この世に存在するものは、超ひもとその振動及び精神のみです。この世には、物質があるだけではありません。私は物質のみで出来ている訳ではないからです。
その為には、まず私は誰なのか考えなくてはなりません。大抵の人は、これが私ですと自分の体を指すでしょう。
では仮に、手が切り取られたらどうでしょう。手と残りの体とでは、どちらが私でしょう。手は私では無く、残りの方が私ですと答えるでしょう。では首が取れたらどうでしょう。首の方が私ですと答えるでしょう。では脳をとりだしたらどうでしょう。脳の方が私ですと答えるでしょう。では脳を半分に切ったらどうでしょう。どちらが私でしょうか。脳を切り刻んだらどうでしょうか。どれが私でしょうか。脳の中のどの部分が私なのでしょうか。
そもそも、体の中の物質は、3年に一回全てが入れ替わっています。では、3年後の私は私ではなくなっているのでしょうか。
赤いとか熱いとか感じているのが私です。では、赤い熱いと言う感じは、物質でしょうか。赤い色は、心の外の世界(外界と呼ぶ)には存在しません。物質の表面に当たって反射する光の波長が存在するだけです。
では、音はどうでしょうか。外界には、色々な波長の空気の振動があるだけです。私たちが感じている様な音は存在しません。
味はどうでしょう。同様に味もありません。臭いはどうでしょうか。臭いも外界にはありません。
熱い冷たいと言う事は、在るでしょうか。物質が振動しているだけです。絶対0度では、全ての振動が止まります。温度が高くなるに従って、物質の振動が大きくなって行くだけです。熱い冷たいもありません。
全て心が作り出したものです。次々に、心が作り出している感じを捨てて行きます。最後に残るのは、この範囲にあるものが存在している、そして時間が経過しここに移動したと言う、時と空間の直感だけです。
しかし、貴方が感じている時空間も、決して心の外にある時空間を、直接感じている訳ではありません。心が作り出した時空間を、感じているのです。
心が作り出したものを取り去ると、何も残りません。
心が作り出したものは、現れたり消えたりします。従って、是と言った実態はありません。つまり、有でも無でも無く空なのです。
耳から聞こえる音も、鼻から匂う匂いも、舌の味も、肌から受ける触感も5感は全て空です。
ですから、赤い熱いと言った感じは、物質ではありません。幾ら科学が発達して、全てを見ることが出来る顕微鏡が出来たとしても、脳の中を覗いたところで、熱いと言う感覚を見ることは出来ません。触ることも出来ません。ただ、私が感じるだけです。
この世の中には、物質でないものも存在しています。もし物質だけであったら、どうでしょう。
ロボットは物質だけで出来ています。科学が発達し高性能なロボットが出来たら、人間と同じ反応をするでしょう。世間話をして冗談を言うでしょう。やかんに触れると熱いと言うでしょう。
しかし、私たちが感じている熱さを、感じている訳ではありません。
何かを感じていると言う事は、人間は物質だけから出来ているのでは無いことを証明しています。
心の外の世界がどうなっているか、私には全く知る術がありません。しかし、心は外界に出来る限り似せて、心の中に世界を作り出しています。
例えば部屋の中で、テレビを見ている様なものです。テレビは、実際の現場に似せて場面を作り出しています。しかし、決して現場そのものを見ている訳ではありません。あくまでも、テレビが作り出した場面を見ているだけです。
部屋の中にいる限り、外の現場を直接見ることは出来ません。
花を見たとします。眼が光の刺激を受けて、神経の中を信号が流れ、脳に到達します。脳がその信号を受けて、脳の中の物質の一部が花に対応する動きをします。
私は、その花に対応する物質の動きを感じて、花を感じるのです。それは丁度、カメラが光の刺激を受けて、ケーブル及び電波で信号が流れ、テレビに到達し、その信号をテレビが受けて絵や音を作りだし、それを私が見ているのと同じです。
テレビを見ているのが私です。決して、テレビが私なのではありません。
では、脳と言う物質が私なのでしょうか。花を感じているのが、私なのです。脳と言う物質そのものが、花を感じているのでしょうか。
もしそうなら、そこらに転がっている石も何かを感じているはすです。本当に、陽子と中性子の周りを電子が回っている存在が、何かを感じているのでしょうか。
赤いとか熱いとか言う感覚は、決して物質ではなく、精神的な存在です。その様な精神的なものを感じている私は、物質ではなく精神的な存在なのです。決して、石や木が何かを感じている訳ではないのです。
赤い熱いと言う感じは、私の一部です。私は、精神的な感じの集まりなのです。
テレビが壊れても、修理すればまた見える様になります。見ている私が壊れた訳ではありません。
もし、見ている私が壊れたのであれば、幾らテレビを修理しても元通りに見える様にはなりません。テレビを修理して、元通りに見える様になったと言うことは、私自身は何も変わってはいなかった事を証明しています。
同様に、もし病気で脳が壊れて、何も感じなくなったとしても、医学が発達して、脳を直す事が出来る様になれば、また私は前と同じ様に感じることが出来る様になるでしょう。
この事は、私は何も変わっていなかったことを証明しています。病気をしても、年を取ってボケても、そして死んでも脳を元の状態に戻せば、元通り感じることが出来るので、私自身は何も変わってはいません。
ただ脳が信号を送らなくなったので、何も感じなくなっただけです。テレビが壊れて直せなくなっても、新しいテレビを買えば元通りに見ることが出来ます。脳が死んでなくなっても、新しい脳が私に信号を送る様になれば、また元の通りに感じることが出来ます。
科学が発達し、かつて脳を構成していた、物質を掻き集めて、元の通りに組み合わせて、脳を作ったら、また、私は元の通り感じるようになるでしょう。
私自身は、生じるものでも無くなるものでもありません。穢れるものでも、清くなるものでもありません。増えるものでも、減るものでもありません。宇宙の初めから存在しており、宇宙の終わりまで全く変わらずに存在するものです。
死んだ後の状態は、生まれる前の状態と何一つ変わりません。何か違いを指摘できるでしょうか。
生まれる前の状態から、人は生まれてきました。死んだ後の状態から生まれることは、何ら不思議なことではありません。
私自身は、死んだ後も何ら変わらずに存在しています。ただ、信号を送る脳が無くなったので、何も感じていないだけです。そして、新しい脳が信号を送り出したとき、私は又前と同じ様に感じるでしょう。
心の中に作り出された世界は、私の一部です。心の中の世界に居る一人の私が、私なのではありません。その1人は小さい私です。心の中の世界に居る私の敵も、私の一部です。心が私なのですから。
人間の脳より遥かに高性能な脳が私に刺激を送る様になれば、もっと豊かな世界が心の中に広がるでしょう。そう言う意味で、現在私が感じている世界は、私のほんの一部にしか過ぎないのです。
私は精神であることが分かりました。物質は4つの力(重力・電磁力・強い力・弱い力)により、結合・分解を繰り返します。他の物質がその物質を分解しようとし、その物質は他の物質を取り込みより複雑な構造を有し、それに対抗するようになります。
それを繰り返す内に、後の世にその構造を残すのに有利な構造のみが残ってきます。更に、物質は自己の構造を残そうとする機能を有するようになります。そこまでは、ロボットの様に物質の機械的な動きで、自己構造の存続を図ります。
そして終には、物質は精神を利用する様になります。精神により複雑な物質世界を再現し、その快不快・善悪・真偽の感覚により目的・手段を決定し行動する様になります。
これにより、非常に複雑な状態に対応出来るようになり、物質が自己構造を存続させるのに有利になります。
肉体と言う物質は精神に影響を与えます。脳の働きにより、精神に様々の感じを生じさせます。精神に働きかける物質の影響力は何でしょうか。
それが重力であれば、重力が強くなったり弱くなったりした場合、精神が受ける感じ方は異なることになります。例えば重力の強い惑星に降り立ち、又は重力のない宇宙空間に行った場合、精神は異なる感じ方をし始めるでしょう。しかし、それは起こりません。
強い力は、極近い距離でしか働かない作用です。弱い力もそうです。精神に影響を与える手段に使えそうにありません。
物質の存在とその移動そのものが、精神を感じさせているのでしょうか。もしそうであれば、脳が動いただけで、感じ方が変わることになります。脳が動けば、物質が動くからです。歩く度に、感じ方が変わることになりますが、実際にはそうではありません。
最後に電磁力が残ります。電磁力が精神に影響し感じを起こさせているのでしょうか。
実際、脳の中は複雑な電磁力が生じています。例えば交通事故で植物人間になった場合でも、電極を脳に埋め込み電気を流すと、健康な状態に近づくことが医療では知られています。後頭部の視覚を司る部位にアの形に電極を埋め込み電気を流すと、本人にはアと見えることが知られています。物質は、電磁力により精神に影響を与えているようです。
電磁力により影響を受ける精神は、電荷を帯びており移動するはずです。
精神は物質の電磁力により移動し、電磁力により生じた快の感じに精神は留まろうとし、不快の感じからは精神は遠ざかろうとします。
そうであれば、精神は自分自身の動きと電磁力により、物質を動かすことが出来ます。