メビウスの輪は有名なものですので誰でも作れると思いますから、左の絵のようなものを自分で作ってください。もちろんこれは裏表のない曲面ですね。
さて、さらにこれをテープの右端・左端だけでなく、折り紙の上端・下端も同時に反転させて糊でくっつけると、これがクラインの壷になります。しかしいかに手先が器用でもこの折り紙工作はできません。「余の辞書に不可能は無い」とか言って折ったりたたんだりをあれこれやっても、これは絶対に不可能です。そう、この工作は四次元空間でやらなければならない、だからです。でもここで問題が惹起します。「じゃあ、でも、本当にクラインの壷は四次元空間でなら作れるのか? 作れることのその証明が三次元下の幾何学で可能なのか? その証明なくして、では何んでクラインの壷がどうのこうのなどと言えるのか?」の問題がです。う〜ん、と。・・・。
まあクラインの壷はともかくとして、メビウスの輪に裏表が無いのは、しかしそれだけならどうってことのないもので、大したナゾナゾにはなりません。「端っこの表と裏を反転させて糊でくっつけたんだから、表と裏が一緒になってしまうのは当たり前だ」だからです。ですがこの輪の真ん中を縦に鋏でグルッと切って行ってみましょう。結果は「あれ?」となる筈です。
「どうしてこんな風に切れる(実は、切れない、なんですが)んだろう?」とちょっとここで考えてみて下さい。でも解からなくてもいいです。 この、何故切れないか? の答えは、すぐ下にありますから。しかし、種明かしを先に教えてから手品をやって見せたのでは、勿論全く面白くありません。ですから、出来れば、この実験をやった後で、以下に進んで欲しいんですが。
さてクラインの壷を無理矢理作ろうとしても、すぐにビリッと紙は破けてオシマイです。しかし「絶対に作れない」と言われると「何が何でも作りたい」は人情です。では、と、不可能を可能にするところの、これはお得意の形而上学で作りましょう、と。
クラインの壷を折り紙で作るのは諦めます。折り紙の替わりに左図のような十字形のテープを用意し、これで右図のように交差しているメビウスの輪を作ります。それからその絵にあるように、辺を全部貼り合わせれば、クラインの壷は完成します。メデタシ、メデタシ。
しかしこの工作は絶対に形而上学技術でやってください。幾何学技術でやっては絶対にいけません。何故なら、幾何学技術で作ろうとすると、すぐにこのテープもビリッと破れてしまいますから。破らないためには勿論テープをドンドン伸ばして行けば良いだけなんですが、宇宙の果てまで伸ばしたくらいでは全く長さが足りません。宇宙の直径をゼロとして、そのゼロに対しての無限大の長さが、この工作には必要になるのです。詰まり、三次元下でする四次元の工作とはそうゆうことなんです。
でも神戸大学にはコンピュータグラフィックスで四次元図形を描いているって先生がいましたけどね。その先生曰く「人間の顔を四次元で描くと目が三つになってしまう。無重力空間は人間にとっては四次元なんだから、宇宙船の中では子供を産んではいけない」と。あはは。でもこれが、科学雑誌のトップ・ページを飾るスター・プロフェッサーなんですよね。あははは。
ただこの交差したメビウスの輪をクラインの壷の断面図(*注*この言い方はちょっと正しくありません。ですから、これは「曲立体と4次元空間」の項(しかし今現在はこの項はありません。そのうちには創りますが、非ユークリッド幾何学と複素数を反省しなければならなくなりますから、その教科書参考書を再入手した後のことになります。で今は、何時とは言えません)でちゃんと訂正します)だとすると、クラインの壷は内と外の区別が無い曲がった立体だとゆうことがなんとなく解かったような気がしますよね?
ところでクラインの壷の全体を描いた、これがクラインの壷だってゆー絵を世の中で良く見かけますし、それをクラインの壷だと得々として紹介している人もまた沢山いますよね。でも当然に、その絵を描いている人も見ている人も、それが描かれている紙の全面の全座標点に、4本の直交する直線(そのそれぞれが残りの3本の直線に直交しているところの、4本の直線、を全座標点が引いている)を見ているんですよね。でもそんな能力のある人が、3次元世界にいるなんて、とても思えないんですけどね。
何故メビウスの輪に縦に鋏を入れたのでは、この輪を輪切りには出来なかったんでしょうか?ただ端っこをひっくり返しただけの輪なのに?です。
ではその答えです。メビウスの輪の上下の辺だけに着目して下さい。その辺を抜き出したのが左の図です。上の辺が下に回り、下の辺が上に回っているのが解かりますよね?その辺と辺の間を右の図の点線にそって鋏が切って行くのです。下手な絵ですけど、この二つの絵を見れば解かりますよね。そうです。鋏は切断して行ったのではなく、切り開いて行ったのです。それで、切れなかったんです。
さてところで、この鋏は切って行くときに上の刃が下に回り下の刃が上に回って行くことは解かりますよね。詰まりこの点線は曲線だと云うだけでなく、捩れているのです。また、鋏は当然に表と裏を同時に切りますから、この点線はその各部分(点)に裏表があります。しかしその裏表はメビウスの輪と同じく「裏表の無い裏表」で繋がっています。(単純な輪を輪切りにする線の、その裏表は、繋がっていません)この点線は、メビウスの輪の辺を抜き出して作った左上の図の曲線の極限値なる図形になっています。ですから切って開いた時の点線は1本だけで、その長さは表+裏の1周分です。(単純な輪を輪切りにする線は、切って離すと、2本です。その長さは表(裏)だけの1周分です。詰まり、1本の線では面は切断出来ないんです。面を切断するためには、2本の線が必要なんです。(この理由は「アキレスと亀」の項を参照して下さい))それで、切れないんです。
クラインの壷だと称して左の図(k−1)のような変な壷が世にはたくさん流通していますね。でもそのクラインの壷って、左の壷も当然に、実は本物とは似ても似つかない全くのインチキ、完全にデタラメなクラインの壷なんです。
先ずは、で、クラインの壷を三次元以下で描くことはできません。出来ないのに描かれているんですから、それはインチキでデタラメなクラインの壷だと云うのは当たり前です。でもそういうと、四次元で描いたクラインの壷を三次元に投影したものだから、数学センスの高い人はこの3次元の壷を頭の中で4次元に復元できるのだ、とかと、まるでこれがクラインの壷に見えないのはお前がバカだからだ、と言わんばかりの説明がなされます。いわく、「映画のスクリーンの2次元空間を3次元に頭の中で復元しているだろう、それと同じことが、3次元に投影された4次元を頭のいい奴は4次元として見る事が出来るのだ」とかなんとかの云々かんぬん、で。
となれば、ハイ童話の「裸の王様」、バカだと言われたくない人は全員、これがクラインの壷だとして、分かった分かったと言う事になります。
ではちょっとここでも次元論から、と。
さて、しかし映画のスクリーンの絵を3次元に復元出来るのは3次元人がそのスクリーンから離れて見ているからです。スクリーン上にいる2次元人は、その映画を3次元には全く復元できません。
そもそもで実は2次元人は面としてそのスクリーンを見られないんです。【面】は2次元人にとっては【奥行き】なんです。面から離れて面を見る事が出来ないからです。
詰まり、不透明な線がそのスクリーンにあるなら、2次元人はそこから先を見ることは出来ません。
その先にどんな線や点があろうと、その線や点を見ることはできません。それは、ま、奥行きとして想像は出来ますが、3次元人が見ているスクリーンの面を想像なんて出来やしません。
3次元人にとっての立体空間は、即ちスクリーン上にいる2次元人の面です。詰まり、【立体】は3次元人にとっては【奥行き】です。ですから、不透明な面があれば、そこで奥行きはオシマイ、それより先その立体がどうなっているのか?を知ることは出来ません。4次元図形を3次元に投影したって、3次元人は、どれ程の数学的センスがあろうと、それを4次元図形に復元できません。
まあ、そもそもで3次元空間に仮想でも4次元図形を入れることは、無限大の体積以上の体積が必要なんですけどね。
ところで、なんで「k−1」のようなインチキ・デタラメなクラインの壷が出来たのか?ですが、それは、右上の「k−2」の図の折り紙から作ったからです。左の折り紙の矢印を合わせて先ず右のチューブを作り、それをなんかまことしやかにああするこうすると捻って行ったら「k−1」が出来る、で、作ったんですね。
しかしながら「k−2」の図のチューブではどうねじってもひねくっても、クラインの壷は絶対に出来ません。それは、そのチューブが、実は外側しかないチューブだからです。ですから、それで作った壷(?)がどんな形をしていても、それは外側しかないタダの壷(実際はねじれているだけの底の抜けた瓶)なんです。このことは「k−3」に図解してあります。
ですから、「k−4」(風船のつもりです ^^ )の図のような外側と内側のある風船のようなものから始めなければクラインの壷はつくれませんよ、と云うことです。
この風船の内側を半ねじりして外側とくっつけるとクラインの壷が出来ると云うことです。ただし絶対に風船を破ったりそれに穴を開けたりしてはいけません。その瞬間に内側は外側になってしまいますからね。破らず穴を開けずで内側と外側をくっつけるんです。勿論、3次元空間でそれをすることなど、もう形而上学を使ってもできません。
チューブからクラインの壷を作るなら、「k−5」の図のように、それはメビウスの輪を縦方向に引き伸ばしたチューブで作るんです。
しかしそれは、一番最初に掲げた折り紙で作るんだ、と云うことだということはお解かりですよね?
勿論、4次元でしかその工作はできません、は、すでに述べてあるとおりです。
これがクラインの壷だと、似ても似つかぬインチキ底抜けチューブを流通させても、宗教的ご利益があると言って売りさばいているわけじゃありませんけど、しかしまあ、いかがなものか、です。
しかしこの真っ赤な嘘のインチキ壷を世に流通させているのは、当の全数学者なんだということで・・・。
( * 注 * しかし、そもそもで、3次元世界は実は内側しかない世界です。
外側、がどこにも存在していないんです。ですから、クラインの壷が作れない、ということになるんです)
面に投影された図形を(面である)図形として見るためには、面の外に出なければなりません。面の外から面を見なければ面としては見えない、と云うことです。
ところで面の外に出ると云うことは、ここで例として揚げている映画のスクリーンならば、そのスクリーンから出て壁に移ると云うことではありません。スクリーンの中から飛び出して観客席に移ると云うことです。
詰まり、スクリーンから壁に移動したのでは同一の面の内部の別の(区画された)領域に移っただけです。その領域から見るスクリーンは、スクリーンの端である辺(線)だけです。面、即ちスクリーン全体、は見えません。
X,Yの二つの座標しかない場所からX,Y,Zの三つの座標のある場所に移らなければ『面は見えません、見えるのは線だけです』よ、と云うことです。
X,Y方向にズレても駄目で、Z方向にジャンプしなければならないんです。ですから、2次元の住人でしかない2次元人はそこにある立体の投影図を投影図だとして見ることができないんです。
ところで、もしこの2次元人がわれわれ3次元人程度の知性を持っているなら、自分の実際に見ている線(即ち実観測にかかっている線)から様々な情報を引き出して面として知覚することは出来るでしょう。しかしそれを彼は3次元図形の投影図だと認識することは(即ち厚さを復元することは)絶対に出来ません。彼は曲線を知ることはできます。しかし曲面を知ることは不可能だからです。曲面は厚さを持つ面(即ち立体の表面)ですからね。曲がった面(Z座標を持つ面)は、どうやっても彼が存在として知ることができないものになります。詰まり彼の世界には、平面しか存在しないんですよって云うことです。
立体に投影された4次元図形を投影図として見る、と云うことは、立体の外に出てその投影図を見る、と云うことです。
立体の外に出ると云うことは、即ち、X,Y,Zの三つの座標しかない場所からW座標のある場所に飛び出ると云うことです。その立体を部分として持つ立体の別の領域にズレて移ると云うことではありません。
念のために言って置きますが、このW座標はX,Y,Zの三つの座標から独立していると云うだけでは足りず、X,Y,Zの三つの座標に垂直であると云うことでなければならない、です、勿論。
ところで、ある立体を見るためには立体の外に飛び出る必要がありますが、普通に人間は、飛び出なくても、単に横にズレるだけで立体の全体像を見ていますね。しかしそれは言うまでも無く、脳が面だけの情報から、しかし様々の復元情報を作り出して脳内で立体を作って脳内で見ているからです。
しかし人間の脳が出来ることはそこまでです。脳内でも、誰一人として、人間はW座標を持ってはいないからです。
2次元人は彼が存在するスクリーン面を曲線でしか見られず、面全体を俯瞰できません。詰まり彼が見る曲がった2次元とは曲線(誤解されている言い方での曲がった1次元)であり、曲面ではありません。
同じく、3次元にある何物も、自分が存在している立体内部を、曲面でしか見られず、立体全体を俯瞰できません。詰まり3次元にある何物かが認識する曲がった3次元とは、曲面(誤解されている言い方での曲がった2次元)であり、曲立体ではありません。
このことは、曲がった空間(W座標を持つ空間)なんて、広い宇宙のしかしどこにも、3次元人が観測されるものとして存在していることはありませんよ、と云うことでもあります。お解りでしょうが念のため。
要するに、観測によって証明されている「曲がった空間」は、全部がデタラメな観測によるインチキな証明です。当然に、ブラックホールなんて宇宙のどこにも見えません。
どこにも見えないと云うことは「見えないけれどここにある」と云うことなら言える、と云うことではありません。
どこにも「ここにある」が言える場所はない、と云うことです。
点は位置が有って大きさが無い。線は長さが有って幅が無い。面は広さが有って高さが無い。立体は高さが有って『?』が無い。
これが点・線・面・立体の定義ですよね。(*注* 最後の立体の定義で、『?』が無い、としてあるのは、立体は高さが有る、だけの言い切りでは「有る、無い」の揃いが悪くて文章として美しくない、とゆうだけの理由です。意味はありません。深く考えないで下さい)
さて、当然のこととして「点=0次元、線=1次元、面=2次元、立体=3次元」だとしていますからこれをそのまま次元の定義としています。とゆうことで、です。
高次元は低次元をその内部に含みますから「線=1次元」は位置を持っています。「面=2次元」は位置と長さを持っています。「立体=3次元」は位置と長さと広さを持っています。詰まり、すべての幾何学図形と次元は位置を持っています。それは勿論何の疑いも無く前提とされる当たり前のことです。しかし、です。
位置って何だ?なんです。
直線は勿論、曲線も、更にはメビウスの輪の辺を抜き出して作った捩れた曲線も、すべて幅が有りませんから勿論「線=1次元」です。この「線=1次元」と云うものはしかし一体どう云うものなのか?を、観測によって実証的に確かめてみましょう。
1次元としてしか世界を認識出来ない1次元人に左の図のような三種類の「線=1次元」の上を歩いてもらい、どう認識したかの、その観測結果を報告してもらうことにします。ちなみに、私たちは誰も、一人の例外も無く、3次元としてしか世界を認識出来ない3次元人です、勿論。
Case:1は端っこがある直線(線分)です。右側の端点(歩いて来た方)は問題ではありませんので、ここでは省略してあります。
Case:2は陸上競技の400mトラックのような曲線だと思ってください。
Case:3はメビウスの輪から辺を抜き出したその曲線です。
この3っつの線上を1次元人は前に向かってテクテクと歩いて行きます。その時、彼はどんなものだとその線(つまり彼の世界)を認識するか?です。
予想される彼の認識は右の図のようなものだと誰もがするでしょう。
Case:1の場合は彼は端点を通過しますが、そこから先はもう線がありませんから、「キャー、助けてー」と叫びながら線上から転落してしまいます。彼は、したがって「空間(彼の1次元世界)は切れていた」とその観測結果を報告します。
Case:2の場合は曲がっている線の通りに向きを変え、結局元いた場所にぐるっと回って帰ります。ですから、この彼は「空間(彼の1次元世界)は曲がっていた」とその観測結果を報告します。
Case:3の場合は、彼の歩く線は捻れた曲線ですから、彼の体の軸そのものが捻れて、途中では逆立ちをするハメになります。かくして彼は「空間(彼の1次元世界)は捻れ曲がっていた」とその観測結果を報告することになります。
この「切れている」「曲がっている」「捻れている」は彼の経験(観測)によるものなので、絶対の事実にもとづく何の疑いも無い真実だとして受け入れられます。私たちの3次元世界でブラック・ホールや重力での空間の曲がりや歪みが観測によって証明されたとするのも、勿論、この1次元人の彼の1次元空間の観測報告そのものです。全く同じものです。
でもです。「あれっ?その1次元人の1次元空間の観測報告ってやつ、ちょっとおかしいんじゃないの?」なのです。
この報告者は1次元人です。1次元の世界しか認識できないんです。で、Case:2の場合を考えてみましょう。この線が曲がっているのは、その線が面の上に曲がって描かれているとゆうことです。線分は線の上に描けますが、曲線は線の上には描けません。「曲線の上になら曲がった線分も描ける」と強弁しても、そもそも、その曲がった線分を描いたその曲線は二次元の図形だ、と云うことなんです。
Case:2の観測で彼が自分の歩いている線が曲がっていると認識出来たなら、彼は1次元人ではなくて2次元を認識出来る2次元人だったと云うことになってしまい、この観測の大前提が壊れてしまいます。すなわち、1次元人がする「空間(彼の1次元世界)が曲がっていると観測された」と云う観測結果の報告は絶対にあり得ない観測結果を報告したのであり、当然に彼のその報告は全くの虚偽としかならないと云うことなのです。
Case:3の場合では更に、その観測ができる彼は3次元人だと云うことが言えなければならない、はですから直ぐにお解かりいただけるでしょう。
実は、Case:1の場合でも彼が1次元人よりも高次元人でなければ、そうだったとは報告できないのです。何故ならこの場合でも、彼は、線の外に出ることが出来たからです。
結局、彼の観測事実の報告は、彼は1次元人なんですから、左の図のようなものでなければならないんですね。
端のある直線ではそこで前方に進めなくなりますが、その先がどうなっているのか、その先に何があるのかを知ることは出来ません。もしそれが出来るのなら、勿論彼は2次元人なんですから。詰まり、そこに、壁があります。その壁が行き止まり、そこが宇宙の果て、です。彼の観測報告は「見えない壁に突き当たった」です。
陸上トラック形曲線では、曲がって進んだと認識はしませんが、いつのまにか元いた地点に帰って来てしまいました。彼の観測報告は、「前にまっすぐしか進んでいないんだけど、元いた場所に帰っていた」です。
メビウスの輪形捻れ曲線での観測報告も陸上トラック形曲線のそれと全く同じです。勿論捻れていることなんか、彼が観測できようはずもないんです。
1,2,3のどの場合でも、詰まり空間が直線でも曲線でも捻れていても、彼の観測には「空間はまっすぐだ」の結果しか現れては来ないのです。お解かりですか?「ブラック・ホールが発見された」だの「これが曲がった空間を撮影した観測写真だ」などと云うアホな科学ニュースを、昨日も今日もそして明日も世間に流している、アホなジャーナリストの皆さん?
しかし、なのです。ところが更に、でもです、なのです。
この空間論にも、大変な誤りがありました。
実は私はシュワルツシルト時空なんてアホな空間論は以上の空間論とその空間にある物差もその空間の通りに曲がっているから、まっすぐだとしか絶対に測れないで否定すれば良い(その頃はこれで正しいと思っていましたから)とずっとしていました。しかしそうではありませんでした。この空間論も全くのアホでした。また、物差云々の計測論も必要ではなかったんです。ただその理屈のアホさ余計さに最初に気が付いたのはその空間論・計測論を主張していた当の私自身ですから、他人から「そんな理屈も、アホ!」と言われる前にここで訂正して白ばくれてしまえる、とゆうわけです。(あ〜良かった・・・、馬鹿にされる前に気が付いて・・・。ホッ・・・)
詰まりは、「位置って何だ?」なのです。
”点は位置が有って大きさが無い” この「点の定義」での「位置」は勿論「座標」です。ですからこの定義は図形としての点の定義であって0次元の定義ではないのです。
「次元」は全体である「世界」です。全体である世界は、座標としての位置がなければ存在し得ないなどと云うことはありません。「座標」は或る存在がその次元の内部で存在し得るための位置です。「世界」の内部に「世界」によって作られるものが座標です。「世界」の外にあってその世界をある所に位置させるものではありません。
0次元の定義は「いかなる意味の大きさも有していない世界」です。数学的に言えば0次元とは、縦・横・高さが全体にも存在していない、即ち「点状世界」のことである、です。
0次元の世界では、0が即ち無限大です。無限大とは0のことです。ですから、全体としての点が一つだけ描けますが、それは全体であり、位置を持ちません。詰まり、0次元には、図形の点(大きさは無いが位置がある)は一つも描けません。それが0次元です。
1次元を、位置を座標だとすると、しかし「線状世界」だと定義することが出来なくなります。線の定義は(線は当然に点を内包していますから)「位置と長さが有って幅が無い」です。しかしながらこの定義では曲線や捻れ線も勿論立派な「線」ですが、曲線と捻れ線の位置を表す座標は2次元、3次元の座標です。
したがって1次元の定義は「縦だけがある世界」です。この世界は、一本の直線が全体です。座標はその線上に打たれた点図形です。しかし1次元世界、即ち一本の直線が全体である世界、のその一本の直線は長さが無限大です。何故なら、もしこの世界がその全体だとする直線が有限なら、その両端は点です。その直線は点と点との間の「線分」だと云うことになります。したがって、その外部の世界の座標によって指定される位置だと云うことになるからです。よってその内部の点は全て外部世界の座標になります。詰まり線分は、線分の外部の世界の単なる図形です。「世界」にはなり得ません。世界たる1次元のその全体なる直線の長さは、だから無限大なのです。
1次元世界の中では線分が任意数描けますがそれを表す座標は全て両端にあるだけですから、その位置を表しているものは点です(端と云う意味での点で、いわゆる点である必要はありません。理由は「アキレスと亀」を参照して下さい)。位置としての線は描けないのです。詰まり、1次元には、線で表されている位置はありません。
2次元では、1次元で言っている点が線に、線が面に置き換わります。勿論、2次元の定義は、「面状世界」ではなくて「縦と横のある世界」です。2次元は一つだけある無限平面が全体である世界です。そして2次元上で位置を表すものは「面分」です。「面分」と云う言葉があるのかどうかは知りませんが、「線分」からの比喩で、面の端は全て線(これもスーパー線です。「アキレスと亀」の項の点と線から比喩して下さい)であり、面ではない、と云うことです。詰まり、2次元での位置は、点ではなくて線です。しかし、面ではありません。
以上のことから、3次元世界では、2次元で言っている線が面に、面が立体に、面分が「立体分」に置き換わっていると云うことはおわかりですよね。ここでも勿論、3次元の定義は、「立体状世界」ではなくて「縦と横と高さのある世界」です。3次元は一つだけある「無限まっすぐ立体」が全体である世界です。また同じく、3次元上で位置を表すものは「立体分」です。「立体分」と云う言葉は、勿論「線分・面分」からの比喩で、立体の端は全て面(勿論これもスーパー面です)であり、立体ではない、と云うことです。詰まり、3次元での位置は、点でも線でもなくて面です。しかし、立体ではありません。
こうして図形の定義と次元の定義を峻別し、図形を(図形の端=境界)が点なら線分、線なら面分、面なら立体分とすると、「位置って何だ?」の答が出ます。
位置とは即ち、座標ではなくて、「形と場所」、です。空間の中で描画された図形そのものです。線なら点で、面なら線で、立体なら面で、境界したところの「区画」の表現です。
そんなことはない、と言われるかも知れませんね。「我々の暮らす3次元にはこんなにも、面ではなくて立体で位置を指定している、その立体があるではないか!」ですから。でも、いいえ、です。
いま現在目の前にある沢山の立体は、その境界は全て「面」です。面が区画(位置指定)しているのです。立体が立体を区画しているのではありません。もし「境界が立体になっている立体がこの目の前に事実としてある」とあなたが言い張るなら、そうならしかしその立体は、クラインの壷のような曲立体です。メビウスの輪の項で説明している通り、それは4次元下でしか存在出来ない図形(立体でなければ区画出来ない直立体も同じ)です。3次元世界で暮らしているあなたの目の前に、立体が区画している立体があることはありません、絶対に。あなたがどんなに「事実としてそれがある」と言い張ろうとも。
3次元では表面と裏面の両面が描けますが、2次元では表面しか描けません。面で区画された図形は2次元にはありません。同じく、3次元では、内側しか無い立体しか描けないのです。立体で区画された立体は3次元下にはありません。
次元の定義を書き換え、位置を指定するものを点だけとはしないで、線や面に拡張しましたので、ついでに、図形の定義もここでちょっとだけ変えて置きましょう。
点の定義は”場所があって形が虚無”です。
線の定義は”場所があって形が長さ”です。なお曲線・捻線(*1)は2または3次元下の線です。
面の定義は”場所があって形が広さ”です。また曲面は3次元下の面です。詰まり、曲面は3次元です。これは広く誤解されていることなのですが、3次元立体の表面も(それが曲面なら(実は平面でも、です。詰まり3次元下では点でさえも(要するに全ての幾何学図形は)3次元です、ってことですね))、実は2次元ではなくて3次元なんですよ、と云うことです。曲面を表すためには、x座標y座標だけでは足りず、z座標も絶対に必要でしょう?
立体は ”場所があって形が塊り”です。そして曲立体は4次元下の立体です。(蛇足で。従って当然に ↑ と同じく、4次元立体の曲表面曲立体(ぐぐっちい言い方ですみません)は3次元ではなくて4次元のそれです。4次元立体の曲表面である曲立体を表すには、x座標y座標z座標だけでは足りず、え〜と、ま、ナントカ座標(なんだろな〜、でも・・・)がもうひとつ必要になります。3次元世界を4次元世界の表面だとすることは出来ません、とゆーことですね)
位置とは、或る世界の中で或る図形を描いたときの、その描かれた図形そのものだ、と云うことです。(この定義、と云うより概念、はもう少し精確に詰めたいと思っていますが、そうするには更に代数幾何(座標、座標軸、数、連続など)の反省が必要になるような気がしてますから、それは当分先のことで、今現在はここまでです)
(*1)線の捻れは線の軸が回転する方向と変化量が絡んできますので、テンソル(この「方向」はベクトルではありません。念のため)が更に必要になりますが、「方向」は図形であって次元の上位・同位の概念ではありません。ですからここでは気にしないで下さい。ただ、線が捻れていると云うことは、その線が直線でも、3次元下でなければありえないと云うことは理解していて下さい。
さて、では、です。1次元人は1次元世界をどう認識するか?即ち、1次元人は1次元空間をどう観測するか? です。
その答が左の図になります。
(くどいようですが、3次元人は3次元空間をどう観測するか?の答もこれと全く同じものです)
Case:1
1次元人は直線の端を端だとすることが出来ません。端は点です。1次元世界での点は必ずその右左両方に直線があります。もし点の右側だけに直線があり、左側には直線が無い(詰まりそこで切れている)なら、その直線は、先述のとおり、1次元を表している直線ではなくて、より高次元下に描かれている直線図形でしかないからです。
かくして1次元人は、2次元人が直線の終わりだとする直線の端点を存在として認識し得ず、その端を越えて、前に進み続けることしかしません。彼のこのCase:1での観測結果の報告は「空間は、どこまでも、切れていることなく、まっすぐだ」です。
Case:2
1次元人は直線上しか歩けず、曲がることが出来ません。もし彼がある点で曲がることが出来るなら、その点でy座標を見たことになります。しかし1次元人が「y座標を見た」と言うなら、彼は彼の歩く直線が、最低でも平面上に描かれている直線だと云うことを認識出来ていたことになります。詰まり、そうなら、彼は、1次元上しか歩けない1次元人ではなくて、単に平面上をまっすぐに歩いていた2次元人なのだ、と云うことになってしまいます。
かくして1次元人は、2次元人が曲線だとするその曲がりを存在として認識し得ず、方向を変えることなく、まっすぐ前に進み続けることしかしません。彼のこのCase:2での観測結果の報告は「空間は、どこまでも、曲がっていることなく、まっすぐだ」です。
Case:3
この場合でメビウスの輪形の線に入って行ってその線の上を歩けるのは、1次元人でも2次元人でもなく、3次元にある直線の上をまっすぐに歩いていたと云うだけの、3次元人なのだ、と云うことは、勿論直ぐにお解かりいただけることと思います。
かくして1次元人は、3次元人が捻れた曲線だとするその曲がりと捻れを存在として認識し得ず、方向も体軸も変えることなく、まっすぐ前に進み続けることしかしません。彼のこのCase:3での観測結果の報告は「空間は、どこまでも、曲がっていることも捻れていることもなく、まっすぐだ」です。
以上の観測結果の報告は3次元人が3次元空間での観測を報告した場合でも勿論全く同じです。3次元空間に端(宇宙の果て)があろうと、切れていようと、曲がっていようと、捻れていようと、3次元人はそもそもその部分を存在として認識することが出来ないのです。
3次元人が空間の観測結果だとするそれは「空間は、どこも真直ぐであり、どこまで行ってもその先がある」だけなのです。空間が真直ぐだと云う以外の観測は絶対に出来ません。(これも蛇足ですが。3次元立体の表面も(それが曲面なら(平面でも、ですが))、実は2次元ではなくて3次元なんですよ、はご納得いただいていますよね? そーなんですから、2次元人は立体の表面上には存在出来ません、なんです。(z座標が無ければ存在不可能な曲面上に、表現形にもDNA(?)にもz座標を持っていない2次元人は、そもそもで、存在出来ない、とゆーことですね))
ここでちょっと誤解の無いように、で付け加えますが、メビウスの輪形の線上を歩いている3次元人はその線に拘束されてその線上を歩いているのではありません。線の曲がりに拘束され、曲がってしか運動できない物体ならば、しかし、その物体はその線の曲がりに拘束されずに自由に運動できなければならないからです。だから、その物体は曲がって進むことが出来るんです。
3次元世界では、点も線も面も立体もすべてが3次元です。0次元の点・1次元の線・2次元の面なんてものは3次元世界には存在しません。また、立体は曲がれません。4次元世界では、点も線も面も立体もすべてが4次元です。0次元の点・1次元の線・2次元の面・3次元の立体なんてものは4次元世界には存在しません。しかし立体は曲がれますから、3次元的には空間は曲がると見ることも出来るかも?ですが、それをその世界で観測している人間は、当然に4次元人(!)です。
お解りいただけていますでしょうが、2次元曲面なんてものは存在しません。2次元を厚さが無い次元としてはいけない、ということです。「高さが無い」と云うことは「厚さが無い」と云うことなのだ、の世間通用の2次元は、2次元じゃありません。それは、実は、3次元なんです。
平面も、3次元下で描けば、どの平面も3次元平面なだけで、2次元平面ではありません。 逆に言えば、面が2次元なら、その面はその外部を持っていないということです。 2次元世界の面には、その面しかないんです。その外にさえでもで。外がそもそもで存在しないんです。 2次元世界の外には3次元世界は存在しません。だから、その2次元面は絶対に曲がることはできません。同じく、3次元世界の外には4次元世界は存在しません。ですから、その3次元空間(立体)は曲がることができません、絶対に。
ということなので、もし、「3次元世界は4次元世界の表面なのだ」と云うことであるならば、しかしそもそもで、その4次元世界の表面の正にその3次元世界に、3次元世界は決して存在することが出来ない、と云うことです。
表面って、実は、表面じゃないんですね。例はなんでもかまわないんですが、たとえばコーヒーカップの表面を見てください。その全表面でそのコーヒーカップの形は作られていますけど、その表面からあなたの目までは3次元空間が、最小でも、存在しているでしょう? 詰まり、そのコーヒーカップの表面は、その全体の3次元空間の内部の面なんです。表面で境界して、コーヒーカップを作っている物体だけが3次元立体、表面は(誤解されている言い方での)2次元曲面、その外は、(でも、え〜と、なんだろな〜〜 ??? )ナントカのカントカ次元立体だってすることは出来ないんですね。コーヒーカップも表面もその外も、全部1個の3次元立体の《部分》なだけなんです。
なぜこの世界は3次元世界なのだ? と云う問題を見かけることがありますが、その答は、私たちが3次元人だからだ、と云うことなだけです。もしこの世界の、内でも外でも、とにかくどこかに非3次元世界があるなら、私たちはその次元人でしかありえません。宇宙が4次元5次元で描かれているなら、私たちは4次元5次元の人間です。目の前のすべての点・線・面が4次元5次元の点・線・面です。
でも、それでもお解かりい。ただけませんよね? こうまで懇切丁寧に空間論をやって見せても。数学者の皆さん、物理学者の皆さん、そして何よりも誰よりもの天文学者の皆さんは? だからあなたがたを、バカだコケだって言っているんです。
でもそのバカだコケだは言うかも知れません。「この項の基礎論は形而上学だ。数学でも物理学でもましてや天文学でなどありはしない」と。
でもこの形而上学は、全能の神の自由意思さえ拘束するところの、その基礎論です。数学や物理学やましてや天文学くんだりが、これに反することなどは出来ない、その基礎論です。
良く言えばアクロバチック、悪く言えばシッチャカメッチャカなレトリックで黒いカラスも白いとしてしまう言葉遊びは、ま、文学でのジョークにならよくあることですが。でも、強権でヤクザの親分がそう子分に言わせるってのは、勿論いただけませんよね。ましてや、なんらかの力関係で上にある者がそれを下にある者にそれをそう言わせるってのは、権力犯罪そのもので。でも、その権力犯罪が、組織の秩序・正義とされている世間も極めて多くて・・・。とゆーより、そればっかりの世間みたいで・・・、かな? 。。。。
純粋に言葉遊びとして「白馬非馬論」を楽しむのは、しかし勿論罪の無い「揚げ足取りジョーク」の一つですよね。
いわゆる矛盾てのは、命題の否定で、その矛盾が起こればその命題は廃棄されるしかありません。
しかし矛盾を指摘されても、しかしその命題を廃棄することが出来ない場合もあります。その場合に、その矛盾を「パラドックス」と呼ぶことになりますよね。この有名なものは、ご存知「アキレスと亀」ですね。
「それはパラドックスじゃない」ってだから、色んな人がそのことについて言うんですが、それをパラドックスとはしないためにその人たちが提示するものが、実は、結局のところは、その人たちはそのパラドックスがパラドックスたる所以の「命題と論理の関係」を全く解っていないってことを言っているだけなんですよね。「アキレスと亀」は解決済みだってことを言う人たちの哲学の素養、とゆーよりメタフィジック論理学(?)の素養は、なので、恐ろしく貧困で、なんかそういった話をするのが嫌になるだけの相手でしかなくて、ですかね、私は。
「アキレスと亀」はでも実際の世界とは関係の無い話だってばそーですから、知らんぷりでもいいことですけど。
これもしかし有名な、「双子のパラドックス」みたいなものになると、知らんぷりで済ますにはもう手遅れで。だって世間に言っちゃってたんですよね、世間を信用させてちゃったんですよね、「ロケットの兄は地球の弟より若い。それは実験・観測で証明されている」って。そのことで「猿の惑星」みたいなSFが数多く作られていて。
でも、「双子のパラドックス」はそーゆーパラドックスじゃないんだってことが世間の常識になって。更に、弟もロケットに乗せて逆方向に飛行させて兄弟を再会させると?、なんて風に世間通用の双子のパラドックスも改良(?)されていて。となってしまって。
それで、メチャクチャな詭弁を弄して今ある目の前のロジックの危機を回避しようとする相対論ばっかりになってしまっているのが今のその現状なんですけど。
「時間の遅れ?そんなことは現実の生活レベルでは無関係だよ。考えなくても良いことだ」、で済ませて、タブーにして置けばよかったんですけどね。半可通の変なSFで世間を感心させようなんてスケベ根性は出さないで。(ちなみに。世では「人工衛星の時計は地上の時計に対して時間がズレる。その値はこれこれである」なんてまことしやかに言われていますけど、地上の時計ったっても、北極・南極の時計なら0km/sですけど、赤道上の時計は0.4651km/sで動いているんですよね。NASAやJAXAは、いったいどの緯度上の時計と人工衛星の時計とを比べているんでしょうかしらん?)
ま、なんにせよパラドックスってのは、「パラドックスじゃない」って言う人に「パラドックスだ」を理解させるのが先ずの面倒だし、(こうなりゃバカだと言われようがコケだと思われようが徹底的に「パラドックスじゃない」と言い張る。もうそれしかない)と腹をくくっている学術確信犯には、勿論完全に無理なことで。 それは人類の不幸ではあるけれど、いわゆる経済的な実害は(直接的には)ありませんから、まっ、いいか、でしょうかしらん?
. . . . . . . . さてでは、本論。【 アキレスと亀 】です。
エレアのゼノンの有名な「アキレスと亀」はとても良く出来たパラドックスで、ご承知の通り、それが提出されて2000年以上経った今でも解かれてはいません。解かれるどころか、数学とは代数幾何学のこと、の現代では、微分方程式の依って立つところの根拠を失わせるものとして、それを論じることはタブー扱いにされているそれですよね。
勿論これは、時間と運動の概念を必要としない、純粋に「点と線」だけでのパラドックスです。
ところでこのパラドックッス、解決済みのパラドックスで、現代ではジョーク、トリック、めくらまし、の類のそれだって言う人も結構いるんですけど、しかし解決済みじゃありません。
「アキレスと亀」は、現代でも、ジョークじゃありません。トリックでもめくらましでもありません。勿論、決して詭弁なんかではありません。現代でも、ゼノンのその時代と同じく、パラドックスのそのままであり続けている、正に【アキレスと亀のパラドックス】なんです。
「アキレスと亀」は、無限と連続に関する本質のパラドックスです。
「点と線」・「無限と連続」、がそうだとすると、こーなっちゃうんだよ、のパラドックスです。
無限級数で追いつくんだ、が普通のパラドックス解消方法なんですが、正にそのそこで、
【極限値とは無限に近づくことが可能な値だと云うことであり、その値そのものになることはないという値である】
の「アキレスと亀」のパラドックスが出現しているんです。
ところでしかしそのことは、極限値に近づいて行く途中のすべての任意の実数値にも当然に当てはまります。いかなる実数値も、その実数値そのものになることが出来なくなります。
詰まり、微積分を出来なくしてしまうどころじゃないんです。空間が消えてしまうんです、「アキレスと亀」がカケッコを始めると・・・。
以前、アキレスは亀を追い抜けないって言うロジックが作れたんだから、じゃあ亀がアキレスを追い抜くってロジックも作れるんじゃないかしらん?で作ってみたことがあります。しかしそのそれは、自分としては良く出来たそれだと思ったんですが、ロジックとゆうよりはレトリックとジョーク。で当然に、パラドックスと言えるようなものじゃあありませんでした。
ま、しかしそれはそれ。ここでは、真正面から真面目に、「アキレスと亀」のパラドックスを解いてみましょう、なんです。
「アキレスと亀」と「飛矢不動」のパラドックスは左の図の通りのものですね。このパラドックスは「これには時間の流れが入っていない」とか「運動の概念が抜けているのだ」と云った批判でよろしいとする人もいます。しかし勿論その批判ではこのパラドックスは潰れません。そもそも、時間は流れず運動は静止する、がこのパラドックスの結論なんですから。
さて「アキレスと亀」と「飛矢不動」はピタゴラスが「線は点が無限に連続したものである」と言ったのに対して、ゼノンが「そうならこうなる」とぶつけたパラドックスだから、「アキレスと亀」の方が自由度が高いけれど、本質的には同じものである、とされます。しかしこの二つは本質的に違います。「アキレスと亀」は連続のパラドックスで、「飛矢不動」は稠密(稠密と云う概念は線上にある任意の2点の間には必ずその2点以外の点を入れることが出来る、と云うものです。(これは、任意の2つの実数A,C(A<C)の間にはAよりも大きく、Cよりは小さい実数B(A<B<C)が必ず存在する、と云うものと同じです。しかし実数と連続(座標と座標空間)は(何時とは言えませんが後で)別項を立ててそこでやります。ここでは点と線だけの話にします))のパラドックスだからです。
では先ず「飛矢不動」です。
上記の、線上での点の稠密、と云う概念を図で表したものが、正に、件の「飛矢不動」そのものなのです。
線上にある点がこの稠密の状態であることが、線上にある点は連続していると云うことのための必要条件である、とされています。その理由は「飛矢不動」の説明の絵を見ていただければお解かりいただけると思います。 でも、ここでも、でもです、なのです。
稠密ならば、線上にある2点は、それがどんなに近接した2点でも、必ずその間に点が入ります。詰まりこのことは、稠密は連続であることの必要条件ではなくて、その逆即ち、不連続であることの十分条件なのだ、と云うことを意味しているのです。何故なら、いかなる2点も、接してはいなくなるからです。
(実数も稠密ですから実数は不連続です。しかし座標空間は連続空間だとしなければなりません。ですからこれは大変です。(でも案外に簡単なものなのかな?本当は?)それで実数とその連続は、後で、なのです。)
線上では点は稠密ですから点は点では繋がっていません。では何が点と点を繋げているのか?ですが、勿論、言うまでも無く、それは線です。しかし無理矢理で点と点を点で連続させてみましょう。この都合3個の連続した点はなんなんでしょうか?点の通用の定義は位置があって大きさが0です。この定義の点を3個連続させても、長さは0+0+0ですから0です。詰まり、大きさだけでなく位置も全く同じです。3個の連続した点は1個の点になってしまいます。この点の連続は何個繋げても、更には無限に繋げてさえも、0*∽*∽*∽=0ですから同じことです。結果は無限に連続した点も、たった1個の点になってしまいます。
無限の点を連続させたものもしかし1個の点です。点を連続させると云うことは全く無意味です。連続は、点には存在しない、その概念です。
ところで上述の理由から、線上には不連続の分散した点しかありません。しかしその全部の点の長さの積算値は、同じく上述の理由から0です。詰まり、長さだけを考慮すれば、線上には無限大の数の点があっても長さとしては1個分の点しかないのです。
無限にある点の、その全部の長さを積算したものも、しかし1個の点の長さと同じです。積算(つまり四則演算)は、点とは無縁の概念です。
かくして、結局、飛矢は的に当たるまでに、たった1個の点を通過すれば良いだけなのです。それで、矢は的に向かって飛んで行きます。ピタゴラスにもゼノンにも逆らって。
「アキレスと亀」では、しかしこの解き方ではパラドックスは解消できません。「連続」がどうしても入って来るからです。線分は無限に小さな線分に分割出来ます。ですからこのパラドックスは、点が連続して線が出来る、の否定では解けません。
そして、では、「アキレスと亀」です。
でも先ず、一番最初にゴメンナサイ、です。
以前私は「線上に点を打つと云うことは線を切断することである」と言ったことがあります。しかしここでそれを訂正します。線に点を1個打っても線は切断されません。1個の点は特異点にはなり得ても線を切断出来ません。線を切断するためには、右の図の通り、2個の点を打つ(詰まりその2個の点を端点とする線分で切断する)ことが必要になります。詰まりは、線を切断するものは、点ではなくて、矢張り線なのです。
さて線が連続していることに関して異議を称える人はいないと思いますから、連続は線では自明だとしてこれに関しての疑問は抱かないこととします。線は連続ですから、従って当然に、線は線で稠密になってはいません。任意の二つの線分の間には必ずその二つとは違う線分が入る、とはなりません。
左でのその例としての図示では、線分がそれぞれズレて描かれていますが、どの場合も同一線上のものだとして下さい。
[1:]の場合ではBiBo間は重複しているわけですから、線分がこの重複している部分に入ることなどありません。
[2:]は点Bを打った場合です。このB点は線分ABと線分BCに共有されている点です。従って勿論、B点に入る線分などありません。
[3:]でも、そこに入れた線分は、最終的には[1:]、[2:]の状態になりますから、稠密にはなり得ません。しかしながら、でも、[3:]でなら、その間に幾らでも短い線分を好きなだけ、入れられるような気はします。
そう、そして、故に、これが、即ち、「アキレスと亀」なんです。
ここでちょっと連続に関しての補足をしておきます。
連続とは「切れていない、繋がっている」と云うことです。連続である線の上に打った点は、従って当然に、その点で線を左右に切断する点ではありません。それは左図の[2:]のとおりで、右の線と左の線を接続する点です。線上に打った点は総て、右と左の線の両方に共有されている「共有点」なのです。
線は、無限大の数の稠密な点をその上に持っていても、そのどの点によっても「切れない、繋がる」の、その連続になってしまうのです。点では切断出来ません。
線の切断は、その切断部分の線の不在でなされるもので、点を打つことによってなされるものではありません。その線の不在の図示が左図の[3:]なのです。
この点と線の<稠密-切断-連続-共有>の関係は、線と面、面と立体でも同様だ、はすぐにお解かりいただけるでしょうが、勿論ここでは、点と線の話に限ります。
以上で稠密と連続(点と線)の概念に関してはお解かりいただけたと思いますので、以下この項で長さ(距離)を言う際、その長さを表現しているものは、代数(何メートルとかと云う数)ではなくて、幾何(線分の2端点(端点は実は純粋な点ではないと云うことはもう少し後で出て来ます)による区画)だと云うことを絶対前提にします。
(こう前提する理由は、実数は不連続ですが、ではその実数同士を繋ぐハイパー実数(幾何で比喩されるところの線)を代数の何だとしたら良いのか?、が今現在全く解からないからです)
長さから数の概念を外すってのは(実際世界では絶対に外しませんから)、ちょっと形而上学、ですけど、この程度の形而上学的操作は誰でも簡単に出来ますよね? 「オレは出来ない!」(えっとお・・・)
”アキレスが亀の居た点上に居る時、亀は必ずその前の点上に居る”を先ず疑ってみましょう。前に居ると云うことを疑うのではなくて、右図[1:]のように、その時亀が点の上に居る事を疑うと云うことです。点が連続して線が出来ているなら、勿論亀は点上に居ます。しかし既に述べたように、線上にある点は不連続で、分散していて、しかも線に長さとして占めている全部の点のその積算値は0です。と云う事は、アキレスが亀の居た点に居る時、亀が何かしらの点の上に居る確率は無限大分のゼロなのです。(*注* ここで代数を排除していると云うのが前提だと云う事にお気を付け下さい。詰まりアキレスは単に亀よりも速いだけです。亀の何倍速いとかとは言っていません。何倍とかと言うと比になるので、線が実数だけで表され(詰まり点線になり)不連続になってしまい、結局「アキレスと亀」も「飛矢不動」と同じく、単純な稠密のパラドックスになってしまいます。しかし稠密で誤魔化さず、勿論「連続」で解きます。それで、単に「アキレスは亀よりも速い」としか言いません)
ですから、アキレスが亀の居た点に居る時は、亀は右図[2:]の通りの状態で、点上には居ません。(*注* ここでも代数を排除していると云うのが前提だと云う事にお気を付け下さい。代数を排除していなければ、亀とアキレスとを結ぶ線分の長さが実数になります。しかし当然に、答が実数なら、その計算は大きい実数値から小さい実数値を引いた計算です。そうなると亀を点の上にしか置けなくなりますから、従って線が連続しなくなります。連続抜きの「飛矢不動」と完全に同じもので、特別に別なものとして論じる必要が無くなってしまいます。要するに、この理由があるので、「アキレスと亀」から代数を排除したのです)
勿論アキレスも亀と同様に、線上のどこかの点の上に居る確率は、無限大分のゼロ、です。結局「アキレスと亀」のパラドックスは次のように書き換える事になります。「アキレスが亀の通過した点を通過している時、亀は必ずその前の点を通過している」と。詰まり右図[3:]です。
これは即ち「アキレスは亀の居る線分上の後ろの線分上にしか存在し得ない」です。結局、「アキレスと亀」のパラドックスの図示は右図[4:]がそれになると云うことです。
勿論線上の点は稠密ですから、アキレスと亀の間にはそれぞれ別の2点を端点とする連続した線分を無限に入れられます。かくしてこの命題は「線は連続しているのでアキレスは亀を追い抜けない」となります。「アキレスと亀」は連続のパラドックスだとする所以です。
さてしかし、アキレスと亀が居るのは点の上ではなくて線分の上だとするこの命題の書き換えは、なんとなく「アキレスと亀」のパラドックスの絶対性を「うん?」と怪しく感じさせてしまう「それ」になりますよね?
すぐに思い当たるのが「アキレスの無限大分の1は亀の無限大分の1より大きい」です。だからアキレスの無限小は亀の無限小に重なる(詰まり追いつく)です。でも「アキレスと亀」はその大小の比較では有りません。ある線分内に無限に線分を作れるのだから、「亀が先に進む限り、亀は先の線分に居る」です。無限大の差では解消出来ません。
では「逃げる亀が作る線分の数よりもアキレスが消す線分の数の方が多い」ならどうか?です。しかしこれも「亀はアキレスが消す線分よりも短い線分を同数作っている」で否定されます。
詰まりは、そう云ったことでは、折角「線分上に存在している」と云うところまでパラドックスの解析を進めたのに、それをまた「点上に存在している」に押し戻してしまうのです。
しかし、なんです。実はアキレスと亀の間には独立した線分などは入れることが出来ないのです。
左図を見て下さい。B1、B2は共有点です。詰まり[B1-B2]の線分を作る点B1はアキレスのいる線分[A-B1]にも含まれています。線分[A-B1]の上にしか存在出来ないアキレスも当然に点B1の上には存在することが出来ます。B2は亀がそこにしか存在し得ない[B2-C]に含まれてもいます。やはり当然に亀は点B2上には存在出来ます。そして、B1とB2は線分[B1-B2]で連続で繋がっていますから、B1上が存在しうる限界点である筈のアキレスは[B1-B2]の線分上に存在可能です。それは勿論、亀も同じことです。
詰まり、アキレスと亀の間に何本の線分を入れようと、その線分の端点は全部隣の線分の共有点なので、その内部線分では外部線分(アキレスと亀を直結している線分)を分割出来ないのです。
結局、アキレスと亀の間に存在している線分は、両者を繋ぐそのただ1本だけなのです。
存在する線分は1本だけ。となると、点は無限大でも「0」だから、これでメデタシで良いのかも?ですね。飛矢不動と同じものに出来ます。「アキレスが矢で、亀は的なんだ」として済ませてしまっても良い訳ですから。
でも、ここで終わりにしたのでは芸が有りませんよね? ハイ、勿論、最後まで「連続」で「アキレスと亀」のパラドックスは解きます。
さてここで、「アキレスと亀」のパラドックスには「アキレスと亀は連続した線の上をなめらかに移動している点である」の絶対仮定がある、と云うことを考えの中に入れて下さい。
アキレスと亀がなめらかに動く点である以上、アキレスも亀も線に打った点には還元されません。それとは全く別のものです。なぜなら、もし同じものなら、アキレスと亀はなめらかには動けず、ゴトゴトと(不連続の点から点へ(それを繋ぐ線を経由せず)ピョンピョンと飛び石で跳ねて)動くしかなくなりますから。
そして、では、「連続した線の上をなめらかに動く、この大きさ0の点て?一体何なんだ?」です。
線分を反省しましょう。
線を点の呪縛から開放します。したがって線分も、点には拘束されなくなります。
右図の[1]は点に拘束されている線分です。その両端点は「点」です。しかしこれは極めて特異な線分であり、一般的な線分ではありません。先ず離れた2点が存在し、その後にその2点を結ぶ(即ち点によって定義される)線を作ったからです。しかしながら、線は、そもそも点とは存在する次元が違うのです。ですから、線が存在する次元では、先ず最初に存在するのは線です。点が後で(その線上に打たれることによって)作られるのです。したがって、一般的な線分は右図の[2]なのだと云うことになります。( *注* 以下この項で特に断りを入れずに「線分」と言った時には、この[2]のそれです)
線分[α-β]のαは点ではなくて、連続がそこから初まる「或る場所」です。そこはその線分の端ですから、線が切れている場所ですが、それが点である確率は無限大分の0である、大きさ0の、或る場所です。
線分[α-β]のβも同じく、点ではなくて、連続がそこで終わる、その「或る場所」です。αと全く同じで、それが点である確率は無限大分の0である、大きさ0の、或る場所です。
要するに、線上に存在している「或る場所」は、それが線のどこに存在しているそれでも、それが「点」である確率は無限大分の0なんです。そのことは、その「或る場所」が線の端でも、矢張り同じです。
連続した線の上をなめらかに移動している点、とは、この線分[α-β]が伸びて行く時の線の端であるところの≪β≫のことだと云うことは、詰まりで、お解かりいただけますでしょう?
アキレスと亀は、それぞれに独立して伸びて行く線分[α-β]の、その先端の部分(くどいようですが、端ですが点ではありません)≪β≫に居ると云うことです。それで、大きさ0でも、線上をなめらかに進んで行けるのです。
点をどんなに繋げても点のままです。線にはなりません。同じく、線をどんなに分割しても線です。点にはなりません。「線の上に無限に点が打てるのだから、線は点で出来ているのだ」ではないのです。「点」と「線」はその起源を異にする、全く違う根拠で存在する、その、それぞれ独立した別のものです。
「♪柱〜のき〜ず〜は、一昨年〜の〜〜」で、即ち、アキレスと亀のパラドックスは、追いかけっこではなく、背比べなのです。従ってこのパラドックスは、こうして終に、こう書き換えられることとなります。「アキレスが亀の線分の長さに達した時、亀は必ずそれよりも線分を長くしている。故にアキレスは亀に追いつけない」と。
でも、連続を(猿でもないのに)さんざん反省し、こうまで命題を書き換える所まで進んだんですから、このパラドックスはもうパラドックスではなくなっていますよね?
さて、最も短い線分(長さ0(0と云う長さがある線と云うことです。点ではありません)の線)とは、その両端が点ではなく、その線上に点が無い線分です。線は点にはならない以上、その0は実数(点)ではなくてハイパー実数(線)です。と云うことはです。
ダルマさんがいて、これは止まっているとします。亀はのろくても動いています。勿論アキレスは亀よりも速く動きます。そのそれぞれが瞬間で存在しているそれぞれの線分が、それぞれにとっての長さ0の線分です。このそれぞれの長さ0は、しかしそれぞれの速さに応じての0の大きさを持っています。線は連続のゼロにはなっても点のゼロにはなりませんから。
このそれぞれのゼロ(ハイパー0)でそれぞれはそれぞれの線分を伸ばして行きます。ダルマさんは線上を動きませんから論じません。亀はアキレスよりも短い連続のゼロで自分の線分を伸ばします。アキレスは亀よりも長い連続のゼロで自分の線分を伸ばします。
アキレスが亀よりも速いなら、アキレスが伸ばすハイパー0の最短の線は、亀が伸ばすハイパー0の最短の線よりも早く、線上の或る場所、に到達します。かくして、アキレスの線分の長さは必ず亀の線分よりも長くなります。
線は連続であるが故に、アキレスは苦も無く亀を追い抜いてしまうのです。ピタゴラスが何を言い、ゼノンがどうイチャモンを付けようと。