ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきたいと思っています。

「社説」執筆者を公開せよ

2008年11月13日 | 偏向マスコミ
 社説とは、新聞社がある問題等に関する見解を表明する場である。朝日新聞のホームページ、社説作成について、「論説委員は、それぞれ政治、経済、社会、国際、文化、科学、スポーツなどの分野で経験を積んだベテラン記者たちです。論説主幹を中心に毎日会議を開き、「今日は何の問題を取り上げるか」「どんな主張をするか」「だれが書くか」を決めています」とあるが、おおよその新聞社の社説はこのようにして書かれているものであろう。

 社説は各社によってその主張内容が大きく異なる。産経と朝日とではたとえば内閣総理大臣の靖国神社参拝をめぐっても、意見が180度違う。違いがあるのはよいことであるが、新聞社によっては、ほぼまるっきり同じ内容の社説が掲載されることがあるのだ。これは一体どういうことか。

 私は暇人ゆえに、ネットにおいて社説を公開している新聞社の社説は大体すべて目を通している。そこで気づいたことなのであるが、岐阜新聞の社説と茨城新聞の社説はタイトルから文面まで、ほぼそっくりそのままのときがしばしばあった。もし本当に朝日の言うように「論説主幹を中心に毎日会議を開き、「今日は何の問題を取り上げるか」「どんな主張をするか」「だれが書くか」を決めています」というのであれば、このようなことは起こらないはずだ。

 実際、地方紙の社説は全部が全部そうではないが、共同通信が社説を掛け持って書いているのである。読売、朝日、毎日、日経、産経の大手5紙以外(地方紙)は、社説以外にも記事の掲載や情報の提供の多くを、共同通信から受けている(大手5紙も例外ではないが、地方紙はその比率が大きい)。

 よって、社説=その新聞社の独自見解と考えると、とんだ間違いを犯すことになる。以前も、社説を朝日から盗用したとして、新潟日報論説委員が処分されたことがある。推測の域を出ないが、このようなことは氷山の一角であると思う。

 しかも一説によれば、共同通信が作成した社説は、同じテーマで2〜3パターンあり、買う方は選べるようになっていることもあるのだという。しかし、このようなことを絶対に新聞社側は言わない。なぜなら、このようなことが明るみに出れば、「社説」の意味などなくなるし、読者の信用を損なうからだ。

 見方によっては、これは共同通信による世論操作であると言える。読者の側からすれば、社説を真剣に読んでいる人など決して多くはなかろうが、これによって自身のものごとに関する見方や考え方が形成され、変わっていくかもしれない。新聞社という巨大言論機関がこう言っているのだから、これが正しいのではないかと、信じてしまう人もいるだろう。

 小泉氏が首相時代に靖国参拝を繰り返し、このことを全国の新聞社は社説で一斉に非難した(産経、北國新聞を除く)。しかし、上記のような現実を知ると、これも共同通信という巨大なマスコミによる世論操作、そして見解統制であったということになるかもしれない。

 共同通信が社説を配信していることは、「論座」(朝日新聞社)2007年7月号、小林広「手記 私はなぜ社説を盗用したか」にも書いてある。小林広氏は、山梨日日新聞の記者であった人だ。小林はこの中で、「社説は委員長ひとりにすべて任され、県内のテーマを取り上げるとき以外は、社説・論説のための参考資料として共同通信社から配信される『資料版論説』をほとんどそのまま掲載していた。その場合、私がやるのは、行数調整のために言い回しを変える程度だった」と述べている。地方新聞社であれば、北海道新聞など発行部数100万部を超える全国紙と伍すような新聞社でもないかぎり、他の新聞社も社の規模はそれほど変わらないと思われるから、実態は同じようなものだろう。

 ということは、社説を、その新聞社の見解と嘯いておきながら、実は社説=共同通信の見解、ということに、やはりなりそうだ。今でも、地方紙の社説の論調を「世論」とみなし、国民の見解とする向きもあるようだが、そこに国民が不在なのは、もう言うまでもないだろう。

 そこで提案したい。社説を掲載する際に、執筆者名も同時に公表せよ、と。それによって見解の透明性を図り、こうした共同通信によるマスコミ支配を多くの人たちに認識させ、いかに社説が狭い範囲の世論(みたいなもの)しか反映していないかを、白日の下に晒すと同時に、執筆者名を掲載することによって、言論機関としての自社の見解に責任を自覚させるのである。

 社説の執筆者名を公表すると、責任を社ではなく論説委員個人に向けることになり、自由な言論を萎縮させないかという批判は、全く的外れである。今ではブログでさえも実名でやっている人もいるし、テレビ等でのコメンテーターも実名で出ているが、これによって彼らの言論の自由が脅かされている事実はない。

 社の見解と言いつつ、そこに卑怯にも共同通信のような事態がまかり通ったり、個人の私的な意見表明の場として活用し、これを国民のバロメーターを計るものとすることなど、論外である。執筆者名を公表し、社説の私物化を防がなくてはならない。
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北海道新聞 言論の自由 共同通信社 山梨日日新聞 靖国神社参拝 朝日新聞社 内閣総理大臣
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2 コメント

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社説 (gunkanatago)
2008-11-14 20:00:50
 「ひえー」という感じですね。地方紙、どの新聞もどの新聞も左巻になるのには、そういうからくりがあったのですね。おっしゃる通り共同通信による世論操作ですね。社説を書いてもらうとは、新聞社も恥ずかしくないのでしょうか?
gunkanatagoさん (管理人)
2008-11-14 23:29:11
コメントありがとうございます。

共同通信がある意味世論を形成していると言っても過言ではないと思います。
記事から社説まで配信している大本が左なら、共同からの記事配信なしではやっていけない地方紙が左巻きになるのは当然ですよね。

地方紙のような小規模言論機関の場合、論説委員の人数が少なく、朝日などのように論説員を全ジャンル揃えることができず、よって共同から社説購入ということみたいですから、地方紙のこのような現状を変えることが、共同通信による一極化を防ぐことになるのだと思います。

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