なお……【1】
僕は、診察室の外から、医師と両親の話に聞き耳を立てていた。
「あなたは20歳までは生きられないでしょう……」
医師にはそう宣告されたのは2年くらい前のことだ。僕が14歳になったばかりのころ。年齢の割に落ち着いた子だと思われていたから、医師は事実を僕に告げたのだろう。
僕は、それをうつむいて聞いた。不思議なことに、笑みがこぼれてきた。日本人は、問題に直面したらとりあえず先ず笑う、と言ったのは誰だっただろう。
でも、別に、僕は悲しくなかったわけでも辛くなかったわけでもない。
誰に対しても、自分が生きているだけで迷惑をかけているという思いから、なるべく親にも他人にも迷惑をかけないような態度を取っていたにすぎない。
でも実際には自暴自棄になって、14歳まで生きてきたのが本当のところだった。
翌年、中学3年になると、周りは受験・進学の話題一色になってしまったが、皆が進学の話をしているが、僕にはその中に割って入ることはできないのが辛かった。それなのに、平気なふりをして遠くで彼らを羨んでいるのが僕という人間だった。
いずれ僕は死ぬ……。
一日を生きるということは、一日死ぬ日が迫るということ。それは誰でもそうだが、無限にも思える寿命の砂時計の中身がようやく落ち始めたクラスメートと比べて、僕のそれはすでに終わりが見え始めていた。
それなのに、頑張って何になるだろう。真面目に生きて、真面目に勉強して……それに何の意味があるというのだろう。僕は、高校になど行く気も真面目に勉強する気もなかったのに、自分の学力に会った適当な学校を第一志望にして、進路志望カードを担任に提出した。
僕の病気は、とりあえず先天的なものとしか聞かされていなかった。時として激しく動悸し、窒息しそうな呼吸困難に陥る。しかし、発作が起きない時は、激しい運動をしなければごくごく普通に生活できた。しかし、普通に生きている間も、肺機能は、わずかずつ徐々に、その機能を失っていた。
中学3年に上がった4月になってすぐ。昼過ぎの授業が始まった頃に僕は発作を起こして病院に連れ込まれた。大量の痰が喉の奥からせり上がってきて、今にも窒息死そうだった。こんな苦しい思いをしながら、どうして僕は生きているのだろう。そう思うと、涙がこぼれてきた。ストレッチャーに運ばれて救命室に運ばれているとき、傍らについていてくれた女性看護師がハンカチで僕の目元をぬぐってくれた。
しばらくして発作が治まった頃、駆けつけてくれた両親が主治医に呼ばれ、僕は診察室の外で待たされることになった。
僕は、白い横開きの扉越しにそっと耳をつけた。すでに、外来受付の時間は過ぎ、外は薄暗くなっている。この病院でも、経費の節約のための節電で、外来時間が過ぎたら待合室などの電灯は昼間の10分の1まで減っていた。
「修一君を助ける方法があります」
40歳の男の医師がそう言っているのが聞こえた。
長年僕を診察してくれている主治医で、もう10年ほどの付き合いになるだろうか。学生時代にラグビーをやっていたスポーツマンだそうで、今でもがっしりした体格をしている。顔もちょっと厳つく、もしも小児科医だったら、子供はまず泣いてしまうんじゃないだろうか、と思う。
その医師と両親の話の中に僕の名前が出て、それ以上にその内容に思わず目を見開く。しかし、その後に続くのは、しかし、そのためには多額の費用が……という言葉。聞いてはいけないような気がして、僕は扉から離れようとした。
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