流される僕たち
先日、経済産業省の産業人材政策室というところでグループインタビュー/ディスカッションの企画・進行を担当させていただきました。
テーマは「社会変化と若者の就労意識」について。
現役の学生や転職活動中の社会人など様々な立場から「就労」を控える若者に集まっていただき、省のお役人の方々も交えてざっくばらんな議論でその意識の変遷と核心へのアプローチを試みました。
最も白熱した議論は、就職にも就職活動にもそしてそれに備える大学生活そのものにも非常に強い「流れ」が存在しているというものです。
その「流れ」から抜け出し冷静かつ客観的に自分をハンドリングするには、あえてマイノリティを体現すための過剰な努力と覚悟が必要なようです。
何より恐ろしいのは、この「流れ」というものは目標や目的、場合によってはそれらを含む「意志」そのものを代替してくれてしまうということ。
これでは、「悩む」ことはおろか「考える」ことすら“免除”されてしまいます。
この場でも度々指摘してきましたが、それでも社会が個人を育み豊かにしてこれたのは著しい経済成長(モデル)が続いていたからでしょう。
しかし今、成熟し飽和しきったこの国で、その先に待ち受けるものは途方もない戸惑いと虚無感です。
それが明らかであってなお、僕たちは流され続ける…。
とはいえ、変化の激しい社会環境の中では過度な目的指向や計画偏重になるのも危険なのです。
流れを感じ受け入れながらも、この脚で起たなければならない。
僕たちは、そんな非常に難しい時代に生きているのです。
2010年12月21日
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時代の呪縛を超えて
この秋口は、自己PRや自己成長に関するセミナー講師を何度か担当させていただきました。
やはり重要な切り口となってくるのは、成熟・飽和した現在の社会構造と個人形成との関係です。
この間、大学時代の恩師と久しぶりにお話しさせていただく機会がありました。
先生が、
「自分の教え子で優秀だなぁと思っていたやつも、社会にでるとどうも会社や組織に自分を“フィット”させようとしてしまい、自分の成長や可能性を限界づけちゃうんだよね…」
とおっしゃっていたのが非常に印象的です。
僕たちは常に社会や所属する組織から「役割」や「期待」を受け取り、それに応えようとするプロセスを通して自分自身を「社会化」していきます。
ちゃんとした教育を受けてきている若者ならなおさらです。
これまでの日本社会は、「役割」と「期待」に従順な人材を大量かつ画一的に養成・排出することで著しい経済成長を遂げてきたと言えるでしょう。
つまり、社会全体が個人に「あるべき姿」や「あり方」を強いてきたわけです。
当然、それに応じることへの報酬も十分でした。社会の成長・発展に伴い個人の暮らしも目に見えて豊かになっていったわけですから。
しかし、見てのとおり日本の社会は完全に成熟・飽和して、これからは全く新しい個人形成・自己成長のあり方を考えていかなければいけません。
そこでどうも気になるのは、従来の社会における若者への教育方針や諸々の文化(もっと言うなら個人形成システム)が、今日の社会にそもままへばりつくように残っていて時代の変化に対応できていないのではないか?ということです。
例えば、終戦の翌年、日本全土が焼け野原という中に生まれ、貧しさから脱し豊かさを獲得することが全てだった時代を生き抜いてきたという方が今の日本のリーダー(総理大臣)を務めているわけですから。
しかし僕たちは、そんなもう決して著しい成長は見込めない社会の中で自分自身を成長させていかなければなりません。
まずは自分自身がどう「ありたい」か、時代の呪縛を超えて素直に正直に自己との対話を重ねていくことが大切なのではないかと感じます。
2010年10月17日
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「じぶん」をめぐる冒険
先週末は先日ご案内差し上げた就業支援系NPO「育て上げ」ネットさん主催の女性向けキャリア・ワークショップ、そして翌日には、昨夏の民主党広報企画のお仕事以来親しくさせて頂いている鈴木けんぽう渋谷区議会議員が主催する社会人向け勉強会のファシリテーターを務めさせて頂きました。
それぞれの議論の中でも、今日の激しい社会変動の中、とりわけ「じぶん」を取り巻く環境との向き合い方・付き合い方は劇的に難しくなりつつあると痛感します。
例えば現クールの大河ドラマ「龍馬伝」でも舞台になっている武家社会などにおいては、農家に生まれれば一生身分の低い農民(※あくまで当時の社会的階級)としての暮らしが続きます。
現代でいう高校・大学といった機関での高度な教育など受けることはできませんし、仕事も一生農業です。その他の選択肢や可能性はほとんどありません。
特に女性においては、親族の決めた相手と結婚することがほとんどで、後は10人近くの子供を生み(3歳未満で死亡することがほとんど)、育て、農家の嫁として一生をかけて家事に尽くします。
「じぶん」とは何者か…?、そんなものは社会システムが強制的に決定・管理していました。
当然暮らしへの不平・不満は多々あったでしょうが、現代人特有の自己への迷いや喪失感といったものなどはほとんどなかったものと推測されます。
一方現代の日本社会では、比較すれば女性に対して学びの機会や働く場は限りなく平等に提供され、かつはるかに自由なものとなっています。
しかし今日ではそれらはあまりに多様化し、そして変化も激しく、その中で自己を柔軟にかつ自律的に形成・確立していくなどというのはあまりに困難なことです。
あまりに膨大な選択肢と限りない可能性のあまり、「じぶん」とは何かを見失ってしまうのは当然のことかもしれません。
では、一体何が僕たちをかたどっているのでしょうか?
社会的なパーソナリティ(人格)形成には、他者から受ける役割期待(他者との相互関係において認知された自分の役割とそれに寄せられる暗黙の期待)が大きく影響すると言われています。
ある参加者からこんな発言がありました。
「小学生の時、私はドッヂボールでいつも外野担当でした。」
そんなこと別に今更…なんて思うかもしれませんが、「じぶん」を限界づけているものはそういったこれまでの何気ない日常から受け取り蓄積してきてしまった役割期待だったりするのです。
こうした思い込んだ自分が、今日の多様で複雑な社会環境では明日への目隠しにすらなってしまっているのかもしれません。
けんぽう議員との勉強会では、参加者は都銀、省庁、外資系コンサル…と各界で活躍するエリート揃い。
そんな中で、社会的に受け取る役割期待と自己概念(自己イメージ)との間に生じる違和感や戸惑いといった「あいまいな感覚」について、まさに“正解のないテーマ”でディスカッションをして頂きました。
役割期待に忠実に、そして社会的に安定した自己概念の取得を少しでも早く…、そんな教育を受け続けてきた僕たちにとって、自分自身に漂う「あいまいな感覚」など口にしていくことはなかなか難しいことかもしれません。
けんぽう議員は会の最後にこうおっしゃいました。
「キリストや釈迦といった時代を切り拓いてきた歴史上の宗教家は、当時の社会では当たり前とされていたことへの疑問や違和感を『あいまいな感覚』のままにしておかず過激に表現・発信していった。その時にはそれはイカれた反社会的行動としかみなされず処刑されたりもしたが、それらは後に新しい世界を創り、そしてまさに標準となっていった。」
今日の成熟社会における劇的変動の中、これまで僕たちをかたどってきた役割期待は非常に流動的なものとなり、またにそれに応え続けるに十分だった旧来の動機づけや社会的報酬も機能しなくなりつつあります(これについては次回以降投稿したいと思います)。
今こそ自らに漂う「あいまいな感覚」を表現すべく、自己経典を綴る時がきたのかもしれません。
そう、それはまさに「じぶん」をめぐる冒険の始まりなのです。
2010年06月03日
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時に自由奔放に
当サイトでもご案内していました通り、先日東大で開催された「研究推進と人材育成のポジティブな関係を考えるフォーラム」でワークショップの企画と当日のディスカッションのファシリテーターを担当させて頂きました。
なぜ当日のファシリテーターまで若新なのか?
「ディスカッションの際に、会場の空気をガラッと変えてほしい」とのことでした…笑
必要あらば、是非若新をご用命ください笑
さて、フォーラムの中で30分×3回ほど参加者同士のディスカッションを促すためのワークショップを行いました。
そして、若新が主に担当したテーマは「研究室運営と学びの主体である学生の気持ちとの関係」。
「気持ち」とは、なんともあいまいな概念です。
参加者のほとんどが大学教員・研究者ということで、このあいまいさをどう取り扱っていくべきか、非常に悩んだところでした。
そこで、そもそもその非常にあいまいな概念である「気持ち」について、結論や正解といった類のものを一切求めずに、参加者間でストレートに話し合い共有して頂くことにしました。
自由度を高めるために、ワークショップに盛り込む要素は限りなくシンプルなものにします。
思いつくままに付箋紙に書き出し、感覚的に貼り出していく…。
重要なのは、ここから意見が少しでも多く飛び出し、様々な視点から参加者同士でフィードバックが行えるということです。
もちろん大切なのは結果であって、これはそのきっかけのハードルを下げたに過ぎませんが、その点では当初の目的を果たすことができたようです。
ちなみに、議論のレベルは参加者が自ずと高めてくれるのです。
必要な要素を細かく整理し、処理し、そして結論や正解に辿り着こうとする作業は、時に合理的に見えて、我々の思考を硬化させ、過去の経験・結果への執着を生み、変化への対応を阻害しかねません。
そしてそれと同じことが、我々が「自分自身と向き合う」際にも起きているかもしれません。
時には、あまり結論や正解を求めず自分自身に対して自由奔放になってみるものでしょう。
そして、出てきた言葉や気持ちを、そのまま受け止め、そこから自分を拡げていきたいところです。
2010年03月26日
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出版プロデュース&共著デビュー
寒い日が続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか?
さて、昨年の頭から継続的にPR戦略や新サービスのプロデュースをさせていただいている学習塾「武田塾」の、カリスマ塾長であり若き起業家でもある林尚弘氏との共著がついに発売されました!
武田塾ではこれまで約一年間、受験生向けのイベントも企画・演出させていただいてきたのですが、今回の本はその内容を軸に対談形成にしたもので、コンセプトの段階からコンテンツの企画・編集、デザインまでトータルにプロデュースさせて頂きました。
超逆転“非常識”勉強法 『まず●●を捨てなさい』
林尚弘/若新雄純 著
(エール出版社)
基本的には受験生向けの本ですが、常識を疑うことの難しさと重要性、そして“非常識”にこそ秘められた本質とその可能性について、若新ワールド的アプローチで展開しつつもかなりわかりやすくまとめられた自信作です。
“非常識”とは、奪われた主体性を取り戻しまさに自律成長へと向かう重要なテーマでもあるのです。
そして、著者のエゴとしか思えない「若新コラム」も中にいくつか掲載されています(笑)。
WEBをはじめ様々なメディアの企画・演出等も手がけさせていただけるようになりました。
今後は出版企画も積極的に展開していきたいと思っています。
今後の「若新プロデュース」にご期待ください!
2010年02月19日
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おっぱいくんの挑戦
PRのお仕事として、「ガン征圧キャンペーン」事業のお手伝いをさせていただいているのだが、先日そのひとつとして乳がん征圧を掲げたピンクリボンイベントが都内で行われ、あの“元祖女性ピン芸人”山田くに子氏とステージでご一緒させていただいた。
ご存知の方も多いかもしれないが、山田氏は何年か前に某番組内で乳がんを発見し摘出に成功されており、以降乳がん征圧に向けたキャンペーン事業に力を入れて活動されている。
そんな山田氏から、私若新大変光栄なことに「おっぱいくん」と命名していただいた。
というのも、初めて山田氏にお会いした際に、
「男子が恋人や女友達に対しておっぱいを心配してあげるのは、女性にとって嬉しいことですか?」
と質問させていただいたところ、
「いや〜、それは嬉しいんじゃないの!?それに、そうやって気遣ってもらえると安心して検診に行ったりできるよね〜。」
というご回答をいただき、
「ということは、僕たちおっぱい好きの男子が女性のおっぱいを守ろうとすることは、強いては女性の命と未来を守ることにつながるんですね!」
と熱烈にお伝えした、ということがあった。
重要なテーマには、きっともっと正面から向き合っていかなければならない。
医療技術や環境が整備されてきても、それを生活文化の中に積極的に取り込んでいく“ひらかれた態度”が非常に重要であると感じてならない。
おっぱいくんの挑戦は、まだ始まったばかり。
2009年10月11日
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