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2012/02/27

【盲導犬アトム号失踪】 某愛護団体 / 県に選別優先貸与を迫る! by I.H.

盲導犬アトム号失踪と黒い署名活動批判 2/5

 盲導犬アトム号失踪に関連して「ネット暴走」の火付け役として西日本新聞によって指弾された長崎ライフオブアニマルは、四面楚歌を打開する切り札として署名活動を開始しました。彼らは、その署名で福岡県に「盲導犬をユーザを選別して優先貸与するよう」に迫っていることが明らかになりました。

1、法人自らが責任を持って自主的・自律的に運営を行う。
2、事業が目的に照らし適正に行われているか?

 九州盲導犬協会は、福岡県知事より公益認定された公益財団法人です。このような組織では、「法人自らが責任を持って自主的・自律的に運営を行う」のが基本になっています。その一方で、県が「事業が目的に照らし適正に行われているか?」を監督し指導することになっています。

>「監督」は、
>公益法人の事業の適正な運営を確保するために必要な限度において、
>また、
>公益目的支出計画の履行を確保するために必要な範囲内において、
>行うものである。

 福岡県が九州盲導犬協会に対して行う監督とは、このようなものです。「必要な限度において」、「必要な範囲内において」というのは自主的・自律的運営の原則を踏まえたものです。

Photo

■某愛護団体は選別基準の導入を要望!

 長崎ライフオブアニマルは、前書き1で九州盲導犬協会の対応に不信感を持っていることを明らかにしています。前書き2では、「貸与条件、適格性を有するユーザーに優先して盲導犬が貸与されるべきです」と要望を述べています。前書き3では、「協会の事業内容、盲導犬の管理体制は改善すべきと考えております」と署名活動にいたった事情を述べて絞め括っています。つまり、前書きで具体的に要望していることは次の一点です。

>限られた資源である盲導犬を、
>貸与条件を充たさない、
>またはその可能性が高いユーザーに貸与しないことが、
>視覚障害者の福祉の増進に不可欠な要素といえます。

(「公益財団法人九州盲導犬協会の事業活動改善、および監督・指導を求める署名」より)

 平たく言えば、「福岡県は、九州盲導犬協会に対して盲導犬ユーザの(家族構成、居住環境や収入等の)条件審査と(人格等の)適格性検査を背景とした優先貸与方式を導入するように指導せよ!」ということです。このような要望にいたった背景には、愛護団体の視覚障害者に対する根深い偏見と貸与制度に関する無知があると思われます。

■福岡県は<選別優先貸与>を指導するのか?

 福岡県が九州盲導犬協会に「選別に基づく優先貸与方式を導入せよ!」と運営のあり方に立ち入って指導することは、自主的・自律的運営の原則に照らして妥当なのか?監督官庁と言えども「盲導犬ユーザの選別による優先貸与」という特異で非現実的ななルールを盲導犬協会に押し付けることが出来るのか?非常に疑問の残るところです。多分、福岡県はこのような視覚障害者に対する偏見に基づく差別を助長する要望には応えないでしょう。

>盲導犬の事に関しては
>つい先日まで、ほとんど勉強する事も
>ありませんでした。
>盲導犬に関しては個人的には良い印象はありません。

(2012-02-02 11:12:57 長崎 Life of Animal)

 長崎ライフオブアニマルの地金が署名用紙に思わず知らず出てしまったようです。なお、彼らが署名用紙を回収、訂正することは意地でもないでしょう。私の指摘は、「曲解と錯誤に基づく難くせ」として一蹴されることは間違いありません。「協力するしないもあなた次第!」という独善と居直りが彼らの体質ですから・・・。

2012/02/26

【盲導犬アトム号失踪】 某愛護団体 / 贖宥状?署名活動を開始! by I.H.

盲導犬アトム号失踪と黒い署名活動批判 1/5

 2012年2月25日、長崎ライフオブアニマルは自らのブログで署名活動を開始することを明らかにしました。署名活動の表向きの主体は「盲導犬とより良い暮らしを考える会 」を名乗る同団体のフロント。「九州盲導犬協会の事業活動改善、および監督・指導を福岡県に求める」というのが署名の建前ですが、そこに至る経過を考えれば同団体の体面を取り繕うための黒い署名活動と言えます。長崎市民の方からも、「行方不明中の盲導犬アトム号を発見し保護する活動とは縁もゆかりもない保身の為の行動にしか過ぎない」との憤(いきどお)りの声も寄せられています。

 西日本新聞によって厳しく「発信責任」を指弾された長崎ライフオブアニマル。想定外の成り行きに慌てて始めた署名活動。その結末は彼らの期待を裏切るものとなるでしょう。世間の風当たりをかわすためにフロントを仕立てての工作ですが、ネット史に記録される前代未聞の暴挙の責めを免れる贖宥状になることはないと見られています。

■引き続き盲導犬アトム号発見につながる情報を!

 本ブログに寄せられている盲導犬アトム号に関する情報は公開していません。中には、アトム号の発見と保護とに寄与する可能性のある貴重なコメントも書き込まれています。是非、引き続き発見と保護につながる情報をお寄せいただきますよう伏してお願いしておきます。

※フロント: 本体である団体に代わって表立った活動を行う組織。バックに在る団体の隠れ蓑。
※贖宥状(しょくゆうじょう):責めや罪を免れるための行為や企て。

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2012/02/23

【盲導犬アトム号失踪一ヶ月】 人は騒ぐに任せよ!

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 先月の23日、長崎で一頭の盲導犬が行方不明になりました。必死の捜索活動が続けられている最中に、某動物愛護団体がうわさをもとにした「虐待」記事をブログに掲載。それが発端となって盲導犬ユーザへの「嫌がらせ電話にまで発展」したことは周知の通りです。この騒ぎを2月22日付けの西日本新聞は「『盲導犬虐待』ネット暴走」と報じました。記者は、「誰もが情報発信できるネット社会で、発信責任や受け取り手の冷静さが求められている」との一文でリードを結んでいます。

 さて、皆が冷静さを取り戻しつつある今、あらためて浮上してきたのが盲導犬アトム号を保護するという課題です。

>各方面の方々の協力を得ながらアトム号を探しておりますが、
>未だアトム号を発見するに至っておりません。


 九州盲導犬協会は、2月7日に発表した「盲導犬アトム号失踪について』(続報)」でこのように述べています。それから16日が経ちましたが、以前として状況は好転していません。

  普通に考えて、単にアトム号を匿っただけならば後始末という動きがあってもよい頃です。ですが、そういう幕を引く動きが漏れ聞こえることすらありません。このような先行きがまったく見えない状況をいかに転換するのか?アトム号保護の目途が立たない現状を、どのようにひっくり返すのか?これが、現時点での最も重要な課題となっています。

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■某動物愛護団体は騒ぐに任せよ!我らはアトム号の発見と保護へ全力!


 2月22日の西日本新聞の報道を受けて、某動物愛護団体は(世間?との)対決姿勢を前面に出しています。そして、「(私達の「告発」の正当性を示すには)早急に署名開始に向けて動くしかありません」と体面を保つことに軸足を移しています。三度始まった懲りない面々による煽り煽られのコップの中の嵐。「某団体は騒ぐに任せよ!我らはアトム号の発見と保護に一点集中!」というのが、今の私の心境です。

 
どんな些細な情報でも構いません。小さい情報でも数多く集まれば、アトム号の失踪事由の輪郭を浮き上がらせます。そして、それはアトム号の発見と保護とに寄与します。九州盲導犬協会の姿勢を質す云々は、アトム号を発見してからの課題です。抗議電話などのアトム号捜索活動の力を削ぐ行動は今は控えるべきです。そのことを踏まえた上で、アトム号発見につながる情報を九州盲導犬協会へ。

>今こそ、盲導犬アトム号の発見と保護へ全力を!

 今日は2月23日です。盲導犬アトム号が行方不明になって丸一ヶ月が経ちました。アトム号への思いは募るばかりです。「今こそ、アトム号の発見と保護へ全力を!」と訴えておきます。

2012/02/22

西日本新聞 / 「盲導犬虐待」ネット暴走!

 西日本新聞は、2012年2月22日付けの31面で盲導犬アトム号の失踪に関連して「『盲導犬虐待』ネット暴走」という大見出しの記事を掲載しました。「長崎の男性へ中傷次々」、「無責任に根拠なき発信」という小見出しを持つ8段の囲み記事です。なお、下記に紹介する記事画像は、同社の使用許可を得て掲載しています。著作権は西日本新聞社にありますので画像をコピーしての転載は行わないでください。ハイパーリンクという形で紹介されるのはOKです。

Photo_4
西日本新聞社提供

2012/02/21

【盲導犬アトム号】 某愛護団体の妄動は時を越えて! by I. H.

Koinu
▲「ペイント」でシコシコと書いたものです。

 長崎ライフオブアニマルらが公開した盲導犬アトム号の写真が YouTube 上に動画となって公開されました。この件で改めて一文を書くことはしません。その代わり、これまでに公開した一連のそれから関連箇所を抜粋・再録します。 
 
1、2012/02/03「長崎発:盲導犬ユーザ糾弾にみる事実と真実」より。
 

  
 それはさておき、私は、繰り返し告発者には4つのすべしが求められると指摘してきた。

  
1、事実と真実との違いをはっきりと認識すべし。
2、関係者の人権と心情に配慮すべし。
3、情報発信が他者に及ぼす影響も検討(考慮)すべし。
4、時を越えて、場を越えて生き続ける写真の公開は慎重にすべし。

・・・・・

 写真は、前後の関係を切り捨てた一瞬の切り取りに過ぎない。決して、事象の全体像を反映している訳ではない。それなのに、写されている事象に対する印象を2000字を越える長文の記事以上に与える一種の化け物である。写真そのものには、つらつらとした説明が書かれている訳ではない。それゆえに、写真は人々に様々な印象を与え、種々の解釈を生む。<これって、どういうこと?>から<これこそ、正に虐待の存在を示す証拠>まで、その解釈は見る側の知見の差で十人十色。写真のかかる特性を利用すれば、風評を真実に仕立て上げる道具として悪用できる。盲導犬ユーザに対するバッシングを組織する武器としても活用できる。これをやるかどうかは、情報発信者の倫理性いかんである。
  
 

<エセ告発者は、写真の公開をもってルビコン川を渡った>  

 たかが、歩きながら排尿している盲導犬の姿。されど、歩きながら排尿している盲導犬の姿。この公開された写真は、必ずや、時を越えて、場を越えて生き続けるであろう。すなわち、かかる写真の公開によって、一地方の一盲導犬に関する出来ごとは、全国で活動する盲導犬育成組織、その関係者、多くの盲導犬の今と未来とに関するものへと変質したのである。九州の一地方の出来ごとを告発するための写真は、公開されたその瞬間から、全国の盲導犬の今と未来とに影響を及ぼす写真と化したのである。エセ告発者は、写真の公開をもってルビコン川を渡ったのである。ルビコン川を渡り切ったエセ告発者は、もはや、一盲導犬の境遇を憂う動物愛護者ではなくなったのである。ここにこそ、私が、にせの告発者を名指しで告発する至った理由がある。

2、2012/02/08「長崎:盲導犬アトム号ユーザ糾弾事案に関する休筆宣言!」より。

 問題の写真は、盲導犬ユーザを裁くという目的をもって解釈すべきではなかろう。盲導犬協会による歩行指導、現状点検の一場面と率直に理解すべきだと思う。「後退現象はいつでも発生する」という強い問題意識が背景にあるが故の歩行指導、現状点検という理解以外の何があるというのか?「協会スタッフの怠慢の証左」と悪意をもって理解するのは、私には理解しがたい。余りにも恣意的な解釈である。盲導犬協会の歩行指導、現状点検は、盲導犬と盲導犬ユーザの生命そのものに直結したもの。そのことを意識した取組み(Plan ⇒ Do ⇒ Check ⇒ Action のサイクル)の詳細な実態を知らずして、軽々に各自の物差しのみで悪意ある結論を出すべきではない。

3、2012/02/11「【盲導犬アトム号の真実】歪曲と錯誤を正す声が全国へ!」より。

>ヘーッ!なーんだ、そういうことだったのか?
>これじゃー、ネットで言われていることは全くのこじつけだなー!


(1)問題の写真は、盲導犬ユーザの歩行崩壊を示す決定的な証拠ではなかった。
(2)それは、単に、盲導犬アトム号の排泄の特徴を示すものでしかなかった。
(3)加えて、盲導犬アトム号の盲導犬としての資質の後退を示すものでもなかった。
(4)正に、九州盲導犬協会の厳しい歩行指導・点検を裏付ける写真そのものだった。


 長崎ライフオブアニマルが「ドヤ顔」でネット上に公開した写真は、もはや、盲導犬ユーザを「盲導犬を引っ張り歩く老人」と糾弾する武器ではなくなった。九州盲導犬協会の怠慢を指弾する道具でもなくなった。つまり、長崎ライフオブアニマルが強行した正義も大義もないネット上の公開裁判を正当化する根拠ではなくなった。

◇     ◇     ◇

 長崎ライフオブアニマルが軽々に公開した盲導犬アトム号の写真は、今や、時を越え場を越える存在として一人歩きを始めました。

※妄動(もうどう)=無分別に事を起こすこと。理非をわきまえない行動。

2012/02/20

【盲導犬アトム号失踪】 なぜ?表面化しない後処理!

Photo_2
 いかなる行動にも、前段取⇒実行行為⇒後処理の3つの工程があります。

(1)一頭の盲導犬が29日間と長期に渡って行方不明になっている。
(2)体長1メートル、体重34キロの大型犬にも関わらず目撃情報が一切ない。
(3)その一方で意図すら読めない不確かな生存情報も伝えられている。

 これが、今回の盲導犬アトム号失踪(行方不明)の3つの特徴です。

 私はかって一頭のシベリアン・ハスキー犬を夜陰に紛れて保護したことがあります。ただし、私は、その翌日に事情説明に出向いています。突然の訪問に驚かれましたが、そこは同じハスキー仲間。家人とは意気投合。目出度く、私とハスキーの元々の飼い主とは円満和解して現在に至っています。

 このように、個人が行う通常の保護活動では「かっさらってそのまんま」なんてことはありません。普通は、後処理というプロセスがあるもんです。平たく言えば、義を重んじるならば落とし前を付けるものです。そして、この落とし前の付け方次第では事態をまーるく収めることもできます。しかし、今回の件では何らの後処理らしき動きがありません。ここが、私が最も解せないところです。

>義なれば落とし前を!義でなくても後処理を!

 今、私が願っていることは、この一言に尽きます。仮に、事件、事故が背景にないのであれば、後処理に向けて動くべきです。後処理が遅れれば遅れるだけ義が義ではなくなります。時には前後見境いない行動をする私ですが、「落とし前をつけて何ぼ!」と思っています。

                      ◇     ◇     ◇ 

 某犬猫レスキューの妄動を思い出してはカッカと頭の中で火山が大噴火。だが、盲導犬候補生アンジー号の顔を見たら、それも少しは収まります。顔をペロリとされたら、もはや完全に怒りは鎮火してしまいます。そうして、アンジー号と散歩に出れば筑紫野に春がやってきつつあることを感じます。春を告げる山野草を見つけながら歩く。これは盲導犬候補生と暮らしている者の特権です。これは犬と暮らしている者の特権です。

                      ◇     ◇     ◇ 

 盲導犬アトム号にも季節を感じて歩く日々が戻って来ることを!

2012/02/18

【盲導犬アトム号失踪】 問われる意思決定のあり方! By I.H.

 私達は、ある事案への対処を巡って賛成・反対、YES・NOの態度表明を迫られることがあります。職場では、それは日常茶飯事。例えば、職場で提出された改善案等について可否の裁定を下すことは管理職としては当たり前の日常業務。そういう時には、次のような判断(意思決定)の3つの基準を念頭に慎重に決定を下してきたものです。

(1)改善原則・・・それが、結果として改善にどれだけ寄与するのか?
(2)倫理原則・・・それが、倫理的に正しい判断に基づいているのか?
(3)配慮原則・・・それが、多くの人に対する十分な配慮を行っているのか?


 意思決定のプロセスは「改善⇒倫理⇒配慮」です。しかし、その順序は必ずしも各原則の重さを反映したものではありません。「改善効果が期待されても倫理違反をしてはいけない!」という意味では、時には社訓、団体訓を含む倫理原則が最も重視されることもあります。


1、改善原則の最も重要な部分とは何か?

 ある社員が、「緊急事態だ!みんな会議室に集まってくれ!」と声高に叫んで仕事中の社員を呼び集めました。そうして、「こうだ!あーだ!」と集まった社員に色々と事態の緊急性について長々としゃべり始めました。

>ところで、その状況をどのように改善するつもりかい?

 この質問に窮するようでは、仕事中の社員を会議室に呼び集める資格はありません。そういう社員は、問題解決には全く寄与しない単なる「おしゃべり社員」でしかありません。

 意思決定の第一基準である改善原則の最も重要な部分は、「結果として改善にどれだけ寄与するのか?」という点です。今回の盲導犬アトム号失踪事案に改善原則を当てはめた場合、「盲導犬アトム号が失踪している現実の解決にどの程度に寄与するのか?」ということです。この点を無視した論議というのは、いわば「おしゃべり」の類と言えます。

  某犬猫レスキュー団体は、当初の段階で「結果として改善にどれだけ寄与するのか?」についての明確な回答を持っていたのでしょうか?発せられたメッセージを幾ら読み返しても、私にはそれが読み取れません。私には、「情報発信だけが目的であって『どういう改善結果を得るのか?』については検討すらされていなかった!」としか思えません。意思決定の第一基準に照らせば、某犬猫レスキュー団体の情報発信の意義そのものに大きな疑問があります。

2、倫理原則は企業・団体の生き残りに関わる!

 倫理原則は、企業・団体の意思決定の根幹にある原則の一つです。それは、企業や団体の行動が関係者、関係諸団体に深刻な被害を与えることがあるからです。その場合、倫理原則をないがしろにした企業・団体側にも信頼の失墜という取り返しのつかない状況が発生します。

 一般論としては、コンプライアンス(倫理規範)違反は次のような企業・団体で発生すると言われています。

・活動優先主義に陥っている企業・団体。(基本的人権よりも目的達成を優先する風土の存在)
・規範意識が希薄な構成員が多い企業・団体。(組織の風土を背景とした規範意識の低下)


>それが公開処刑というのであれば
>人権のため、公の場で真実を書く(風聞を流布する)ことは許されないのですね。
>私達は報道の人間ではないので取材は行いませんよ。
>それは報道のするべきことなので。(2012/01/31 長崎 Life of Animal)

 余りにも堂々としたコンプライアンス違反を物ともしない公開処刑の宣言です。同団体の深刻な規範意識の低下を示しています。

社会的市民的道義について


(1)主観を優先して事実確認を疎かにしないこと。
(2)取るべき手続き・手順を無視しないこと。
(3)限度と節度とをわきまえること。

 この3点は、社会的市民的道義にしか過ぎません。しかし、ここに言う倫理原則の重要な構成要素です。

 盲導犬アトム号失踪事案に関する某犬猫レスキュー団体の意思決定を倫理原則、社会的市民的道義という観点から点検。すると、様々な問題点が浮上してきます。

・風評・風聞の事実確認を決定的に疎かにした。
・当事者に会って経緯・事情・全体について話を聞くという手順を省いた。
・かつ、インターネットという最も無慈悲な刑場に特定個人を晒した。
・結果、限度と節度とは無縁の情け容赦ないバッシングをもたらした。

 昨今の虐め事件には3つの特徴があります。

(1)自分が直接に相手と対峙することはしない。
(2)第三者にバッシングの役回りをさせる。
(3)だから、バッシングに加減というものがない。


 私達は、自分の意思決定に際しては<卑怯が幅を利かす世になった>ことも考慮する必要があります。私達は自らの手を汚さずともインターネットという武器を使えば人一人の命を奪えるという世の中に生きています。そのことを思えば、某犬猫レスキュー団体の意思決定は団体倫理と社会的市民的道義に沿ったものだったのでしょうか?大いに、疑問が残るところです。

3、配慮の原則は人格と人間性、それぞれの知見を問うもの!

 改善原則と倫理原則とをクリアしても、それだけで最終的な意思決定を下す訳にはいきません。最後の最後に考えなければならないのが配慮の原則です。

 盲導犬ユーザの多くは、盲導犬と歩く時に実に様々な配慮を行っておられます。毛が飛び散らないだろうか?「臭い!」と言われないだろうか?「ノー!」という叱責が虐待と取られないだろうか?

>命を絶って謝罪するまでバッシングを続ける世の中!

 これを広く世に知らしめたのも今回の盲導犬アトム号失踪事案の一つの側面です。視覚障害者の方は、世の中に誤解と偏見が存在していることを肌身で知っておられます。盲導犬ユーザも例外ではありません。今回の事件を通じて露呈された世の中の魔の部分に接して、盲導犬ユーザの方はいかなる思いを抱かれているでしょうか?

 この意思決定の最後の基準である配慮の原則の捉え方は十人十色です。それだけに、それぞれの人格と人間性、知見について謙虚に反省する姿勢が要求されます。某犬猫レスキュー団体の主宰者は、「盲導犬については無知であった。盲導犬については個人的に良い印象を持っていません。」と公言しています。そのことを思えば、某犬猫レスキュー団体の主宰者はどの程度の配慮をもって最終的な意思決定を行ったのでしょうか?

 7ヶ月間預かってきた盲導犬候補生アンジー号の講習は中止されたままです。少しづつですが、盲導犬、盲導犬訓練生、盲導犬パピーの今日と明日とに影響が出初めています。2チャンネルの一部の諸子が言うように、過酷な訓練で盲導犬を作出できれば事は簡単です。しかし、訓練で盲導犬は作れません。「適齢適育」-つまり、月齢に応じた育て方が最も大事です。人間の6倍のスピードで成長・変化していく犬達。盲導犬の育成は、ある意味では時間との戦いです。今、私らを襲っている時間のロスは軽視できません。某犬猫レスキュー団体の主宰者はどの程度の配慮をもって最終的な意思決定を行ったのでしょうか?

4、結び。

 盲導犬アトム号失踪事案に関しての私の意見が極めて特異なそれと断ずる向きもあります。しかし、私は職場等での意思決定の際に念頭に置かれるべき当たり前の3基準に照らして問題を提起しているに過ぎません。私は「リーダーが意思決定に際して改善・倫理・配慮の3原則を横に置いた時、無意味で自分勝手で非情な決済を下すことになる。その結果、分別をわきまえない道理を踏み外した妄動行為の展開を許す。」と理解しています。今回の盲導犬アトム号失踪事案に関連したネット上の論議を拾い読みするにつれ、今更ながら意思決定の3基準の重要性を痛感しています。なお、この一文は、自らの意思決定のあり方を今一度確認するために書きました。そうしないと怒りにまかせて暴走しかねない自分がいるからです。

盲導犬アトム号の保護を一刻でも早く!
盲導犬アトム号の確保に一人でも多く!


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2012/02/15

【盲導犬アトム号失踪】 不可解! By I.H.

私は不可解でたまらない。
盲導犬ユーザをインターネットという最も無慈悲な刑場に晒しておいて、
これは個人を断罪する公開処刑じゃないと言うことが。

私は不可解でたまらない。
行方不明中の盲導犬アトム号を自らの思惑の為に利用しておいて、
「犬飼いはかくあるべし」と説くことが。

私は不可解でたまらない。
迷惑をかけまいと努力している盲導犬ユーザがいっぱいいるのに、
誤解と偏見を広めて反省しないことが。

私は不可解でたまらない。
昨日は「盲導犬の深き闇を切り裂け!」の声を煽って、
今日は「盲導犬否定論とは一線を画す!」と言うことが。

私は不可解でたまらない。
「後は勝手にやってね!」と言い残して去って行く扇動者の後姿を見て、
ちーっとも不可解と思わない人もいることが


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
1、風評・風聞の検証はアトム号を保護してからの課題!
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 風評・風聞の検証に関しては、先ずは、九州盲導犬協会が行うべきことです。それに、今はアトム号の保護を優先すべきです。そういう時に、不特定多数が入り乱れてネット上で「あーだ!こうだ!」と憶測で語るのは適当ではありません。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
2、盲導犬アトム号の排尿習慣に関するコメントも控えてください!
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 これに関しては、既に極めて妥当な結論が出ています。また、この件についても「あーだ!こうだ!」の個人的な憶測を戦わすのは余り生産的ではありません。それも過ぎれば、特定の盲導犬ユーザをネット上で裁くことにも繋がります。

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
3、九州盲導犬協会の対応の評価もテーマではありません!
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 九州盲導犬協会の対応が問題になっているようです。しかし、それはしかるべき場でしかるべき手順を踏んで語られるもの。このブログは、そのような重要事項を不特定多数の者が匿名でもって無責任に自己主張を戦わす場ではありません。

 まあ、無名の訪問者も皆無に近い私のブログ。ですが、一応、念のためにお願いしておきます。なお、私は、1月28日の「情報における事実と真実について!」から2月11日の「【盲導犬アトム号の真実】歪曲と錯誤を正す声が全国へ!」の一連の文書において上記の3つに関しては一言も触れていません。それは、私的ではあるがインターネット上に遍く公開しているブログ上で述べることではないからです。コメントを寄せられる際には、そのことも踏まえてもらえれば幸いです。

2012/02/11

【盲導犬アトム号の真実】 歪曲と錯誤を正す声が全国へ! by I.H.

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>ヘーッ!なーんだ、そういうことだったのか?
>これじゃー、ネットで言われていることは全くのこじつけだなー!

 2012年2月11日。福岡県糸島市は晴れだった。気温は8℃。やや強い北北西の風が吹いていた。玄海灘を遠くに望む盲導犬の里で、私達は、歪曲や隠蔽や錯誤をすべて排した事実の数々を目の当たりにしていた。結果、盲導犬アトム号の真実を言葉ではなく事実の積み上げで知ることができた。そして、エセ告発者のそれとは違う本当の真実が静かに全国へと発信されだした。

 真実を語るのに言葉なんて要らなかった。事実をただただ積み上げれば、それで良かった。経緯と事情と全体に関する知見をただただ積み上げれば、それで良かった。「百聞は一見にしかず!」とは良く言ったものだ。「風聞と真実との余りの差」に、我々は今更ながら驚いた。


 経緯と事情と全体の3つを反映しない事象の一瞬を切り取っただけの写真は必ずしも真実を示していなかった。写真という化け物は180度違う印象と感想とを与える場合がある。そのことを知った人々によって、今、盲導犬アトム号の真実が日本中に拡散しつつある。長崎ライフオブアニマルが流布した盲導犬育成事業への誤解と偏見を正す取組みが満を持して始まった。


往訪指導シーンを読み解く4つのポイント】

 閲覧者が皆無に近い我がブログで、事の真相をつぶさに書く必要はないだろう。そこで、ポイントだけを整理して伝える。

(1)問題の写真は、盲導犬ユーザの歩行崩壊を示す決定的な証拠ではなかった。
(2)それは、単に、盲導犬アトム号の排泄の特徴を示すものでしかなかった。
(3)加えて、盲導犬アトム号の盲導犬としての資質の後退を示すものでもなかった。
(4)正に、九州盲導犬協会の厳しい歩行指導・点検を裏付ける写真そのものだった。


 長崎ライフオブアニマルが「ドヤ顔」でネット上に公開した写真は、もはや、盲導犬ユーザを「盲導犬を引っ張り歩く老人」と糾弾する武器ではなくなった。九州盲導犬協会の怠慢を指弾する道具でもなくなった。つまり、長崎ライフオブアニマルが強行した正義も大義もないネット上の公開裁判を正当化する根拠では
なくなった。

>それが公開処刑というのであれば
>人権のため、公の場で真実を書く(風聞を流布する)ことは許されないのですね。
>私達は報道の人間ではないので取材は行いませんよ。
>それは報道のするべきことなので。(2012/01/31 長崎 Life of Animal)


 1月末、長崎ライフオブアニマルは私への反論でこのように言ってのけた。言い方を変えれば、「公開処刑と批判されようとも、我々は人権などは無視して風聞の流布をやってのける。その際、取材を行って風聞の裏付け確認を行う気なんぞさらさらない!」ということだ。彼らには「公の場で真実を書く=報道」という誰もが判る等式すら理解できなかったようだ。こうして、長崎ライフオブアニマルはネット史に記録される前代未聞の暴挙へと突っ走ったのである。その暴挙の根拠が、今、言葉ではなくて積み上げられた事実のみで完全に否定された。「風聞の裏付け確認を行う気なんぞさらさらない」と豪語する者が持ち出した根拠は実に脆いものであった。

 
盲導犬アトム号は、当日も立派にその仕事をしていた。その姿を、その雄姿をこの目で確認した私は、その後、人間のそれぞれの思惑に翻弄されることとなった盲導犬アトム号に哀れさを感じずにはいられなかった。そして、それを阻止できなかった無念さで唇を噛む協会スタッフの姿に心を痛めた。また、自らの組織の思惑を達成するためだけの正義なき扇動、大義なき扇動に盲導犬アトム号を利用した長崎ライフオブアニマルに対してあらためて激しい憤りを感じた。

>皆さんからバトンタッチされた犬の訓練と散歩に支障が出ていることは確かです。
>でも、可能な限りの勤務シフトを組んで犬達へ悪影響が及ばないようにしています。
>今回の事件の影響が犬達に及ぶことだけは責任を持って防ぎます。
>どうか、今しばらくお時間をください。


 九州盲導犬協会のスタッフにとって、長崎ライフオブアニマルの妄動などは眼中にない。あるのは、行方不明になっている盲導犬アトム号の安否。そして、訓練センターにいる犬達のこと。今更ながら、盲導犬協会とは、それぞれの思惑を犬の上に置くことを知らない人達の集まりだと思った。

 盲導犬アトム号の保護を一刻でも早く!
 盲導犬アトム号の確保に一人でも多く!


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■ 無知なればこそ・・・!
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>盲導犬のことに関しては、つい先日まで、
>ほとんど勉強する事もありませんでした。
>盲導犬に関しては個人的に良い印象はありません。

(2012/02/02 長崎 Life of Animal)

 
無知であることは、誰も責めることができない。大概の人間は、自分と直接に関係のない分野については無知に等しいものである。お互い様である。盲導犬に対する個人的な印象も「それはそれ。これはこれ」である。しかし、ならばこそである。そういう無知なる自分であることを自覚すればこそ、九州盲導犬協会とコンタクトを取って経緯と事情と全体の3つを把握するという一手間を重視すべきであった。その一手間を省いて、独断と偏見に基づきネットを武器に特定の盲導犬ユーザと九州盲導犬協会に対するバッシングを組織したのは責められてしかるべきである。

(1)盲導犬の歴史を開拓してきた先駆者達の努力に一切の目を向けない立場。
(2)「盲導犬協会なるものは、深い闇に包まれている!」という独断と偏見。
(3)「盲人の方の盲導犬の世話は叩けば埃が出る!」という穿った見方。
(4)「盲導犬の日々は辛くて哀しい日々に違いない!」との盲導犬同情論。

 人は、時には何とでも言うものである。特に、匿名性の高いネットで特定の盲導犬ユーザと九州盲導犬協会に対するバッシングを組織した場合、それは収拾不能の状況をもたらす。そこには、吸い寄せられるように盲導犬の歴史を一顧だにしない特殊な立場の者が乱入してくる。「今こそ、協会の深い闇を切り裂け!」という空文句に酔う者もでる。「盲人ユーザを叩けばきっと埃がでる!もっとやれ!」と無責任に煽る者も駈け付ける。これらは、「もう、盲導犬の育成なんてのは止めたがよいと思う!」という意見でまとまって行く。

 長崎ライフオブアニマルは、特定の盲導犬ユーザと九州盲導犬協会に対する不当不法なバッシングを組織しただけではない。誤りを恐れずに断言すれば、長崎ライフオブアニマルは「盲導犬不要論の大合唱」のタクト(指揮棒)を振ったのである。ここに、私の強い憤りがある。

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■ 市民からの告発は協会を支える柱の一つ!
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 私が盲導犬ユーザになったとしたら、その一年目は<習って覚えて、試して失敗の日々>だろう。そのトライアル・アンド・エラーにおいて盲導犬ユーザとして疑問視される行為があったとする。それを目撃した市民の方は協会に連絡するかもしれない。いわゆる、市民による告発である。これは、盲導犬と盲導犬ユーザの安全を確保する上でも大事なこと。盲導犬一般に関する偏見を助長する不適切行為を正すという意味でも意義ある行為。更に言えば、それは盲導犬の歴史の前進に寄与する市民力でもある。

 このように、市民からの告発は協会を支える柱の一つである。実際に、市民からの善意ある告発によって盲導犬の引上げを決定するに至った事案が2件ある。一つは政令都市で起きた事案。二つは長崎の今回の事案。前者は実行され、後者は不測の事態で実行が中断されている。

 長崎ライフオブアニマルは、私を告発反対派の急先鋒と看做しているようだ。それは、とんでもない誤解だ。「市民からの告発は協会の活動を支える柱の一つである」という私の認識は不動である。
正義の告発も手段と手法を間違えれば不正義となる。告発の一般的な意義は否定していないし、その行為に口を挟むつもりも毛頭ない。私は、踏むべき手順と手続きを省いた不当不法な糾弾という形の「エセ告発」、盲導犬アトム号の探索を横に置いたバッシング優先の「エセ告発」に強く反対しているだけだ。

 私には、「盲導犬アトム号の安否情報をお願いします!」という情報発信は捨て置かれているとしか思えない。その一方で、「盲導犬アトム号の『虐待』疑惑について語ろう!」という呼びかけが渾身の力をもって継続されている。真偽も定かでない風聞について語るのが、そんなに大事なことなのだろうか?私にとって「虐待」疑惑以上に、そのことが謎である。長崎ライフオブアニマルを筆頭とした諸団体の軸足のズレに強い違和感を感じているのは私だけなのであろうか?


※ 似非(えせ):似てはいるが本物ではない、にせものである、の意を表す。

Lifeofanimal

2012/02/09

【盲導犬アトム号】 保護よりも喧嘩支度! by I.H.

 2012年02月09日の早朝6時13分。長崎ライフオブアニマルの新たなる暴走が始まった。私は再暴走の宣言に接し、先ず、「違うじゃろが!そうじゃ、なかろうが!面子なんて、どうでもよかろうが!」と思った。次に、それが及ぼす影響に強い危惧を抱いた。何としても、彼らの軽挙妄動が及ぼす<盲導犬アトム号の保護出活動>への負の影響を断たねばならない。同時に、彼らを軽率な勇み足という範疇から大きく踏み出させてはいけないと思った。そうすれば、彼らは「正義も極端に主張すれば不正義と受け取られる!という真理の不幸な体現者になってしまう。

 <盲導犬アトム号の保護・救出活動>を進展させるのは、ネット上の極々限られた世論ではない。現地で活動する人。もっと言えば人の数。それが、決定的に大事である。九州盲導犬協会は、長崎ライフオブアニマルの「盲導犬ユーザと九州盲導犬協会をバッシングせよ!」の呼びかけに軽々に呼応した人々の対応に追われていると察する。それが、「
割ける人間も割けない!という事態を生みだしているとしたら、実に残念至極。本末転倒と言わなければならない。

 既に盲導犬アトム号が行方不明であることを承知の上での長崎ライフオブアニマルの軽挙妄動。盲導犬アトム号の保護・救出を横に置いた<ネットを武器として個人と盲導犬協会とを攻撃する正義も大義もなき糾弾ごっこ>。それは、正に、自己の怒りの発散だけを目的としたものだった。一切の手順、手続きを省き、現時点での必要性も十分に検討しないままに見切り発車された暴走行為。それが誤りだったことは数多くの現実でもって如実に証明された。暴走がもたらした想定外の状況と期待外れの結果。これらに直面して、「本意ではなかった!」と言い訳しつつも「面子が潰れた!体面が汚された!」と赤子のようにキレるのはいかがなものか?キレにキレて再暴走を開始した長崎ライフオブアニマルの誤りは三つ


(1)なお、盲導犬アトム号を自らの宣伝・扇動に利用し続ける誤り。
(2)盲導犬アトム号の保護活動から力を分散させる誤り。

(3)手順・手続きを無視した不当不法な暴挙で問題の焦点をズラス誤り。

 この三つの誤りは看過できない。そういう事情で、止むをえず Ichiro Higuchi 名で再び一文を掲載する。


 
長崎ライフオブアニマルは、分をわきまえない九州盲導犬協会は、我が元に来て謝罪せよ!」との扇動を再び開始した。そして、ブログは「煽り、煽られ」の感を呈している。同団体関係者は、「自分達だけが問題を解決できる!自分達なしには問題は解決しない!」と思いあがっている。だから、決して他者に船頭を任すことが出来ないようだ。このように船先に立たねば気がすまない者達は、実は、取組みの行き詰まりとか状況の閉塞感に弱い。先駆者と自認しているだけに弱い。そして、イライラ感が高じる。そして、最後に自らを取り巻く四面楚歌に驚き、孤立無援に気付いて激怒。その時、先駆者を自認する者は「なんでー、なんで世間は我々を判ってくれないのだ!」と叫んで動き出す。つまり、狙いを定めたターゲットに対する更なるバッシングへと動き出す。そして、限られた仲間だけが身を寄せ合う宗派集団へと転落していく。犬猫レスキュー団体は、決して犬猫真理教への道を歩いてはいけない。

>長崎ライフオブアニマルを排除したい理由はなんなのか?
(2012-02-09 06:13:14「長崎 Life of Animal-緊急、発信!」 より)

 長崎ライフオブアニマルのイライラ感は、直ちに再暴走へと発展・転化した訳ではない。彼らのイライラ感は、一本の電話を媒介として表出し物質化した。そこで、再び、「我々は面子を潰された。みんな喧嘩支度をして集まろうじゃないか?」と呼びかけるに至る。

 大体、長崎ライフオブアニマルの応援部隊も無責任極まりない。焦眉の課題は、行方不明中の盲導犬アトム号の探索であろう。それを横に置いて、我を忘れて自らのイライラ感を盲導犬協会にぶつけることを競っている。そういう「抗議」行動により九州盲導犬協会の盲導犬アトム号の探索活動にいくばかかの障害が出ていると伝え聞く。
その結果、盲導犬アトム号の保護が遅れたら、一体、どのような形で責任を取ると言うのか?それぞれの怒りを盲導犬アトム号の上に置くのは間違いではないのか?このことは、ちょーっと冷静に考えれば、判ると思うのだが・・・。

 盲導犬アトム号の安否が確認できないもどかしさに負けてはならない。そこから来るイライラ感を九州盲導犬協会にぶつけてはいけない。そこは、人ならば耐えなければならない。


 
長崎ライフオブアニマルの一頭の犬の命よりも、自らの面子を優先するヤクザまがいの行動。どこまで盲導犬アトム号は、人間のエゴイズムに翻弄されるのであろうか?今は、そういう面子を立てる為の抗争に現を抜かしている局面ではない!そのことを強く訴える。

 この辺りまで書いたところで、盲導犬候補生アンジー号と散歩に出かけた。隣家の柿木は、オドロオドロしく曲がりくねった手で天を掴もうとしていた。庭の梅の木は、まだ、花が咲いていなかった。雀たちは、それらの木々をチュンチュンと鳴き叫びながら渡っていた。米を刈り取った後の田圃には薄く緑の苔が生えていた。近寄って見ると10cmばかりに伸びた麦だった。自然の営みはとどまることを知らない。「筑紫野の春はもうすぐ」と思った。

 散歩から帰ると、団地を一周した妻の話を聞くのが日課。外飼いのOOOの寝床は、このようだった。毛布などを整えてジャーキーを与えると喜んだ。XXXの目は、まったく見えないようだった。でも、私が来たことはすぐに判った。このように撫でたら、このように喜んだ。・・・。一しきり話を聞いた後は、必死に平静を装ってアンジー号のうたた寝に昼まで付き合う。「あんたー!」の声が聞こえなければ、実に長閑な金曜日である。映画「西部戦線異状なし!」の最後のシーンが思い出されれた


 盲導犬アトム号の保護を一刻でも早く!
 盲導犬アトム号の確保に一人でも多く!

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 長崎ライフオブアニマルのブログは修正された!

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 2012/02/10 9:07。「我々は面子を潰された。みんな喧嘩支度をして集まろうじゃないか?」との呼びかけは言語道断。そう批判した文面は全面的に再検討されて書き直された。「我を九州盲導犬協会を監査する第三者機関とせよ!」ともとれる不法・不当な要求の一端は取り下げられた。「我が元に来たりて膝まづきて謝罪せよ!」という高飛車な要求も「意見交換を求む」レベルに引き下げられた。それでも、未だ、従来の不法不当な人民裁判の呼びかけは撤回されていない。また、その意思もゼロである。


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 長崎ライフオブアニマルの驚くべきネット感覚!
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 内々の戦略と戦術の打合せさえもブログ上で行うのを見て判ったことがある。不法不当な人民裁判の呼びかけも、彼らにとっては<仲間内の何時も通りの連絡程度>だったのだ。そこには、情報発信者の遵守事項、倫理要綱(4つのすべし)などが入り込む隙間はない。私の批判が、糠に釘・暖簾に腕押しなのも頷ける。


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 やっぱり、もう、やめようかなー!
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>ハーッ!なんば言いよるとか?おしゃ、遊びでやったんかい!
>こん落とし前は、どげん付けるとか!


 言葉が悪いが、長崎ライフオブアニマルの主宰者にはかく言いたい。自らが引き起こした事態の重大性を考えれば、そのような軽々しい言動は慎むべきだ。


(1)有名・無名の先駆者達の努力と尊厳を踏みにじることを躊躇しない不遜で傲慢な人間性。
(2)「盲導犬協会は、深い闇に包まれている!」という独断と偏見。
(3)
「盲人の方の盲導犬の世話は叩けば埃が出る!」という穿った見方

(4)「盲導犬の日々は動物虐待の日々に違いない!」という限りなき無知。


 長崎ライフオブアニマルの主宰者には、このような
大暴走の内なる4つの要因に気が付く気持ちがない。よって、謝罪するなんてもっての他。もちろん、ルビコン川を渡りきった今となっては、自らを正当化する以外の道はないものと察する。それにしても、自分の睡眠、生活、家庭を前面に押し出すのは当事者としていかがなものか?そうしておいて、「やっぱり、もう、やめようかなー!」と呟く。このようなゲーム感覚が許されるとでも思っているのだろうか?しでかした事の重大性とその後の軽口の連発。この乖離は一体なんだ。理解に苦しむ。

ギャーッ!な、なんなのよー!

帰って来た妻は、リビングに点々と落ちている血を見て「ギャーッ!」と叫んだ!
そして、「キッ!」と私を睨みつけた。

私は、ただ、アンジー号を散歩に連れて行っただけ。
その後に、パンツを穿かせるのにチョーッとだけ手間取っただけ。
睨みつけられる覚えなんぞサラサラない!!
全く、身に覚えのないことだ。
こういう場合には、言い訳などしないで俯いて「1・2・3・・・」と数字を数えるに限る。

>まっ、しゃーないわ!

の一言を待つのが最良の対応。

<明後日はマリー号の命日。今日はひなの号の命日>

 マリー号は、初代シベリアン・ハスキーひなの号は、初代ゴールデン・レトリーバー。8頭の犬の遺骨がアンジー号のトイレ横の棚にある。その中で、ブリーダから迎えた数少ない2頭。残りの6頭は、捨て犬・飼育放棄犬達。差別する訳ではないが、やっぱし、この2頭に対する思い入れはひときわに強い。マリー号、そしてひなの号。どこぞにいる盲導犬アトム号が元気で過ごすように見守ってやってくれ。

2012/02/08

長崎:盲導犬ユーザ糾弾に関する休筆宣言! by I.H.

1月28日 01: 情報における事実と真実について!
1月29日 02: 「盲導犬虐待」情報と流布責任!
1月31日 03: 風評:盲導犬虐待情報」の虚実と3つの特徴!
2月03日 04:  長崎発:盲導犬ユーザ糾弾に見る事実と真実!
2月06日 05: 【長崎】盲導犬アトム号の真実に迫る視座!

 「風評:盲導犬虐待のエセ告発者の非人間性を告発する!」という怒りの一文は、04に収録している。2チャンネルでは、この一文は「パピーウォーカーのおっさんが発狂!」という名文句で紹介された。形としては、全く、その通り。だが、私の中では、実はそういう位置付けではない。

 本ブログの主は KITANOINU である。本ブログは、 KITANOINU が「時には張り切り、時には手を抜き」のパピーウォーカーの日常を日記風に綴るためにこそ存在する。そのありふれたブログが変質し始めたのは1月末。長崎の盲導犬事案がネットを使った人民裁判に発展することを察知した時からである。某犬猫レスキューの自爆行為ともとれる特定個人と九州盲導犬協会とに対するバッシングの組織・扇動に対して自制を求めるシグナルを送るべく<もう一人の私>である Ichiro Higuchi が動き出した。最初は、「情報における事実と真実について!」という静かな発信であった。その後、警告レベルの発信が2つ。そして、2月3日に発狂するに至る。

>ビンゴ!ギャハハ!ビンゴ!あたし、この子に会ってみたいなー!

 2チャンネルの俄かファンになった妻は、冒頭の書き込みを見て大笑い。だが、「パピーウォーカーのおっさん、発狂!」というのは表面的な見方。そうではなくて、Ichiro Higuchi が KITANOINU のブログを借用し某犬猫レスキューの安易なネットを利用した特定の盲導犬ユーザをターゲットとした事実上の人民裁判の強行という不法不当な行為を強く批判・抗議した。これが事の真相。それに、私はおっさんではなくて<じいさん>だ。

 本ブログの主が KITANOINU から Ichiro Higuchi  のそれに様変わりしたことについて憂うる失意の声が寄せられた。そういう声に応えるためにコメントをブロックした。しかし、今日まで発狂した Ichiro Higuchi  は休筆することはしなかった。全ては私の器量の問題であろう。失意の声を寄せられた方には、ここで改めてお詫びをしておく。

>代表がまたこれからも活動できるよう、
>生活や家庭が整うための時間をいただきたいのです。

2012-02-07:某犬猫レスキュー

 この2行を読んだ時、Ichiro Higuchi は休筆することを決めた。

 被告とされた盲導犬ユーザの生活と家庭はどうでもよいのか?被告とされた盲導犬ユーザと何がしかの関係をもつ人々の生活と家庭はどうでもよいのか?この間、慟哭の日々を送った関係者の苦しみはどうでもよいのか?全国の盲導犬と盲導犬ユーザの生命を左右する影響を後世に残す誤解・曲解を多々含む不用意な糾弾活動。しかも、既に、盲導犬アトム号が行方不明になっていることを承知の上での大義なき糾弾活動。それをやってのけた当の本人は「生活や家庭が整うための時間をいただきた」という。これから、盲導犬ユーザは、公の場で「ノー!」と盲導犬を強く叱責することを躊躇うことになる。これは、盲導犬ユーザのみならず盲導犬の安全という面からしても由々しき問題である。それなのに、多くの人々の現状と未来に多大なる負の影響を与える情報を発信した当の本人が「生活や家庭が整うための時間をいただき」とは笑止千万である。余りにも身勝手である。

>あっあーっ、この子には覚悟ってもんがないね!
>だから、あんた、もう鉾を収めんね!
>この子の気持ちも判らん訳ではなかろうが!
>ちょっと、やり方を間違っただけなんだから・・・。


 某犬猫レスキューの「皆様へのお願い」には、ある種の強い覚悟と信念が見られない。盲導犬アトム号を不憫と思う感情に身を任せただけの行動。知見不足による勇み足に過ぎない某犬猫レスキュー団体主宰者のエラー。経験不足による見通しの甘さ。「皆様へのお願い」を読めば、そういう内幕が透けて見える。これに対して反駁する形で<何時までも>怒りをぶつけるのは実に大人げない。もはや Ichiro Higuchi が出る幕ではなくなった。「生活や家庭が整うための時間をいただき」とは、多分、切なる願いなんだと察する。本意ではなかったにしろネットを武器とした事実上の人民裁判を仕掛けた者には、被告同様の過酷な日々が待ちうけている。「それを、やっちゃー、お終いよ!」という警告が無視され続けたことを、つくづく残念に思う。

>心情と動機とを考慮すれば・・・

 保健所の犬猫収容現場に足を運んだ経験者として、我を忘れた糾弾者の心情はよーく判る。ドアを開けて中に入った時、「飼い主が来たんではないのか?」との期待をもって見る犬達。やがて、そうではないと知って失意も露わに蹲る犬達。その余りにも哀れな犬達、あの不安に満ち満ちた白眼を伴った犬達の眼差し。それらを目の当たりにし続けてきた糾弾者にとっては、盲導犬アトム号に関する種々の風聞(うわさ)はどうあっても看過できないことであったと推察される。余りにも身勝手な糾弾行為ではあるが、その身勝手さの中にこそ糾弾者の悪意の無さが見てとれる。某犬猫レスキューの「皆様へのお願い」は、そのことを裏付ける一文である。人は時として感情を制御できなくて、結果として重大な誤りを犯すことがある。糾弾者の結果責任は余りにも大きくて看過できないものではある。しかし、その心情と動機とを考慮すれば、これ以上の責任追及は適当でないと判断した。

>欲しかった!されど一手間、たかが一手間。

  KITANOINU は、パピーウォーカーとしての私である。Ichiro Higuchiは、「犬猫殺処分ゼロの夢を現実に。一日でも早く。一頭でも多く」を希求するもう一人の私である。それゆえへに一部の犬猫レスキュー団体に潜む極めて危険な唯我独尊的な宗派主義の表出に対して厳しい批判を展開したのである。「犬猫殺処分ゼロの夢を現実に」の取組みは、それらの自らの取組みの幅を狭める悪しき傾向を排除してこそ前進する。このことだけは、糾弾者にも一つの教訓として汲みとってもらいたい。なお、自らを改革の先駆者と位置付けた唯我独尊的な暴走(思い込みによる暴走)を再び繰り返さないためには、<実際に関係者に直に会って話を聞く>という一手間を惜しまないこと。されど一手間、たかが一手間。そういうことだと思う。

>犬猫レスキュー団体としてのあるべきスタンス!

 なお、盲導犬先進国であるドイツで犬猫殺処分ゼロの夢が現実になりつつある。ドイツには、盲導犬育成事業を支える土壌としての犬文化があることを示している。盲導犬育成事業と犬猫殺処分ゼロの取組みは、正に車の両輪。犬猫レスキュー団体は、各地の盲導犬育成組織と適切な相互批判・相互協力を心掛け共に夢の実現を目指すべき立場にある。そういうスタンスを見失った時、自分達だけが改革の先駆者と誤認した暴走(立場を逸脱した暴走)が始まる。先に述べた一手間を重視する姿勢は、そういう確かなスタンスがあってこそ生まれる。そのことも教訓として汲みとってもらいたい。

>私の考える犬猫と共生する未来社会!

 「犬猫殺処分ゼロの夢を現実に!」というスローガンに正面切って反対する人は少ない。しかし、その意味するところを知るにつれて支持率は下降を始める。猫が庭先にウンチしてもニコヤカな眼差しで見る社会。犬が、門柱にマーキングしても「アララ!」で済ます社会。それが、犬猫殺処分ゼロの夢が現実となった社会の一側面である。そういう未来社会では、猫は原則的に室内飼いされる。犬は、必ず排泄を済ましてから散歩に出かける。犬の飼い主が、パピー教室に通うのは当然のこと。それだけではなく、一歳前後にドッグスクールに通うのも常識。こうして、犬は人社会の一員となり真の自由を獲得する。この時、猫の庭先での粗相。犬の玄関前で失敗。人々は、それを許容し始める。そういう社会へのプログラムを実践し始めた時、その時、取り組みを牽引する者に対する支持率は2%そこそことなる。これが、紛れもない今の日本の現実である。

>怒りと憎悪で人々を駆り立てる扇動者からの脱皮を!

 某犬猫レスキュー団体には、これから試練の日々が待ち受けていることと思う。その中で、支持率2%の取り組みを継続していくのは実に困難。でも、試練を乗り越えてこそ某団体の取組みは新しいステージに移行する。怒りと憎悪で人々を駆り立てても、待っているのは苦々しい後悔の日々!「犬猫殺処分ゼロの夢を現実に!」を掲げて進む啓蒙者への脱皮を!その時に直面する旧習の一つひとつを突き崩す地道な取組みは、決して平坦な道ではない。しかし、そこには苦々しい日々は待っていない。告発者には、それをやり切る力があると信じている。そして、それをやり遂げてこそである。

>盲導犬アトムの一日も早い保護を!

 最後に、盲導犬アトムの一日も早い保護を願って結びとする。本ブログは、かかる休筆宣言をもって盲導犬候補生アンジー号のパピーウォーカーであるKITANOINUの単なるパピーウォーカー日誌に戻る。

PS1、「盲導犬だってただの犬。粗相もすれば吠えもする」について!

 
この下りのみを抽出・拡大して、私があたかも<盲導犬の歩行中の排尿行為を正常と強弁>したかのように喧伝する向きもあった。そうではなくて、「盲導犬だってただの犬」ということを意識して臨まないと、そういう後退現象はいつでも発生する可能性があるという意味。確かに、統計上は盲導犬のかかる後退現象の確認は1%にも満たないことかも知れない。でも、その可能性はある。そういう問題意識をもって臨むことが大事。そう読み解くことは決して難しいことではなかろう。そして、なによりも「我もまたただの人」という謙虚さを取り戻す上でも求められる視座である。

 問題の写真は、盲導犬ユーザを裁くという目的をもって解釈すべきではなかろう。盲導犬協会による歩行指導、現状点検の一場面と率直に理解すべきだと思う。「後退現象はいつでも発生する」という強い問題意識が背景にあるが故の歩行指導、現状点検という理解以外の何があるというのか?「協会スタッフの怠慢の証左」と悪意をもって理解するのは、私には理解しがたい。余りにも恣意的な解釈である。盲導犬協会の歩行指導、現状点検は、盲導犬と盲導犬ユーザの生命そのものに直結したもの。そのことを意識した取組み(Plan ⇒ Do ⇒ Check ⇒ Action のサイクル)の詳細な実態を知らずして、軽々に、各自の物差しのみで悪意ある結論を出すべきではない。

 盲導犬の排尿間隔は4~5度程度と推察する。隣家の犬は、朝夕の2回のみ。この場合、盲導犬の排尿間隔は隣家の犬よりも相対的に多い。PWをして感じたことは、街中にまったく排便・排尿スポットが無いということ。使役犬は、適切に水分を摂取し適切に排泄しなければならない。一日中、犬小屋で寝ている隣のポチと同列視はできない。仮に、盲導犬ユーザが排尿させずに街に出たとしよう。その時、適当な間隔ではっきりとした排便・排尿スポットがあれば、その失敗はカバーされるだろう。そういう整備された環境は、盲導犬の排尿に関する後退現象を防ぐ上でプラスに作用するであろう。それぞれの存在環境はそれぞれの意識にも反映される。私の盲導犬の排尿間隔に関する記述も、このように読み解くことができる。むしろ、そのように読み解くのが自然というもの。告発者にあるのは糾弾という視点のみ。日本における犬文化、盲導犬文化の後進性を考える一つの警鐘という視点が完全に欠落している。そういう遅れた環境下での盲導犬協会の努力を評価する視点ってのが微塵もない。


 以上、曲解と誤解とをもたらした「粗相もすれば吠えもする」について補足しておく。

2012/02/07

やっぱし、女の子は大変だー!

パピーウォーカーをするなら女の子と思っていた。しかし、いざ、生理が始まると実に大変だ!

>リビングのあちこちにポタポタとが・・・。

オムツをしてパンツを穿かせれば、血ポタポタは防げる。しかし、そうすればアンジー号はシューンとして蹲って動かない。それも可哀想。と、思ってパンツも脱がせてオムツも取ってフリータイム。結果は、血ポタポタ。

やっぱし、女の子は大変だー!

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 生理用ナプキンは役立たず!
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パンツと一緒に専用の生理用ナプキンも購入した。だが、ズレること至極。結局は、今まで通りに幼児用オムツに尾を出す穴をあけて転用するのが一番だった。

2012/02/06

【長崎】 盲導犬アトム号の安否情報の拡散もまた慎重に!

 警察、盲導犬協会による安否確認、保護はまだだが、盲導犬アトム号は、どうやら生きているようだ。

 一応は、よかった!
 一応は、よかった!

>OVAXGTNKIT*{}%”)&&)))))%%%%!
>kdskjd;lどdfklwlk;えwjkぁいdsklj;sdkljdskjl!
>Ok;あsdjjh0923jkl;wdkjlds!

 しかし、盲導犬アトム号の安否は未だ「ようだ!」の範囲にとどまっているのも事実。それでも、私と妻は安堵の胸をなでおろしている。後は、「糠喜び」にならないことを祈るのみ。

>盲導犬アトム号は生きていた?⇒盲導犬アトム号は生きていた!
>盲導犬アトム号は生きていた!⇒盲導犬アトム号を保護した!

 今は、状況の更なる一歩、二歩の前進を祈るだけである!


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 個人のプライバシーには最大限の配慮を!
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 盲導犬アトム号の安否情報の流布にあたっては、なお、「『盲導犬虐待』情報の流布責任!」で私が訴えた節度と慎重さとをもって臨んでもらいたい。重ねて、個人のプライバシーには最大限の配慮をお願いしたい!情報発信者として、「安否情報もまた殺人情報と化すこともある」ことを念頭に最大限の配慮を!<知りえた情報を一つでも多くの人に知らせたい>との自己の欲求との戦い切に希望する。<一秒でも早く!一件でも多く!>と逸る気持ちにブレーキを!

 幾ばくかの事件を取材し報道してきた経験者として、細心の注意を払って挿入した筈の一行であっても関係者に牙を剥くことがある。そのことを体験として知っている。人は、経緯とか全体像とかを抜きに着目した一行を膨らまして伝えるもの。ただの一行だが、それが風に乗った時、やがて、それは話を作る。正に、「風は噂を作る」。そういう、風を意識して個人のプライバシーには最大限の配慮を。

【長崎】盲導犬アトム号の真実に迫る視座! by I.H.

 「【長崎】盲導犬アトム号の真実に迫る視座!」とは、ネットの検索ロボットを意識してのこと。決して、特定の盲導犬ユーザをネット上で指弾する一部のアジテートに参画した訳ではない。

 視座とは、「個人が、置かれた状況によって条件づけられた形で、社会に対し、社会を見る視点、座標」(日本国語大辞典)のこと。平たく言えば、物を見る姿勢、視点のこと。

 長崎の盲導犬事案について、「何が何だかよく判らない」、「事の真相は藪の中」という向きもある。しかし、私は、小難しい理屈やある種の先入観を捨てて、かつ、自らを神の地位から普通の人に引き戻せば、ある程度は実相と真実とが見えてくるように思う。もしくは、実相と真実とを見る目を獲得できると思う。

 盲導犬虐待疑惑の真実に迫る視座とは、「我もまたただの人!」という姿勢。
 盲導犬虐待疑惑の真実に迫る視座とは、「盲導犬もただの犬!」という視点。
 すなわち、全ては姿勢と視点の問題に過ぎない。


>盲導犬とてただの一頭の而今の犬!

 ネットでは「盲導犬が・・・」という前置きで何がしかが語られている。仮に、それが、盲導犬が<崇高な任務意識に目覚めた犬>という理解の下に語られているのであれば、大いなる誤解というもの。盲導犬もただの犬に過ぎない。だとすれば、「お仕事をしなくちゃー」なんて任務意識など微塵も持ちあわせてはいないと考えるのが筋。実際のところ、そういう意識を持つことは脳的に無理なのである。だって、普通の犬同様に盲動犬の前頭葉は人間の四分の一以下しかないのだから。こういう脳的特徴ゆえに、盲動犬もまた、その日、その時をただ生きている「而今の犬」に過ぎないと言える。

>今日は、ちゃんと誘導出来たでしょう。褒めて!褒めて!
>ウワーッ!褒めてもらった!

 午後6時になったら、「ご飯!ご飯!」と吠える犬はどこにでもいる。「午後6時になる→食事場に呼ばれる→食事にありつける」という体験の蓄積が、そういう知恵を犬に植え付けたのである。これは、三項随伴性と言われるABC理論で説明される。盲導犬にとってハーネスを付けられるということは、午後6時がやってきたようなものだ。「ハーネスの着用→誘導→報酬」という体験が脳裏を過る。だから、盲導犬は嬉々として誘導を開始するのである。

>盲導犬って、お仕事ばっかりで可哀想ね!

 こういう見方は当を得ていない。盲導犬にとっては、誘導は報酬を得るためのまたとない機会なのである。「そういい子だねー!グッド!グッド!」と褒められる最高の一時なのである。ハーネスを付けられるということは、盲導犬にとっては一般家庭犬が待ち焦がれていた午後6時がやってきたようなもの。盲導犬にとって、誘導行為は食事場に呼ばれるようなもの。そういう意味では、「盲導犬って、お仕事ばっかりで可哀想ね!」は一面的。

>決して、無理して盲導犬に仕事を続けさせることはしません!

 「覚えたことは忘れる」は宇宙の第二法則である。これは、車椅子の物理学者スティーブン・W・ホーキング博士の言葉だから間違いない。盲導犬の所作について「盲導犬らしからぬ」と評している諸氏は、「覚えたことは覚え続けている」とでも言うのであろうか?私は、そうではない。近頃は、歌手や俳優の名前をほとんど忘れてしまっている。私同様に、盲導犬も盲導犬ユーザも宇宙の第二法則に支配されている。そこには、映画「盲導犬クイールの一生」とは一味違う生身の犬と生身の盲導犬ユーザの世界がある。

 スティーブン・W・ホーキング博士は、続けて言う。「『覚えたことは忘れる』は止むを得ないことだが、実は、それを阻止する有力な力が存在する。それは、人間の努力。あなた方が努力を惜しまなければ、盲導犬が身に付けた諸能力の崩壊は起こらないであろう」と。盲導犬ユーザのトライアル・アンド・エラーとそれをサポートする協会スタッフの努力。かかる生身の犬と生身の盲導犬ユーザとの間で交わされる努力、それをサポートする協会スタッフの努力の日々こそ美談でなくて何であろう。その美談を知りたいならば、盲導犬ユーザの方々の交流学習会に一度でも参加するとよい。そうすれば、盲導犬ユーザの毎日は「習って覚えて真似して捨てるの日々」であることを目の当たりにするだろう。

 
「覚えたことは忘れる」しか見えない目の持ち主か?「盲導犬ユーザの努力」に感動する目の持ち主か?これもまた、各自の視座の問題である。前者がもたらすのは、盲導犬の将来に対する悲観と盲導犬ユーザに対する敵意(誤解と偏見)。後者がもたらすのは、盲導犬の将来に対する希望と盲導犬ユーザに対する好意(理解と正見)。全国至るところで取り組まれている盲導犬ユーザの方々の交流学習会という地道であるが止まることのない確かな取組みの存在を知るならば、我々が持つべき視座が後者であることは余りにも明らか。

 
もちろん、盲導犬ユーザの努力が全て成功するとは限らない。時には、努力が報われない結果に終わることもあろう。だが、心配する必要はない「無理して盲導犬に仕事を継続させることはしない」が盲導犬協会の揺るぎない方針だからである。そのために、盲導犬協会による誘導行為の観察・点検が定期に行われているのである。

>何人も法律によらない人民裁判を行ってはならない!

 さて、このように考えると、盲導犬ユーザに対する協会の指導と点検が定期的に行われている限り、特定の盲導犬ユーザを地球規模の公の場に晒して糾弾することは適当ではないことになる。盲導犬の引上制度と引退制度が存在する限り、種々の問題は、制度の問題、機能の働きの問題という側面が強い。明確な盲導犬の虐待という事案についても、盲導犬協会が責任を持って是正すべき問題。エセ告発者が本人に強く抗議する手間を省き協会への是正を要請することもしないで「必殺仕置き人」を気取る事案ではない。これらの一切を無視して何人も律によらず、結束した人民がみずからの力と意志において行う裁判(人民裁判)を行ってはならない。我々は、好きとか嫌いとかを抜きにして法律は守らなければならない。再三再四の忠告を無視して、なお人民法廷を開廷し続けるのは完全に法を逸脱した犯罪行為である。

盲導犬協会と独裁政権とを同列視するのは誤りである!

 もちろん、我々一人ひとりが盲導犬に大いに関心を持って、時には「指導と点検に疑義あり!」と盲導犬協会に対して意見を述べるのは大いにやるべきだろう。しかし「盲導犬協会とは、れっきとした良質な盲導犬を一日も早く一頭でも多く視覚障がい者のみなさんへ無償で貸与するため努力している組織」ということも念頭に置かねばならない。盲導犬協会を打倒すべき独裁政権かのように看做し、ネットを武器にバッシングを組織する作戦に出るのは互いの信義を重んじるならば許されることではない。盲導犬協会と独裁政権とを同列視するのは、自らを革命戦士と誤認した錯覚者の専売特許。そのような誤認、錯覚に基づく盲導犬協会への攻撃を撤回しないとすれば、それは盲導犬協会を憂うる者をいたずらに困惑、混乱させるだけである。
 一部に、アラブの春と形容される市民革命とオーバーラップしてエセ告発と糾弾を喝采する向きもあろう。しかし、それは違う。<話合いを持って解決しなければならない問題>と<打倒を持って解決すべき問題>。この見極めを横に置いて、ただの印象だけでアラブで展開された市民革命と同列視しする見方と考え方は間違いである。

>何事も我が身に置き換えて考えよ!

 なお、最初から「そういい子だねー!グッド!グッド!」と褒めるのが上手な盲導犬ユーザもいるだろう。そうではなくて、経験の蓄積を待たなければならない盲導犬ユーザもいるだろう。盲導犬ユーザとて、我々と何ら変わらない普通の人間なのである。「こらっ!いけない!」と大声を出して犬の頭をバシッ。これを、一度もやったことがない犬の飼い主がいるだろうか?あなたは、数時間で仔犬のトイレを躾けることができる褒め上手であろうか?
 近代盲導犬育成事業が本格的に出発したドイツでは、犬を飼えばドッグスクールに通うのが当たり前のこと。それに比べると何と日本の犬文化が遅れていることか。我が身に置き換えて考えた時、そこに盲導犬ユーザと我とに共通の課題が見えてはこないだろうか?激情に任せて一盲導犬ユーザをバッシングすることよりも、その共通の課題を意識することが大事ではなかろうか?人民裁判に馳せ参じても、その後に残るのは憎しみと対立のみ。それがもたらす苦々しさ。共通の課題を意識して長崎の盲導犬事案に接した時に残るそれには及ぶまい。

>パピーウォーカーの人生経験をなめてもらっては困る!

 エセ告発者は、「パピーウォーカーの方々にも知ってもらいたい。・・・」と我々に心を寄せたかのようなポーズを取って不当不法な糾弾活動を合理化して止まない。どれだけの人生経験があるのか知らないが、我々をなめてもらっては困る!我々は様々な事件の裏側を嫌というほどに見てきて、その果てにパピーウォーカーをしているのである。「盲導犬って美談だけではないのですよ!これを見てください!あれも見てください!」と言う。告発者は、一体、誰に向かって説教をしているのか?美談と一括りに出来ないことは十二分に承知した上で、なおかつ、繁殖ボランティアの方はパピーウォーカーを信じ、パピーウォーカーは協会スタッフを信じ、ただただ目の前の犬と向き合っているのだ。ここで言う信じるとは、「それぞれは絶対に誤りを犯さない」との妄信とはチョット違う。それは、決してエセ告発者が理解できないそれである。

>一部の犬猫レスキュー団体の余りにも傲慢な検察官気取り!

 一部には、「おい!盲導犬協会よ!我らに盲導犬ユーザをバッシングする材料を寄こせ!」と要求する向きもあるようだ。正に、人民法廷の検察官気取りである。

>盲導犬協会をして盲導犬ユーザをバッシングする材料を明らかにせしめること。
>そして、我が前に膝をつき謝罪させること。
>この2点が、我々の当面の課題である。


 某犬猫レスキュー団体を主宰するというエセ告発者は、一貫してこのように主張し極一部の人を我を忘れた糾弾活動へと駆り立てた。これらは、不当不法な人民法廷のそれでしかない。我々の当面の課題でも向き合うテーマではない。そのテーマを発見できるかどうかも、我々の姿勢と視点とにかかっている。

◆盲導犬もただの犬!
◆盲導犬ユーザもただの人!
◆我もまたただの人!

 かかる視座を獲得することで、長崎の盲導犬事案の実相と真実とに迫ることができる。色々とした小難しい理屈を並べることを止めて、先ずは、「盲導犬もただの犬に過ぎない!」を10数回唱えてみることだ。それでも見えなければ、「我もまたただの人!」を10数回唱えてみることだ。そうすれば、視界が開けて状況がクリアに見渡せるであろう。

>犬猫殺処分ゼロの取組みをも後退させる冒険主義!

 最後に、某犬猫レスキュー団体の暴走が犬猫殺処分ゼロの取組みに及ぼす負の影響について触れておく。ネットのほんの一部の反応を見て判断を誤ってはいけない。急進的で冒険をも厭わない宗派主義的な取組みは必ず失敗する。最終的には、決して多くの人々の共感を得ることはできない。
 先にも述べたが犬猫殺処分ゼロの夢の実現は、盲導犬育成事業の発展と不離一体、表裏一体の取組みである。それだけではない。幼児や老人、あるいは障害者の方々の人権向上の取組みとも不離一体、表裏一体という側面もあるのだ。人権意識と動物愛護精神とは、相互に作用を及ぼす関係にある。「犬猫の救出の為なら特定の盲導犬ユーザの人権を蹂躙して顧みず」では、真の共感は得られない。結果的に、そのような冒険主義は犬猫殺処分ゼロの取組みの幅を狭める。それが、歴史の示すところである。

>私みたいな馬鹿が一人ぐらいは長崎にもいたことを願うのみ!

 10年前、私は一頭のシベリアン・ハスキー犬を夜陰に紛れて盗み出した。家から20キロ東にある村の公民館。その広場に車を乗り付けた。隣接する一戸建ての裏手の空き地へと足を忍ばせた、檻の戸を開けてハスキー犬の首輪にリードを付けて外に出して車に乗せた。彼の遺骨は、今、6頭の保護犬、2頭の自家犬、計8頭と共に我が家の棚で休んでいる。9頭目はCC犬となった。10頭目は、今、初生理の真っ最中である。時には、目的の為なら手段は選ばずである。熱6分、法4分で行動しないと救えない犬猫もいる。それをやってのける前後見境ない馬鹿。そんな私みたいな馬鹿が長崎にもいたことを願うのみである。

 盲導犬アトム号が無事に発見されることを切に願って結びとする。

補足:エセ告発者の軌道修正について!

 少しばかり、エセ告発者は自らが引き起こした事態の重大性に気づきつつあるようだ。多少の軌道修正を行い、「特定の盲導犬ユーザと盲導犬協会に対するバッシングの組織は本意ではなかった」との言い訳を開始している。でも、告発者がルビコン川を渡り切った今となっては時すでに遅し。正に「覆水盆に返らず」である。「本意ではなかった」が通用するのであれば警察はいらない。写真の公開については、なお合理化に腐心して止まない。

蛇足:2チャンネルについて!

 我々がただの人であれば、2チャンネルの寸鉄のコメントには真摯に耳を傾ける必要があろう。でも、この頃、ちょっと同チャンネルも変である。冷静で客観的なそれ、ウイットに富んだそれに紛れて、明らかに<やらせコメント>の類と思われるのが散見されるようになった。それを見ると、実に興ざめである。不謹慎な表現や文言に殊更に異を唱えるつもりはない。でも、<やらせコメント>はいただけない。実に興ざめである。

2012/02/05

盲導犬アトム号ではなかった。しかし、それはそれで・・・

 1月も終わろうとしている頃に盲導犬アトム号の失踪(行方不明)の事実を知った。それからは保護犬情報の閲覧が日課となった。

>1/26に呼子でラブラドール(オス)が保護される!

 盲導犬アトム号の写真と見比べても全く違いが判らない。既に深夜。午後11時をまわっている。ピッポッパッ。協会スタッフは電話を取ってくれるのか?幾ばくかの緊張した時間が流れた後に電話口の向こうから馴染みの声が聞こえてきた。

>23日午後8時に行方不明。26日に保護。可能性は否定できないかと・・・。
>そうですね。この子は間違いなくラブかF1ですね。
 
 翌朝、早速、九州盲導犬協会のスタッフの方が確認に動いた。

>残念ながら、アトム号ではありませんでした。
>そ、そうでしたか。
>違っていましたが、それはそれで哀れで・・・。
>私も。アンジー号がいなければ迎えに行きたいところです。

 それからの2日は我が家は通夜のようだった。

 年齢は推定5歳。姿形は、正に、ラブラドール。しかも、美形でフリードに瓜二つ。飼育放棄されたのか?それとも、単なる迷い犬なのか?

 私の保護経験では、まず、飼い主は出てこない。そして、引き取り手も現われない。だから、一時期は、家の中を5頭も6頭も犬がウロウロする有様となった。

 ネットの一部では盲導犬アトム号に対する劇場型の同情を含めて十人十色の憂いが突風の如く、あるいは微風さながらに吹いている。でも、その陰でひっそりと処分されている数多くの犬達がいる。盲導犬だけが犬ではない。盲導犬も捨て犬も雑種も、みーんな同じ犬。この騒動を機会に、彼らにも関心が向けば幸いである。

 しかし、保護しても保護しても飼育放棄は後を絶たない。米国では、犬が4頭に1頭の割合で殺処分されている。日本の現状は、それよりはマシ。しかし、殺処分ゼロの取り組みが進んでいるドイツには及ばない。全ての元凶はペットショップでの生体展示販売。

 盲導犬アトム号に心を痛めた人々が、一歩進んで、「犬猫はペットショップからは買わない」を合言葉にすれば事態は動く。今回の騒動が去った後も、山は動き続ける。

 犬文化の前進こそが、実は、盲導犬の幸せを一層に確かなものにする。犬文化の前進と盲導犬の歴史の前進は車の両輪!」-とも考えられる。

 周知のように近代盲導犬の歴史はドイツで本格的に始まった。そのドイツで、犬猫殺処分ゼロの夢が現実となりつつある。それが、何を物語っているのかを考えるのも良い機会だ。
「盲導犬道具論」、「盲導犬不遇論」の克服は、実は、犬猫の殺処分ゼロの夢の実現と密接不可分、表裏一体とも言える。

 日独伊三国同盟の旗の下で戦争に突き進んだ軍国日本の敗戦は、米国流のペット文化の輸入をもたらしたのかも知れない。商業的な犬文化の余りにも急激な輸入は、戦前の日本の片隅で育ちつつあったドイツ型の犬文化を駆逐したという見方もできよう。ここら辺りを反省する時が来たのではなかろうか?

 ネットの喧騒の向こうで、静かにその時を待つ5歳のラブラドール・レトリーバの余りにも不安に満ちた悲しげな目を見て、かく思った次第である。

 だからこそ、一部の激情に駆られた犬猫レスキュー団体による「盲導犬ユーザを糾弾する告発」が残すであろう負の遺産が心配である。
手段を間違えた「正義」の行動が残すのは対立のみそれは、犬と盲導犬の歴史を進める両輪の車軸を一時的に狂わすかも知れない。しかし、その後にもっと丈夫な車軸として遠からず修復されるであろう。既に、その取り組みはネットの喧騒を他所に始まっている。

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 2012/02/04: アンジー号、生理が来る!
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 明日は、パンツを買いに行かなければならない。

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2012/02/03

長崎発: 盲導犬ユーザ糾弾に見る事実と真実! by I.H.

 昨日、「風評:盲導犬虐待のエセ告発者の非人間性を告発する!」という一文を書いた。しかし、それは余りにも怒りに満ちていた。怒りに任せた告発行為に怒りで応じたのは拙かった。不徳の致すところである。そういう拙い一文を放置しておけば、九州盲導犬協会関係者へ多大な迷惑をかけると判断して削除した。が、この削除行為をもって、あたかも、私が「風評:盲導犬虐待の告発者の非人間性を告発する!」との主張を取り下げたかのように受け取った向きがある。それは、それで悔しい。そこで、児戯に等しいことは承知の上で、同じ主旨の一文を推敲の上でかなり長文に仕立てて掲載することにした。当然のことながら怒りまみれの箇所は、多少は理性的なそれに書き直している。また、タイトルを主旨をより表す「長崎発: 盲導犬ユーザ糾弾に見る事実と真実!」に修正した。なお、削除した一文は、恥を忍んで資料として後段に収録している

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 長崎より、「盲導犬ユーザ盲導犬を虐待す!」とのセンセーショナルなエセ告発情報が発せられた。正に、特定の盲導犬ユーザを糾弾するための扇情的なうわさだけを基にした情報発信であった。それは、またたくまに2チャンネル等で取り上げられることとなった。

>この爺さん、食ったな!
>いや、爺さんの近所のもんが食ったに違いない!

 これらのコメントを不謹慎と眉を顰める向きもあるかと思う。しかし、私には、そのほとんどに告発内容についてある程度の距離を置いた冷静かつ客観的な眼差しが感じられた。そして、展開されるコメントの掛け合いに洗練されたセンスすら感じた。なによりも、底流に流れる批判精神に一種の共感を覚えた。(それは、やがて単なるバッシングを目的とした書き込みに変質していくのだが・・・。)

 それはさておき、私は、繰り返し告発者には4つのすべしが求められると指摘してきた。

1、事実と真実との違いをはっきりと認識すべし
2、関係者の人権と心情に配慮すべし。
3、情報発信が他者に及ぼす影響も検討(考慮)すべし。
4、時を越えて、場を越えて生き続ける写真の公開は慎重にすべし。

 エセ告発者は、私のかかる忠告に対して驚くべき反論を行った。

エセ告発者の反論1、私らは報道者ではないので糾弾するのに取材の必要性を認めない。
エセ告発者の反論2、犬猫を救出するに当たっては虐待者の人権は考慮する必要はない。

 
同様のスタンスで二次的、三次的に「風評:盲導犬虐待情報」が流布され続けている。正に、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の感を呈している。

<取材の必要性を否定する傲慢な姿勢!>

 取材は、「事実と真実との違いをはっきりと認識すべし」以前の問題である。
 私は、繰り返し口を酸っぱくして<自らの足で盲導犬使用者本人、九州盲導犬協会の関連スタッフにも直接にあって経緯をつぶさに聞き、その全体像を把握するという取材が先決>と訴えている。これに対する答えが、「告発するには周辺住民からの聞き取りで十分。取材は新聞社の仕事であり、私どもは真相の究明を新聞社にお願いしている!」というもの。開いた口が塞がらない。

<人権と関係者への迷惑を考慮しない手続き無視の独善的な姿勢!>

 私の「人権を考慮して特定個人をネット上に晒して告発することには慎重であるべし!」という指摘については、「犬猫の救出が最優先!人権は二の次!」と答えた。さらに、「私は盲導犬について良い印象は持っていない」との糾弾に至った内なる事情までサラッと言ってのけた。エセ告発者には、人権とか関係者が被る影響は眼中にはないのである。そのようなものは、エセ告発者にとっては考慮するに値しない枝葉に過ぎないのである。
 また、公開に先立って盲導犬協会とのコンタクトを取って裏付け確認を行うという当然の手続きなど考えの及ぶところではない。世の中に、かかる常識的な手続きを省いてネット上で特定個人をバッシングする暴挙を犯す勇気がある人は何人いることか?皆無に等しいと思われる。そういう意味では、エセ告発者は、正に稀に見る独善的な人間性の持ち主である。

<情報発信者は、バッシングの組織者であってはならない!>

 4つの「すべし」をすべて横に置くことが許されるのであれば、「ネットでは何でもあり」ということになる。それが、怖い。必要とされる常識的な手順と手続きを無視し、ネット上に情報を公開する必要性というのも一切に考慮しないで、個人の思うままが許されるのであれば「ネットでは何でもあり」ということになる。正義と信ずる情報の発信にも、道義が要求されるということである。情報発信者は、特定個人に対するバッシングの組織者であってはならない。こういう自戒も必要なのではなかろうか?

<写真を風評流布とバッシングの武器に使う倫理性の欠如!>

>私どもは、写真が何を意味するのか全くわからなかった。

 エセ告発者は、のうのうとブログでかく述べている。しかし、やがて<これが、動かぬ虐待の証拠>としてドヤ顔でネットに公開するに至る。ここでも、「私らは報道者ではないので告発に当たっては取材の必要性を認めない!」という傲慢な姿勢のままに、協会スタッフへの聞き取りという必要最低限度の手続きが完全に無視される。しかし、私が怒っているのは、この点だけではない。情報発信で用いる写真の意義と意味に関する無知ぶりについてである。

 写真は、前後の関係を切り捨てた一瞬の切り取りに過ぎない。決して、事象の全体像を反映している訳ではない。それなのに、写されている事象に対する印象を2000字を越える長文の記事以上に与える一種の化け物である。写真そのものには、つらつらとした説明が書かれている訳ではない。それゆえに、写真は人々に様々な印象を与え、種々の解釈を生む<これって、どういうこと?>から<これこそ、正に虐待の存在を示す証拠>まで、その解釈は見る側の知見の差で十人十色。写真のかかる特性を利用すれば、風評を真実に仕立て上げる道具として悪用できる。盲導犬ユーザに対するバッシングを組織する武器としても活用できる。これをやるかどうかは、情報発信者の倫理性いかんである。

<エセ告発者は、写真の公開をもってルビコン川を渡った>

 たかが、歩きながら排尿している盲導犬の姿。されど、歩きながら排尿している盲導犬の姿。この公開された写真は、必ずや、時を越えて、場を越えて生き続けるであろう。すなわち、かかる写真の公開によって、一地方の一盲導犬に関する出来ごとは、全国で活動する盲導犬育成組織、その関係者、多くの盲導犬の今と未来とに関するものへと変質したのである。九州の一地方の出来ごとを告発するための写真は、公開されたその瞬間から、全国の盲導犬の今と未来とに影響を及ぼす写真と化したのである。告発者は、写真の公開をもってルビコン川を渡ったのである。ルビコン川を渡り切った告発者は、もはや、一盲導犬の境遇を憂う動物愛護者ではなくなったのである。ここにこそ、私が、にせの告発者を名指しで告発する至った理由がある。

<公開された写真は、時を越えて、場を越えて・・・>

 しかし、「時を越えて、場を越えて生き続ける写真の公開は慎重にすべし」は、今や遅しである。覆水は盆には返らないからである。公開された写真が、全国の盲導犬の今と未来を否定する言論の武器として悪用される可能性もあるという危惧が私の杞憂であることを願う。しかし、公開された写真の閲覧者の中には、写真をもって「盲導犬道具論」や「盲導犬不遇論」を唱える向きもあるようだ。全国の盲導犬関係者は、これから公開された写真の負の影響と戦っていかねばならない。

<ネットで糾弾する必要性が、どこにあったのか?>

 一番に解せないのが、エセ告発者の「ネットで糾弾する必要性」に関する認識である。「盲導犬ユーザーと盲導犬協会を許すな!」という世論形成が目的でなければ、およそ、ネットで糾弾する必要性はない。
 既に一頭の盲導犬が行方不明になっていることを承知の上での糾弾行為。焦眉の課題は、糾弾ではなく捜索であった筈。発する情報は、ただその一点に集中すべきだった筈。そうではなくて、なぜに糾弾を急いだのか?盲導犬ユーザーと盲導犬協会とコンタクトを取って事情を聞くという一手間を省いて、なぜに告発を急いだのか?
 仮に、自らの激情を処理する為だったとしたら、それは余りにも罪深い。結論を述べれば、その目的は<盲導犬ユーザと盲導犬協会とを狙ったバッシングの組織>にある。エセ告発者の意図はどうであれ、(そのようなやりようでは)「告発=ネットを武器とした個人攻撃」という決してあってはならない等式が出現する。だからこそ、ネットの利用は慎重でなくてはならない。

 バッシングの組織が目的でないのであれば「ネットで糾弾する必要性が、どこにあったのか?」-この問いに答えるのは情報発信者としてのせめてもの責任である。

<始まった盲導犬ユーザへのバッシング!>


 晒された盲導犬ユーザに対する嫌がらせ電話が掛けられているようだ。九州盲導犬協会の活動にも著しい障害が発生しているとのこと。「それは、私の本意ではない」-は通用しない。全てが、エセ告発者が組織したことである。エセ告発者はブログでかく述べている。「信じるも信じないもあなた次第ですね!」-告発者は、UFOの目撃情報をブログで公開した訳ではない。この軽さは、一体何なのだ!自らが、いかなる世論を組織し、人々に対して何を扇動したのか?そこのところがまるで判っていない。

<目的の為なら犬の尊厳をも足蹴にする不遜で傲慢な態度!>

 先の一文で、「仮に私が預っているアンジーが・・・」という前書きに続けて、その場合には、写真の公開に激しく反対すると述べた。この件が、正に私に怒りの一文を書かせた。そこで、重ねて私の憤りを紹介しておく。

 仮にアンジー号の一瞬を切り取った一葉の写真が盲導犬ユーザへの非難を組織する武器として使われるとすれば、それは本意ではない。そのように扱われることは、アンジー号の尊厳そのものに関わることである。

 私の怒りにを横に、エセ告発者のブログでは今なお「粗相する盲導犬」というレッテルを繰り返し貼りなおすことに忙しい。つまり、「哀しき盲導犬」との偶像化に忙しい。告発者は、このことが関係者を慟哭させる行為であることを理解するハートなど持ち合わせていない。

 盲導犬とパピーウォーカーとの関係は、極めて特殊で特別な関係である。我が子同様に、いや、それ以上の愛情を注ぎこんで育てた末に送り出している。終了式では、断ち切れぬ思いを断って送り出している。そして、その後は会うことも許されない我が子の行く末を心から心配している。それなのに、つぶさな経緯も全容も知らされないままに「哀しき盲導犬」と偶像化されて利用される時、その慟哭は察して余りあるものがある。

>盲導犬パピーウォーカーの方なら判っていただけると思います!

 と、とんでもない。仮に、盲導犬ユーザの使用に不適切な面があったとしても、それは協会によって必ずや正される。その取り組みの過程における極めて特殊な局面を切り取った我が子の写真をあなたの独善的なバッシングに利用されてたまるか!事実、問題の写真は、そういう是正とチェックの取り組みを写したもの。これもまた、ある瞬間の視覚情報をどのように脳的に処理するかの違いである。その差異は、過去に脳内に蓄積された情報の量と質の差に他ならない。このような協会の地道な取り組みを信用しているからこそパピーウォーカーは続けられるのである。

<エセ告発者の真実!私の真実!-正に、真逆の違い!>

 最後に、事実と真実との違いを具体的に示しておこう。もしかしたら、一部で広がっているかもしれない「盲導犬協会、苦境に立つ!」-かかる見方は、一見すると真実のごとく見えるであろう。しかし、それは、本当の真実ではない。
 「あなたは、何をもって否定されるのですか?あなたが何と言おうとも『盲導犬協会、苦境に立つ!』は真実ですよ。2チャンネルのやり取りを見てください!某犬猫レスキューのブログを見てください!これだけの人が協会を批判・攻撃しているではありませんか?」-これこそが、告発者流の真実観である。
 ここに、今日も明日も盲導犬パピーの世話に明け暮れであろう私がいる。熊本にも佐賀にも、そして北海道にもいる。繁殖ボタンティアの方々も、今の今、黙々とその仕事を遂行されている。昨晩も眠らずにリタイア犬の世話をされた方もいるだろう。そして、昼夜を問わず盲導犬育成に携わっている協会スタッフがいる。ネットの喧騒の向こうには、数えきれない事実が存在する。これらのネットでは検索できない生きた事実を見落としてはならない。「盲導犬協会は健在である!」-これこそが真実である。
 かかる事実と真実との違い、見方と真実との違いは、「私らは報道者ではないので糾弾に当たっては取材の必要性を認めない」と公言して憚らないエセ告発者には永遠に理解できないであろう。パソコンの前に座っているだけで知りえる類の情報(事実そのものではなく、他者に伝えるために伝達者の脳が作りだした二次的な事実)もある。それらは、ある種の目的を持って意識的に収集した伝聞であることを忘れてはならない。事実と情報は、その類のものだけではない。掘り起こさなければ表面に出てこない事実も沢山ある。また、視点を変えなければ目に入らない事実も数多くある。真実とは、実は、そういうところにこそ潜んでいるものである。それを伝えるのが、情報発信者の役目である。伝聞情報の拡散者であってはならないのである。

 一日でも早く。一頭でも多く。
 ネットは吠えても、盲導犬の歴史は進む!

結び

 現時点で強いて行う必要のない特定の個人をネット上で糾弾するという手段に訴えるのはいかがなものか?後々に盲導犬育成事業発展の阻害要因となりかねない全体の真実を反映しているかどうかも疑わしい写真を晒すのはいかがなものか?-私の言いたいことは、この一点のみである。いずれも、情報発信者の初歩的な心得を述べているに過ぎない。

<資料:風評:盲導犬虐待のエセ告発者の非人間性を告発する!>

 
次に紹介するのが、夜中に飛び起きて書きなぐった一文。今読み返して見ると、かなり怒りが先行している。「満天下に盲導犬失格犬として公開されたら・・・」の下りは最悪だった。余りにも今預かっている盲導犬パピーとオーバーラップさせた感情のまま。「アンジー号の全体を決して表してはいないある瞬間を勝手に世間に晒すな!そのようにしか利用されないアンジー号の姿を何の説明もなく、いきなり見せられた時の辛さがお前に判るか!と書いたつもりだが、決して、そのようには読めない。読める人は読めるだろう。でも、読み難い。

 盲導犬ユーザの排尿管理を<盲導犬ユーザと協会の責任>として、いわば他人事として批判するのはたやすいこと。
社会全体での環境整備も大事なのではないのか?その視点を堅持してこそ、自分は何ができるのかという意識も湧く?真に問題を解決するには、(騒動の後に)そういう社会的意識の高まりを残すことである。でも、エセ告発者にとっては所詮は他人事、バッシングの格好の材料に過ぎなかったようだ。この全く理解されない下りについては、今回は省いた。「あーだ!こうだ!」と非生産的な批判と非難の応酬が巻き起こった下りについては、今回は疲れるので省いた。

 さて、削除した本当の理由は、一文が余りにも怒りと憎しみに満ち満ちていたからである。こういう一文を書いた後は、実に苦々しい思いが残る。それは、時間の経過と共に増幅される。自らの人格と人間性について「フーッ!」とため息をつくことになる。今では、かかる怒
りと憎しみの一文を書いたことを恥じている。今では、自らの怒りを発散させることが目的かと思われる一文を書いたことを恥じている。これが、削除した本当の理由である。

 ついに、怖れていた事態が現実となった。世界中にその姿を晒された盲導犬の無念さを考えると目が冴えて眠れない。仮に、アンジーが盲導犬になったとしよう。そして、仕事中に排尿する姿を撮られ、満天下に盲導犬失格犬として公開されたら・・・。

 犬猫レスキュー団体は、目的の為なら手段を選ばないのか?
 犬猫レスキュー団体は、犬の名誉と尊厳とに配慮する慎みは持ち合わせていないのか?
 犬猫レスキュー団体は、関係者の慟哭する声を聞く耳は持ち合わせていないのか?

 余りにも独善的なやり口。
 盲導犬の名誉とか尊厳を平気で踏みにじる無神経さ。
 パピーウォーカーの心をズタズタにしても、これを見よという「どや顔」をする傲慢さ。
 私は、今、とてつもない怒りを覚えている。

 かって、新聞の編集と発行に携わっていたものとして次のことは言っておきたい。

 断片的な情報の聞き取りだけでは、赤を緑と伝える失敗を犯しかねない。
 断片情報で作りだす自らのストーリーに酔っていたら、赤を緑と伝える失敗を犯しかねない。
 自らの狭い経験に基づく感想・感情に拘りすぎると、赤を緑と伝える失敗を犯しかねない。

 し、しまったー。
 軽率だったー。
 仮に、エセ告発者がそう思っても、もはや遅い。
 「覆水盆に返らず」である。

 さぞや、悔しいであろう。
 さぞや、無念であろう。

 私は、長崎市鳴滝町に住んでいた。
 だから、よーく判る。

 「僕、したくなった!」と合図を送る場所が長崎市内にはないのである。
 歩けども歩けども石畳かコンクリート。
 教えられた排尿場所は、長崎市内にはないのである。

 盲導犬の排尿間隔は一般家庭犬より短い。
 一つには、私らパピーウォーカーが頻繁に排尿させたという育ちの問題がある。
 彼らは、決して留守番を強要されることはない。
 だから、存分に水を飲み、存分に排尿しつつ大きくなる。

 盲導犬の排尿間隔は一般家庭犬より短い。
 それは、歩くからである。
 小屋の中で寝ている限りでは尿意は起きない。
 しかし、歩けば尿意を覚える。
 これが、犬の生理。
 そして、盲導犬も一般家庭犬と変わらない普通の犬なのである。
 余り知られてはいないが、(時には)粗相もすれば、吠えもする。
 だから、欧州では街角に盲導犬の排尿場所が用意されている。
 でも、でも、長崎市内は行けども行けども石畳かコンクリート。

 さぞや、悔しいであろう。
 さぞや、無念であろう。
 お前の粗相する姿を全世界に公開して悦に入っている「どや顔」にションベンでもかけたいだろう。

 必ず、生きて戻れ!
 必ず、生きて戻れ!
 お前は、お前を侮辱した者どもに言いたいことがある筈だ。
 死ぬな!必ずや生きて戻れ!
 誇り高いお前は、生きて戻って来なければならない!

 繰り返す!
 必ず、生きて戻れ!