ニュートリノって、何?それ?


 バカミオカンデの大本営発表ニュートリノ(そもそもあれ、「このデータが出たからマゼラン星雲に超新星が出現する」ってものじゃなかったんですよね。「マゼラン星雲に超新星が観測されたって話があるから、『じゃあ』で都合のいいデータを無理矢理見つけ出したってのがこのデータだ」ですよね。でもそれじゃあ、当たらない筈がない事後予言、かのノストラダムスの大予言と同んなじでしょうに・・・)がノーベル賞をもらったそうですけど、これで当分の間の日本の物理学には何の希望も無くなりましたね。言うまでもなくニュートリノはE=mc2が実測値と合わないのでそのつじつま合わせとして導入された素粒子なのです。詰まりE=mc2と云う経験則上の根拠が今のこの時でも全く無い数式(しかし実は、理論上の根拠もありません。E=mc2は理論も経験則も確立されているところのもう常識なんだと言っているバカばっかりですけど世の中は)を宗教の教義ではなくて力学の法則だとするフィクションのための仮想粒子として登場した素粒子です。勿論ニュートリノが事実として存在したってかまいません。事実は奇跡から発生してもいいのです。しかし、ですから、先ずニュートリノはその存在を疑う、が本来の科学的方法論なのは当然のことです(ところが、質量計算の矛盾の解消のために無質量のニュートリノを導入したんだってのに、そうすると更にまた観測結果と矛盾するからとゆうので「この観測ではニュートリノに質量があるって云う結果が出た。大発見だ!!」と発表してジャーナリスティックに世間に喧伝している現況素粒子論て、しかし一体、なんなんでしょうね???)。もっとも、相対性理論そのものが、テキスト批判以前の、もう単純な事実批判にさえ、耐え得ないものなんですが。
 赤道上の原子時計と南極点の原子時計での時間の計測を見ると、赤道上の原子時計は南極点の原子時計より遅れている。でも、なんと、南極点の原子時計は赤道上の原子時計より遅れているのだ!(相対論の時間のパラドックスとはこう云うことです。「猿の惑星」パラドックスではありません)なんてことが今現在存在していますか?原子時計なんて少しも珍しくないと云う時代なのに?
 一般相対性理論を証明したとされる1919年の日食観察のあの手書きの観測写真(!)以外で、太陽周辺の空間の曲がりを人類は見たことがあるんですか? あれから数限り無く皆既日食があり、飛躍的に観測精度が向上したと云うのに?
 しかしながら、学芸組合ボス同盟の授け合いたる文化勲章の八百長受賞ではなくて、ノーベル賞受賞となれば、バカミオカンデご都合主義によるデータ解析によって造られたSFは(ちょっとでもそれおかしんじゃないの?)の疑問を提出出来ない絶対真実となってしまい、この地底の三文詐欺師は大科学者に成り上がり、日本の科学政策の重鎮として世に君臨し続けます、死ぬまで。 あーあ、っとお。誰某は早く死んで欲しいなどとはけして思わない人間ですが、本件受賞者だけは、日本が科学技術立国たるために、出来るだけ早く死んで欲しいんだ、と。うーん、そーゆーことになりますですかねえ。
 でも賞をくれるのは外国人なわけですから、「日本も捨てたもんじゃないねえ」の首相の言葉を引き取って「世界は捨てたもんだねえ」が正しい感想なのかしらん、ですが。ま、日本を騙せば地底怪人、世界を騙せりゃノーベル賞。そうゆうことですね。「知らざるを知らざるとする、是れ知るなり」これは勿論、評論家(*注* 学者と教師も勿論評論家の中に含まれます。面倒なので以下この注は一々入れませんけど、そうゆうことです)またジャーナリストの黄金律なんですが、それを守らないことが評論家またジャーナリストとして世に存在し得ることですから、ペテン師が知ったかぶりの評論家またジャーナリストによって、大権威になってしまうとゆう理由です。愚にもつかない理屈でも「これはバカには解からない」と前置きして講釈すれば、評論家またジャーナリストから初じまって、皆んながこぞって「俺には解かる。そうだ、それは本当に偉大な科学だ」と賞賛する、と。正に童話「裸の王様」なんですよ、これは。
 「僕 ( *注* 自分のことを僕と言ってかまわないのは20才までですが、バカでしかし利口ぶっている人は70才を過ぎてもどころか、100になっても、自分のことを僕と言います)のところにさっきメールが来て、スーパーバカミオカンデでモノ凄いデータが出たって知らせがあったんだけど、『それは何?』なんて僕に訊いたって駄目だよ。僕だって今は分からないんだから」 今時こんな下手なハッタリは田舎の祭りで店を開く香具師だって使いませんけど、ノーベル賞受賞者のその正に授賞式での記者会見なら、その場の(これも利口ぶりの)記者達は実に含蓄のあるユーモアだと、ドッと笑うんですね。しかし勿論、この手の無芸無能のコケのハッタリに日本の文部科学省と財務省の役人は、膨大な文教予算を付けているんだと。  どこのバカだい?官僚は優秀だなんて言うアホは?
 地の底で光電管が発生するランダム発生暗騒音の頻度の統計をとっているだけなのに、ご都合主義で、ここまではノイズ、ここからはデータだとマスキングしたら瞬間値の11個かなんかをデータだって取り出せたから、じゃあ、これはマゼラン星雲の超新星のニュートリノなんだ、ってことにしたんだってさ。のその話。でも所詮ただの、よくある原因不明で瞬間発生する突発性ノイズですよ、のそれだけのことじゃないですか。(後で分ったんだが)地震発生直前にFMラジオに雑音が入っていた、なんて話とどれ程の違いがありますか、アホらし。でも、だから、案外に、「その頃の記録を精査したところ、浜松から岐阜まで超新星重力波雲がかかっていた」、なんて論文が国立天文台あたりから発表されているのかも?ですね。ハハハ。
 ま、しかし、バカも極まったもので東京大学(実名)の特別の栄誉の教授。この癒し系ならぬ卑しい系の顔をした爺さんも、もう百年近く続いている、童話ならざる笑劇の中の、沢山のピエロの中のその一人。日本の恥じゃなくて世界の恥、などと言うよりは、人類の恥なんだから、別に日本や世界が柴ジイの(オレは科学史に残る偉大な科学者なんだ (えっ?))での大立者気取りの尊大なキタナイ笑い顔と何様だの下品な物言いを見聞きしても、恥ずかしいと思う必要もありません(*注* だけど東京大学関係者と文部省(旧名)の役人だけは恥ずかしがってくださいよね、ホント。しかしこんなアホな大学と役所は朝鮮民主主義人民共和国にくれちまって代わりに竹島から韓民国に出て行ってもらおう、です。それだけじゃヤダなんぞと欲の深いことを言うなら、ハイ、その時は気前良く「じゃあオマケで岐阜県浜松市(*注* フルネームがそんな名前の地方公共団体も日本にあったと思いますけど、手元に資料が無いので確認出来ません。無かったらごめんなさい)もくれてやる!!!」です。で、更に余計に。でもあれですね、こうゆうことは教育的配慮から言ってはいけないので言いませんけど、東大生ってホントにバカなんですね。だってあの立花隆さん(仮名)から「東大生はバカだ」って言われるくらいなんですから。そして更に更に余計に。教養を身に付けるってことは、あれやこれやの鳥の羽を拾って身に纏うカラスの真似をすることじゃありません。そう、正に、知らざるを知らざるとする、是れを是れ教養と言う、なんですよ、立花さん、です。(誤解をおそれて更に *注* この部分はこうゆうような事は言っちゃいけないから言いませんよ、と云うことを説明しているだけです。けっして言ってはいません。誤解しないでください、念のため。))けど。でも読売新聞(*注*他の新聞でも同じでしょうけど、たまたまその時読んでいたのが読売なので)はこれをいい笑顔だとかなんとかだと言ってましたけど・・・。そうは言っても、いつまで続くんですかね、このウンザリ笑劇。

 しかし素粒子の崩壊型ではその半数以上でフロギストン(ニュートリノ)を登場させていますからね。素粒子論での定量ってのは中世錬金術師からでさえ嘲笑されるほどの【定量】ですね、ホント。
 「錬金術なんだからそのロジックは全く無価値で馬鹿げている。しかし錬金術なんだから後世のためのデータの蓄積としてなら価値はある」素粒子論をそうとさえも、しかし言えなくしてしまったのが、このニュートリノです、です。


絶対不可能


 SFを一つ考えます。  一人の成人たる人間を完全にニ分割(各個々の細胞レベルで)出来、その各々の半分をそれぞれ完全に復元出来る技術が存在するとします。この時に、詰まりA者B者ともに記憶と肉体が寸分違わず同一で、しかし全く独立した個体が創られた時に、その分割前に一つだった[私]は、A、B、どちらに存在するのか?です。
 A、B、両者は独立した個体ですから、一つの[私]が二つの[私]として存在している、と云うことは勿論ありません。従って当然に、AもBも、自分こそが、そして自分だけが、分割前の[私]だと認識し、相手方を、全く[私]と同じだがしかし単なる[私]のコピーとしてしか見ない事は自明です。
 しかし[私]がただの一個しか存在しないのは、その場合ででも、自明です。では[この私そのもの]は一体どちらに存在していると言ったら良いのでしょうか?更にその上に、A者が分割前の[私]だとしたら、忽然と現れたB者の(私)は何故に(私)なのでしょうか?
 今日、どちらの「私」も私として喜怒哀楽を個別に実認識して生きて行きます。そうですが、ではどちらの私が、昨日嬉しいと思った私なのか?痛いと感じた私なのか?どちらでしょうか?いかなる形而上学でも、[私]は一個以外には創れないのですから。
 この場合の逆で、二人の成人を完全に一個に融合出来る(これも勿論細胞レベルで)技術があるとき、一個に融合された後では、A者B者の一体どちらの[私]が[私自身]として存在しているのでしょうか?一個の肉体に二つの[私]を入れる事は形而上学的にはそうたいして難しい問題ではありません。しかし一つの[私]の中に二つの[私自身]を入れる事は、形而上学を使っても、おそろしく困難なことです。
 誤解されないために付け加えておきますが、映画「サイコ」のような多重人格の話とこれは全く違います。いわゆる病気の多重人格(今の世の中、多重人格じゃない人っているの?ですから、あえて病気の、です)は単なる記憶の連絡の障害です。記憶のフォルダをパーティションされたOSに独立して置いておき、時分割で記憶の読み出しのOSを切り替えて全く別の人格(詰まり記憶)として行動しているだけです。(実にコンピューター的な説明だと)そうですから、この病気の多重人格の体験版は結構多くの一般の人が経験しているものなのです。そう、あの、酒を飲み過ぎた時の、あの記憶欠落の醜行です。そこでは勿論[私]は連続している一人の[私]なのは当然のことです。
 この正逆二つのSFは[私]に関する形而上学の大難問でこれを考え始めると、、、「あっ、頭が痛い、、、。」
 「そんなバイオ技術は未来永劫できやしない。たくっ、どうでも良い事を考えて、わざわざ頭を痛くするヒマな人間もいるもんだ。何が形而上学だ、アホ。」
 でも、もし人工知能ロボットが[私]を自己認識する様な所まで行き着いたなら、この形而上学の大難問は形而下の実際生活世界での大難問となって、当の人工知能ロボットを大混乱に落とし入れる問題になります。
 「そんな人工知能技術も未来永劫登場しない!!」
 はい。私も人工知能不可能派で、コンピュータを電脳と言う人をバカ呼ばわりする人間です。でもこれはSFの話ですから。はい。
 ”汝自身を知れ”しかし[私]を知ることは、永遠に未だし、の不可能事です。

 (でも実存無原因論を使えば(一つの実存が消え、その消えた実存と記憶を全く同じくする二つの実存が原因無くして新しく現れたのだ、として)解けるかな?なんですが、その場合でもなんかどっちかには実存を連続させて置かないと殺人罪(?)になるんじゃないかなあ? で。う〜ん、苦しみますねえ・・・)


演算記号と演算子


 y=x、このグラフは誰でも描けます。y=sinx、このグラフも大抵の人は描けます。
 y=x+sinx、このグラフは前の二つを足し合わせただけのものですから、誰でも大抵の人は描けます。
 しかしながらこの三つ目のグラフは「描けない!」と言い張る困った人が出てきます。その人が、描けない、と言い張る理由は「最初のxは数だが次のxは角度(弧度(単位:ラディアン)も角度です。比(数)ではありません)だ。
 詰りx軸が数の表示ならy=sinxのグラフは描けないし、逆にx軸が角度の表示ならy=xのグラフは描けない。だから、y=x+sinxのグラフは描けない」です。
 しかしy=x+sinxのグラフは、どこの学校の数学でも何の疑問も持たれずに、当たり前の事として描かれています。それで、描けないなどと変なことを言い出す困った人は、描けないと云うその理由を述べて「それなのにどうして描けるんですか?」と数学の先生に訊く事になります。
さてその時の先生の答は、その先生が高校以下の先生なら「うん、良い質問だ」で終わりです。
 それではしかし何の答にもなっていない訳ですから、この困った人は更にしつこく「質問を誉めてもらいたいんじゃないんです。どうしてですかを訊いているんです」と尋ねます。(くだらねえことを訊くんじゃねえよ、アホ。誰もそんな変な事なんかにはこだわらねえじゃねえか)と思いながらもしかし、先生、答えない訳には参りません。
 「成る程。しかし君はまだそれが理解できる段階ではないんだな。説明をするとだから反って混乱して、間違った理解をしてしまうだけなんだな。だから今は、これでいいんだ、で理解していなさい」と云う教育的配慮でこの変な質問に対する応答は打ち切ってしまいます。
 「大人になれば自然に分かるよ」をしかし付け足せば、そう、「赤ちゃんはどうして出来るの?」のこれは古典的性教育と同じになりますが。
 そして、では、その先生が高校より上の先生(詰り高校以下の先生を教えた先生)だったならですが。「いや、実に着眼点がよろしい」で終わりです。で、それじゃああんまりだ、なのでまたしつこく訊く訳ですが。「何故そうして良いかの説明を私がしてしまったんじゃあ、君、教育にならんだろ?君が自分で答を見つけなさい。見つかったらそれを私に言ってくれれば、それが正しいかどうかは答えてあげよう」と云う、高等教育とはそう云うものだ、です。
 これも「教科書参考書また教材は、世の中にいっぱいあるんだから」を付け足せば、今風性教育になりますが。
 パソコンやワープロを買うと取り扱いのマニュアル本が付いて来ます。で、当然にその機械は計算が出来る訳で(でも今時のパソコンは計算が出来ません。
 行番号BASIC(行番号があると云うことは全部の命令(今時は文て言うの?)にラベルが付いていると云うことで、これがどんなに便利かは、でも、もう、昔は良かった、のただの愚痴)が付属していませんから。
 10 input a,b,c,d,e:f=a+b*c/d:print f:goto 10
 これをJava(買った時に付いてくる言語ではありませんが、タダ)で書いて見てください。お分かりですよね。もうパソコンでは計算なんて出来ません。VISUAL BASIC?なんだありゃ?)
どうやって計算するかの説明はそのマニュアルに必ず書いてありますが、その説明の所では、+とか−とか×とか÷とかを算術演算子と呼んで説明をしています。そんな誰でもが知っている事をわざわざ演算子だなんて仰々しい名前にするなんて、まあそれもありますが、しかしそんなことを言いたいのではありません。実はマニュアル本に書いてある説明は数学の全体系がひっくり返っている大変な間違いなのだ、を言いたいのです。
 +−×÷は演算子ではありません。ただの演算記号です。この二つ(ついでに関数も、で都合三つ)のそれぞれの違いを直感的に解かってもらうために簡単な数式を例として揚げます。
 1(+)2=3,1(+2)=3,(1+)2=3。
 この三つの式は、最初が1と2を足すと3になると云うただの演算{(+)は演算記号}です。次の式は1と3は(+2)と云う関係で等しくなると云う関数{(+2)は関数規則}です。最後はに(1+)を作用させると3になると云う(1+)を作用素とした演算子法{(1+)が詰り、演算子です}。
 この例でお解かりいただけましたでしょうが、演算子は演算記号でも関数規則でもないのです。+−×÷は演算子では、ですから、ありません。
 演算子が演算子として登場するのは、普通の数理教育のカリキュラムではベクトル解析や解析力学からなので(学部からのカリキュラムなので)一般の人は(たとえ教養部(今時教養部のある大学があるのかどうか知りませんが)で数学や物理学をとっても)学びません。しかしマニュアル本の著者のような人達は当然に学んでいる訳で、それなのにどうして演算記号を演算子と呼び、ま たマニュアル本の監修者もそれで良しとしているのでしょうか?
 極めて好意的に理解すれば、プログラミング言語に原因している、と云うことになりますが。しかし、プログラミング言語で云う演算子は、数学で云う演算子とは全く別物 なのです。それはオペレータであって演算子ではありません。この誤訳(でもネイティヴがそもそも演算子の意味でオペレータを使っている?)をしかし正しい訳語として誰もが使用しているのが、演算子、です。
 数理の専門家と云う人達は、実は、その概念を正しくは理解していないのに、その概念を使ってああだこうだと言っている人達なんですよと云う、これはその一つの解かり易い例です。(しかし幾らなんでも大先生達はそんな事はないだろうと想う人は、その偉い大先生達の編纂による理科年表をパラパラと読んで見てください。例えば、ここでの話の三角関数表なんかを(他にも例は沢山ありますけど))
 さてここで一番最初の疑問に戻ります。また直感的に理解していただくために簡単な数式で説明します。sin30°=0.5。この式は三角関数ではなくて三角比です。詰り定義そのもので、斜辺と垂辺との長さの比です。
 0.5=sin0.52。こう書くとしかし勿論三角関数になります。
 詰りy=sinx、のxは角度ではなくて数そのものなのです。xが3.14と云う数ならyは0と云う数、xが0.52と云う数ならyは0.5と云う数、その二つの数を等しくする関数規則がsinなる関数なのです。
 そしてこのsin関数がなぜかしらん、弧度で表した三角比と偶然にも(!)ピッタリと一致しているだけなのです。
 さて更に、1.02=0.52+sin0.52、(y=x+sinx)なる当初より問題としている式ですが。
 ここでのsinは0.52と云う数に作用して0.5と云う数に変えると云う三角(正弦)演算子なのです。そしてこの数と0.52と云う数を足して1.02と云う数と等しくするのです。
 詰りy=x+sinxと云う式はxと云う数とsinxと云う三角演算子が作用したxをたしたものをyと等しいとすると云う、全体としての関数なのだ、と云うことです。


量子論的絶対値


 「だけど絶対値は同じだよ」「絶対値は同じなんだけどね」絶対値と云う言葉は比較を問題にする際には大変に便利な言葉で、勿論数学由来です。ところで、さて、この絶対値の『絶対』とは一体どんな『絶対』なのでしょうか?
 数学教育のカリキュラムの中で最初に絶対値と云う言葉が出て来るのは、負の数を取り入れた計算の授業の時です。
 そしてその時にはこう説明されます。「絶対値とはプラスとかマイナスとかの性質を取り去った値だ」勿論それでそのとうり、なんですが、カリキュラムが進んで、y=|x|のグラフを描く授業段になると「絶対値とはマイナスをプラスに変えた数(即ちただの正の数)だ」になります。これでも良いんですがベクトルを学ぶようになると「絶対値とは矢印の長さである」となります。勿論これでも良いのです。
 そしてしかし一般教養としての数学ではもう一つ、複素数なる数を学びますが、そこでは「絶対値とは複素数を複素平面で表したときの原点からの距離である」を絶対値の定義とします。さてこの四つの絶対値の定義は実は全部、同じ事を同じ言葉で言っているだけなのだ、としますが、そうすると多分、数学が得意中の得意だと言う生徒さんは混乱します。
と言いますのも、この四つの定義のそのままでの一つの定義などと云うことなど考えた事などないからです。それぞれの時のそれぞれの定義を使って、目の前に出された数学の問題を解いていただけですから。数学が得意な人とは、数学の問題を解ける人と云う人のことです。数学を理解している人と云う人のことではありません。そして勿論、実は困った事に、それは数学の先生も同じなのです。
 さて、以上の四つの定義は、要するに、次の一つの定義と同じことです。
 「絶対値とは代数的数の幾何学的大きさのことであり、即ちそれは『長さ』 である」です。
 衒学のために、ではなくてしかし矢張りこれは言って置かないとで付け加えますが、絶対値を『長さ』とするだけでは困る数があります。詰り絶対値が『面積(二次元)』や『体積(三次元)』になる数があります。それは『テンソル』です。
 テンソルはしかし難しいと言うよりは困った数です。数学の数に運不運、幸不幸があるなら、非道く不運で不幸な数です。それは勿論、相対性理論に使われた数だからです。その不運不幸故に、『困った数』になってしまっている訳です。ここではそんな理由でテンソルの説明はしません。この説明をすれば、当然に「理科の教科書は中学校から大学の学部大学院まで全部書き直してください」と主張する事になりますから、もう少し時間がかかりますので。
 さてしかし、絶対値には一次元の絶対値と二次元の絶対値と三次元の絶対値がある、と云うのは絶対値の実用上は困らないとはいえ(そもそも誰も絶対値の次元なんてものを考えたりはしませんから)いわゆる絶対値としては大変に困ったことになります。言うまでも無く、絶対値はどの絶対値ともその大小の比較をするためのものですから。しかし勿論、その属する次元が違う絶対値は比較が出来ません。勿論比較が出来ないなら出来ないとして、絶対値による比較を場合分けすれば良いだけの事です。しかし絶対値にそう言った制約を付け加える事は、非実用であることをその生命とする、哲学としての哲学では、それはただの便宜主義ただのご都合主義であり、なにより、全く美しくないのです。では?です。
 量子と云う概念は抽象概念ではありません。しかし分子や原子のように目に見える形での模型として表す事がちょっと無理かな、のものですから、ま兎に角どう云うつかわれかたであれ、人口に広く膾炙している割りには、どうも量子と云うものは一つ良く解からないとされている概念です。しかし電子機器が総て半導体化し、情報と通信が総てヂジタル化(あえてヂと書くところが格好良いでしょう?)してしまった現代では国民普及型三球式再生検波レベル(何それ?)でも、全国民が知っておいた方が何かと便利ですから、誰でも直観的に量子を理解できるようにここで説明して見ましょう。(ちなみに無限インピーダンス検波なんて言う名前だけは格好が良い検波回路もありました(でも名前が格好良かっただけです)。Qダンプと言うのもあって、これはでもAMでは一番良い音のするもので、だからTORIO(今はKENWOODって言うの?)の高一コイルは捨てないでとって置いたんですけどここ数年来のすさまじい生活の無為(?)転変でどっかに行っちゃった。もう昔のこう云ったパーツは手に入らないでしょうから、そのうちスパイダーコイル(これしか私は巻けません)でも自分で巻いてストレートラジオを作りましょうか、と思ってはいます。)
 「アナログ時計とは古典化されている時計である。デジタル(「ヂジタルとは俺の事か?」とデジタル言い。ですから、はい、矢張り……。)時計とは量子化されている時計である」とまず言って見ます。これだけで「アッ」と全部解かってくださった方は、量子とは?でずっと頭を悩ませていた方です。ですからそうではない普通の人は「あん?」なだけです。(ちなみに、どうして?どうして?、がずっと解からなくて、あれこれ教科書参考書を読み漁り、それでも解からず「???……」でいたことが或る日突然「アッ、こうゆう事なんだあ!」で正にその全部が氷解すると云うことがありますが、それは本当に小さな詰らない文章を読んだ時です。私事ですが、私はトランジスタ回路と云うものが色んな本を読んだにもかかわらず十数年も全く理解出来ませんでしたが、或る時「バイポーラトランジスタのB-E間には定電圧特性があり、その電位差は0.7V程度である」と云う解説記事を何かの雑誌で読んで「アッ!」と叫び、その後は少なくともバイポーラトランジスタ回路の解析で悩む事はなくなりました)勿論、そんな事には普段全然頭を悩ませていない普通の方がこれを読んでいることを前提としていますから、乱暴な言い方はやめて丁寧に説明します。
 「総ての数は1で割り切れる」と云う命題を立てます。「当たり前だ」と言う人がいると困りますので、当たり前じゃないんだ、と云うことを言っておきます。3分の1とかπ(円周率)は1で割と割りきれません。「3分の1とπは1で割ると答は3分の1とπ。だから1で割りきれるのだ」とは言わないで下さい。そう言われると、いや実は、で話がウンザリする程シチ面倒臭くなりますから。さてその命題に「総ての数は1で割ると小数点2けたまででキチンと割りきれる」と云う命題を付け足します。この命題も「当たり前じゃないけど、良いよ」として下さい。そうすると3分の1は小数で表すとジャスト0.33であり、πも3.14ピッタリです。かくして如何なる数にも小数点2けた以下は存在しない、となります。こうしてしまえば、3分の1は33個の0.01で出来ていて、πは314個の0.01で出来ている、と言えることになります。
 さてここで、この0.01を数の量子と名付けることとします。そして更にこの0.01(すなわち量子)を新しい とすると全部の数が1で割り切れ、かつ小数点以下が絶対に現れ出ては来ません。詰り「総ての数は量子の整数個で構成されている!!」になるのです。かくして3分の1は33個の数の量子で、πは314個の量子で、0.1は10個の、1は100個、2は200個、3は…、と総ての数を量子の整数の個数として表すことが出来ます。こう云う風に数を量子の個数として表すことを、 数を量子化する、と言います。そしてこれを数だけのこととせず、一般化し、汎用のものとしてしまいましょう
 「およそ数値で表すことが出来る量には、それがどんな類の量であれ、それで割ると小数点以下の数が出ないでピッタリと割り切れる1なる量が必ずある」の命題を真として認めることとします。そしてその1なる量にその量の種類の名前を付けたものが、すなわち『量子』です。これで、あらゆる量を量子の個数で表すことが出来ることとなります。勿論その量子以下の量子はありません。かくしてあらゆる数値としての量は、その種類の如何を問わず、量子の整数倍の量以外では存在しえなくなります。詰り、如何なる数値もデジタル化(整数化)されていることになります。

 ところで、素粒子と量子とをゴッチャにしてる人がとても多いんですけど、素粒子はこれ以上分割出来ない一番小さな【物体】です。でも量子は、これ以上小さくは出来ない一番小さな【エネルギー】なんです。
 例えば、振り子時計の振り子の量子が振れ幅1センチだとしますよね、そうすると、振り子時計の振り子を0.5センチの振れ幅にしようとしてエネルギーを小さくすると、振れ幅1センチ未満の振れにはならずに、その振り子は止まっちゃうんです。
 また、止まってる振り子を動かすと、振れ幅1センチ、2センチ、3センチ、でしか振れなくて、1.5センチ、2.5センチって振れ幅が無いんです。
 それが量子です。量子は物質じゃありません。

 とゆーわけで、デジタル時計とは、ですから、1秒間を時間間隔の量子として時刻を表示している時計のことなのです。大変に誤解されていることなのですが、デジタルを2進演算のことだとしてはいけません。10進数もデジタルです。アナログではないのですから。
 さて、この量子の概念で絶対値を定義付けるとこうなります。「絶対値とはそれを構成している量子の総個数なる数である」と。
 この量子論的絶対値の定義の最大のメリットは幾何学の拘束が無いと云うところにあります。故に、勿論、次元が違うものどうしも、その絶対値を比較出来ることになります。この1平米を照らす光の量子は1000個、あの1リットルの箱に閉じ込められている光の量子は1万個、そしてその1センチの長さを走る光の量子は1億個。ならばそのそれぞれの絶対値は?ですし、さらには、幾何学的絶対値そのものも相対値として、その絶対値比較を云々出来ます。この100メートルの絶対値は量子300個、あの3776メートルは量子3個、絶対値比較でなら100メートル>3776メートル、と云うようにです。
 量子論的絶対値は、以上説明して来ましたように、実に優れたところのある絶対値なのですが、しかしこれは世間通用の大人物のそれを余りにも小さな数値で表してしまうと云う大欠点をまた有していますから、世間通用の絶対値としては、けっして採用されることは、ないでしょうねえ、しかしやっぱり。


完全ということ


 「我々は不完全である。しかし完全なるものを想像することが出来る。それは完全なるものが存在しているからである」これがデカルトの神の存在の証明とされているものです。当然にこの証明なるものはこう反論されます。「我々は空を飛ぶモグラを想像出来る。しかしそれは飛びモグラの存在の何の証明にもならない。くだらん。詭弁にさえならない。云々云々」と。
 しかし、です。デカルトの『神』はそんな『神』ではありません。
 「私たちが実在として認識し得る幾何学図形は、どれほど完全に見えるものでも、ちょっと精確に計っただけで直ぐに不完全な図形であることが判る。自然には不正確な幾何学図形しか実在しないと云うことは自明の真実である。しかし総てのこの不完全な幾何学図形は、完全無欠な幾何学図形によって組み立てられている唯一無二の幾何学の下にあってのみ存在し得るのである。完全な幾何学に基ずくところの完全な幾何学図形の存在無くしては総ての現実の幾何学図形は不完全なものとしてでさえ存在出来ない。故に完全な幾何学図形は存在する」
 この『完全な幾何学図形』がすなわちデカルトの『神』です。完全な神無くしては不完全な世界さえ存在出来ない、だからです。デカルトの『神』の存在証明は、だから、詭弁ではなくて立派な証明です。勿論地動説信奉者だと思われて火炙りにされる事を恐れての自己保身での論説などではありません。彼の確固たる信念から出た神の存在の証明です。詰まり、デカルトの『神』は即ち『数学の神』なのです。
 ですからこの『幾何学による神の存在証明』を論駁しようとすると形而上学的センスの他に数学的センスも必要になります。(ちなみに、昔、数学基礎論と云う学は[こーゆーどーでもいーこと]を「あーだこーだ。あーでもないこーでもない」と言っている暇な学問なんだろうと思ってその教科書を買ったら全然違うんですね、あれは)と云うより、数学的センスの他に形而上学的センスが必要になるわけです。
 完全の存在を前提にしなければ不完全も無い、と云うこれを(?)としか出来ないのだけれどその反駁のレトリックを考え出すと「えーと、あーで、こーで、あれ?だけどそうすると、あれ?あれ?あれれ?」で頭が変になります。ま、人によってはそれが結構面白いことなのですが。暇だねえ、と言われれば勿論それだけのことですが。(*注(真面目な?)*ここで言っている完全と不完全はいわゆる不完全性定理とは全く関係の無い、形而上的に存在するかどうかの完全と不完全です。念のため)
 それにしても、この『デカルトの神』の信者は数学物理学専攻の人達だけにでなく、真理とか真実とか或いは歴史とか伝統とかと云う名前で一般の人々にも全く無批判に広く信仰されている現実は、やはり困ったことなのですが。


反論可能性


 「その事実が真実として認められることはない。それが虚偽であるとなし得るなんの資料も添付されてはいないのだから」
 一般的にはこの命題はただの逆説か警句としてしか受け入れられないでしょう。「真実なんだから虚偽だと云う証拠なんかある理由ないだろう。だいいちそれが存在することは間違いのない事実なんだよ」だからです。しかしながら事実とはそこにあるそれそのものと云うだけのものです。そして真実とは、その解釈のことなのです。ですからある事実を真実として世の中に提出するためには、上の命題が絶対条件になるのです。いわゆる「反論可能性」の充足です。
 宗教的集団ヒステリーで事実が真実とされていても、それが当の宗教的事実と真実なら、しかしそれが宗教の宗教たる所以、詰まる所は「信じるか信じないか」が宗教ですから、かまいません。しかし科学、それも経済理論や心理学といった、科学と言うよりは非実証的な個人思想の産物と言った方が適当だろう科学だけではなく、いわゆる自然科学にも、集団ヒステリーそのものなのだとしか言いようのないものも沢山あります。そしてその科学では勿論「反論可能性」は全く提出されていません。詰まりその「反論可能性」が出されていないその種の科学は、集団ヒステリーそのものだと云うことなのです。
 「反論可能性」が提出されていない「科学」は沢山ありますがそのうちで最大最悪のものは、言うまでもなく、相対性理論にリンケージしている科学です。昨日も今日もそして明日も、相変わらず「ブラックホールを見つけた」だの「ニュートリノに質量があるのを発見した」だのといった類いの科学ニュースが報道され続けています。勿論宇宙にブラックホールがあったっていいのです(*注*しかしブラックホールは、存在するなら見つかりません。見つかるなら存在しません。それがブラックホールです)。地球上でニュートリノの重さが量られたっていいのです(でもその質量の発見て、あのバカムランドで地球の裏から来たニュートリノの数が半分になったと観測されたから、とゆーことなんだそうですね。だけどそーすると、地球直径・地球密度・地球引力圏の通過でその数が半減するような運動粒子は、太陽半径・太陽密度・太陽引力圏の通過ならそれを無事に通過できる個体数はゼロになっちゃうんじゃないかしらん?なんですけど・・・。恒星の中心の核反応でニュートリノは発生するんだそうですから、じゃあ、あの〜、その観測されたニュートリノって、一体どこで生まれてどこからやって来たんでしょうか?。??。???)。事実は真実よりも以前に存在しているアプリオリのカテゴリーです。真実から事実が創造されるのではありません。ですから間違った真実(?)からの演繹で正しい事実を発見しても何の矛盾もないのです。たまたまただの偶然で、そう云うことだけなんですから。しかし本当にその事実があるのなら、それは相対性理論を否定する根拠となる事実なんですよ、と云うことなのです。にもかかわらず、相対性理論だブラックホールだニュートリノだと言っているから、その科学は集団ヒステリーそのものだと言っているのです。
 スーパーバカミオカンデとゆーのかバカムランドとゆーのか知りませんが、もうあんなバカ気た観測器械はぶちゃっちまえ、なんですね。ニュートリノがどうだこうだなんてことの云々はブラックホール同様アメリカにまかせればいいじゃないですか。なにしろあの国では、国民の50パーセント以上が、UFOの実在を信じているんだそうですから。
 ところでこのまえ岐阜県浜松市大字横須賀字筑波ってところにある高エネルギー物理学研究機構とかってのを見物に行ったら、お土産に「ニュートリノだんご」ってのを売ってました。あ〜あ、と思っていたらハワイ帰りの知人が、大きな望遠鏡があるどっかの山で買ってきたんだ、で「ブラックホールまんじゅう」ってのをお土産にくれました。唖然として呆然、そして愕然。あのね、国立天文台(世界中の天文台も、ですが)にいる最先端宇宙物理学の研究者さん、望遠鏡を覗いてブラックホールを探す必要なんか、ありませんよ。灯台元暗し、なんです。あなたの頭そのものがブラックホールのそれそのものなんですからね。


思考実験


 現代物理学の教本とかとゆーものにはよく「思考実験」とかなんとかとゆうものが載っています。左の絵もその思考実験です。しかしこの思考実験はいわゆるハウ・ツーもののペーパーバック本ではなくて、良書として定評のある大学生用の力学教科書にあるものです。ですから、学術的(?)にも実にシッカリとした(?)正しい思考実験です。イイカゲンなそれではありません。
 絵をごらんになればどんな実験をしているのかは一目瞭然ですから簡単にお解かりいただけるでしょうが、「馬鹿言え!こんな下手な絵、何が何やらサッパリ解からん!」(スミマセン・・・)以下説明します。
 ところで、特殊相対性理論は素粒子論(相対論的量子力学)の基礎理論ですが、その理論の根本を為す原理は光速度不変の原理です。光の速さはあらゆる速さに対して等速だと云うことです。詰まり、時速50Kmで走っている車から見ると同じ方向に走っている時速80Kmの車は時速30Kmの車として認知されます。しかし秒速15万Kmで走っている宇宙船から見ても、同じ方向に進んでいる光の速さは秒速30万Kmと認知され、宇宙船が時速ゼロで止まっている時の光の速さと全く変わりません。光の速さはどこのどんな状態の誰にでも不変の、秒速30万Kmとしてしか認知されないのです。
 さて、この光速度不変の原理から、当然に(だそうです)動いている時計の遅れ(猿の惑星パラドックス)なるものが起こります。その、動く時計が遅れることを証明する思考実験が上の絵なのです。
 先ず、時計を作りましょう。光は秒速30万Kmですから、長さが15万Kmの筒の先に鏡を付けて反射させると往復にちょうど1秒かかります。はい、これで、正確に1秒が計れる光時計の完成です。勿論こんなに長い筒の時計にはしないで文房具サイズでこれをやっても同じなんですけど、そうすると光の往復の絵を描くのが大変ですし、計算も細かくなるので、ま、そうゆう理由で、人類史上最長(?)の、長い時計を作ります。
 この光時計を二つ作り、Aさん(何故かネコですが^^)とBさんにそれぞれ持たせます。Aさんは秒速30万Km(光よりちょっと遅く、としないと相対論ではいけないので少し遅い方の秒速【約】30万Kmということにします)の宇宙船に乗っていますがBさんは地球上にいます。さてAさんとBさんは、お湯をかけてから1秒で食べられるカップラーメンにお湯をかけ、その1秒間タイマーとしてこの光時計を起動したのです。となるとどうなるでしょうか?
 地球上のBさんのみならず宇宙船のAさんも自分自身は静止しているように認知していますから、二人それぞれは1秒後に反射して来た光を受けます。ところが、BさんがAさんの光時計の中の光の位置を見ると、自分の光時計の光はちゃんと手元に帰って来てジャスト1秒後なのに、宇宙船のAさんの光時計ではまだ光は帰って来る途中で、Aさんの手元まで届いていません。Aさんにはまだ時間の1秒は経っていないのです。その理由は絵を見ていただければお解かりですね。そうです。光の速さの秒速30万Kmは絶対不変ですから光は加速されません。でも光が時計の中で走る経路は絵の通りですから、Aさんの時計では長くなります。Bさんの1秒では光は走り切れません。だから、Aさんの時計はまだ1秒後にはなっていないのです。詰まり宇宙船のAさんの時間は地球上のBさんの時間よりも遅れます
 かくして光速度不変の原理から何故猿の惑星パラドックスが起こるのか?は、何の不思議も疑いも無い当然の事だと云うことがお解かりいただけましたでしょう。この思考実験により、動く時計の遅れの経験的証明が出来ました。全く、光時計の思考実験は素晴らしい実験ですね。見事。アッパレ。

 でもです。
 次に出した右の絵を見て下さい。
 Aさんからこの状態を見てみましょう。すると、静止しているのは宇宙船のAさんで、地球上のBさんが逆方向に秒速30万Kmで走っているのだと認知されます。ですから、光時計の状態は全く逆になります。逆ではあっても同じ説明になるので説明は繰り返しませんが、でも今度はこんな下手な絵でも、何が何なのかはお解かりでしょう? そうです。地球上のBさんの時間は宇宙船のAさんの時間よりも遅れます。これが相対論の時間の遅れのパラドックスなのです。
 でも、そうなっちゃうと、「あら〜・、どうすんの・・、これ・・・」でしょう?
 「思考実験」に騙されてはいけませんよ、と云うこれはその「思考実験」です。
 しかしながら、こんな「思考実験科学」が「経験科学」として余りに数多く通用しているのが、今の時代の科学なんですね。

 で、感動のラブ・ロマンスを。
 今は未来(?)、心から愛し合う若き男女がおりました。しかし男は探査ミッションでどこだかのお星様へ亜光速ロケットに乗って旅立つことになったのです。
 「僕は君の元へ必ず帰って来る。それまで待っていてくれるかい?」そう尋ねる男に、女は答えます「勿論よ。私が愛しているのはあなた一人だけよ」男と女はヒシと抱き合い(今時の恋愛話なのでここで濃厚なセックス・シーンを描写しなくちゃいけないんだけど、それは割愛。「オマエ、まじめな話に突然そーゆーくだらないジョークを入れるっての、ホント、悪いクセだよ」う〜ん・・)、そして男はお星様へと旅立ちます。
 百年後、男はまた地球に戻り、女と再会します。しかし男は自分を見て、(ギネスブックの最長寿記録保持者だよなあ、オレは。見てくれ、このヨボヨボ、ヨイヨイの姿。それなのに彼女はなんて若く美しいんだろう・・・。おれはもう彼女の恋人じゃあない・・・)と悲しみにくれます。女も自分を見て、(あたしゃ百何十歳のバーさんなんだよねえ。だけどまあ、この男ったら、ぜ〜んぜん若いまんまじゃないかい・・・。茶のみ友達にもしてくれやしないよねえ、そりゃもうさ)と嘆きます。
 しかし男は女に、女は男に、言います。  「僕は君をずっと愛していた。それは今でも全く変わらない」「私だって同んなじよ」そして二人はヒシと抱き合いそして愛を確かめ合います。
 (ここからは当然にセックス・シーンになるんですが、そのセックス・シーンてのがですね、よーするにですね、男の目線にカメラがあるとですね、メチャなジーさんがですね、うら若い娘とセックスをしてるんですけどね、しかし女の目線にカメラがあるとですね、メチャクチャなバーさんがですね、若い男とセックスをしてるんですよね。それが同一人、同一場所、同一時刻にですね、起こってるんですよね。そりゃ男にとっても女にとってもですね、願ったり叶ったりの大々満足な理想のセックスなんですけどね、だから正に窮極のラブラブセックスになるんですけどね、ですけどね。(でもまだ100歳過ぎても2人とも生きていたから良かったんですよね。100歳で2人とも死んでたら、ジイサン骸骨と若い娘がセックスしててバアサン骸骨と若い男がセックスしてるって愛情物語になっちゃうんですからねえ・・・))
 バカバカしくなって来たので、ここで、メデタシ、メデタシ、でオシマイ、と。・・・・。

 詰まるところ、要するに、特殊相対性理論てのは(そこではどう力が働いているのか?を全く問題にしていない)この速度の運動からはそれはどう見えるか?のためにするだけの変換でしょ? 全くの相対運動だけでの変換なんですから、ここから見たあそことあそこから見たここは、場合分けの無い・条件付けをしない、どうであっても全くで同んなじものなんです。
 しかし、はいそうですね、と言ったら相対性理論はアジャパー^^で即死。オシャカ。それでオシマイ。 じゃあ一体何だったんだよ?相対論ってのは?になっちゃいますから、そうは簡単にはこのことを認めませんね、あの人たちは、勿論。^^

 このシッチャカメッチャカのラブ・ストーリー(いわゆる双子のパラドックスですね)は宇宙船の加速・停止・逆方向加速が絡むからそのことで男の方の時間だけが遅れることになる、ってことが通説なんですね。まあ、通説というよりは、(本来の双子のパラドックスとはこうゆうことで「浦島太郎」のお話じゃない)、ということが一般の常識になったので、なんとか誤魔化さなきゃ、の話なんですけど。
 ただこの誤魔化しは「詐欺師は先ず真っ先に自分を騙す」の詐欺の方法論の第一で、それを言ってる本人が先ず誤魔化されているので、そりゃ全く理屈にならないよ、をその通説を語る人に納得させるのが本当に困難なことで、もうそういった人たち相手だとウンザリするんですが・・・。
 左の図の【A】を見て下さい。
 亜光速で飛行した距離[1][1']は任意の距離に設定していいわけですね?ところが加速度運動(Uターン)の距離は亜光速の慣性飛行で走った距離が長かろうと短かろうと一定になります。勿論慣性飛行の距離が長ければ長くなるほどお互い同士が、「オレが年寄り相手が若い」と認識する時間差は大きくなります。加速度運動(Uターン)で仮にそのことが修正されるとしても、極めてクリティカルな「この時間差」でしか男の時間が遅れることにはなりません。その時間差以外のすべての時間差では、「オレが年寄り相手が若い」になってしまいます。
 それでもどうのこうのと言うなら、もうめんどっくさい、女も亜光速宇宙船に乗せて男と逆方向に同じ速度で同じ距離だけ走らせて地球で再会させます。【B】ですね。
 加速度運動だUターンだなんてのは、もうこれでお互いそれは無しの話、無関係です。[2][2']、[3][3']のところでは勿論お互い同士が、「オレが年寄り相手が若い」で、これはどうやってもキャンセルできません。
 加速・停止・逆方向加速での時間の修正はすべて一定時間にしかならない時間の修正でしょ?等速運動をしている時間が長ければ、全体の時間に占める修正時間の割合なんかは、いわゆる『無視できるほんの僅かな量』にしかなりません。それでも、なら、女も宇宙船に乗せて男の宇宙船とは逆方向に亜光速で旅をさせ、両方ともに100年後に地球で再会させれば、その話は、全く同じラブ・ストーリーになるだけでしょう?
 でも、動く時計の遅れの背理(パラドックスじゃありません、背理です)はお経を唱えて、「Uターンじゃあ〜〜、一般相対性理論じゃあ〜〜〜」とお化けを出せば雲散霧消する、で済ます学者さんから始まって通俗本読者に至るまでの頭って、これもウンザリだけの白痴頭だけですね、と。

 ちなみに。地球上に暮らす人たちにとっては総てが1意決定でも、他の速度状態にある人たちから見ると地球は1意の状態ではない、と云う事は(地球以外の速度状態のその状態は任意の速度を無数にとれるので)宇宙全部にたいしては、地球は無数・無限の存在状態を持っている星として存在している、と云う事です。勿論地球は宇宙と隔絶・絶縁してはいませんから、地球と宇宙との相互間の1個の情報・物質・エネルギーのやり取りは、当然に無数・無限個である情報・物質・エネルギーのやりとりになっています。で、詰まりは、宇宙は、何の1意決定性も持っていない、時間・空間だけでなく、あらゆる存在とその認識が、たったの1個が無数・無限の状態を持っている、メチャクチャ宇宙なんだってことなんですね。


神学論争


 ・・・野党はこれまで、「戦争の準備をする法律になりかねない」と有事法制に反対してきた。防災計画をつくることに対して「大地震をお望みか」と問うにも等しい幼稚な議論・・・
 ただの批判にならよく使われるような上のような議論は、しかし方法論としては、幼稚以下の保育レベル(?)の頭の人がする批判です。(*注* これは読売新聞のコラムからの引用ではありません、念のため)要するに、こういった批判への再批判は、「戦争と天災を一緒にするな」から始めなければならなくなりますが、そうすると、戦争とは?天災とは?になり、だからそれは違うんだ、いや同んなじだ、で、正に馬鹿げた神学論争になってしまいます。多少とも論理立てて相手の理屈を批判できるなら、相手の論理そのものを批判するのであって、「それは幼稚な人間の幼稚な理屈だ」と言うのでは、「保育な人間の保育な批判だ」と言って返されても仕方がない批判なんです。だから、上記引用の批判方法を取るような人の頭は、保育レベルなんですよ、と云うことです。勿論、UFOがどうの霊がこうののもう反論そのものが馬鹿馬鹿しくなるものもそりゃありますけど。
 もっとも、ここでは有事法がどうのこうのなんてこととは勿論関係ありません。馬鹿げた批判方法の例として上げただけです。それに有事法なんて、ハッキリ言ってどうでも良い法律ですからね。だってあの法律が必要になる程の戦争を日本に仕掛けて来る能力がある国なんてアメリカ合衆国以外に今無いじゃないですか! 正に、読売新聞(仮名)のような現実主義ジャーナリズムがからかう、神学論争そのものの、これ、法律ですからね。
 さて、神学論争がどんなに馬鹿げた下らないものかを示す例として上げられるものに「人が荷車を引く時、人が荷車を引いているのか?荷車が人を引いているのか?」を大真面目に中世スコラ学者は論争していた、とか云うものがあります。勿論この例を提示する人は、いかにこの論争が馬鹿げたものかは、説明抜きで、今では誰もが納得するから、とこの論争を「神学論争とはこう云うものだ」と嘲笑しているだけです。でもです。これは馬鹿げた下らない論争ではありません。この「人が荷車を引くのか?荷車が人を引くのか?」の論争の結果にニュートンの運動法則があるからです。
 説明抜きで「神学論争だ」として他人の思想を嘲笑して論争に勝利したとするのは、詰まり、本質を理解していない人の馬鹿げた下らない弁論術なだけなのです。先ず最初に嘲笑されるのは、だから、それを神学論争だとして嘲笑する人の頭の中味です。勿論、馬鹿げた下らない神学論争は今時の論争にも沢山あります。しかしそれを「神学論争だ」とするにはちゃんとした説明が必要なんですよ、ただ「現実的論争をしろよ」と言うだけでは駄目なんですよ、と云うことです。
 一般的な個人的論争はもとより、テレビ討論みたいな公的論争(?)も勿論口頭での論争です。で、そこでの相手に勝つために使われている弁論術なんですが、そこで誰の使うそのそれも、原始的なそれしか目にしませんね。詰まるところ、威嚇と知ったかぶり、従ってそのまた原始的な表現形である大声とハッタリなだけですから。で、相手の思想への反論は「神学論争だ」で全てを否定する、と。その弁論術は勿論、保守とかリベラルとかマルキシズム(懐かしい名前)とかの色分けによらず、皆んな同じです。
 論争は交渉事ではなくて争い事だからそんな論争しか目にしないと云うことは、事の性質上仕方ない、なんでしょうが。でもその争いで論客として頭角を現した人が有名評論家・一流ジャーナリストとなる訳で、その人達のそれもそれだけでしかないんだと。結局リアルタイム命の時代での評論は、威嚇と知ったかぶり、大声とハッタリだけが解析なんだと、そうゆうことです。馬鹿げた下らないものは、ですから「神学論争」ではなくて「現実的論争」です。でもそれが現代です。そういったことが嫌なら、およそ論争なんかは出来ませんし、テレビの討論番組なんかも見られません。
 勿論本来の神学論争が神学の論争である以上、絶対に誤り無き先哲たるアリストテレスやアウグスチヌスを世界の常識として引用し、絶対完全真実である聖書で世界を非実証的に解釈していましたけれど、今時のテレビ論争だってそんな程度(それよりずっと以下?)での世界常識(「世界の常識」なんてものがそもそも存在してないから、論争の主題の事件が起きているんだ!)の引用と世界の非実証的な真実(実際、そこで例として挙げられる真実は、ご都合主義で編集された真実ばっかりじゃないですか)でしょう?
 だけど「俺は世界を知っているんだ(お前とは違って知識があるんだ)」と「俺は世界の真実に基づいて言ってるんだ(お前のように難しいことは解らないとゆう人間じゃない。(これに更に「英語が解るんだ」を付け足すと、これは竹村健一さん(仮名)になりますけど))ですから、「世界だ、真実だ」とさえ言えば、相手の反論を沈黙させられると云う弁論術なんですね。詰まりは、一時期流行語にさえなったあのオカシナおっさんの「定説です」そのものなんですね、この弁論術は。そうでしょ?竹村健一さん(仮名)?
 でも、ゼノンのそれ程とは言わないけれど、少しはソフィスティケーティッドな論争が出来ないもんでしょうか、なんですが。しかしテレビでは威嚇と知ったかぶり、大声とハッタリの方がソフィスティケーティッドより遥かに面白いんだからしょうがない、ですかね。もっとも、どっちが面白いと思われるか、じゃなくて、単に能力の問題で、ソフィスティケーティッドではなくてハッタリでやるしか仕方無いんだって人が有名評論家・一流ジャーナリストなのかな? ですけどね。ま、そうだとしてもそれこそがしかし現代。そうでなくすることは原理的な不可能事なんでしょう、と。
 でもこんな感想は、現代では、それこそ「神学論争」なのかしらん? なんですかね?


E=mc2に根拠はありません


 この項は数式を使わざるを得ませんので、数式を掲げます。でも見たとおりの数式で、そんなに難しい数式じゃありませんよね? 微分だってまったくの初歩・入門レベルのそれですから、高校2年生以上なら誰でも解かる筈です。 「俺は解らん」ですって? 困ったなあ。でもまあ、誰にでもここに掲げた数式を理解する基礎知識はあるんだとして、以下話を進めます。
 E=mc2 には経験上の根拠が無いと云うことはこの教科書(?)の一番最初で言ってありますが、にもかかわらず、いかなる経験的反証を突き付けられても、経験的にならE=mc2 は絶対に否定されることはありません。勿論、ニュートリノとゆう便利極まりない素粒子を導入しているからです。なにしろこの素粒子はE=mc2 が経験に合わないなら、その矛盾を全部自分が引き受けて、宇宙の彼方へと持ち去って捨ててしまい、何の矛盾も無かったことにしてくれる超御都合主義素粒子なんですから。従って、ニュートリノと云う強い味方がある限り、E=mc2 は永遠に不磨の力学大典であり続けられます。
 さてところで、このE=mc2 はどんな風にして発見された力学法則なんでしょうか? ニュートン先生と同じく、リンゴが落ちるのを目にして、でも「引力だ!」とは閃かず「あー、もったいねえ。拾って食うべ」で、食べちゃって、で、下痢かなんかになって便所に駆け込み、しかしそこで閃きが起こって発見した、と。 そんな伝説的事件で発見されたものなんでしょうか? いいえ、です。
 この法則も、他の相対論の法則と同じく、光速度不変の原理からアインシュタインが、当然の結論だとして導き出した法則です。とゆうことは、しかし、これも何んの経験的事実が無いどころかアプリオリな事実(それも怪奇現象・怪異現象レベルでの先経験的な事実さえも)も無くして、ただの数式のイジクリ回しだけで発見したとゆう、その法則だとゆうことです。普通には、従って、それじゃ「科学」じゃないでしょう、の法則になります。だけど・・・、そうなんですけどねえ・・・。
 さて、ではその数式のイジクリ回しとは一体どんなものなんでしょうか? そのイジクリ回しが、左に掲げた一連の数式です。一番最初の数式(A)に光速度不変の原理を適用し目的的に変形して行って最後のE=mc2 (C)に到達した、とゆうわけです。
(変位とか(微小)仮想仕事とかなんてのが出て来るのは解析力学的に導いているからです。あんまり気にせずにちょっと変わったものだけど普通に微分方程式なだけ、と思ってください)
 「ふーん。成る程ねえ。あったまいいんだねえ、大天才アインシュタイン博士は。成る程。成る程。こうこうこうで、あっ、ホント、確かにメデタシメデタシになるじゃんか!!」  でもです。
 一番最初の数式(A)の速度[u]に0を代入してみて下さい。エネルギーはE=mc2 ではなくてE=0になります。当たり前です。どれほど重かろうが、静止質量のエネルギーは全部ゼロなんです。ところがこのE=0の数式をゴチャゴチャとイジクリ回して行くと、最終式(C)では静止質量のエネルギーは巨大なエネルギーのmc2 だとゆうことになっちゃうんです。
 (あれっ?)とここで首をかしげましょう。 かしげる理由は、単に数式をイジクリ回して行くだけで無から有が生まれてしまうからです。神様の天地創造ならいざ知らず、0×1=2だなんて、そんな数学の回答を出せば、誰だって数学で落第しますでしょう? (どうして、じゃあ、無から有が生まれたんだろう? )とまたここで首をかしげましょう。
 神様ならざる人間様。その人間様が、しかし無から有を生じさせることが出来たとゆうなら、それは勿論手品です。でもこの手品は一応「科学」だとゆうことになっていますから、イジクリ回しは公開されています。ですから、手品を見破るのは簡単です。
 手品のタネはその操作の途中に現れます。この数式でもそうです。途中の数式(B)を良く見て下さい。そこで、等速直線運動の速度の連続瞬間変化率(敢えて微分値とは言いません)との積を取るとゆうことをやっています。で、・・・。・・・・・・。
 「あっ!」とここで声を上げましょう。それから「あらら〜」と頭を抱えましょう。
 「等速直線運動の速度の微分(しょうがない、微分と言ってもいいです)だなんて、なんて馬鹿なことをやってるんだよ〜」なんですから。 さて、ここでちょっと、ここが解らないと云う方のために、蛇足で補足しておきます。
 「0」で割ってはいけません、と云うのは算術計算の基本中の基本ですから誰でも知っていることですが、何故「0」で割ってはいけないのかを実際に0で割って確かめてみましょう。 100÷0の計算をすると、商が何んであれ、余りが100になります。商が特定出来なくても答を不定だとして計算したんだとする強弁をして良いんですが、余りが割られる数と全く同じですから、計算はされていません。それで、計算をしたと言い張ることが不可能になります。100÷0は、従って(数学的には極めて残念なのですが)計算不能だとするしかなくなります。100ではなくてどんな数を持って来ても、この計算が出来ないと云う事態は変わりませんがたった一つだけ例外があります。0÷0です。これは余りが0です。詰まり、割り切れたから余りが出なかったのです。商は不定だが割り切れた、計算が出来た、とそう強弁することが0÷0では出来るのです。従って答は、不能ではなくて不定になります。 さてこのことを頭に入れておいた上で本題に戻りましょう。
 ここで等速直線運動の速度の連続瞬間変化率の掛け算をやっていると云うことは、ここで 0÷0 をやっていると云うことです。詰まり、等速直線運動の速度の連続瞬間変化率の掛け算なんて云う力学的にとんでもないことをここで使ったと云うことは、答が0にしかならない数式を、答は何んでもかまわないと云う数式へと変換することをここでやっていると云うことなのです。で、最初が0でも、本人お好み勝手の答を最後で正解として出すことが出来たのです。
 ですから、実は、この数式の変形操作でなら、何も最後の数式をE=mc2 にする必要もないのです。E=m23 でも、E=m34 でもご自由に、なのです。勿論、E=m45 の数式が好みに合うとゆうので、それを法則式だとしても、実際の実験・観測との矛盾は絶対に起こりません、ご心配無く。お気楽にお好きなものを何でもどうぞ、なのです。何故なら、作った法則式がどんなに経験則と合わなくても、それは全部ニュートリノが引き受けて、きれいサッパリ水に流して、矛盾なんて全く無かった事にしてくれるんですからね。要するに、ニュートリノが存在している以上、E=mxy のx、yにどんな数を採用しても、それは絶対無矛盾の物理法則になってしまうのは当然の事なんです。
 さて、ところで。
 「円周率とは直径と円周の長さの比である」と云う円周率の定義を、しかしどんなにイジクっても、実際の計算をしない限り円周率の3.14・・・は出て来ませんよね。言うまでもなく、円周率の定義と円周率そのものとは、まったく別物なんですから。そして勿論、算数の四則演算で使うのは、円周率の定義じゃなくて実際の円周率の3.14・・・ですよね。
 さて、では、です。
 また一番最初の数式(A)を良く見て下さい。ところが更に、で、困った数式じゃないですか?これは?
 「そう言われても、えーと。あれ? この数式(A)って、何かの力学的な事実を書き出しているって数式じゃないんじゃないの? これ、実は、ただの「エネルギーと云うものをこう定義する」と云うだけの数式なんじゃないの?」
 はい、そうです。数式(A)は、実は定義式です。その実質はその定義で表示される別の独立した量にあるもので、その定義式自身は虚無なのです。詰まり、E=mc2 は、虚無から存在をデッチ上げちゃったと云うことなんです。
 E=mc2 はそうゆう式なんですよ、と云うことです。
 でもそうゆうことですから、ここでも、「あらら〜・・・、どうすんの・・・・、これ・・・・・、・・・・・・」でしょう?