2009年11月06日

タバコは悪か=健康至上主義社会のスケープゴート(最終回)ー教育労働者の法律論(38)

私が禁煙ファシズムについて書いたのは2004年である。あれから数年たつが喫煙者への差別と迫害はいっそう狂気じみてきて、喫煙者は健康至上主義社会のスケープゴートとされている。
数回にわたりに「タバコは悪か=健康至上主義社会のスケープゴート」を報告する(以下、月刊『むすぶ』掲載文章、「学校全面禁煙に異議あり」04年1月号、「禁煙ファシズム=不寛容に時代」04年6月号、「禁煙ファシズム」09年1月号、より抜粋。『なぜ日教組はたたかえなくなったか』所収)
[なお、2009年7月4日付の朝日新聞夕刊によれば、全国の公立小中高学校の敷地内全面禁煙は66%。05年より20ポイント伸びているが、都道府県の実施率は18―100%とばらつきがある。実施率100%は秋田・茨城・福井・静岡・滋賀・和歌山の6県。一方分煙を進めている熊本(18%)、高知(25%)などは低かった。愛知は68%、岐阜は45%。三重は40%。政令指定都市では北九州を除く17市が100%。学校別では高校が90%、小学校が64%、中学校が60%。
調査したのは日本小児科連絡協議会「子どもをタバコの害から守る合同委員会」。47都道府県のうち、回答したのは33都府県。全国1800市町村の43%は回答していないという。都道府県教委が呼びかける敷地内全面禁煙に対する市町村教委の協力度合いが、地域差につながっているとされている。]

こうした禁煙運動について、養老は「何か別のものを隠すためのスケープゴート」だとのべている。その先例としてアメリカではベトナム戦争で反対運動が強くなると、ニクソンは批判勢力を反捕鯨運動へ誘導しろと指示したことをあげている(前掲書)。養老はスケープゴートがなにかまでは言及していないが、池田清彦は養老よりもはやくに同様の指摘をしていた。池田はたばこの副流煙より自動車の排気ガスの方が絶対体に悪いといい、「禁煙キャンペーンは自動車の排気ガスの責任を隠蔽するためのスケープゴート」ではないかと書いている(『やぶにらみ科学論』)。養老といい池田といい、科学者は単純なたばこ害悪論には加担しないし、禁煙運動についても胡散臭いと思っているのだ。
 このスケープゴートについては、小谷野敦は「遺伝」ではないかと指摘している。ヒト・ゲノム計画で遺伝子の解明が終了した。その結果疾病も寿命も遺伝子に書きこまれており、ヒトの寿命は節制しても五年のび、不節制しても五年縮む程度だといわれている。こうした事実をかくすため、たばこという後天的な素因がヤリ玉にあげられているというのだ(小谷野敦他『禁煙ファシズムと戦う』)。
従来の禁煙論は衛生学的見地から、たばこを吸うのは健康に悪いから人の迷惑にならないよう吸うべきだとされていた。ところが最近では「社会コスト論」がいわれている。たばこを吸うやつは病気になりやすくその分医療費がかかる。社会に損害をあたえるからたばこを吸うのを規制しろと。『健康日本21』(厚生労働省)によれば、喫煙による国民医療費は約1.3兆円、たばこによる日本社会全体の損失総額は約4兆円以上になると計算されている。WHOに主導される世界的な禁煙運動の高まりは、こうした医療費の削減すなわち財政問題が根源にある。
健康増進法(反たばこ立法 03年)は、健康の維持管理は国民の責務だとして予防医学を提唱しているがこれも医療費削減が目的だ。そこには健康に生きようとしない人間はよくない人間だという国家の健康イデオロギーがある。すでにマスコミ等で健康を強迫する宣伝が強化されている。そのことは成人病が生活習慣病に名称変更されたことにも示されている(成人病は加齢によるが生活習慣病は自己責任となる)。それをおしすすめれば、病気や障害者・喫煙者など不健康な人間は非国民だという発想につながる。石川はやがて健康増進法は罰則規定ができるだろうと危惧している。そして国家がゆりかごから墓場まで身体管理する社会がきていると(前掲書)。
だが健康増進法のいう健康イデオロギーはきわめて危険だ。健康はいいことだという主張は、不健康は悪だということにつながる。スーザン・ソンダクが『隠喩としての病』でのべた「健康な自分たち」と「不健康な他者」である。そうなれば不健康なやつは排除(抹殺)しろというかつてナチスが実行し、現在アメリカが実行している差別政策へと結実する。あの北欧の福祉国家でさえも、戦前から70年代まで「劣性種」の強制不妊手術を実施していたというので世界に衝撃をあたえた。人間の尊厳より福祉コストの削減を優先したのだ。予防医学がファシズムへの第一歩になることは歴史が教えているところだ。
 たばこに諸悪の根源をもとめる禁煙運動の問題点は、斎藤が指摘しているように「真っ先に解決すべき社会構造の矛盾を矮小化し、より巨大な悪から人々の目をそらせる効果を担う結果なってしまっている現実」(前掲書)にある。この点については池田も同様の指摘をしている。「好コントロール装置(近代国家)にとって禁煙キャンペーンは大した抵抗もなしにパターナリズムを発揮できるチャンスだ」。そしてこの好コントロール装置は、決して南北問題や地球環境問題へとはむかわず、個人の生活を管理する方向へとむかう(前掲書)。
地球環境問題や南北問題、民族紛争や資源戦争といった悪徳がふくれあがり、それから目をそらすために新たな敵が作りだされている。たばこはわかりやすい「悪者」として選ばれているだ。
山崎正和は禁煙運動について次のように書いている。「この理論構成がじつは個人の生活態度に干渉し、その一切の多様化を許さないという、ひそかにイデオロギーに基づいているということである。人がある嗜好を持ち、個人的な不摂生を行なうと、それがただちに「反社会性」の名のもとに弾劾される。そういう世論を誘導する発想そのものが問題なのである」(『世紀末からの出発』)。健康至上主義社会ではオレは好きに暮らして病気になってもいいからほっといてくれという生き方が許されない。健康にいいか悪いかだけが絶対基準となり人生の楽しみや豊かさが忘れ去られている。
たばこは人に迷惑をかけないように吸えばよい。養老がいうようにたばこは文化であり、喫煙のマナーをつくっていくのもまた文化なのだ。個人の趣味や嗜好に権力が介入するのは断固排斥されなければならない。ましてや自分の身体は国家に指図されずとも自分で管理する。ちなみに私はたばこは吸わない。禁煙主義者ではなく分煙主義者である。


Posted by sho923utg at 06:12│Comments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!政治・社会 | 時代のアゴラ

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