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原告2人、思い切実 柏崎刈羽原発差し止め

2012年04月18日

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3月25日に一時帰宅した時に撮った画像を見ながら、渡辺さんは「何もなくなっちゃったなぁ」とつぶやいた=新潟市西区

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長男を抱き上げて笑顔になる麻田さん=小千谷市

 柏崎刈羽原発の運転差し止めを求めて「脱原発新潟県弁護団」が23日、東京電力を相手取って新潟地裁に裁判を起こす。原告は約130人に上る見通し。このうち、福島第一原発から十数キロの自宅から新潟に避難した被災者と、線量を独自で測っている小千谷市の僧侶に、なぜ原告として裁判に参加しようと思ったのか、を聞いた。

     ◇

 福島県楢葉町から新潟市西区に避難している渡辺光明さん(59)は「原発事故は、生活や伝統や文化、すべてをひっくり返した。放射能の問題は複雑で根深い」と語る。

 昨年3月11日、福島第一原発から十数キロ離れた自宅近くの畑で地震にあった。地鳴りがし、海近くの集落はすべて津波にのまれた。体育館に避難したが、余震でほとんど眠れなかった。

 翌朝、体育館に役場の人たちがやってきた。10台以上のバスも並んでいた。そこで初めて「原発がおかしくなった」と聞いた。着の身着のままで、いわき市、郡山市、西会津町と避難を続け、3月18日に新潟市の西総合スポーツセンターに避難。その後、アパートに移り、新潟市の臨時職員になった。

 昨年夏と先月、防護服を着て一時帰宅した。脱サラして一昨年に始めたばかりの畑は草や木でぼうぼうになっていた。家からは何も持ち出す気になれず、位牌(いはい)や通帳だけ持ち帰った。

 今後、楢葉町に帰れたとしても、町で作った野菜や米はもう誰も買ってくれないだろう、と思う。「完全な補償」なんてできるのか、ともいぶかる。「こんな事故が起きてもなお、原発はやめようと訴えなければならないことが悲しい」

 弁護団から訴訟に参加しないかと誘われ、いったん断ったが、生の声で訴えたい、と参加を決めた。「東京や大阪という消費地の犠牲になるのはいつも地方だ。補償も謝罪もままならない東電に原発を運転する資格なんてない」

     ◇

 小千谷市の極楽寺の僧侶、麻田弘潤さん(35)は、福島第一原発事故が起きるまで、ほとんど原発の危険性を意識したことはなかったという。中越沖地震の後、柏崎にボランティアに入った。地震で柏崎刈羽原発で火災が起きたが、小千谷に帰れば安全だろうと漠然と考えていた。

 福島の事故で、約200キロ離れた小千谷にまで放射性物質が飛んできたのに驚いた。柏崎刈羽原発からだと30キロ圏内。声を上げなければ、と思った。

 昨年10月、寺の本堂で初めて、放射性物質の勉強会を開いた。11月には勉強会メンバーでガイガーカウンターを購入し、実際に市内の線量を測って回った。側溝や水のたまっている場所でいくつか、比較的、線量が高い場所が見つかった。3歳と5歳の息子が内部被曝(ひばく)していないか、心配になってきた。

 子どもに何かあったら。子どもの世代でまた原発事故が起きたら――。裁判の知識は全くなかったけれど、一市民として参加することにした。「子どもを守ろうと思ったら、当たり前の判断だった」。訴訟と並行して、放射性物質の勉強会や測定を続けていくつもりだ。(水野梓)

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