びている。
* 7.ブラジリア
> 全体の形ほ中心軸に対して左右対称であり
→全体の形は中心軸に対して左右対称であり
* 8.コミュニタス
> 四番目がオープンな田園でふめる。
→正解不明.
* 9.
> 彼ほローマ時代の都市のなかには、
→彼はローマ時代の都市のなかには、
> 例えばコロンビア計画やスタイン計画ほ現実の社会にあてはまらない。
→例えばコロンビア計画やスタイン計画は現実の社会にあてはまらない。
> だがこれほ全く非現実的である。
→だがこれは全く非現実的である。
> 次にその友達一人一人打二番親しい友達の
→次にその友達一人一人に一番親しい友達の
> これほいくつかのセントラルノードと
→これはいくつかのセントラルノードと
> 円形の点ほ成人クラブで、
→円形の点は成人クラブで、
> 全く無山関係というわけでもない。
→全く無関係というわけでもない。
> 晴に仮定している。
→暗に仮定している。
> 一日の買物で腕はいっばい、
→一日の買物で腕はいっぱい、
> また空のタクシーが客をあさって広大な地域をおおうためにほ
→また空のタクシーが客をあさって広大な地域をおおうためには
> タクシーをもったシステムでほ
→タクシーをもったシステムでは
> マンハッタンでは歩行者と串は街の一部分を共有し、
→マンハッタンでは歩行者と車は街の一部分を共有し、
> 自尊心の強い子供ほ
→自尊心の強い子供は
> 遊びほあらゆる場所でおこなわれる。
→遊びはあらゆる場所でおこなわれる。
> ウィーン、ロンドン、バリーでほ
→ウィーン、ロンドン、バリーでは
> 今ではゾーニングが強調された人工の都市でほどこでも見られ、
→今ではゾーニングが強調された人工の都市ではどこでも見られ、
* アテネ憲章
> 首十一項にまとめられている。
→正解不明.
> ジェーン・ジュイコブスはブルックリンの
→ジェーン・ジェイコブスはブルックリンの
> ロンドンのリピング・システムが
→ロンドンのリビング・システムが
> エドワード・パンフイールドは
→エドワード・パンフィールドは
> 自然の構造ほかならずセミラチスをなしているというのに、
→自然の構造はかならずセミラチスをなしているというのに、
> 即ちデザイナーは直感的に把握できる能力にほ限界があり、
→即ちデザイナーは直感的に把握できる能力には限界があり、
> オレソジとメロンの果物を一組とし、
→オレンジとメロンの果物を一組とし、
> フットボールとテニスボールの二つのポールを
→フットボールとテニスボールの二つのボールを
> 心理学的カテゴリーに分類することほできない。
→心理学的カテゴリーに分類することはできない。
> 我々が必要なのは歴史的な都市に存在する古い重なり合いとほ違ったものである。
→我々が必要なのは歴史的な都市に存在する古い重なり合いとは違ったものである。
> 歴史的な重なり合いを再生しても構造ほ形成されず、
→歴史的な重なり合いを再生しても構造は形成されず、
> この容器は押しっけられるものは
→この容器は押しつけられるものは
セミラティスについてはこんなページがありますよ。
http://orange.zero.jp/kuma.wing/miscellany/semi-lattice.html
磯崎新経由で柄谷が論じて以来、あまり言及されていなかったこの論文が、最近また注目されている。
2010年、磯崎が浅田彰らとの鼎談で言及し、思想地図βでも基礎教養といて論じられていた。
ただ柄谷の紹介の論旨ではアレクサンダーはツリー状の思考を捨てたわけではないと言うのが眼目である。
セミラティスはツリーを組み合わせて制作されるのだから。
今日ではツリー状の都市をwebなどで補完することでセミラティスを作っているのが実情だろう。
追記:
邦訳が再刊されるようなことがあれば
この記事は削除させていただきます。
>etoさま
遅ればせながら誤記を訂正させていただきました。
(完全に直っていないかもしれませんが)
ご指摘ありがとうございました。
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