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ハッピーエイジャー対談

第6回(前編)がんばれ日本男児! 生死を越え 夢の実現に向かって

ソロアルピニスト

栗城史多

「ハッピーエイジャー対談」第6回目のゲストは、世界6大陸の最高峰を単独・無酸素で踏破した登山家の栗城史多君です。エイジマネージメント機構は「健康で豊かな生き方」をテーマに、産官学のパイプ役を担いながら、健康・医療に関する政策のバックアップや、真の健康社会を実現するための色々な情報を、わかりやすく国民目線で発信する活動をしてきました。世界的不況による経済情勢の悪化に伴い、夢を持つことができない若者やニートの増加が進み、青少年の心の健康は大きな問題になってきています。そんな元気を失った社会の今こそ、機構を通じて栗城君の活動を多くの人に伝えたいというのが今回の対談の趣旨です。栗城君のような、ごく普通の青年が生死を賭けて夢を追いながら挑戦していく姿は、若者のみならず全ての人に大きな勇気と希望を感じさせてくれます。今日はそんな栗城君の熱いメッセージに様々な角度から触れていきたいと思います。
ソロアルピニスト 栗城史多

この親にしてこの子あり

田中舘

栗城君の出身地は北海道ですが、どんな少年時代を過ごされたんですか?

栗城

道南の今金町という人口6,000人の町だったんですが、小学校の頃は山に囲まれているような環境だったので、学校に行ったらそのまま裏山に行ってザリガニを捕ったりして、給食の時間に戻ってくるという感じでしたね。

田中舘

教室での勉強よりも、自然の中での勉強の方が楽しかったということですね。いつまで北海道にいらっしゃったの?

栗城

高校までですね。

田中舘

高校までに運動部に入っていた経験はありますか?

栗城

中学の時は野球をやっていました。あと、小学校2年生から高校3年生まで空手をやっていました。でも、僕はスポーツ万能ではなかったんです。野球部でもレギュラーになれなかったし、高校までは夢や目標も無く、卒業したらどうしようという生活が悶々と続いていました。

田中舘

では最初から、今のような目標を持ってがんばっていたということではなかったんですね。

栗城

全くそうではなかったですね。ですから、今こうして登山家の道に行っているということは、全く考えられなかったです。その時に山に登りたいとか、近くに登山家の方がいたわけでもないので。

田中舘

なるほど。それではご家族の方で登山やスキーをされていた方や、山に関連のあることをなさっていた方はいらしたんですか?

栗城

いや、全くいなかったですね。僕の母は僕が17歳のときに亡くなっているんですけれど。

田中舘

お母様はそんなに若いときに亡くなられたんですか?

栗城

はい。55歳の時に亡くなりました。僕の父は、街づくりが大好きな人なんですね。本業は眼鏡店なんですが、父はそれを副業だと言っていまして。では本業は何かというと、街づくりなんです。僕が小学校5年生のとき、父は「この町に温泉を掘りたい」と言って。利別(トシベツ)川という大きな川がありまして、そこに雪が降るんですが、一箇所だけ雪が溶ける所があるんです。そこに父はプラスチック製のパイプを5年間打ち続けまして温泉を出したんです。今は小さなホテルを作ってみたり、色々なことにチャレンジしていまして、ずっと夢を追っていくという性格なんです。

田中舘

それは地域起こしのためなのか、それとも自分のコミュニティみたいなものを作りたかったのですか。

栗城

地域起こしでしたね。

田中舘

それはスポンサーが付いていらしたんですか?それとも単独でおやりになったの?

栗城

最初から単独でやっていました。町の人たちは何をバカなことをしているんだ、という見方をするんですよね。親子揃って変わっているとよく言われているんですけれど(笑)。でも小さくても夢を持って頑張っていると、やっぱり明るくなりますよね。

田中舘

あなたはそのお父さんの姿を見て、どう思ったのかな。

栗城

いやぁ、やっぱり夢っていうのは叶うんだなぁっていうのをすごく実感しました。

田中舘

へぇ…。

栗城

というのは、周りの人たちがどんどん集まって来て、町全体が「温泉を掘る」というひとつの夢を共有し始めたというのがありまして。

田中舘

それはお父さんの力だよね。お父さんのやっていることに、周りが段々共感し始めたっていうことでしょ。

栗城

最初は「ドラム缶で温泉に入ろう会」という会を作って、テレビでPRしたり。そのうち話が段々大きくなってきて、町や色々なところからお金を集めてきて、最後は7,000万円ぐらいかけてボーリングをやったんです。そうしたら本当に温泉が出たんです。

田中舘

ただの変わった人ではないですよね(笑)。

栗城

まぁそうですね(笑)。

田中舘

全体的な経営者ですよ。そういうランドスケープを含めてトータル的にやって、最終的にはお金を集めるということができるのは。

栗城

小さい町だったんで町長さんとも仲がいいですし、みんな町ぐるみでやれました。

田中舘

今お父さんは何をなさっているの?

栗城

今は「ホテルいまかね」という、町で唯一の小さなホテルの経営者になっています。小さい町ですが、来た人に喜んでもらいたいということでホテルを造りまして。温泉施設は町営でやっているので父は関係ないですけれど。

田中舘

それはボランティアではなく、ビジネスとしてやってらっしゃるんですか。

栗城

ホテルは多分ビジネスですが、父は儲けとかあまり関係なく、やはり町づくりといいますか、自分の町に誇りを持ってやっているんです。

田中舘

例えば、町の観光局の前線部隊でそういう人たちも結構いるんだけど、市がどうだ、県がどうだとかではなくて、ご自分のプランの中でそういうものを経営していらっしゃるということ。

栗城

そうですね。色々なところから資金を集めてきて、途中で建設会社が倒産してしまったり、色々紆余曲折がありました。それで最後のオープンの時には大泣きしていたみたいです。

田中舘

それはあなたが何歳位の頃?

栗城

ホテルは最近の話で、1年位前の話ですね。

失恋を乗り越え登山への目覚め

田中舘

栗城君が登山に目覚めたのは何歳でしたっけ。

栗城

21歳頃ですね。まだ5、6年前の話です。

田中舘

登山家を目指したきっかけは何だったんですか。

栗城

もともと登山には全く興味はなかったんです。高校を卒業した当時は夢や目標がなかったので、とにかく都会へ行けば何かが見つかると考えたんです。それで東京に出たんですが、あてもなく、その日暮らしのフリーター生活をずっとしていたんです。

田中舘

何年位?

栗城

1年間です。でも、やりたいことがないままそういう生活をしていると、段々悶々としてきまして。唯一の希望は、当時付き合っていた彼女が北海道にいたことでした。僕はその人と結婚しようと考えまして、1年後に北海道に帰ったんです。彼女の理想のタイプは3つ条件があって、車を持っていて、大学を出ていて、公務員だと言われたんです。それで大学にも入って…。

田中舘

大学はどちらだったんですか?

栗城

札幌国際大学の社会学部でした。そこで学びながら車も買って、公務員の試験勉強もしたんですけれど。

田中舘

彼女好みの男性になりたいと。

栗城

はい。そうして頑張ってきたんですけれど、突然別れがやってきまして。最後に言われた一言にカチンと来て僕の人生が変わったんです。

田中舘

それはどういうことだったんですか?

栗城

「2年間付き合っていたけど、あんまり好きじゃなかった」って言われたんです(笑)。それで彼女はどういう人が好きかといいますと、登山家といいますか…。

田中舘

最初の話とだいぶ違っちゃった(笑)。

栗城

はい。彼女の趣味が登山だったんです。冬山を登ったりする、かなりアクティブな女性だった。いつも思っていたのが、どうしてそんな小柄な女性が山に行くのかな、山に行って何があるのかなということでした。彼女の見ていた世界は何だったのだろう、ということでそこから登山を始めるようになったんです。

田中舘

へぇ…。普通だったら大学の山岳部やサークルに入って、登山を覚えていくと思うんですが、登山の師のような方はいらしたんですか。

栗城

はい、いました。他大学の山岳部に入りまして…。

田中舘

やっぱり入ったんですね。

栗城

はい。登山というのは独学では学べないんですね。代々伝承みたいな形で学んでいく。ですから、どこの山岳部に入るかによっても、また細かい技術が異なったりするんです。そしてそこの山岳部に入って、2年間師匠について学びました。山岳部と言っても、当時は師匠と僕の2人しかいなかったんですけれど(笑)。

田中舘

それは先生ではなく、大学の先輩?

栗城

はい、1つ上の先輩でした。でも、その方は技術、体力、精神力もすごい方で、ずっと一緒に登っていました。

田中舘

それは国内の山ですか?

栗城

はい。そうしていくうちに、段々一人で登ってみたいなという欲求が出てきたんです。ひとつには先輩が余りにもすご過ぎて、僕は先輩の後ろをただついて行くだけという感じだったんですね。そうではなくて「自分の山」を登ってみたいと思ったんです。

田中舘

その先輩は海外の登山経験はないんですか。

栗城

ないですね。僕が、マッキンリーに一人で登りたい、と言ったら先輩は猛反対でした。でもどうしても僕は行きたかったんです。登れなくてもいいから、世界の山というものを感じてみたかったんです。1年間の悶々とした気持ちなどがあって、多分自分の中でリベンジしたいという思いがあったのかもしれないですね。ここでやらなかったら、いつやるのかと。

マッキンリー挑戦の意外な理由

田中舘

マッキンリーと口で言うのは簡単ですけれど、北米の最高峰に挑むというのは、当然知識や技術、費用などが必要ですよね。そういう問題はどう解決されたんですか。

栗城

実はマッキンリーというのは、7大陸の中で一番料金が安い山なんです。

田中舘

安いというのは?

栗城

例えばエベレストですと、入山許可代だけで約200万円位かかります。

田中舘

へぇ…。

栗城

でもマッキンリーは入山許可代が1万8千円ですから。許可代がいらないのは、日本の山だけなんですね。

田中舘

日本はありませんよねぇ。これはちょっと面白い。

栗城

はい。富士山も許可代はありませんが、世界の山は普通ほとんど許可代が必要で、例えばゴミを回収したりする環境保全のために使われたりするんです。

田中舘

なるほど。

栗城

それでマッキンリーは許可代が一番安かったのと、シェルパという荷物を運ぶ人を雇わないで、一人で入山できるところがよかったので、行ってみたんです。

田中舘

それが何歳の時?

栗城

22歳の時です。

田中舘

マッキンリーに行くためには、どのくらい費用が必要だったんですか。

栗城

30万円くらいですね。当時は本当に貧乏で、本来そういう高い山に行く時の食料は、アルファ米というお湯を入れるだけでご飯になるものを持って行くんですね。当時僕はそれが買えなくて、生米を4kg担いで登って行ったんです。ところが、気圧の関係で生米は高所では炊けなかった。標高5,000mから炊けないという先輩方の話だったんですけれど、僕はそれを伝説かと思っていまして(笑)。でも実際に炊けなくて、食糧難になったということがありました。

田中舘

どうやって食料をつないだんですか?

栗城

登頂を終えたアメリカ隊が、僕が外でお米を炊いているのを見て「何で生米なんか持って来ているんだ」と怒って、彼らがチョコレートとか余ったお菓子を分けてくれて、それで食いつないだんです。

田中舘

ということは、一般的に山を知っている人たちから見れば、無謀な登山ですよね。

栗城

無謀ですね(笑)。

田中舘

言葉の問題はなかったんですか。通常だったら英語でしょ。

栗城

はい。南米はスペイン語ですし、アフリカはスワヒリ語だったり、ロシア語やフランス語なんですが、全部もうUhとHuhだけでやってきました(笑)。

田中舘

見よう見まねのジェスチャーですね。それで通じるものですか?

栗城

いや、通じていないと思いますけれど(笑)。マッキンリーを指差して、ここに行きたいんですと言ってバスに乗ったり…。でも本当に色々な人たちに助けて貰いました。

田中舘

マッキンリーの時も、シェルパとか現地の協力者は全くいなかったんですか。

栗城

全くいなかったです。今では8,000mになると、ベースキャンプにスタッフを揃えないと登れないんですけれど、それまでは本当に一人で千歳空港へ行って、一人で帰ってくるというような感じでした。

田中舘

登山家としてのスタートが違いますよね。ある部分では無謀だし、ある部分ではニートの登山家っていうのがそこに表れてくる。それで、そのマッキンリーに登頂する間に、栗城くんの中ですごい経験だとか思い出というのはありますか。

栗城

ありますね。周りの登山家の先輩方からは、不可能だとか、お前は死ぬぞという話を洗脳されるように聞かされていたんです。賛成して応援してくれる人は誰一人いなかった。100人中100人が猛反対の中突き進むわけなんですけれど、やはり高山病などで苦しむと色々な不安が出てくるんです。4,000m位から生まれて初めて高山病になったんですが、頭痛や吐き気がひどくて、物が食べられなくなる。でも、実は高山病というのはちゃんと克服できるようになっているんです。だからこの高山病を乗り越えたら次の新しいステップに行けるんだというふうに、気持ちだけは常にプラスの発想でいようと、逆境に負けないようにしました。

田中舘

高山病を緩和する薬みたいなものはあるんですか。

栗城

あります。ダイヤモックスという、いわゆる利尿剤なんですけれど高所にも効くんですね。でも僕はそういうものは使わないで、あくまでもナチュラルな体で行って、ダメならまた引き返して、また行くというのを繰り返すんです。そうやって体を調整しながら行く。でも、高所で何が一番辛いかと言うと、横になって寝られないんですね。人間が一番呼吸が浅いのは、寝ている瞬間なんです。ですから荷物を後ろに積んで、体を起こした状態にして腹式呼吸をして、自分の体が良くなってくるのをずっとイメージしながらいまして…。

田中舘

私が富士山に登って自然行をやっていた時、富士山の8合目の山小屋で一週間いましたけれど、その程度でも酸素が薄くて寝にくかったですよ。マッキンリーの標高は何mでしたっけ。

栗城

6,194mですね。

田中舘

だからかなり酸素は薄いですよね。地上の半分くらい。

栗城

はい。相当きついですね。

頂上3m手前が感動ゾーン

田中舘

マッキンリー登頂の中で、今の栗城君を育ててくれたメンタルな部分や思いってありますよね。その中で一番、今もすごく役立っているようなものって何でしょうか。

栗城

そうですね、一つは登山というのは天候にすごく左右されるんですけれども、実は体力とかよりも、気持ちで全てが変わるんだなということがわかりました。例えば5,800mの一番高いテントに3日間閉じ込められていたんですが、フランス隊とかアメリカ隊は、天気が悪くなるとみんな下りていくんです。僕はそこに一人だけ残り続けたんですけれど、これは何故かというと、自然界は天気が悪くて台風や嵐が来ても必ず好天気が来るようになっているじゃないですか。

田中舘

自然界のリズムがありますよね。

栗城

ええ。天気が悪いからダメかというと、そうではないんですよね。天気が良いときしか動けないでいると、頂上で天気が悪くなると大変なことになる。

田中舘

そうすると、天候に慣れるということですね。

栗城

そうです。それがマッキンリーで非常に勉強になりました。

田中舘

山をクリアするためには、好条件の時だけでなく、悪条件でも対応できるように心身を鍛えるということを学んだ。

栗城

そうなんです。僕もやっぱり天気が悪いと行きたくないなとか、どんよりしちゃうんですけれど、実はそうではなくて、天気が悪くても「あぁ、これは次に天気がよくなるからいいんだ」という風に思えるようになったんです。それは大きいですね。

田中舘

なるほど。

栗城

でも頂上に着いてびっくりしたのは、その時に一番感動するのかと思っていたんですが、多分三浦雄一郎さんもそうだと思うんですけれど、登山家にとって一番感動する瞬間というのは、頂上から3m位手前に来た時だったんですね。これはびっくりしました。

田中舘

へぇ…。3m位頂上の手前に来ると、どんな感じになるんですか。

栗城

頂上に夢があって、その夢が叶うと実感する瞬間ですね。もう這ってでも行けますから。

田中舘

私なんかは格闘家だったので、精神的よりもむしろ肉体的に、栗城君とは違うストイックなトレーニングをやっていたわけですよ。それである時に、体の中の細胞が全く無目的で飛び出してきて、個々の細胞とか器官があらゆる意思を持った動きをするというのを感じた時があったんです。だから通常だったらパッケージの中の肉体が、肺は肺、胃は胃、腸は腸として個々の臓器が自分たちの言い分を、私に訴えるような時期があるんですよね。超常的な部分でね。トランスパーソナルな自然界の法則って言うんですけれど。
だからそういう感じを次元の狭間の中で感じたことが多分あるんじゃないかと思うんです。だから生と死だけではなくて、自然界の中で人間がチャレンジできる限界の次元の層っていうのがあって、それは目に見える壁ではないんだけど、例えば登頂する3m手前に感じるエネルギーがほわーっと共感しあえるとか、自分の意思とは別に、体内のそういうエネルギーが、自然界とコミットするみたいな。

栗城

そうですね。最後はこう、一致するような感じなんですよね。

田中舘

そうそう。

栗城

その時に、何かこう、わからないですけれど涙がボロボロ出てきちゃうんです。

田中舘

私事ですが、格闘家だった頃、タイのルンピニースタジアムでサタンファというミドル級のチャンピオンとタイトルマッチをやったんです。その時に初めてノックアウトされたんですが、肉体が空洞になった感覚に陥った。その時は痛みも無くて至福感を感じているんです。あれは今までの人生で感じたことのない、異次元の時空間の中で自分の意識だけが彷徨ったという感じ。だからそういう壁を越えた次元のヒエラルキーとか、トランスパーソナル次元での時があるんじゃないかと思うんです。

栗城

やはり僕も8,000mを登っている最後のアタックの時とかに、これ以上進んだら自分の体だけがここにあって、自分の意識だけが前へ行っちゃうんだろうな、という時があります。

田中舘

あるでしょうね。

栗城

ええ、まるで幽体離脱みたいな(笑)。でもそれは苦しいという感覚ではないんです。なんか、すーっと行ってしまって後ろを見たら体だけが残されているみたいな。

山頂で最初に思うこと

田中舘

なるほどね…。それでマッキンリーに登頂されて、頂上にはどれくらいの時間いたんですか。

栗城

だいたい15分くらいだと思います。

田中舘

気温は何度くらいですか。

栗城

外気はマイナス25度くらいだったと思いますね。

田中舘

その時は、やった!やった!という気分ではないんですか。

栗城

そんな感じは全くなくて、ひざまずいていましたね。

田中舘

それは肉体が疲れていたから?それとも感謝の気持ちで。

栗城

やっぱり感謝の気持ちが一番大きいです。

田中舘

うーん…。

栗城

ここまで来れたっていうのは、自分の力じゃないなっていうのがすごくありました。天候だったり色々な人たちに対する感謝の気持ちだったり。そういうのがあったからこそ、ここまで来れたという…。

田中舘

頂上で彼女の映像は出てきました?

栗城

彼女ですか、いや、全く出て来なかったですね(笑)。もしかしたらエベレストで出て来るかもしれませんけれど。

田中舘

なるほど(笑)。よく登山家の人たちに聞くと、登る時よりも下りる時の方が危険だと言っていますね。初めて登頂して下りる時は、トラブルはなかったんですか。

栗城

大きなトラブルはありませんでしたけれど、体はもうボロボロでしたね。燃え尽き症候群と言われるみたいですが、頂上に向かっている時は夢があるので、もう信じられないくらいの力が出るんです。それが夢が叶った瞬間に、下界にいるいつもの自分に一瞬戻ってしまう。放心状態ですね。エベレストでも7割くらいが下山中の事故なんです。

田中舘

栗城君はもちろん下山中も一人ですよね。孤独で心身ともに疲労困ぱいの中、どうやって自分を勇気づけながら下りて来るんですか。セルフコントロールの秘訣みたいなものがあるのかな。

栗城

まず、お父さんに会いたいというのがありましたね。お父さんは僕のことを、ずっと信じてくれていたので、早く会って登頂達成を伝えなきゃという気持ちがありました。それを伝えてこそ、初めて僕の登山が成功すると思っていましたから。

田中舘

亡くなったお母様は映像には出て来なかった?

栗城

あ、出て来ます。僕の母の墓石には「夢」と一文字入っているんですね。親子揃って夢を大切にしようということで。

栗城史多

栗城史多プロフィール
1982年北海道生まれ。札幌在住のソロアルピニスト。高校卒業後、1年間東京でアルバイト生活を送る。その後北海道に戻り、2003年大学在学中に登山を開始。2004年の北米最高峰マッキンリーの単独登頂成功を皮切りに、南米最高峰アコンカグア、ヨーロッパ大陸最高峰エルブース、アルプス最高峰モディ、タキュル、モンブランの3山の単独縦走に成功。その後、アフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ、オセアニア最高峰のカルステンツピラミッド単独登頂も成功を収める。2007年には南極最高峰ビンソン・マシフ再挑戦にて単独登頂を達成。身長162センチ、体重60キロという小柄な身体で、山との対話を大切にしながら、ついに7大陸最高峰のラストとなるエベレスト(8,848m)単独・無酸素登頂を目指して現在奮闘中。エべレスト単独無酸素登頂は、未だ日本人では成功した人はおらず、その冒険の模様をインターネットで全世界に動画配信を予定。

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