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一廿八品悉南無妙法蓮華経の事
一勧発品

〔32-28〕


 御義口伝に云く此の品は再演法華なり本迹二門の極理此の品に至極するなり、慈覚大師云く十界の衆生は発心修行と釈し給うは此の品の事なり、所詮此の品と序品とは生死の二法なり序品は我等衆生の生なり此の品は一切衆生の死なり生死一念なるを妙法蓮華経と云うなり品品に於て初の題号は生の方終の方は死の方なり、此の法華経は生死生死と転りたり、生の故に始に如是我聞と置く如は生の義なり死の故に終りに作礼而去と結したり、去は死の義なり作礼の言は生死の間に成しと成す処の我等衆生の所作なり、此の所作とは妙法蓮華経なり、
礼とは不乱の義なり法界妙法なれば不乱なり、天台大師の云く「体の字は礼に訓ず礼は法なり各々其の親を親とし各々其の子を子とす出世の法体も亦復是の如し」と、体とは妙法蓮華経の事なり先づ体玄義を釈するなり、体とは十界の異体なり是を法華経の体とせり此等を作礼而去とは説かれたり、法界の千草万木地獄餓鬼等何の界も諸法実相の作礼に非ずという事なし是れ即ち普賢菩薩なり、普とは法界賢とは作礼而去なり此れ即ち妙法蓮華経なり、爰を以て品品の初めにも五字を題し終りにも五字を以て結し前後中間南無妙法蓮華経の七字なり、末法弘通の要法唯此の一段に之れ有るなり、此等の心を失うて要法に結ばずんば末法弘通の法には不足の者なり剰え日蓮が本意を失う可し、日蓮が弟子檀那別の才覚無益なり、妙楽の釈に云く「子父の法を弘む世界の益有り」と、子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり世界とは日本国なり益とは成仏なり法とは南無妙法蓮華経なり、今又以て此くの如し父とは日蓮なり子とは日蓮が弟子檀那なり世界とは日本国なり益とは受持成仏なり法とは上行所伝の題目なり

御義口伝卷下
       弘安元年戊寅正月一日                  執筆 日興


 この勧発品第二十八は、神力品第二十一以下の付属流通の自行流通を勧めるのである。普賢菩薩が、東方宝威徳上王仏の国にいて、この娑婆世界で釈尊が法華経を説くのを聞いて、来至し、釈尊に、仏滅後、この法華経をいかに持つべきかと問う。それに対し、釈尊は、一に諸仏に護念せられ、二に諸の徳本を植え、三に正定聚に入り、四に一切衆生を救う心を起こすべきである、と四法成就を説いて、法華経を再演したことをあらわしている。 御義口伝には、次のように仰せである。
 この品は法華経を再演している。本迹二門の極理は、この勧発品第二十八にきわまっている。慈覚大師が「十界の衆生、すなわち、あらゆる衆生が発心し、修行する」と釈されたのは、この勧発品第二十八のことである。
 所詮、この勧発品第二十八と最初の序品第一とは、生死の二法をあらわしている。序品第一は、われら一切衆生の生、勧発品は死であり、この生死が一念にそなわっていることを妙法蓮華経というのである。さらに各品についてみると、初めの題号は生、末尾の方は死で、同じく各品もそれ自体で生死一念の哲理をあらわしている。
 このように法華経は、生死生死とめぐっていくのである。生のゆえに、冒頭に「如是我聞」とある。如とは如々として来るという仏の生命を明かし、生の義をあらわす。死のゆえに、最後に「作礼而去」で結ばれている。去とは去るのであるから死の義をあらわす。作礼というのは、われら衆生が生死のあいだに成す、あらゆる生命の所作である。この所作とは何かといえば、妙法蓮華経である。礼とは「不乱」すなわちリズムにかない、調和していくことである。宇宙即妙法であるから、そこには厳然たる調和が保たれているのである。
 また、天台大師は、次のように釈している。「体の字は礼と読む。礼とは法にかなうということである。子は親を親として尊び、親は子を子としていつくしむところに礼がある。仏法の道理もまた同じことである」と。
 体とは妙法蓮華経、即ち三大秘法の御本尊のところである。このゆえに天台大師は名体宗用教の五玄義を釈するにあたって、まず、体玄義を釈したのである。また、体とは地獄より仏界にいたる十界のそれぞれ異なるも、究極するところはすべて妙法蓮華経に帰着する。この妙法蓮華経こそ法華経の本体なのである。これらの意義を「礼を作して去りにき」と説かれたのである。
 全宇宙の森羅万象も、地獄、餓鬼等の十界すべてが諸法実相の作礼すなわち妙法に帰依し、妙法を証明する振舞いとなっている。これがすなわち普賢菩薩である。普賢の普とは、法界即宇宙をいい、賢とは作礼而去すなわち宇宙森羅万象の振舞いを意味する。これが妙法蓮華経である。
 このゆえに二十八品各品の初めに妙法蓮華経の題号をおき、終わりにも妙法蓮華経の五字をもって結ばれている。このように、前後も、中間も、南無妙法蓮華経の七字なのである。末法に弘通する要法たる三大秘法の南無妙法蓮華経は、この一段に含まれている。この心を失って南無妙法蓮華経を根幹としなかったならば、末法弘通の法とはなりえないばかりか、日蓮大聖人の御本意にかなわないのである。日蓮大聖人の弟子檀那においては、これより他の才覚は無益である。
 妙楽大師は「子の父の法を弘めるならば、世界の利益がある」といっている。子とは地湧の菩薩であり、父とは釈尊である。世界とは日本国、益とは成仏即絶対的幸福境涯の確立、法とは三大秘法の南無妙法蓮華経である。いま一歩すすめていうならば、父とは末法御本仏日蓮大聖人であり、子とは大聖人の弟子檀那である。世界とは日本国であり、益とは、御本尊を受持し即身成仏することである。法とは、法華経の会座で上行菩薩が伝えたところの題目であり、三大秘法の南無妙法蓮華経なのである。

       弘安元年戊寅正月一日                  日興記す








  ※抜粋 ( 引用文献 )
 「作礼」とは、封建的な礼法ではなく、もっと生命の本質に密着したものである。すなわち、「作礼の言は生死の闇に成しと成す処の我等衆生の所作なり」とあるように、人生の一切の振舞いである。妙法を受持したときには、それがすべて、大宇宙のリズムに合致し、自在無碍の振舞いとなっていくのである。
 これこそ最高の自由である。また、封建的、君主制的な絆、束縛から解放されるというだけの消極的な自由ではなく、自ら主体性を打ち立て、過なく振舞っていけるという、積極的な自由である。
 「過も無く」とは、自ら、その行動において過失がないということである。「障りも無く」とは、他からの障害がないという意である。古来、欧米において唱えられ、近代化の原動力となってきた“自由”の概念は、ようやくこの「障り無く」を意味するのみであるように思われる。

 末法に弘通すべき日蓮大聖人の仏法は、南無妙法蓮華経であって、それ以外の才覚は無益であるとの仰せである。大聖人の弟子として、最も深く、強く、明瞭に、心に刻むべきことである。
 この南無妙法蓮華経が根本であり一切の要諦であることを忘れたならば、末法の民衆救済は思いもよらず、かえって、御本仏日蓮大聖人の本意を失うこととなり、無間大城に落ちる大謗法となってしまうのである。
 いま、化儀の広布の時にあたって、あらゆる文化活動が展開され、立体作戦、応用戦を繰り広げている。だがその根底は、あくまでも南無妙法蓮華経であり、信心が基盤である。

 もとより、大乗有縁の国は日本のみである。だが、依正不二の原理で、日本の広宣流布が達成されたときには、全世界が大乗有縁となるのである。
 さらに、現代の歴史の動向をながめるならば、世界が一つの運命共同体であり、緊密に結びあった一つの機構となりつつある。もはや世界から切り離してのにほんではなく、日本を論ずれば、世界にも通ずつことは、必定といえると思う。


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  関連語句: 再演法華 普賢菩薩 まとめ 如去 如是我聞 作礼而去 如は死 去は死 不乱 調和


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