|
第2部・迷走(1)つまずき/張りぼて現地司令塔/通信貧弱、放射線侵入
 | ことし3月に公開されたオフサイトセンター。事故後4日間で撤退に追い込まれ、当時の資料や飲み物が散乱していた=3月2日、福島県大熊町 |
|
|
室内の放射線量を示すパネルを係員が指さした。「あ、あー」。うめき声は、言葉にならない。 東京電力福島第1原発(福島県大熊町、双葉町)3号機建屋が水素爆発した昨年3月14日の夜のことだ。原発の西約5キロのオフサイトセンター(緊急事態応急対策拠点施設、大熊町)には県や経済産業省原子力安全・保安院の職員ら100人以上がいた。 「ここで死ぬのかもしれない」。県相双地方振興局県民環境部の高田義宏副部長も数値を見て、経験したことがない不安に襲われた。 室内は1時間当たり10マイクロシーベルト、建物の外は800マイクロシーベルト。外に2時間いるだけで、一般の人の年間許容量(1ミリシーベルト)を超える猛烈な線量だった。
<関係者集まれず> 原子力緊急事態宣言を受け、高田副部長がオフサイトセンターに向かって振興局(南相馬市原町区)を出たのは、11日午後9時すぎ。津波で道路が寸断され、いつもなら車で40分ほどの道のりに約1時間半を要した。 着いてみると、オフサイトセンターは真っ暗。事故対応で最も重要な拠点施設が停電していることに驚いた。 現地対策本部長の池田元久経産副大臣(当時、衆院神奈川6区)も、そのころ大熊町に向かっていた。東京・霞が関から車に乗ったが、大渋滞に巻き込まれた。自衛隊ヘリで田村市まで飛び、車で大熊町に到着した時は日付が変わっていた。 停電が復旧し、原発事故の現地対策本部が本格的に始動したのは12日午前3時ごろ。本来は国と県、地元6町の職員が集まって共同で事故対応に当たるはずだったが、住民の避難対応などで混乱を極めた地元で、センターに向かったのは大熊町職員1人だけだった。
<テレビから情報> 仮に全ての人員がそろったとしても、オフサイトセンターが期待された役割を果たすことは不可能だった。 オフサイトセンターはコンクリート製。ある程度は放射線を遮蔽(しゃへい)できるが、放射性物質の侵入を防ぐ高性能フィルターがエアコンに装着されていなかった。 空気の入れ替えに伴って放射性物質も入り込み、室内の線量が上昇する。致命的な欠陥だった。 「原発事故の対応拠点が放射能に弱いとは…」。池田副大臣はがくぜんとした。 外部との連絡手段は12日昼以降、衛星携帯電話2回線とファクス兼用のテレビ会議システムだけ。1カ所に連絡するのに4時間近くかかったこともあった。避難指示など重要な情報のほとんどをテレビで知る始末だった。県原子力安全対策課の小山吉弘課長は「通信手段の貧弱さは最後まで問題になった」と認める。
<たったの4日間> 食料などの物資もすぐに不足した。ガソリンも補給できず、放射線モニタリングカーの走行もままならなくなった。 14日夜、現地対策本部はオフサイトセンターから福島県庁へ移ることが決まり、センターは15日午前11時に閉じられた。 「設備、運営の全てで保安院の想定が甘すぎた」。事故から1年を経て池田氏が言う。 オフサイトセンターは全国の各原発周辺に整備されているが、福島第1原発事故では、ほとんど機能することなく、たった4日で撤退。事故対応で「現地の司令塔」となるべき施設もまた、根拠のない安全神話の上に築かれていた。 ◇ 福島第1原発事故による被害は、水素爆発などで大量の放射性物質が放出された事態の深刻さに加え、政府のちぐはぐな事故対応によっても拡大した。災害リスクを過小評価し、備えを怠ってきた原子力行政に、住民の安全を最優先する視点は欠落していた。初動から大きくつまずいた事故対応が、被災地の混乱に拍車を掛けていった。(原子力問題取材班)=第2部は5回続き
[オフサイトセンター]茨城県東海村での臨界事故(1999年)を教訓に、原子力災害時に情報を迅速に集め、関係者が連携して対応する現地拠点として、原発などの敷地(サイト)から数キロ離れた場所に整備された。国や地元自治体などが協議し、事故状況の把握や進展予測、住民の避難範囲の決定などを合同で行うことになっていた。
2012年04月19日木曜日
|