『在る』から始めると…


 正体不明の巨体 暗黒物質「見えた」 分布図作成に成功 銀河形成論裏付け 日米欧チーム
 ・・・(前略)・・・米ハッブル宇宙望遠鏡と国立天文台のすばる望遠鏡(米ハワイ島)で、六分儀座の方向にある10億〜80億光年先の銀河約50万個を観測。その姿のゆがみ具合から、暗黒物質による重力レンズ効果を逆算して暗黒物質の分布状況を割り出し、三次元画像化した。・・・(中略)・・・日本側代表の谷口義明・愛媛大学教授は「仮説だった宇宙形成論を裏付けた。観測精度を上げ、より細かい構造を明らかにしたい」と話している。  (毎日新聞(2007/01/09))
 「10億〜80億光年先」だの「重力レンズ効果」だの「暗黒物質」だのとゆーものの馬鹿らしさについては他で丁寧に言っていますから、それは繰り返しませんが。(ちなみに。件の愛媛大学の先生ってのは遠方銀河観測のレコード・ホルダーで、128億光年先のそれを観測した人なんだそーです)
 さてところで、要は、「これは、仮説経験法(とゆー方法論があるのかどうかはともかく)、なんですよ、だからこれもSF以上の何かなんかじゃないんですよ」、と云うことなだけなんですね。詰まりは思考実験で観測しているってことなだけなんですから。
 「その姿のゆがみ具合から」って言ってますけど、歪んでいない実際の姿と、でもどうやって比較したんですか? なんですよ・・・。

 ですからね、これは ダークマターなるものがそこに在るんだ。それで、重力レンズが出来るんだ。それを通した光がこれなんだ。の、その『在るんだ』だけが結果になるしかない、の、この光は歪んでいる。重力レンズが出来ているからだ。ダークマターがそこに在るからなのだ。 をそうだとしての、『在る』から始めた天文観測での『在るんだ』の新事実の大発見。それが即ち、暗黒物質「見えた」 分布図作成に成功 銀河形成論裏付けとゆーことです、だけなんですよ。 だから、そこの銀河とそこのダークマターの分布は、なんであれかんであれどーであれ、理論通りに、全く一致しちゃうんですよ。そうでしょ? それだけの、おとぎばなし、なだけでしょ?  幅広い教養を身につけ、広い視野からものごとを考えていらっしゃるとかゆー、 愛媛の伊予柑イ〜ヨカン頭の大先生?
 だけど視野角1度にも遥かに及ばない範囲で銀河が50万個でしょ? 視野角1度におまけして、前後方向の更にの積み重ねの数を無視し、切捨て計算でも648億個が、最小見積もりでの宇宙の中にある銀河の総数ですよね。その全銀河重量を積算したものが直径137億光年の宇宙の重さでしょ。ダーク・マターなんて全く要らないどころか、ブライト・マター(?)で補正しなくちゃなんないんじゃないんでしょうかねえ?
 愛媛大学のキャンパスには、朝な夕なに ♪プ〜プ〜。たーだ信ぜよ、信ずるもーのーはだーれでもー、みーな救われるーー。ド〜ンドン。 て歌が流されているって話ですけど、ホントなんですかね? (救世軍(仮名)からの*注* 弊教会も寡聞にしてそのことは知りませんが、仮にそのような事実があったにしてもそれは弊教会とは全く無関係であります。誤解のありませんように。(でもさあ、「まことしやかに画像付けたってもさあー、こんなもんただの紙芝居じゃ〜ん。経験・合理の世界のことじゃなくて、信じるか信じないか、だけのもんなんだよなあー・・・」とゆーことでのオチョクリのためにで、救世軍の布教・宣伝のそれを使わないで欲しいんだよねえ。せめてはさあ、『信ぜよ〜信ぜよ〜〜信ぜよ〜〜〜。我を〜〜〜〜、信ぜよ〜〜〜〜〜』の幸福の科学(仮名)かなんかでオチョクって欲しいよねえ、ホント))


時間と因果と最初の打撃


 今現在の世間で時間論をやると、当然に相対論批判をやんなくちゃならないんですが、いわゆる相対論も、(その正統的理論の啓蒙家?にも)かなりオカシなことを言う人が沢山います。それで、えっと〜、これは相対論の定説なの?本人限りの奇説・怪説なの?がよく判らないんですよね。  とゆーわけで、相対論的時間論の批判はここでも当然にやっていますが、毎度webでおなじみの、の定説?奇説?怪説?の相対論的時間論の云々はしていません。これは、ですので、ご了解ください。

 四季・1年は、植物にとっては一日なのかな? 春に目覚めて夏に遊び、秋に愛して冬に眠る、で。
 時間が、それを認識する存在それぞれで違っていてもかまわないけれど、どの存在も同じ時間世界に存在している、は、詰まりは、時間には瞬間しか存在しないから、ですね。どの存在も、時間厚さが0の瞬間の中だけにいる、だから。
 個々の存在がどのように自分の時間世界を作っていようとも、その時間世界の表象はどの存在にも瞬間しかありません。そして「瞬間」は、ある「時刻」ではなくて、「今そのもの」です。その唯一つだけの「今そのもの」に全ての存在は存在しているのだから、あらゆる存在は同じ時間存在(「今そのもの」)を共有して存在している、でしかありようがない、です。
 では?その「瞬間」、即ち「今そのもの」って、一体何もので、どう表れているものなんでしょうか?

 時間旅行がテーマになっているSFって多いですよね。勿論SF時間旅行では、過去に行こうと未来に行こうと、未来が過去の原因になってしまいますから(結果が原因になって原因が結果になる、で)、因果律がひっくりかえってメチャクチャグチャグチャになります。ですから、時間旅行は絶対にできないものなんですけど、でも因果律を壊さないただの観光旅行(?)みたいな時間旅行なら、どうなんでしょうか? 過去は確かにありました。未来も確実に訪れます。なら、時間の観光旅行ならできるんだ、って言えるかもしれない? そう考える人がいてもいいんじゃないか?ですね。
 時間には瞬間しか存在しない、が絶対真の命題なら、しかし勿論、因果律を壊さないただの時間観光旅行も出来ないものになります。過去は存在せず、未来も無い。存在しないところに行く旅行は出来ない、ですから。 でも、個々それぞれで時間の流れに遅速があるなら、どうでしょうか? 時間旅行は出来なくとも、ある人にとっては他の人よりも、自分の未来に早く着く、とかまたは遅く着くとかってことは、不可能じゃないってこともあるんじゃないでしょうか?ですね。 さあ、でも、どうなんでしょうか?それは・・・。
 SF時間旅行をまだ人類が発明(?)していない頃でも、もう古代ギリシャあたりころからでも、時間旅行的なものを考える人たちは沢山いましたよね? 勿論、言うまでも無く、それは「決定論」や「永劫回帰」ですね。ヘレニズム期にはそれは、言ってしまえば、現代のビッグバン宇宙論よりずっとマシなそれになっていたと言っていいほどに、もうかなり洗練されていました。まったくの思弁的なそれではありましたけれど。
 ヘレニズム期の思弁家たちのしかし「決定論」や「永劫回帰」には、時間旅行的な「時間の流れ」はありません。彼らが時間の流れを考えなかったと云うことではなくて、彼らの「決定論」や「永劫回帰」はラプラス的決定論(我に今ある全てを教えよ。然らば我は未来にある全てを予言せん)だったからですね。その決定論では、過去・現在・未来の「因果」を考える必要はありますけれど、「時間」を考える必要は無いからです。

 で、「時間の流れ」、です。 でも「時間の流れ」って、本当にあるんでしょうか?
 時間を川で比喩し、(現在)時刻をその川に流れる舟で比喩しているような、殆んど総ての時間論では、「時間の流れ」は(その流れの遅速が相対であろうとなかろうと)存在しています。でも、時間には瞬間しか無く、その瞬間は「今そのもの」のそれだけなんです。舟は確かにあります。でも、そうなら、川は無いんじゃないですか? だって「今そのもの」しか無いんでしょ?時間には。 ですから、そう、無いですよ。ありませんよ、その舟を流している川の流れなんて。その舟の外のどこにも。
 では、この、「今そのもの」が実感している、その、「時間の流れ」ってなんなんでしょうか?

 さて、時間厚さが0の「今そのもの」しかない、から、当然に、連続している空間内の任意の2点は、その2点がいかなる状態を持っている2点でも、同じ時間存在を共有している、は自明のこととなります。何故なら、もしそれぞれが違う時間存在の中にいるなら、「今そのもの」は唯一ではなくなるからです。即ち、「今そのもの」は「瞬間」ではなくてその時間に厚さがある「時間間隔」になります。厚さのある「時間間隔」には、厚さのない「瞬間」が無限に存在します。一つの現在が無限の数の現在として存在することになりますから、一つの原因が無限大になって、一つの原因から無数の異なった結果が全く同時に作られてしまいます。詰まり、SF時間旅行と全く同じことになります。たった一つあるだけの筈の現在の個数が、しかし無限大に発散してしまうのです。
 ところで、しかしながら、どなたもご存知のように相対性理論では、特殊であれ一般であれ、連続している空間内の任意の2点が、それぞれで別の時間存在を持ちます。「今そのもの」は唯一ではなくなります。「今そのもの」が唯一ではないなら、2点なら2つ、3点なら3つ、にすればいいだけのことだ、にはしかしなりません。ある一つの点の時間存在が、無限の数の現在になってしまうと云うことです。
 そうであるのに、では何故、時間厚さが0の「今そのもの」があるだけで、しかもそれは唯一つあるだけなのに、連続している空間内の任意の2点は異なる時間存在の中にある、と云う考えを人類の誰もが正しい世界認識だとするに至ったのでしょうか? 詰まるところのその答えは、時間を川で比喩し、(現在)時刻をその川に流れる舟で比喩している時間論だからなのだ、です。その時間論しか人類は持ったことがないからです。相対論以前も、相対論以後でも。 よく「アインシュタインは(相対論は)時間の概念を変えたのだ」なんて言われますよね? でも実は、それはそれ以前の時間の概念なんて、少しも変えてはいないんです。と言うより、そもそもで人類は、時間の概念なんて持ってなんかいなかったんですね、全然、全く。

 普遍は実在か?唯名のみか? 三角帽子に火炙り覚悟(?)で答えます。普遍は実在ではありません。唯名のみです。 詰まり、時間の流れ、はその実在ならざる「普遍」なのです。では、それを名として作り、存在たらしめている「個物」は、「今そのもの」か?ですが、これもしかし、いいえ、です。ならしかし、それは一体何?ですよね?
 ある時刻ともう一つのある時刻の間の長さを時間とする、が科学での、と云うより全ての人間の認識での、時間です。ある時刻は、勿論その時の「今そのもの」であり、もう一つのある時刻も、勿論その時の「今そのもの」です。二つの時刻の間は切れ間なく連続していますから、「今そのもの」は過去から未来へと連続して流れて行きます。これが、T(時間)=t2(現在時刻)-t1(過去時刻)の時間の表現で、このことは勿論相対論でも同じです。と言うより、この時間を流れさす式があるからこそ相対論の時間の遅れが発生するわけですね。
 問題は、T=t2-t1 のこの式は、この計算以前に存在しているのか?です。詰まり、Tは(経験によって後形に作られた)t2とt1の引き算計算によって求められたただの計算結果だけのものであり、Tによってt1からt2が生じたのではないんじゃないか? なのです。
 先経験的に存在しているのは「今そのもの」だけです。時間じゃありません。なら時刻は当然に先経験的に存在なんかしていません。もし、このことを「真」だとして命題を立てるなら、この命題からの結論はただ一つです。そう、いかなる論理を作ろうとも、時間は進みも遅れもしない、です。T=t2-t1は、計量のために便宜上で導入された「時間」と言うものを便宜的に説明しているだけの式である、としかなりません。従ってこの式をいじくり回して時間を変更する答を出したところで、その答は、存在のありようを変える、「時間の進みや遅れ」の本質とは無関係な答にしかなりません。便宜は本質を変更できないからです。なにより、時間には「今そのもの」しかなく、時の流れ(即ち、いわゆる「時間」)は無いんです。無い「時間」に、しかし進みや遅れはあるのだ、なんてことの有る筈はないんです。ですから「今そのもの」の全空間での唯1個・唯1意は、T=t2-t1の答には全く影響されないことになります。
 「今そのもの」は「今そのもの」であるだけで、時刻として時の流れに乗っては流れない。それが、時間の流れ、は実在ならざる「普遍」だ、の結論です。では、で、仮にそれが計量のための便宜だとしても、実際に認識されているこの「時間」は何ゆえに「時間」として認識されているのだ? ですね。

 存在世界には種々様々沢山の個存在が動き変化しています。 問題は、この個々の運動・変化と時間の、ニワトリが先か?タマゴが先か?です。そのどちらかに決めることが出来またどちらかに決めるしかないのは、勿論、この場合では、タマゴから孵ったニワトリが、しかしもうタマゴを産まなくなるからです。
 この問題の答は、
 【A: 個々の運動・変化は、先経験的に時の流れを存在させないと存在できない。時間は先経験的に存在する
なんでしょうか? それとも
 【B: 個々それぞれの運動・変化の相対比較が時の流れそのものなのだ。時間は先経験的には存在しない
なんでしょうか?
 そのどちらなんでしょうか? のニワトリが先か?タマゴが先か?の答です。
 詰まり、時間の流れと云う絶対の時計(*注* 絶対に正確な時計と云う意味ではなくて、全ての時計(即ち全ての存在の運動・変化)を自分に同期させて動かしている絶対なる時計です)があり、その時計の動き(実在普遍たる時間)があるゆえに個々それぞれの運動・変化は存在たらしめられる、なのか?、それとも個々それぞれの運動・変化の相対比較を時計の動き(唯名普遍(単なる計量のための便宜)でしかない時間)だとしているだけなのか?、です。
 もしあなたが中世ヨーロッパの知識人だったなら、この答にはA:を選ぶしかありません。B:の答を選んだなら、異端だとして三角帽子をかぶされて火炙りにされますからね。でも何故B:の答は、それを選んだら異端審問所送りにされる程に正統な神学の教義に反しているものなんでしょうか?
 詰まりは、A:の時計は神を存在させないと時を刻まないけれどB:の時計は神の存在とは無関係に時を刻むからだ、だからです。(*ちょっと脱線* ですからカトリック教会は、(勿論こういった時間論とは無関係だったんですが)普遍論争では唯名論を強権で異端だとし、実在論を勝たせたんです。(*ついでに* 勿論、言うまでも無く、相対論の相対時間もそれぞれの系はそれぞれの時の流れを持っているという意味だけでの相対時間です。それぞれの系でそれぞれの神を存在させないと相対論の時計も時を刻みません。相対論の時間も、その系では、「絶対時計(全ての時計を自分に同期させている時計)」を動かしている「実在普遍」での「絶対時間」なのだということは全く同じです。相対論の相対時間は「相対時間」ではありません。))
 しかしB:を答とするしかない、じゃないんですか? だって個々それぞれの運動・変化は、空間の移動の類しかないですよね? 過去から来た運動も未来に行く変化も、一つとして無いでしょう、存在世界には? 全部の存在が、右に行くか左に行くか上に昇るか下に降りるか、みたいなことをしているだけでしょう? 時間の移動をしている運動・変化って、見たことがありますか?あなたの経験で?
 存在している時間は「今そのもの」だけ。実在普遍での「時の流れ」は否定する。それでも時計は作れますし、なにより、形而下世界に存在している時計には、それで作った時計しかないんです。だから、神様の力を借りずに時計を作る時間論では、B:を答とするしかないんです。そしてその時計で唯名普遍の時間を定義しているのが、即ち、T(時間)=t2(現在時刻)-t1(過去時刻)の時間なんです。 ですから、この式をなんだかんだでイジクリ回したら時間が遅れるという答が出たとしても、そのことでは時間は遅れたりはしないんです。

 異端審問所で糾問官に拷問されて、あげくに火炙りにされるなんてことはない現代でも、「それでも時計は遅れない・・・」と、しかしそう呟くしかないんでしょうかしらん?ですけれど。

 さてしかし「でもさあ、だけど本当に、『先経験的な時間の流れ』を否定して時計が作れるのかい?」と言う疑り深い(?)人もいるでしょうから、では経験によってだけで後形成されたところの『唯名普遍の時間』だけを使って時計を作ってみましょう。それは勿論、この存在世界で認識されている『時間』って何? の答そのものです。
 時間論でレトリックが一番厄介になるのは、しかしこの、時計を作ろうとする時です。およその運動・変化を表す言葉は、非明示的であれ、全て時間の存在を前提としているからです。それで不用意にそれらの言葉を使って時計を作ろうとすると、いわゆる白馬非馬論をぶつけられて論理が立ち往生することがあります。勿論言葉は単に表現手段なだけであり事物の本質ではありません。ですから白馬非馬論をぶつけられても「それは揚げ足取りの単なる詭弁だ」で片付けられないこともありません。しかし世の常識である『実在時間』ではなくて全くの非常識である『唯名時間』で時計を作るんですから、白馬非馬論をぶつけられた時に「それは詭弁だ」でシラバクレルことができないんですね。「常識」は白馬非馬論側にあり『唯名時間』で時計を作る側にあるんじゃないんですから。ですから言葉で揚げ足を取られないようにと、大変に頭を悩ませるわけなんです。出来上がりのレトリックには、揚げ足を取られるような部分は消されていてもう入ってはいませんから、「どうってことないだろよ、こんなくらいの表現程度は」なんですけどね。そう、でも大変なんですよ、レトリック作りは、ホント。

 縦横高さだけがあるだけでただ茫々と無限に広がっているのみの空間に慣性運動をしている存在Φがあるとします。Φは慣性運動なのでこの仮定下の運動の表現にはいかなる意味の時間も必要ではありません。Φはこの空間では絶対静止しているのだ、としてもかまわない運動だからです。この空間に点イ:を打ち、存在Φがその点を通過するとします。そうするとここで、存在Φと点イ:の位置関係で忽然と時間が現れます。しかしこの時間は、先経験的に存在していた時間ではなくて存在Φと点イ:の距離の変化から後形成された時間です。何故なら、存在Φの運動は空間に点イ:があろうとなかろうと、全く同じ運動だからです。
 同じ条件下に慣性運動をしている存在Ψと点ロ:があるとします。存在Ψと点ロ:の位置関係でも前述と全く同じく時間が現れますがこの時間も後形成された時間です。
 この2つの存在ΦとΨが後形成した時間はそれぞれで異なっていてもかまいません、と言うより、異なっているほうが不思議じゃないですよね。発生の根拠が違うんですから。しかしΦとΨが存在している「今そのもの」は全く同じです。この仮定下では時間は先経験的には無いんです。ですから2つの存在は、時間世界にいるんじゃなくて空間世界にいるだけだからです。
 ところで1つの空間に2つの存在ΦとΨがあるなら、ΦとΨの位置の指定に点イ:と点ロ:は必要ではなくなります。ΦとΨの距離で位置の指定ができるからです。 点イ:と点ロ:は空間の座標なので、その存在に、空間の座標とは?の問題を内在させていますから、これらを使わずに論理が進められるなら無い方がなにかと都合がいいので、(^^;、この仮定からは消してしまいます。 これで、ΦにとってはΨの運動が、ΨにとってはΦの運動が、時計になります。

 実際の存在世界には勿論様々な態様を持つ無限・無数のΦとΨが存在しています。ある1個のΦがどのΨを自分の時計だとして自分の空間の位置を決めるか?はですから全くΦの勝手です。ただ、自分は静止しているとして自分を見ているΦは、その中の内でもっとも自分の静止を静止だと理解してくれている(?)Ψを、正確な時計だとします。Ψは無限・無数にありますが、Φもまたとにかく無限・無数にあるんですから、そのΦたちの誰もをエコヒイキなく静止を静止だと理解してくれているΨを皆んなが民主的に多数決で選んで(?)、それを存在世界での正確な時計だとします。 これで、「唯名普遍」だけで時計は出来ました、となります。

 時計は普遍なる時間の流れで作られているのではなくて、個物の空間の位置によって作られています。ですから、時間には、「今そのもの」しかないんです。そしてその時計によって、時間が「唯名」ですがしかし「普遍」として、存在世界に遍く存在しているのです。

 とゆーことで、んなわけで、「今そのものだけしかなく、時の流れは無い」、でも時計が出来て時間を存在世界に「普遍」たらしめることに成功したんですから、こっちの方の「時計・時間」を使う方がロジックやレトリックが簡単なので(?)以下の論で、時計・時間や運動・変化などの言葉を使った場合には、その(非明示的背景的に重ねられているそれも含めて、で)時間は唯名普遍のそれですよ、をご了解して置いてください。勿論もし特別に実在普遍で「時間」の言葉を出さなければならない場合には、その言葉はその意味で使っています、をキチンと明示します。
 (*注* 本来の普遍論争は「『花は美しい』と言った時には、花は神が自然に与えた『美しさ』と云う普遍の中に存在しているから美しいのか? それとも個々様々な美しい花があり、そこから整理して作られた『美しさ』があるだけなのだから、『花は美しい』に『美しさ』なる普遍は必要ではない、なのか?」の論争です。この論争では実在論は神の全能性と完全性をより強化しますけれど、でも唯名論だっても、別にそのことでは神の全能性と完全性に疑問を投げかけたわけじゃないですよね? でもカトリック教会は、唯名論の中に神無くして自然を解釈する性向を敏感に感じ取って、唯名論を異端にしました、でした、です。蛇足ですが、用語をゴッチャにして使っちゃったかな?なので念のため)

 時間が逆転しないのは、もし仮に(神ならばそれを認識する、の絶対的な意味で、ですが)時間が過去方向に流れても、世界はそれを未来方向に流れているとしか認識しないからです。個物の空間での位置によって時間は作られているのです。だから時間が逆転しても、右に行っていたものが左に行く、になっただけなんです。なにより、そもそもで、「今そのもの」しかないこの時間には、方向なんて無いんです。その「存在しない」時間の方向を1意・1個にしかし決める、なら、各存在がどう動きどんな風に変化しても、それは過去から未来への方向にしかならないのです。

 【神も在りしことを無かりしこととは出来ない】 ← スコラ哲学の有名なテーゼですね。
 しかし世の中には私のような敬虔で素直な人ばかりがいるのではありません。バチアタリでヒネクレた人もまた沢山います。「オメエがバチアタリでヒネクレてるんだよ!」 フンッ。 ですからこの絶対と思えるテーゼにわざと逆らって見せたちょっと面白い文学作品なんかもあります。敬虔さと素直さだけがその人格の総てである私なんかでも、これに続く、【失われた処女を元に戻すことは神にも出来ない】を利用して、「しかし美容外科医は簡単にそれを元に戻す」と言って、人間の神への超越(?)を主張したことがありました。(^^; ま、しかし、それはそれ。
 この【神も在りしことを無かりしこととは出来ない】が即ち因果律です。またこのテーゼの逆は、【全ての事物はその存在に原因を持ち、その原因もまたそれを結果だとする原因を持つ】で、これも絶対の真なる因果律ですよね? (*余計ですが* 実は私は実存無原因論者で、実存にはそれを存在たらしめる原因は必要ではない、なんですが、実存とは私を私だと自己認識する原存在のことである、と定義していますので、いわゆるここでの因果律とはそれは無関係です、勿論)

 因果は必ずしも時間の存在を必要だとはしませんけれど、当然に原因を「前」とし結果を「後」としますから、そのことでの時間は発生します。しかし因果も今そのものの空間内で起こっている存在の「移動」の表現ですから、このことで発生する時間も種々様々な存在の「移動」の相対比較で認識されるだけの時間だとなります。
 しかしながら、因果には「前」と「後」が必ず存在していますから、少なくともこのことの説明のためにだけは実在普遍の時間を存在させる必要はあるんじゃないのか? ですよね。 ですが、答は、「存在させる必要はありません」です。 このことの要は、詰まるところ、原因と結果の間には(実在普遍の)時間間隔は在るの?です。 ですから、「在りません」、の素っ気無さがその答だけなんです。でもなぜそう言い切れるんだ? ですよね。
 要するに、原因と結果は、「前」と「後」との作用(と反作用)だからです。「原因」は同一場所で同時に存在している「結果」に作用したんです。もし原因と結果の間が瞬間ではなくて時間間隔になっているなら、原因は結果に接触できませんから、原因は結果の原因にはなれなくなります。
 原因と結果では時計は作れません。原因が結果の原因になるのは瞬間だけであり、その瞬間が起こる場所は常に空間の同じ1点上にあるからです。 因果は時計を必要としない(それでは時計が作れない)、その、「前」と「後」なんです

 さて、【全ての事物はその存在に原因を持ち、その原因もまたそれを結果だとする原因を持つ】の命題はしかし否定しようがないですよね? このこと自体は別にどうってこともないんですが、この命題で因果の連鎖を考えて行くと、「因果の連鎖の無限探索」の絶対不可能にぶち当たります。で、どうするんだ? です。時間の流れは否定出来ても、この「因果の連鎖の無限」はどうやっても否定出来ませんから(でもひょっとして何時の日か、天才的フィロソファーが現れて否定してくれるかも知んないけど。勿論そうなれば、人類はこの「因果の連鎖の無限探索」のくびきから開放されて楽になれますが)。

 【ビリヤード台の上のボールが全部止まっているなら、それは永遠に止まっているままである。もしビリヤード台の上のボールが動き回っているなら、それは誰かがキューでボールを突いたのだ
 存在世界は、ビリヤード台の上のボールがあっちこっちと転がりあっている世界です。あるボールが転がっている原因は別のボールが転がって来て当たったから。その別のボールが転がって来た原因はそのまた別のボールが転がって来て当たったから。そのまたの原因はそのまたまたの。そのまたまたの原因はそのまたまたまたの。そのまたまたまたのはそのまたまたまたまたの・・・。
 では?、いったい何時誰が?、キューで最初のボールを突いたのだ? 勿論、最初の打撃、のその問題ですね。

 勿論、人類が思考を初めたその時から、人類はこのことを考え続けていました。この、【何時誰が?】の答を。
 このことの一番簡単な解決方法は因果の連鎖の探索を適当なところで打ち切ってしまうことです。 実際私なんかは昨日以前の因果関係なんか全部「無いこと」だとして探索を止めていますからね。そうなんですから、私のところになんかに借金取りに来ても、昨日以前にした借金は、今の何の原因にもなっていないんですからね。ですから、払いませんからね、来ないでくださいよね、借金取りになんか。「オイオイ・・・」 しかし借金取りは無教養で哲学が無く執念深い(?)ので昨日以前の因果の連鎖の探索に余念がありません。借金取りはどこら辺で因果の連鎖の探索を打ち切ってくれるだろうか?は解りませんから、そうなりゃ夜逃げをするしか無いわけですが。
 でも、ま、そーゆーこととは無関係で、しかし人間はどこら辺まで因果の連鎖の探索で過去に遡ったらそれ以上の探索を諦めるんでしょうか? それとも、諦めが悪く(?)なにがなんでも、この【何時誰が?】の答を出そうとするんでしょうか?

 【無限遠の過去】だとして、人間の思考では到達出来ない無限遠の過去で、人間の想像では理解しえない「あるもの」によって最初の打撃はなされたのだといった類の、多神教曼荼羅の定常宇宙の答にするのか?
 【永劫回帰】の決定論ニヒリズムで振動宇宙の答にするのか?
 【機械仕掛けの神】を登場させて1神教創造神話のビッグバン宇宙の答にするのか?
 なにか新しそうでなんか科学みたいだっても、その三つのうちのどれかでしか、しかし人類は【何時誰が?】の答を出してはいないんですよね、結局は。


 さて、何故【A: 個々の運動・変化は、先経験的に時の流れを存在させないと存在できない。時間は先経験的に存在する】の時計は神を存在させないと時を刻まないのか?です。
 詰まりは、このA:の絶対時間=絶対時計(全ての時計を自分に同期させている時計)は、絶対時刻を何処に刻んでいるの? だからです。時の流れに刻んでいるんですか? でもA:での時の流れの速さはA:での「今そのもの」が流れる速さと同じでしょ? だから時刻は時の流れに印を付けたんじゃ、全く意味がないんですよね? 同じ場所に点を打ち続けているだけなんですから。
 A:の絶対時間=絶対時計は、ですから、「時の流れ」にではなくて時の流れに対して静止している「時の岸辺」に時を刻んでいるんです。その「時の岸辺」は「今そのもの」から、でも見えるんだろうか?の問題もありますけど、その「時の岸辺」は、なにより、即ち「神そのもの」でしょう?
 ちょっとくどいかな、ですが。 (くどいついでで(^^; 再度の*注* 絶対時間=絶対時計とは、絶対に正確な時間・時計と云う意味ではなくて、全ての時計(即ち全ての存在の運動・変化)を自分に同期させて動かしている絶対なる時間・時計です
 言うまでも無く相対論の相対時間も、このA:の絶対時間=絶対時計で作られている相対時間でしかありません。ですから、その系ではその系の「時の岸辺」に、勿論、時は刻まれています。もうそのことはご了解いただけていますでしょうが、念のため。

 1本しか時針が無い時計の文字盤が、時計の針と同じ速さで回転しているなら、その時計に時間は存在しません。でもその時計に別々の速さで動く3本の時針があるなら、その時計には、存在していなかった時間が、しかし忽然と現れます。その時計の文字盤が静止していようが回転していようが全く無関係に。 詰まり、
B: 個々それぞれの運動・変化の相対比較が時の流れそのものなのだ。時間は先経験的には存在しない
 だけが時間なんです

 どのような論理があろうとも、いかなる理論でも、時間は進みも遅れもしません。全空間で、唯一の「今そのもの」が絶対静止しているだけです。

 ですから、もし時間が遅れるという実験結果があるなら、その実験は理論の正しさを証明したのではなくて、神の存在を証明したのです。



 蛇足のオマケ(なんか本人限りの奇説・怪説じゃなくって「定説」っぽいんっで)
----------------------------
 素粒子の固有寿命が2.6×10^-8[sec](π+中間子です)とすると光速cの99%まで加速したとき、
相対論を考慮した場合(素粒子の感じる時間が観測者とずれてるとした場合)予測される距離は
(1.8×10^-7)×(3.0×10^8×0.99)≒54m
相対論を考慮しない場合、単純に固有寿命×速度で
(2.6×10^-8)×(3.0×10^8×0.99)≒7.7m

 実際加速器で実験してみると54mのほうが観測されています。これだけ差があるので、わりかし簡単に(時間が遅れていると)断定できます。
----------------------------
 ↑ これはどっかのQ&Aサイトで見た、時間が遅れる事実を述べた回答(*注* 勿論これも無断転載。もっとも、「フレーム付きで転載したいので転載許可をお願いします」なんて言ったら、そりゃ許可してもらえないよね〜 (^^; でもこーゆーのは回答者オリジナルじゃなくて、どこにでも書いてあるそれをそのまま、件の回答者だっても、写しただけのそれなんだから、ま、いいでしょ。アハハ)。
 言いたいことは、「その54mって距離は、加速器で(1瞬に)光速の99%まで加速したπ中間子が走った距離なんですか? それとも光速の99%まで加速した粒子を何かにぶつけて、その結果発生したπ中間子が走った距離なんですか?」ですね。
 発生したπ中間子は光速の99%の初速度を持つってことじゃないと、この実験結果は成り立たたないんですよね。このことはペーパーバックの「よくわかる相対性理論」みたいな本には必ず載っている、「地球の空高くで発生した宇宙線のナントカ中間子が地上で観測されるとゆー、疑いようもない時間が遅れる事実」、と同じですね。宇宙線のナントカ中間子も、その発生時に光速の99%以上の初速度を持っているんだ、、、と。。。。
 光速の99%以上の粒子が衝突すると、それによって発生する素粒子は、何故か光速の99%以上の初速度を持つ。。。。。 そーゆーとかって経験則が、物理の世界にはあるのかしらん?
 えっ? 完全弾性衝突? いいの?それで?ホントに? 運動エネルギーって、素粒子を叩き出すとか発生させるとかってのに、全部使っちゃったんじゃないの?



 通用の相対論では、その時刻・時間と距離は、誰が誰の時計・物指しで計っているのかを考えてはいません。ですから、相対論は無矛盾だとしているだけです。誰が誰の時計・物指しで計っているのか?を考えれば、相対論の結論は全て、矛盾までにさえも届かないただの出鱈目にしかなりません。
 例えば、で、すぐ上の例のナントカ中間子の寿命と飛距離です。なるほど、寿命が延びたんだから飛距離も延びる、なんでしょう。でも、ナントカ中間子の時計では寿命は延びませんから、やっぱり300mくらいしか飛行できないんですよね。で、このことを指摘すると、今度は、ナントカ中間子の物差しでは距離が縮んで測られるから、その寿命でも届くんだ、です。
 でも、ちょっと待ってくださいよ、なんです。距離が縮むってのは、運動している系の距離なんです。お解りですか? 詰まり、ナントカ中間子と地球との間にある空間(距離)はどっちに属しているんだ? の問題が起こってしまうんです。 要するに、その空間(距離)は運動しているってナントカ中間子は観測するのか?ってことです。
 言っちゃいます。空間(距離)の運動なんて、何者も観測したりはできません。詰まり、縮まんないんですよ、ナントカ中間子と地球との距離は。地球の物差しで計っても、ナントカ中間子の物差しで計っても。
 と云うことなんですから、ナントカ中間子の時計・物差しで計ると、ナントカ中間子は、地球の遥か上空で息絶えてしまって地上にまではやって来られないんです。
 地球表面で件のナントカ中間子が検出されると云う事実があるなら、その事実は、運動による時間の遅れとは別の理由で説明されるものなのだと云うことです。

 世間で語られている相対論の正しさの経験的事実って奴は、出鱈目なんです、何もかも。