源頼朝の死
頼朝は言うまでもなく鎌倉幕府を開いて、日本史上初めて「武士が政権を握る」時代を現出させた人物です。「いいくに(1192)つくろう頼朝さん」で覚えたように、1192年の出来事です。
頼朝は源氏の嫡流という「血」こそ由緒ある家柄でしたが、歴史の表舞台にでてくるまでは平氏方に追われる不遇な時代が長く続きました。ところが、彼に将の器たる才を見いだした北条時政、大江広元、梶原景時といった豪族が次々と味方にはせ参じ、関東で挙兵をしたのちは東北から駆けつけた実弟、源義経の活躍でついに幕府を開くに至りました。
こうした華々しい「幕開け」とは裏腹に彼の死はあまり知られていません。
これは、頼朝の死について記録されたものがほとんどなく、鎌倉時代の公式史書である「吾妻鏡」にもある日突然落馬し、これが原因で数ヶ月後に死去したと簡単に記述されているだけなため、説得力のある「定説」がないのが第一の原因と考えられます。
したがって、古来頼朝の死は暗殺によるものという説が後を絶ちません。では、実際はどうだったのでしょうか。
結論から言えば、様々な説がありますがどれも証拠不十分のため真実は判然としません(笑) そこで、有力な仮説と史実全体を眺めて私の 仮説をたててみます。
まず、事故死か暗殺かですが・・・。
頼朝は弟の義経のような武功は聞かれませんが、仮にも武家の棟梁の家に生まれたこと、不遇の時代に数々の危難を乗り越えていることなどからある程度の武術の心得はあったものと推察されます。にもかかわらず落馬によって命を落とすというのはまず考えられず、他を見ても落馬によって死去した武将というのはまず見あたりません。
また、もし事故死・自然死なのであれば鎌倉の公式史書である「吾妻鏡」にはっきりと記述されているのが自然であり、表に出せない何か重大な事件が発生したと考えるのが妥当と言えます。つまり暗殺という線が濃厚になってきます。
次に、頼朝死後の幕府はどうなったでしょうか。将軍職は頼朝の子である頼家が後をつぎましたが実権は母である北条政子の父、執権北条時政が握っています。
広く言われることですが、犯人探しの第一の鉄則は、「その犯罪によって一番利益を得たものを疑え」と言います。したがって、暗殺説で一番有力視されている「犯人」はこの北条時政です。
しかし頼朝が死去したとき、時政は娘を頼朝に嫁がせているとは言っても他の家老格家臣に比べてその勢力は非常に小さいものだったため、頼朝の暗殺はかえって時政にとって逆効果となります。こうしたことから「時政犯人説」は大いに打ち消されてしまっています。
では、勢力の大きかった比企、梶原といった寵臣が犯人なのでしょうか。仮に彼らのうち誰かが暗殺を企てたとしても、いずれも突出した実力者ではなかったため政権が自分に転がり込むとは考えられず、なによりも史実として彼らは北条家に実権をさらわれています。
そこで、ここからは完全に私の仮説ですが・・・。
頼朝が死去することで次の将軍職となるのはほぼ子の頼家で間違いない・・・。とすると新将軍の母であり前将軍の妻である北条政子の発言は無視できないものとなり、その父である北条時政は時の将軍の祖父として大きな勢力となる・・・。「原因」の面からは北条時政による暗殺説に大きな説得力があります。
では、「結果」の面ではどうでしょうか。
先にも述べたように、実際頼朝が死去した後は時政が執権として実権を握っており、そればかりか頼家は将軍になってまもなく北条時政・政子父子に将軍としての権限行使を禁止されています。さらに時政のライバルにあたる比企能員の娘が頼家の子、一幡を産むとこれを機に比企能員と激突し、時政は子の義時とともに比企、一幡を滅亡させ、頼家を幽閉しています。(のち頼家は惨殺される) こうしておいて時政は、頼家の弟である実朝を三代将軍に据えてさらに権力を拡大しています。
さらに先を見てみると、時政の後に執権となった子の義時の時、二代将軍頼家の次男である公暁が何者かにそそのかされて三代将軍実朝を暗殺するという事件が起こります。一般にこの公暁を操った人物は執権北条義時と言われています。さらに義時は、四代将軍になれると期待していた公暁に対して軍を派遣して殺害し、源氏の正統を滅亡させています。
こうして事後の流れを見てみると、頼朝の死は後日の北条時政、義時父子による粛正劇の幕開けだったと見えてきます。そして、「吾妻鏡」の不自然さは後に権力を握った北条氏にとって都合が悪いため故意に隠されたと見ることができます。
つまり、源頼朝の死は北条時政による緩やかなクーデターだったのではないでしょうか。
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