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最終更新:2012年4月16日(月) 20時51分

飯舘村、102歳男性の遺族の訴え

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 南相馬市の隣の飯舘村は全村民の避難が続いています。政府が避難の決定を発表したのは震災発生の1か月後。その夜、村の最高齢の102歳の男性が決定を苦に自殺しました。あれから1年、賠償を求めた遺族に対して東京電力が出した回答は、どんな内容だったのでしょうか。

 飯舘村から南相馬市に避難している大久保美江子さん(59)。美江子さんは今月8日、墓参りのために飯舘村を訪れました。

 「じいさんの好きな煮物あるよ」(大久保美江子さん)

 美江子さんは去年、夫の一男さんと義父の文雄さんを亡くしました。2人は地震や津波で命を落としたわけではありません。夫の一男さんは末期のすい臟がんで、南相馬市の病院に入院していました。しかし、原発事故で新潟への転院を余儀なくされ、そのまま6月に息を引き取りました。最期まで「福島に帰りたい」と繰り返していました。

 「原発さえなければ、そんなに苦しまなくても良かったかなと」(大久保美江子さん)

 父の文雄さんは村で最高齢の102歳でした。しかし、去年4月、村から避難しなければいけないという決定を苦に自ら命を絶ちました。美江子さんの日記には、こんな文雄さんの言葉が残されています。
 「生きすぎたなー。こんなに長生きしなければ」

 日付は4月10日。村の人たちにはふるさとを追われるのではないかという不安が高まっていました。
 「母ちゃん、いいたて出んのか。おれ、出ない。どこにもいかねー」

 そんな文雄さんを美江子はこう励ましていました。
 「大丈夫だよ。行かない。今年も誕生日やろうね。み<$s$J=8$a$F!#$8$$!"%,%s%P%l!#;d$b%,%s%P%k$h!W

 しかし、この翌日。政府は年間の被ばく量が人体に影響を及ぼすおそれがあるとして、飯舘村を計画的避難区域に指定することを発表しました。文雄さんはその夜、大好きな煮物を口にしませんでした。そして翌朝、住み慣れた自分の部屋で自ら命を絶ちました。

 「つらかったのだろうなと。避難の話がなければ、そんなこともなかったのだろう」(大久保美江子さん)

 しかし、美江子さんのもとに先月届いた賠償の知らせは、納得できないものでした。文雄さんの自殺に対する賠償はなく、東京電力は「原発事故との関連が認められないと賠償できない」と説明しました。

 「やりきれないです」(大久保美江子さん)

 あの日から1年あまり。美江子さんは自らも「死」という選択が頭をよぎった瞬間が度々あったと振り返ります。

 「自分でもやばいのではというときが何回もあった。このまますーっといったら楽なのかなと」(大久保美江子さん)

 夫と父の2人がどんな思いを抱えて亡くなったのか。せめて、そのことだけでも分かってほしいと美江子さんは話します。

 「まだまだ生きられただろうと思うと、一番の被害者だったのでは。まだまだ生きられる命だった。それだけは(東京電力に)分かってもらいたい」(大久保美江子さん)
(16日16:28)

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