先週末は先日ご案内差し上げた就業支援系NPO
「育て上げ」ネットさん主催の
女性向けキャリア・ワークショップ、そして翌日には、昨夏の民主党広報企画のお仕事以来親しくさせて頂いている
鈴木けんぽう渋谷区議会議員が主催する社会人向け勉強会のファシリテーターを務めさせて頂きました。

それぞれの議論の中でも、今日の激しい社会変動の中、とりわけ「じぶん」を取り巻く環境との向き合い方・付き合い方は劇的に難しくなりつつあると痛感します。

例えば現クールの大河ドラマ「龍馬伝」でも舞台になっている武家社会などにおいては、農家に生まれれば一生身分の低い農民(※あくまで当時の社会的階級)としての暮らしが続きます。
現代でいう高校・大学といった機関での高度な教育など受けることはできませんし、仕事も一生農業です。その他の選択肢や可能性はほとんどありません。
特に女性においては、親族の決めた相手と結婚することがほとんどで、後は10人近くの子供を生み(3歳未満で死亡することがほとんど)、育て、農家の嫁として一生をかけて家事に尽くします。
「じぶん」とは何者か…?、そんなものは社会システムが強制的に決定・管理していました。当然暮らしへの不平・不満は多々あったでしょうが、現代人特有の自己への迷いや喪失感といったものなどはほとんどなかったものと推測されます。
一方現代の日本社会では、比較すれば女性に対して学びの機会や働く場は限りなく平等に提供され、かつはるかに自由なものとなっています。
しかし今日ではそれらはあまりに多様化し、そして変化も激しく、その中で自己を柔軟にかつ自律的に形成・確立していくなどというのはあまりに困難なことです。
あまりに膨大な選択肢と限りない可能性のあまり、「じぶん」とは何かを見失ってしまうのは当然のことかもしれません。
では、一体何が僕たちをかたどっているのでしょうか?
社会的なパーソナリティ(人格)形成には、他者から受ける
役割期待(他者との相互関係において認知された自分の役割とそれに寄せられる暗黙の期待)が大きく影響すると言われています。
ある参加者からこんな発言がありました。
「小学生の時、私はドッヂボールでいつも外野担当でした。」
そんなこと別に今更…なんて思うかもしれませんが、
「じぶん」を限界づけているものはそういったこれまでの何気ない日常から受け取り蓄積してきてしまった役割期待だったりするのです。
こうした
思い込んだ自分が、今日の多様で複雑な社会環境では明日への目隠しにすらなってしまっているのかもしれません。
けんぽう議員との勉強会では、参加者は都銀、省庁、外資系コンサル…と各界で活躍するエリート揃い。
そんな中で、社会的に受け取る役割期待と自己概念(自己イメージ)との間に生じる違和感や戸惑いといった
「あいまいな感覚」について、まさに“正解のないテーマ”でディスカッションをして頂きました。
役割期待に忠実に、そして社会的に安定した自己概念の取得を少しでも早く…、そんな教育を受け続けてきた僕たちにとって、
自分自身に漂う「あいまいな感覚」など口にしていくことはなかなか難しいことかもしれません。けんぽう議員は会の最後にこうおっしゃいました。
「キリストや釈迦といった時代を切り拓いてきた歴史上の宗教家は、当時の社会では当たり前とされていたことへの疑問や違和感を『あいまいな感覚』のままにしておかず過激に表現・発信していった。その時にはそれはイカれた反社会的行動としかみなされず処刑されたりもしたが、それらは後に新しい世界を創り、そしてまさに標準となっていった。」
今日の成熟社会における劇的変動の中、これまで僕たちをかたどってきた役割期待は非常に流動的なものとなり、またにそれに応え続けるに十分だった旧来の動機づけや社会的報酬も機能しなくなりつつあります(これについては次回以降投稿したいと思います)。
今こそ自らに漂う「あいまいな感覚」を表現すべく、
自己経典を綴る時がきたのかもしれません。
そう、それはまさに
「じぶん」をめぐる冒険の始まりなのです。