憂楽帳:「物語」を消す
毎日新聞 2012年04月13日 西部夕刊
昨年2月、就活中の鹿児島大の学生が走行中の高速バスのハンドルを奪って横転させ、12人が負傷する事故があった。学生は殺人未遂容疑で逮捕され、就活に悩んだ青年が乗客を巻き添えにして死のうとした事件という「物語」が流布された。精神科医の野田正彰さんから電話をもらうまで、私もそう思い込んでいた。
実は事故当時学生は統合失調症の急性期にあり、激しい妄想や不安から逃れようと、バスを止めてくれと何度も運転手に頼みに行っていた。結局願いは聞き入れられず、苦しみに耐えかねて起こしてしまった事故だった。
学生は不起訴となり、心神喪失者等医療観察法による入院が今も続いている。鑑定した精神科医全員が、病気は一過性で治癒するタイプと診断し、既に症状は消失しているという。
野田さんは昨年11月、学生の郷里の島を訪ね、集落の人々に病気について説明している。誤解を解いて温かく迎えてもらうためだ。学生が退学を免れたのも、処分すべしとの声に所属ゼミの准教授が懸命に抗弁したからだ。
広まった「物語」を消す取り組みは地道だが、尊く美しい。【福岡賢正】