昨日、「風評:盲導犬虐待のエセ告発者の非人間性を告発する!」という一文を書いた。しかし、それは余りにも怒りに満ちていた。怒りに任せた告発行為に怒りで応じたのは拙かった。不徳の致すところである。そういう拙い一文を放置しておけば、九州盲導犬協会関係者へ多大な迷惑をかけると判断して削除した。が、この削除行為をもって、あたかも、私が「風評:盲導犬虐待の告発者の非人間性を告発する!」との主張を取り下げたかのように受け取った向きがある。それは、それで悔しい。そこで、児戯に等しいことは承知の上で、同じ主旨の一文を推敲の上でかなり長文に仕立てて掲載することにした。当然のことながら怒りまみれの箇所は、多少は理性的なそれに書き直している。また、タイトルを主旨をより表す「長崎発: 盲導犬ユーザ糾弾に見る事実と真実!」に修正した。なお、削除した一文は、恥を忍んで資料として後段に収録している。

長崎より、「盲導犬ユーザ盲導犬を虐待す!」とのセンセーショナルなエセ告発情報が発せられた。正に、特定の盲導犬ユーザを糾弾するための扇情的なうわさだけを基にした情報発信であった。それは、またたくまに2チャンネル等で取り上げられることとなった。
>この爺さん、食ったな!
>いや、爺さんの近所のもんが食ったに違いない!
これらのコメントを不謹慎と眉を顰める向きもあるかと思う。しかし、私には、そのほとんどに告発内容についてある程度の距離を置いた冷静かつ客観的な眼差しが感じられた。そして、展開されるコメントの掛け合いに洗練されたセンスすら感じた。なによりも、底流に流れる批判精神に一種の共感を覚えた。(それは、やがて単なるバッシングを目的とした書き込みに変質していくのだが・・・。)
それはさておき、私は、繰り返し告発者には4つのすべしが求められると指摘してきた。
1、事実と真実との違いをはっきりと認識すべし。
2、関係者の人権と心情に配慮すべし。
3、情報発信が他者に及ぼす影響も検討(考慮)すべし。
4、時を越えて、場を越えて生き続ける写真の公開は慎重にすべし。
エセ告発者は、私のかかる忠告に対して驚くべき反論を行った。
エセ告発者の反論1、私らは報道者ではないので糾弾するのに取材の必要性を認めない。
エセ告発者の反論2、犬猫を救出するに当たっては虐待者の人権は考慮する必要はない。
今、同様のスタンスで二次的、三次的に「風評:盲導犬虐待情報」が流布され続けている。正に、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の感を呈している。
<取材の必要性を否定する傲慢な姿勢!>
取材は、「事実と真実との違いをはっきりと認識すべし」以前の問題である。
私は、繰り返し口を酸っぱくして<自らの足で盲導犬使用者本人、九州盲導犬協会の関連スタッフにも直接にあって経緯をつぶさに聞き、その全体像を把握するという取材が先決>と訴えている。これに対する答えが、「告発するには周辺住民からの聞き取りで十分。取材は新聞社の仕事であり、私どもは真相の究明を新聞社にお願いしている!」というもの。開いた口が塞がらない。
<人権と関係者への迷惑を考慮しない手続き無視の独善的な姿勢!>
私の「人権を考慮して特定個人をネット上に晒して告発することには慎重であるべし!」という指摘については、「犬猫の救出が最優先!人権は二の次!」と答えた。さらに、「私は盲導犬について良い印象は持っていない」との糾弾に至った内なる事情までサラッと言ってのけた。エセ告発者には、人権とか関係者が被る影響は眼中にはないのである。そのようなものは、エセ告発者にとっては考慮するに値しない枝葉に過ぎないのである。
また、公開に先立って盲導犬協会とのコンタクトを取って裏付け確認を行うという当然の手続きなど考えの及ぶところではない。世の中に、かかる常識的な手続きを省いてネット上で特定個人をバッシングする暴挙を犯す勇気がある人は何人いることか?皆無に等しいと思われる。そういう意味では、エセ告発者は、正に稀に見る独善的な人間性の持ち主である。
<情報発信者は、バッシングの組織者であってはならない!>
4つの「すべし」をすべて横に置くことが許されるのであれば、「ネットでは何でもあり」ということになる。それが、怖い。必要とされる常識的な手順と手続きを無視し、ネット上に情報を公開する必要性というのも一切に考慮しないで、個人の思うままが許されるのであれば「ネットでは何でもあり」ということになる。正義と信ずる情報の発信にも、道義が要求されるということである。情報発信者は、特定個人に対するバッシングの組織者であってはならない。こういう自戒も必要なのではなかろうか?
<写真を風評流布とバッシングの武器に使う倫理性の欠如!>
>私どもは、写真が何を意味するのか全くわからなかった。
エセ告発者は、のうのうとブログでかく述べている。しかし、やがて<これが、動かぬ虐待の証拠>としてドヤ顔でネットに公開するに至る。ここでも、「私らは報道者ではないので告発に当たっては取材の必要性を認めない!」という傲慢な姿勢のままに、協会スタッフへの聞き取りという必要最低限度の手続きが完全に無視される。しかし、私が怒っているのは、この点だけではない。情報発信で用いる写真の意義と意味に関する無知ぶりについてである。
写真は、前後の関係を切り捨てた一瞬の切り取りに過ぎない。決して、事象の全体像を反映している訳ではない。それなのに、写されている事象に対する印象を2000字を越える長文の記事以上に与える一種の化け物である。写真そのものには、つらつらとした説明が書かれている訳ではない。それゆえに、写真は人々に様々な印象を与え、種々の解釈を生む。<これって、どういうこと?>から<これこそ、正に虐待の存在を示す証拠>まで、その解釈は見る側の知見の差で十人十色。写真のかかる特性を利用すれば、風評を真実に仕立て上げる道具として悪用できる。盲導犬ユーザに対するバッシングを組織する武器としても活用できる。これをやるかどうかは、情報発信者の倫理性いかんである。
<エセ告発者は、写真の公開をもってルビコン川を渡った>
たかが、歩きながら排尿している盲導犬の姿。されど、歩きながら排尿している盲導犬の姿。この公開された写真は、必ずや、時を越えて、場を越えて生き続けるであろう。すなわち、かかる写真の公開によって、一地方の一盲導犬に関する出来ごとは、全国で活動する盲導犬育成組織、その関係者、多くの盲導犬の今と未来とに関するものへと変質したのである。九州の一地方の出来ごとを告発するための写真は、公開されたその瞬間から、全国の盲導犬の今と未来とに影響を及ぼす写真と化したのである。告発者は、写真の公開をもってルビコン川を渡ったのである。ルビコン川を渡り切った告発者は、もはや、一盲導犬の境遇を憂う動物愛護者ではなくなったのである。ここにこそ、私が、にせの告発者を名指しで告発する至った理由がある。
<公開された写真は、時を越えて、場を越えて・・・>
しかし、「時を越えて、場を越えて生き続ける写真の公開は慎重にすべし」は、今や遅しである。覆水は盆には返らないからである。公開された写真が、全国の盲導犬の今と未来を否定する言論の武器として悪用される可能性もあるという危惧が私の杞憂であることを願う。しかし、公開された写真の閲覧者の中には、写真をもって「盲導犬道具論」や「盲導犬不遇論」を唱える向きもあるようだ。全国の盲導犬関係者は、これから公開された写真の負の影響と戦っていかねばならない。
<ネットで糾弾する必要性が、どこにあったのか?>
一番に解せないのが、エセ告発者の「ネットで糾弾する必要性」に関する認識である。「盲導犬ユーザーと盲導犬協会を許すな!」という世論形成が目的でなければ、およそ、ネットで糾弾する必要性はない。
既に一頭の盲導犬が行方不明になっていることを承知の上での糾弾行為。焦眉の課題は、糾弾ではなく捜索であった筈。発する情報は、ただその一点に集中すべきだった筈。そうではなくて、なぜに糾弾を急いだのか?盲導犬ユーザーと盲導犬協会とコンタクトを取って事情を聞くという一手間を省いて、なぜに告発を急いだのか?
仮に、自らの激情を処理する為だったとしたら、それは余りにも罪深い。結論を述べれば、その目的は<盲導犬ユーザと盲導犬協会とを狙ったバッシングの組織>にある。エセ告発者の意図はどうであれ、(そのようなやりようでは)「告発=ネットを武器とした個人攻撃」という決してあってはならない等式が出現する。だからこそ、ネットの利用は慎重でなくてはならない。
バッシングの組織が目的でないのであれば、「ネットで糾弾する必要性が、どこにあったのか?」-この問いに答えるのは情報発信者としてのせめてもの責任である。
<始まった盲導犬ユーザへのバッシング!>
晒された盲導犬ユーザに対する嫌がらせ電話が掛けられているようだ。九州盲導犬協会の活動にも著しい障害が発生しているとのこと。「それは、私の本意ではない」-は通用しない。全てが、エセ告発者が組織したことである。エセ告発者はブログでかく述べている。「信じるも信じないもあなた次第ですね!」-告発者は、UFOの目撃情報をブログで公開した訳ではない。この軽さは、一体何なのだ!自らが、いかなる世論を組織し、人々に対して何を扇動したのか?そこのところがまるで判っていない。
<目的の為なら犬の尊厳をも足蹴にする不遜で傲慢な態度!>
先の一文で、「仮に私が預っているアンジーが・・・」という前書きに続けて、その場合には、写真の公開に激しく反対すると述べた。この件が、正に私に怒りの一文を書かせた。そこで、重ねて私の憤りを紹介しておく。
仮にアンジー号の一瞬を切り取った一葉の写真が盲導犬ユーザへの非難を組織する武器として使われるとすれば、それは本意ではない。そのように扱われることは、アンジー号の尊厳そのものに関わることである。
私の怒りにを横に、エセ告発者のブログでは今なお「粗相する盲導犬」というレッテルを繰り返し貼りなおすことに忙しい。つまり、「哀しき盲導犬」との偶像化に忙しい。告発者は、このことが関係者を慟哭させる行為であることを理解するハートなど持ち合わせていない。
盲導犬とパピーウォーカーとの関係は、極めて特殊で特別な関係である。我が子同様に、いや、それ以上の愛情を注ぎこんで育てた末に送り出している。終了式では、断ち切れぬ思いを断って送り出している。そして、その後は会うことも許されない我が子の行く末を心から心配している。それなのに、つぶさな経緯も全容も知らされないままに「哀しき盲導犬」と偶像化されて利用される時、その慟哭は察して余りあるものがある。
>盲導犬パピーウォーカーの方なら判っていただけると思います!
と、とんでもない。仮に、盲導犬ユーザの使用に不適切な面があったとしても、それは協会によって必ずや正される。その取り組みの過程における極めて特殊な局面を切り取った我が子の写真をあなたの独善的なバッシングに利用されてたまるか!事実、問題の写真は、そういう是正とチェックの取り組みを写したもの。これもまた、ある瞬間の視覚情報をどのように脳的に処理するかの違いである。その差異は、過去に脳内に蓄積された情報の量と質の差に他ならない。このような協会の地道な取り組みを信用しているからこそパピーウォーカーは続けられるのである。
<エセ告発者の真実!私の真実!-正に、真逆の違い!>
最後に、事実と真実との違いを具体的に示しておこう。もしかしたら、一部で広がっているかもしれない「盲導犬協会、苦境に立つ!」-かかる見方は、一見すると真実のごとく見えるであろう。しかし、それは、本当の真実ではない。
「あなたは、何をもって否定されるのですか?あなたが何と言おうとも『盲導犬協会、苦境に立つ!』は真実ですよ。2チャンネルのやり取りを見てください!某犬猫レスキューのブログを見てください!これだけの人が協会を批判・攻撃しているではありませんか?」-これこそが、告発者流の真実観である。
ここに、今日も明日も盲導犬パピーの世話に明け暮れであろう私がいる。熊本にも佐賀にも、そして北海道にもいる。繁殖ボタンティアの方々も、今の今、黙々とその仕事を遂行されている。昨晩も眠らずにリタイア犬の世話をされた方もいるだろう。そして、昼夜を問わず盲導犬育成に携わっている協会スタッフがいる。ネットの喧騒の向こうには、数えきれない事実が存在する。これらのネットでは検索できない生きた事実を見落としてはならない。「盲導犬協会は健在である!」-これこそが真実である。
かかる事実と真実との違い、見方と真実との違いは、「私らは報道者ではないので糾弾に当たっては取材の必要性を認めない」と公言して憚らないエセ告発者には永遠に理解できないであろう。パソコンの前に座っているだけで知りえる類の情報(事実そのものではなく、他者に伝えるために伝達者の脳が作りだした二次的な事実)もある。それらは、ある種の目的を持って意識的に収集した伝聞であることを忘れてはならない。事実と情報は、その類のものだけではない。掘り起こさなければ表面に出てこない事実も沢山ある。また、視点を変えなければ目に入らない事実も数多くある。真実とは、実は、そういうところにこそ潜んでいるものである。それを伝えるのが、情報発信者の役目である。伝聞情報の拡散者であってはならないのである。
一日でも早く。一頭でも多く。
ネットは吠えても、盲導犬の歴史は進む!
結び
現時点で強いて行う必要のない特定の個人をネット上で糾弾するという手段に訴えるのはいかがなものか?後々に盲導犬育成事業発展の阻害要因となりかねない全体の真実を反映しているかどうかも疑わしい写真を晒すのはいかがなものか?-私の言いたいことは、この一点のみである。いずれも、情報発信者の初歩的な心得を述べているに過ぎない。
<資料:風評:盲導犬虐待のエセ告発者の非人間性を告発する!>
次に紹介するのが、夜中に飛び起きて書きなぐった一文。今読み返して見ると、かなり怒りが先行している。「満天下に盲導犬失格犬として公開されたら・・・」の下りは最悪だった。余りにも今預かっている盲導犬パピーとオーバーラップさせた感情のまま。「アンジー号の全体を決して表してはいないある瞬間を勝手に世間に晒すな!そのようにしか利用されないアンジー号の姿を何の説明もなく、いきなり見せられた時の辛さがお前に判るか!」と書いたつもりだが、決して、そのようには読めない。読める人は読めるだろう。でも、読み難い。
盲導犬ユーザの排尿管理を<盲導犬ユーザと協会の責任>として、いわば他人事として批判するのはたやすいこと。社会全体での環境整備も大事なのではないのか?その視点を堅持してこそ、自分は何ができるのかという意識も湧く?真に問題を解決するには、(騒動の後に)そういう社会的意識の高まりを残すことである。でも、エセ告発者にとっては所詮は他人事、バッシングの格好の材料に過ぎなかったようだ。この全く理解されない下りについては、今回は省いた。「あーだ!こうだ!」と非生産的な批判と非難の応酬が巻き起こった下りについては、今回は疲れるので省いた。
さて、削除した本当の理由は、一文が余りにも怒りと憎しみに満ち満ちていたからである。こういう一文を書いた後は、実に苦々しい思いが残る。それは、時間の経過と共に増幅される。自らの人格と人間性について「フーッ!」とため息をつくことになる。今では、かかる怒りと憎しみの一文を書いたことを恥じている。今では、自らの怒りを発散させることが目的かと思われる一文を書いたことを恥じている。これが、削除した本当の理由である。
ついに、怖れていた事態が現実となった。世界中にその姿を晒された盲導犬の無念さを考えると目が冴えて眠れない。仮に、アンジーが盲導犬になったとしよう。そして、仕事中に排尿する姿を撮られ、満天下に盲導犬失格犬として公開されたら・・・。
犬猫レスキュー団体は、目的の為なら手段を選ばないのか?
犬猫レスキュー団体は、犬の名誉と尊厳とに配慮する慎みは持ち合わせていないのか?
犬猫レスキュー団体は、関係者の慟哭する声を聞く耳は持ち合わせていないのか?
余りにも独善的なやり口。
盲導犬の名誉とか尊厳を平気で踏みにじる無神経さ。
パピーウォーカーの心をズタズタにしても、これを見よという「どや顔」をする傲慢さ。
私は、今、とてつもない怒りを覚えている。
かって、新聞の編集と発行に携わっていたものとして次のことは言っておきたい。
断片的な情報の聞き取りだけでは、赤を緑と伝える失敗を犯しかねない。
断片情報で作りだす自らのストーリーに酔っていたら、赤を緑と伝える失敗を犯しかねない。
自らの狭い経験に基づく感想・感情に拘りすぎると、赤を緑と伝える失敗を犯しかねない。
し、しまったー。
軽率だったー。
仮に、エセ告発者がそう思っても、もはや遅い。
「覆水盆に返らず」である。
さぞや、悔しいであろう。
さぞや、無念であろう。
私は、長崎市鳴滝町に住んでいた。
だから、よーく判る。
「僕、したくなった!」と合図を送る場所が長崎市内にはないのである。
歩けども歩けども石畳かコンクリート。
教えられた排尿場所は、長崎市内にはないのである。
盲導犬の排尿間隔は一般家庭犬より短い。
一つには、私らパピーウォーカーが頻繁に排尿させたという育ちの問題がある。
彼らは、決して留守番を強要されることはない。
だから、存分に水を飲み、存分に排尿しつつ大きくなる。
盲導犬の排尿間隔は一般家庭犬より短い。
それは、歩くからである。
小屋の中で寝ている限りでは尿意は起きない。
しかし、歩けば尿意を覚える。
これが、犬の生理。
そして、盲導犬も一般家庭犬と変わらない普通の犬なのである。
余り知られてはいないが、(時には)粗相もすれば、吠えもする。
だから、欧州では街角に盲導犬の排尿場所が用意されている。
でも、でも、長崎市内は行けども行けども石畳かコンクリート。
さぞや、悔しいであろう。
さぞや、無念であろう。
お前の粗相する姿を全世界に公開して悦に入っている「どや顔」にションベンでもかけたいだろう。
必ず、生きて戻れ!
必ず、生きて戻れ!
お前は、お前を侮辱した者どもに言いたいことがある筈だ。
死ぬな!必ずや生きて戻れ!
誇り高いお前は、生きて戻って来なければならない!
繰り返す!
必ず、生きて戻れ!
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2、盲導犬アトム号の排尿習慣に関するコメントも控えてください!
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これに関しては、既に極めて妥当な結論が出ています。また、この件についても「あーだ!こうだ!」の個人的な憶測を戦わすのは余り生産的ではありません。それも過ぎれば、特定の盲導犬ユーザをネット上で裁くことにも繋がります。
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3、九州盲導犬協会の対応の評価もテーマではありません!
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九州盲導犬協会の対応が問題になっているようです。しかし、それはしかるべき場でしかるべき手順を踏んで語られるもの。このブログは、そのような重要事項を不特定多数の者が匿名でもって無責任に自己主張を戦わす場ではありません。
まあ、無名の訪問者も皆無に近い私のブログ。ですが、一応、念のためにお願いしておきます。なお、私は、1月28日の「情報における事実と真実について!」から2月11日の「【盲導犬アトム号の真実】歪曲と錯誤を正す声が全国へ!」の一連の文書において上記の3つに関しては一言も触れていません。それは、私的ではあるがインターネット上に遍く公開しているブログ上で述べることではないからです。コメントを寄せられる際には、そのことも踏まえてもらえれば幸いです。