まぁ、ズボラ管理人なので…というより抗がん剤で体調悪くて…ゲホゲホなので、ここで雑談しませうw
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コメント一覧
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- 2012年03月22日 12:27
- ヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』の最後のところで、名前は忘れましたが、かつてシッダールタとともに修行していた人物がシッダールタと再会する場面が描かれています。この人物が、シッダールタにうながされて、シッダールタの額に手を当てます。すると幻想的な世界があらわれてくるんですね。まるで幻覚を見ているかのように、無数のシッダールタがあらわれてきたのです。
盗人、魚、石、あらゆるシッダールタがあらわれてきます。これこそが多世界であると、わたしは解釈いたしました。盗人、魚、石、あらゆるシッダールタを統合すれば、それが本物のシッダールタなのです。
>わたしの恋に関する考察はいかがでしょうか?
>>でも、恋って、欲望でするものじゃないような気がします。恋は突然やって来て、抑えられない感情なのではないのでしょうか?<
そうですね、恋はたとえ欲しなくてもやってくることもあれば、いくら欲してもやってこないこともありますね。抑えられない感情。そのとおりですね。
恥ずかしながらわたしは、片思い専門なのです。ただひたすら相手のことを思いつづける。ただこれだけの恋愛経験ですね。
そんなわたしにも、理想の片思いがあります。さあ、どんな片思いなのでしょう。それは内緒です。
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- 2012年03月22日 14:21
- 幕天居士さま
返信考えてます、遅れててすみません、、
ところで、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」この本がわたしは、大好きなのです。大学で第二外国語、ドイツ語にしたのも、これを原文で読みたかったからです。(いや。もちろん、果たしてないですよ、笑)
何冊も買って人に上げたりしました。
多世界解釈だったのですか、あの世界は…。
わ〜、すごい…
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- 2012年03月22日 17:13
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さくらさま
>>474~477
さくらさまのおっしゃていること、とてもよく理解できました。
そうです、トキさまの掲示板でで、男性陣が難しい討論をされていて、わたしはほとんど理解できなかったのですが、さくらさまが言い換えてくださると、とてもよく理解できたので不思議でした。
さくらさまは霊感でも聞いたりしゃべったりしているのかも知れませんね。
だから、相手のお考えがよくりかいできる。かぴばらさまがエンパスという言葉を教えてくださいましたが、やはりそういう力があると思います
そういえば、さくらさまも幽体離脱を経験されたのですね!
わたしは、精神的にすごくストレス状態の時に離脱しました。そのころは、「神なんかいるはずがない!神がいたら、こんな苦しみをわたしに与えるはずがない!神がいたら、呪い殺してやる~~!」くらいの無神論者でしたから、もちろん、魂の存在なんて信じていませんでした。人間死んだらおしまいだと心から信じていました。
それが、幽体離脱を経験してから、目が覚めたというか、生きるのが少し楽になった、というか、前向きに人生を捉えるようになっりました。
さくらさまの幽体離脱の経験って1回だけでしたか?
どんな風だったのか、教えて下さいませんか?
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- 2012年03月22日 17:18
- さくらさま
話が、違う方へ行ってしまいました(笑)
ごめんなさい。
>雅宣先生が、変わる必要があるとするなら、本山や道場を生長の家として残し、雅春先生の教えによる救済を行う場所から、まったく手を引いて、今の団体を宗教と呼ばず、活動することがよいんじゃないでしょうか。。・・そんなこと、まったくむずかしいですけどね、。<
そうそう、これすごくいい考えだと思います。トキさまの掲示板でも、そんなところまで話が進んだのですよね!
でも、なんかさくらさまが居ずらいような雰囲気になってしまって、わたしは試験勉強に追われていて、話が途中になっていた。わたしは、そこが心残りだったのです。
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- 2012年03月22日 17:31
- さくらさま
これ、もしかして「生長の家」の「放つ愛」につながりますか?
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- 2012年03月22日 23:06
- 幕天居士様
御返事遅くなり、大変申し訳ありません。
色々、考えさせられてしまって、また、その中で気づくことがありました。有り難う御座います。
まぁ、、、僕も自分自身の人生をシューモナイとは思っています。それでも、他の人から観れば、羨ましいと言われる、、、確かに「おあいこ」なんでしょうね。
葛藤があるのは、僕は嘘は言わない、だけどこれは自分自身なのか?真実なのか?といわれれば、自信が無い。そこに周りの人に対する申し訳ない気持ちがありました。
で、そこは幕天居士様のa hope様宛の書き込みを拝読して、自分の中にある色々な世界、それ全体が自分なんだって感じた時に、その悩みは無くなりました。真実はそこにあるんだって・・・本当に有り難う御座います。
続きます。
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- 2012年03月22日 23:31
- それで欲望とは、おそらく方向性、自分と云うものを成り立たせる起源と云うようなものなのだろうと僕は感じています。
本流掲示板での一部の投稿者は、確かに自分の方向性を間違っている、生長の家という教団が自分の欲望・方向性を叶えてないと、「偽った自分」という鍍金が剥れてヒステリーを起すのだろうと思います。
>義春さんは、個ではなく全体への奉仕を選ばれたのだとおもいます。それは、義春さんの個としての欲望とどのように関係していたのでしょう。欲望に身をゆだねるにしても、根本のところでその欲望が阻害されていると考えるなら、あるべき本来の欲望を裏切る方向へと進まざるを得なくなるというのは、たしかにありがちなことだとおもいます。ですが義春さんはどうだったのでしょう。いらぬこととはおもいますが、このことがどうしても気にかかって仕方がありません。
僕はどうなのだろう・・・ずっと自問自答しています。この御文章を拝読した日は朝の4時まで、ずっと考えました・・・自分の個としての欲望・・・たぶん、温かさを感じたいなのかもしれません。
すごく抽象的ですが、最初の癌で死にそうになった時、強烈に感じたのは、それでした。
本当にそうなのか?と言われれば、どうか分かりません。
色々考えて見ました。出世とかは出世したら、めんどくさい事ばかりになるし、名誉なんて名誉を守る方がめんどくさいし、人に認められたら、それこそそれに応え続けないといけないのはめんどくさいし、金銭は拘らないし・・・それこそ、めんどくさいなって思ってしまうのです。
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- 2012年03月22日 23:37
- 続きました。
気分はどうにもなりませんよね。
まぁ、本流掲示板な方々を支配する気分は「怒り」なのでしょう。
いつも何かに怒っている。
雅宣先生だったり左翼だったり、中国だったり韓国だったり・・・何かにいつも怒って、国の為に怒っているから正義なんだって滅茶苦茶な論理。幕天居士様の仰る様に、そもそも自分を裏切っているから、それを隠す為に怒るのかもしれません。
で、僕を支配する気分・・・うーん・・・彼らと同じような状況で考えると、癌で苦しい時とかに、その支配する気分が出てくるのだとするなら、僕は「笑い」なのかもしれません。
暇があれば笑える話を探してしまいます。ただ、笑うツボはシュールですが・・・。
それから、死の恐怖についてですが、僕は痛みの恐怖ですね。もう、死そのものより死の直前の痛みが怖い。昨日の晩、痛いのが怖いんだって、やっと分かりました。そして認めました。なんかスッとして楽になりました。
我慢しなくて良いんだと。
うーん・・・どうにもまとまりが悪くて、申し訳ありません。
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- 2012年03月23日 08:01
- 義春さん
体にご負担をかけさせてもうしわけありません。身勝手な言い草ではありますが、これはすでに、義春さんとわたしの「業」ではないかと、そんなことをおもったりもいたします。
ところでじつは最近、ジョルジュ・バタイユにはまりつつありまして、関連した本を読もうとしているところなのですね。バタイユという人は、名前だけはずいぶん以前から知っていましたけれども、「消尽」や「蕩尽」という言葉で代表されるように、「すべてを使い尽くすように、死ぬほどまでに生きようとした特異な人物」といったイメージを持つだけでありました。それがなぜかこのごろは、もっとも気にかかる人物として浮上してきたのですね。
本を読んでますと、もちろん解説書ですが、さすがに凄いことが書かれてますね。たとえばこれはハイデッガーから取り込んだ思想のようですが、死というものを「強烈な否定性」ととらえるわけですね。いってみれば、生のすべてを否定するような威力を持っているわけですから、死はやはり強烈な力でありエネルギーなわけです。この自己を全否定しようとさえする力、エネルギーを、人間はおのれのうちに取り込んで内面化させたと、このようにバタイユは考えるわけです。
武士道がそうであるのかもしれません。死の威力、自分の存在を全否定するような威力をうちに取り込まなければ、武士道は成り立つはずがありませんよね。たしかに武士は、死を自己の一部として内面化させていたのですね。しかしそれは武士のみならず、人間がそれを内面化させたのだと、バタイユは考えます。それが推進力へと変わるのですね。それこそ、自己を否定しすべてを使い尽くそうとする推進力へと、それは変わるのですね。
つづく
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- 2012年03月23日 08:02
- 死を忘れ去ろうとするのは、せっかく取り込んだ死の威力を消し去ることにつながる気がいたします。なんら推進力を持たない「生半可な生」を実現するだけのようにおもわれます。死を忘れるな。そうすることでしか推進力は生まれない。そんな気がいたします。
それにしても、人生に推進力をもたらす威力とはなんなのでしょう。それは〈死の欲動〉としてあらわれるものなのでしょうか。バタイユほどに激しく生きる必要はないとおもいますが、もしも人がことをなすとすれば、それはこうした推進力が背後にあればこそという気がいたします。
自分の人生を振り返れば、あまり偉そうなことは言えないのですが、それでも人が何かにせきたてるように生きざるを得ないとすれば、それは死の威力、その強烈な否定性をうちに取り込んだがゆえではないかと、バタイユに興味と関心を持ってしまった今となっては、どうしてもこのようなことに思いをはせてしまいます。
しかし、それでもですね、義春さんがいっておられるように、人は死そのものよりも、そこへといたるプロセスを怖れるものなのですね。痛みや苦悩。これを怖れてしまいますね。わたしにしても、「死は怖くない」と勇ましいことをいってはいても、「痛いのだけは勘弁してほしい」と、それこそ切実におもってしまいます。
つづく
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- 2012年03月23日 08:05
- 痛みにどう対処するか。これは大きな問題です。わたしの対処法としては、自分が痛んでいるとはおもわないということですね。痛みがそこにある。そう考えるしかなさそうです。痛みを対象化してそれを観察する。無理にでも、痛みと自分とを分離させて、自分が痛んでいるのではないと思い込みたいですね。
でも、ほんとうに痛いときは笑うしかなさそうです。堪えられないような激痛でも、ヘラヘラと笑っていると、不思議と楽になったという体験があります。エンドルフィンの作用であったような気もいたしますが、よくはわかりません。
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- 2012年03月23日 08:10
- 訂正いたします。義春さんとわたしの「業」、となっているところは、「「縁」と書いたつもりなのですが「業」になっておりました。やはりこれは、「縁」ではなく「業」というべきものなのでしょうか。なんとも言い難いです。なんにしても、勝手な言い草ですので、気になさらないでください。
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- 2012年03月23日 08:13
- 小さなことですが、これも訂正です。
「何かにせきたてるように」は、「何かにせきたてられるように」と読んでください。
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- 2012年03月23日 18:32
- >463
幕天居士さま
コメント、ありがとうございます。返信遅くなりました。
前から気になっていた、とても印象深い、写真があります。
マリオ・ジャコメッリ。イタリアのアマチュア写真家です。
NHKの番組で見たことがありました。
白黒の、どこにも感じたことのない、なんとも独特で幻想的な世界を作りだしていて、
一度見たら、脳裏に焼き付くような、不思議な感覚になる写真です。
辺見庸が解説していましたが、その時少し聞いただけですが、興味深かったです。
昨日、久しぶりになぜかふと思い出して、アマゾンで本を注文してしまいました。
いま、いくつかの写真しか思い出せないのですが・・例えば、視点、なんです、不思議なのは。
中央にいるのは、亡くなって目を閉じている老婆。その周りにいる弔いの喪服の人々。
カメラの焦点が合っているのは、この真ん中に寝かされている老婆なんですけど、周りにいる人々の姿の方がぶれていてさまよっているように見える。
まるで死者の方が生きている人間を、静かに見ているような錯覚に陥るようで、死んでいるものの感覚の方が確か、みたいな気にさせられます、
どれも、異世界に迷い込まされるような、不思議な感覚になる写真です。
本の副題には、~「生」と「死」のあわいを見つめて~とあります。辺見さんがご病気をされて生死をさまよった経験から人生観もこの写真に投影されたようです。
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- 2012年03月23日 18:34
- うえのsakuraは、さくらです、笑。
(つづき)
ロランバルトの「写真論」のなかで、情報や知識なんかを与える、ストゥディウムと(一般的関心)に対して、見るものの身体の奥深くにある感性の痛覚をいきなり刺す、プンクトトゥム(一般的関心を破壊する要素、小さな裂け目などの意)と呼ばれるものがあります。この写真は、後者の方で、「内面にとつぜんやって来て、痛みや傷を負わせるもの」、そんな印象、と言えるのかもしれないですね、
辺見さんは、それを、身体の奥底に刺青を彫られるような感覚とか、脳裏に焼き付くシミ、とか書かれていました。辺見さんは大病を患って生死をさまよった経験があるようです。
なぜそんな感覚になるのか・・正確には知りません。
私自身は、なにか言えないけど怖さと、同時に強い親和性を感じる気がしています。
それは、直視するのが恐ろしいのだけれど、どうしても、惹かれてしまう、そんな感じで。
普段はそれを感じないように・・そうですね、幕天居士さまが言われたように、忘れたがって日常の楽しみに埋もれさせてしまっている感覚、なのかもしれません。
でも、忘れ去ることができずに、ずっと奥にある、シミ、裂け目のような感覚。
たぶんそんなものに、触れるような気がするからかもしれないですね。
時々なにかの拍子にそんなことがあります。
本当は、この「裂け目」が、自分の中の確かな感覚に近いのかもしれない、そんなことも思います。
ジャコメッリの問題意識の中には「時間」というものがあるそうです。「時間=死」というものを映し出しているとすれば、それが、今、自分がおかれた、・・確かだと錯覚しているものを、揺るがしてしまうような、そんな感覚になるのかも知れない、とも思います。
時々感じる、この・・「裂け目」のような感覚が、なにかごまかしきれないものと向き合う手がかりにもなるようになる気がしますが、分かりません。
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- 2012年03月23日 18:35
- シメールも、十字架も、人間ならどちらも持っていて、
人によって違いがあると思うんですが、
女性と男性の背負うもの、って・・すべての感覚や機能や、思考も・・おそらく、耐え難く、笑、違いがあったりしますよね。最終的には、一つ処に帰るとしても、たどり着くまでの過程にずいぶん隔たりがある。
世の中ってすべて言葉でできている(象徴界ですか)なら、男女は、身体や無意識の中に組み込まれた言葉のなんというか・・構造がちがうことがおおきいと感じますね。
今の社会構造は、男性の内部構造にぴったりした言葉でできています。だから、社会の中で男性の思考とその存在は、矛盾しない。でも、女の存在は、不可解で、理屈には合わない。とかそんなことが起きてくる。
ラカンがいう「女は存在しない」が、人間が言葉の習得の段階で起こる心理的な状態の必然と言えるなら、これは女の宿命、というか・・そんなことなのでしょう。
ときどき、人間として考える自分と、女性になった時の自分というものの存在の隔たりみたいなものは感じます。
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- 2012年03月23日 18:35
- (つづき)
でも、大人の女性として生きている尊敬できる人って、女としての宿命みたいなものも受けとめて覚悟して生きて言ってる気がするから、・・さくらにはまだ、女の覚悟、笑、のようなものがないのかも知れませんね・・。
「女」になってしまうのがとてもこわいときがあります。男の人には、幕天居士さまが・・以前言っていたようなフロンティアの海を、見ることができるんですけど、女は、ただ、置き去りにされて、窓辺でその海を見ているしかないのかもしれない、とか。
とても人を好きになってしまうと、この「存在しない」、空虚という意味が本当のような感覚が、何となく分かるような気がしてきたり。
それに、女性は、「欲望される」ってことが、その存在の価値を決められるってところがあるようですね。好きでもない人の欲望に答えてしまうのは、自分の知っている内部価値を汚してしまうように感じるから、苦痛なのでしょうか・・。
女性もシメールを背負って生きるけれど、・・十字架って背負うのでしょうか。
マリアは十字架を共に背負ったというより、傷ついたイエスをただ、抱いていましたね。
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- 2012年03月24日 20:13
- 幕天居士様
有り難うございます。
僕も幕天居士様には縁を感じます。
僕はスゴく楽しんでますから大丈夫ですよ。それに本気の本気を出す喜び、それは今までありませんでした、幕天居士様はそれをひきだして頂きました、だから心から感謝申し上げます。僕は貴方から『考えるきっかけ』っていう良いものを貰ってます、それだから、本当に有り難いです。
ジョルジュ・バタイユ、調べてみたら、[ジョルジュ・バタイユの『呪われた部分』3:蕩尽による享楽を排除する近代社会の経済‐労働構造]というものを論じているブログ(http://digitalword.seesaa.net/article/140110899.html)を読んでみました。
無神論者だからといって排除したらいけない人はですね。かなり面白い論じ方だなぁ、と読み込んでしまいました。
そう確かに、取り越し苦労して使わないとは生命を殺す考え方、それは本末転倒だと僕は感じました。もっと参照ページを読んでいこうと思っています。
武士道の考え方、確かに、そうだと僕も思います。(…というより、戦国時代の逸話はそうじゃなきゃ説明出来ない話がありすぎです)
人が自殺するのは大変なエネルギーを要します、それは死が大変なエネルギーを要するということだろうと思います。
それだから『死』という(生命の原則から外れる)表現には、それだけのエネルギーがあります。(だから鬱病だった義理の叔父の自殺には非常に驚いたものです)
死は外にはない!…と否定して、死を己がうちに取り込み、死と一体化することは、それだけのエネルギーを得るということなのかもしれませんね。死の内面化とはそれなのかもしれません。
続きます。
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- 2012年03月24日 20:29
- >死の威力、その強烈な否定性をうちに取り込んだがゆえではないか
僕は人から生き急いでいると言われますが、もしかすると、無意識のうちにそうしていたかもしれません。何故か、そう感じます。
>痛みにどう対処するか。これは大きな問題です。わたしの対処法としては、自分が痛んでいるとはおもわないということですね。痛みがそこにある。そう考えるしかなさそうです。痛みを対象化してそれを観察する。無理にでも、痛みと自分とを分離させて、自分が痛んでいるのではないと思い込みたいですね。
これは激しく完全チェスト!です!
幕天居士様の仰る言葉と全く同じ事を考えておりました。
僕は腰痛、これで消しました。
いや、それしかありません。痛みを観察して、痛みと自己を分けて観るしかありません。
心は痛むか?そう問いかけてみるしか…。
真に有り難うございます。
本当に有り難うございます。言葉が見つからなくて、こんなありきたりな言葉になってしまいますが、出会えた事に感謝してます。生きてて良かったなっと思います。
寒暖の差が激しいので、お身体ご自愛ください。
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- 2012年03月25日 17:10
- さて…と、後輩に捕まって飛び込み奉仕になってしまった
大阪は家みたいなものだから、落ち着けない
で、さくら様の悩みに付き合ってみたく存じますが、タブー無しで想うままに書いてみたいです。
教団の批判になりがちだから、僕自身は書きたくないのですが、現場からの視線で、外面的なことから入ります。一応解決策みたいなものも提示するから、お許しくださいね。
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- 2012年03月25日 17:25
- 今日の大講習会は数値的な意味では、おそらく前回並みのところだと思います。
人の流れは…毎度ながら、午後の帰りが多いなと感じました。
ただ、僕の後輩にあたる子達の顔を眺めながら…彼等は何か青年会でしたいことはないのだろうか?そんなことを感じました。。
昔なら、それこそ、森田先生のもと日本国実相顕現など、目指すものがありました。(昔を持ち出すからといって今を否定するのではありません。百万運動も、時代に求められてとはいえ様々な弊害がありました。)
今の活動には何かしらの方向性を感じられないのです。禁止事項が多く、現場が萎縮している…そうも感じます。
外面的には、何かしらの…そうですね、皆が自分の存在を確認出来る、そんなものが求められているのかもしれません。
その意味ではボランティア活動などのさくら様のお考えは、地域再生が課題の昨今、時代に求められていると存じます。
(地域再生については、次の仕事で関わるので、また知見を深めておこうと考えております)
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- 2012年03月25日 17:47
- まだまだあるのですが、一先ず書き終えてから補完しようと思います。
次に内面的なことですが、生長の家の人達って、生長の家の言葉でしか語れないという致命的な弱点を抱えています。
何故か?
それは日本国実相顕現にせよ、環境にせよ、社会に働きかけるということは、かなりの教養を求められます、それこそ、哲学なり歴史なり物理学なり、幅広い知識、知性で訴えないといけません。
それを今の活動者が語れるか?
それは甚だ、心許ない。僕が初子様にチェスト!するのは、その幅広さなのです。
そうでなければ、『文明』という怪物に呑み込まれてしまうだろう…とも感じます。
僕個人は、その生長の家のことを生長の家以外の言葉で表すことで仲間を増やしていたから、なおさら…。
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- 2012年03月25日 18:00
- また、そのように幅広く語れる人材を育成していくことは、百万運動での欠点を補いつつ、言葉に囚われずに社会を有機的な生命として『文明』に呑み込まれないものを作り出すと考えています。
それは百万運動というものは、多人数から働きかける運動の成り立ちであるから、パッションによるしかありませんでした。
それだから、シニフィアンの暴走になる傾向が強かった…言うなれば、ボトムアップ連鎖みたいなものでしょうか。
それでは、シニフィアンの暴走により、目的の手段化、また『人間知』という言葉で個の否定することにつながってしまったと勝手ながら感じております。
しかし、先にあげた幅広い教養で言葉を鎮めつつの働きかけは、どうしても少人数にならざるを得ず、それはエリート育成という面があります。教団の立て直しも含め、先ずはそこから始めることで核を作るしかないだろう…と考えております。
、
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- 2012年03月25日 18:33
- 次に関東と地方の問題について触れたいと存じます。
まぁ、僕は全国あちこちほっつき歩いたものですが、東京第一・第二教区等々の関東と地方に大変なギャップを感じております。僕はこれを関東問題と名付けているのですが、この関東の独特な雰囲気が全体を良くない方向に引っ張っていると勝手ながら思っています。
…というのも、関東には生長の家本部があります。それだから、東京第一・第二・千葉・埼玉・神奈川等は本部関係者が引っ張っているところがあります。
それで誰々先生の親戚なり子供というのが重視され、かなり独特な雰囲気を作り出しております。地方ではそんなことは殆どないので奇異に感じるのです。
その状況下でこういった争いを抱えると、お互いがお互いの人間関係で疑心暗鬼になり、よけいに生長の家教団全体を悪い方へ引っ張っている面があるように感じております。
それだから、先ずは組織の再生の為に、人間関係についてのもっと皆、寛容になれば良いのではないかと感じるのです。
だから、難しいことですが、先ずは賞罰は人間関係ではなく仕事に限る、不倫など、人の道を外すような人間関係について賞罰する際の項目を作り、物事の決め方をハッキリさせる、その辺りからどうだろうか?…そんなことを勝手ながら感じているのです。
先ずは、そんなことからどうでしょうか?
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- 2012年03月25日 19:03
- 今日はちょっと疲れました…飲み会で絡まれるのは堪忍だから、撤収作業終わったら、トンズラしちゃった
どうせ委員長には邪魔者扱いだろうし、事務局長のあの暴走列車には轢き殺されて【義春のミンチ】っていう即席宴会料理にされかねん
それでも他の青年会の連中、俺を身内扱いするのは良いんだが…少なくとも、今回は雅宣先生の話を聴きたかったよ…。
次は遠出して聴きにいこう…っと。
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- 2012年03月25日 23:47
- >481
a hopeさま
すっかり返信遅れました、すみません。
>さくらさまが言い換えてくださると、とてもよく理解できたので不思議でした。
たぶんこれは・・さくらが難しい言葉を知らず、ボキャが乏しいので、簡単な言葉に言い換えてるだけだと思いますよ、笑。
>わたしは、精神的にすごくストレス状態の時に離脱しました。そのころは、「神なんかいるはずがない!神がいたら、こんな苦しみをわたしに与えるはずがない!神がいたら、呪い殺してやる~~!」くらいの無神論者でしたから、もちろん、魂の存在なんて信じていませんでした。人間死んだらおしまいだと心から信じていました。
ahopeさまが、無神論者だったなんて、信じられませんね、
でも、そうした方の方が、ずっと、愛に近いんだと思います。逆に本当は求めていたんですね。
憎しみの方が、無関心より、ずっと、愛に近いって、ほんと、そうなのでしょうね。
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- 2012年03月25日 23:48
- 幽体離脱はなんどか浮遊感があったんですよね。ある時、はっきり来たときがあって。
精神が鎮まるような感じが来て、目を閉じて身体は動かないのに、部屋の中とか外の様子が、はっきり感じられて。で、目の前がテレビの砂嵐みたいになったんですよね、ジージーって。身体が浮き上がってきて、このままじゃ天井についちゃうな~、困るな、やめてほしい、ってたのんだんですよ。そしたら、ゆっくり身体が戻っていきました。身体にいるときより、感覚が鋭くて、驚きました。
それから、わたしは、興味を持って、モンローの本など読んだり、ヘミシンクのCDとか聞いてたんです。でも、身体が浮遊したとき、もうやめてくれ、って強く思ったら、もうそれからは、なくなりました。
わたし、a hopeさまの体験も読んで思ったんですが、これは、与えられた体験という感じがします。
>これ、もしかして「生長の家」の「放つ愛」につながりますか?
これ、とは、宗教と、活動をはなすことですか?笑。
うーん、放つ愛につながるかどうかは、ちょっと分かりません、笑。
そういえば、放つ、って、
本当に、相手を信じ切っていないと、できないですね、。
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- 2012年03月25日 23:49
- 義春様
コメントありがとうございます。
大阪講習会、受講者2万9千人以上だったみたいですね、やっぱり、大きいですね~、大阪は。
義春様の書いて下さった現場で感じることは、わたしもとても共感できます。
>今の活動には何かしらの方向性を感じられないのです。禁止事項が多く、現場が萎縮している…そうも感じます。
一つ一つのことがそうなんですよね・・
たとえば、誌友会のBタイプでも、教区単青の自主的な活動など、教区全体は勿論ですが、小さなことでも、縛られている。
教区ではすべて「それは本部に聞いてみて判断します。」そんな答えになり、結局あたらしいものはほとんど否定される。
実際たくさんのアイディアを提案し仲間とやっていたら、即たたかれました。
「それは、方針からはずれている。」口惜しい思いをして、やる気がどんどん落ちていく仲間をみてやりきれなかったです。
始めの頃は、その点も本部の青年会部に直接聞きに行ったことがありました。
本部自体がもうあまりに閉塞的になり柔軟性をなくしている実態、それは組織として多くの「痛い経験」をして結局こうなってしまったことなどや、また職員自身も、思いを実現できない悔しさを通して、組織の実態を学んだことも、率直に話して下さいました。
それを聞いていたら、自由な活動したかったら、組織を抜けるしかない。そんなことを思わされました。
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- 2012年03月25日 23:50
- (つづき)
義春様が関東問題!、と言われるように、東京も本部に密接で、雰囲気が支配されているのを切に感じます。一種の閉鎖的なヒエラルキー?みたいなものなんでしょうかね、、あまりなじめないものを感じることがありますし、実際地方から来た方にもあまりにドライな雰囲気で驚いた、と言われました。いろいろ幹部の人間関係のことを聞くと・・ほんと、どうにもならない弊害を感じてます。
こういうことも、全体をよくない方向へ引っ張っている、というのはよくわかります。
>その意味ではボランティア活動などのさくら様のお考えは、地域再生が課題の昨今、時代に求められていると存じます。(地域再生については、次の仕事で関わるので、また知見を深めておこうと考えております)
お仕事に関わるのですね。これについては、何かあればぜひ教えて頂きたいです。
やっぱり、現地につながりを持つ、ということが大切だな、と感じてます。
何ができるか分からないと実際には動けない。でも、地域の人とのつながり通して、手探りでも、動くことができる。こうしたお互いの顔が見える活動が、個人的救済につながっていくのではと思います。人間関係のつながりが結局、伝えやすい助けやすい環境につながる。
それでも地域的な閉塞感がないように、全体とゆるいつながりを持ちながら自由に活動できるような・・そういう形がよいなと考えます。
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- 2012年03月25日 23:53
- >生長の家の人達って、生長の家の言葉でしか語れないという致命的な弱点を抱えています。
何故か?
それは日本国実相顕現にせよ、環境にせよ、社会に働きかけるということは、かなりの教養を求められます、それこそ、哲学なり歴史なり物理学なり、幅広い知識、知性で訴えないといけません。
そうですね・・。
外で活動すると、もっと人に魅力ある訴えがないといけない、とつくづく感じることがありますよね・・。どう伝えていくか、どう自分の言葉で語れるのか・・そういう風に考えると、たくさん学ばなければ行けないし、もっとかんがえなくてはいけないですよね・・。
義春様の声は、実感があってよく理解できます。ありがとうございます。
また、よろしくお願いします!
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- 2012年03月26日 21:47
- 478. 幕天居士さま
ミンデルの「多世界解釈」を説明していただきありがとうございます。
また、シッダールタの友人がみた、無数のシッダールタのお話も興味深かったです。
>盗人、魚、石、あらゆるシッダールタがあらわれてきます。これこそが多世界であると、わたしは解釈いたしました。盗人、魚、石、あらゆるシッダールタを統合すれば、それが本物のシッダールタなのです。<
このお話だけ聞くと、わたしは前世を信じているので、シッダールタの友人は、シッダールタの魂が過去に経験してきた前世を見たのではないかと想像してしまします。魂が、石に入るかどうかは分かりませんが...
心理学者などの無神論者でも、一度、頭脳で理解しがたい神秘体験を経験すると、がらりとそれまでの考えたかを転換させる人がいますよね。
前世療法のブライアン・L・ワイスなんかも、もともとは精神科医でしたよね。
幕天居士さまは、前世は信じていらっしゃいますか?
わたしは、この「前世療法」という本や「神との対話」を読んで、精神世界のことをだいたい理解しました。
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- 2012年03月26日 21:49
- 479. 幕天居士さま
>恥ずかしながらわたしは、片思い専門なのです。ただひたすら相手のことを思いつづける。ただこれだけの恋愛経験ですね。
そんなわたしにも、理想の片思いがあります。さあ、どんな片思いなのでしょう。それは内緒です。<
幕天居士さまは、本当の恋愛をされたことがないのですね。わたしは、自分では恋愛をたくさんしてきたようなつもりになっていますが、それが正真正銘の恋愛だったのか本当のところは分かりません。
もし、自分のたった一人の「半身」がどこかにいるとしたら、実際に、会ってみるとわかるそうです。お互いに準備ができた状態なら身体に電撃が走るんだそうです。
準備とは、お互いの魂が同じレベルに充分向上していることなのだそうです。そうすると、自然にひき寄せられて、結ばれるのだそうです。でも、お互いの魂のレベルが違ってたりすると、現世で出会うことは会っても、結ばれることは難しいそうです。(この結ばれるというのは、肉体関係ではなくて、魂の結合のことです。)
ここで、衝撃発言をしますが、わたしは今の主人がわたしの「半身」だとは思っていません(笑)。でも、わたしは主人を心から愛しているので、たぶん、前世から深いつながりはあった人だとは思っています。だから、大切な人ですが、自分の半身だとまでは思えないのです。
わたしは、アホなので、このような精神世界本に書いてあることを信じていまして、自分の半身と出会いたいという下心もあって、魂を磨く努力をしているのですよ(笑)。
ここで、、話を幕天居士さまの片思いに戻しますが、たぶん、幕天居士さまは、ご自分の半身なる方に片思いをされているのではないのでしょうか?まだ、見ぬご自分の半身の女性に...
アホな a hopeの妄想ですが...(笑)
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- 2012年03月26日 22:13
- 505. さくらさま
さくらさまの幽体離脱のお話、ありがとうございました。わたしの経験ととてもよく似ています。
わたしは、本屋、ネットで幽体離脱のことは読んだことはあるのですが、実際に、離脱した方からお話を聞いたのは初めてです(出会ったのがはじめてと言った方がいいですね。まあ、掲示板上ですが...笑)
わたしも、離脱する時に、恐怖を感じました。だって、現実にそんなことあったら、やっぱり怖いですよね!それでも、10秒くらいは天井から自分の寝ている姿を眺めてました。その後、自然に身体に戻りました。
幽体離脱の経験は、わたしはその時一回ですが、自分は魂が抜けやすい性質だと感じています。
だから、訓練すればまた離脱はできるのではないかと思っています。(今のところ、そんな気はありませんが...笑)
わたしは、その後、偶然、ユニークな気功の先生(今は亡くなられました)に出会い、その先生に気を入れてもらったら、いきなり小周天というのがまわってしまったのです。その同じ経験を、作家、霧島洋子さんもされたと著書に書かれていたので彼女には親近感をもっているのです。
彼女もその後、精神世界に目覚められました。
不思議な世界ですよね。
でもこういう経験をしたというのも、何か意味があることですし、その後、生長の家の教えに出会ったというのも、またとても意味のあることだとも思っています。
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- 2012年03月30日 23:50
- 本流掲示板の伝統さまの記事、「ヒア アフター」再編集されて更新されました。
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=1711
最初の方は、東日本大震災で、幼い2人の子どもとご主人を残して被災しなくなった女性の成仏できない魂の交信などが、会話形式で紹介されていますが、わたしが注目したのは、最後の方の高級スピリッツと、作者(福島在住の経済学者・飯田史彦)とのやり取りです。
高級スピリットが、「命に関わるものの経営においては、効率性は捨てるのです」と言って、作者に「反原発」を促す発言をしているのです。とても、興味深いです。
雅宣先生が、宗教者として反原発を訴えているのも、もしかしたら、高級スピリット(神さま)からの神示なのかもしれない...とわたしは思いはじめてます。
皆さんにも是非伝統さまの記事「ヒア アフター」読んでもらいたいです。
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- 2012年03月30日 23:57
- 追伸 さくらさま
伝統さまの記事「ヒア アフター」の一番最後には、「ヘレン・ケラー 体外離脱体験報告」の紹介もありました。
ヘレン・ケラーも幽体離脱して、アテネまで行ったそうです。わたしも、インドあたりまで行ってみたくなりました(笑)
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- 2012年03月31日 09:14
- おはようございます。
私も昨晩たまたま伝統様のヒアアフター見ました。ヘレンケラーと一緒にあった星野さんの離脱体験も見ました。
空間・時代を超えて色々なところへ行けるって興味深いですね。
そして沢山の人に人としての使命を教えられるのって素晴らしいです。
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- 2012年03月31日 11:33
- 私以前飯田先生の本に感激して、飯田先生出演の朗読劇見に行ったことがあります。
ちょっとギャップが・・・(笑)だって、ギターかき鳴らしながらめがねかけたクマさん先生作詞のフォークソング絶叫ってちょっとひく
でも優しそうな先生でしたよ。県内にスピリチュアルケアの研究所をボランティアで立ち上げてやって見えます。隣が前世療法と統合治療とかやってる有名なクリニックです。
知り合いに聞いたんだけど、そこの院長先生は前世、戦国時代の武者だったそうで(やっぱ土地柄かな合戦とか色々あったところです。)その為今はここで治療を行っているということでした。
ほんと人生は糾える縄のように複雑に絡み合っているんでしょうね。
私の前世のひとつ、どうも修行から落ちこぼれたネパールかチベットの僧のようです(どうりでいつも落ちこぼれのほうに眼が行くてしまうのかと納得
)
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- 2012年03月31日 13:25
- かぴばらさま
ヒアアフター、見て下さったのですね?
実は、わたしは飯田史彦氏の本は、一度読んでみたのですが、その時はどうも波長が合わなくて、読み切っていないのです。「生きがいの創造」だったかな...?
今回、伝統さまの記事を読んで、感動していたのですが、著者が飯田史彦氏だったとは昨晩まで知りました。(伝統さまが編集されていたので気づきませんでした・・・)
わたしは、例の気功の先生に何度かわたしの前世を見に行こうと誘われたのですが、その度に診療所がお休みだったたり、わたしの都合が悪くなったりで、実現しませんでした。だから、これって、わたしは、自分の前世を知らない方が良いのだ!という結論に達しました...
・わたしの前世の予想・・・中世末期の魔女狩りに合った魔女(笑)
「生長の家の教え」というのは、「生命の實相」を読んでいても感じるのですが、要するに「精神世界の教え」だと思うのですよ。
だから、こういう、「前世」とか、「スピリット」なんかの精神世界のことがを魂のレベルで理解できないと、本当の意味で、「教え」を理解できないのではないかと感じています。
かぴばらさまの前世の一つはは、ネパールかチベットの僧ですか...
わたし、独身時代に、インドとかチベットを放浪することにすごくあこがれたのです(藤原新也氏の影響もありますが...)。
もしかしたら、かぴばらさまと前世で知り合いだったかもしれませんね!
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- 2012年03月31日 16:02
- a hopeさま
前世とか自分の運命とかは、又必要があれば見えるのかもしれませんね。昔はやったアガスティアの葉でも、必要な人のみよばれるって書いてありましたし、興味本位で見ちゃダメなのかも。a hopeさまの魔女姿はちょっと見てみたい気もしますが・・・
生長の家は、そんなものも一切包括かつ超越しているので素晴らしいのだと思います。
でも前はよく日本教文社からその手の本が出ていたし、普及誌のインタビューでも精神世界の人が載ってたのに、今全然それがないのはなんか寂しいなあと思います。普及誌も購読継続のお願いが来てるんだけど、値段高いわりに、薄っぺらいのでどうしようかと思案中。
今日、カラス様たちが国家のありようとか話して見えましたが、どうしても女性は、身近な人に愛をとかの方面に関心が行くので、男性のように政治について述べるとか国家の行方を考えるとか私には理解の苦手な世界です。(春さまのような勇ましい方もみえますが)
ただ私はやはり、愛のある批判は聞き入れてもらえるけど、愛のない批判はただの非難にし過ぎないんじゃないかなと思います。
どちらかというとさくらさん的考えの自分はもっと勉強しなくちゃいけないんかなあ。
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- 2012年03月31日 16:31
- a hopeさま
かびぱらさま
前世のお話で盛り上がっていて、
楽しそうですね。
伝統様の文章も興味深かったです。
わたしも前世はいろいろみてもらったことがありますよ、笑。
前世療法も、何度か受けたりして。
一度は、キリスト教の修道院で、めっちゃ禁欲的な生活を送ったみたいです。
精神世界をやっていたとき友達になった人が、この時知り合った人みたいなんですが、(お互いの別々にみた前世に共通点があって、)
なぜか、会ったときから感性がすごく似ていて気が合いました。やっぱり真理を求めている人で。
それから、女郎として生きた時代があったみたいですが、この時は、感情移入し過ぎて、なんだか号泣しました。
・・こういう事って、「物語」、だと思うけど、
自分の中に映像や感情が残っているって、不思議ですね、。
かぴばらさまは、アガスティアの葉をみたのですか?
前に生長の家の先生でも、見に行ったと話されていた方がいました。
興味あるけど、知らない方が良いのかな、っておもったりします。
a hopeさま、
私も気功やっていたことがあったのですが、
その先生も色んな能力があって、人の前世みたり相談のっていたんです。
でも、早くになくなってしまいました。
いろいろ原因があるだろうけれど、
あまり、そういう能力って、お金を取ってつかわないほうがいいのかな、とか・・そんなことを考えたことがあります。
愛国心って、やっぱり、わたしは祈りだと思うな。
その愛国心からの、政治活動や団体活動は、大いにやればいいと思いますよ、おおいに。
でも、それは、信仰運動ではないからなって。
女の言葉って、政治とか国家論には向かないですね、笑。
・・たった一人の人に愛を語るなら、もっと、良い言葉がうかぶのにな、笑。
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- 2012年03月31日 19:17
- さくら様
アガスティアの葉は本を読んだだけです。きっと怖くて見に行けませ~ん前世は、誘導瞑想の中で自分が石ゴロゴロの道をしょんぼりしながら帰ってくるのが見えました。
その後、小さな村でヤギやニワトリや可愛い奥さんと暮らしてるのが見えたような気がしました。私がオレンジやエンジ色のお洋服をよく買ってくるのもそのせいかと・・思います。実生活には特に意味のないことなので、本当に興味本位の感じですけどね
さくらさんが、今の生活でクリスチャン系のものの考え方に魅かれたりするのはそのせいかもしれませんね
私は本当に勉強が足りないので、国家についてはよく解らないのですよ。マスコミの操作によってある程度操作されてるんじゃないかな。っと思いますが、偏狭な国家主義も人類愛とか考えると変な感じがしますし、人類みな兄弟ってのは幻想なのかな。
日本人は平和慣れしているので、国家の大切さがわかってないというのもありますよね。本当にすごく稀有な国ですね。
よくニュースでチベットの人が焼身自殺とか聞くと宗教がもとで・・・つらいなあ、悲しいなあと悲痛な気持ちになります。
女は子供を育て、洗濯をしながら、国を語っても、愛しか出てこないのだと思います
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- 2012年04月02日 14:01
- かぴばら様 a hope様 さくら様(予想される年齢の順に書きました)
体外離脱の話、あたしも入れてくださいまし。ずいぶん昔のことです。女整体師の知り合いがいました。この方はいくつかの超能力を持っておられて、そのなかのひとつに、相手の気を読む能力があるということを前もって聞いておりましたので、まるっきしの初対面で施療してもらっているときに、気が読めるのは本当かと、こっそりと手のひらから気を放出してみましたところ、「あら、手のひらから気が出てるわね」とこともなげに言われてしまいました。あとでわかったのですが、試そうとしたその思いまですでに読まれていたのであります。
この方からあるとき電話がかかってきました。応対したのはあたしの母です。ものすごい剣幕だったそうです。女整体師がいうには、「お宅の息子さんが、体外離脱して夜ごとあらわれてはわたしを犯すんです」とは言われませんでした。いくらあたしでも、あの方を犯そうという気にはなりません。その方が言うには、「毎夜のごとくあられるので、とうとう具合が悪くなって仕事にも支障が出てきた。どうしてくれるんだ」という話だったそうです。延々と抗議が続いたといいます。
しかもその女整体師には、相当に年配の主婦であるという霊能者の知り合いがおられて、その霊能者のもとにも、体外離脱したあたしがあらわれて、とうとうその霊能者は寝込んでしまわれたという話です。女整体師からその霊能者の話は聞いていましたが、名前も住所も知ってはいませんでした。なのに体外離脱してあらわれたというのです。霊能者もあたしのことは、女整体師から聞いていたようですが、名前も住所も何ひとつとして知ってはいませんでした。霊能力であたしだということがわかったというのです。
このような抗議が延々と続いたということです。
つづく
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- 2012年04月02日 14:02
- あたしには寝耳に水の話でした。「身に覚えがない」というのは、こういうことをいうのでしょう。その後、女整体師とは何度か会う機会があって、「体外離脱できるとはすごいわね」とほめられたりはいたしましたが、「べつに~」という話でありました。
それから約1年3ヶ月の月日がながれ、まったくの偶然で、体外離脱のサイトが検索でひっかかりました。興味本位で読んでみました。あのとき、女整体師が言っていたことは本当だったのだ、ということがわかったのです。「体外離脱するときには体が振動する」ということが、そのサイトに書かれていました。
じつは、体外離脱していると言われていた当時、夜中に目が覚めると、体か激しく振動していたのです。それは「電気的」といっていいような振動で、ビリビリと音が聞こえてきそうな振動でありました。しかも耳元では、「ブーン」という大型のモーターがうなるような音が聞こえておりました。不思議な出来事とはおもいながらも、たいして気にもとめずにいたのですが、「体外離脱するときには体が振動する」と書かれていたのを読んで、女整体師の言葉は本当だったということを、このときはじめて知ったのです。
耳元で聞こえていた、「ブーン」という音も関係があるとおもいました。体外離脱の本を買い求めて読んでおりますと、やはり書かれておりました。表現の仕方はちがっておりましたが、それらしき音が聞こえてくるということが書かれていたのです。これで、あたしのなかでは、体外離脱は決定的な事実となりました。ええ、たしかに、女整体師が言っていたように、あたしは体外離脱をして、夜ごと人様に、言語道断ともいえるご迷惑をかけ続けていたのでございます。でも、犯さなくてよかったと、いまでもそのことだけは、大きな救いとなっております。
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- 2012年04月02日 18:04
- ここ数日間、いろいろ忙しくて、なかなか書き込めませんでした。
かぴばらさまも、さくらさまも、精神世界にはかなり通じていらっしゃるようですね。
さらに、お久しぶりに登場された幕天居士さまも、体外離脱の興味深いお話をしてくださりありがとうございました。
わたし自身、幕天居士さまのおっしゃるように、気の巡りが良かったり、感動する本(生命の實相など)を読んだ後に精神状態が高まったままうとうと眠りにつくと、丹田を中心に体が「ガガガガガ・・・・」と振動していることがたびたびあります。
一番調子が良かった時には、そのまま小周天が回ってしまいました。やっぱり、「ブーン」という音がしていました。
その時に、体外離脱していたかは定かではありませんが、でも、それは、21歳のときにした幽体離脱とは、それは、また違う感覚でした。
(つづく)
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- 2012年04月02日 18:08
- この世界、一歩間違えると、怖い世界だと思います。特に霊能者という方々は、いろいろなレベルの方がいらっしゃると思うので、あまり次元の高くない方に波長を合わせてしまうと、好ましくないものを見てしまったり、好ましくないことが起こってしまったりするのではないかと思います。
それを防ぐためには、常に自分の中の神を意識して、高い精神性を保っていることが大切なのではないかと感じています。
わたし自身は、そういうトラブルを防ぐため、「生命の實相」を拝読したり、「聖経」を読誦したり、また「神想観」をすることで、自分を神さまのレベルに近づけるようにしています。そういう意味でも、生長の家の教えは素晴らしいな~と感じています。
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- 2012年04月07日 22:29
-
雅宣先生が「大自然讃歌」という、長編詩を発表されましたが、雅宣先生曰く、
「それは、聖経(天使の言葉)に似てはいるが、それに取って代わるものではなく、むしろ聖経で説かれた真理を引用しながら、聖経では強調されていなかった方面の教義(自然と人間との関係など)について補強を試みたもの」
というようなことをおっしゃっいます。
わたしは、少し前、「天使」にはまっていまして、ちょっとお勉強したんですが、「天使(てんのつかい)」とは、「真理そのもの」のことなのですよ。――――「生命の實相」第21巻p154 14行目参照――――
だから、天の使いがいう言葉は、「神さまの言葉」、「真理そのもの」でなければいけないのです。
雅宣先生の「大自然讃歌」も天使が出てきて歌う形で詩がつづられています。
しかし、雅宣先生は、この長編詩は
>聖経では強調されていなかった方面の教義--例えば自然と人間との関係など--について補強を試みている。読者諸賢からの感想をお待ちしている。<
と言われています。
(つづく)
-
- 2012年04月07日 22:31
- (つづき)
それでは、それは神さまが雅宣先生を通して、「生長の家」の聖経を補強したということなのでしょうか?
そうでなく、もし雅宣先生が人間知でしたことなら、雅宣先生は、大変な間違いを犯してしまったことになるとわたしは思うのです。
もし、「大自然讃歌」が神示だったのなら、雅宣先生は、すぐにそう公言すべきだと思います。
「生命の實相」第21巻p155 終わりから3行目には、こう書いてあります。↓
――――――――――――――――――――――――――――――――――
真理を取り次ぐ人の言葉はもう肉身の自分の言う言葉ではなく、真理みずからが語る言葉であるからであります。それを霊眼で見れば天使の姿にも見えるのであります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「天使(てんのつかい)」を長編詩に登場させるなら、それは「神の言葉」でなければいけないとわたしは思うのですが、みなさまはどう思われますか?
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- 2012年04月08日 09:43
- ホープ様
>「天使(てんのつかい)」を長編詩に登場させるなら、それは「神の言葉」でなければいけない
チェスト!大自然讃歌、チラ見ですが、聖経をベースとするこれは聖経がない生長の家にはしないということを言ってるようなものだし、内容はまた良いと思いますが…天使(てんのつかい)を使うとなると、これは神示でないと霊的にはかなり不味いのじゃあ…と思います。
言葉ですから表面上はいくらでも取り繕えます、しかし、霊的に神示が天下ってないと、神は罰しませんが、神に合わないとなると気枯れることになり、どうなるんだろう…と憂いています。
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- 2012年04月08日 20:42
- 義春さま
わたしの投稿への「チェスト」ありがとうございます。
実は、わたしは「本流宣言」の掲示板でも書きましたが、「生長の家」の信徒になってから、体調を壊したのですよ。具体的にはかけませんが、ほぼ、2週間寝たきり状態が続き、家族に大変迷惑をかけ、心配をかけました。
それまで、風邪ひとつひかなかったわたしが、その状態になったのです。
それでも、家族のために、気持ちだけは明るくふるまっていましたが、内心『自分はそのままずっと、寝たきりの生活を続けていくのではないか...」とも思いました。
それにしても「病気なし!」の生長の家の聖使命会員になって、毎日、神想観をして、「生命の實相」「聖経」も読んでいたのに、どうしてわたしはこんなことになってしまったのだろう...と情けなかったです。
それと同時に、「現在の生長の家の教え」に不信感を抱きました。
(つづく)
-
- 2012年04月08日 20:44
- そこで、ネットでいろいろ検索していて、見つけたのが、本流宣言の掲示板です。
思い切って、神想観の危険性について質問してみました。
一番最初に、わたしの質問に答えてくださったのが、トキさまのお母さまである、一白鳩会員さまでした。
そしてとても親切に、正しい神想観のやり方を教えてくださいました。あの時は、本当にうれしかったです。
ですが、わたしの疑問はまだ残っていました。
なぜなら、「生長の家」の信徒になる前、雅春先生のCD「基本的神想観」を聞きながら神想観をしている時は、とてもよく集中できて、何も問題がなかったからです。
わたしが、体調を壊し始めてたのは、明らかに信徒になってからだったからです。
そしてたら、或る日、山科さまという方が、「雅宣先生の本・祈りの言葉を読みたくないという方へ」というスレッドを立ててくださったので、早速質問してみたのです。
その時のやりとりが↓です。
http://bbs2.sekkaku.net/bbs/?id=sengen&mode=res&log=383&submitlog=383
その時は、教団から距離を置いましたし、神想観にも違和感を感じていたのでしていませんでしたから体調はだいぶ良くなっていましたが、その時初めて、はっきりと、わたしの体調不良の原因がなんだったのか判りました。
(つづく)
-
- 2012年04月08日 20:45
- 雅宣先生が、雅春先生の「四無量心の神想観」に御自分の言葉を加筆された、「新四無量心の神想観」をわたしが毎日唱えたいたことが原因だったのです。
その他にも教えや、組織活動に対する不満もたくさんありましたから、もちろんそれだけではないと思います。
ですが、自分の中で一番納得できた原因が、『雅春先生の加筆された「新四無量心の神想観」を毎日唱えたいたこと』だったのです。
だから、今回も、「大自然賛歌」を聖経とするのには、大反対です。
聖経は、人間が創作した長編詩ではないのです。
神からの神示なのです。
だから、決して、人間知で、加筆したり、補強したりしてはいけないものだと思うのです。
たとえば、本当にそれが、神から雅宣先生に神示が降りたのだったら、「雅春先生に降りた神示」への加筆や補強などという形ではなく、雅宣先生独自のものを発表されるのではないかと思うのですよ。
-
- 2012年04月08日 21:29
- ホープ様
まぁ、これはなぁ…というところなのですよね。僕ももう少し書いてみます。
人間知云々ってことは複雑だからおいといて、分かりやすいとこから入ると、もし聖経となっちゃうと…例えば、マイクロソフト社はマイクロソフトというソフトを売ってるから客もついてるんであって、経営上のことで明日からアップル社のソフトを売ります!てなったら、客にしたら訳が分からないてなことになりますよね?
それと同じで、生長の家は生命の實相と甘露の法雨が霊的な鍵であるのだから、それと同等な地位を与えるってのは、看板と中身が違ってくるから、信徒にすれば、どうしたものかな?ってなるのですね。
信仰というのは心を扱うから、根本的な部分を変えることで上に絶対服従ってのは、少し違ってくるかと想うのです。
それこそ、それがそのままいけば、中世の魔女狩りみたいなことになりかねません、果たして、それで良いのかと…。
-
- 2012年04月08日 21:40
- で、霊的な見地から立てば、ホープ様の仰るとおりで、天使は真理がそれこそ天下ってきたものでなければ、天使というコトバに中身がないから、僕の感じるところでは虚に向かって祈るっていう、祈りでするには、恐ろしいことになりかねないものがあるのです。
もし天下っていたら、それは早急に発表しないとならないと思います。
ただ、この教団を取り巻く状況からすれば、天使は天下ってないのでは?と感じております。裁判等の争いことの中、大調和=神=天使が現れるのだろうか?…と。
これは学ぶ会の側も同じです。学ぶ会も自分達に神意があると思っているかもしれませんが、信徒の大反発を喰らっている中では、とても神意は天下らない。
その最悪な状況であるから、ちょっと怖いです。最悪、どちらも潰れます。それで良いのかと…。
内容については僕は良いと思います、だけど、天使というコトバはそれだけ扱いが難しいと思います。
-
- 2012年04月09日 09:42
- 義春さま
お返事ありがとうございます。
義春さまの、>>530 >>531の投稿に、完全同意します。
分かりやすく表現してくれて感謝します。
特に、
>ただ、この教団を取り巻く状況からすれば、天使は天下ってないのでは?と感じております。裁判等の争いことの中、大調和=神=天使が現れるのだろうか?…と。
これは学ぶ会の側も同じです。学ぶ会も自分達に神意があると思っているかもしれませんが、信徒の大反発を喰らっている中では、とても神意は天下らない。<
ここのところは、激しくチェスト―――――――――――――――
です。
雅宣先生は、ほ ん と う に 「大調和の神示(七つの灯台の点灯者の神示)」を毎日読誦されているのでしょうか...?
そう考えると、わたしは「大自然賛歌」に登場する天使は「虚説」だと思います。
「虚説=真理ではない」に和解したら、教団はどうなるのでしょうか...
考えただけでも、恐ろしいですね。
他の皆さまは、どう思われますか?
「訊け」監督、さくらさま、幕天居士さま、ママ、かぴばらさま、商人さま(見ていらっしゃいますか?)
わたしと、義春さまの考えは、間違っていますでしょうか?
率直なご意見を、お聞かせください。
-
- 2012年04月09日 09:44
- 書き忘れましたが、トキさまのご意見も是非聞かせてください。
-
- 2012年04月09日 12:01
- 今、トキさまの掲示板を拝見していたら、
トーキングスティックボード>>1075で、トキさまが、「大自然賛歌」のを聖経とすることの危険性を述べていらっしゃいました。
トキさまも、同じように感じてくださっていているようで、すこし安心しました。
ですが、問題は、それを雅宣先生が自覚されないといけないのですよね。
うーん、どうしたらいいのでしょう...
-
- 2012年04月09日 16:44
-
私の勝手な想像だけど・・・・
総裁は、あの詩を発表して
周囲の反応を確かめてみたかったのかもしれない。
歯の浮くようなヨイショコメントをいくらもらっても
ちっともうれしくないんじゃないかしら。
もちろん、ひどい非難中傷も全て想定内。
この前、ムーミンママのお家で
聖使命新聞(組織会員に送ってくる)を
久しぶりに見せてもらいました。
総裁の写真が出ていたけれど、
すごく疲れたような顔で
少しも幸せそうには見えなかった。
彼の心の中はどうなっているのでしょう。
誰も信用していないのかもしれない。
本当の心の奥の奥にあるものは、
一体なに?
子供の頃に読んだアンデルセン童話に
『パンを踏んだ娘』というのがあるの。
大人になってもずうっと憶えている話。
ちょっとここに行って読んできて。
http://hukumusume.com/douwa/pc/world/04/16.htm
(音声付きよ)
これには、書いてないけど、母親が泣きながら
「ああ、インゲルや、どうしてパンを
踏むなんて罰当たりなことをしたんだい。」
って嘆くと、娘は
「じゃ、何でもっと厳しく育てなかったのよ!」
と、逆に恨みに思うわけ。
ただ、チヤホヤされるばかりでも
非難されるばかりでも
人間は変わらない。
本当に救えるのは、共に泣いてくれる者。
そして共に地獄にでも堕ちてゆく
覚悟のある者。
趙州従しん 「老僧は末上に入る」
ある人が質問した。
「和尚もまた地獄に入ることがありますか」
「老僧が真っ先に入る」
「大善知識がどうして地獄に入るのです」
「入らなければ誰がお前さんを救うのだ」(趙州録上)
トキさま板でこんな事を言えば、すぐに
横浜港に停泊中の航空母艦から
最新ミサイル撃ち込まれるかもしれないわね。
-
- 2012年04月09日 17:43
-
ママ
お返事ありがとう
インゲルのお話よんで、ママのの言葉きいて、雅宣先生のかたくなな心の中が、なんとなく理解できそうな気がします。
今から、ウォーキングしながら考えてみますね!
-
- 2012年04月09日 18:09
- ニャンコ先生
…だろうと思います。彼の人の心を想えば涙しかありませんでした。
僕は彼を責めたくない。彼は彼の出来る限りの愛を信徒に注がれていると信じています。大自然讃歌を聖経にしちゃいけないって書いてる人間がこう言ったら、色々責められるの分かってるけど、彼を否定したくはない。何があっても。
それでも、皆を想えば、こう書かざるを得ない、この義春が不徳ゆえよとずっと思ってました。
…出来るなら、何も知らず、何も考えない、そんな人間だったなら、どれだけ楽なんだろう…と思ったりもする。
もし出来るなら、共にあってあげたい、今はそれだけ思っています。もうね、俺はそれで良いのよ。
-
- 2012年04月09日 18:20
- ちょっと呟きね。
俺はこれで良かったのかなぁ…と、よく思うのよ。こんなさ、もうアチコチがボロボロでさ、何も出来なかった奴がさ、こうあって良いのかってさ。
でも、精一杯やってる人達を観たらさ、何か力になってあげたくなるの。
それで今もこうやってるんだけど、ホント、これで良いのかなぁ…。
-
- 2012年04月09日 19:25
- 総裁については、確かに昔から我が侭だった、という評判は聞いていました。が、直接に話した時には、そんな気難しい人ではない、という印象がありました。最初は楽しいし、冗談も分かるし、真面目で良い印象がありました。また、教団の体質に私も不満があったので、彼の発想自体は支持できたのです。しかし、その後、彼自身がどんどん気難しくなり、暴走を始めました。最近では、一部の取り巻き以外には、彼の行動を支持する人は少数になっています。
もちろん、彼も大人ですから、やった事への責任は大きいと思います。ただ、惜しいというか、動機には理解できる部分があったので、こういう結果になった点は考えないといけないです。
今は、とにかく信徒が普通の感覚で、自分の素直な声を発言すること。これが、総裁と教団に必要だと思っています。
-
- 2012年04月09日 23:17
- わたしの母親は、いつもわたしのことを、他の子と比較するような眼で見て、評価していました。
たとえば、
「小学生で逆上がりができないなんておかしい。」とか、
「隣の〇〇ちゃんは、いつも漢字テストでは100点をとっているってるらしいよ」みたいな、
そういう、言葉がけをいつもされていました。
だから、母親に無条件で愛されたという記憶がほとんどないのです。
これは、わたしの感じ方なので、母にしてみたら、わたしのことを母なりに愛してくれていたんだと思うのですが、わたしには全然伝わっていませんでした。
思春期になったわたしが反抗するようになると、いつもヒステリーみたいに怒って泣きだして、結局、わたしが父や祖母に怒られるので、言いたいことがあっても我慢することが多かったです。
でも、あるとき母から、「誰が学費を出してやってると思ってるんだ。お前に今まで、いくら使ってきたと思ってる。」みたいなこと言われた時、どうしても母が許せなくなって、「わたしは生まれたくて生まれてきたんじゃない!あんたが勝手に産んだんでしょ!あんたが大学に行けって言ったから、行ってやってるんだよ。あんたの子どもになんて生まれてきたくなかったよ!」とすごい剣幕で言ってしまったのです。それは、わたしの本音でした。
その時、母は、ものすごいショックを受けたようです。でも、それから、少しずつ、母とわたしの関係はよくなっていきました。
(つづく)
-
- 2012年04月09日 23:18
- わたしが、何を言いたいかと言えば、
結局、誰かが何かを我慢している状態では、物事は何も好転しない、ということです。
雅宣先生は、今「生長の家の総裁」という立場に立たれて、心にたくさんのストレスを感じていらっしゃる。そのストレスを解消しないことには何事も好転しないような気がしてきました。
わたしは、雅宣先生には、もう、楽になって欲しいと思います。
素直に、信頼できるかたに、ご自分の本当の気持ちを伝えられたらいいのではないかと思います。
「真の生長の家の愛」は「赦す愛」ですよね。
「真の生長の家の教え」は「罪なし。悪なし。人間、神の子の教え」ですよね。
生長の家の誰が、「雅宣先生を赦さない」と言えるのでしょうか?
生長の家の誰が、「雅宣先生を裁く」ことができるというのでしょうか?
そんなことをする人がいたら、その人こそ「生長の家の人」ではないと思います。
わたしは、雅宣先生には、一日も早く楽になって、心からの幸せを感じて欲しいと思います。
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- 2012年04月10日 00:44
- 総裁の話は、こちらでしたか、
純子先生の話でしたが、
雅宣総裁は時間を惜しんで勉強されてるのを見て、この人は、どうしてこんなに努力できるのかしら、と思ったとき、
「あなたには、夢があるの?だって夢がなければ、こんなに努力をできないもの。」
ときいたそうです。
総裁は、「そうだよ、自分の代には叶えられないかもしれないけど、大きな夢がある。自分たちには小さなことしかできなくても、大海の投げる一石だったとしても、努力を続けていきたいんだ。我々は生き通しの命だから恐れず続けていけばいいんだよ」
そのようなことを言われたそうです。
トキさまが言われるように、
動機は良いものを持たれて、真面目な方だと思います。
正直、総裁以前の組織のやり方でも、生長の家が、雅春先生時代のように発展したのでしょうか、
実際、今までの組織の限界を、打ち破ろうとしたのも、総裁でした。
わたしは、擁護派では、ありませんが、
総裁の考えを理解しようとせず、虚として打つだけで、
生長の家の問題が解決するとはやはり思えません。
本当に、これからの、生長の家のための、よりよい話し合いができる事を望んでいます。
-
- 2012年04月10日 08:40
- さくらさま
「生長の家教団」は、雅宣先生個人の夢をかなえる場所でしょうか?
「真の生長の家の教え」を守るためには、雅宣先生がどんなに信念をもって努力されてきたことでも、虚は虚としてはっきり否定して、和解したらいけないのだと思います。
そうでないと、「真の生長の家の教え」がわからなくなってしまいます。
今回のように、「生長の家の総裁」というお立場で「大自然賛歌」を天使に歌わせるような形で補強されたら、雅宣先生に中心帰一している多くの信徒のかたが、それを「天使=神」の言葉と信じてしまわれるのではないのでしょうか?
でも、はたしてそれは神からの「神示」なのでしょうか?雅宣先生ご自身がそう公言されていませんよね?
そしてもしそれが神示ではなかったら、どれだけ危険な結果を招くことになるか、さくらさまは、想像されたことがありますか?
そして、そのすべての業を背負うのは、雅宣先生ご自身ということになってしまうと思うのです。
どうすることが、本当の「愛」なのか、わたしたちは、しっかり考えていかなければいけないと思うのです。
今日は、これから出かけます。
お昼過ぎに、戻ります。
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- 2012年04月10日 09:55
- ahopeさま
総裁言われる夢は、「個人の夢」をいみしたのではないと思いますよ。
ただ、方針やきょうだんを導く事は、間違ったと思っています。
そして、今回の詩を、聖経としたり、総裁の表面的なやり方や、方針に従うのは、やはり、信徒が、間違った中心帰一というものに、縛られてるからだと思います。
やはり、教団がこれから変わらなければいけないと思います。
総裁のやり方をこれでよし、とするのではないです。
信は、無条件の信。
わたしにも、この点は、自分の中に迷いがありません。
条件や結果が変わったからといって、
神への信は、揺るぎあるものではありません。
総裁や、生長の家が、どんな姿であっても、神への信はゆるぎなく、神が必ず残すべきものを守り、去るべきものは去ると信じています。
虚を打つのは、神の業だと思っています。
でも、いまの状態は、総裁一人の責任とは、わたしには、思えない、正直、その想いはあります。
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- 2012年04月10日 14:30
- さくらさま
雅宣先生が「個人の夢」と思われなかったなら、「生長の家の信徒の夢」だと思われたのでしょうか?
それとも、「生長の家の大神の夢」と思われたのでしょうか?
よくわかりませんね。
いずれにしても、わたしもさくらさんも共通して思うことは、
「総裁は間違ったことをしてしまった。」
ということですよね?
わたしはその、間違いを、「虚」だと思っているのです。
その「虚」をあやふやにしたらいけない、和解したらいけないと感じているのです。
わたしも神を信じています。「虚」が発展するわけがありません。
このままほっとけば、「現教団はなるようにしかならない」と思っています。
むしろ、ほっておいたほうが、教団が完全につぶれ、「純粋な教え」が復活するのではないかとさえ思っています。
でも、できれば、わたしは、そうなる前に雅宣先生ご自身に、その「間違い=虚」に気づいて欲しいと思うのです。
雅宣先生ご自身のために...。
>いまの状態は、総裁一人の責任とは、わたしには、思えない、正直、その想いはあります。<
同感です。
むしろ、雅宣先生こそ、最大の被害者なのではないかとさえ思っています。
ところで、さくらさまはどうすれば、教団が変わると思われますか?
すべては、雅宣先生のご決断に左右されているのとしか、わたしには思えないのですが...。
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- 2012年04月10日 23:16
- ahopeさま
こんばんは。
トキさまが言われるように、組織に関わる信徒が、素直な声をあげて、また、それが、通るような組織改革がすすめばよいな、とわたしも、願ってますよね、それは。
わたしもほんぶの先生とかにもこんな組織はおかしい、と、本音をぶつけて言ってたことがあります。
そのときは親身に理解してくれた良い先生がいたし、いま、改革のために話し合ってるし、必ず改善されかわるから、といっていましたが、
だんだん、活動して事情をしり本当の改革は、難しいのだな、とわたし自身は何度も思わされました、正直。
わたしは、結局やくをおりて、組織をやめましたが、
そのときは自分が純粋な信仰を失いそうだったからです。
それでも、何か、生長の家の方のために役にたてたらという想いで、今のところにいるかんじです。
組織は、かんたんには、変わらない、実感としては、そうかんじていますけど…。
それでもこんなときこそ、信徒が一人一人、信仰の原点に帰り、組織の方針に振り回されずに信仰の良心に従って、できることをすることを、大切にしていけたらとおもってます。
そのうえで、それが、組織を変える力になればよいですけど、ね。
総裁だけの、責任じゃないと感じるのは、やはり実感です。
虚を見て撃つのは、やはり、虚、だと感じてしまいます、
-
- 2012年04月11日 09:58
- 総裁は自分の知性に絶対の自信がある人で、実際に頭の良い人なんですが、その反動で他の人がバカに見える嫌いがあります。しかし、いくら頭の良い人でも、自分一人の発想では限界があります。
ギャグマンガの大家、赤塚不二夫さんは、早くに自分一人での才能では限界があるのを知り、システム制を導入したので、マンガの量産が可能だったとお子様の回顧録に書いてありました。
総裁は、他人の才能を認め、次に他人の価値観も認めるご努力をされても良いと思います。
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- 2012年04月11日 10:31
- さくらさま
今まで、さくらさまは、教団でいったいどのようなお立場の方なのだろう...どうして、教団組織について、そんなに熱心に考えていられるのだろう...と感じていましたが、それが今、理解できた気がします。
ご自分の信仰心を守るために役はおりられたけれど、それでも、「生長の家」のために役に立ちたいという気持ちでいられるのですね!
わたしは、正直、組織なんてよくわからないし、教団の将来も、わたしにはあまり関心もないのです。「なるようにしかならないだろう」くらいにしか思っていません。
わたしに関心があるのは、「真の生長の家の教え」なのです。
これが、「虚説」によって眩まされるようなことがあったら、いけないと思うのです。
雅宣先生の、「虚説」とは、いったい何だとさくらさまは思われますか?
これは、「生長の家の使命」から見た「虚説」ということになります。
(世間一般の常識や、正論とは違います。)
わたしは、環壊問題も、原発問題もすべて、現象問題なわけですから、このことを、「生長の家の教え」と混同していることが、まさしく「虚説」である、と思うのです。
だから、そのことで「真の生長の家の教え」が眩まされてきているのですよ。
雅宣先生が、これからも、「生長の家」においてで環境問題や、原発問題に取り組まれていけば、「真の生長の家の教え」は、ますます眩まされ、「生長の家」は消滅するのではないかと思います。
以前、「訊け」管理人さまも何度も仰っていましたが、
雅宣先生や、現教団組織が、環境問題、原発問題などの現象問題に取り組みたいのであれば、「生長の家」という名称を捨てて、違う団体組織を作るべきだと思います。
わたしは、「生長の家の教え」を守るためには、そういう方向で話しあっていかなければ、いけないと思うのですが、さくらさんはどう思われますか?
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- 2012年04月11日 10:43
- >>548のわたしの投稿に関しては、さくらさまだけではなく、みなさまの意見も伺いたいです。
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- 2012年04月12日 20:24
- a hope様
a hope様は、「生長の家の教えから見た虚説」といった言い方をされておられますが、生長の家の教えが完成したのは、いまからすでに80年も以前のことであります。それからさまざまな考え方があらわれてまいりましたが、そうした考え方が教えと異なっている場合はすべて虚説と見なすというのは、いささか乱暴である気がしなくもありません。
たとえば、トキ様の掲示板の「本流対策室2」で、金木犀さんが「奇跡は法則によって起こる」といったようなことを述べておられますが、ではどのような法則かといえば、わたくし的にはそれは「最小作用の法則」ということになるのであります。
この世に現象としてあらわれた出来事の背後には、それと異なる無数の出来事が同時並行的に起きているとわたくしは考えております。そうした出来事のなかで、ただひとつの出来事が、この世に現象化してあらわれてくることになるのでありますが、ではその現象化する「ただひとつの出来事」はどのようにして決定されるのかといえば、それを決定するのが「最小作用の法則」ということになるのであります。
「最小作用の法則」とは何かを簡単にいえば「いちばん楽な方法」ということになるかと存じます。同時並行的に起こっている無数の出来事のなかで、この世に現実化するのに、どれがいちばん楽かということであります。それはつまり、どの出来事がいちばん少ないエネルギーで現象化できるか、ということだろうと考えます。
つづく
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- 2012年04月12日 20:26
- こうした考え方からいきますと、奇跡を起こしたければ、その奇跡的出来事が現象化するにあたって必要なエネルギーの量を最小化すればよい、ということになるのであります。その方法が「想念の力を駆使すること」というのであれば、それを実行すればよいのでありますが、その方法が功を奏して奇跡的な出来事が起きたとしても、それをただちに「真理」と見なしたり、あるいは「実相があらわれた」と見なしたりするのであれば、それはやはり短絡的な考え方といわざるを得ないような気がいたします。
「最小作用の法則」はずいぶん以前より知られていたと思いますが、その仕組みが理論的に説明されるようになったのは、生長の家の教えが完成してよりずっと後のことであります。こうした説明は、生長の家の立教の当初にはなかった考え方でありますが、だからといって「これを虚説と見なす」というのは、やはり乱暴というよりほかはないような気がいたします。
奇跡はなぜ起きたのか。これを「実相があらわれた」と見なすのが生長の家の考え方でありますが、そうした考え方以外に、奇跡的出来事が起こる理由をよりうまく説明できる考え方があれば、それについて考察してみるという態度が必要ではないかと考えます。
そうした考察の末に、「これは実相があらわれたと見なすしかない」というのであれば、それはそれでよいと考えますが、はじめからそれを虚説と決めつけ、「なにがなんでも実相があらわれたと見なす」というのであれば、それはやはり問題のある態度ではないかと、わたくしはこのように考えざるを得ないのであります。
-
- 2012年04月12日 20:57
- a hope様
トキ様の掲示板にも書きましたが、光の屈折は「最小作用の法則」で説明できるのであります。どうやら光は、最短の時間で目的地に到達したがっているようです。目的意識があるのかどうか、それは定かではありませんが、そうとしか思えないような振る舞い方をいたします。
光は、空気中よりもレンズを好みます。なぜなら、レンズを通ったほうが空気中を通るよりも高速で移動できるからであります。そのために、できるだけレンズの厚みのある方向へ曲がろうといたします。ただしあまり曲がりすぎますと、かえって時間をロスいたします。ちょうどよい曲がり方をしたときに、最短の時間で目的地に到達できるということになるのであります。
光は、目的地に最短時間で到達するために、レンズを通過するさいに、ちょうどよい角度で曲がりますが、これが屈折と呼ばれる現象であります。では光はどのようにして、この「ちょうどよい曲がり方」を発見するのかといえば、これがなかなかに難題なのであります。なぜなら、光がもしも前もってレンズの形状を知っているのであれば「ちょうどよい曲がり方」を知ることができるでありましょうけれども、はじめて通過するレンズの形状を前もって知るというのは不可能でありますから、どうやって発見するのかというのは、なかなかに難題ということになるのであります。
生長の家では、「神の叡智」ということで、この難題を説明してきたのではないでしょうか。新しい考え方では、これとはまったく別の方法で説明がなされます。その方法につきましては、トキ様の掲示板にて、おおよその概略を述べましたので、ここでの説明は省かせていただくことにいたしますが、おそらく生長の家の考え方では、光の屈折という現象をうまく説明できないのではないかと、どうしてもこのように考えざるを得ないような気がいたすのであります。
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- 2012年04月12日 21:23
- 光の屈折にかんしまして、トキ様の掲示板では述べていなかったことがありますので、補足させていただきます。
光は、レンズを通過するさいに、考えられるかぎりのあらゆるコースをたどっているはずであります。こうしたあらゆるコースのなかで、ただひとつのコースだけが現象化してあらわれてまいりますが、なぜそのコースが現象化するのかといえば、そのコースを現象化するにあたって必要となるエネルギーが、ほかのコースを現象化する際に必要となるエネルギーよりも少なくてすむから、というのがその理由であると考えられます。
その最小のエネルギーですむコースこそが、どういう加減かはわかりませんが、光が目的地に最短の時間で到達できるコースになっていると、このように考える次第であります。
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- 2012年04月12日 22:29
- 幕天居士さま
お返事ありがとうございます。
今、お返事拝見したのですが、a hope は今夜は大変酔っぱらっておりまして、正しく理解ができない状態です。
明日の朝、またあらためて拝読させていただきます。
でも、
幕天居士さまからお返事いただけて、とてもうれしいです!
ありがとうございます。
それでは、みなさまお休みなさい
-
- 2012年04月12日 22:33
- 幕天居士様
横レス、失礼します。
光の屈折に関してですが(関係はあまりない話かもしれませんが)前職の半導体業界勤務時代のことで、思い出した話があるので、少し投稿してみたいと思います。
半導体というのは光を受けたら、それをそのまま反射する薄膜をそれをそのまま、反射するものが良いとされています。
理想は純水の反射率なのですが、実験では、なかなか、(薄膜が均一じゃなかったり七色だったりパーティクルが凄かったり)ド酷いものばかりで苦労しました。
それでその仕事に従事した経験から言えば、光はある程度拡散してるのですが、大半が同一コースをとり、それらがより高度に集束された薄膜が良いとされようかと思います。
で、まぁ、生長の家の教えで何故こうなるかは僕も存じ上げません。
ただ、僕個人の考え、これ暴論みたいなものですが、光も仏教で言えば、無色物の一種として考えるなら、光は光の共有意識というのがあり、光の種の保存として、集束するのが一番長く生存しやすく、結果、表れた形が一つのコースであり、最少エネルギーでかつ最短距離をとるようにあるのかも…とは感じます。
光も現象として現れているので、その奥にある共有意識に作用される面があるのではないかと思います。
しかしながら、全く裏付けるものがありませんし、これで良いのかも果たして、分かりません。
物理学は非常に不得手なので、大したことを書けずに、申し訳ありません。
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- 2012年04月12日 22:45
- a hopeさま
ずいぶん、返信遅くなりました。
>わたしは、環壊問題も、原発問題もすべて、現象問題なわけですから、このことを、「生長の家の教え」と混同していることが、まさしく「虚説」である、と思うのです。
だから、そのことで「真の生長の家の教え」が眩まされてきているのですよ。
ひとつには、雅宣総裁は、環境問題や原発の問題を、「生長の家の教え」であるとは言ってはいないと、おもいます。本流で言っているのかは、わたしは知りません。
ただ、活動方針になる際に、教団を導く方向を間違っているとは思います。
正直、雅春先生でも、教団の運営に関して言えば、試行錯誤であったし間違えがあったと思います。
信仰の活動というのは、大変難しいものがありますね、
昨日トキ様が書いていらっしゃって、訊け監督も言われているように、
純粋なる信仰を守るべき教団と、外部に向けての活動を、分けるべきとの考えに賛成します。
純粋なる信仰は、人間のどんな利であっても、利用されるべきものではないと、
わたしはこの点を、強く思っています。
それは宗教団体の現実を知る人には、バカで幼稚に見える考えかも知れませんが、
この点だけは譲れない思いとして、強く思っています。
国だの環境だの、人類だの、地球だのと、どんな大きな大義名分を掲げたって、
そのようなもののためには、神の名を利用すべきではないと、この点は強く思うことなんです。
神は一切の人間の利には関わりなど無いと思っています。
ですから、わたしは、個人の体験としての奇跡的な出来事には大変尊重の念を持ちますが、それを持ってして、神の顕現を問うことにはあまり関心がありません。
神は、人間の都合などを超えておられると思いますので、畏敬し感謝し祀る、それだけが人間のできることであると思っています。
(つづく)
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- 2012年04月12日 22:46
- だから、どうしても、宗教団体が、どんなりっぱな大義名分(そのようなものほど信仰の感覚から乖離を感じてしまいます)を掲げても、純粋な信仰心とや神の名を利用するとしたら、それは、とても我慢ならない事だと思っています。
この点を、ぜひ、皆さんに話し合っていただきたいのですが、・・そんなことを考えるわたしは、宗教団体の現実を知らなすぎるのかも知れませんね。
雅春先生が、政治活動が、純粋なる信仰や個人の魂の深化の妨げになっているとされて、
長崎へ龍宮住吉本宮で、日本国実相顕現のために神を迎えて祈られたことに、最終的には雅春先生の本意があるのでは、と、感じられますが、まちがえでしょうか・・。
少なくとも雅宣総裁は、慎重に信仰運動を導こうと考察されました。
でも、やっぱり、信仰を守るべき教団の方針を間違って運営していますよね、。
どうすれば、純粋な信仰を守ることができるのか、もっと、つっこんで話してほしいですね、わたしは・・。
-
- 2012年04月12日 22:53
- あ、a hopeさま、
酔っちゃったのか~、笑。
ひらがなの、さくらも、桜マティーニでも飲むか~笑。
それにしても。WEB誌友会は、ユタカさまの奮闘で、大物ばかり集まりそうで、ますます参加の余地はなさそうだな、うん。笑。
みなさま、本日も、ご充実さまでした~
おやすみなさい!
-
- 2012年04月13日 08:17
- さくら様
おはようございます。
まぁ、この種の話はトキさんのところを常時監視…ではなく、温かく見守ってくださる本流掲示板があるから、なかなか書きづらいかと思います。
(すぐコピペして論評の対象にするからなかなか書く気にさせません、しかも、的外れだし…これがエライ先生かよ…と、毎日想わされます。)
僕もトキさんや訊けさあの仰る信仰団体と活動団体は分けて良いと思います。
今のカオス的な状況の1つに1つの団体で全てをしようとしたから、結果、1つの方針の奪い合いになったのでは…?と感じるところがあります。
それだったら活動のうち、愛国は愛国、環境は環境と分けて、信徒の自由意思で選んでもらう、それだったら、ある程度一般信徒の声も届きやすくなると想うのです。
>神は一切の人間の利には関わりなど無いと思っています。
うーん…生存的に必要なもんは与えられるけど、際限ない利は与えられないだろうなぁ…と思います。もう少し言えば、活かし合うところには生命が表れるので、生命を表す為には与えられるけど、個人単独の利を求めだしたら、これ癌なので、また違う話になろうかと…。
だから、神そのものが現れるというのは、置いといても、神の分霊である生命は応化して現れるというのが、今のところの実感です。
-
- 2012年04月13日 08:59
- 北のミサイル失敗!おめでとうございます?
?
今日は抗がん剤治療で鬱だったけど、気分いいわ~
-
- 2012年04月13日 16:04
- みなさま こんにちは!
いやー昨晩は、かなりお酒をいただきまして酔い酔いでしが、普通あれだけ飲むと、次の日に二日酔いするのですが、全然大丈夫でした。
わたし、最近どんどん健康になってきています
神想観と、聖経読誦の功徳なのではないかと思うのですよ。
神さまと、ご先祖様に護られているような気が、ヒシヒシとします。
-
- 2012年04月13日 16:07
- 幕天居士さま
>この世に現象としてあらわれた出来事の背後には、それと異なる無数の出来事が同時並行的に起きているとわたくしは考えております。そうした出来事のなかで、ただひとつの出来事が、この世に現象化してあらわれてくることになるのでありますが、ではその現象化する「ただひとつの出来事」はどのようにして決定されるのかといえば、それを決定するのが「最小作用の法則」ということになるのであります。<
この、同時並列的に起こる出来事のなかの「ただ一つの出来事」が、今わたしが体験している現実であるという考え方は、なんかわたしは、ちょっとロマンを感じてしまいました。
わたしの人生には、実は、全く違う可能性がたくさん用意されているということでしょうか?
でも、実現化する現実は、「最小作用の法則」という現象化するには一番楽な方法により、決定されるのですね。
そして、想念の力を駆使して、必要なエネルギーの量を最小化すれば「奇蹟」が起きると考えられているわけですね。
(つづく)
-
- 2012年04月13日 16:08
- (つづき)
しかし、わたしは思うのです。
「奇蹟」ってなんだろうって...。
治らないと宣告された病気が治ることでしょうか...?
絶対手に入らないと思っていたものが、偶然手に入ることでしょうか?
最近わたしは、自分がこうして生きていること自体が「奇蹟」なのではないかと思うのです。
母と父が出会って結婚したこと。
その、また父(祖父たち)と母(祖母たち)が出会って結婚したこと、そんな無数の、無限の奇蹟的なことが重なって、わたしは今ここに生きているわけですから、今はもう、そのことに、感謝の気持ちしか湧いてきません。
そう思うと、自然に父母、兄弟、今まで出会ったすべての人や、動物、植物などの自然、食べ物、人工物などにまで感謝できるのですよ。
その中でも、人と人との出会いこれは大きいと思います。それこそ「最大の奇蹟」なのではないかと...
その奇蹟に感謝して、その相手から何を学ぶかによって、人は、自分の魂を磨いて行くのではないかと思います。
ごめんなさい。
また、話がずれてしまいましたね。
ところで、「光の屈折」のお話は、とてもわたしには理解できるお話ではありませんでした。
義春さまや、他の方々にお任せしますね。
-
- 2012年04月13日 18:08
- 義春さん
レンズを通過するさいの光の拡散といえば、極端なことをいえば、宇宙の果てまで拡散している可能性があると考えます。これは冗談ではなく、たしかにその可能性はあると考えます。
たとえば100光年離れた宇宙にも拡散しているはずでありますが、それはもしかしたら、過去にさかのぼって100前の宇宙にまで拡散しているといってよいのかもしれません。それが現象化しないのは、それを現象化させるためのエネルギーが膨大な量になるからでありましょう。
この世にあらわれてくる現象は「最小作用の法則」にしたがうものと考えます。現象化させるのに最小のエネルギーですむ出来事だけが現象化してくるものと考えます。したがって、膨大なエネルギーを必要とする出来事が現象化することはない、ということがいえるような気がいたします。
-
- 2012年04月13日 18:19
- a hope様
人がこの世に生まれてくることができる確率は、a hope様が言っておられるように、非常に低い確率であるのはたしかなことであります。もしもあの戦争がなければ、日本が負けていなければ、歴史は大きく変わっていたはずでありますから、戦後生まれの人々は、おそらく誰ひとりとして生まれてくることはできなかったはずであります。
あの戦争のおかげで、多くの日本人が犠牲となって、あるいは多くの外国人を犠牲にしながら日本が負けてくれたおかげで、戦後生まれの人間は生まれてくることができたのであります。
戦後生まれの人々は、ことあるごとにあの戦争を否定いたしますが、もしもあの戦争がなければ自分たちが生まれてくることができなかったという事実に気づこうとはいたしません。あの戦争を否定するということは、自分たちの存在そのものを否定することでもあるのですが、そのことに誰ひとりとして気づこうともいたしません。
あの戦争がなければ生まれてくることができなかったのですよ、それでもよいのですか、と尋ねられて、それでもよい、と答えられる人だけがあの戦争を否定できると、わたくしはこのように考えるのであります。
生まれてきたことを肯定しながら、それでもあの戦争を否定するというのであれば、あの戦争のおかげで生まれ落ちることのできたわが身をのろいながらでなければならないとも、考えるのであります。
つづく
-
- 2012年04月13日 18:19
- ところで、a hope様は、いまこうして生きていること自体が奇跡だといっておられますが、多世界解釈を前提にいたしますと、奇跡だとおもわれていた様相が一変することになります。多世界とは、無限に異なる世界が分岐しながら展開していく世界であるとも考えられております。無限に展開する世界の特徴は、およそ想像できることはなんでも起きてしまう世界であるということであります。
多世界では、永遠に生き続ける人間が出現いたします。具体的な方法を述べることはできませんが、宝くじの1等を確実に当てる方法がないわけではありません。a hope様の生まれてくる確率がどんなに低く見えていようとも、多世界では、それが奇跡だとは見なされなくなります。
多世界では、a hope様が生まれてくることのできなかった世界が圧倒的に多く存在するはずであります。無限に存在する多世界のなかで、a hope様が生まれてくることのできた世界はほんの少しであるのかもしれません。その代わりに、a hope様以外のべつの人間がそれぞれの世界で生まれています。あの戦争がなかった世界もあれば、あの戦争で日本が勝利をおさめた世界もあります。戦後生まれの人々が誰ひとりとして生まれてくることのできなかった世界があります。およそ考えられることはなんでも起きてしまうのが多世界であります。
このように考えますと、ここに生を受けていること自体が、とりたててありがたいことには思えなくなってまいります。多世界は、本音をいいますと、わたくし個人としてはあって欲しくない世界であります。
多世界解釈が正しいとして、考えられることはなんでもアリというのであれば、この世界だけは多世界であって欲しくないと願うばかりであります。でもこれだけは、いくら多世界でも考えられないことであるのかもしれません。
-
- 2012年04月13日 21:00
- 生長の家といえども、ロゴスを中心に置くという誘惑からは逃れることができなかったようであります。ロゴスとは究極の起源であり、それを現前させようとするのが、ロゴス中心主義であるようです。
あらゆるロゴス中心主義は、教義を正当化するために二項対立をもちいることになります。実相と現象。霊と肉。精神と物質。光と闇。中心と周縁。善と悪。伝統的なロゴス中心主義は、こうした二項対立において、一方を特権化させ、他方を従属化させるという手法をもちいてきたといわれていますが、生長の家もまた同様の手法を継承してきているようにおもわれます。
こうした二項対立をもちいるロゴス中心主義にゆさぶりをかけるのは、それほど難しいことではないと考えます。生長の家にたいしましても、それなりの方法をもちいることができれば、十分にゆさぶりをかけることができそうな気がいたします。
はっきりしたことは言えませんが、生長の家が神道的な思想を純粋に継承しているのであれば、ゆさぶりはあるいは不可能であったやもしれません。生長の家はどこかで間違ってしまった。そんな気がしてなりません。
-
- 2012年04月14日 07:26
- 幕天居士様
>レンズを通過するさいの光の拡散といえば、極端なことをいえば、宇宙の果てまで拡散している可能性があると考えます。
空気中では、常に異物に屈折させられるから、それは難しいかもしれませんが、真空化という条件下では、それは有り得ると思います。
それから、ここはどうなんだろうか?と疑問に感じました。
>たとえば100光年離れた宇宙にも拡散しているはずでありますが、それはもしかしたら、過去にさかのぼって100前の宇宙にまで拡散しているといってよいのかもしれません。
僕の知るところでは光速に近づけば未来にいけるというウラシマ効果があったはずです。つまり光の秒速30万キロは絶対であって、もし同じスピードをもつ物質Aが地球から光と共に飛びだしたとしても、1秒後には同じところに光と物質Aがあるのではなく、物質Aが地球より30万キロ先にあるけど光は物質Aより更に30万キロ先にあるというものが光についての考え方になっているというものです。
ただ、ウラシマ効果の見方を変えれば、物質Aが地球に戻ったとした時「物質Aが、光速に近いスピードで地球を旅立ち、再び帰ってくる」 と言う工程は、同時に、 「地球が、光速に近いスピードで物質Aを旅立ち、再び帰ってくる」 ということで過去に遡ってくるという幕天居士様が仰ることも成り立つとも言えますね。
なかなか光は面白いなと思いました。
-
- 2012年04月14日 12:29
- 義春さん
光はなかなかにわかりにくいですね。秒速30万キロの物体Aが光と同時に、おなじ方向に向けて地球を出発して、1秒後にどのようになっているか、興味深い問題ですね。
わたくしもあまり詳しくはないので、正しいことを書けるかどうかわかりませんが、おもうところを述べることにいたします。
1秒後というのは、地球における1秒のことですね。1秒後の地球から見れば、物体Aも光も、地球から30万キロ離れた場所にあるはずです(60万キロではないとおもいます)。これは間違いないとおもいますが、問題は、物体Aに人が乗っていた場合に、この人はこの瞬間をどのように体験しているのだろう、ということです。いったいどうなっているのでしょうね。
つづく
-
- 2012年04月14日 12:30
- 物体の速度が光速に近づけば時間の進みが遅れるというのは、よく知られた現象です。地球ではたしかに1秒の時間がたっていますが、光速とほぼおなじ速度で飛行する物体Aに乗った人物にとって、それは1秒ではなく、もっとずっと短い時間として体験されるはずです。ではどれぐらいの時間として体験されるのかといえば、たしか計算式があったとおもいますが、忘れてしまいました。ここは大雑把に1万分の1秒ということにしておきましょう。
地球では1秒でも、物体Aの人物にとってそれは1万分の1秒でしかないということですね。この人物から見れば、わずか1万分の1秒で地球から30万キロも離れてしまったと感じられているはずです。ではこの人物と、地球を同時に出発した光はどのような関係にあるのでしょう。この人物にしてみれば、時間はわずかに1万分の1秒が経過したにすぎません。したがって光は、30万キロではなく、その1万分の1の、わずか30キロメートルほど進んだようにしか見えないのではないでしょうか。
地球では1秒の時間が経過していても、この人物にとって、光はわずか30キロメートルしか進んでいない。こういうことが起きているのではないかと想像する次第ですが、本当のところはどうなのかといえば、まったく自信はありません。
つづく
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- 2012年04月14日 12:30
- ところで、光の拡散の問題ですが、これは「拡散」という言葉をもちいたことに問題がありました。正しくは、「光子はどこにあるか」というべきでありました。
「光子はどこにあるか」といっても、これは現象化される以前の光子についていっています。現象化される以前の光子はいったいどこにあるのでしょうか。物理学のある考え方では、答えは「光子はいつでもどこにでもある」となります。「いつでもどこでも」とは、宇宙のあらゆる場所に、そして無限の過去から無限の未来にいたるどの時間にも、光子は存在するということです。
これは「粒子の非局在性」といわれる問題です。1個の粒子は空間のある1点だけに存在すると考えれば、これは「粒子の局在性」ということになりますが、1個の粒子が、空間のあらゆる場所、あるいはあらゆる時間に存在すると考えれば、これは「粒子の非局在性」ということになります。
量子力学のコペンハーゲン解釈では、あらゆる粒子は、それが現象化される以前には、非局在的に存在すると考えるようです。この場合の現象化は「波動関数の収縮」と呼ばれます。
問題となっている投稿で、わたくしは「100年の過去にも拡散する」といったような表現を使いましたが、これは「光子の非局在性」ということでいえば、1個の光子が現在のこの空間の1点だけに存在するのではなく、100年以前の過去にも存在しうるということを述べたつもりなのです。「拡散」という言葉をもちいたために、いらぬ誤解を与えてしまったようであります。申し訳ありません。
つづく
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- 2012年04月14日 12:31
- コペンハーゲン解釈にしたがえば、1個の光子が時間、空間を超えて存在しうるということになります。しかしどの光子が現象化するのかといえば、それは「最小作用の法則にしたがって現象化する」としかいいようがないような気がいたします。ただしこのあたりの記述は正確ではない可能性がありますので、話半分ほどに聞いていただければありがたく存じます。
たとえば自分という存在にしても、現象化される以前には、あらゆる空間、あらゆる時間に非局在的に存在している、ということがいえるのかもしれません。この無限に存在する自分のなかで、最小のエネルギーで現象化が可能な自分だけが、いまここに現象としてあらわれていると、このように考えることができるかもしれませんね。
自分といってみたところで、それはたまたま現象化された自分であるのかもしれません。現象化されていないところでは、それこそ無限といっていいほどの自分が存在している可能性があります。ひょっとすると、すぐそこにあるマグカップでさえも、別の自分が現象化してあらわれた姿であるのかもしれません。なにが本当の自分であるのか、それは誰にもわからないことです。もしかしたら、この宇宙のすべてが自分である可能性もあるということです。
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- 2012年04月14日 14:42
- 義春さま
>まぁ、この種の話はトキさんのところを常時監視…ではなく、温かく見守ってくださる本流掲示板があるから、なかなか書きづらいかと思います。
ほんとに…トキさま掲示板にも、それはそれはあたたかく、チェックして頂ける方がいるので、有難いかぎりですよ、笑。
ここは落ちついてお話できて、感謝しています。
わたしも、団体を分けるのは、本質的な問題だとおもうのです。
組織論云々だけでなく、
信仰をまもることに、繋がると正直、かんじてます。
たしかに、トップ幹部の責任は重いとおもいますが、誰か一人の責任にするというより、もっと大きな視点で考え、改善がなされると良いですね…。
こんな言い方申し訳ないですが、錆びついた組織の改革は、難しいものが、あるのでしょうね。特に宗教団体内部は、意識の抵抗が強く、色々あるでしょうから…。
>だから、神そのものが現れるというのは、置いといても、神の分霊である生命は応化して現れるというのが、今のところの実感です。
そうですね…わたしも、人間の良心、生命力を実感として信じていますし、それこそが、人間に宿る神性といわれるものだとかんじます。
…ただ、特定の宗教などで、あえて、コトアゲされるものが、「神」なのかは、疑問におもうところがたくさんある、そんなところ、です。
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- 2012年04月15日 20:46
- さくら様
トキ様の掲示板でわたしが、はしなくも続けてきたのは、自己批判以外のなにものでもなかった。いまにしておもえば、これ以外になにを考えることができるでありましょう。
本流掲示板との出会いによって、攻撃対象、というものがあるとすればの話ですが、その攻撃対象がそれまでとはすっかり入れ替わるという逆転現象が起きてしまいました。それはまるで、本来であれば自分を守るべき抗体が、自分自身への攻撃に転じることで引き起こされる免疫異常にもたとえられる逆転現象でした。
そもそもの攻撃対象は西洋合理主義。その矛先が、あろうことか生長の家の教えそのものへと転じたのです。トキ様の掲示板では、現代科学の初歩的な知識をもって生長の家を攻撃いたしたつもりですが、もとはといえば、それは、教義防衛のために西洋合理主義をしりぞけるべく用意した知識であったのです。
宗教に対する攻撃ないしは批判は科学的知識によってなされるのが通例でありますが、科学的知識といってみたところで、一般の方々がもちいるそれは、古典物理学の範疇であるニュートン力学の知識がせいぜいといったところでありますから、その上を行く最新の物理学の知識によって理論武装するという手法は、たとえそれが初歩的な知識であったにしても、生長の家の教えを防衛するにあたっては、きわめて有効な方法であったといえます。
つづく
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- 2012年04月15日 20:47
- このような次第でありますから、西洋合理主義といえども、教えにとって脅威といえるほどの威力を持ちあわせているとは、とてもいえない状況にありました(生長の家の運動は、西洋合理主義にたいする批判から開始されたといっても過言ではないでありましょうし、それは当然のことに、華々しい成果をあげることになります)。しかし本当の敵はほかにいました。ソシュールです。ソシュールの言語学は、生長の家の教えにとって最大の脅威と呼ぶべきものであったのです。
ソシュールの脅威から教えをいかにして守るか。個人的には、これが20年にわたって持ち越された大きな課題でありましたが、本流掲示板との出会いによって、敵と味方が逆転するという現象がおきたのです。それまで敵であったはずのソシュールが、なぜか味方におもえてまいりました。それは当然のことでありまして、それまで守るべき対象であった教えが、攻撃の対象へと変わったのでありますから、ソシュールはむしろ、わたしにとっての最大の武器ということになったのであります。
どういう加減かはわかりませんが、本流と出会ってからのちは、生長の家の教えを攻撃することこそがわが使命であるとおもえるようになりました。ここで気づいたのが、それまで教えを防衛するためにと用いていた理論武装が、教えを攻撃する武器にも使えるということがわかってきたのです。精神分析にしても、現代物理学にしても、ドリーミングやドリームタイム、タオイズムやシャーマニズムでさえも、それらはすべて、ほんらいは教義を防衛するためにと学んでいた分野でありますが、それが攻撃のための武器になるということに気づいたのですね(これによって、自らを守るべき抗体が自らを攻撃することになります)。
つづく
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- 2012年04月15日 20:49
- いったい何が起きていたのでしょう。振り返ってみれば、それは明白でありました。わたしは、トキ様の掲示板で、教えのなかにひそむ形而上学やロゴス中心主義を攻撃していたのであり、それはまた、真理は言葉で言い当てることができるとする形而上学を無条件に信奉していた自分、万物の起源たるロゴスの現前にこそ真理を見いだそうとするロゴス中心主義的発想を無批判に受け入れてきた自分、にたいする攻撃でもあったのは明白でありました。
形而上学もロゴス中心主義も、すべて間違っていたことに気づきました(なぜなら、そのことに気づいたからこそ、それまでの防衛的姿勢を、一転して攻撃敵姿勢へと転じることになったのです)。
本流と出会うまで、形而上学やロゴス中心主義が間違いであるとは夢にもおもうことができなかったのでしょう。そのために、長年にわたって、その間違った考えを防衛すべく、さまざまな分野にアプローチして防衛に有利な材料を探しつづけてまいりました(20年の歳月をかけながらも防衛できなかったのは、それが間違った考え方であったからです)。
形而上学やロゴス中心主義を、無意識にせよ信奉しているであろう本流の方々の主張に違和感を持ち、それが間違った考えであることを知るにいたったわたしは、そのことで、ようやくにして形而上学やロゴス中心主義の呪縛から解き放たれ、それが守るべき対象ではなく攻撃すべき対象であることに気づくことができたのであります。
つづく
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- 2012年04月15日 20:51
- トキ様の掲示板では、初心者は、雅春先生よりも西洋の哲学者を上に置いているとの批判を受けておりましたが、上に置こうとしたのは、ある意味とうぜんのことでありました。上に置こうとしていたのは、その多くが反形而上学や反ロゴス中心主義を掲げる哲学者や思想家であったからです。ハイデッガー、ニーチェ、ソシュール、ラカン、バルト、デリダ、ジジェク。たしかに彼らは、反形而上学をその思想の中心に掲げるビッグネームばかりでした。
わたしの攻撃対象は、生長の家の教えだけでなく、形而上学やロゴス中心主義を無批判に受けて入れていたわたし自身でもあったのです。トキ様の掲示板で続けてきたこと、それはそんな自分にたいする自己批判でもあったということを、ここで総括することにいたします。
つづく
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- 2012年04月15日 20:51
- 20年前より読みたいと願っていて読めずにいた本をようやく読みはじめました。ロラン・バルトの評論集『表徴の帝国』。それは以下のような出だしではじまります。
○この世にあるとも思えぬ一民族をわたしの想像力でつくりだそうとすれば、その民族の国にわたしは勝手な名前をつけて、もう一つのガラバーニュの国をうちたて、はっきりとその国を空想上のしろものとして扱い、実在のどんな国だろうとわたしの夢物語にまきこまずにすむようにする(ただしそうなると、その夢物語そのものに、文学の表徴をつけてしまうことになるのだが)。わたしはまた、実在する国のどんな些細な現実にしろ再現したり分析したりしようとはせずに(その逆こそが西欧的な陳述の企図するところなのだが)、この世のなかのどこかしら(かなた)の、幾つかの特徴線(この、製図法にして、言語学的な言葉よ)を抜きとって、この特徴線で一つの世界をはっきりと形成することができる。日本、とわたしが勝手に名づけるのは、そういう世界である。
おお!これこそが、バルトの日本こそが、わたしがずっと探し求めてきた、精神の落ち着きどころであったのかもしれません。形而上学でもない、ロゴス中心主義でもない。難解であってもなぜか心が癒される。そんなバルトの世界に、しばしのあいだ迷い込んでみましょうか。
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