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第2部・迷走(3)怠慢/ヨウ素被ばくを看過
 | 弘前大グループによるヨウ素131の被ばく調査=2011年4月15日、浪江町津島地区(床次教授提供) |
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<安心感得られず> 東京電力福島第1原発事故で福島県浪江町から宮城県に避難する男性(35)は1月、いわき市の病院で家族の体内被ばく量を検査してもらった。幸い長女(6)と次女(3)からは検出されなかったが、安心できない。 「事故当初のヨウ素被ばく量が含まれていないから」と男性は言う。 放射性のヨウ素131の寿命は短い。その量は8日で半分、1カ月で14分の1、3カ月過ぎると2435分の1…。時間がたてば測定機の検出能力を下回り、確認できなくなる。 昨年3月14〜15日、男性の一家は原発の北西約30キロの浪江町津島地区に避難。子どもたちは14日に1時間ほど外で遊び、15日は雨にもぬれた。 浪江町民約8000人が避難した津島地区は線量が高かった。15日夜の文部科学省の測定では毎時270〜330マイクロシーベルト。事故前の数千倍だった。 15日午後、南相馬市に移り、男性と家族が検査を受けると、測定機の針が振り切れた。数値は教えられず、服を洗うよう指示された。 男性は「子どもたちがどれぐらい放射線を浴びたのか分からない。まめに健康検査を受けるしかない」と途方に暮れる。
<「運搬できない」> ヨウ素131はウランの核分裂によってでき、甲状腺に蓄積する。原発事故で環境中に放出された場合、セシウム137(半減期約30年)とともに、最も警戒しなければならない放射性物質だ。 昨年3月末、国はいわき市と福島県川俣町、飯舘村に住む0〜15歳の約1100人を対象に、甲状腺被ばくの簡易調査を実施した。基準を超えるケースはなかったとされたが、実は使用した測定機にヨウ素の量を特定する機能はなかった。 原子力安全委員会は政府の原子力災害対策本部に、甲状腺モニターを使った追跡調査を提案したが、実行されなかった。「モニターは重く運搬が困難」「本人や家族、地域に不安を与える恐れがある」との理由だった。 県は昨年10月、ようやく18歳以下の全県民を対象に甲状腺検査を始めた。これまで異常のある人はいなかったという。 だが、津島地区で避難中に被ばくした人たちの怒りは収まらない。浪江町の紺野則夫健康保険課長は「国や県はわざと検査を遅らせたとしか思えない。子どもたちに、もし(放射線の)被害が出たらと思うと、胸が張り裂けそうになる。許せない」と批判する。 線量が一気に高まった事故当時、一体どの程度のヨウ素を体内に取り込んだのか。今となってはデータ不足のため、推測するしかない。 弘前大被ばく医療総合研究所の床次真司教授は昨年4月12〜16日、津島地区の住民ら62人を対象にヨウ素による被ばく量を測定した。測定機の重さは2キロにすぎない。
<成人最大87ミリシーベルト> 体内に残っていたヨウ素131を基に、1カ月前の3月12日の1日で吸い込んだと仮定して試算すると、甲状腺に与えた放射線の影響(等価線量)は成人で最大87ミリシーベルトにもなった。その数値を1歳児に単純換算すると700ミリシーベルトを超える。もちろん外にいた時間や空中のヨウ素濃度によって、この数値は大きく変わる。 精度を上げるために床次教授はより多くの人を調べようとしたが、調査は5日間だけだった。県からやめるよう求められたという。 線量がピークだった昨年3月中旬のヨウ素の濃度を知るデータは、ほとんど残っていない。床次教授は「追跡調査を行わなかったり、データを蓄積しなかったりしたことがかえって、住民に不安を抱かせる結果になっている」と指摘する。
2012年04月21日土曜日
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