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第一章
 山井善治郎が地球から召喚されたその日の夜、カープァ王国女王アウラ一世は、私室に腹心の部下数名を集め、非公式の会合を開いていた。
 テーブルの上に添えられた燭台の炎が、広い室内を薄暗く照らし出す。
 アウラは、南国らしい蔓を編んで作られた椅子の上で足を組み、集まった腹心の部下達を見据え、口を開く。

「で、婿殿のご様子は?」

 最初に話を振られたのは、一番端に控えていた、長い金髪の若い侍女だった。

「はい。先ほどやっと眠られたようです」

「そうか、良かった。しかし、婿殿は随分と夜にお強いようだ。今後は後宮の照明代を別途用意しておいた方が良いかもしれんな」

 アウラは考え込むように組んだ腕の上に顎をのせ、そう呟いた。
 善治郎が聞けば、不本意に感じる評価だろう。現在の時刻は、精々夜の十時前後。平日の帰宅は深夜零時、一時が当たり前だった善治郎の感覚でいえば、恐ろしく早い就寝である。
 善治郎としては、自分が寝るまで仕事から解放されない侍女達に気をつかい、たいして眠くもないのにあえて火を消してベッドに潜り込んだのだ。
 それを、「遅い」「夜に強い」などといわれては、立つ瀬がない。

 しかし、それも無理はない。その気になれば電気で二十四時間、いつでも十分な灯りが取れる現代日本と、灯りといえば原則、松明、蝋燭、ランプといった『炎』その物しか存在しないこの世界とでは、夜という時間帯に対する認識が根本的に違う。
 この世界では、夜開いている店舗というのは、ごく一部の職種に限られている。非常に忙しい王宮の中枢部でも『夜は寝るもの』という認識が、強く染みついているのである。

 アウラの言葉を受け、正面に立っていた文官らしき細面の中年男が、発言する。

「なにはともあれ、ご婚約成立、おめでとうございます、陛下。して、陛下はゼンジロウ様の人となりを、どのように見られましたか?」

 中年の男――ファビオ・デウバジェは、アウラの秘書官である。秘書官とは、本来それほど高い権限を持つ役職ではないのだが、現在カープァ王国は、女王であるアウラが宰相も元帥も置かず、政府と軍を直接指揮しているという関係もあり、『女王の右腕』と称される彼の権限は、その役職からは想像もつかないくらいに大きい。

 女王は、信頼する腹心の言葉に、小さく肩をすくめると、

「予想していたより遙かに頭が切れる御仁だ。冷静な判断力もあるし、度胸もそれなりに据わっている。これは『悪い誤算』だな」

 そう、言った。
 褒め言葉にしか聞こえない評価を、『悪い誤算』と言い切るのは、女王が夫に有能さを求めていない証拠である。
 アウラにとって理想の夫とは、ふってわいた贅沢におぼれ、金や女、美食といった即物的な欲望を満たすだけで満足し、政治権力には一切興味を示さない男である。

「特にあの、最後の質問。ゼンジロウ殿は、恐らく私の意図に気づいていた。その上で、こたびの婚姻を受け入れてくれたのであろうよ」

 アウラは、昼間のやり取り思いだし、クツクツと笑う。なにせ、わざわざ「もし私が、結婚した後、後宮に引き籠もり、可能な限り外部との接触を断ち、ただひたすらダラダラと遊びほうける日々を過ごしたとしたら、どう思うか?」なとど、ダイレクトに聞いてくるくらいだ。
 こちらが夫に何をして欲しいのか、より正確に言えば「何をして欲しくないのか」、十全に理解していると考えた方が良い。

「最初は平民の生まれ育ちだと思ったのだが、あの聡明さからすると、婿殿は異世界の貴族階級なのかもしれん」

「確かに、ありえますね」

「立ち振る舞いやマナーなどには少々疑問が残りますが、無学な一般庶民としては少々不自然なことは、事実です」

 アウラのかなり的を外した予想に、その場に集まった腹心達は首を縦に振り、同意を示した。
 この辺りは、アウラ達もつい異世界を自分たちの世界の常識に当てはめて考えてしまっている。この世界では、教育を受けるというのは、王族、貴族、一部の金持ちだけに許された特権である。

 アウラ達に取って、大多数の平民は、良くも悪くも無学で無教養な存在に過ぎない。一応、見たみたい陸全体を見渡せば、平民にも門戸を開いている教育機関というものが全く存在していないわけではないのだが、現代日本のように、国民全員に九年間の義務教育を施している国は、完全にアウラ達の想像の外にある。

「しかし、そうなるとゼンジロウ様がこたびのご結婚を受けいれられたのにも、なんぞ裏があってもおかしくはないぞい。ゼンジロウ様との婚約を破棄されるのであれば、一ヶ月後の再召喚の儀は取りやめにしますぞよ」

 そう言ってきたのは、善治郎がこの世界に来た時にアウラの左隣に立っていた、紫のローブを纏った初老の男である。カープァ王国宮廷魔術師団・筆頭魔術師・エスピリディオンの言葉に、アウラはフンと鼻を鳴らすと、ヒラヒラ手を振り答える。

「冗談を言うな、爺。そして、代わりに、ギジェン家の『餓狼』や、マルケス家の『操り人形』を私の婿にしろと言うのか? そんなことをしたら、せっかく戦乱を生き延びた、カープァ王国が内憂で滅ぶぞ」

 にべもない女王の言葉に、苦笑を浮かべた老魔術師は、長い灰色の髭をしごくと、女王に酷評された国内の婿候補のフォローをする。

「陛下、それはあまりなお言葉ですじゃ。ギジェン家のプジョル卿は名将と呼ぶに相応しい武人じゃし、マルケス家のラファエロ卿も、極めて有能な文官じゃぞ」

「爺に言われずとも、分かっている。あいつ等を今の地位に就けたのは私だぞ。しかし、どれほど有能であっても、過ぎた野心家や、親の意向に一切歯向かえない坊やは、私の夫には向かない。そう言っているのだ」

 アウラの人物評価は、辛辣ではあっても決して的を外しているものではなかったため、老魔術師はそれ以上何も言わなかった。

「では、やはり、ご結婚はゼンジロウ様と?」

 話を元に戻す、細面の中年男――ファビオの言葉に、アウラは簡単に頷き返す。

「ああ。予想より知恵が回るところなど、少々気になる点はあるが、人格的にも及第点だ。少なくとも、『餓狼』や『実家の操り人形』とでは、比べものにならん。王家の血も十分に濃い。あれならば、貴族達からも表だった反対意見は出ないだろうよ」

 カープァ王家の血統魔法である「時空魔法」を次代に正しく継承させる。それは、この世界では十分に大きな大義名分となる。
 善治郎の王家の血が、国内貴族の誰よりも濃いことが一目瞭然である以上、表だってアウラと善治郎の結婚に反対できるものはいない。

「しかし、身分違いどころか、世界違いの相手じゃぞ。結婚をしたとしても果たしてその後、上手く家庭を築くことが出来るかどうか、問題は多いと思うがのう」

 先のことを心配する老魔術師に、アウラは意味ありげに笑い返す。

「まあ、それは、大なり小なり誰と結婚しても出てくる問題だ。後は、私の誠意と努力の問題だろうよ。昼間、婿殿にも言ったとおり、全てはこちらの都合で結ばれる婚姻なのだ。国政に影響を出すような無茶を言わない限り、婿殿の要望は受け入れるさ」

 昼間、アウラが善治郎に見せた誠意ある対応は、決して表面だけのものではない。
 アウラ自身、心理的には一方的に巻き込んでしまった善治郎に負い目はあるし、理性的に考えても、夫となる人間に誠意ある対応をとることは、理にかなっている。
 夫は部下ではなく、家族である。順調にいけば今後何度も肌を重ね、生を全うするまでの何十年という時間を、寄り添って生きる伴侶なのだ。
 いがみ合っていては、疲れるだけである。

「分かりました。そこは『家』の問題ですので、陛下にお任せします。しかし、王家が子をなすか否かは、王国の問題です。万が一、『夜の営み』に不具合があるようでしたら、率直にご報告お願いします。
 幸い、ゼンジロウ様は、『時空魔法』の習得も不可能ではないくらいに、『王家』の血が濃いお方。プジョル卿や、ラファエロ卿と同程度に王家の血を引いている『女』は、現在の王国にも幾人かおります故」

 率直に、普通であれば無礼極まりないことを言ってのけたのは、ファビオ秘書官だった。
 確かに、善治郎という濃い王家の血を持つ男の存在が明らかになった今、状況は当初とは変わっている。

 これまでは、『時空魔法』を発動可能な人間がアウラしかいなかったため、アウラが子をなすことが至上命題であったのだが、それよりは多少劣るものの、今は善治郎という潜在的には『時空魔法』が使えてもおかしくないレベルの、王家の血を引く男が現れたのだ。
 極端な話、これまでの前例に立ち戻り、アウラには生涯独身のまま女王を務めて貰い、王家の後継者は善治郎と王家の血を引く貴族の娘の間に生まれた子、という選択肢も存在する。

 元々、女王の結婚は、「王権の絶対性」と「家の家長は男」という、法と文化の矛盾を発生させてしまう行為なのだ。
 善治郎の存在を知れば、王家の血を引く娘を持つ貴族達が、その辺りの問題を盾に取り、女王の結婚破棄と、自分の娘と善治郎の婚姻を迫ってくることは、十分に考えられる。

 ある意味、山井善治郎の存在は、奇貨であると同時に、大きな爆弾でもあるのだ。
 だが、女王アウラは、腹心の無礼な言葉に怒るそぶりも見せず、椅子の上で足を組み直すと、意味ありげに答えるのだった。

「ああ。その辺りは、後日の問題だが、ある程度は対応も考えている。だが、恐らくお前のその懸念は、無用だよ。婿殿との子作りは上手くいくさ」

「ほう? その自信の根拠をお聞きしてもよろしいですかのう?」

 興味深げに問いかける、老魔術師にアウラは艶然と笑い返し、答えた。

「なに、簡単なことだ。今日の夜、婿殿と向かい会って夕食を取ったのだが、婿殿の視線は痛いくらいに私の胸元に注がれていた。本人は、隠していたつもりのようだが、あれは間違いなく劣情の視線だ。

 どうやら私の肢体は、婿殿の情欲を刺激するに十分なものであるようだ」

 そう言ってアウラは、その特大の乳房を誇るように、胸を張る。
 男のチラ見は、女にとってはガン見。
 どうやら、善治郎の邪な思いは、完璧に女王様にばれていたようであった。



 翌朝、善治郎は、王宮の客室で目を醒ました。
 目覚めたばかりの善治郎の視界に飛び込んでくるのは、豪華なベッドの天幕である。
 見覚えのない光景に、一瞬身体をビクリと震わせる善治郎であったが、しばらくして自分が昨晩どこで就寝したかを思い出し、肩の力を抜く。

「……ああ、そうか。ここは異世界、なんだよな」

 善治郎は、自分が住んでいる六畳間より広そうなベッドから足を下ろした。
 足元に用意されたスリッパの様な履き物をつっかえ、広いゲストルームを歩きく善治郎は、自分が無意識のうちに右手で脇腹を掻いている事に気づく。

「うわ、痒っ。あっちこっち、虫に食われているな、こりゃ。昨日は半分勢いで、結婚を承諾しちゃったけど、ちょっと早まったかもしれんなぁ……」

 今更ながら、善治郎はそう呟く。
 昨日一日、生活をしただけで、善治郎はこの世界が現代日本と比べ、どれだけ不自由を強いられる世界であるか、実感させられていた。

 昼食と夕食に出された食事自体は中々に美味しい物であったが、一緒に出された水や酒は異様にぬるかった。
 善治郎は、ビールと発泡酒の違いも分からない程度の貧しい舌の持ち主であるが、日本人らしく「発泡酒はギンギンに冷やしたものがジャスティス」、と断言している人間である。
 そんな善治郎にとって、夕食に出された果実酒は、味以前の問題として、そのぬるさがたまらなく気持ち悪かった。

 ぬるいと言えば、気温自体も問題だ。昨日アウラから聞いたところによると、ここカープァ王国は日本の関東圏と比べてもかなり暑い地方のようだ。
 一番寒い季節でも、街を歩く者が長袖を着ることはほぼ無く、もっとも暑い季節には、気温が体温よりも高くなるため、人々は出来るだけ狭い空間に身を寄せ合い、互いの体温で『涼を取る』のだという。
 そういえば、インドの夏の逸話として、似たような話を聞いたことがあるなぁ、と善治郎は半ば顔を引きつらせながら、思いだしたものである。
 この世界には、温度計というものが存在しないので、はっきりとは分からないが、恐らく冬の最低気温で二十度弱、夏の最高気温は四十度から四十五度くらいを覚悟しておいた方が良さそうだ。
 しかも、当然ながらこの世界には、エアコンなどという代物はない。エアコンのある日本の夏しか知らない善治郎には、この暑さはかなりの強敵となるだろう。

 実際、昨晩も暑く寝苦しかった。今はまだ夏真っ盛りではないというが、それでも善治郎は寝付くまで、最低でも一時間以上、キングサイズのベッドの上でゴロゴロを寝返りを繰り返した。
 もっとも、寝苦しかったのは暑さのせいだけではない。快眠を邪魔するもう一つの要員が、虫だ。
 どうやら、この世界には窓ガラスという代物が存在していないようなのである。そのため、窓は全て木戸になっており、昼間は光を取り入れるため、全て解放している。当然、虫は入りたい放題だ。
 一応ベッドの天幕が、蚊帳の役割を果たしてくれるようなのだが、そんなもので全ての虫をシャットアウト出来るはずもない。
 結果、朝起きたときには、善治郎は身体のあちこちを虫に食われまくっていた。

 だが、それらの不具合を全て合わせたより善治郎を閉口させたのが、夜の不自由さだ。
 正直、電気のない夜というのが、こんなに不便なものだとは思いも寄らなかった。
 アウラと夕食を取った食堂だけは、大量の蝋燭を使った大きなシャンデリアでそれなりに明るく照らし出されていたが、廊下を歩くときは、先導するメイドさんが持つランタンだけが頼り。
 部屋についても、灯りは机の上にランプが一つ備え付けられただけである。
 その灯りで本を読もうとすれば、確実に目を悪くすることだろう。

「昔の人は早寝早起きだったって言うけど、分かるなぁ。だって、どう考えても夜は寝る以外なにもできねーもん」

 つい、ブチブチ文句を漏らしながら、着替えを済ませる。
 王宮やお屋敷ものでは定番の、メイドさんによる「着替えの手伝い」は昨晩のうちに断ってある。
 現在の善治郎の服装は、腰を紐で縛るゆったりとしたズボンと、膝丈くらいあるネグリジェのようなブカブカの上着である。
 これが、王侯貴族が使うもっとも一般的な夜着だという話だったが、実際使ってみた善治郎の感想としては、これならばTシャツとトランクスだけで寝た方が、ずっと寝やすい。元々寝相の良い方ではない善治郎は、何度も寝返りを打っているうちに、自分が着ているネグリジェに肩固めをかけられてしまった。

 仮にもここは王宮で、善治郎は非公式ながら女王の王配というスペシャルゲストだ。衣食住、全てにおいて、最高のものを用意されたのだろうが、それでもなお、現代日本では一般庶民でしかない善治郎を満足させうる代物ではなかった。
 時代の違い、文明レベルの違いとは大したものだ。
 借り物の夜着から、着慣れた自分の服へと着替え終えた善治郎は、ベッドの端に腰を下ろし、メイドさんが朝食に呼びに来るのを待つ。

「改めて考えると、日本って恵まれてたんだなぁ。大体の家に、冷蔵庫もエアコンもあるし。それに比べてこっちには、電気その物がないのか。でもなあ、こっちなら働かなくていいんだよなー。それに、アウラさん、めっちゃ綺麗だったし」

 ぬるい酒、寝苦しい部屋、暗い夜を経験した善治郎をなお、引きつけてやまないのが、昨日略式ながら、婚約を結んだ、アウラ・カープァの魅力である。
 夕食時、大胆にスリットの入った赤いイブニングドレス姿で、善治郎の前に現れたアウラは、改めてその魅力的な微笑と、官能的な肢体で異世界人の婚約者を魅了してくれた。
 女王陛下の大胆な艶姿にすっかり魅入られた善治郎は、不自然ではない程度に(と、善治郎自身は思っている)、その視線をアウラの豊かに実った胸の谷間や、スリット間から除く太股に向け続けた。
 今思い出しても、あの尻、乳、太股には、現代日本の生活を投げ打つだけの価値は十分にあるように思える。

「そうだよな。考え見れば、俺、今回こっちの世界に自転車を持ち込んでるじゃないか。ってことは、一ヶ月後に来るときもある程度の物は持ってこられるってことだろ? よし、帰ったら俺の婿入り道具のリストアップだ!」

 そう言って善治郎がパチンと両手を鳴らし合わせたちょうどその時、カランカランと入り口のベルが鳴らされる。

「はいっ!」

「失礼します。朝食の用意が調いました」

 ドアの外から聞こえてくる聞き覚えのある若い女の声に、善治郎は大きな声で答える。

「はい、今行きます!」

 ベッドから立ち上がった善治郎は、足早に入り口のドアへと駆け寄っていった。



 山井善治郎が、カープァ王国にとってスペシャルなゲストである事は事実だが、現時点ではその存在は、女王アウラとその腹心しか知らない極秘の存在でもある。
 そのため、昨日の昼・夜に続く、異世界で三度目の食事となる今朝の朝食も、善治郎と同じ食卓座るのは、婚約者であるアウラ唯一人であった。

 善治郎の貧しい語彙で現せば、カープァ王国の文化は、『典型的な中世ヨーロッパ風ファンタジーと未開の南国風文化を足して二で割ったような感じ』となる。
 その気なれば、三十人くらいが同時に食事を取れそうなその長いテーブルは、驚いたことに一本の丸太を二つに割り、その表面をピカピカに磨き上げた代物だ。
 一体樹齢何年の木なのか、善治郎には想像もつかない。ここまでの大木を一本まんま使うとなると、そのコストは大理石作りのモノより遙かに高くつくだろう。
 その大きな木製のテーブルには、銀食器に盛られたスープや、丸パンを乗せた籠が並べられている。善治郎はアウラと楽しく談笑しながら、異国情緒あふれる朝食を取っていた。

「すでに、送還の準備は出来ている。星の並びも今日の午前中いっぱいは問題ないゆえ、いつ送還するかはゼンジロウ殿次第だ。そちらの都合の良いときに声を掛けてくれ」

 スープ皿の底を拭った丸パンの欠片を上品に口に入れ、ゆっくりと咀嚼、嚥下し終えたアウラは、相変わらず落ち着いた声で、そう善治郎に現状を報告する。
 一方、異世界のテーブルマナーなど知るはずもない善治郎は、アウラがどのように食事を摂っていたかを思い出しながら左手でスープ皿を傾け、銀のスプーンでその琥珀色の液体をすくい、恐る恐る口に運ぶ。
 
「ありがとうございます、アウラさん。そうですね、帰る時間はいつでもいいです。ただ、一つお聞きしたいのですが、召喚や送還の時、私はどれくらいの荷物を持って世界を行き来出来るのでしょう?」

 アウラはこの様なプライベートの食事で、うるさくマナーを守らせる人間ではないのだが、今後女王の伴侶として、善治郎が公式の場で食事をする機会は必ずある。
 今から、食卓マナーを覚えようとしている善治郎の様子に好感を覚えたアウラは、あえて「マナーなど気にせず楽にされてはいかがか?」と言う言葉を飲み込み、微笑み返した。

「うむ? 召喚魔法とは人を召喚するものだからな。基本的には人が無理なく身につけられるモノしか、持ち運ぶことは出来ないはずだ。ゼンジロウ殿が偶然持ち込んだ、あの不思議な乗り物ぐらいが限界だろう」

 期待を大きく外すアウラの返答に、善治郎は思わず眉をしかめる。

「うわっ、本当ですか? 困ったな-。それじゃ、大したものは持ち込めないか……」

「ゼンジロウ殿? なにか、我が王宮で気に入られたモノでも?」

「あ、いや。今回の事じゃなくて、次の、一ヶ月後にこっちに来るときのことです。出来れば、あっちの世界の道具とかを、色々持ち込もうと思っていたのですが……」

「ああ、なるほど」

 善治郎の返答に、アウラは得心がいった。
 考えてみれば善治郎にだって、向こうの世界に生活拠点もあれば、財産も所有しているだろう。昨晩、腹心達と予想したとおり、善治郎が向こうの世界の貴族や富貴層なのだとすれば、手放したくない財産が、両手で抱えきれないほどあっても、おかしくはない。

「それは確かに、ゼンジロウ殿の立場で考えれば、何とかしたい問題であるな。さて……」

 もとより婿殿の要望には可能な限り答えるつもりでいる女王は、何か手はないか、思案した。

「…………ああ、そうだ。もしかすると、あれが使えるかも知れぬ」

 頭の中であらゆる可能性を検索したアウラは、一つ使えそうな手段に思いいたり、ポンと手を合わせる。

「アウラさん、なにか方法が?」

 喜色を浮かべ、椅子から腰を浮かせかける善治郎に、アウラは一つ頷くと、

「うむ。時空魔法の基礎である結界の魔方陣が描かれた、絨毯がある。
 今回の帰還のさい、ゼンジロウ殿が絨毯を向こうの世界に持ち込み、一月後、ゼンジロウ殿を再びこの世界に召喚するとき、ゼンジロウ殿が結界を発動させておれば、恐らく結界の内部のモノとひとまとめにしてこちらに引き込むことができるはずだ。
 所詮は絨毯一枚分、ゼンジロウ殿の全財産を持ち込むことは不可能であろうが、身一つで運べる量と比べれは、格段に増えるであろう?」

「へえ、それなら結構持ち込めそうですね! あ、でも私は潜在的にはともかく、現状は魔法も魔の字も使えないのですが……」

 喜色の後落胆と、一喜一憂する善治郎に、アウラは「心配無用」と笑って諭す。

「大丈夫。あくまで基礎の基礎ゆえ、魔方陣はただ魔力を注ぎ込むだけで発動する。最悪、それも出来ないのであれば、少量の血を絨毯にしみこませればよい。血には、高濃度の魔力が内包されておる」

「あ、それなら私でもどうにかなりますね。なにからなにまで、ありがとうございます、アウラさん」

「なに、礼には及ばぬよ。婿殿が私に差し出して下さるものと比べれば、微々たるものでしかない」

 アウラはそう言って、大物然とした笑みを返した。
 魔方陣絨毯の価値を知らない善治郎は、アウラの好意を素直に受け取っていたが、その物の価値を正確に知れば、アウラがそれくらい誠実に善治郎をもてなそうとしているか、少しは理解できたかも知れない。

 魔方陣を描いた絨毯というのは、歴とした魔道具である。魔道具は、『付与魔術』と呼ばれる特殊魔法で作られる。
『付与魔術』もカープァ王家の『時空魔法』と同様に、とある王家の人間だけが使える秘術だ。当然、『付与魔術』の産物である魔道具は、極めて数が少なく、その値段は天井知らずとなる。
 まして、その絨毯に描かれている魔方陣は、基礎の基礎とはいえ『時空魔法』の魔方陣だ。言うならば、二つの王家の秘術が架け合わさった逸品。それは、カープァ王家と『付与魔術』を継承する王家との友好の証ともいえる。問答無用の国宝クラスだ。

「無論、貴重な代物であることは間違いない。向こうの世界に忘れてくるようなことがないように願いたい」

 だが、アウラは善治郎に心理的な負担を掛けることを嫌ったのか、そんな内情は一切知らせず、ただ何気ないように、そう付け加えるに留まった。
 
「分かりました。必ずお返しします」

「うむ、お願いする。他になにか、要望はないか? すでに貴方と私は結婚の約束を交わしあった身、遠慮は無用だぞ」

 朝食と食べ終えたアウラと善治郎は、柑橘系の果実の汁を混ぜた水を飲みながら、話を続ける。甘めのレモンのような味がするその水は、爽やかなのど越しで善治郎の口を楽しませる。これで、氷でも浮かべて冷たくして飲めば、最高だ。
 内心で相変わらず贅沢なことを考えつつ、善治郎は、ふと思いついたように言う。

「そうですねぇ、他にはこれと言って……って、そうだ。婚約だ。結婚するんですよ、私達。それなら、アウラさん。あなたの『左の薬指』にピッタリの指輪はありませんか? あれば、一つ貸して欲しいのですが」

 この世界には『婚約指輪』や『結婚指輪』といった風習はないのか、善治郎の意図が分からずに、アウラは不思議そうに首を傾げる。

「それは、探せばすぐに見つかるであろうが、何に使うのだ?」

「それは、まあ、その……一ヶ月後のお楽しみ、ということで」

 例え『結婚指輪』という風習は知らずとも、「サイズの合う指輪を貸してくれ」という言葉と「一ヶ月後のお楽しみ」という言葉を組み合わせれば、あちらの世界に戻る婚約者が自分に指輪をプレゼントしようとしていることくらい、簡単に推測できる。

 アウラは艶を多分に含んでいるのに、媚を感じさせない不思議な笑みを浮かべ、善治郎と正面から視線を合わせる。

「分かった。楽しみにさせてもらう。『左薬指の指輪』が、婿殿の世界ではどのような意味を持つのか、一月後には教えてもらえると考えて良いだろうか?」

「あ-……はい。その時には、必ず」

 すでに八分方、こちらの意図が読まれていることに気づいた善治郎は、苦笑と共に、そう言葉を返すのだった。



 一度目の転移は気づかないうちに終わったが、二度目の転移は善治郎に軽い酩酊感のような物を残した。

「おおっと」

 一歩横にタタラを踏んだ善治郎は、頭を振って視界が歪む感覚を振り払い、周囲に目を配る。
 アスファルトで固められた道。そこを走る無数の自動車。道の両わきに立ち並ぶのは、コンクリート造りの雑居ビル。
 見慣れた風景と、排気ガス臭い空気の臭いに、善治郎は『帰ってきた』という実感を覚える。
 あまりに変わらない風景に、「ひょっとして、あの異世界での経験は、ただの白昼夢だったのでは?」という疑念すら覚えるが、そうではない証拠に出かけたときは自転車に乗っていた善治郎が、今は徒歩で代わりに筒状に纏めた大きな絨毯を両手で持っている。
 そして、左の小指にはアウラから預かった金の指輪。
 それらの物的証拠が、昨日の一日が夢ではなかったと、善治郎に確信させてくれる。

「っていうか、なんか連続しているふうに見えるけど、実際には丸一日が過ぎてるんだよな。……過ぎてるんだよな?」

 独り言を呟いた善治郎は、途中で自分の感覚に自信が持てなくなった。異世界で一日を過ごしてきた善治郎は、単純に今日が日曜日だと思っているが、地球でもその分の時間が同等に流れたという、その保証はない。
 もしかすると、まだ土曜日なのかも知れないし、最悪、こちらの世界では何日も時間がたっている可能性もある。
 まあ、周囲の景色に大きな変化はないし、気温や太陽の角度もほとんど変わっていないので、まず大丈夫だとは思うが。

「やばい、まずは現状確認だ」

 悪い方向に想像を働かせた善治郎は、ブルッと身体を震わせると、両手でしっかり撒いた絨毯を担いだまま、早足で自宅へと向かうのだった。





「よかった。時間のズレはほとんどないみたいだ」

 六畳一間の独身アパートに戻り、電波式の置き時計で今日の日付と時間を確認した善治郎は、ホッと安堵の溜息を漏らした。
 善治郎が異世界に持ち込んだ腕時計と電波時計は、同じ時刻を示している。
 どうやら、向こうとこっちの時間の流れはほとんどシンクロしているらしい。これは幸いである。なにげに軽く考えていたのだが、向こうとこっちで時間の流れに差があるとすれば、善治郎の異世界生活ブランは根底から狂う。
 なにせ、再召喚の約束は、あくまで「異世界基準の三十日後」の約束なのだ。もし、異世界とこちらの世界で時間の流れが異なっているのだとすれば、これから善治郎は毎日いつ召喚されるのか、ビクビクしながら生きなければならないところだった。

 そうなれば当然、異世界に婿入り道具を持ち込むのも夢のまた夢だ。なにせ、魔方陣の絨毯を発動させるには、少量とはいえ善治郎の鮮血を垂らしておく必要があるのだ。まさか、いつ召喚されてもいいように、二十四時間体勢で、ダラダラ血を流し続けておくわけにもいくまい。

 ともあれ、最大の懸念事項が杞憂に過ぎないと分かった善治郎は、一転明るい表情で部屋の隅に設置してあるパソコンの前に座り、電源を入れる。 

「よし、時間はあるようでないんだ。検索、検索」

 善治郎は、パチンと両手で両頬を張ると、気合いを入れ直して、声を上げる。
 一ヶ月という時間は、長いように見えて短い。
 取引先とアポを取って、時間を調節して、プレゼン用の資料を作っているうちに、気がつけば過ぎ去っている程度の時間でしかない。
 善治郎は、思いつく限りの検索ワードを片っ端から入力していった。





「……がああ! やっぱり無理か、これは」

 数十分後。善治郎は、検索サイトを開いたパソコンの前で、頭をかきむしっていた。
 異世界生活で、切実に欲しいと思ったものの大半は、電気機器だ。エアコン、冷蔵庫、照明など。どれ一つとっても、安定した電気の供給無しで使える物は存在しない。
 よって、善治郎が最初に目を着けたのが、家庭用の小型発電機だったのだが、当然といえば当然だが、異世界に持ち込んで、年単位で電気を供給し続けてくれるような代物は、そう簡単には存在していない。

「一番簡単なのは、ディーゼルやガソリン式の発電機なんだけどなぁ。燃料がなあ……」

 キャンプ用品として売られているこの手の発電機は、設置の手間もなく、簡単に電気を供給できるが、当然ガソリンや軽油といった、特殊な燃料を必要とする。
 以前、バイオディーゼル燃料を、自作している人の話を聞いたことがあったので調べてみたが、異世界で善治郎のような素人が、再現できる代物には見えなかった。

 大ざっぱに言えば、バイオディーゼル燃料の材料は、『植物油』と『メタノール(メチルアルコール)』と『苛性ソーダ』の三つだ。
 このうち、異世界で入手可能なものは植物油のみ。メタノールと苛性ソーダは善治郎が自作するしかない。メタノールは炭焼きの時に生じる木酸液を蒸留すれば作れるらしいし、苛性ソーダはイオン交換膜で繋がった二連水槽と電源があれば、作れるという情報を得たが、どう考えてもどちらも善治郎の手には余る。

 無論、薬局でエタノールや苛性ソーダを大量に買い込み、向こうに持ち込むという手はあるが、そんなことをするくらいなら、最初からガソリンスタンドに行って予備の軽油をポリタンクに詰め込み、持って行った方が早い。だいたい、そもそもそんな絨毯一枚分しか持ち込めない量の燃料では、電気の供給は一ヶ月も持たないだろう。

「火力は駄目、と。となると、後は風力か、ソーラーか?」

 風力は比較的現実的だ。異世界でも風は吹いている。しかし、気になるのはその発電量の気まぐれさだ。文字通り『風任せ』なのだから、万が一凪の熱帯夜などになられては堪らない。
 ソーラーに至っては論外だ。善治郎が一番切実に必要としているのは、『夜の照明』の電力なのだ。
 昼間しか使えない電気など、魅力が半減どころの話ではない。一応、夜に対応するように、大型バッテリーを搭載したタイプというのもあるのだが、バッテリーというのは非常に寿命の短い『消耗品』なのである。

「後は、最近はやりの風力とソーラーのハイブリッド発電か。これは悪くはないよな、うん」

 善治郎は、コップに注いだペットボトルのお茶をすすり、またマウスに手を戻す。
 冷静に考えれば、このハイブリッド発電機が一番無難だろう。メーカーの売り文句では「説明書通りに組み立てれば、どなた様でも即日使用可能」と書いてある。
 その売り文句を信じて良いのならば、善治郎一人でも異世界で設置可能であるはずだ。
 しかし、そこまで結論が出かけた善治郎を悩ませているのは、偶然見つけた、もう一つの発電装置の存在だった。

「家庭用水力発電機か、こんな物もあったんだな……」

 善治郎はその魅力に取り憑かれたように、呟いた。
 風力、ソーラーと違い、場所を選ぶせいであまり一般的には広まっていないが、今や家庭用小型発電機の波は、水力にまで押し寄せている。
 水力発電の魅力は、いうまでもなくその二十四時間の持続性と、他とは一線を画する圧倒的な発電量だ。
 風力やソーラーでは、一般家庭の発電量を賄いきるのは、理想通りの風・太陽光があっても難しいが、水力は違う。メーカーのカタログスペック通りの性能を期待して良いのだとすれば、その発電量は小型の物でも一般家庭の総消費電力を上回る。

 だが、そんな魅力的な水力発電にも問題はある。

「あの王宮の近くに川とか水路とかあるのかな?」

 滞在中、王宮から一歩も外に出ていない善治郎である。王宮の周囲に、水力発電機を動かせるだけの水源があるかどうか分からないという、根源的な問題があった。
 王宮では何百人という人間が生活しているのだから、水源がないはずはないと思うのだが、なにせ相手は魔法のある異世界である。

「はい、水はそれ専用の魔術師が、毎朝魔法で作っています」

 などと言われる可能性もゼロではない。
 ならば、水力発電機とハイブリッド発電機の両方を購入すれば、とも一瞬考えたのだが、そこには予算という問題が立ちはだかる。

 残業代だけはごまかさない半ブラック企業に、数年務めている善治郎の貯金総額は、300万円強。
 20代前半の若造の預貯金としては、なかなかの金額ではあるが、目的を考えれば潤沢な資金とは言えない。
 
 善治郎が目を着けているハイブリッド発電機の値段が約50万円。水力発電機に至っては実に150万円もする。
 発電機以外にも、大型エアコンや冷蔵庫、照明器具や新しいパソコンなど、予算を回したいものはいくらでもある。さらには下着や歯ブラシ、石けん、タオル、バスタオル、鼻かみ用のガーゼのティッシュなどもまとめ買いをすれば、馬鹿にならない金額になるだろう。
 そこにアウラに送るペアの『結婚指輪』もプラスされるとなると、発電装置だけに全体の3分の2もつぎ込む訳にはいかない。
 しかし、発電装置の目処が立たない限り、持って行く電化製品が決まらない。

「あー、結局はどっちかを選ぶしかないのか。無難な小電力か、使えない危険のある大電力か。うーん……」

 即決するのは難しい問題だが、あまり時間を掛けるわけにもいかない。そこらへんのスーパーで、肉や野菜を買ってくるのとは訳が違うのだ。注文すれば、次の日に届くような代物ではないし、その設置方法、運用方法を覚えるには、ある程度の時間が必要だろう。
 設置のやり方は、マニュアルさえあれば、向こうの世界で直接試すことも出来るが、こちらで一度練習しておけば、分からないことを電話なりメールなりで、販売会社に問い合わせることができる。

 だから、決断は早い方が良い。それは善治郎もわかっている。

「わかってる。わかってるんだけどなー。あー……どっちにしよ」

 それでも善治郎は即座に結論を出せずにいた。




 翌日の月曜日、出社をはたした山井善治郎は、提出した『辞表』を前にして、難しい顔で腕を組む上司の言葉を待っていた。

「辞めるってか……」

「はい、すみません」

 元々、仕事条件の厳しい会社である。辞めていく人間はそう珍しくないのだが、善治郎の場合数年間仕事についてきて、最近やっと『戦力』となる目処が付いてきた矢先での辞表提出である。
 上司としても、入社半年の新人のように「辞めたけりゃ、勝手にしろ」とは言えない。

「実家に帰って、家を継ぐ、か。お前、そういう生活が嫌で、この仕事を選んだんじゃなかったのか?」

 辞表の理由の欄に書いた、善治郎の嘘言い訳に目を通して、上司は口元を不快げに歪めたまま、首を傾げる。

「ええ、まあ。何というか、ちょっと、心境の変化がありまして……」

 まさか、異世界の女王様と結婚してヒモになります。とは、書けないため、ここは嘘で塗り固めるしかない。内心冷や汗を流しながら、善治郎は、神妙な顔をしている。

「ふーん……まあ、辞めるって言うのを、無理に押しとどめても、碌な仕事はできねぇわな。分かった」

 長らくこちら睨んでいた上司が、そう言葉を漏らした瞬間、善治郎は思わずホッと安堵の溜息を漏らした。

 だが、そんな善治郎の喜びに水を差すように、上司は大きな声を張り上げる。

「ただし! 今お前が担当している期日の近い仕事は、ちゃんと終わらせろ。それ以外の、お前が抱えている仕事も別の人間に引き継ぎさせるんだぞ。それが終わったら、今年の新入社員の教育係だ。

 今のお前くらいまでとは言わんが、せめて仕事のイロハのイぐらいは叩き込んでいけ、いいな?」

 いいか悪かと聞かれれば、よくはない。正直今は異世界召喚の準備で、時間は惜しいのだ。
 しかし、そんなことを言って跡を濁すのも気持ちの良いものではないし、下手に刃向かって根掘り葉掘り聞かれて、万が一にも嘘がばれたりしたら、そのほうが遙かに厄介だ。

「分かりました。失礼します」

 結局、善治郎は退社の瞬間まで、無難にハードワークをこなすことを選択したのだった。





 仕事の引き継ぎや、後輩の指導まで任されるとなると、思っていた以上に残された時間は少ない。
 これは、一分一秒も無駄に出来ないと悟った善治郎は、牛丼屋で昼食を済ませると、その足で真っ直ぐ近くの宝飾店へと向かった。

「そうですね。この指輪ですと、14号から14.5号くらいになるのではないでしょうか。お客様ご自身のサイズは17号ですね」

 善治郎が持ち込んだ指輪と、善治郎自身の左の薬指を計り終えた中年の女店員は、業務用の笑顔を崩すことなくそう言った。

 そもそも宝飾店に足を踏み入れること自体初めての善治郎は、そう言われてもアウラや自分の指が、太いのか細いのかもよく分からない。

「はあ、そうなんですか」

 善治郎の様子から、すぐにこの客がまったく不慣れであると察した店員は、さりげなく説明を交えながら、話を続ける。

「お相手の方は女性としては、少々大きめのサイズになりますね。このサイズとなりますと、すぐに用意できるものは、若干数が限られるのですが」

「ええ、まあ。身長からして、私より一回り高い人ですから」

「あら、まあ。お客様だって低い方ではないのに。それだけ、背の高い方ですと、ある程度幅の太いしっかりとした物の方が、映えるでしょうね。少々お待ち下さい」

 店員はサンプルを取り出しに、奥へと引っ込む。

「あ、はい」

 残された善治郎は、自然にアウラの容姿を思い出していた。

 大柄で官能的な肢体。激しい容姿の映える、目鼻立ちのはっきりとした容姿。その性格を現しているような、火のように赤い長髪。日焼けとは根本的に違う、生まれついての小麦色の肌。
 彼女の指に映える指輪とは、どのようなものだろうか。確かに店員の言うとおり、控えめな作りの、細い指輪はあまり似合わない気がする。
 もっとも、善治郎自身一つ勘違いをしている。アウラの身長が、善治郎より高いということはない。
 むしろ、善治郎の方が指一本分程度だが、高い。正確に言えば、善治郎が172センチ。アウラは、170ちょうどくらいだ。
 善治郎の目には、アウラが170の中盤から後半くらいに見えているが、それはその全身から滲み出る雰囲気に押された、錯覚に過ぎない。

「お待たせしました。簡単な手直しで、近日中にお渡しできる物となりますと、この辺りのものとなります」

 そうしていると、後ろに下がった店員が、複数の指輪を盆のような物に乗せて、善治郎の前へ持って来る。

「へえ、結構色々あるんですね」

 そう言う善治郎が真っ先に目を向けるのは、それぞれの指輪にぶら下がった正札だ。
 貧乏性であることは分かっているが、指輪の善し悪しなど分からない善治郎にとって、一番気になるのは、懐から出て行く金額というのが、正直なところだ。

「迷われているのでしたら、まずは台座の金属から決めることをおすすめします。日本では、結婚指輪はプラチナが一般的ですが、お客様の肌の色ですと、むしろゴールドの方が指になじむのではないでしょうか。通常のイエローゴールドが派手すぎると感じるんでしたら、こちらのようなピンクゴールドのリングもございます。
 もちろん、フィアンセの方との兼ね合いが一番大事なのでしょうが」

 一般に、肌色の薄い者はプラチナや銀、濃い者は金が無難であるとされている。
 善治郎は、異世界人の血が入っているせいか、日本人としてはかなり肌色が濃い人間である。
 まして、アウラは、完全無欠の異世界人。その肌の色は、天然自然の綺麗な小麦色だ。

「ああ、相手は私よりもっと肌の色が濃いんですよ。小麦色って言うか……」

「まあ、それでしたら、やはりイエローゴールドをおすすめします。飾り石も、無色ダイヤよりカラーダイヤのほうがよろしいのではないでしょうか。失礼ですがひょとして、お相手は、海外の方ですか?」

「あ、はい。そう、ですね。日本人ではないです」

「それでしたら、台座の石は、瞳の色や髪の色と合わせるという選び方もございます。瞳や髪の色を合わせれば、身につけていてもなじみやすいですし、それだけ相手のことをよく見ているという、メッセージにもなりますから」

「は、はあ。なるほど」

 日頃、こういった場に離れていない善治郎は、店員の販売攻勢に押され、ただ店員の言うことに頷くばかりになっていた。



 数日後、期日の近かった仕事を一通り終わらせた善治郎は、新人研修の時以来となる定時帰宅を果たした自宅のパソコンの前で、苦悩のうなり声を上げていた。

「グオオ……、三年、たった三年の為に百五十万か……」

 善治郎をうならせているのは、ハイブリッド発電機、家庭用水力発電機それぞれの販売会社からの返答メールである。
 善治郎が問い合わせた内容は、大ざっぱに言って「そちらで販売している発電機は、自分で設置できる物なのか?」、「そのメンテナンスは、自分で可能なのか?」、「可能だとすれば、自己メンテナンスで稼働保証期間はどの程度か?」という三つであった。

 それに対する二社の返答はほぼ同じ物であり、「お客様ご自身の手で設置は可能であるが、不安があるようならば、設置も弊社に任せて欲しい」、「購入時の資料に目を通せば、表面的な自己メンテナンスは可能だが、保証は出来かねる。出来れば、修理もこちらに一任して欲しい」、「稼働保証期間は三年」という善治郎の希望を打ち砕く、無情なものであった。

「三年、たった三年か……」

 善治郎は、うつろな目で呟く。
 元からある程度覚悟はしていた。そもそも、万が一メンテナンスフリーで善治郎が死ぬまで稼働してくれる夢の発電機があったとしても、肝心の家電――エアコンや冷蔵庫自体にも寿命はあるのだ。
 エアコンや冷蔵庫のメーカー保証期間は、おおよそ十年弱。
 どのみち、それくらいの時間がたてば、文明の利器から切り離された異世界生活に突入することは決まっている。
 だから、持ち込む電化製品は、異文明になじむまでのいわば『補助輪』のようなものと、善治郎は考えていた。

「十年あればあっちの気候にも多少は身体が慣れるだろうし、場合によってはアウラさんに無理を言って、昔のマハラジャの宮殿みたいな、壁から水が流れる部屋とかも作ってもらえるかも知れないしなー」

 善治郎は、マウスから手を話すと、両手を天井に突き上げるようにして、伸びをした。
 こちらも、ネットで調べた知識なのだが、かつてエアコンなどという上等な物がなかった時代、莫大な財力を有するインドのマハラジャの中には、壁一面から水が流し、床の溝を伝わって外に排水されるという、大がかりで原始的な仕組みによって、涼を取っていた者もいたという。
 原理的には、昔の日本で行われていた『打ち水』などと一緒だ。水が蒸発する際に発生する吸熱現象を利用して、室温を下げるのである。

 これならば、異世界の技術でも製造は可能そうであるが、いかんせん素人の善治郎が見ても、建築コストがバカみたいに掛かることは、予想できる。
 向こうの国は、長い戦乱の世を勝ち抜いて、今まさに復興の真っ最中だとアウラは言っていた。
 そんなときに、女王の伴侶と言う名の種馬ごときが、そこまで財力と労働力を浪費することを、アウラが許すだろうか?
 少なくとも、三年後ではまず無理だ。だが、十年後ならば、順調に国力が回復していれば、ある程度の贅沢も許されるのではないか。そう考えていたのだが。

「三年じゃ無理だよなー、どう考えても。やっぱりネックはバッテリーかー」

 善治郎は、パソコンに向かい会い、考える。
 ハイブリッド発電機には、色々と精密が部品も使われているが、水力発電機に限れば問題は、ベアリング(プロペラ回転部分の軸受け)と、バッテリーに限られた。
 考えて見れば当たり前のことであるが、どのような発電機でも、バッテリーは必ずと言って良いほど組み込まれているのである。
 そのバッテリーの寿命が約三年。幸い、元々消耗品であるため、バッテリーの交換は説明書を見れば素人でも十分に可能な仕組みになっているのだが、だからといって「予備のバッテリーを大量に買っていけばOK」と言うことにはならない。

 メーカーがばら売りをしてくれない、と言うことではない。元々水力発電機は、日本の法律上と都心部の河川には設置できないため、購入者の大半は、安易にメーカーに修理を頼めないような所に住んでいる者が多い。
 そのため、不慮の事故などに対応するため、発電機の購入者が予備バッテリーも合わせて購入すること自体は、さほど不自然ではないのだが、問題は、予備は所詮予備だということだ。
 確かに、使用していないバッテリーは、二十四時間三百六十五日使い続けているバッテリーと比べれば遙かに劣化していないが、それでも三年もたてば、素人の保管状態では劣化はする。
 少々乱暴な例えだが、買いだめしておいた電池が、五年後、十年後、メーカーの保証通りの性能を発揮するか? と考えて見ると、少し理解しやすいのではないだろうか。

「けどまあ、予備のバッテリーを三つくらい持って行けば、ある程度は持つかなー? 何とか十年は持たせたいなー。ベアリングの方は十年保証だし、取り替えも難しそうだから要らないか? あ、でもどのみち十年後なら家電の大半は寿命なんだから、ダメ元で自己修理に賭ける価値はあるか」

 最初の数年を楽しむためだけで終わったとしても、電力の持ち込みは諦めたくない。
 学生の頃は、よくテレビやレンタルDVDを見ていた善治郎であったが、社会人になってからは取り溜めするばかりで、見る時間がなく、ハードディスクから落としたDVDばかりがドンドンと溜まっていった。
 サッカーのアフリカワールドカップもテレビのニュースで結果を見ただけだし、ヨーロッパチャンピオンシップサッカーも、取るだけ取って一度も見ていない。
 ネットで評判の良かったドラマのたぐいは、年に二、三本は録画していたし、善治郎が中学生の頃からずっと見続けていた、某アイドルグループがやっている日曜夜七時の一時間番組も、社会人になってからはまだ一度も見ていないのだ。

 仕事もせず、衣食住が満たされ、ただダラダラ取り溜めたテレビ番組を見る時間。
 恐ろしく、非生産的な時間の過ごし方であるが、仕事に疲れた今の善治郎には、その生活がこの上なく魅力的なものに思えてならない。
 たとえ、頭の片隅で「そのうち、そういう生活に飽きてきて、身の置き所がなくなったりしないかなあ?」とう疑問がわいていても、今は抗えないくらいに魅力的だ。

「所詮持って行けるものは、絨毯一枚分しかないんだし、日本円は持っていてもしょうがないもんな。いっちょぱーっと使ってやるか!」

 開き直った善治郎は、持って行く家電製品の情報を調べ始める。

「ええと、エアコンも頑張れば自分で設置できるよな。あれ? でも、室外機の配管はどこを通せばいんだ? あの宮殿の外壁、確かめっちゃ分厚い大理石作りだったよな? そもそも、あの滅茶苦茶広くて天井の高い部屋を普通のエアコンで、冷却できるのか? 二十畳用でたりる、か……?」

 冷静になれば、異世界での家電生活には数多くの壁が立ちはだかっているようだ。
 それでも、よりよい未来を一秒でも長く継続させるため、善治郎はさして性能の良くない頭をフル回転させるのだった。





 ◇◆◇◆◇◆◇◆




 一ヶ月という準備期間は、アッという間に過ぎ去る。
 この一ヶ月で出来る限りの準備を整えた善治郎は、床が抜けそうなくらいにぎっしりと物が詰まった六畳間の真ん中で、バクバクなる心臓を抑え、深呼吸を繰り返していた。

「そろそろか? いや、まだか……ちょっとして、あれは全部夢だったんじゃ? いやいや、そんなことねーだろ。現に絨毯も指輪もあるし。……けど、何らかの不測の事態が起きて、俺の再召喚がご破算になるってことはあるよな?」

 右手に持つカッターナイフで、定期的に左の小指の傷をほじくり、絨毯に血を垂らし続ける善治郎は、この期に及んで最大級の不安にかられていた。
 すでに、異世界に渡るための準備は整えてしまっている。
 会社はどうにか後腐れなく辞めてきたし、ガス、電気、水道、電話、携帯電話など、ライフラインの契約も全て解除してある。アパートの管理人にも今月いっぱいでこの家を出ると伝えてある。
 銀行や郵便局の口座はそのままにしてあるので、来月の十日には最後の給料が入金されることだろうが、善治郎がその糧の自分の手で掴むことはないだろう。ないはずだ。あっては困る。

 ここまで準備を整えて、万が一にも召喚されなかったりすれば、善治郎は使い道のない家庭用水力発電機や、バカみたいに長い延長コードなどを手に、ひたすら路頭迷うはめになる。

「やばい、頭がクラクラしてきた。血、出し過ぎたか?」

 目の前が暗くなってきた錯覚に襲われた善治郎がそう呟くが、そんなはずはない。先ほどから、流している血の量など、病院で年に一度受けている血液検査で抜かれる量の十分の一にも満たない。
 そのめまいや視界が狭まる感覚は、全て精神的な物に起因している。

「忘れ物はないよな? 台車の上に発電機はあるし、延長コードもある。エアコン、冷蔵庫、パソコンにお土産の酒類。各種グラスや皿とか食器も持ったし、指輪はポケット中、と」

 現在善治郎は、持っている中で一番値の張るスーツを着ている。仮にも、結婚を申し込みに行くのだ。たとえ、異文化、異世界の嫁の元とはいえ、こちらにもそれなりの格好がある。
 最初は、披露宴で新郎が着るような白スーツを用意しようかとも思ったのだが、その馬鹿げた高値に即刻それは諦めた。あれは、庶民が一度しか着ない衣類に、かけてよい金額を大幅に踏み越えている。

「結局、アウラさんに買っていくものは、指輪以外には酒だけになっちゃったけど、大丈夫だよな? アウラさん、酒好きみたいだったし」

 絨毯の片隅には、ブランデーやらウィスキーやら、はてには日本酒やワインのボトルが纏めて陳列されている。
 日頃、酒と言えば発泡酒、極まれに一本千五百円程度のウィスキーを飲む程度の善治郎にとっては、一本一万円とか二万円とか値の付いた酒など、正気の沙汰には思えないのだが、仮にも女王の土産には、そのくらい張り込む必要があるだろう。
 そう言えば、向こうで出された酒は、度数の薄い果実酒しかなかったことを思い出した善治郎は、急きょ家庭用の蒸留器を購入したのだが、果たしてこれで蒸留酒がちゃんと造れるのか、まだ試したことはない。

 まあ、成功すれば設け物、ぐらいの気持ちである。

 善治郎は、ふと冷静になって、肩に食い込んだリュックサックのヒモが、一張羅のスーツにシワを作っていることに気づく。

「うわっ、やばい。向こうで、スーツのしわ伸ばしなんて出来るのかな? だからといって、これを置く勇気はないからな。仕方ないと割り切るべきかー」

 背中に背負っているリュックの中身は、着替え一式と予備の靴。契約を解除した携帯電話とソーラー充電器。他には、乾パン、チョコレート、水のペットボトル、ダース買いしたライターとツールナイフ、手回し式のLEDライトと熱材製の毛布など、俗に言う『非常用袋』の中身に近い物がぎっしりと詰まっている。

 もし、万が一、召喚される場所が狂ったら。召喚される時間が狂ったら。絨毯の魔方陣が上手く働かず、身につけている物しか持ち込めなかったとしたら。そんな不測の事態を考えると、多少服にシワをつけても、リュックを絨毯に下ろす気にはなれない。

 もちろん、ある意味一番大事な代物であるアウラに送るペアリングは、箱ごとしっかりスーツの内ポケットにしまってある。
 善治郎は不意に、ポケットにしまった指輪を再度確認したい衝動にかられたが、生憎右手にはカッターナイフを持ったままだし、左手は小指の先からポタポタと血を流している最中だ。
 一度カッターナイフを絨毯の下ろして、内ポケットを探ってみようか。善治郎がそう考えた、ちょうどその時だった。

「ぐっ……!?」

 身に覚えのある軽い酩酊感が、絨毯の上にしゃがみ込んだ体勢の善治郎を襲う。
 とっさにカッターナイフを投げ捨て、両手を絨毯の上に付いた善治郎が、右隅のほうから『ガチャン』という音を聞いた次の瞬間、頭上から一ヶ月ぶりに聞く、迫力のある女の声が降り注ぐ。

「ようこそ、婿殿。二度目の召喚もうまくいったようで何よりだ。今度こそ、真の意味で貴方にこう言うことが出来る。この世界、我が国にようこそ。歓迎しよう、我が生涯の伴侶殿」

「アウラさん……」

 見事、絨毯丸ごと転移を果たした善治郎は、立ち上がることも忘れて、両手を広げて歓迎の意を示す女王を、惚けたように見上げるのだった。
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