それは、家庭用ゲームの刺激がすでに免疫としてできていることも大きいだろうし、また、ソーシャルゲームユーザーが好むとされる、「他人より強い自分」を確認したいという欲が全くないこともある。ただでさえ、現実社会は他者と優劣を比較されるようにできているのだから、ゲームくらいヘタなりに自分のペースで「マリオカート7」などを遊ばせて欲しいと思ってしまうのだ。
だが、もし筆者のゲームデビューが、カヨコさんのようにソーシャルゲームだったらどうだろう? もしかしたら、筆者も「1年で150万円を使うカヨコさん」になっていたかもしれない。
ユーザーが失望と後悔のうちに離れていくならば
ソーシャルゲームビジネスにサステナビリティなど望めない
子育ては喜びだけを与えてくれるとは限らない。子どもの世話でストレスをためがちな主婦の皆さんが、同じようなことの繰り返しの単調な日常を変えてくれる刺激を求めて、結果、お金と時間を湯水のように使ってしまう気持ちは理解できる。ケータイやスマートフォンでアクセスし、コンプガチャにお金をつぎ込めば、そこにいるのは「○○ちゃんのママ」ではなく、ランキング上位に輝く売れっ子キャバ嬢の「カヨコさん」だ。人目をはばかって、パチンコ屋に行く必要もない。
したがって、筆者にはカヨコさんを責める気持ちはまったくない。「大人なんだからそんなの自己責任だ」と声高に叫ぶ人もいることも承知の上である。自己責任論を唱える人は、「彼女が愚かだから」と言いたいのだろうが、その愚かさの代償が150万円と大量の時間の浪費というのは、妥当なのだろうか。
それに、ゲームコンテンツ産業を長年見てきた立場としては、カヨコさんに「ゲームと名のつく物は、二度とやらない」と言わせてしまったことが本当に残念でならない。ゲームビジネスは、他の娯楽産業である、映画や漫画と同じでコンテンツそのもので勝負してきたはずで、人の弱さにつけ込んでお金を巻き上げるようなビジネスモデルではなかったと思うからだ。
急増したソーシャルゲームユーザーは、時間とお金を湯水のように使った挙げ句、カヨコさんのように失望と後悔のうちに、ひとり、またひとりと、ソーシャルゲームから離れていくのだろうか。だとすれば、ソーシャルゲームビジネスの未来にサステナビリティ(持続可能性)など望むべくもない。
明日公開予定の後編では、ソーシャルゲームにおける過消費の自己責任議論の妥当性と、コンテンツ業界と社会のサステナビリティの関係を論じて、稿を締めたい。
沢田登志子(さわだ・としこ)/早稲田大学政治経済学部政治学科卒。1984年通商産業省(当時)入省。2003年、独立行政法人経済産業研究所広報企画ディレクターを最後に、経済産業省を退職。2003年~2006年ECOM研究員(ADR実証実験事務担当)、2006年有限責任中間法人ECネットワーク設立(現在は一般社団法人)。