慣性質量と引力質量


 言ってしまえば、質量に二つは無い、と云うことに尽きます。質量なる物理量はひとつです。そのひとつだけの【質量】を動き難さで測ったものが「慣性質量」で引き合う力で測ったものが「引力質量」です。
 ですから、「慣性質量」と「引力質量」が比例している(というより同じ値い)と云うことは当たり前だと言えば当たり前で、なんの問題にもならない筈だけのものなんです。
 しかし「なんで慣性質量と引力質量は同じく比例するものなのか?それを説明するのが相対論だ」なんてことを言う人がいるので、困ったなー、で当たり前のことを、それはこういう理由で当たり前なのだ、と説明しなければならなくなっているわけです。
 で、結構そうなるとよいじゃあなくなるんですよね。「測り方が違うんだから比例していなくったってもいいじゃないか?なんで比例するんだ?」なんて捻くれたことにも答を出さなくっちゃ、で。^^
 そしてそういった捻くれた考えに答を言う以外にも、「慣性質量」と「引力質量」はどちらがより本質的なものなのか? というこれは勿論素直な問題への答も出さなくてはならなくなります。
 で、これもここで先にその答をでも言っちゃいますと、
 【慣性質量がより本質としての「質量」であり、引力は慣性質量が持っている、引き合う、というその「性質」である】
 です。
 その説明をここでしよう、ということです。

 さて、ところで、この慣性質量の大きさはどうやって測られるのでしょうか? 市販教科書には下の数式が出ています。
 (*注* ここでは掛け算記号を*にしています。・だとベクトルの内積演算の記号、×だと外積のそれと同じなので、です)

 =m*   ( :運動量  m:質量(慣性質量)  :速度 )

 これは簡単な一次方程式ですから、慣性質量mを求めたければ(計測するには)の値を代入すればいい(m=とすればいい)だけのような気がします。でも、です。この式からはm:質量(慣性質量)を求めることは出来ません。この数式は、算数の一次方程式なだけで、数学の一次方程式にはなっていないからです。
 E=I*R これは言うまでもなくオームの法則ですね。そしてこの数式は数学の一次方程式です。ですから二つの数値が分かればもう一つの値は分かります。しかし=m* ではmの値が分かっていないのにの値が分かっていると云うことは絶対にあり得ないのです。ですからm=は確かめ算で、答が出てからする計算なんです。答を出す計算じゃないんです。
 詰まり、E=I*R は法則式ですが=m*はただの定義式です。mとの値を掛けたら何らかの答が出る。その答をと名付ける、と云うだけのただの計算をしたことの経過を書き出しているだけなんです。
 ですから E=I*R をゴチャゴチャ書き換えれば何かの意味のある物理法則をまた導けることがあるとしても、=m*をゴチャゴチャ書き換えても何も出て来ません。そもそもそれを書き換えると云うことに何の意味も無いんです。m=とすることさえ出来ない数式なんです。
 ついでに。=d/dt (:力 の定義式です(ただし、この定義での「力」に関してもこの教科書(?)では正しい定義だとはしません。(力の大きさを計量している式ではあっても「力とは?」を表現している定義ではない、と云うことです。まだこのことの丁寧な説明はありませんが、【gI−1】図の力のつりあいを見ていただければ、この定義式は、そこでの「力」の大きさは測れるけれど、「力とは?」を表現しているのだとするには無理があるでしょう?)))
 これは微分なんかが表れていますからなんか数学っぽいですけど、の時間変化の答はです、と言っているだけのこれも算数なんです。固定されていない物体に力を与えるとその物体の速度状態が変化します。となれば力の量が分かっていれば慣性質量は分かるじゃないか、ですけれど、それはすでに力の量が上記の数式の定義で測られているからです。勿論その定義式に先立って先ずが定義されていなければならず、そのを定義しているのは、そのまた勿論のm:質量(慣性質量)なんです。算数計算の答を出してそれを力と名付ける、と云うだけの定義式でしかない=d/dt をゴチャゴチャいじくり廻しても、だから質量に関する法則の何も出て来ないんです。(ここは【E=mc2に根拠はありません】の項の蛇足の補足でもあります。)
 ではどうやって m:質量(慣性質量)を求めましょうか?です。

 以下製作中です。


等価原理は存在しない


 左のEQV-1図はいわゆる等価原理の説明のための絵です。A:の状態にあるAさんとB:の状態にあるBさんのそれぞれの力学実験は結果が全く同じになるとゆーことです。その理由はこの絵で十分でしょうからくどくどとは言いませんが、ですから、もしそれぞれの実験室に窓が無くて外が見えないなら、Aさんは自分が加速度系にいると誤解して当然ですし、Bさんが自分は重力系にいるのだと想ってもこれも当然のこととなります。単純な放物運動だけでなく、これは総ての力学的事実で同様になります。同じにならない力学は、たった一つの例外さえもありません。かくして結局、力学実験の答は両者にとって全く同じなので、力学ではどちらの系に自分がいるかを判断することができなくなります。
 とゆーことをちょっとカッコつけて言いますと、「力学の数式は重力(嫌いなんですよね、この重力って言葉は。ここではしょうがない、使いますが)系と加速度系で全く同じく書かれている」であり「力学世界はこの座標変換で不変になる座標変換をする法則を持つ」です。ま、それをあまりカッコづけずに言いますと「よーするに、重力と加速度(による慣性力)は同んなじなんだ」です。これがすなわち「等価原理」です。
 (ちょっと蛇足に。 この等価原理でのパラドックスなるものに加速度運動をしている荷電粒子は光を出すが重力場中にあるそれは光を出さないとかなんとかと云うものがあります。ただこれをパラドックスだと言う人も、パラドックスじゃないと言う人も、両者共に光(電波)を解かっちゃいないであーこー言ってるんですね。実はこれはそのパラドックスなるものそれ自体がアホなんです。荷電粒子(磁気双極子も含めて)は加速度運動をしているだけでは光を出しませんから。乾電池を振ったら光りますか?磁石を振り回したら電波が発射されますか?ですからね。じゃあなんで光るの?なんで電波が発射されるの?ですが、それはマクスウエルを根本的に反省しなくちゃ、になりますから、後で、です。“後とお化けは出たこと無い”ですが、でもお化けは兎も角、「後で」をもうそろそろ出さなくちゃ、なんですが。と・・・))
 この等価原理から当然に(だそうです)重力で空間が歪むとか重力場(世間(?)に合わせて無反省にここでは重力場とゆー言葉を使います)では光は曲がるとゆー現象がおこるんだそーです。
 とゆーわけで、先ずはその話から始めなければ、ですが・・・。
 でもそのアホな話をするのがメンドー臭くなっちゃったのでここでもうこの項での結論を言ってしまいます。
 「重力系と加速度系で同じになる力学実験の答は無い。それにはたった一つの例外さえも無い」です。「えっ?」 従って「力学の数式は重力系と加速度系ではいかなるそれでも同じくは書かれない」であり「力学世界はこの座標変換を座標変換とはしない」です。「えっ??」結局、「等価原理は成立しない。ゆえに、そもそも等価原理などと云う原理それ自体が存在しない」です。「あん???」
 EQV-1図は実は全くの間違いなんです。
 確かに加速度系にいるBさんの投げたボールは放物線を描いて床に落下します。しかし重力系にいるAさんの投げたボールは放物線では床に落下しないからです。詰まり、本当は、右のEQV-2図になるんです。
 Aさんが7.9km/sでボールを投げたとして下さい。このボールの描く軌跡は楕円になりますよね。更にで11.2km/s以上なら、その軌跡は双曲線になります。
 しかし加速度系のBさんの投げたボールは、それが7.9km/sだろうが、11.2km/s以上だろうが、更には10000km/sだろうが、更に更にの更にはで無限大-1km/sだろうが、放物線の軌跡で床に落下するしかないのです。
 重力系でボールに働く力は重心のただ一つの1点からだけです。でも加速度系でボールに働くみかけの力は、そのボールがその時あるその真下の床平面の垂直方向からなんです。そして加速度系の床平面は、平面方向に無限に拡大されているその平面なんです。加速度系で投げられたボールはそれが何処にあっても、常に、その真下の床垂直方向からの力を受け、今在る場所での力の方向線は、過去に在った場所で受けた力の方向線と全て平行で、詰まり全く変わりません。
 この力の方向は、勿論投げられたボールの速度には拠りません。ですから、重力系では、いかなる速度で投げられたボールも放物線にはなりません。加速度系では、どんな速度のボールでも、全部のボールが、放物線にしかなりません。
 重力系と加速度系では、もう幾何学で違うのです。加速で重力系と同じ系にするためには、その系は、点から始まり扇形に無限に広がって行く系にしなくてはならないんです。

さらに、で。質量がゼロの物体は重力に引かれませんからどんなに重力が強いところでもその物体は空中に浮かんでいます。正確に言えば初期の運動状態をそのまま維持している、ですかしらんですが、慣性質量がゼロだとちょっとした力でも大変なスピードでそれは飛んで行きますから、そこら辺で・・・。
 まあ、お化けみたいな物体を考える、ですね。
 このお化け、重力系ですと浮かんだままですが、加速度系だと慣性力に反応しているように見えますから、下に落っこちるんですよね。しかし勿論質量はそうであってもゼロでしかありえません。詰まり、質量に比例した力をそこで受けている、じゃなくて、質量とは無関係に下に落っこちるんです。
 要するに慣性力を重力と等価だとするのは、人が地球を動かすには自分が動けばいいんだ、の小学生のたわごとなんです。即ちそれは力の問題じゃないんです。等価原理は、そもそもで、何の力学的な意味も持っていません。  さてこのことを「お化け」ではなくて「光」で考えてみてください。そうすればこれは誰もが知っている、加速度系で光は曲がる(この図では落下する)の説明そのものですよね? 勿論次に(加速度系と重力系は等価だから)光は重力で曲がる、の結論が出て来るわけですよね。

 で、ここでそのことを図のお化けと見比べてよーく考えてみてください。
 ハイ、何が変なのかはお解りいただけましたよね? そうです、お化けは加速度系では曲がります(落下します)が重力系では曲がりません(落下しません)。
 お化けでは曲がらないのに、光は重力系で曲げてしまっていて、それが自然のありようで無矛盾だとしている矛盾が、すなわち、等価原理=一般相対性理論です。ということです。

 お解かりいただいていると思いますが、光が重力場(嫌な言葉・・)で曲がるということは、等価原理の帰結ではなくて等価原理を成立させるための要件だということです。同じことを順逆で言っているだけだ、ではこれはありません。光が加速度系で曲がって観測されるとしても、それを証拠に重力場で光が曲がることは主張できない、ということですから。光が重力で曲がり、加速度で曲がる。その二つが同時に満たされて(光に関しては)等価原理が成立するんです。
 しかし残念なことに、光は重力場では曲がりません。理由は、ハイ、重力場にいるお化けは加速度運動で落下しないで浮いている、そのことでです。

 等価原理は成立しません。ですから、そもそも等価原理などと云う原理それ自体が存在していません、なのです。


運動と系と観測者


 “風は吹き来たり、潮は流れ去る” この言葉、とっても好きなんですね。 本来の意味は、「北の風」って言ったときには「北から吹いて来る風」であり「南の潮」ならば、それは「南に流れて行く潮」だってことなんですが。 でも「風ってのは此処じゃないところから吹いて来たんだ、水は此処じゃない所に流れて行くんだ」のちょっと文学的な趣きのある言葉でしょう?これは。
 「あらゆる運動は相対である」の命題は(実は私もこの命題からスタートして、運動・空間を解ったような気で知ったかぶってあーだこーだと言ってたことがあるんですが・・・。(^^; )勿論成立しませんよね。でも「あらゆる運動は(みかけなら)相対である」ならどうでしょうか? しかしこれも成立しませんね。何にが何んだか判らなくなっちゃう「光」みたいなものを例にしなくても、実際、空間の中の運動は、“風は吹き来たり、潮は流れ去る”、なんですからね。文学的装飾ではなくて。

 さて例えば、太陽系とか天の川銀河系とかって言った場合と太陽系空間とか天の川銀河系空間と言った場合、それは単なるちょっとしたニュアンスの違いなだけなんでしょうか?あるいはなにかしらの本質的な違いがそこにはあるんでしょうか?
 では、静止系・慣性系・加速度系と言った時と静止系空間・慣性系空間・加速度系空間と言い、また静止空間・慣性空間・加速度空間と言ったなら、ではどうでしょうか?
 更には、「絶対静止系」と「絶対静止空間」でならどうでしょうか?
 用語をそんな風にしてみても、ちょっと文学的な趣きを凝らしただけにしかならないんでしょうか? それともなにかしらの本質的な違いがその用語から浮かび上がって来るんでしょうか?

 多分、太陽系、天の川銀河系を太陽系空間、天の川銀河系空間とかって言い換えた時に感じるものは、CombinationとAreaとの違いくらいのもので、構成している天体に着目しているのか?存在している範囲全体に着目しているのか?といったニュアンスのものですよね? でも静止系・慣性系・加速度系静止系空間・慣性系空間・加速度系空間でなら、本質的な違いがあるんじゃないですか? それは正に、静止空間・慣性空間・加速度空間って在るの?無いの?ですから。
 要するに、一般に慣性系・加速度系だとかなんだとかってアッサリと無反省に言われていますけど、その系の空間は慣性運動・加速度運動をしているの? もし空間もその運動をしているなら、それってどういうこと? でも空間は静止している、なら、その静止って何? をシツコク(?)真面目に考えてみましょう、とゆーことです。
 勿論、いわゆる単純な「質点の力学」なら、このことは全く考えなくてもいいんですね。でも、を考えると、嫌でも考えざるを得なくなります、このことは。空間は静止しているの?運動しているの?を。そう、空間論は、正に、「光って何?」のそのものなんですよね。

 「光って何?」の答は簡単じゃありません。それで、ここでは「光」をブラックボックス(中身がどうなっているのかは知らないがこう入力すればこう出力されると云うことは知っている箱)として扱うことにします。詰まり、光が実際はどんなものであり、そしてどんなメカニズムで空間を伝播しているのか?などは一切考えず、光は存在世界にはこう認識されている、だけで「光とその伝播空間」を云々します、と云うことです。(*蛇足で* 本来「ブラックボックス」って言葉はこういった意味で使われる「技術用語」だったんじゃないかしらん?と思うんですが。詰まり、例えば回路設計なんかでは設計者は回路素子をブラックボックスだとして設計する、とか、或いは、システムの設計ではデバイスのここより下位のアーキテクチャはブラックボックスとして扱い、システム設計者はそれを考慮する必要は無い、とかでの。今時の、なんだか全然解かってないんみたいだけど、スイッチの押し方さえ解かってりゃあいいんだよ、の電化製品の意味で使われていたんじゃないような気がするんですけどねえ・・。私の記憶違いでしょうか・・・)

 「光」をブラックボックスとして扱い「光って何?」を無視する空間論にはしかし限界があります。で、それではどうしても解けない問題もあります(しかしいわゆる相対論は更にで、それは全く解けません。念のため)。で、シラバッくれでそれは済まし、ここでは触れません。アハハ・・・。(^^;

 なお、案外に誤解されているようなので前もって言っておきますが、自分が見ることが出来る光は自分に向かってやってきた光が自分に届いた場合のその光だけです。それ以外の光を見ることは出来ません。
 ですから、自分のいる方向ではない方向に走る光の道筋がしかし光線として見えているのは、その光が途中に在るなにかしらの物質に当たって散乱した(詰まりそこが2次的な光源になって、そこから球面状に広がって行く光が発射されている)、その道筋上で連続して散乱し続けている散乱光を、その光線だとして見ているんですよ、と云うことです。そこに光を散乱する物質がないなら、従って勿論、自分のいる方向ではない方向に走る光の道筋は全く見ることが出来ません

 いわゆる相対論で言う「エーテルの否定」ってのは、「空間は(絶対)静止している」の否定なんですね。
 奇妙な言い方に聞こえるかも知れませんが、ですから、「相対論でのエーテルの否定」は「慣性系・加速度系の空間は慣性運動・加速度運動をしている」の肯定になっているんです。
 詰まり、光の方程式は慣性系・加速度系で同じく書かれている、なわけでしょう? そのことは即ち、慣性系・加速度系の空間が慣性運動・加速度運動をしていなければ、光の方程式は(静止系の空間のそれとは)同じくは書かれない、ってことなんです。そうだからこそ、(絶対)静止系の空間から慣性系・加速度系の空間に光を変換する計算が出来るんです。
 相対論って「エーテルの否定」をしたんじゃなくて、「慣性座標系エーテル」「加速度座標系エーテル」なんて余計なものを更に新作して追加し、それらの座標空間(即ちエーテル)を光は(光速度不変で)走っている、とした「光の伝播理論」なんですよ、なんですね、本当は。
 ま、そのことを言うことがここの項の本旨ではないんですが、相対論の空間論では空間を記述出来ませんよってことのその一つの例題にもなっています、ですね、ここも。

 左の【PS−1】図のように1本の線路上に、「静止している電車」と「慣性運動している電車」そして「加速度運動している電車」があるとします。言うまでも無く、これは(アッサリと無反省で使われている)いわゆる静止系、慣性系、加速度系そのものです。
 この電車の床あたりから真上の天井の鏡に向かって光を発射します。【PS−1】図の上の絵の通りになり、静止系、慣性系、加速度系のそれぞれにいる、静止さん、慣性さん、加速度さんの全部が、まっすぐに上がってまっすぐ下に戻って来る光を見ます。
 この電車の外にいる保線区員は、この図の下の絵のようにそれぞれの系で走る光を見ます(正確に言うと、勿論、保線区員はそこに走る光そのものを見ているのではなくて(例えばその電車内の埃などで散乱された)散乱光によってその光線を見ているわけですが)。
 電車内の慣性さん、加速度さんがそれぞれ認識している光の走る様子と保線区員の認識する光の走り方は違いますよね? でもそれは見る人の場合・状態が違うから見かけ上そう見えるだけのことなんだ、でしょうか?
 というのも、もしこれが光ではなくて何かの物体を投げ上げたのならどうなんでしょうか? があるからですね。 何かの物体を投げたんだとしましょう。その物体の軌跡はこの図の静止系では同じ絵に描かれます。慣性系でも(細かく言えば放物線になりますが、ま、似たような)どれほどには違わない絵になります。でも加速度系では似ても似つかない、全然全く違う絵になってしまいます。ボールは投げ上げられた時のその加速度系の持つ速さを初速度としてもらうだけで、その加速度系が持つ加速度とは無縁にその軌跡を描きますから。
 光では、しかし、加速度系を走る光はその全軌跡で加速度を受けて(いるかのように)走ります。光は物質・物体ではありませんから、このことは即ち、加速度系の空間は加速度運動をしているのだ、とすることになる、と云うことです。(もっとも、加速度運動をしている電車の外からやって来た光はその電車の中をまっすぐに通過しているって保線区員は見る、ってゆう、深刻な問題があるんですが)
 で、“「光は直線(ここでは2点間を通る最短の線)上を走るが、慣性系・加速度系の光は保線区員が見る光の軌跡のように走らなければならない」の要求があるので「静止系・慣性系・加速度系で光の方程式は同じく書かれるように変換される」”となるわけですね。

 電車の中を走る光なら、加速度運動をしている電車の箱で閉じられた空間は電車と同じ加速度運動をしているのだ、として(上記の深刻な問題は無視してですが)その軌跡を説明できなくもないですよね? でも、じゃあ、右の【PS−2】図のように、電車をアッパッパのトロッコにし、天井をヘリコプタにしてそこに鏡を付けてそれで光を反射するようにしたらどうでしょうか? ヘリコプタは勿論、下のトロッコと全く同じ速度状態になるようにトロッコの上を飛んでいる、とします。
 このトロッコに乗っている慣性さん、加速度さんも、電車に乗っていた時と全く変わらない光の軌跡を、同じようにこの場合の光でも見ますよね? そしてこれも勿論ですが、保線区員も電車の時と全く同じように光を見ます。でも、今度は「あれ?」でしょう?
 今度は全部が同じ空間(普通にはそれは静止空間)を共通の空間だとしています。でも何故、そうなのに、慣性運動をしているトロッコ、加速度運動をしているトロッコから発射された光ならそんな軌跡になるんでしょうか?
 慣性運動をしているトロッコから発射された光なら、最初にその光は前方への傾きを持っているんだ、で逃げられるかも知れません。でも加速度運動をしているトロッコから発射された光が持つ傾きは、光が最初に発射された時に持つ傾き以外には途中で持ちようがありませんよね? それなのにでも何故、アッパッパのトロッコから発射され、自由・開放の空間を走っているだけの光も、電車の中の光と同じ軌跡を描いて走るんでしょうか?

 ちなみに、とゆーよりとても大切なことなんですが、【PS−1】図【PS−2】図の静止さん慣性さん加速度さんがそれぞれでそこでの光の速さを測ると、静止さんも慣性さんも加速度さんも、全く同じ速度を光の速さだと計測しますでしょう?(保線区員が測る光の速さは、勿論静止さんが測るそれと同じです。念のため)
 詰まり、光の速さはどんな速度状態にある人が測っても同じ速さをその速さとすると云うことであって、それは光速度不変、ってことじゃないんですよってことです。

 さてところで、相対論の空間論では空間を記述出来ない、は詰まりこの【PS−2】図が説明出来ないからですね。【PS−1】図なら、加速度系では空間は歪んでいるのだ、で説明(誤魔化し?)可能かも知れません(勿論既出上記の深刻な問題は無視してですが)。
 でも【PS−2】図でも【PS−1】図と結果は全く同じなんですよね。だけど【PS−2】図では、空間は歪んでいる、の理屈は(そこの何をどう無視しても)成り立ちませんよね?
 では、どうしましょうか?です。
 オジサンも、ワカ〜ンナ〜〜イ。じゃあこれ、オジサンの冬休みの宿題にして置くね〜〜〜。年が明けるまで待っててね〜〜〜〜。 「オイッ!」 とかわいこぶりっ子で来年の話にして鬼を笑わせ(後とお化けは出たことない)で終わりにしてしまうのが一番簡単なんですが。 「あのなあ・・」

 ♪田舎〜のバスはオンボロ車〜。タイヤ〜はツギだらけ窓は閉まらない〜〜。
 今時とはいえ田舎の電車も上越線(仮名)あたりになると酷いもので、車輪はツギだらけで窓は閉まらない、なんですね。何より扉が開かないんですよ、上越線(仮名)の電車ってのは(!)。客はだからその扉をこじ開けて乗り降りするんですよね。「窓が閉まらないんじゃあ、冬はどうしてるんだい?」なんですが、窓枠に新聞紙を貼ってガムテープでとめとくんですよね。外なんか、だから全く見えませんよ、電車からは。「外を見たい人はじゃあどうしてるんだ?」は、指を濡らしてズブッと新聞紙に穴を開けてそこから外を覗き見るんです。(*JR東日本からの注* (仮名)とあるので弊社路線の上越線(実名)の電車のことではないと想いますが、上越線(実名)の電車はそーゆー電車ではありません。ちゃんとした世間並みの電車です。確かに冬季は扉が自動では開きませんが、それは車内温度を保つためです。誤解があるといけませんので、念のため)
 ま、そーゆー上越線(仮名)の電車なんですから、運転席にも速度計なんてありゃしません。「ではどうやって電車の運転手は電車の速度を知るんだい?」は平行してある道路を走っている車の速度で自分の電車の速度を知るんですね。詰まり、時速0kmの車が止まって見えたら自分は時速0km、40kmの車が止まって見えれば自分は時速40km、時速80kmのそれが止まって見えるなら自分は時速80kmだ、とするわけです。
 しかし意地の悪い自動車の運転手も中にはいるもんで、時速40kmや80kmで走りながらも、「おーい、電車あ。オレは時速0kmだぞー」なんて大声で言ったりするんですよね。電車の運転手はそれを真に受けますから、自分が時速40kmや80kmで走っているにもかかわらず、その時には自分の時速は0kmであり、自分からは静止して見える時速40kmや80kmで走っている車もその時速は0kmだってしちゃうんですよね。
    ↑ とゆーことは、です。
 詰まるところ、この電車は止まっていようが時速40kmや80kmで走っていようが、しかしいつも時速は0kmだってことなんです。 即ち、慣性運動は運動をしていない、いかなる速さで動いている慣性運動も、常に静止しているでしかない、なんです。
    ↑ 更にで、とゆーことは、です。
 慣性系の【系】って、Worldじゃないんですね。いえSpaceでさえもない、【System】なんですよね。
 詰まりお互いに時速が0kmだと認識しあう物体は同じ慣性System内にあり、その物体全部の総称が、その当該【慣性系】だってことなんです。(*注* 「0kmだと認識しあう物体は・・・」の部分はちょっと不正確ですが、そのことはこの項の加速度系の説明辺りが補足・訂正になっています)
 勿論、どの「慣性系」も、それ自身はそれ自身を【静止系】だとしかしません。
 このことの図示が左の【PS−3】図です。この図はちょっとゴチャゴチャしていますけど、慣性系ってのは【空間】じゃなくて同じ速度で運動している物体の【集合】なんだってことです。ですから物体が他の慣性系が存在している場所にあろうと、遥か彼方に遠く離れていようと、同じ速度で運動している物体ならば全て同一の「慣性系」に存在しているってことなんです。詰まり、【系】は、World、Spaceではない、【System】なんだってことなんです。
 ただ注意してください、は、その「慣性系」の全部の物体が同じ「慣性系」にあるのはその慣性系自身に対してだけなんですよ、のそのことです。詰まり別の慣性系にいる観測者(即ち「静止系」の観測者)は、対象になる「慣性系」のその内の特別な一部だけを、ある速度で慣性運動をしている「慣性系」だとしかしませんよ、ってことなんです。

 で、またの繰り返しになりますが、いかなる速さで動いている慣性運動系も、その運動をしている系自身は、その系自身に対して、常に静止しているのだから、その系内だけで測られる光の速さは全ての速さの慣性運動系で同じ速さにしかならないってことなんです。慣性運動系は運動している系ではなくて静止している系だからです、その系がどれほどの速い速度の系であっても。
 要するに、光の速さはどんな速度状態にある人が測っても同じ速さをその速さとすると云うことであって、それは光速度不変、ってことじゃないなんです。
 慣性系は「空間」ではなくてお互いが静止していると認識しあっている物体で構成されている「集合」です。その静止している物体間を慣性系の光は走るんです。一つの慣性系内だけで光の走行が完結されているなら、その光は、慣性系の空間を走っているんじゃないんです。静止している物体間を走っているんです(上の上越線(仮名)の電車と自動車の例で言えば、その両者間でやりとりされている光は(静止している)電車と(静止している)自動車を結ぶ直線上を走っているのであり、(静止している)線路・道路に対して(慣性運動をしている)空間(=慣性座標系)を走っているんじゃないってことです)。
 即ち、空間にエーテルは存在していない、なんですからね。
 詰まり、あらゆる慣性系で同じ形の方程式になるように光の方程式は変換される、なんて変換を、慣性系を走る光は要求していないんです。静止しているんです、どの慣性系も。だから変換は必要ないんです。なにより、しちゃいけないんです、変換は。変換しなくていいのに変換するから、時間・空間が可笑しな時間・空間になっちゃうんです。

 天動説はいつ地動説に取って代わられたのか?は、ローマ帝国が滅亡したのはいつか?みたいな問いですね。西暦何年にそれを決定づける象徴的な事件があった、はあるのかも知れませんが、普通世間的には、いつの間にか何となく世の中がそうなっていた、だけなんですよね。
 でもニュートンの時代の頃になると、少なくとも知識人たちには地動説は疑いようも無い真実になっていたわけで。
 それで、「絶対静止空間は、在るの?無いの?」の問題が起こりました。
 地球が宇宙の中心で絶対静止しているなら、地球の上下・東西南北がそのままで唯ひとつの宇宙の上下・東西南北です。だからその上下・東西南北を座標軸にして決定されている宇宙の全座標も、勿論絶対静止しています。ですから天動説では絶対静止空間の概念なんかは、そもそもで必要なかったんです。
 しかし地球は動いているのだ、となると話は別です。で、宇宙には、絶対静止空間は在るのか?無いのか?の問題が発生するわけです。
 詰まり、何の何が何であれ、とにかく宇宙のどこかに原点を置き、そこから直交する3本の座標軸を引いて、それで表される座標上にあるのだとして全部の天体とその運動を記述できます。絶対静止空間の原点がどこにあり、座標軸がどっちを向いていようと、また(絶対静止と言ってはいても)その原点が動いていようと座標軸が回転していようとかまいませんここが大切なとこ)。その座標空間で全部の天体とその運動が記述できる、その絶対静止空間は実在するか? です。
 言ってしまえば、しかし、その絶対静止空間は、在っても邪魔にはならないけど無くても全く困らない、のその空間なんですが。 でも、ま、それが在るのか無いのかを考えるのは、頭の遊びにはなりますかも?で。
 さて、この絶対静止空間と、いわゆるエーテル、そして絶対静止系というものとが、よく混同されて使われていますが、この3者はそれぞれで違います。絶対静止空間とは、すぐ上で説明している通りのそれです。光の伝播空間のための空間ではありません。

 絶対静止空間が実在かただの仮想か、の答を出せるのは神様だけです。しかし観測者は、自分は絶対静止空間の中心座標に位置しているとして、全ての運動を記述しています。【PS−1】図【PS−2】図の静止さん慣性さん加速度さん保線区員も、皆がそれぞれに、自分は絶対静止空間の中心座標に位置しているのだとして、全ての運動を記述していると云うことです。(このことに納得が行かない人は別ページ・別項の光を見る人のいる場所を参照してください)

 【PS−3】図はちょっとゴチャゴチャしているのでその内の静止系【A:】と静止系【B:】だけを抜き出して、静止系【A:】の観測者から静止系【B:】を見たものが右の【PS−4】図です。
 静止系【A:】の観測者は自分は絶対静止空間の中心座標上にいて、そこからx、y、z、の3本の座標軸が無限遠にまで引かれているのだとして全空間の運動を記述します。 今静止系【B:】がt1からt2に時速40kmで移動したとします。
 この時、「B4」に限って見れば、同じくt1からt2の位置に移ったわけですが、静止系【A:】の観測者はそれを慣性運動だとは見ません。彼が「B4」が慣性運動をしていると見るためには「B4」はt2の時には「B4´」の位置にいなければならないからです。なぜなら、それがt1の時にいた「B4」と【A:】の観測者とを結んでいた直線の延長上の位置だからです。しかしその直線上ではない直線の上に「B4」はt2の時に存在しています。それで【A:】の観測者は「B4」は加速度運動(方向の)をしているのだと認識します。このことは「B2」、「B3」でも同じです。
 t1の時に【A:】の観測者と結んでいた直線上にそのままいるのは「B1」だけですから、結局【A:】の観測者はその「B1」だけが慣性運動をしているのだとしか認識しない、となります。
 静止系【B:】の系自身はその系自身の内部の位置関係(各物体間の距離と方向)をt1とt2で変えていませんからやはり同じく静止系【B:】のままです。でもそうではあっても【A:】の観測者から見れば、系【B:】は、全く何の慣性系にもなっていない、「これ何?」だけのそれなんです。
 (このことを極端に厳密に適用しますと、慣性系だけでなく慣性運動をしている物体さえも存在しない、になります。静止系【A:】の観測者は、自分と物体とを結ぶ直線上を等速運動する物体しか慣性運動をしているとしかしないのですから、その一直線と同じ幅(詰まり数学定義の「線」)である物体しか慣性運動ができなくなりますので)
 勿論このことは、静止系【B:】の観測者やその他の系の観測者が、自分が存在している系以外の系を見る場合も、全く同様のことです。そのことはお解かりでしょうが、念のため。

 さて、観測者は絶対静止空間の中心座標にいると云うことと、観測者は自分の静止系をその通りの系だとするが、他の静止系をそのまま通りの系とはしない、と云うことから、次の結論になります。詰まり、
 認識世界に系として存在する系は、静止系が在るだけであり、慣性系・加速度系なる系は存在しない。
 観測者は自分が存在する系を静止系として、それだけが認識世界に唯ひとつあるだけの系だとする。他の系が他の系自身を静止系だとしていようが、しかし観測者はそれを慣性系・加速度系だとは記述しない
 の、そのことが、です。
 要するに、慣性系・加速度系なんて系はどこにも存在していないんです。だから、その系では光の方程式はこうなる、なんてことのある筈も無いんです。存在しない系なんですから、慣性系・加速度系は。(*注* しかしこの言い方はやはり乱暴だなあ、なので蛇足の補足をしておきます。言うまでも無く、これらが全てでイコールになるのは観測者の(光で情報を取っている)認識空間でのそれです。力学空間でもそのまま無条件で全部イコールになるとしているのではありません。(静止衛星は止まっているから落ちて来ない(地上にやって来ない)んだ、は観測者の認識空間での話です。静止衛星は動いているから落ちて来ないんだ、が勿論力学の空間での話です)出来る限りこのこれはキチンと使い分けようと思っていますが、見落としがあるかも知れません。前もってで、その際はごめんなさい)
 ところで ↑ の注記の逆は、しかしとても大切なことです。詰まり、力学で決定される運動・位置の関係は、そのままの無条件では光が認識される空間とはイコールになりません、ってそのことです。だから静止衛星は静止して見えるんです。

 静止系以外に運動系はないんです。繰り返しになりますが、だから静止系でしか適用されない方程式で、しかし光の方程式は良いんです。無いんですから、慣性系も加速度系も。
 なにより、「光の方程式は静止系・慣性系・加速度系で同じく書かれている」の命題はそもそもで、その真偽以前の無意味な命題なんです。【系】は【集合】なんです。【空間】じゃないんです。ですからその【系】のために書かれている光の方程式なんて、無いんです。全く、全然、何処にも。

 左の【PS−5】図を見てください。この図は異なった速度にある物体の衝突による加速度運動を図示をしたものです。一番上の赤の枠内の図は、普通に加速度の説明としてよく見かけるものですよね?
 というよりこの見方でしか物体の衝突による加速度運動を考えていないんですよね、ホント。でもです。
 要するに、そこにある物体の速度は「常に静止している観測者(既出上掲図の電車の例で言えば保線区員)」が測っている速度なんですよね。またそこでの作用と反作用も静止している観測者がそう認識する作用と反作用の関係だけなんです。
 でももし時速100kmで走っている人が件の物体の衝突を見たら、真ん中の茶色の枠内のように衝突前と衝突後の物体の速度を観測します。作用するのは上とは逆でBの青色の物体であり、Aが反作用をしているのだ、となります。
 更にで、最下段青枠のように、その観測者が時速50kmでずっと走り続け、衝突の瞬間に時速80kmで走って、以後そのままの速度で走り続けたら、衝突前と衝突後の物体を青枠内のように観測するんですね。AとBとの力学的な作用・反作用は、その力学事件では微動だにしない【壁B】とその壁にあたって跳ね返っている【物体A】として認識されているんですよね。
 観測者から見れば、加速度運動も観測者それぞれで違った速度状態になっていますし、力の作用・反作用も異なっています。 勿論異なった速度状態にある物体の衝突による加速度運動なので、AとBは衝突の際には必ず力を認識します。しかしその力を加速度運動をしていることによる力だとするのは、観測者のインテレクチャルな【解析】であり、【観測】ではないのです。最下段青枠の観測者がする【観測】は、「全時間で静止している『B』に『A』が時速50kmで近づき一瞬『B』と『A』が同じ位置になり、その瞬間に両者は力を感じ、その一瞬後からは『A』は静止しているままの『B』から時速−5kmで遠ざかって行っている」だけです。それは即ち最上段赤枠だ、はインテレクチャルな【解析】で、観測者のする【観測】ではありません。
 さて最下段青枠のこの観測者は、普通には物体Bに乗っている観測者です。詰まり、この観測者は、絶対静止空間にいる観測者なんです。加速度運動をしていても、その加速度運動をしている観測者は、やっぱり静止しているでしかないと云うことです。

 【PS−5】図の最下段の青枠の、観測者が加速度運動をしている物体に乗っている場合を、もう少し一般的にしたものが右の【PS−6】図です。
 時間によってはお互い同志の距離と方向が変化しない複数の物体で構成されている一組の集合があるとします。この集合が(絶対的な意味で)どんな速度状態を持っていようが、その集合内の物体の位置はその集合では全く変わらないのですから、この集合はその集合自身にとっては静止している【静止系】です。この静止系に「α」と云う名前を付けます。
 さて、この静止系「α」を構成している物体全部が静止系Aから見ると(静止系B、静止系Cから見ても、ですが取り合えず(?)静止系Aから、とします)時間の経過と共にその速さ(速度ではありません、念のため)がある規則性を持って変化しているように観測されるとします。もし他の沢山の物体もその速さが同じような規則性を持って変化しているように観測されるなら、(インテレクチャルな観測者なら)観測者は自分が加速度運動をしているのだと認識しますが、その一組の物体たちに限ってその規則性が観測されるので、(非知能的な(?)観測者でも)それらの物体はある種の加速度運動系(観測者とその物体を結ぶ直線上を走る物体以外は方向を変えていると観測されることは加速度運動をしている物体でも同じですから無条件では加速度系だとは言えません)だと認識します。
  ↑ このことが即ち、【PS−6】図最下段の赤破線枠の(ここでは毎度でおなじみの)保線区員の観測ですね。(*注* 勿論、保線区員のオジサンはインテレクチャルではない非知能的な人だと言っているのではありません。いわゆる観測者の代表例として登場してもらっているだけです。保線区員のオジサンに誤解されて「テメエ、このやろう」とブン殴られたりされないために、念のため)
 ちなみに。【PS−6】図 B:の静止系「α」の茶色の四角に+や−の電荷、或いはSNの磁気双極子を貼り付けて見てください。静止系「α」自身は元より、保線区員にとっても、それだけではそこからは何の光(電波)も発射されてはいない、はお解かりいただけますよね? 詰まり、荷電粒子(磁気双極子も含めて)は加速度運動をしているだけでは光を出しません、と云うことです。
 さてある時刻(t=0)で静止系αが静止系Aとその速度状態が全く同じだとします。【PS−6】図 A:の一番左の状態ですね。この時、静止系αは静止系Aと全く同じ静止系になっています。(系は空間ではなくて集合ですから、勿論、絵のようにαとAがくっついている必要は全くありません。αが静止系B,Cにくっついていても、どこか大変な遠くに離れていても、αの速度状態がAと同じなら、αとAは同じ静止系に存在しています)。ここでαが浮気心と言うか物好きと言うかで、別の時刻(t=t1)には静止系Bの速度状態に移ったとします。そうなると今度は、静止系αは静止系Bと同じ静止系に存在している、となります。更にαはスケベ根性(?)を出して時刻(t=t2)ではその速度状態を静止系Cのそれにしたら、その際ではαとCが同じ静止系に在る、となります。
 詰まり、系「α」はその存在する系を時間毎に変えてはいるけれど、いつも静止系にいる、なんですね。「α」は加速度系αではなくて静止系αなんだ、と云う、その所以です。ですから、この図の下のB:のように、その時刻でその時の「α」で投げられたボールは、その時に「α」が存在していた静止系では、その系の準構成員としてその系では観測されます。 しかしながら、勿論、静止系「α」でそのボールを見るとB:の一番右のように観測されますが、それはボールが「α」の系には存在していない(「α」のありようとは全く無関係に、勝手に(?)加速度運動をしている)からです。そのボールの見かけの加速度運動は正に「α」の系が加速度運動をしていることのそれそのものなのだ、は、しかしインテレクチャルな【解析】であり、【観測】ではありません。要するに、「観測者」ってのは、非知能的であるどころか、ただの無判断の「写真家」で、見たまま通りを記述しているだけなんですよね。(*注* でも、写真家は変にヒューマニストなんかを気取らずに徹底して単なる「目」であれ、なんですよね、私は。だから、「お前は写真家を非知能的以下の単なる記述者だと言っているのか!」と叱られても、前言訂正はしません)
 即ち、静止系αは、【PS−6】図 B:の右端の通りであるだけです。その系αの観測者は、自分は絶対静止空間の中心座標にいるとして全ての運動をやはり記述しているだけなのです。ですから、αの観測者から見て、その方向と距離を変えない物体を、自分と同じく「絶対静止」しているとしてαの観測者は記述するのです。
 よーするに、上で例にしている上越線(仮名)の電車が、0→80kmまで加速するとき、その電車と平行して走る自動車が同じく0→80kmに加速しているなら、電車と自動車はお互いを静止していると認識し、その静止している電車と自動車を結ぶ直線上を光は走るのであって加速度運動をしている空間(=加速度座標系)を走っているんじゃありません、てことです。詰まり、(慣性系)の電車と自動車の間を走る光と、でも加速度系のそれも同じことで、やっぱり静止系でしかないんです。

 空間には(座標も含めて)どんな意味でのエーテルも無いんですから、光にとっては空間は存在していないことと同じなんです。
 光を走らせるための座標なんて空間には無いんです。慣性系・加速度系は勿論、静止系も、その意味の座標を持っているんじゃありません。空間に在るのは、座標じゃなくて、距離と方向なんです。慣性座標系・加速度座標系は言うに及ばず、そもそも座標系なんてものは、どこにも存在していないんです。座標は計算の便利のためにとして、計算のために使っている、計算だけに表れている、ただの便宜上の仮想です。ですから、慣性運動をしている座標、加速度運動をしている座標、なんて、光で情報を取っている認識世界だけではなく、存在世界でさえでも、そのどこにも実在していません
 「距離と方向が在るなら座標があると云うことだ」ですか?でも、いいえ、です。何故なら、空間には原点が無いからです。
 在る原点は、観測者だけです。だから全ての観測者が、絶対静止空間の中心に存在しているんです。
 空間は、それが空間であると云う以外には何の性質も持っていない、ただの「入れ物」でしかない、のそれだけなんです。その中に存在を存在させている、と云う以外の何の関係も存在とは持っていないんです。それが詰まりは、空間にはエーテルは存在しない、と云うことです。

 上越線(仮名)の電車と、平行して走る自動車が全く同じ加速度運動をしているなら、電車と自動車を結ぶ直線上を光は走るのそのことは、加速度運動をしているトロッコからまっすぐに上に発射された光は、その上空でそのトロッコと同じ速度状態を持って加速度運動をしている鏡があれば、それに当たって、今度はまっすぐに下に戻って来る、と云うことと同じです。
 さて、その加速度運動をしているトロッコの光を保線区員が見れば、【PS−2】図 のように見るのは当たり前だ、になるのかも?ですが、実は「当たり前だ」じゃないんです。と言うより、そう見ていることが当たり前であっては困るんです。何故なら、【PS−2】図 の保線区員が見ている光線(光の軌跡)は、光の道筋じゃないからなんです。
 観測者が見ている光は、自分のいる方向に向かってやって来た光だけなんです。それ以外の光は、観測者は全く見ていないんです。
 左の【PS−7】図 は【PS−2】図の加速度運動をしているトロッコと観測者だけを抜いたものですが、【PS−7】図 では正確に実際の光の軌跡と観測者の見る光を描き込んでいます。
 この絵で、もし神様が世を忍ぶ仮の姿として保線区員を装っているのなら、その保線区員はまっすぐ上に上がってまっすぐ下に下りて来ているだけの光の、その直線なだけの軌跡が、時間によって進行方向に平行移動しながら、自分から遠ざかって行くのを見ます。この絵の横倒しになった放物線をあべこべにくっつけたような無様(?)な緑の曲線を、光の軌跡だとは決してしません。詰まり、光はこの絵の緑の曲線上を走ってなんか全くいないんです。
 しかしただの人の子の通常の保線区員は、この絵の緑の曲線を、光の軌跡だとします。その線上を光が走っているなんてことはないにもかかわらず、で。ですから、トロッコの光を、しかし保線区員がそう見ていることが、「当たり前だ」であっては困るんです。
 要するにです、観測者が光線だとして見ている、自分の方向に来る以外の光は、全て元の光がそこにある不透過物に当たって散乱した2次光なんですよってことなんです。その2次光源の位置を、実は、光の軌跡だとして観測者は、勘違いで、見ているだけなんですよってことだけなんです。ただ、勘違いをする観測者ってのは、「記述をしている『観測者』」じゃなくて「解析をしている(アホな)『学者』」だってことですね。いわゆる、観測者、じゃないってことです。観測者、即ち非知能的以下の単なる記述者は、「その緑の線は発光している線であり、その発光している線から光がやって来ている」と正しく記述しているだけであって、「光はその線上を走っている」、なんて誤った記述はしていないんです。・・・。学者さんて、詰まりは、非知能的以下の単なる記述者より更に下の頭でしかないんだって・・・、そーゆーことなんでしょうかねえ・・・。
 【PS−7】図の通りです。光は緑の曲線を走っているんじゃありません。黒の直線を走っているんです。加速度から見ても、静止から見ても、光の軌跡は全く同一の直線であるだけです。

 さてこのことは、慣性運動をしているトロッコの場合でも同じです。
 慣性運動のトロッコから上に発射された光は、その慣性運動による前方への傾きを最初に持っているんじゃありません。まっすぐ上にあがってまっすぐ下に下りて来ているだけです。3角の稜線みたいな線は、やはり2次光源の位置であり、光の軌跡ではありません。
 ↑ このことで別ページ・別項の「思考実験」にある光時計をちょっと補足して置きます。【PS−2】図の慣性運動のトロッコとその光って、光時計そのものですからね。
 それが右の【PS−8】図です。
 で、この絵を見て、それでしかし、ハイ、それまで。オシマイ、です。
 光はUFOと同じ速度でUFOの進行方向に平行移動する直線上を走っているのです。三角山の尾根を走っているのではありません。もし保線区員が世を忍ぶ神様なら、平行移動する直線上を走る光でUFOの時間を測りますから、勿論その時間は自分の光時計の時間と同じです。しかしただの人の子である保線区員も、三角山の尾根は光の軌跡ではなくて発光している線だと観測します。そのことから、UFOの(神様ではない保線区員は見ることが出来ない)見えない光時計の時間をインテレクチャルに解析すれば、アホな学者ではない保線区員は、UFOの光時計の時間は自分の光時計の時間と同じだとする結論しか持ちません。
 光速度不変は無関係です。光速度が不変であろうとなかろうと、光時計は遅れません。保線区員が持っている光時計も、UFOが積んでいる光時計も、全く同じ時刻を刻みます。保線区員が光時計で測る1秒は、UFOで測られているのと全く同じ長さの1秒です。
 (でも、光速度不変でもとにかく一つだけは遅れない時計がある、ってことになると、相対論はそれをどう言い訳するのかな? だけどその遅れない時計ってのは、実は「光時計」なんだ、なんだから、これは人類笑い話史上最高傑作の笑い話ですよね、ホント)

 光は放り投げられた物体ではなくて、【波】、なんです。そしてその波は、伝播する空間にその媒質を存在させていない波なんです。ですから、速度ベクトルの合成でその波の進行方向が傾く、なんてことはないんです


 回っているメリーゴーランドの中心にいる観測者は、風景を見れば自分が回転していると云うことを納得します。仮に風景のすべてが、メリーゴーランドの角速度と同じ速さでメリーゴーランドの中心に対して回転していたとしても、観測者が振り子を振らせれば(擬似的フーコーの振り子ですね)、回転しているのは自分だ、と確認できます。目を閉じても、乗り物酔いをしやすい人なら、目が回って気分が悪くなり、回転している自分を認識します(ちなみに。乗り物酔いをする人って三半規管が敏感(運動神経が鋭い)な人じゃなくてそれが鈍感(運動神経が鈍い)な人なんだそうですね)。乗り物酔いをしない人は更にで、自分の回転を感じます。 詰まり、どうであれ、回転している(方向を変えている)観測者は、回転している(方向を変えている)のは自分であって他者ではない、と認識せざるを得ません。 そうなんですが・・・。
 しかしながら、それらの「観測者が、回転している(方向を変えている)のは自分である」との認識は、全て「解析」であって「観測」ではありません。「力の認識も解析であって観測じゃないって言うつもりかい?」でしょうが、力は(それを直接に観測する)観測者にとっては、全て「圧力として観測される量」であって運動ではないんです。ですからその力の観測から「自分は回転している」とするのは解析であって観測じゃないんです。
 メリーゴーランドの中心にいる観測者がそのメリーゴーランドの円盤上の全部の木馬を見れば(最近のそれは色々と凝った動きをしているようですけど、そのそれらは無視して)、その全部の木馬は止まっていると観測します。
 この、自分の(絶対的な意味での)回転の角速度と同じ角速度で、その回転の中心を自分として回転している他者を止まっていると観測すると云うことは、自分が観測する自分自身は絶対静止しかしていないとする、と云うことです。
 詰まり、回転系にいる観測者も、速さだけの加速度系の観測者と同じく、やはり絶対静止空間の中心座標にいるのです。


 下の【PS−9】図は回転系とそこにいる観測者の観測を(メリーゴーランドのような特別なものではなくて)一般的なそれにしたものです。
 なんかテンデンバラバラでそれぞれが勝手な動き方をしているだけのようにしか思えない一群の物体を、コペルニクスさんと言う名の観測者が見ています。それが【PS−9】図の上の図の【地動説の空間】ですね。でもこのコペルニクスさんはあのゆーめーなコペルニクスとは全く別人の、保線区員のただのオジサンです(ひょっとしてしかし、銀河鉄道999の線路を維持している保線区員かも知れませんが)。ですから、この1群の物体の動きを見ても「地球は回っている!」なんて叫んだりはしません。さりとてこれら1群の物体の動きの観測者なので、とにかく見た通りをそのままに記述します。その記述結果が、勿論、この絵そのものです。
 自由空間で回転可能な物体には、その回転の軸が3本あります。この絵では物体[E]のそれをNp,Ve,Ssとして表しています(*注* Npはともかく、Ve,Ssの名には必然はありません。念のため)。このNp,Ve,Ssはそれぞれがそれぞれに直交している座標軸のようなものですが、コペルニクスさんはそれを座標軸とは記述せず、回転している物体[E]の回転軸だと記述します。Npを中心軸として割と速い角速度で回転している[E]なんですが、Ve,Ssを中心軸とした回転は非常に緩慢なので、この[E]はNpを中心軸として自転だけをしている、としましょう。
 (*メチャの蛇足* 自由空間で回転可能な物体には直交する回転軸が3本あっても、回転している地球がひっくり返らないのは、Np軸(普通にいわゆる自転軸)がVe,Ss軸の回転によって傾いた時に、それを起こそうとする力が地球の外から(公転軌道面方向から)働くからです。これは傾いて回っているコマの回転とは違うんですが(コマは地面で回っていますから自由空間で回転している物体ではありません)似たようなものです。興味が有る方は「歳差」って?を、地学の先生に聞いてください(要するに、公転軌道面に対して傾いている地球の自転軸をその面に垂直にしようとしているのが歳差(と章動)ではなくて、地球をひっくり返そうとする回転に対して、起き上がらせようとしているのが歳差(と章動)だと云うことです)なお、3本の回転軸が直交している、は回転を解析する時にとりあえずでそうだとして扱わないとググッチくなってしょうがないから、とゆーことで、3本の回転軸が空間的に1点で(例えば重心みたいな場所で)直交していることは、普通には、特異なことです))
 さてこの[E]には、(何故か斜めに傾いて)プトレマイオスくんと言う子供が乗っていますが、この【地動説の空間】では彼は観測者ではありません。この【地動説の空間】の観測者はコペルニクスさんだけです。
 Np軸廻りの、[E]の角速度・[E]と[B]と[P]を結ぶ直線の角速度・プトレマイオスくんの角速度は全く同じです。しかし[E]と[P]との距離は時間に連れて広がります。[M]の角速度はそもそもで[E]の角速度とは異なっています。それでコペルニクスさんは、[E]と[B]と[P]を結ぶ直線は常に同じ直線1本だけが回転し、[M]は、回転している同じ直線1本上にいるのではなくて、回転している別の直線にいつも次々と移っている、と記述します。更に勿論、[E]とそれらの近くの物体の殆ど総てと、それとはまた別にで[J]が、コペルニクスさんが静止しているとしている物体《S》の廻りを回転しているとも記述します。 勿論、【地動説】そのものです。(言うまでもありませんが[J]の動きを周天円で説明するのはメチャクチャで無理ですよね、いくらなんでもそれは)
 さてこのことを、しかし、プトレマイオスくんを観測者として、その見た通りを記述してもらうと、ではプトレマイオスくんはどう記述するでしょうか? その記述が即ち、下の【PS−10】図です。
 プトレマイオスくんはここでの観測者なので自分を絶対静止空間の中心座標に置き、そこからX,Y,Zの3本の座標軸を宇宙の果てまで伸ばし、その座標上の位置として全ての物体の運動を記述します。X,Y,Zをどう引くかは全くプトレマイオスくんの勝手なんですが、自分の頭上垂直方向をZ軸だとすると斜めになったままでいなくてすむので(?)その方向をZ軸にします。Z軸を決めればそれと直角になる平面上にX軸,Y軸を置くわけですが、その平面の高さを自分の目線の高さにするのが、ま、普通ですし、プトレマイオスくんはとても素直なよい子なので、ヒネクレずにそうします。その平面上のどこにX軸を置くか?は適当に決め、それと直交してY軸を描けば、それだけでプトレマイオスくんは全部の宇宙の物体の位置を決められます。で、それで勿論記述すると云うことになります。
 そしてこのプトレマイオスくんの観測が【PS−10】の絵、天動説の空間であり、即ち勿論、地球上でなされている、天体観測そのものです。
 詰まり、観測は今でも地球では天動説で記述して、それをインテリジェント(インテレクチャルの方がふさわしいかな、やっぱり?)に地動説に翻訳(?)しているんですよ、です。
 しかし観測者が認識する光は、その(観測者が作る絶対静止空間、即ち天動説の)空間を走っているんです。ですから図で、プトレマイオスくんが慣性運動をしていると観測する物体は、[P]のようにプトレマイオスくんとの方向を変えない、同一直線上にい続ける物体しかありません。その物体の内で更にプトレマイオスくんとの距離を変えない[B](静止衛星)は、プトレマイオスくんと同じく絶対静止をしているんです。プトレマイオスくんと[B]との間を走る光は、お互いにその絶対静止をしている同士を結ぶ直線上を走っているのであって、回転している空間を走っているんじゃありません、ってことなんです。
 プトレマイオスくんが見ることが出来る光(観測する光)は、プトレマイオスくんを中心にして放射状に広がっている(絶対静止の)直線上を走る光だけです。ただ、これはプトレマイオスくんに届いた時にその線上にあればいい、と云うことですが、普通には光がそこで光学的に曲がる理由が無いので、光はその全行程でその一つの線上を走ります。だから、いつの時間に発光された光でもその走る直線が全く同じ一つの直線でしかない静止衛星は、静止して見えるんです。
 (ちなみに。[M],[J]からの光は発光する時間時間でその走る直線を変えます。だから[M],[J]は(非慣性的に)動いて見えるってことですね。言うまでもありませんが念のため。(でももしプトレマイオスくんが視線を時間時間で[M],[J]がいる直線上に変えて行くなら(仮にそうしたとしても、プトレマイオスくんの視線はプトレマイオスくんにとっては静止しているので、絶対静止の直線です)、プトレマイオスくんと[M],[J]は全時間で同じ直線を共有しますから(この場合をコペルニクスさんから見ると、ただ一本だけの両者を結ぶ直線が回転([J]では非整形で)している、と観測されます))[M],[J]はそのプトレマイオスくんには静止している物体(距離が変わるなら、遠ざかるか近づくかだけの(慣性・加速度)直線運動をしている物体)だとして観測されます))

 【観測者は全宇宙を天動説で観測している。その天動説の宇宙を、観測者が観測する光は走る】のそれだと云うことです。

 ただ、しかし、そして。この【PS−9】図と【PS−10】図をぼんやりと眺めていれば、認識空間であろうと力学空間であろうと、空間には座標なんて無いんだってことが、やはりぼんやりとご納得いただけますよね? 各それぞれの物体同士に、距離と方向があるだけなんだってことの、詰まりはそれを?
 「自転はしかし、空間に対する回転だ」ですか? しかし、いいえ、です。鉄アレイが自転している姿をご想像下さい。幾何的な大きさがとにかくでもあるなら、自転はある部分と他の部分との方向の変化であって空間に対しての方向の変化ではありません、力学空間でも。自転しているそれが「点」なら?ですか?。う〜ん、どっかの量子論(勿論非相対論のそれ)の教科書に載っていませんかね?その答は? ま、そのことは、ハイ、知りません。アハハ (^^;
 ちなみに。 かくして即ち真空とは、参照している二つの物体の間にはいかなる物体も存在していないと云うことであって、そこに‘真空なる空間’なるものが存在しているってことではありません、と云うことです。

 その空間を決定しているのはその空間自身(即ち座標)ではなくて物体相互間の距離と方向だ、ってことは即ち、空間は物体のただの入れ物であるだけであり、それ以外の何の物理的実体は持っていないってことなんですね。ですからここでも、物理的実体が無い存在が、「運動している系」として在るなどということは無く、ましてやそこに、伸びるも縮むも曲がるも在ることは無い、です。空間はどの観測者に対しても静止し、伸びもせず縮みもせず、ただ真っ直ぐであるだけだ、だけです。それが、空間にはエーテルは存在しないってことのそのことなんです。

 以上のことは、光の速度の計測値はどのような速度状態の系にいる計測者も同じ値をその計測値とする、と云う結論になると云うことのそのことでもあります。(光速度不変、とかとゆーことじゃないんですよ、と云うことでもこれはあります。お解かりでしょうが、念のため)
 光源と観測者を直線で結びます。その光源と観測者を両端とするその線分が同じ線分である限り、その上を光は走ります。それは光速度不変じゃありませんが、その線分がどう運動していようと、その線分上で計る光速度の計測量は不変になります。
 この線分は1本だけがあるのでは勿論ありません。無数の線分が在り、それぞれ勝手に運動し、しかしその線分上を走る光はその線分を静止している線分だとして走ります。
 静止衛星が作れるのは地球だけじゃありません。金星にも火星にも作れます。月にも静止子衛星が作れ、その衛星、その子衛星に更に、静止子衛星静止孫衛星が作れます(しかしこの子・孫静止衛星はコンピュータコントロールで年中ロケットを噴射して軌道を維持しなければなりませんが)。それらはそこで常にそこにいる観測者には、静止していると観測されます。

 空間は単なる入れ物なだけです。それ以外の何んの意味も持ってはいません。ですから、空間には座標が在りません。
 時間はそもそもで存在しません。ですから、無い座標と無い時間を統合した「時空」は完全な虚構です。即ち「時空」なるものは存在しません。全然、全く、どこの何処にも。