「がれき」の処理が大きく問題視されています。
放射能がれきは何故出来たのでしょうか。
原発が爆発して壊れたからですが
何故爆発したのでしょうか。
想定外(と言われています)の大津波が来たからですが
大津波が来たら何故大量の放射能をまき散らす大事故が起きたのでしょうか。
とても簡単に言えば
制御出来ない核を問題視しないで使っていたからです。
人には制御出来ない、しかも外へ飛び出したらもうどうにもならないもの
取り返しのつかないものを使っていたからです。
原発に反対すると沢山のレッテルを貼られます。
アカ。核アレルギー。反日。過激派。自己中。変人。現実を見よ。。。。等々
反対する人ってそんな人たちなんでしょうか。
福島の原発で事故が起きて1年が経ちました。
そして福井で止まっていた原発を再稼働させようとの動きが活発になって来ています。
大事故が起きて見通しも立たず、がれきも残ったまま
多くの放射能にさらされた(る)地域はどうなるのかも決まらないままです。
それでも、このままでは夏の電力が不足すると言われつづけています。
それは政府、関係官庁、電力会社の予め意図された筋書き、シナリオに基いてマスコミ報道を通じて私たちの耳に届れられている気がしてなりません。
電力が不足するとこの春の大口への値上げに続いて家庭の電気料金も上がる
それに何もかも、値上がりするなどと不安定な雇用や続く不況を踏まえての身近な脅威をあおり
全ての不安要因は電力供給の安定で取り除かれるとの意図で原発再稼働への世論操作・誘導がなされていると思うからです。
そんな今だからこそ、もう一度原発の事を考える必要があると思います。
紹介する文章は1997年に書かれたものです。(2つ目は2001年のものです。)
お友達の
上関の記事を読んで、やり取りの中で再度紹介されたものです。
発表された当時より今の方が真剣に受け止められると感じます。
http://www.iwaishima.jp/home/discuss/discuss.htm
1982年に中国電力が山口県上関町四代田ノ浦に出力135万キロワット級の沸騰水型軽水炉2基の建設計画を発表した。原発建設予定地は祝島の対岸、海を隔ててわずか4キロ先だ。もしここに原発が建設されれば、祝島の島民は毎日原発と向かい合って暮らさなければならない。また、祝島と建設予定地との間は豊かな漁場で、祝島の漁師さんたちの生活基盤になっている。いや、漁師さんたちだけではなく、祝島の島民はみんな、ここで獲れる新鮮な魚や貝や海草を毎日のように食べているのである。
この計画が発表された直後から島では当然激しい反対運動が起こった。おそらくこの時点では島民のほぼ100%が反対であったと思う。しかし、その反対運動が個人攻撃になってしまったために、原発そのものには反対の立場だが、その反対運動のやり方に疑問を呈する人たちも現れた。過激な反対派は自分たちの反対運動についてこない人たちをも推進派と称し、反原発デモの攻撃対象とした。それ以来じつに15年間、祝島は反対派(9割)と推進派(1割)に二分され、対立するという不幸な状態が続いている。この間、伝統の「神舞」も2度中止になっている。かつて誰もがお互いに助け合って生きてきた人たち同士なのに、今は対立する派閥の人とは互いに話もあまりすることがない。この状態はいつまで続くのだろうか。なんとかして元のような状態に戻せないものだろうか。
日本各地の原発建設予定地(ほとんどは過疎地)でも同じような状態が起こっている。住民同士の対立を生んでまで原発を誘致する必要が果たしてあるのだろうか。確かに原発が建設されると地方自治体に莫大な交付金が入り、町の財政は安定し、それによって道路やいろいろな福祉施設などが建設されて便利にはなるだろう。しかし、一方では住民の対立や自然破壊などを引き起こす。しかも、現在各地の原子力施設で事故や故障が発生しているように、原発は絶対に安全なものではなく、核廃棄物の処理方法もいまだに確立されていない。国内の各原発施設には、処理できない核廃棄物が貯まり続けている。原発の近くに住む人々は常に不安を抱いて暮らさなければならない。上関原発の場合は、特に予定地の真正面に位置する祝島に住み続けるのは、ものすごく不安だ。国内の他の原発施設でも、住宅地のこれだけ近距離で、しかも真正面の位置に建設されている施設はおそらくないだろう。「原発で町は発展するのだから、祝島のものは我慢しろ」とでも言うのだろうか? そもそも、豊
かな自然環境は上関町の大きな(そして唯一の)財産でもあるはずで、これは上関町としても
そういうふうにPRしている。にもかかわらず、大きな自然破壊を伴う原発を誘致するとは、ばかげた話である。実際に原発の建設や運転によって、どの程度の自然破壊が起こるか想像はつかないが、人々が上関町に対して抱くイメージとしては、「自然がたっぷりあって、新鮮な海の幸が食べられて、のんびりくつろげる町」という従来のイメージから、「原発があって、できればあまり近づきたくない町」というイメージに変わるのは明らかである。あの東海村の原子力施設の事故でも、現地の農作物などは事故による物理的な影響よりも、人々が抱く「あそこの農作物は危険」というイメージによる影響の方が遙かに大きく、農家の人たちもそのイメージを払拭するのに四苦八苦していたのである。そういう意味からも、上関町にとって原発誘致は大きなイメージダウンになるだろう。
情報通信技術と物流の発達によって、これからは田舎にいても、個人の技量とアイデアによって都会と変わらない仕事もできるようになっていくだろう。そうなると、住みにくい都会を離れて、上関町に帰ってくる人たちも徐々に増えていくだろう。その時、原発の存在は大きな足枷になってしまうのではないだろうか。わざわざ原発の近くに住むために帰ってくる人などいるとは思えないからだ。原発を建設することは、原発以外の町の発展の道を閉ざすことにつながり、それこそ「原発なしではやっていけないつまらない町」になってしまうのではないだろうか。
中電の発表から15年以上が経ち、経済情勢や人々の考え方も変わってきている今、上関町の将来のために本当に良い選択は何か、再考すべき時にきていると思う。
祝島の人々のようにまっとうに生きること 小出裕章
週刊SPA!の2001年6/14・21合併号の記事で、祝島と上関原発について、小出裕章氏(京都大学原子炉実験所助教)の見解が紹介されています。コメント欄で教えていただきました。記事の一部が紹介されているページ 小出裕章が考える 原発と闘う小さい島の30年史 (2011.06.06)
http://www.iwaishima.jp/home/discuss/discuss.htm
10億円受取り拒否 原発を拒み続ける小さな島 (2011.06.07) 小出先生の見解部分(転載)「今まで上関に原発が建てられなかったのは、祝島の島民が行政・電力会社の圧力に屈せずに反対してきたからです。単純なようですが、彼らがお金の誘惑に屈せず、自然とともに生きる島の暮らしを貫く限り、上関に原発はできないと考えていました。
原発を受け入れると、補助金事業などで一時は潤いますが、豊かな自然環境を壊された地元は、農業・漁業・観光産業が衰退してしまいます。賛成派と反対派の争いのなかで、地域の繋がりまでも失ってしまう。そして何もなくなった住民たちは、生活のためにさらに原発を欲しがる・・・・。こうして、原発依存からずっと抜け出せなくなってしまうのです。
祝島の人々のように、一時のカネに左右されず、まっとうに生きること。子供たちに残したい地元の姿を想像すること。それを目指すだけで、原発は不要になります」
もう一度、原発の事を考えましょう。
今、稼働を中止しても残った核物質が消えるまで気も遠くなるような時間がかかります。
原発に反対する事は自分だけが良ければいい。と言う事ではありません。
ついでにもうう一つ。
日本は原発の輸出もやめた方がいい。
世界で脱原発・反原発を広める役割を果たす方がいい。
原子力爆弾を落とされた世界で唯一の国でしかも、取り返しのつかない原発大事故を起こした国なんです。
追記
桜が今を盛りとばかりに咲き誇っていますが
こんな記事を見つけました。
こちらも2006年と新しい記事ではありませんが事故の起こる前の原発への警鐘です。
神田雑学大学 平成18年4月14日 講座No307 さくらと原発