気象・地震

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ストーリー:自衛隊、目の前の「死」 東日本大震災、10万人の苦悩(その2止) 家族に会わせたい

 <1面からつづく>

 迷彩服にマスク、ゴーグル、ゴム手袋姿。8人は無言で作業を開始する。ブルーシートを張った6メートル四方の空間。特殊な車両から延ばしたホースで水を出す。ていねいに、泥を落としていく。

 昨年3月18日から宮城県角田市の警察署のわきで行われた陸上自衛隊の「遺体洗浄」の現場は、とても静かだったという。自衛隊では初めての任務。マニュアルも、上官からの指示もない。隊員たちは手でさするように水をかけた。1人が背中に手を差し入れると、別の何人かでゆっくり抱くように持ち上げて背中に水を当てる。髪にからまっているのは泥なのか草なのか。それらを溶かしてゆく。

 「ご遺体とは思っていませんでした。『家に帰れるのを待ちわびている方』だと考えていました。お顔をきれいにしたり、警察の検視で傷口が見えやすいようにしたりしながら、『ようやく帰れますね、よかったですね』と心で思うようにしていました」

 遺体の洗浄にあたったのは第3特殊武器防護隊(兵庫県伊丹市)と、第10化学防護隊(10化防隊、名古屋市)。このうち10化防隊を指揮した〓松(あべまつ)尚俊隊長(40)はそう話す。遺体が多すぎて、警察の検視は滞っていた。しかも、一帯が断水となって警察官はひしゃくで体を洗っていた。見かねた陸自が、支援することになった。

 遺体は日を追うごとに損傷が激しくなり、ノズルの水圧を弱めなければならなくなった。においもきつくなったが消臭剤は使えない。そのにおいが、あとになって任務の記憶を呼び覚ますためだ。

 「男女の区別もできなくなったご遺体もありましたが、赤ちゃんを抱いたままというお母さんのご遺体が運ばれて来て……人生これからなのにと思って気の毒で気の毒で……」

 私(滝野)は30年前、防衛大学校を卒業した。自衛隊の取材を長く続けてきたが、大震災後3カ月ほどした昨年6月、同期の陸自幹部から突然、電話があった。救援活動の中心にいた彼は「マスコミの自衛隊報道は皮相だ。よくやったとか頑張ったとかではない、本質を書いてくれ」と言う。私は全国の部隊取材を始めた。そして隊員たちが初めて本格的に「死」に向き合ったことを知る。それが彼の言った「本質」かどうかは分からない。

 10化防隊は連日、同じ任務に追われた。精神的にボロボロだった。限界寸前の状態だったときにたまたま水道が復旧。11日間で任務は終わった。10化防隊は初日に61体、計318体の遺体を洗い清めた。

 自衛隊は、見つかった遺体の6割に当たる約9500体を収容し、搬送した。同隊のように洗浄のほかに、土葬を手伝った部隊もあった。

 遺体の扱いについて、防衛省陸上幕僚監部(陸幕)内では、激論が交わされた。「搬送に使うより、人手は他の任務に回したい」という慎重意見がある一方で、第10師団(名古屋市)を率いた河村仁師団長(57)=陸将=は「警察官たちが本当に困っていました。我々がやらなかったら誰がやるのか」と主張、決断した。河村師団長は第10高射特科大隊(愛知県豊川市)を「搬送専門部隊」に指名した。発見された遺体を早く家族のもとに返したいと考えたからだ。同大隊幹部の福田隆志3佐(39)はこう話す。

 「大隊長からは『けがをした患者を搬送する要領でやれ』と命じられました。車には頭から乗せ、降車時は必ず足から。線香とか清めの塩は一切、使いません。発見されたご遺体に、大隊長は『よかったー。これでご家族に会えます。本当によかった』と声を掛けていた。隊員たちも心の中ではそう声を掛けていたと思います」

 陸自は「ご遺体収集に携わった方へ」という文書を作成していた。こんな一文がある。<ご遺体はあくまでご遺体であって、もう生きてはいないことを、自分の中で言い聞かせてみるのも一法です。これは、必要以上に動揺しないためなので、業務終了後、そのような距離感をとったことに対して、決して自分自身を責めないで下さい>

 つまり、組織としては遺体と距離を置くことを示達していた。だが、現場の部隊では搬送部隊も洗浄部隊も「生きている人」として向き合っていた。私は想像する。部隊長はあえて、大声で「よかったねー」と呼び掛けたのだと。静まり返った被災地に立ち尽くす隊員、そして作業を見守る住民、遺族らに聞こえるように。そうして喪に服する空間を仮構した。そうするしか、なかったのだ。

 戦後、日本では「死」というものは遠ざけられてきた。高度成長期をへて核家族化が一段と進み、人は老いて死ぬという当たり前のことが見えにくくなった。地域を挙げて行われていた「葬儀=弔い」は、ほとんどが業者に委ねられる。在宅での臨終を望んでも、8割が病院で亡くなっている現実がある。

 今回、東日本大震災の被災地でも、遺体にほとんど接したことのない若い隊員たちが活動していた。老若男女が、悲しみ、苦しみ、驚き、無念、さまざまな表情を浮かべている。死が、最も不幸な形で目の前にあった。そばでは遺族たちが声を上げて泣いている。自分たちが責められているような感覚が隊員たちの心を責め立てた。対策として自衛隊は3月末から「解除ミーティング」をはじめとするメンタルケアを実施した。

 「災害派遣における隊員指導の手引」という別の陸自文書には同ミーティングについてこうある。<悲惨な状況の体験や感情を同じ現場で活動したグループで話し合い、共有する><話すことでストレスを軽減することが可能>。さらに<急性ストレス障害は人間の自然な反応であり、病気ではない>などと専門的な記述もある。

 陸自が解除ミーティングを初めて導入したのは、実は、03年末から始まった人道復興支援のためのイラク派遣の際だった。宿営地への迫撃砲攻撃も受けて極度のストレス環境下に置かれた隊員たちに、胸の内を吐き出させる“冷却期間”を置いたあと帰国させた。

 あのとき、初めての「戦地」派遣を機に、自衛隊は変わった。隊員が命を失う事態を想定し、その本質的な意味を組織を挙げて検討した。国を挙げての葬儀が可能か模索し、エンバーミングと呼ばれる遺体の保存・修復の研修も積ませた。戦場ストレスを主眼に置いたメンタルケアを充実させたのは、その結果の一つ。こうした準備があったから、自衛隊は今回、被災地で早期から「心の対策」が取れたのだといっていい。

 ただ、被災地に派遣された隊員たちは、まだ戸惑いの中にあった。最新の知見を基にしたケアの指示があったとしても、実際に死と向き合った隊員たちは、一人の人間として悩み苦しんだ。

 「これまでは『士気を高める』のが指揮官の仕事だと思っていました。でも、今回の洗浄任務は真剣にやればやるほど、心のダメージを負いそうな気がしました」

 10化防隊の〓松隊長は振り返る。解除ミーティングも実施したが、効果がみられない隊員もいたという。心の問題は複雑で、ケアは簡単ではない。

 自身、夢をみる、という。あのときみた、一人の遺体がごろんと横たわっている光景。ただ、それだけの夢。半年以上たっても涙もろい。取材中何度か、大きなため息を聞いた。当時のしんどさを思い出したのか。私は思わず、「つらいなら話さなくていいです」と言ってしまった。事実を聞き出す取材者としては失格かもしれない。ただ、ひと回り年長の人間として心配が先に立った。大丈夫です、と指揮官は言った。

 「あのとき、つらかったのか、悲しかったのか……ちょっと違います。何というか……心が痛い経験を8人みんなでした。家族のように一緒に共感しながら、立ち直るきっかけをつかんだのだと思います」

 ◇被災隊員、妻子より任務

 4775人--陸自第22普通科連隊(宮城県多賀城市)の隊員約900人が救助した被災者の人数である。東日本大震災における全自衛隊救出数の4分の1に当たる。それは、半数が宮城県、94%が東北6県の出身である隊員たちの、「郷土部隊」としての気持ちの表れでもあった。

 休暇中だった独身の1曹(特別昇任)が殉職した。急いで駐屯地に向かう途中、津波に遭った。遺体を発見したのは仲間の連隊員なのに、身元確認に1週間かかった。それだけ彼らが現場に急いでいたからだった。

 さらに、彼らは自衛隊部隊がこれまで味わったことのない苦悩を体験したとされる。最初の数日、ほとんどが自分の家族の安否を確かめられなかった。國友昭連隊長(49)はこう語る。「発生から72時間が勝負でした。この間にどのくらい救えるか。隊員たちは死力を尽くしてやってくれました。ただ、その間、彼らは家族の安否が心配でならなかったと思います」

 同連隊の多賀城駐屯地には、大地震発生から73分後に津波が来襲した。周辺に住んでいる隊員の家族も被災した。しかし、國友連隊長は救命活動を優先させた。安否確認のための帰宅を隊員に許可したのは、5日目の3月15日になってからだった。

 1枚の印象的な写真がある。溶けた雪で黒灰色にぬれた同駐屯地2号隊舎の屋上で、20人近くの隊員が、てんでんばらばらに携帯電話をかけている。いらだたしげにメールを打つ隊員もいる。ぼうぜんと津波の襲来を見ていたとき、誰かが「家族に連絡しろ!」と叫び、魔法にでもかかったように一斉に電話をかけ始めたのだった。その光景を、広報の大越晃一朗2曹(35)がたまたま撮っていた。大越2曹自身、妻からのメールの返信を待ち焦がれていた。

 自衛隊の東日本大震災救援活動では、何千、何万という写真が撮られている。防衛省のホームページでも見られるし、りりしく、勇ましい表情を載せたグラビア特集もたくさんある。しかし、この写真は、夫として、父としての不安をものの見事に切り取っている。私は胸が痛くなった。広い屋上にいる全員が、報道陣の前では絶対に見せない無防備な姿をさらしている。そして数時間後、彼らはそのまま、人命救助に散った。

 警察官も消防士も、そのほかの公務員も、今回の被災地では、公務との兼ね合いで同じような悩みを持ったことだろう。彼らの多くが与えられた任務、あるいはそれ以上のことをこなしたはずだ。

 一方、自衛隊は、数年、数十年に一度あるかないかの国土侵略やテロ、大規模災害に備えて、訓練に明け暮れている。とはいえ、駐屯地丸ごと被災して、彼らは人命救助に有効な72時間、家族への思いを断ち切らなくてはならなかった。このような過酷な状況下における活動でしか、存在意義を示せない宿命におかれているからだ。そうした彼らの精神構造は、自衛隊という組織に身を置いた者にしかうかがいしれないのだろう。

 22連隊には2度取材に行った。再訪問した今年2月、國友連隊長は震災発生直後から伸ばしたひげをそっていた。昨年7月、宮城県石巻市の捜索終了に合わせてそったという。彼は問わず語りに「郷土部隊の苦悩」について話し始めた。A4の紙の束を胸に抱き、これ私の宝物なんです、と言った。隊員たちに無記名で書かせた活動所感だった。

 ある隊員は「辛(つら)かったこと」としてこう書いた。<3歳の息子に「地震、大丈夫だった?」と聞いたら、「怖かった。だって、パパ助けてくれないんだもん」と言われたこと。地震発生日、最初に向かった場所が自宅まで100メートルの所だったが、任務優先なので、家の被災状況を確認できないまま作業していて、正直、精神的に辛かった>

 自宅のすぐ近くまで行きながら、彼は思いとどまった。そしてやっとの思いで再会した時、3歳の子に「パパは助けてくれなかった」と言われた。彼の絶望を思う。

 別の隊員はこう告白する。<携帯で連絡がとれた時の妻の「助けて……」という寒さと恐怖が入り交じった震え上がった心の底からの悲痛の叫びを聞いた瞬間、私の中で迷いというか、このまま部隊を出て、1分1秒でも早く妻の所へ飛んで行きたいと思いました>。家族より、国民なのだ。組織はそれを要求した。その後、妻の無事が確認できて、やっと彼は折り合いをつけたのだろう。だから、本音を連隊長にぶつけられた。そして、國友連隊長にとって所感集は宝物になった。

 元防大生の私は、いま戸惑っている。

 30年前に卒業したときは、まさか自衛隊が海外派遣されるとは思いもしなかった。冷戦後の国際情勢の変化に合わせて、その役割も変容を迫られた。20年前、92年に陸自部隊が初めてカンボジアPKO(国連平和維持活動)に出たあと、03年からのイラク人道復興支援活動で「戦地」での活動まで経験した。カンボジアもイラク派遣に際しても、憲法論議を含めて国会は大もめにもめた。ところが、今年は遠くアフリカ大陸の南スーダンPKOに部隊を出しているのに、国会ではほとんど議論されなかった。海外派遣は、日常化してしまった。

 自衛隊は海外での厳しい環境での経験を積み重ねながら、徐々に究極の試練としての「死」を組織として内在化させてきたのだろう。近しい人の死を、現実の問題として想定し、受け入れる努力を続けてきた。そのさなかに、東日本大震災が発生した。海外に出る、いわば選抜された部隊ではなく、10万人という定員の半数に当たる隊員たちが、部隊丸ごとそのまま、死と直面したのだった。(肩書は当時)

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 ■今回のストーリーの取材は

 ◇滝野隆浩(たきの・たかひろ)(社会部編集委員)

 83年入社。サンデー毎日などを経て、現職。防衛省・自衛隊取材経験が豊富。著書に「自衛隊指揮官」など。アンカーとして本原稿をまとめた。

 ◇鈴木泰広(すずき・やすひろ)(社会部)

 96年入社。警視庁、中部本社経済担当を経て、11年4月から防衛省担当。

毎日新聞 2012年4月22日 東京朝刊

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