10年以上前、私はある雑誌で(『世界』だったかなあ)、どこかの市長か町長が何かの会議でしたという発言を読んだことがあります。
どこかの自治体の長だということしか記憶がなく、その場所もその人の名前も覚えていませんが、その人が最後に語ったという言葉は、まるで心に焼印でも押されたかのように、ずっと忘れることができませんでした。
しかし、最近、その忘れられない発言に再会したのです。
それは、内橋克人氏の『日本の原発、どこで間違えたのか』の第5章「なぜ原発を作り続けるのか」に登場する、敦賀市長高木孝一氏の言葉でした。
この第5章の最初の節では「敦賀市長・問わず語りの”タカリの構造”」という題名がついていて、高木市長が石川県の志賀町でした「原発講演会」(昭和58年)で語った内容が取り上げられています。
(志賀町で、というところがミソですね。昭和58年というと1983年、かな。志賀原発が作られる前ですが、既に候補地に挙がっていて、原発がこれから来ようかという時期。)
一体、高木市長はそこで何を語ったのか。
昭和56年、敦賀原発で放射能漏れが起こり、一連の事故隠しとその発覚という事件がありました。
その際のことについて。(適宜、引用者が読みやすさを考えて改行しています。)
(前略)まあ、しかしながら、魚はやっぱり依然として売れない。その当時売れない、まあ魚問屋さんも非常に困りました。あるいは北海道で採れた昆布までが……。
敦賀は日本全国の食用の昆布の七割ないし八割をつくっておるんです。が、その昆布まで、ですね、敦賀にある昆布なら、いうようなことで、全く売れなくなってしまった。ちょうど四月でございますので、ワカメの最中であったのですが、ワカメもまったく売れなかった。まあ、困ったことだ、嬉しいことだちゅう……
(中略)
売れないのには困ったけれども、まあそれぞれワカメの採取業者とか、あるいは魚屋さんにいたしましても、これはシメタ!ということなんですね。
売れなきゃあ、シメタと。これはいいアンバイだ、と。まあとにもかくにも倉庫に入れようと、こういうようなことになりまして、それからがいよいよ原電に対するところの(補償)交渉でございます。
(中略)
そこで私は、まあ、魚屋さんでも、あるいは民宿でも、百円損したと思うものは百五十円もらいなさいというのが、きわゆる私の趣旨であったんです。百円損して二百円ももらうことはならんぞ、と。
本当にワカメが売れなくて百円損したんなら、精神的慰謝料五十円を含んで、百五十円もらいなさい、正々堂々ともらいなさい、といったんですが、そうしたら出てくるわ、出てくるさ、百円損して五百円も欲しいという連中がどんどん出てきたわけですよ(会場に大笑い、そしてなんと大拍手!?)
(中略)
まあ、こういうことだ、ピシャリとおさまった。いまだに一昨年の事故で大きな損をしたとか、事故がおきて困ったとか、いうひとは、まったくひとりもおりません。
まあ、いうなれば、率直にいうなれば、一年に一回ぐらいは、あんなことがあればいいがなあ、そういうふうなのが敦賀の町の現状なんです。笑い話のようですが、もうそんなんでホクホクなんですよ。
ワカメなんかも、もう全部、原電が時価で買うてしもうた。全部買いましょうとね。しかし、原電がワカメもっとってても仕様がないから、時期をみて皆さんにお返ししましょうとね。そんなことで、ワカメはタダでもらって、おまけにワカメの代金ももらった。そういうような首尾になったんです。
一年に一回ぐらい、原発事故があれば儲かっていいなあという精神構造というのも、恐ろしいものがあります。
電力会社の方も、こういうお金の使い方をして自治体を籠絡するんだなあと改めてため息が出ました。
さらに、高木市長は(内橋氏の表現を借りると)「得意満面」で、「金のなる木」である原発(とその背後にいる電力会社)の素晴らしさについてこう語っています。
で、じつは敦賀に金ヶ崎宮というお宮さんがございまして、(建ってから)ずい分と年数がたちまして、屋根がボトボト落ちておった。この冬、雪が降ったら、これはもう社殿はもたんわい、と。
今年ひとつやってやろうか、と。そう思いまして、まあたいしたカネじゃございませんが、六千万円でしたけれども、もうやっぱり原電、動燃へ、ポッポッと走っていった(会場にドッと笑い)。
あッ、わかりました、ということですぐにカネが出ましてね。それに調子づきまして、こんどは北陸一の宮、あのう、神宮と名のつくお宮さんは、敦賀の気比神宮だけでございます。これもひとつ、六億円で修復したいと、市長という立場ではなくて、高木幸一個人が奉賛会会長になりまして、六億円の修復をやろうと。
きょうはここまで(講演に)きましたんで、新年会をひとつ、金沢でやって、明日はまた富山の北電(北陸電力)へ行きましてね、火力発電所つくらせたる、一億円寄付してくれ(会場にドッと笑い)。これで皆さん、三億円、すでにできた。こんなのつくるの、わけないなあ、こういうふうに思っとる(再び会場に笑い)。
まあそんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、五十億円で運動公園はできるわねえ。火葬場はボツボツ私も歳になってきたから、これもいま、あのカネで計画いたしておる、といったようなことで、そりゃあもうまったくタナボタ式の町づくりができるんじゃなかろうか、と、そういうことで私はみなさんに(原発を)おすすめしたい。これは(私は)信念をもっとる、信念!」
…きっと、その短大、今はいろいろと苦労していると思うな。
なんというか、この絶望的なまでに無思想というか、何もない、金ということしかない、荒涼たる精神のありように、慄然とすると同時に、しかし、そういう私は関西に住んでいた時、自分が使っている電気がどこからきているか、真剣に考えたことがあったかという、慙愧の念に駆られます。
私は、80年代のあの浮かれた「繁栄」に幻惑されて、日本バンザイ人間だったではないか、物を大量に作って売りまくるということ、それがどういう意味なのか、本当の意味で考えたことはなかったし、その物をたくさん作るということは莫大な電気を必要とするのだということに一度たりとも頭は向かなかったではないかと、そのことを思うと悄然としてしまいます。
さて、この節の終いの部分で内橋氏が静かな怒りをこめて書きつけた高木市長の最後の言葉、それがまさに私の心に刻印されて時々、思い出されては何とも言えない気分に駆り立てられていた言葉だったのです。
そこを読んで、あっ!この人だったのか、あの忘れられない暴言を吐いたのは!!と叫びたくなりました。
高木市長はこう言って、この講演を締めくくったのです。
えー、その代わりに百年たって片輪が生まれてくるやら、五十年後に生まれた子どもが全部、片輪になるやら、それはわかりませんよ。
わかりませんけど、いまの段階ではおやりになったほうがよいのではなかろうか……。こういうふうに思っております。どうもありがとうございました(会場に大拍手)。
この国に未来はあるのか。未来に対するこの無責任さは何なのか。
どうしてこんなに残酷、鈍感、強欲、無情、低劣…ぴったりくる言葉が思い浮かばないのですが、とにかく、言葉もない。
同時に、こういう未来への無神経さを、私もまた原発を「許容」していたことで共有していたのだということを痛感しています。
私は日本の繁栄(思えば短く、底の浅いものだったなあ)を、特に高度経済成長とそれを支えた思想を、真剣に振り返って考察しなければならないと今、感じています。
それにしても、この高木孝一という人物、まだご存命なのでしょうか。
もし生きておられるなら、福島の事態をどう見るか、ぜひともご意見を伺いたいところです。
はるる