家族  大学生活今と昔 その1

先日、息子さんが今年大学に入学した知人と話す機会があったので後学のためにいろいろ聞いてみたところ・・・

○家賃や生活費に月10万仕送りをしている。(ぎぇー)

○アパートは1Kでトイレバスつき。携帯があるので電話は引かないが、そ のかわり各部屋にインターネットが接続されていて、家賃と一緒に経費で 落とされる。家賃は5万から7万(ぎぇー)

○1・2年の間は授業がびっしりでアルバイトをする暇がないので収入がな い。(まあ、普通そうでしょう)

○男の子は着るものにお金がかからないから楽(おしゃれでなければね)

現在大学生生活は贅沢になったというか、お金がかかるというか・・・

・・・・・・・・そこで昔の大学生活について考えて見た・・・・

まず、私の兄の時代(1970年代)

まさしく「神田川」の世界でした。小学生の頃、母と二人で、東京見物も兼ねて千葉の大学に入った兄の下宿屋へ行ったことがあります。

木造2階建て3畳一間の長屋でした。玄関を入ると真ん中に薄暗く長い廊下。その両側は部屋がずらっと並びトイレや台所は兼用になっていました。30人ぐらい住んでいたんでしょうか?なんだかいつもむさくるしい男の人たちが廊下を歩いていました。お風呂は近所の銭湯へおけを手に通っていました。洗濯は手洗い場で洗濯板で手洗いしていました。

部屋の中は裸電球が一つあるだけ。先輩から譲ってもらったらしいベッドを置いていたので私たちが寝るスペースがなくて結局兄が下の畳に寝て私と母がベッドに寝ていた記憶があります。

当時、家賃3000円とか言ってましたね。

トイレが臭くてポットン便所で落ちそうだったのを覚えています。おかげで?ひどい便秘になりました。

でも夜になると兄の友人たちが次々に来て遊んでくれたり話したりして楽しかったので、「大学生って楽しそうでいいなー」と思いました。勉強の「べ」の字も話題になりませんでした。まあ、小学生の私にそんな難しいこと話しても分かるわけないと思っていたのかもしれませんけど。

・・・で特に印象深かったのは隣の部屋に住んでいた画学生でした。ピカソみたいな不思議な絵を描く人で画家になる夢を抱いて鹿児島から出てきたと言っていました。とても楽しい人で、なんだかんだと言っては毎晩兄の部屋に遊びに来て花火を見に行ったり、夜の喫茶店に連れて行ってもらったりして楽しかったのですが、すっかり寝不足になってしまいました。
・・・でその画家の卵さんは結局卒業後1年でものにならなかったら(売れなかったら)鹿児島に帰ることになっていて、翌年に夢をあきらめて故郷へ帰ったそうです。その後のことは聞いていません。

東京は今も昔も夢を追う若者の街のようです
「ninngennmodokiのエッセイ2」目次へ
家族  大学生活今と昔 その2「私の大学生活」

・・・・・・1980年代 私の大学生活・・・・・・

私の大学生活は京都だった。初めての一人暮らしは友人の紹介で借りた学生アパートで始まった。

京都市北野白梅町・・・ここが私の青春の始まりの場所だった。(それまでは何だったの?)

建物は鉄琴2階建て。部屋は各部屋個室で4畳半。8部屋あったと思う。トイレと台所は共同で一階にあった。(一度外へ出ないといけないのでかなり不便だった)お風呂は大家さんが近所で銭湯を経営していたのでそこへ行くことになっていた。

家賃は1万1000円。
当時としてはかなり安いほうだった。
名前は多分「紅梅寮」だったと思う。北野天神の近くだったのでこの名前がついたようだ。

銭湯に行くのは生まれて初めてで、おずおずとのれんをくぐった記憶がある。・・・で番台を見ると大家さんが座っている。
「えーっ!」ここで服を脱ぐの・・・? 
まるで「時間ですよ」の世界である。あちらは職業だからなんてことはないだろうが、田舎者はどきどきである。これもしばらくするとすっかり慣れてきた。

ここの大家さんがとてもいい人で月に一度、住人を集めてご主人御得意のサバ寿司をごちそうしてくれた。それで住人も料理が得意な人は自分が作った料理を持ち寄り近況を報告したり、いろいろな情報交換の場になっていた。
みんな田舎から出てきた人たちで結構気があい、わきあいあいの雰囲気があった。電話も一階に公衆電話が置いてあり、一番近い部屋の人が電話番?で呼び出してくれる。大声で呼ぶので外に丸聞こえである。

「○○さーん、電話よー」

・・・で電話の相手が男性だとそこで話が盛り上がるのだが・・・残念ながら私にはそんな電話はなかった。

共同台所ではコイン式のガスコンロが使われていた。10枚100円ぐらいで大家さんから買ってコイン入れに入れて使うのである。1枚で簡単な料理が作れるぐらいの火力があったので経済的だった。でもガス湯沸かし器もなくてお湯がでないので冬場は冷たくて大変だったことを覚えている。

女子学生専用なので京都市内のいろいろな大学に通う人たちが住んでいた。女子大あり短大あり専門学校あり4年制ありでバラエティにとんでいた。
大学に入った目的もそれぞれで、
「結婚相手を見つけにきました。」と言った人もいた。彼女は本当にさっさと彼氏を見つけて卒業と同時に結婚した。

一方私にこのアパートを紹介してくれた友人は大変な努力家で教職(英語・国語)と学芸員の資格を両方取り卒業後は中学の教師になった。

私はというと毎日遊びほうけて、部屋は友達の溜まり場・・・。私は飲めないのに何故か飲む人が集まって、女ばかりでドンちゃん騒ぎ・・・。
しかし、時にはしんみりと青春の悩みを朝まで語り合ったものだ。あの頃はみんなまだ自分の生き方を模索している時代で、またそんな仲間が集まっていたように思う。
あの時代があったから今があるのかもしれない・・・(心を入れ替えて真面目に生きようと?)

親からの干渉から解放されて一気に花開いたつかの間の青春だった。思えばそんな生活も親の仕送りのおかげで成り立っていたのだが、当時はそんなことは全く頭から消えていた。
親不孝な娘だった。
「ninngennmodokiのエッセイ2」目次へ
1